2012年1月13日 (金)

聞き書き 長堀釜太郎 7

1月13日(金)

○職人の仕事

・・・しかし、職人の仕事も、景気のいいときは10年も続かないもんだね。忙しいときなんか、仕事をやって貰いたくて神様みたいに持ち上げられるけど、暇なときなんか得意先に行ったって、「何しにきたんだ」って顔をされるよ。

・・・親父も腕は良かったけれど、金なんか残さなかった。「職人で蔵を建てた奴はいない」って言うよな。「職人は腕が良いと貧乏する」っても言うね。腕の悪い奴の方が、これではいけないと思って、商売してみたり、他に仕事をやってみたりするから、どっかで当たったりする。

・・・琴だって、忙しいときもあったけれど、知っての通り暇になった。おれだってもう少しやりたかったけれど、昭和61年で辞めた。琴の材料も製剤機械で挽けるようになったせいもあるけれど、そればかりじゃないや。琴自体が暇になった。仕事がないんだからしょうがない、早めの引退だよ。

・・・これも時代でしょうがないんだよ。昔は何処の家にだって石臼があった。あの石臼を作る人も、その目を立てる人も、それだけでくっていけたんだ。今じゃあ日本中捜したって、そんなことで食っていける人はいないや。腕が良いも悪いもありゃあしない。

・・・職人なんて、いい金を取るときがあったって、一生をならしたらサラリーマンの半分だね。いい金を取るときに金を貯めると言ったって、だいたい職人の手間がいいのはインフレの時だ。貯めても貯めても、物価の値上がりに追いつかないよ。おれも自分の家が欲しいと思って、何の遊びもせずに一生懸命貯めたけど、やっと、借地の上に小さい家を建てただけだ。

○新聞に取り上げられる

・・・おれが本に載ったのを知っているだろう。朝日新聞の日曜版「武州手づくり」っていう連載物を本にしたやつだ。新聞に大きな写真付きで取り上げられたり、本に載ったりしたので「良かったね」っていってくれる人がいるけれど、何も良くはないよ。新聞に載ったりするのは、その仕事が亡びようとしているからだ。おれなんか最後の木挽き職人だから取り上げられただけだ。

・・・あの「武州手づくり」の本を倅が2冊買ってくれた。おれは「そんなものいらネエ」って言ったんだけどな。だけど「欲しい」なんていう人がいたから、やっちゃった。家には1冊もねえや。

・・・え? 今の楽しみねえ……そうだねえ、孫の相手をしたり、近くに借りている畑仕事をするくらいかな。一緒に出るか。ちょっと畑に行ってみよう。何か持ってけや。

                   終わり

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2012年1月12日 (木)

聞き書き 長堀釜太郎 6

1月12日(木)

聞き書き、長堀釜太郎 6

○ノコギリの話し

・・・前にも話したけれど、おれは体が小さいから体力じゃ挽けないんだ。ノコギリの目立てとか、焼き入れとかいろいろ工夫するんだ。おれは目立てでも焼き入れでも、自分でするからね。

・・・もとは近くの鍛冶屋の爺さんにやって貰っていた。だけどおれは心配性でね、爺さんが亡くなった時の用心のために、ぼつぼつと練習していたんだ。だから、爺さんが死んでも困らなかった。

・・・知っての通りおれたちが使うのは前挽鋸(まえびきのこ)だ。いまじゃほとんど使う人がいないから、民俗資料館なんかで飾ってることが多い。何しろ大工が使うノコギリなんかに比べたら、ばかでかいから、こけおどしに飾っておきにはいいや。

  (前挽鋸……刃渡りが6-70センチ幅が40センチかそれ以上ある大型のノコギリ)

・・・とにかくでかいからね、焼き入れはノコギリ全体をやらずに、刃を1枚1枚焼いていくんだ。一丁の前挽鋸で刃は30枚くらいだ。それを1枚1枚焼いて、赤くして、水につける。ノコギリは大きいけれど、刃の1枚1枚は小さいから、焼きすぎれば鉄が溶けるし、火から離せばすぐ冷める。ぐずぐずしてはいられない。忙しいんだよ。

・・・焼きを入れたら、刃がカチンカチンになる。そのまま使ったら刃が折れちゃう。だから今度は焼きを戻すんだ。もう1度焼くんだけれど、これが難しいんだ。今度は赤くなるまで焼かないで、紫色になるまでだな。ウッカリすると、またもとのカチンカチンになちゃう。目の色を変えてやるようだった。おれが焼き入れを始めると、女房なんかそばに寄りつかなかったもんだ。

・・・ノコギリにはアサリがあるだろう。アサリは刃1枚ごとに左右に張り出すだろう。その1番先の刃だけ、右にも左にも出したいんだよ。1番先の刃だけ、アサリじゃなくて三味線の撥のような形にしたいんだ。その方が無理なくノコギリが通って、挽きやすいんだよ。こんなことを考えるのはおれだけだと思うけどね。まあ、おれの工夫だね。

・・・そんな前挽鋸にするため、1枚の刃とおなじ大きさの三角の鉄を作って、それを歯並びの1番先に溶接で付けた。鍛冶屋の爺さんにもやって貰ったけれど、これはおれの方が上手かったな。

・・・その撥型の三角の鉄は三角ヤスリを切って作った。おれは何でも心配性で、こんなヤスリはいずれ無くなると思ったから、昭和25年ころに20本ほど買って置いた。それでもおれが60になったころは心細くなってきて、大切に使った。何のことはない。終わってみたらヤスリが2-3本あまったけどな。

                 続く

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2012年1月11日 (水)

聞き書き 長堀釜太郎 5

1月11日(水)

〈昨日の続き〉

聞き書き 長堀釜太郎 5

○戦後の仕事

・・・日本に帰ったのは昭和20年11月の初めだった。帰ってすぐに仕事を始めたね。

・・・戦後も仕事はあったねえ。東京は焼け野原で、バラックなんかどんどん建てなきゃならなかった。大工なんか大忙しだ。腕も何にもなくても、景気の良さにつられて大工の真似事をして、金を貰っているような、にわか大工もたくさんいた。製材機械もほとんど無いから、大工が忙しい分、木挽きも忙しかった。

・・・そのうち製材機械も出てきたけれど、それからでも結構忙しかったなあ。農家から仕事を頼まれるんだよ。戦後は食糧難で、この辺には東京の人がさかんに買い出しにきていた。農家は景気が良かったんだ。戦争中は家の建て直しなんて出きなかったから、痛んでいるところがたくさんあった。

・・・農家が家を建てたり、傷んでいるところを直したりするときには、なるべく自分の山の木を使いたいんだよ。この辺じゃ林のことを山と言うんだよ。これ方言なんだってな。とにかく自分の家の木を使いたいわけだよ。ところが製材所に頼むと、製材所は自分の材木を売りたいから、工賃を高めに取ったり、丸太を運ぶ運送代を高くしたりするんだ。だから、結局のところ、おれたちに挽かせた方が安くなったりするんだ。

・・・農家に行くと、食い物が助かるんだよ。なにしろ食い物のない時代だ。向こうも事情を知っているから、「弁当持たずにきてくれ」って言ってくれる。昼飯をごちそうになって、帰りには何か持たせてくれる。おかげで、食い物については、あまり困らなかった。

・・・家を建てるときは、普通に使うのは4分板で、天井板なんかは2分3厘だ(1分は3ミリ、4分は1センチ2ミリ)。製材機械と違って、木挽きの挽く板は、下手な奴が挽くと厚さがむらになる。下手をすれば挽き初めは2分3厘でも、弾き終わりは裏の方なんか何にもなくなったりする。口の悪い奴に、板じゃなくてくさびだ、なんて言われちゃう。

・・・しかし農家の仕事が良かったのも、せいぜい昭和30年くらいまでだった。その後も4-5年は農家の仕事もあったけれど、半日くらいで終わるような仕事ばかりさ。さすがにそのころになると、板は製材所から買うような時代になった。だから、またボートの仕事なんかしていた。

・・・ミツウロコってのを知ってるかい? そうそう、練炭だよ。練炭の商標でミツウロコってのがあったよな。三角形があって、三菱のマークだと、その三角を菱形でつくるけれど、ミツウロコは菱形の代わりに三角形3っつだ。あの三角形は魚の鱗なんだってな。

・・・その練炭を扱っている倉庫が隅田川のほとりにあって、それを積む舟を造っていた。この方がまだ仕事はあったけれど、なんとなくじり貧って言う感じだった。木挽きではやっていけない時代がきていたんだ。職人は景気のいいときがあっても、短いよ。苦しいときの方が多いんだ。

・・・そのころ、行きつけの鍛冶屋の爺さんが、「琴をやったらどうだ、琴は忙しいよ」って教えてくれた。それで、つてを頼って琴の製材をやるようになった。そのころは琴の全盛時代だったね。またしばらくは忙しい日が続いた。

                   続く

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2012年1月10日 (火)

聞き書き 長堀釜太郎 4

1月10日(火)

昨日の続き

・・・おれは重機関砲の弾薬手だった。弾薬手ってのは、つまり弾込めさ。狭い壕の中で撃っていたんだ。だけどアメリカ軍の砲撃が凄くて、退却することになった。体裁良く陣地変換なんていうんだけどね。長い壕で、おれが一番前にいたんだ。弾薬手だからね。分隊長は一番うしろにいて、退却は一番先さ。その分隊長が壕を出たとたん、鉄砲の弾が飛んできて、腕時計にあたった。いま山梨県にいるらしいよ。

・・・アメリカ軍と日本軍では戦力がまるで違っていたからね、おれたちは隠れながら逃げるだけさ。山の中で終戦を迎えたんだ。そして捕虜になった。アメリカ軍は日本みたいに無理はしないからね。絶対に安全にならなければ陣地を広げてこない。だから終戦まで隠れていることができた。

・・・ダバオにいたのは20歳くらいだったんだけど、色気なんか全然なかったね。食い気ばかりさ。食いたい、食いたいで、夜寝るときなんか、鮨だの、ソバだの、あんころ餅だの、次から次へと思い出すんだ。ミンダナオ島では、芋ばっかり食っていたような気がするなあ。

・・・捕虜になっているときに、食い物の量が少ないってんで、仲間から代表を選んで、アメリカ軍に抗議を申し込んだんだ。そしたら「条約できめられた量は出している。君たちはいまに太るだろう」って解答だった。本当にその通りだった。栄養はちゃんとあったんだ。おれたちには歯ごたえのないものばかりで、物足りなかったけどね。

・・・おれは酒もタバコもやらないから、兵隊の時は助かった。わずかだけど、たまには焼酎とタバコが配給になるんだ。それをほかのものと交換できたからね。

・・・でも、酒はすこしは飲むようになった。明日のことも分からない命なんだから、飲むものくらい飲んでおかなきゃ損だ、なんて気がしたんだ。もっとも、酔うほどの量は配給にならなかったけれどね。

・・・軍隊ではなんてこともないのに人をひっぱたくんだよ。おれもずいぶんひっぱたかれた。おれの友達なんか顔の形が変わるほどひっぱたかれた。

・・・軍隊じゃあ時々持ち物の員数合わせをするんだ。そんなときは、自分の物が無くなっていれば、人のをかっぱらって員数を合わせるんだ。自分の物が無くなるったって、どうせ誰かにかっぱわれているんだ。だからどうどうめぐりさ。みんなで、かっぱらいごっこをしているようなもんだ。

・・・おれの友達はね、飯ごうを無くして他人のをかっぱらったんだけれど、それが隣の班の班長ので、名前が書いてあったんだ。それが見つかって、顔が分からなくなるほど殴られたってわけだ。

・・・何年か前、もとの班長から「会いたい」なんて手紙が来たけど、おれは返事も出さなかった。向こうは懐かしいかも知れないが、こっちは顔も見たくないや。彼奴にはどれだけひっぱたかれたか、なんて思うから……。

                       続く

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2012年1月 9日 (月)

聞き書き 長堀釜太郎 3

1月9日(月)

(昨日の続き・3)

○ ミンダナオ島へ

・・・仕事は本当に忙しかった。でも昭和17年の12月に徴用になってしまった。仕事関係の人が慌てて、「海軍の仕事をしている人だから」って掛け合ってくれたけれどダメだった。徴用先は熊谷の軍需工場だった。そこでは飛行機のピストンリンクを作らされた。

・・・そうこうするうちに今度は徴兵だよ。昭和19年の3月だった。フィリッピンのダバオに行った。ミンダナオ島の1番大きな町だよ。だけど、町っていうほど家はなかったな。海岸があって、道があって、おれには家なんかどこにあるのか分からなかった。それでもミンダナオ島には日本人が3万人もいたらしい。日本人向けの女学校まであったよ。中学校については覚えてないけれど、女学校があるくらいだから、中学校もあったんだろうね。

・・・ダバオはのんびりしていて、いいところだと思った。戦争が終わったらここに住んでもいいと思った。日本へ帰ったってどうせ貧乏で、あくせく暮らさなくちゃならないんだ。

・・・だけど昭和20年の4月19日、ドンパチ戦争が始まったら、あっけなくパアさ。1日でけりがついちゃった。一個大隊約2000人の兵隊が居たんだけど、終戦後日本に帰ってきたのは、40何人だからね。おれなんか、よっぽど運が良かったことになる。

・・・戦闘はやるにはやったけれど……自分では相当やったつもりでいるんだけど、戦争の本なんか読んでみると、ミンダナオ島のことは大して書いてないね。戦争全体から見たら、なんてこともない戦闘だったんだろうね。

・・・戦死した人は、だいたい砲撃でやられたんだ。鉄砲の弾に当たって死ぬ率は、8万発に1発ってことだよ。だから鉄砲で死ぬのは少ないんだ。それに、戦病死が多いね。死んだ人の3分の1くらいは戦病死だよ。

………戦闘は、日本軍が予想していたのとは反対の方から始まったんだ。アメリカ軍の砲撃が始まったら、何時間もしないうちに、最前線の兵隊がおれたちのところまで逃げてきた。その時俺たちは1500メートルほどうしろにいたんだ。

・・・おれの友達なんか、トーチカに機関砲を置いたまま逃げてきた。そしたら中隊長が「馬鹿者! 破壊してこい」なんて怒鳴るんだ。友達は戻っていったけれど、それっきりだ。友達もドジかも知れないけれど、逃げてきた前線に追い返す方も追い返す方だよ。

………鉄かぶとの紐は、あまり強く締めてはいけないんだ。爆風のショックが大きくなるし、弾が鉄かぶとを通り抜けちゃうんだ。もっとも、弾がまともに当たったら、紐が強くても弱くても貫通しちゃうけれどね。いくらかななめに当たったときの話しだ。

・・・いろんな人がいるもんだよ。鉄かぶとのてっぺんに手榴弾ぶつけられて、それでも助かった人がいる。おれたちの分隊長は、鉄砲の弾が腕時計にあったったけれど、ガラスが割れただけで、本人は怪我ひとつないんだ。

                    続く

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聞き書き・長堀釜太郎・2

1月8日(日)

聞き書き 長堀釜太郎 2

・・・のぼせているかも知れないけれど、おれは腕が良かったと思っている。親父も腕が良かったから、親譲りかな。だけど、頑固な親父だったよ。何か気に入らないことがあると、昼飯も食わず、黙って仕事を続けるんだよ。戦前にね、親父と一緒に仕事をしているころの話しだよ。こっちは若いし、腹が減ってしょうがないけど、意地だから、親父が「飯だ」っていうまで、黙って板を挽くんだ。4時ころになって、やっと飯を食ったりしたもんだ。

・・・木挽きの1人前っていうのは、1日に杉板を4坪挽くことだね。1日に挽いた板を並べて4坪の面積をふさげれば1人前って事だ。

・・・坪では分からない人がいるって? やかいだね。1.8メートル×1.8メートルで1坪だ。だいたい畳2畳で1坪だ。

・・・木挽きの仕事なら何でもしたけど、おれは建築資材よりケヤキを挽く方が多かった。舟だよ。ボートに使うんだ。埼玉はケヤキの産地だからね。え? ボートのまわりは檜さ。ケヤキはボートの骨組みに使うんだ。

・・・普段は地元でケヤキを挽くんだけれど、「横浜ヨット」なんていう会社があって、時々は東京の現場に行ったよ。

・・・舟はね、内稼艇(ナイカテイ)っていうのを作るんだ。舟に自動車のエンジンをつけて、自分の力で動くんだ。人力で漕ぐのはカッターっていってた。当時は内稼艇というのは凄い舟だと思っていた。でもね、あれは全然ダメだったんだってね。アメリカの舟にくらべたら、動きが悪くて、話しにならなかったらしい。

・・・そのうち太平洋戦争が始まった。そのころおれが作っていたのは、軍艦が沈んだとき逃げ出す舟だとか、沖に泊まっている船と陸の間を、行ったり来たりする舟だね。それに上陸用舟艇だとかね。

・・・そのころは景気が良かった。仕事の口は、あっちからもこっちからもかかるんだ。仕事もしないうちに金を持ってきて、家の中に積み上げるんだよ。そんな金貰ったって、こっちは体がひとつだから行けやしない。苦労して断ったもんさ

※私が子供のころ、母に連れられて浅草に行ったことがあった。隅田川のどの橋だったか、人々が口々に「上陸用舟艇だ!」といいながら橋の上から川を見ていた。見るとかなり大勢の兵隊が小さな舟に乗って、川を遡っていた。市ヶ谷あたりで手こぎのボートしか見たことのない私は、モーターで動くボートを見て感心してしまい、「これだから日本の兵隊さんは強いんだ」と思ったものだ。素朴に日本は強いと信じていたころの話しである。(ぼんくらカエル)

                       続く

 

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2012年1月 7日 (土)

聞き書き 長堀釜太郎 1

1月14日(土)

聞き書き

  長堀釜太郎 1

Photo

琴材を挽く長堀さん。桐材です。いま琴材としては不要部分を切り取っているところ。上質の琴材は桐の丸太の皮に近い方で取ります。この絵でいえば長堀さんの座っている側です。

「子はカスガイ」という古典落語をご存じでしょうか? 丸太と角材を固定している金具は、その「カスガイ」です。

長堀釜太郎さんは木挽(こびき)き職人です。話しを聞いたのは1995年。ずいぶん昔になりました。

これから何回かに分けて、長堀さんの聞き書きをブログに載せます。。

○親子3代木挽き職

・・・おれが生まれたところは、いまは埼玉県上福岡市になっている貧しい村でね、産業なんて農業以外になんにもないよ。その農業だって、米なんぞ満足に穫れやしない。近くに長井ってところと藤久保ってところがあって、「長井の菜飯、粋な藤久保粟の飯」なんて言ったもんだ。菜飯より粟の飯の方がいくらかいいのかな。何だか泣けてくるような言葉だね。

・・・それでも農業をやっている家はいいんだ。なんと言っても食い物が穫れるんだから。土地のない奴は職人するしかないんだ。おれんとこはお爺さんが木挽きで、親父が木挽きで、おれが木挽きで、弟まで木挽きをやってた。3代続きの貧乏人ってわけだ。

・・・いや、小学校を出てすぐ職人になったわけじゃない。最初は親戚の家の手伝いに出された。親父が金でも借りたんだろう。親戚の農家の手伝いをしていた。

・・・二十歳までっていう約束をしていたらしい。だけど17歳の時、親父はおれに暇をとらせた。戦争が始まって……いや、太平洋戦争はまだだよ。日本軍が中国とごちゃごちゃやり出して、木挽きが忙しくなったんだ。それで暇を取らせたんだ。親戚の家では怒っていたけどね。

………木挽きッたって、いまじゃあ知らない人も多いだろう。樵(きこり)ですか? なんて聞くんじゃないかな。え? 樵も知らないだろうって?   うーん、そうだなあ。樵は山で木を切り人だ。木挽きはその木を製材する人だな。柱や板にするんだ。

             続く

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