2009年11月 8日 (日)

足和田山・三湖台・紅葉台

11月8日(日)

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山の会、山行。

東海自然遊歩道の「足和田山(五湖台)」

バス停1本木から登山道に入り、足和田山(五湖台)、三湖台、紅葉台、氷穴、風穴のコース。紅葉台を下りてから、氷穴、風穴へ向かうときは、樹海を通る。

五湖台(足和田山山頂)、紅葉台の富士もそれぞれ見事ですが、なんと言っても三湖台の富士。大きく、美しく、迫力があります。逆光のため、写真はちょいと残念というところ。

1枚目は五湖台、2枚目が三湖台、3枚目は紅葉台です。

紅葉は麓に移っています。

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紅葉は麓の方に移っていました。

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樹海です。

車でくる人は紅葉台に登って、展望台で富士を見て帰る人が多い。でも、それではもったいない。紅葉台からは3-4歳の子供でも行ける距離に三湖台があり、そこからの景色を見なくては・・・。富士も樹海も、その他の山々も、三湖台からの眺望が圧巻です。

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2009年11月 5日 (木)

生まれ変わって契る・5

11月五日(木)

御伽婢子・128

生まれ変わって契る・5

前回までのあらすじ 豊田孫吉と懇ろになった女は、幽霊で、二人は前世で打ち首になった間柄だった。女は豊田が恋しくて、あの世から現れ、豊田と結ばれた。女は豊田に前世の出来事を語り、人の運命を語る。

女は続けて言う。

「私の冥土の暇はあと1年で終わります。天の定めには逆らえません」

その1年が過ぎた。女は気分が悪くなって床に伏せていた。豊田は医者よ薬よと手を尽くしたが、女は薬も受け付けない。

女は豊田の手を取り、

「昔共に打ち首になって100年以上過ぎました。このたびあなたと夫婦になりましたが、私はもう冥土に帰らなければなりません。思いは尽くしたのだから、悲しまないでください」

「もう少しここに残ることは出来ないのか?」

   名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ

      別れにまさるつらさ成りけれ

と詠んで、女は壁に向かって伏せ、息絶えた。豊田は泣き叫んだが、その甲斐もない。豊田は、

   残り香になにしみにけん小夜衣

     忘れぬ妻と思いしものを

と詠み、野辺の送りをした。その棺があまりに軽いので開けてみると、衣だけ有って、屍はなかった。

豊田は出家して、四国、九州を回巡ったのち、中国に渡る。その後のことは誰も知らない。

                          終わり

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2009年11月 4日 (水)

生まれ変わって契る・4

11月4日(水)

御伽婢子・127

生まれ変わって契る・4

前回までのあらすじ豊田孫吉が契った女は、実は幽霊であった。2人は前世で、共に打ち首にあった中で、まだあの世にいる女は孫吉が恋しくて、幽霊になって出てきたのであった。女は前世の主人大友左衛門佐について、いろいろ語っている。

あるとき左衛門佐は塩焼きの浦に命令して、塩は全部自分で買い取り、他に売ることを禁じた。

   さなぎだに辛きおきめを左衛門が

       国の塩やきにがりはてけり

左衛門の掟が厳しくて塩焼き達が困っていると落書きがあった。左衛門佐は怒って、塩焼き司3人を砂浜で磔にした。

百姓に対しては、銭米を貸し付けて、高い利子を取った。かりる必要のない者にも、無理に貸し付けて、領民を苦しめ、利子を付けて返せない者には、妻子を売ってでも返させた。

誰かが落首を詠んだ。

    無理にかす利銭の米の数よりも

        こぼす涙はいとどおほとも

名字の大友にかけての落首に、左右衛門は大いに怒った。百姓にこんな歌が出来るはずがない、金持ちの仕業に違いない、と、勝手に決めて、城下の金持ち10数人を国から追い出した。そしてその財宝を自分の者にした。

左衛門佐が父の法事を行った際、国中の僧が集められたが、1人の僧が遅れてきた。ぼろをまとい、いかにも貧しげな僧だったので、人々は門の中にも入れず、余り物の食を与えた。

食事ののち、その僧は自分の鉢を膳の上に伏せたまま立ち去った。その鉢をどけようとしたが、誰がやっても、重くてびくともしない。不思議なので左衛門佐に知らせると、左右衛門自身がやってきてその鉢を持ち上げると、今度は軽く持ち上がった。そして中から2首の歌が出てきた。

   花ちりて梢につけるくだ物の

        今幾つかありて落ちんとすらむ

   我人につらき恨みをおほ友の

        家の風こそ吹きよわりかれ

花が散って梢についた果物も、もう落ちるばかりですよ。人々を辛い目に遭わせた大友家の風も、もういくらもふきませんよ、こんなことをしていたら、大友家は滅びますという歌なのだが、左衛門佐は気にもとめなかった。それまで通り欲深く、人を殺すことをくり返した。しかしそれから2年もしないうちに大友家は滅び、自身は死んでしまった。

何事も天の定めとはいいながら、人の道に背けば、報いは必ずくるものである。

                      続く

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2009年11月 3日 (火)

生まれ変わって契る・3

11月3日(火)

御伽婢子・126

生まれ変わって契る・3

前回までのあらすじ 豊田孫吉は家の前を通った女とわりない仲になったが、女の話に依れば、孫吉は前世で、その女と共に打ち首になったのだという。女は孫吉が恋しくて、幽霊になって出てきたのだという。

前世からの縁だと知って孫吉は、ますます女が可愛くなった。

「誰にはばかることもないではないか、あんたも夜に来て朝に帰るということはやめにして、おおっぴらに、夫婦としてすごそう」

孫吉は相手が幽霊だと知っても、少しも怖いとは思わなかった。前世の縁が愛しくて、ひたすら女を愛した。

女は孫吉に碁を教え、孫吉は近辺では誰もかなうものがないほどの碁打ちになった。

女はまた、良く前世の話しをした。まるで目の前にそのありさまを見るように話すのである。

二人を打ち首にした主人の左衛門佐は、血も涙もない男で、こんなこともあった。

あるとき、左衛門佐がお付きの女房達を連れた、川の畔で遊んでいた。すると川向こうをで、美男子が二人で遊んでいる。

「あら、素敵な殿方ねえ」

などと女達は噂した。

「お前たちの中に、あのような男を夫にしたい者はいるか」

と左衛門佐が聞いたところ、一人の女が顔を赤くして、もじもじしていた。

その少し後、女房達が集まっているところに左衛門佐が来て、

「この前の男に贈り物がある。これを見なさい」

と言って蓋をした新しい桶を持ってこさせた。女房達が蓋を開けてみると、この前顔を赤くしてもじもじしていた女が、首を切られて入れられていた。

                        続く

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2009年11月 2日 (月)

生まれ変わって契る・2

11月2日(月)

御伽婢子・125

生まれ変わって契る・2

前回のあらすじ 肥前の国の豊田孫吉は、行きずりの女性と親しくなり、夜ごとに逢う瀬を重ねているが、女は身分を明かさない。ある夜、女は自分が異界のものであることを知らせ、孫吉とは深い因縁があるのだという。

以下は女の語りである。

昔、この松浦に、大友左衛門佐と言う大名がいた。私は歌が上手くて、碁が強かった。そのため左衛門佐に召されて、側に仕えたが、やがて寵愛されるようになったの。

その頃あなたは大友の小姓だったわ。とてもいい男で、私は心を奪われてしまったのよ。それでね、ある日の夕方、

   よそながら目には懸かれど雨雲の

        へだつる中にふるなみだかな

と書いて、あなたの袂に入れたの。そしたらあなたは、次の晩、

   よそにのみ嶺の白雪きえかへり

        たえずこころにふるなみだ哉

と書いて、私の袂に入れてくれたわ。

私たちは歳も同じだっだし、同じ所に住んで、思い思われていたのに、まわりの目が厳しくて、抱いてもらうことも出来なかったわ。そのうち仲間達に、私たちが思い思われていることが知られて、左衛門佐に言いつけられてしまったの。私たちは縛られて、松浦川のところに引きずられて、打ち首になってしまったんだわ。

あなたはまた人間に生まれてきたけれども、私はまだあの世にいるの。だけどあなたが恋しくて、幽霊になってあなたと結ばれたの。

昔のことを思うと、私は今でも、悲しくて涙が止まらなくなるわ。

女の話を聞いて、孫吉もまた悲しくなり、涙が出た。

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2009年11月 1日 (日)

生まれ変わって契る・1

11月1日(日)

御伽婢子・124

生まれ変わって契る・1

肥後の国に豊田孫吉という若者がいた。早く親に死なれ、独りで住んでいる。家は豊かである。孫吉は一人っ子だったので、親は大事に育て、学問などもさせ、諸先生の教えを受けていた。

ある夕方、孫吉が門の外に出ていると、上品な16-7歳の女が家の前を通る。べつだん派手な衣装を身に着ているわけではないが、姿形が美しい。

孫吉は女の傍により、袖を掴んで口説いた。女もすぐその気になって、二人は夜もすがら語らい、肌を重ねた。明け方には名残を惜しみながら女は帰った。

次の夜も、女はやってきた。孫吉は名前を尋ねたけれども、女は言を左右して答えない。親のこと、住んでいる家のことなども、教えようとしない。

「私が着ている小袖は色が褐色だし、蔦の唐草模様になっているでしょう。だから私のことは『褐子』とか『蔦子』と呼んでくださって結構よ」

と女は言う。何か子細があるのだろうと思って、孫吉はそのままにして置いた。それでも、女は毎晩やってきた。

しかしある夜、孫吉は酔った紛れに、

「私がこんなに思っているのに、あなたはまだ自分のことを秘密にしておくなんて、まだ心からうち解けてはくれないんだね」

   手まくらのうえにみだるる朝寝髪

      下には人のこころとけずも

と詠んだ。女恨めしげな顔色で、まだ分かってくれないのね、と言うように、

   手まくらをかわすちぎりの下紐の

       とけずと君がむすぼぼれつつ

と返した。

「もう隠さないわ。あなたと私は、ずうっと昔から知っている中なのよ。実は私、この世の人ではないの。でも、あなたをたぶらかそうとしているのじゃないわ。あなたとは深い縁があるのよ。そのわけを聞いてね」

と、女は前世の話しをはじめた。

                      続く

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2009年10月31日 (土)

土佐の国の犬神と金蚕

10月31日(土)

御伽婢子・123

土佐の国の犬神と金蚕

土佐の国の畑というところには、数代にわたって、犬神持ちがいた。

もし犬神持ちが他所の土地を尋ねて、なんであれ、何か他人の持ち物を欲しいと思った場合、面倒なことが起きる。そのものを持っていた人は、熱病にかかり、体中が錐でつかれるように痛み、刀で切られるような感じになる。犬神持ちに欲しがる物を与えれば病は癒えるが、与えなければ、長く苦しんだのちに死んでしまう。

昔、国の守が犬神持ちを憎く思い、この土地の者を皆殺しにした。おかげで犬神持ちは絶えたと思われたが、一部が生き残り、現在まで伝わるという。

犬神持ちが死ぬときは、犬神は家を継ぐ者に移るということだ。犬神は米粒ほどの大きさで、白黒、斑のある犬である。犬神などに移ってもらいたくないと思っても、持病なので仕方がないのだそうだ。

異国にも虫の呪いによる病気があるらしい。

ベトナムの辺りには金蚕と言う病気がある。これは蚕の形で、黄金色に輝く虫である。これにとりつかれると、はじめは2-3匹だった虫が、どんどん増えて、家が塞がってしまう。打ち殺してもかえって増えてしまう。助かる方法は、金銀などの櫛やかんざしを道に捨て置き、誰かに拾ってもらうと、今度は拾った人の家に金蚕が移るという。

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2009年10月30日 (金)

紅葉狩り、中津峡

10月30日(金)

埼玉県の最奥、中津峡へ行く。紅葉の名所である。

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中津峡へ行くのは2回目です。何年前だったでしょうか、前回はバスの終点中津川に行って、バス停を幾つか歩いて戻りました。今回は逆に、相原橋バス停で降り、終点の中津川バス停に向かって歩きました。終点付近で、充分に時間を取りたかったからです。

相原橋から1時間半か2時間くらいでバス停の中津川に着きます。その時点で、バスの待ち時間が2時間ほどありました。

まず昼食をして、新林科学館を見学しました。日帰り温泉もあって、かなり気持ちが動きましたが、温泉には入らず、歩くことにしました。

中津川には吊り橋を渡る遊歩道があって、そこを歩いてみました。バスは中津川に沿って走っているし、相原橋から歩くコースはバスの道路だし、何処もみんな中津川なので、説明がヤヤッコシクなるところがあります。たとえば中津川キャンプ場というのは、終点の中津川とは違うところにあります。川沿いには幾つか遊歩道があると思いますが、私が歩いた遊歩道は、バス停中津川の遊歩道です。

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かなりの紅葉ですが、本当の盛りは、あと1週間くらいしたときかなあ、と思います。

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2009年10月29日 (木)

隠れ里・3

10月29日(木)

御伽婢子・122

隠れ里・3

前回までのあらすじ 内海又五郎が野中の荒れた堂で野宿していたら妖怪が堂の中に入ってきた。又五郎は身を隠して矢を放ったところ、その矢が妖怪の大将を傷つけた。朝、妖怪が逃げた血の跡をたどっていき、誤って大きな穴に落ちる。そこは妖怪の世界だった。又五郎は妖怪達を斬り殺す。美女二人が残ったが、彼女らは人間で、逃げられずにいたのだという。

妖怪を退治したのはよいが、人間世界にかえる術が分からない。どうしたものかと迷っていると、どこからとも無く白装束に烏帽子を付けた老人が10人ばかり、やってきた。

「われわれは久しくこの地に住んでいるのだけれども、近ごろは猿たちに住み家を奪われ、片隅に追いやられていました。妻子や孫も辛い思いをしていました。あなたはその猿たちを退治してくれた大恩人です。私たちは昔のようにここに住むことが出来ます」

と、手に手に、又五郎の前に黄金の包みを置いた。しかし今度現れた者たちも人間ではない。目は丸く、口は尖り、ひげと眉毛はいたって長い。

「お前たちは何者だ。神通力を持っているように見えるけれども、なんで猿なんかに住み家を奪われたのだ」

「私たちは500歳を超えて神通力を得ました。しかしあの猿たちは800歳を超えています。そのためにかなわないのです」

「なるほど」

「私たちは大黒天の使いです。ここはネズミの住所で、隠れ里と言います。私たちは人間に害を加えません。功徳を積んで天上に行き、仙人になるのを楽しみにしているのです」

「それなのにあの猿たちは、悪いことばかりして人間の娘をかどわかして自分たちの慰みとし、ものを壊して災いをなしました。あなたが彼らを殺すことが出来たのも、天のご加護があったからです」

「さあ、これからあなた方を人間世界にお返ししましょう。私たちの背中に乗って、目をつむってください」

大きな白ネズミと、豚ほどもあるネズミたちが出てきて、又五郎と娘たちを背中に乗せた。又五郎達が目をつむると、大した時間もかけずに地上に出た。

又五郎は2人の娘を親元に送っていくと、両方の親は大いに喜んで、それぞれ又五郎を婿に迎えた。又五郎は武門を離れ、裕福に暮らしたが、子供はなかった。その後の又五郎が、何処でどうしたかは分からない。

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2009年10月28日 (水)

隠れ里・3

10月28日(水)

御伽婢子・121

隠れ里・3

前回までのあらすじ 内海又五郎は京から宇治へ行く途中で、おんぼろな堂で夜を過ごし、妖怪にであう。妖怪めがけて矢を放ち、矢は妖怪の大将に肘に当たる。朝、血の跡をたどっていくと、大きな穴に落ちてしまう。そこで、例の妖怪達に会う。又五郎は「医者」と言うと、それなら城主の傷の手当てをしてくれと頼まれる。

又五郎が城内の通されると、主は奥の部屋で寝ていた。

「私が城の外に出たら、肘に流れ矢が当たって、痛くて溜まらない。もう死にそうだ。病気を治す薬が欲しい」

と言う。その顔を見れば、歳を経た大きな猿である。苦しさに、うんうんとうなっている。枕元に、この上なく美しい2人の女が座っている。

又五郎は近くによって脈を取り、傷を撫でまわした。

「私にはよい薬があります。これを飲めば、傷が治るばかりでなく、天や地と同じくらいく生きることが出来ます」

「それはありがたい、ぜひその薬のみたい」

「不老長寿の薬ならば、私たちもその薬が欲しい」

又五郎は火打ち袋から丸薬を取りだし、みんなにその薬を与えた。大勢の猿どもが、争ってその薬を飲み込んだ。

実はこの薬、獣を撃つときに鏃に塗る毒薬だった。だから、暫くするとみんな、倒れ苦しんだ。又五郎は大猿の枕元に立てかけてあった刀を抜き、猿をかったっぱしからきりまくった。2人の女も同類だろうと思い、切ろうとしたが、女達は、

「私たちは正真正銘の人間です」

という。聞いてみると、1人は醍醐と言うところの波浦なにがしの娘、他の1人は伏見の平田なにがしの娘だという。

「私たちはここにさらわれてきて60日くらいになります。妖怪達の慰み者として一生ここにいなければならないのかと思っておりました。幸いにして、今日あなたが妖怪達を討ってくれました。ぜひ私たちをここから出して、父母の元に返らせてください」

涙ながらの訴えを聞いたが、又五郎は、妖怪達を討ちはしたが、穴から外へ出る方法を知らない。どうしたものかと思案した。

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2009年10月27日 (火)

隠れ里・2

10月27日(火)

御伽婢子・20 第11巻

     原  作   浅井了意

     現代語訳  ぼんくらカエル

隠れ里・2

前回のあらすじ 内海又五郎は京から宇治へ行こうとして、栗栖野というころに出た。日が暮れたが人家はないので、古い、壊れかけた堂で休むことにした。夜の10時頃、その堂に向かって大勢の人間が歩いてきた。こんな夜中にこんな淋しいところにくるなんて、化け物か盗賊に違いないと考えた又五郎は、天井に隠れた。

又五郎が天井に潜んでいると、20人ばかりが堂に入ってきて、灯を付けた。その中に大将のような者が居て、上座に座り、その他の者も、それぞれの座についた。槍、長刀、弓などを持ち、まわりを警戒しているようだ。その顔は猿のたぐいで、人間ではない。

なるほど化け物だわいと思った又五郎は、弓を取り、大将めがけて矢を放った。その矢は、大将の肘に当たった。

「これは、何事だ!」

大将は悲鳴を上げて叫んだ。 

慌てて灯をけし、みなちりじりに逃げていった。

又五郎は夜が明けるのを待ち、辺りを見れば、血の跡が点々と続いている。その後を辿っていくと、やがて大きな穴に着いた。変な穴があるもんだと思って覗いていたが、誤って足を滑らし、穴に落ちてしまった。

穴は深くて、上に這い出せそうもない。中は暗くて、まわりの様子もよく見えない。こんなところで死ぬのかと思ってあちこち手探りをしていたら、横穴があることが分かった。何はともあれ、その横穴を辿って、おそるおそる進んだ。100メートルばかり進むと、急に明るいところに出た。まるで地上と同じである。

大きな岩があり、石の門があった。数十人の者がその門を守っている。その者たちの顔つきは、昨夜堂に来た者たちと同じ顔つきである。又五郎を見て、門番が言った。

「おまえは何者だ。どうしてここに来た」

「はい。私は播州から都に来た者です。医師を職業としております。薬草を探して山には入りましたが道に迷い、穴に落ちてしまいました。どうか都に帰る道を教えてください」

「医師か。それは良いところに来た。じつは、われらの主人が昨日城の外に出たところ、流れ矢に当たってけがをした。ぜひ、手当をしてもらいたい」

「分かりました。おやすいご用です」

                         続く

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2009年10月26日 (月)

隠れ里・1

10月26日(月)

御伽婢子・119

隠れ里・1

播州に内海又五郎という者が住んでいた。武芸を好み、弓馬にたけていた。正確も大胆不敵で。おそれを知らない者だった。

ある時、こんな田舎に住んでいたところで、名を挙げることは出来ない。都に上り、播州の守護の赤松満祐に仕えて出世しようと、又五郎は京都に上った。しかし赤松は死んでいた。それならば後藤掃部に仕えようと、今度は宇治に向かった。

足にまかせて歩き、日が暮れにかかるころ、栗栖野というところに出た。雲は低く、雨まで降り出した。人影はおろか人家も見えず、猿の叫ぶ声が不気味に聞こえる。狐火もあちこちに見える。

古い堂が一つあった。柱は朽ち、塀は傾き、木の葉で埋まっているような堂である。太元帥の堂で、昔はここで太元帥(インド国家鎮護の神)の祭りをしていたらしい。随分古びて怖いようだけれども、他に行く当てもないので、その堂の縁に上がって夜を明かそうとした。

夜の10時頃、東の方から松明を灯して、大勢の人がこの堂に向かって歩いてくる。こんなtころに夜中にくるような者は、化け物か、さもなければ盗賊のたぐいに違いない。様子を見ようと思って、又五郎は天上に隠れた。

                        続く

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2009年10月23日 (金)

了仙の貧窮 天狗道・3

10月23日(金)

御伽婢子・118

了仙の貧窮 天狗道・3

前回までのあらすじ 了仙は学識深く弁舌爽やかな僧であったが、生前は報われることなく、貧しい僧として終わった。行いは正しかったが、自分はすぐれているのに報われないという不遜な思いがあったので、死して天狗道に落ちた。了仙はあたかも出世したごとく輿に乗って、修業時代の学友栄俊に会う。そこで天狗道の話しをする。

仙の話しは続く。

「人間世界では、賄賂が有効で、媚びへつらうような者が出世する。公家でも武士でも同じである。そのため、誰にもへつらわず、正しく努力する者は世に出ることが出来ない。真に正しき者は、人に侮られ、公家も武家も出家も賢者も、痩せ衰えて、死んだところで人の知るところではない。こころざし邪な者やなんの取り柄のない者が、世の中でもてはやされる。そのため、世の中は何時も乱れている」

「私の落ちた天狗道では、すべてその人の器量によって職が定まる。世の貴賤はどうであれ、慢心のあった者はすべて魔道に落ちる。私は徳もなかったし、功もない。弁舌で人を打ち負かしたりしたが、虚しいものだ。今私は、自らの慢心の報いを受けるのだ。まあ、見ていなさい」

という。

了仙は栄俊の前で、見る見る翼が生え、鼻が高くなり、目から光を発して、すさまじい姿になった。空から鉄の釜がふらふらと降りてきて、その中に鉄の湯が沸き返っている。法師が一人現れて、熱湯を杯に入れて了仙に渡した。了仙はおそるおそるそれを飲み干した。すると了仙の内蔵は灼き爛れ、地に伏して消えてしまった。了仙の付き人たちも、すべて消え失せた。

夜はほのぼのと明け、気がつくと栄俊一人、江ノ島の砂浜に座っていた。

その後栄俊は、仏事を営み、後世を怖れ、道心深く諸国を行脚し、修行をしたということだ。

              御伽婢子 第10巻 終わり       

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2009年10月22日 (木)

了仙の貧窮 天狗道

10月22日(木)

御伽婢子・117

了仙の貧窮 天狗道・2

前回のあらすじ 僧、了仙は、学識は優れ、弁舌も爽やかで行いは正しいのに、名利に恵まれず、貧窮の生活を送っていた。それは前世の因縁によるものと自分を納得させていたが、名利を求める気持ちは捨てきれなかった。

了仙は自分がすぐれているという慢心を捨てきれなかった。従って、世間に評価されないことを憤る気持ちがあった。その気持ちを持ったまま、鎌倉で病死してしまった。了仙の遺体は光明寺に埋められた。

学友に伴頭栄俊という者が居て、了仙とは親密な関係だった。その栄俊が藤沢あたりに出かけたとき、死んだはずの了仙にであった。

了仙は漆塗りの高価な輿に乗り、無冠のもの数人にそれを担がせ、高僧用の椅子や朱色の傘を随員に持たせている。そして露払いが先頭に立って、道を払っている。まるで大僧正の儀式のようだ。了仙は高価な袈裟を身にまとい、檜の扇をはためかせている。

了仙は栄俊を見つけて輿から降り、手を取って懐かしがった。栄俊が言う。

「あなたと別れてまだ半年くらいしか経っていない。よくもまあ出世したものですね。学力も知力も優れていたのだから、このように出世したのでしょう。羨ましいことです」

了仙は答えた。

「あの世で私は一つの職を授けられた。隠すこともないので、そのありさまをお見せしましょうまずはこちらへおいでなさい」

といって、栄俊を光明寺に連れて行った。時刻はもう、夜半を過ぎていた。

了仙は言う。

「私には慢心があった。決して非道はしなかったが、生活は貧しく、世に受け入れられないことを腹立たしく思っていた。それを前世の因果と納得してはいたが、なんとしても、慢心を抑えることが出来なかった。そのため死んでから、天狗道に落ちた」

一呼吸置いて、了仙は話を続ける。

「天狗道で、私は学問所の長に任命された。そこで私は文をつづり、書物の真理をあきらかにした。天狗道というのは魔道だけれども、鬼神に横道無しというように、良いにつけ悪いに付け、人を正しく評価する。その点、人間とは大いに違いがある」

了仙の話しは更に続く。

                       続く

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2009年10月21日 (水)

了仙の貧窮 天狗道

10月21日(水)

御伽婢子・116

了仙の貧窮・1

了仙法師は播州の出身である。幼くして父母を亡くし、草堂に籠もって出家した。17歳の時関東に出て、足利学校で30年以上も勉学に励んだ。仏典や仏教以外の書籍も多く読み、神についても歌の道についても詳しく、博学の者として、あちこちの学問所に在籍した。弁舌は鋭く、了仙にかなうものは居なかった。だからなのか、生まれながらの変わり者でもあった。

しかしながら、世間にはほとんど名を知られることがなく、貧しかった。身にまとうものさへ満足になくて、墨染めの衣の袖は破れていた。その日の食にさえ不足するほどだった。

学問は深くなったのに、僧としての位は低いままであったが、名利を得たいという気持ちは捨てられずにいた。

了仙は自問自答した。

「了仙や、了仙や、おまえは学問をよく修め、才知がある。こころざしも正しいのに、自分を養うのにさえ苦しんでいる。それほど修行したのに、1寺の主にさへ成れないのはなぜだ」

「安然は堂の軒に飢えて、桓舜は神として祭られた。これは道義の違いによるのだろうか? 役の小角は伊豆に流された。これは行徳がおろそかだったからだろうか? 教因は禄にありつき、安海は僧の位を得られなかった。これは智と愚の違いによるだろうか? 沙彌は暖かな衣を着て、主恩は飢餓に苦しんだ。これは才能の違いによるのだろうか? いやそうではない。過去生の因縁に依るのだ。儒教ではそれを天命という。自分の修行を頼んで、名利を求めてはいけない」

了仙は、自ら問答をして、自分を慰めていた。

                        続く

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2009年10月19日 (月)

かまイタチ・だいば風

10月19日(月)

御伽婢子・115

かまイタチ・だいば風

関東地方には、かまイタチというものがある。

つむじ風が起きて、道行く人の股の辺りにカミソリで切ったような傷を付ける。血は出ないし、痛みもたいしたことはない。薬を付ければ一晩のうちに治るそうだ。なんでそんなことが起きるのかは分からない。どういう訳か、由緒正しい身分のある者には起こらない。たとえ金持ちでも、身分の低い者には起こるという。

東海地方には、台場風というものがある。

人が馬に乗り、あるいは馬を引いているときに、つむじ風が起こり、馬の前で砂を巻き上げる。その様子はまるで車輪が回るように見える。その輪が大きくなって馬に上に至れば、馬のたてがみは総毛立ち、細い赤い光がそのたてがみに差し込む。すると馬はいなないて竿立ちになり、ばったりと倒れて息絶える。そして風は収まる。つむじ風が馬の上にあるとき、刀を抜いて切り開き、光明真言を唱えれば、何事もないという。

これをだいば風と言うそうだ。

                           終わり

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2009年10月18日 (日)

忍びの術

10月18日(日)

御伽婢子・114

忍びの術・2

前回のあらすじ 武田信玄の寝所から「古今和歌集」が盗まれたが、犯人は分からず終いだった。その信玄が信州割峠に出陣したとき、飯富兵部が第2陣を努めることになった。しかるに飯富は旗竿を忘れてしまった。飯富の下人熊若が自ら申し出て、考えられない早さで取りに行ってかえってきた。

「どうやって取ってきたのだ」

と聞くと、

「とにかく早くしなくてはいけないと思ったので、甲府まで走っていきました。しかし門が閉められて、人が通ると咎められるので、塀を伝い、垣を越えて、屋敷の戸を密かに開けました。誰にも気づかれずに忍び入って、旗竿を持ち帰りました」

という。

「よくもまあ、往復100里の道のりを、4時間くらいの間に行ってきたものだ。ましてや、用心の厳しいところを人に知られずかえってくるとは・・・。信玄公の『古今和歌集』を盗んだのはおまえか」

「とんでもありません。私はただ早く移動することが出来るだけです。幼いころからお仕えし、裏切ることなど考えたこともありません。今は田舎の父母のことが心配です。願わくば私にお暇をください。そうすればその盗人を捕まえてさしあげましょう」

「暇をやるのは簡単だが、その盗人を捕まえてからだ」

その後熊若は、犯人を捕まえようと人々の様子を見ていた。あるとき、馬鹿に動きの速い者が居たので、話しをするような振りをして、熊若は後ろからその者を取り押さえた。そして飯富の前に連れてきた。

その男は言う。

「熊若ごときに捉えられたのは残念だ。確かに『古今和歌集』を盗んだのは私だ。それは信玄の寝所を見るためだった。あと20日ほどしたら、信玄公を殺す手はずになっていた。私は上州箕輪の城主、水野の家臣である。もとは小田原の風間の弟子だ。ここで捕まったのは残念だが、このうえは早く私の首を討て」

その通り男は首を討たれ、熊若は故郷に帰ったと言うことだ。

                        

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俳句モード

10月18日(日)

めったにないことだが、智光山公園に散歩の行っている間に、頭が俳句モードになっちゃった。何を見ても575になっちゃう。本当はスケッチをしようと思っていたのに、そっちの方はとんと駄目。

Tati0009 Tati0010              

それでも、この2枚だけ書きました。俳句の方は20句くらい。どうせ禄でもない俳句だけれど。

   逆光の蜘蛛にかかりて黄葉一つ  ぼんくらカエル

なんてね。

智光山公園では、バラ園の薔薇が見事でした。傍にあった薔薇ごよみで見ると、智光山の薔薇は、5.6.7月と10月が薔薇の見頃のようです。

カメラを持っていかなかったのが残念。

公園はいつになく賑やかでした。家族連れ、二人連れ、犬の散歩、それに翡翠を狙うカメラマン、など。私のように一人で来るのは、はぐれ者。トホホ。

帰り、市で経営するゴミ焼却場の風呂(サンパーク奥富)で汗を流す。なんと俳句の会のKさんに会う。Kさんの第3句集を球体』を昨日頂いたばかりである。こういうのは、Kさんなどと書かずに、横坂けんじさんと書いても良いんでしょうね。「犀」(桑原三郎代表)、「つばさ」(今坂柳二代表)、「都庁俳句」、「夢」(前田吐実男主宰)などで発表した俳句集である。

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2009年10月17日 (土)

忍びの術

10月17日(土)

御伽婢子・113

忍びの術

武田信玄は今川義元の婿として暮らしていたことがあるので、両家の関係は浅からぬものがあった。しかし義元が信長に討たれてからは、その子、今川氏実を侮って、無礼なことが多かった。

藤原定家の『古今和歌集』を今川家では家宝としていたが、信玄は無理やり借り受けて、返そうとしなかった。そして、信玄の寝室に置いていた。

ところがその『古今和歌集』を、夜の間に盗まれてしまった。信玄の寝室に入れる者は、心を許したごく少数しか居ない。名のある刀や脇差し、金銀などは手も付けられた様子もないのに、『古今和歌集』だけが無くなるというのも、不思議な話である。

信玄は驚いて、甲州、信州に、盗まれた『古今和歌集』がありはしないかと探させた。しかしどこからも出てこない。寝室に入れる者はわずかしかいないのに、その中に泥棒が居るとはゆゆしきことだ、と大いに怒った。まわりの者たちは、怖れて震え上がった。

さて、信玄の家来の飯富兵部が使っている下人に、熊若という者がいた。19歳で、機転が利き、者に動じない不敵なところのある若者である。

武田信玄が信州の割り峠の戦に出たとき、飯富兵部もついて行った。ところが旗竿を忘れてしまった。明日卯の刻(午前5時ー7時)には、飯富は第2陣と定められていたのに、もう日が暮れてしまった。どうしたものかと悩んでいたら、熊若が進み出て、

「私が取りに行ってきます」

というやいなや、走り出した。今から取ってくるなどとは不可能だと、誰も思っていたのに、二時(4時間)くらいしたら、本当に旗竿を持って帰ってきた。

                        続く

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2009年10月16日 (金)

幽霊と契る・2

10月16日(金)

御伽婢子・112

幽霊と契る・2

前回のあらすじ 上野の国、平井の城は上杉憲政の居城だったが、北條氏康に落とされた。そして北條新六郎が新城主となった。憲政には若くして死んだ美しい娘弥子がいた。語り継がれる美しさに、新六郎はたとえ幽霊でもよいから逢いたいものだと思慕をつのらせた。その願いが叶って新六郎は幽霊の弥子に会い、契りを交わした。弥子は、決して他人に言うなと念を押して帰っていった。

次の日の夕方、弥子はまた来た。夕方に来て朝に帰る日々が60日も続いた。

ある日、家の子郎党との世間話のうちに、新六郎はうっかり弥子のことを話してしまった。家の者たちは好奇心に駆られ、壁に穴を開けてのぞき見たが、女の声はするけれども姿は見えなかった。女は新六郎に恨み言を言った。

「あれほど人に言うなと言ったのに、なんで漏らしてしまったの? もう逢うことはできないわ」

    しばしこそ人め忍びの通い路は

       あらはれそめて絶え果てにけり

新六郎返し、

    さしもわがたえず忍びし中にしも

       わたしてくやしくめの岩はし

暫く人目をしのんで逢っていたのに、人に知られてはもう逢えません。忍び逢っていたのに、川の浅瀬の岩伝いに向こうに行ってしまうのですね。

女は泣きながら金の香合を取りだしていった。

「もしもこの先、私のことを思ってくださるなら、これを形見と思ってください」

新六郎は金銀珊瑚琥珀を交えて作った数珠を取りだして女に渡した。

「それにしても、この世の生を終えてから何時あなたと逢えるのですか?」

「甲子という年まで待ってね」

女は涙でそう言うと、霜が消えるように消え失せた。

                        終わり

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2009年10月15日 (木)

幽霊と契る

10月15日(木)

御伽婢子・111

幽霊と契る・1

上野の国、平井の城は上杉憲政の居城だった。

北條氏康がこれを破り、北條新六郎に城をまかせた。

城中にはひときわ美しい一間があった。壁には金銀をちりばめ、屏風や襖は花鳥草木の絵で飾っていた。庭には築山を施し、さまざまな石を集めて泉水を現し、春夏秋冬花の絶えることがない。

部屋は憲政の娘、弥子(いやこ)の為に作られたものである。見目かたち美しく、心たおやかに、情け深く、優しい娘で、彼女を見て心を動かされぬ者はなかった。

憲政は弥子を深く愛し、どのような高家に嫁がせて家門を上げようかと考えていた。しかるに、召し使っていた小姓、白石半内が弥子に懸想し、付け文をした。これが明るみに出て、半内は密かに首をはねられてしまった。

それから100日ばかりして、弥子がにわかにおびえだし、夜にはついに亡くなってしまった。定めて半内の亡霊によるものだろうと、人々は噂した。

新六郎はこの噂を聞き、そんな娘だったらぜひ会いたいものだ、たとへ幽霊だとて、逢って話しがしたい。今生の思い出になる、と思い詰めた。朝な夕な、香を焚き、花を手向け、恋慕の情をつのらせ祈った。

ある日の暮れ方、どこから来たのか女の子が来て、

「私のご主人はここに住んで居られましたが、あなたのお志に惹かれて、間もなくここに参ります」

といって消え失せた

暫くすると、馥郁とした香りがして、さっきの少女に手を引かれ、一人のたおやかな美女が築山の影から現れた。その美しさは、この世の人とも思えない。まるで天女が天下ったようだ。

これが聞き及んでいた弥子の幽霊かと思うと、新六郎は嬉しくてかなわない。たとへ幽霊だろうと、情に代わりはあるものか。契りを交わして思いを遂げよう、と、女の手を取って引き入れた。そして、夜を通して語り合い、抱き合った。

時の移るのは早い。また明日来るわ。暮れになるのを待ってね。女は帰ろうとして、一首詠んだ。

   底深き池におふてふみくりなは

       くるとは人に語りばしすな

そこの深い池に生える水草のように隠れて逢うのよ。私がここに来ることを、けして人に話さないでね。

そして女は庭に出たが、そのまま形は消え失せた。

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2009年10月13日 (火)

ねたみ女水神となる・2

10月13日(火)

御伽婢子・110

ねたみ女水神となる・2

前回のあらすじ 宇治橋の近くに、橋姫の社がある。橋姫はブスで、橋を渡って婚姻する者は必ず不幸になるという。その昔、岡谷式部という者の妻は、ことのほか嫉妬深かった。式部の言ったちょっとした言葉に腹を立て、「生を変えて恨んでやる」と家を飛び出し、宇治川に飛び込んだ。

式部は驚いて、水練の上手に頼んで捜索したが、死体が上がることはなかった。やむを得ず、平等院で手厚く仏事を営んだ。

7日目の夜、夢に女房が現れて、

「私は死んで、この川の神になった。橋を渡って縁を結ぶ者には、必ず祟りをなす」

と式部に言った。

その後、橋を渡って婚姻する者は、必ず離婚するようになった。また船で川を渡っても、ブスの女にはなんと言うこともない。美人が船に乗っていれば、必ず風は荒くなり、波が立ち、船は転覆のおそれがあるという。

だから嫁を迎えて川を渡るとき、波風が立たなければ、その嫁はブスであることが分かると、人々の噂である。

                      終わり

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2009年10月12日 (月)

ねたみ女水神となる

10月12日(火)

御伽婢子・109

ねたみ女水神となる

山城の国宇治橋の北の外れに、橋姫の社がある。橋姫は大変なブスで、ついに夫となる人はなかった。

橋姫は自分が結婚できないものだから、人の幸せを妬んでいた。そのため橋の対岸のものが結婚するときは、橋姫の社の前を通らないようにして船で川を渡る必要があった。うっかり橋姫の社の前を通り橋を渡ったりすれば、必ず離縁になるということである。

話は変わるが、その昔、宇治郡に岡谷式部という裕福な者がいた。その妻は小椋の里の領主、村瀬兵衛という人の娘である。

この妻はきわめて嫉妬深く、召し使う女は、たとえ子供でも、見にくい者のみを選び、少しまともな者がいると、追い出した。よそに幸せな者がいると聞くと、腹を立て、怒って飯を食わなかったりする。ましてや自分の夫などは、やきもちを焼いて家から出そうともしない。岡谷も扱いかねて離縁しようとすると「そんなことをしたら鬼になってとり殺してやる」とすごむ。

「源氏物語の六条御息所は死んでから鬼になって、後の世まで不名誉な名を残した。それはねたみ深かったためだ。おまえも器量は良いのだから、そんなにやきもちを焼くことはないだろう」

といえば、女房は、

「私の器量が悪いからそのように言って、他の女を作るのでしょう。このうえは生まれ変わって、浮気男を苦しめてやる」

と髪を逆立て、口を真っ赤にして広げ、目を大きく見開いた。血の色になった目から、涙をハラハラとこぼし、裸足で家から走り出し、宇治川に飛び込んだ。

                              続く

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2009年10月11日 (日)

イモリの化け物・3

10月11日(月)

御伽婢子・108

イモリの化け物・3

前回までのあらすじ 塵外首座という僧が越前の山の中に住んでいた。ある夜、勉学中の首座のもとに、身の丈15-6センチの人間が現れ、机の上に飛び乗った。首座はそれを扇で払いのけたところ、その仕返しとして、大勢の小人が首座を襲い、逃げ出した首座は捕まってしまい、危うく手足を切られるところだった。首座は謝ってなんとか許してもらった。

首座は這々の体で庵に戻った。

不思議な事件だったので、翌日、昨日逃げたあたりを調べてみた。すると東の方に、多くのイモリが出入りする穴を見つけた。

首座は大勢の人をやとって、その穴を掘り返してみた。3メートルばかり掘り進むと、2万匹ものイモリがいた。中には30センチくらいの大きなイモリもいた。これが大将なのだろう。

村の年寄りが語るところに依ると、「昔、瓜生判官(新田義貞に味方し、戦死した・・・ぼんくらカエル註)と言うものがここに城を構えていた。弟の義鑑坊というものが新田義治(新田義貞の甥)に思いを寄せ(つまり男色です)共に戦い戦死した。その義鑑坊の亡霊がイモリになった」という。

それ以来いろいろ悪さをするらしい。そこで首座は一文を書いてイモリに向かって読み上げた。理非善悪の道理を知りなさい。義鑑坊と言う仏に仕える身になりながら、イモリとなって人々をたぶらかすのはなんとしたことであるか、早く正道に立ち帰れ。

首座が一文を読み上げると、数万のイモリがみな死んでしまった。人々は不思議に思ったが、そのままにもできず、イモリの死骸に柴を積み上げ、みな焼いて灰にした。その灰を集めてイモリの墓を作った。

以後、怪しいことは起こらない。

                         終わり

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2009年10月10日 (土)

イモリの化け物・2

10月10日(土)

御伽婢子・107

イモリの化け物・2

前回のあらすじ 越前の国湯尾というところに城跡があった。人の訪れない寂れたところで、塵外首座(ジンガイシュソ)と言う僧が、庵を結んでいた。ある夜、身長15-6センチの人間が現れ机に飛び乗ったが、塵外首座が扇ではらったら下に落ち、狼藉の報いを与えると叫んで、出て行った。

暫くするとやはり15-6センチの女が5人ばかり出てきた。その中の老婆が言う。

「われらの主君が申された。『沙門が一人、灯の下で学業に励んでいる。誰かが行って慰めてやりなさい。そして仏法の話しなどをしてきなさい』そこで、智弁兼ね備えた学士がここへ来たのに、あなたは乱暴にも机から落としてしまった。われらの主君が敵を討つだろう」

老婆の話が終わるやいなや、1万人もの小人がやってきて、腕をまくり肩を怒らせ、杖を持って、首座を打ち付ける。まるで蟻のようである。痛くてたまらない。

みんなの後ろの方で、号令をかけている者がいる。大将なのだろう。赤い装束で烏帽子を付けている。

「坊主、ここから出て行け。さもなければおまえの目をつぶし、耳や鼻をそいでしまうぞ」

7-8人が首座の肩に登り、耳や鼻に食らいついた。首座はこれを払い落として、門の外に逃げた。首座が南の方にある岡に登ったところ、見慣れに門があった。やれやれ、今晩はここに泊めてもらおうと門に近づくと、追っ手がもう首座の後ろまで来て、首座を突き倒し、門の中に引き入れた。

門のうちにも、同じような人が7-8千人もいる。その中の大将らしいものが言う。

「儂はおまえを憐れんで話し相手を送ったのに、かえってその者を打ち付けた。その罪の償いとして、おまえの手足を切り落とす」

数百人が刀を抜いて、首座にうちかかろうとする。首座は怖れて詫びた。

「私はまことに愚かなことをいたしました。あなた様のお心も知らず、誤りを犯しました。今さら後悔してもはじまりませんが、なにとぞ罪をお許しください」

「悔やむ心があるならば、これ以上責めるのは止そう。その者を追い返せ」

首座は門の外へ突き出された。

                          続く

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2009年10月 9日 (金)

イモリの化け物・1

10月9日(金)

御伽婢子  

  原作     浅井了意

  現代語訳  ぼんくらカエル

御伽婢子 第10巻

イモリの化け物・1 (御伽婢子 通算106回)

越前の国、湯尾と言うところに城跡がある。藪や薔薇が生い茂り、松は倒れ、からすの声、谷の水音などが聞こえる。

そこに、曹洞宗の僧で、塵外首座(ジンガイシュソ)とか言う者が庵を結んでいる。塵外首座とは、俗世間を離れて第1位の僧という意味である。

春は山菜を採って飢えをしのぎ、秋は木の葉を集めて薪とする。近くの村里から信者がきて、その日を送る程度の食料を置いていくこともあるが、普段は人影も稀である。

しかしながら書典を開いているときは、故人と語り合っている心地がするし、座禅を組めば、自然と一体になるようで、少しも淋しいことはない。

ある夜、禅宗の先達者たちの伝記集『伝灯録』をよんでいたとき、身長が15-6センチの人が出てきた。黒い帽子を被り、細い杖をつき、蚊の鳴くような声で、

「儂がここに出てきたというのに、まるで人がいないかのように、声もかけない。淋しいことだ」

と言う。塵外首座は修行が進んでいて、そんなことには驚きもしないで声もかけずにいると、化け物の方が怒ってしまった。

「儂が客人としてきたのに、物も言わないとは失礼ではないか」

と、机の上に飛び乗った。塵外首座は扇を取って払ったところ、小人は下に落ち、

「無礼者!狼藉の結果を思い知らせてやる」

と言って、外へ出て行った。

                           続く

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2009年10月 4日 (日)

人鬼

10月4日(日)

御伽婢子・105

人鬼

丹波の国の興次という者の祖母は、160歳にもなるが元気である。髪が真っ白で、剃髪して尼になった。

興次自身も80歳を過ぎており、子供はもちろん、孫も多い。祖母は若いときからふしだらで、わがままな人だった。剃髪して尼になったからと言って、その生格が治まるはずもなく、興次を捕まえては、ああでもない、こうでもないとなんくせをつけて、叱りとばした。

興次の祖母は、耳さとく、ひそひそ話も聞きつけるので、悪口も言えない。目も、針に糸を通すことが出来るほどだ。歯は90歳くらいの時に抜け落ちたが、100歳を過ぎて生え替わった。

この祖母、昼の間は、麻の着物を縫ったりして、ごく普通なのだが、夜になると、どこかへいくようである。ある夜、何事かと跡を付けてみたのだが、この祖母は怒り狂い、、追跡は諦めた。あるとき、興次の子供が酒によって、その勢いで祖母の部屋の戸をひらいた。するとそこに観たものは、猿の骨や、鹿の骨、あるいは犬の頭、鶏の首であった。

そこへ祖母が帰ってきて、自分の部屋が開けられたことを知った。祖母は大いに怒り、目は光り、口は裂けてわななき、どこかへ走り去ってしまった。その後、大江山で薪を取っていた者が、鬼にあったという。あの姥のことであろう。行きながら鬼になった者の話しである。

                      第9巻 終わり

                       

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2009年10月 3日 (土)

人面瘡

10月3日(土)

御伽婢子・104

人面瘡

山城の国の百姓が久しく神心気の病いに悩んでいた。あるときは悪寒、発熱に襲われ、またあるときは、体中ギリギリと痛むのだった。いろいろと治療をしてみたのだが、一向に治る気配がない。

そうこうするうちに、左足の付け根にでき物が出来て、そのでき物の形が、まるで人間の顔のようであった。その形、目と口はあるが、耳と鼻はなかった。

試みにその口に酒を流し込むと、顔が赤くなった。餅を与えると、口をもぐもぐさせて呑み込む。酒や食物を与えているときは良いが、与えていないときは、しきりに痛むのである。これには百姓も参ってしまい、痩せ衰えて骨と皮ばかりになった。

その病気をどの医者も治すことが出来なかったが、たまたま諸国行脚の修行者が来て、その傷を見て言った。

「これは珍しい病気だ。この病気の人は必ず死ぬが、まんざら直す方法がないわけでもない」

「それならば、ぜひ治してください。病気さえ治るならば、田畑なんか要りません」

百姓は田畑を売って、その金を修行者に渡した。修行者は諸々の薬を買い集め、それを傷の口に呑ませたら、みんな呑み込んだ。更に修行者は、貝母という百合の根で作った薬を飲み込ませようとしたら、傷は口を閉じ、眉根を寄せて受け付けない。その貝母を粉にして、芦の筒をストローにして、傷の口に無理に押し込み、その粉を口の中に吹き込んだところ、半月ばかりで、傷はすっかり癒えた。

この傷のことを、人面瘡というのである。

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2009年10月 2日 (金)

金閣寺の幽霊と契る・5

10月2日(金)

御伽婢子・103

金閣寺の幽霊と契る・5

前回までのあらすじ 中原主水は26歳、独身のイケメン、色好み。ある春の宵、金閣寺で出会った女性が幽霊であることを承知で、懇ろになる。そして3年一緒に暮らす。3年目に女は冥界に帰っていく。

主水の悲しみは限りがない。僧を呼び、法華経をよんで弔い、花と、悲しみを書きつづった一文を手向けた。その最後に次の歌を添えた。

   ともす火やたむくる水や香花を

       魂のありかにうけて知れ君

主水はこののち官職を辞し、田舎に引き籠もり、新しく妻を求めることもなく、嘆き悲しんですごした。その終わるところは、誰も知らない。

                       終わり

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2009年10月 1日 (木)

金閣寺の幽霊と契る・4

10月1日(木)

御伽婢子・102

金閣寺の幽霊と契る・4

前回までのあらすじ 中原主水は26歳で独身。色好みである。主水はある春の宵、金閣寺で桜と月を愛でていた。そこへ美しい女性が現れて、自ら足利義満に仕えていた幽霊だと名乗る。二人は、誘い、誘われて一夜を共にする。次の日の夜も、主水は金閣寺のほとりに立っていると、また女が現れた。

二人は手を取り合い、涙ぐみながら語り合った。

「昨夜はあなたの愛情に感じて、夜を共にしたわ。なんで昼は嫌なの?」

「嫌じゃないさ。けれども、夜でなければ抱き合うことなんか出来ないでしょう」

「毎日夜を待っているのは切ないわ」

「それはそうだけれど、人目もあるからねえ」

それからは毎日、金閣寺のあたりで二人は逢い引きをした。20日くらいたってからは、昼も逢って語り合った。

主水は宮仕えの身である。毎日都に帰って、毎日金閣寺に通う。とうとうある雨の日に、女を連れて京の家に帰った。それからは、女はずっと京の家で過ごした。

女は、つつましく、分別があり、主水の親族にも気に入られ、召使いや出入りする者にまで優しく接した。隣の家の老婆まで、女を褒めそやした。針仕事は上手だし、書も文も人にすぐれ、何時も控えめで、主水はよい妻を得たと人々はうらやんだ。

こうして3年が過ぎた。7月15日、女が言う。

「召使いに私が住んでいた家の留守をさせています。あんまり長い間帰らないので、きっと待ちかねているわ。今日は金閣寺に行って、その後の様子を聞きたいの。あなたも一緒に行ってくださる?」

酒肴を調えて、主水と女は連れだって金閣寺へ出かけた。

すでに日は暮れ、月はさやかに東の峰から昇り、蓮は開き、柳は枝をたれて露を含み、竹は風にそよいでいる。

召使いが出てきて言う。

「あなたは人間世界に帰って、もう3年になります。あまりの楽しさに、ご自分の本当のお住まいをお忘れになったのですか?」

女は涙ながらに主水に告げた。

「あなたの深い愛情に甘えて、3年が過ぎてしまいました。月日のたつのは早いわね。何時まででも一緒にいたいのに、もうお別れしなくてはならないの。私はあの世の人間なのに、あなたと3年も過ごすことになったのは、前世でよほど深い縁があったんだわ。いまはもう、別れの時です。強いてこの世にとどまれば、あの世ではどんな罪が待っているか分かりません。それは、あなたをも苦しめることになるの。お別れしましょうね」

すでに鶏は朝を告げている。鐘の音も響いている。女は立ち上がり、蒔絵の箱に香炉を入れて主水に渡した。

「これは私の形見です」

女は泣きながら墓の方へ歩いていき、名残惜しそうに振り返ったように見えたが、そこで煙のように消え失せた。

                          続く

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2009年9月29日 (火)

金閣寺の幽霊と契る・2

9月29日(火)

御伽婢子・100

金閣寺の幽霊と契る・2

前回のあらすじ 中原主水(ナカハラモンド)は美男で風流を解する男だった。26歳になるが妻はなかった。ある宵、花や月を求めて金閣寺までやってきた。いまは荒れてしまった金閣寺の欄干に寄りかかり、昔を偲んでいた。

そこへ召使いを連れた17.8歳の女性がやってきた。緑の黒髪に美しい眉、たおやかな姿、まことにあでやかで形容する言葉もない。一体何事だろうとこっそり見ていると、女は何かつぶやいている。

「金閣寺ばかりは昔と変わらないし、庭の風景も同じだ。しかし、時は移り、世は変わってしまった。昔のことばかりなつかしく思い続けているのが悲しい」

そして、僧正遍照の古歌を口ずさんだ。

   あるじなき住かに残る桜ばな

      あはれむかしの春や恋しき

主水はこの歌に心を打たれ、

   さく花にむかしを思ふ君はたぞ

      今宵は我ぞあるじなるもの

咲く花に昔を偲んでいるあなたはどなたですか、今宵は私があるじなんですよ、と返歌した。

女は驚く様子もなく、

「あなたがここにおいでなのを知って、私はやってきたのです」

という。これはなんとしたことだろうかと思って聞いてみた。

「お名前は、なんと言われますか?」

「私は人間をやめて久しいのです。これを言えば、あなたはきっと、驚き怖れることでしょう」

主水は、それなら樹の木霊の精か、狐か、それとも幽霊かと思ったが、女があまりに美しいので、怖れる気持ちは起こらなかった。

「いいえ、怖くはありません。ですから、本当のことを教えてください」

「私は畑山氏の出です。昔足利義満公が金閣寺を建ててここに引きこもったとき、宮仕えをした者です。私は20歳で死んでしまい、義満公は憐れんで、この近くに私を埋めてくれました。今夜は追善供養のため、義満公の御母君のもとへ行って参りました」

そう言うと女は召使いに命じて、むしろと敷物を敷かせ、金閣寺の庇に向かって座る。今夜の花や月を愛でましょう、と酒や菓子を取り出し、主水と共に数杯を傾けた。

                          続く

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2009年9月22日 (火)

スケッチをし損なう 金閣寺の幽霊と契る・1

9月21日(月)

スケッチをし損なったこと

昨日、竜門峡へは、スケッチの用意をして出かけた。しかし歩道は狭く、落ち着いてスケッチの出来るような所はあんまりありませんでした。

Tati0009

途中、休憩舎が1ヶ所あり、そこで昼食のパンを食べながら書いたのがこれ。この出来の悪い1枚だけが竜門峡でのスケッチです。

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見てお分かりのように車内スケッチ。左側の女性はかなり美人だったのですが、画家の腕が「いかがなものか」。こんな風に描かれたなんて知ったら、きっと真っ赤になって怒るよ。美人に色っぽく怒られてみたいな。

デジカメ写真のプリント

先日、車椅子の会のバス旅行で、写真を撮るように頼まれて、何枚かの写真を撮った。バカチョンカメラしか扱えない人間だから、いずれ大した写真は撮れない。その写真を組み合わせて印刷しようとしたら、なんとしても印刷できなかった。「原因不明で印刷が中止されました」なんて言うメッセージが出てくるのである。アッチをいじったりコッチをいじったり、パソコンを再起動させたりしたが、どうしても駄目だった。

暫く悩んだあとで、「ははあ」と自得するところがあった。実は前にも、ブログで似た経験をしている。写真を組み合わせるとき、すんなりと挿入すればいいのだけれど、挿入したあとで、順序を変えたり、大きくしたり小さくしたり、別の絵と入れ替えたりをくり返すと、パソコンの方が混乱するらしい。

「ほんとにこのパソコンは頭が悪いんだから」などと独り言を言いながら作業をしたのだが、なあに、はじめからすんなりと組み合わせられないこちらの方が、頭が悪いのサ。

よく考えて、すんなりと写真を組み合わせたら、すんなりとプリントできました。苦労した私は、ぐったりしました。なんてね。

御伽婢子・99

金閣寺の幽霊と契る・1

中原主水正(ナカハラモンドノカミ)は美男と評判が高く、色好みで、26歳になるのに結婚もしていなかった。春には花に浮かれて風を恨み、秋には月を愛でながら雲に心を痛めた。官職は得ていたが、もっぱら風流を友としていた。

天永乙酉(キノトトリ・1522年)3月(旧暦です)、思い立って北の京に遊び、暮れゆく春の名残を惜しんだ。その辺り一帯をさすらって、最後に金閣寺に近くまで来た。征夷大将軍源義光(足利義満)この地に家を建て移り住んだのだが、崩御されて後、寺にしたのである。庭の築山泉水の立石、たぐい無き絶景の地である。

中原がここまで浮かれ来たときは、すでに日が暮れて、朧月が東の方に上がっていた。春宵一刻値千金とか、花に移ろう月の影、木の元も立ち去りがたい。近くの家に1夜の宿を借りたが、寝られもせず、敷石をめぐり、こけむした道を踏んで、金閣寺まで来た。

義満公が崩御されて、すでに118年。その昔はさしも賑やかだったが、今は住む人も稀になり、いしづえは傾き、柱は朽ち、わずかに金閣ばかり昔の面影を残している。

主水は軒に立ち寄り、欄干に寄りかかって、時の移ろいを感じ、月に思いを寄せ、桜のこぼくに花が少し残っているのを見て、1首。

   桜花いざこと問わん春の夜の

       月はむかしも朧なりきや

桜の花よ、あなたに聞きます。春の夜の月は昔もこのように朧でしたか?

                          続く

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2009年9月20日 (日)

清潔と不潔 下界の仙境

9月0日(日)

清潔と不潔

 私の中に、清潔と不潔が同居している。

 若い頃から、髪をとかすのが面倒くっさかた。「髪の毛の個性を大切にする」などと負け惜しみを言って、ぼさぼさの髪で平気だった。ひげは時々しか剃らないし、靴を磨くのも嫌だった。よほど靴が汚れてくると、蛇口の下に持って行き、たわしと石けんでざぶさぶと洗った。着る物についても、暑さ寒さを防げる物で良い、と言う考えしかなかった。

 随分不潔そうだけれども、風呂は毎晩は入らないと気が済まなかった。同じ下着を2日続けて身につけるなどと言うことは、もっとも嫌うところだ。

 このような性格は、今でも続いている。髪の毛は半分以上なくなってしまったし、若い頃のような剛毛直髪ではない。梳かそうが梳かすまいが、さほどの変わりはない。信じようと信じまいと、櫛やブラシを、私は何年も使ったことがない。ブラシはどこかにあったような気がするけれど、多分わが家には櫛がない。「多分」と書くのは、櫛を探したことがないからである。

 そんな私でも、今でも風呂は毎日入る。下着は毎日取り替える。洗濯物を取り込んで、その山の中から着る物を探すようなことはしない。洗濯物は必ず畳んで、一度はタンスの中に入れる。妻に死なれて10年を超えるが、この習慣だけは変わらない。

 もう一つ付け加えれば、万年床にはしない、と言うのがある。一人で生きているのだから、布団を敷いたままにしたところで、誰も文句は言わないけれど、これだけはしてはいけないと心に言い聞かせている。しかし、布団のまわりは惨憺たるものだ。寝ていて手の届く範囲に、辞書やら本やら、筆記用具やら、その他あらゆる物が散乱している。

総合的に言うならば、私はあまり清潔好きの方ではないと思っている。その証拠は掃除で、これは家事の中でも一番苦手です。部屋の中に綿埃が目についても、一度くらいは見なかったことにします。そうかと言って、ゴミの山の中で暮らすというのは、やっぱり嫌ですね。最低限の掃除はしています。

御伽婢子・98

下界の仙境・2

前回のあらすじ 太田道灌が江戸城を造ったころ、江戸は水に不自由していた。ある金持ちの町民が抗夫を雇って井戸を掘らせた。何百メートルも掘ったがやはり水は出ない。その穴の底で、抗夫は地下の別天地を見つけ、その宮殿に行き着く。

抗夫の世話を命じられた者は、抗夫を清い滝の元に連れて行き、体を洗わせた。次に、乳白色の滝の元に連れて行き、口をそそがせた。その水は甘く、密のようである。抗夫は心ゆくまでその水を飲んだ。まるで酒に酔ったような心地がして、暫くすると、身も心も爽やかになった。

抗夫は係の者に案内されて、半日ばかり、宮殿楼閣を見て回った。それは谷ごとにそそり立っているのだが、抗夫は中に入ることは許されず、外から眺めて中の様子をうかがうだけである。おそらく中は、美をつくし、善を尽くした豪勢なものだろうと想像するばかりである。

「一体ここは、どんな所なのですか」

と抗夫は案内の者に聞いた

「修行をして仙人になった者が、まずやってくるのがここです。ここで70万日修行をし、悟りを得て、終わったら天上に行き、それぞれの役割につくのです」

「仙人の世界ならば、天上にありそうなものなのに、地下にあるとは不思議です」

「ここは下界仙人の国なのだ。人間世界の上に、上界仙人の国がある・・・だけど、おまえはもう人間世界に帰りなさい」

案内のものは抗夫を乳白色の滝の元に連れて行き、またその水を飲ませた。そして抗夫が入ってきた岩穴の所まで連れて行った。

「おまえは今日の出来事を、半日くらいのことと思っているだろうけれども、人間世界では何十年も過ぎている。とにかく、もう帰りなさい」

抗夫が穴を出ると、そこは富士の裾野の洞穴だった。まわりの人に聞いてみると、太田道灌が江戸城を造ったのは100年以上前だという。

江戸では、昔、深い井戸を掘らせた者がいるなどと言うことを知る人もなく、抗夫を知る人も無かった。

その後抗夫は五穀を断ち、木の実を喰らい、山の水を飲み、足にまかせて修行した。富士の裾野で逢ったという人もいたけれど、何処のどう消えたか知る人はいない。

                            終わり

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2009年9月18日 (金)

白寿の人 下界の仙境

8月18日(金)

特養さくらへ。Kさんと二人。施設長のTさんと、最近のボランティア事情について話す。

2Fへ。昨日の老人介護施設狭山ケアセンターも、この特養さくらも、1Fはデイケアーの人、2Fが普通の高齢者、3Fがいくらか認知症の進んだ人、と言う分け方になっている。

しかしこの分類も微妙で、かなりしっかりしているのに3Fの人もいれば、その逆もある。

今日は2F。もっともしっかりしていると思うのが、今年99歳の人である。新聞なども読んでいる。今度政権が代わったことについても興味を持っているのだ。「○○さんは昨日の新聞なんか読んでいる。昨日も今日も分からないらしい。まだ若いのに」なんて言うのである。

99歳に比べたら、大抵の人は若いヤ。私などはまだら惚けがはじまっている。昨日の新聞を読むことだってある。すごい人だなあ。

市長から、白寿のお祝いの花束が届いていた。

御伽婢子・97

下界の仙境・1

昔、太田道灌は江戸に城を築いた。江戸は水が乏しい土地で、多くの人が苦労した。

そのころ舟木甚七という金持ちの町人がいた。掘り抜きの井戸を作ろうとして、抗夫を雇い、人足を入れて何百メートルも掘らせたが、ついに水は出なかった。

抗夫はその穴の底に座って暫く考えていたが、地面のそこから犬の声が聞こえる。鶏の鳴き声もする。不思議に思って、もう1-2メートル掘ってみたら、切り通しの石の門が出てきた。入ってみると、両側は壁になっている。通路らしい。暗い中を手探りで100メートルほど進むと、切り通しの出口で、にわかに明るくなった。

上を見ると、青天白日の空である。下を見ると、大きな山の峰が続いている。どうやら別世界のようだ。

抗夫は峰におり、山を登り、谷を下り、約4キロほど進むと、山の中に立派な宮殿があった。玉や金銀、瑪瑙、瑠璃などをふんだんに使った宮殿である。庭には大木が生い茂り、不思議なことにどの木にも竹のような節がある。葉っぱは芭蕉のようで、紫の花が咲いている。花の大きさは、荷車の車輪ほどもある。

花の間を五色の蝶が飛び回り、その羽根の大きさは、団扇ほどもある。大形の鳥が梢を飛び回り、木も草も見慣れぬ実を付けている。

岩の間から二筋の滝が流れている。一つは澄んだきれいな水、他の一方は乳白色の水が流れ落ちている。

抗夫は楼門の前に行った。門の上に「天桂山宮」という額がかけられていた。

抗夫に気づいて、二人の門番がとがめ立てをする。

「おまえは何者だ。どうやってここに来たんだ」

「私は井戸掘りの抗夫です。深くまで掘ったら犬や鶏の声が聞こえたので不思議に思って、ここまで来ました」

門のうちから20人ばかりの小ぎれいな者たちが出てきて、

「汚らわしい匂いがする。どうしたのだ」

と門番を責める。門番は恐縮して答える。

「人間世界の井戸掘り抗夫が、迷ってきました」

その時また奥からきらびやかな衣装をまとい、金の冠を被った者が来て、

「この抗夫を案内してやりなさい」

と命じた。

                           続く

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2009年9月17日 (木)

盛衰がある 狐に騙される・3

9月17日(木)

老人介護施設狭山ケアセンターへ。今日はYさんと二人なので、3Fに行く。われわれ、たけのこの会も、会員の高齢化や身内に介護者を抱える人がでてくるなどの理由で、4-5年前の活力はない。夫婦共働きの孫の面倒を見なければならない、と言う人もいる。いずれにしても、前にはケアセンターへ行ける人が4-5人はいたのに、今は二人だけだったりする。これでは、2Fと3Fの両方を訪問することは出来ない。われわれのボラグループも最盛期は過ぎました。ボラグループにも盛衰があります。

御伽婢子・96

狐に騙される・3

前回までのあらすじ 安達喜平次は京から岐阜へ帰る途中、道に迷っている美しい娘に出会う。自分の馬の乗せて娘を送っていくと、娘の連れの者たちに逢う。その誘いで、娘の家に一晩泊めてもらうことになる。そこで酒宴が行われた。

安達はすでにかなりの酒を飲み干した。主の女房は安達に、姥と双六をしなさいと勧める。姥と言っても25-6歳のきわめて美しい女性である。双六の盤は紫檀や黒檀などを使った高級なもの、水牛や象牙で作った筒から取りだした蒔絵のあるさいころで、二人は勝負を争った。時には手が触れたりして、なんとなくなまめかしい雰囲気である。安達が勝ったときには、沈香が与えられた。負けたときには、特別持っていたものもないので、頭に刺してあった、髪をとかすときに使うコウガイを与えた。

すでに明け方近くなったころ、家の中がにわかにザワザワとして、「盗賊だ」という声が聞こえた。女房は慌てて安達を裏門から外に出した。姥もどこかに隠れて姿を消した。安達が外に出ると、そこは大きな穴で、まわりには荒野が広がっていた。松に風が渡り、谷川の音が遠くに聞こえる。

双六で勝ったときにもらった沈香はただの木片で、与えたコウガイはなかった。安達の供をしていた者たちが来て、道に迷った女性を馬に乗せたら急に姿が見えなくなり、みんなで探していたという。どうやら狐に騙されたものらしい。

                          終わり

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飛行船 狐に騙される・2

9月16日(水)

荒川と入間川の合流点に行ってみたくて、指扇駅から荒川に行ってみたのだけれど、駅から荒川までは、ずいぶん歩かなければならない。「随分歩く」というのも曖昧な言い方だが、時間は計らなかったし、距離も分からない。分かっているのは、疲れるほど歩くと言うことだ。

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  秋の陽の影を水面に飛行船  ぼんくらカエル

荒川の上に、暢気そうに飛行船が浮いていました。入間川とは違って、岸の土手に立っても、川の流れはなかなか見えない。河川敷が広く、木や草が生い茂っていて、見えるのは緑ばかり。

それはそれで美しいのですが、土手を歩いている以上は水も見たいのです。河川敷の、丈の高い草の中に所々川面が見えそうな踏み跡があります。その一つを行くと、とんだ藪こぎで、ズボンはおろかシャツにまで草じらみ(ヌスビトハギ)がびっしりと附いてしまった。

それでも、土手の上から見て、「ここなら」と思ったところで、水の淵に出ることが出来ました。ところがそこでは、若い女性が一人、フルートの練習をしていました。

「私はここで少し休みたいと思います。私にかまわず練習をしてください」

と断って、女性からはすぐ近くですが、草に隠れて見えない位置に座り、衣類に付いた草じらみむしりに専念しました。そしてスケッチ。

Tati0009

私のブログを読む人は、こんな下手くそなスケッチも見なければならない羽目に陥ります。スケッチと言うよりは。クロッキーですけれどね。女性のフルートを聞きながら描いていたわけです。

さて次のスケッチをしようとすると、後ろに人の気配を感じました。くだんの女性が立っていたのです。おやおや、あとは話でもするしか仕方ありません。女性はなかなかの美形で、福岡の人だそうです。北九州市の大学で中国語を学んでいるとか。夏休みの間に運転免許を取るため、合宿に来ているのだそうです。

話しをしながら描いたのが、次のスケッチ。

Tati0010

女性は描き上げる「早さ」に感心していました。クロッキーですから、早いのは当たり前。「上手さ」にではないところが問題ですよね。

御伽婢子・95

狐に騙される・2

前回のあらすじ安達喜平次は京から岐阜へ帰る途中で、道に迷った美しい娘に会う。その娘を自分の馬に乗せて送っていくと、娘の供の者たちに逢い、今晩は泊まっていくようにすすめられる。

さてそれから300メートルほど進むと、木々の茂っている屋敷があった。梅、桜、桃、スモモの花が咲き、藤の花や山吹も咲いている。池には、アヤメやカキツバタも咲き競い、名のある人のお屋敷と思われた。

案内されて入った住居は部屋数がことのほか多い。安達は廊下の先の、部屋に通された。そこは、唐や日本の絵画が飾ってある部屋だった。

その家の主の妻は40歳くらいで、立ち居振る舞いが上品で、気高く見えた。

「よくぞ娘を送ってくださいました。野遊びの娘が酒に酔い、座を逃げて道に迷ったとき、あなたが助けてくださいました。あなたに助けられなければ、狼に襲われたかも知れないし、盗賊にあったかも知れません。今夜は、心ゆくまで楽しんでください」

それからは酒宴である。姫の乳母なる者がまかり出て、安達の相手をする。乳母といえどもまだ若く、稀なる美人である。安達は仙境にいるような心地がした。たとへ雲の上にいるとしても、今夜のこの楽しみ以上ではあるまいと思われた。

                             続く

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2009年9月15日 (火)

下読みなど 狐に騙される・1

9月15日(火)

先週は肉体を使う趣味やらボラやらが多くて、それをやり終えた今、我ながら72という歳の割りにはタフなものだと思っています。

先週月曜日、ボラ先の畑おこし、火曜日、車椅子の会の日帰り旅行付き添い、水、木は南アルプス仙丈ヶ岳登山、金曜日は水彩画の会、これだけは肉体労働系ではありませんが、土曜日は精障者ソフトバレー大会の線審、日曜日はまた山行で男山天狗山へ、そして昨日の月曜日、精障者の理解を求めるビラ配り・・・、多少は疲れたけれど、明日山行があっても、まだ行けますね。

元気自慢の日記ですね、これは。そういう奴に限って、ころっと逝っちゃうのかな。それも良いね。どうせ逝くなら、ピンピンコロリが良い。

今日は自重して、買い物以外に体を使うようなことはしていません。やったことと言えば、御伽婢子第9巻の下読みです。

私のブログの読者は、ごく少ないことを知っています。その中で、「御伽婢子」の現代語訳は、更に読者が少なくなります。でも、その「御伽婢子」を読んでくれている人もいることを知っています。「御伽婢子」は全13巻、今日やっと9巻目に辿り着きました。ここまでやったのだから、自分のためにも終わりまでやります。

御伽婢子 第9巻

  原作      浅井了意

  現代語訳   ぼんくらカエル

御伽婢子・94

狐に騙される・1

安達喜平次は岐阜の人である。室町幕府の公方に参候しての帰り、美しい女性にあった。

安達が召使い二人に馬の口をとらせ、手下の武士二人を連れ、山の中にさしかかった時である。すでに暮れ方であった。年の頃17-8歳の美しい女性が、華やかな衣装の裾をつまみ上げながら、草むらを右往左往して、道に迷っているように見えた。見るからに高貴な人の娘のようだ。疲れているのか、足元はふらつき、石に躓いて転びそうになったりする。

「何処のお方ですか? こんな日暮れに供も連れずに、どうなさいましたか?」

と声をかけたが、女は返事をしない。なおも重ねて、

「いかにも気の毒に思えます。私の馬をお召しください。何処なりとも、あなたのお屋敷までお送りいたしましょう」

それを聞いて娘は嬉しげなそぶりを見せた。安達は娘を抱き上げて馬に乗せてやった。まるで着物だけのように軽い。

娘は見れば見るほど美しく、気高い雰囲気があり、たおやかである。そこはかとなく芳しい香りがして、まるでこの世の人とも思えない。安達はすっかり心を奪われ、この人のためならば命さへ惜しくはないと思うほどだった。

馬は京の方へ戻っていく。安達は馬の後ろに付き従い100メートルくらい進むと、田中の方から5-6人の少女が走り出してきた。

「なんとしたことでしょうか。暮れ方になって姫様を見失い、胸がふさがる思いでした。あちこち探していたのですよ」

更に200メートルばかり進むと、60歳くらいの男が、息を弾ませながら言った。

「姫様。心配していたのですが、ホッとしました」

安達に向かって、

「あなたが馬をお貸しくださったのですね。まことにありがとうございます。今日はみんなで田中に遊びに来たのですが、酒を飲み、興に乗じて、姫君は一人で近くに出ているうちに、道に迷われたようです」

「このお方が道に迷っておいででしたので、お気の毒に思い、馬をお貸ししました。お供の方にあえて、安心いたしました。私はこれにて失礼し、家に向かいます」

「いやいや、もはや日も暮れました。これからお帰りになるのは大変です。今夜は私どものところにお泊まりください」

「それはまことにかたじけない」

安達はその申し出を、ありがたく受けることにした。

                             続く

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2009年9月 7日 (月)

昨日の続き 屏風の絵が踊る

9月7日(月)

まず、昨日の続きから。「木下航志」は「キシタコウシ」と言うのだそうです。「木下」と書いたら、普通は「キノシタ」と読むのですが「キシタ」なのだそうです。地名とか人名とか、固有名詞は漢字を見ただけでは読めなくてもしょうがないと思うことが良くあります。私の知人で「藤木」という人は「フジノキ」と言わないと機嫌が悪いのです。「フジキ」ではないのだそうです。いろいろあるんですね。間違って呼ばれることを気にする人と、あんまり気にしない人がいますね。どちらがどうとは言えませんが。

以上は余談です。余談から書き出すというのは文章の常道に反しますよね。まあ私の文章は、「アッチよろよろ」、「コッチよろよろ」ですから、数少ない読者は、つきあってください。

「子守唄」というか、「子守り」の話です。三木露風はよほどませた子で、子守りに背負われて見た「赤とんぼ」を覚えていたわけです。何かの文章で、三島由紀夫は縁側でおしめを取り替えられたのを記憶していたと読んだことがありますが、ほんとかネエ。

私は何十年も昔、暗い闇のなか、狭い空洞を泳ぐようにしながら、明るいところに出てきた夢を見たことがあります。私は勝手に、くらい産道を通って誕生したときの無意識の記憶が夢に現れたのだと思いました。しかし、あくまでも夢です。

現実に帰ります。

「竹田の子守唄」も「五木の子守歌」も子守りをする子どもたちは、現実の辛さをうたっています。昨日も書きましたが、私はそのような少女たちがいたことを、知識として知っています。私が育ったほんの少し前まで、それは現実にあったことです。

三木露風のようにませた子は、子守りを懐かしがったりするわけですが、大抵はそのもう少し後、女中に可愛がられた子供が、「女中っ子」として育ちます。女中を懐かしがる文学作品と言ったら、これはもうきりがありません。夏目漱石の「坊ちゃん」も、太宰治の「津軽」も女中が大きな位置を占めています。誰だったかなあ、女流作家だと思いますが、文字通り「女中っ子」という作品もありました。

子守りが長じて女中になった場合もあるでしょうし、子守りとは別に、女中に可愛がわれて育つという場合もあるでしょう。女中と言っても、はじめはまだ少女です。

昔は、子供が子供の面倒を見るというのが、当たり前のことでした。現にこの私が、小学2年の時、生まれて間もない弟を背負って遊んでいたのです。信じられますか? 小学2年生が赤ん坊を背負って、友達と遊ぶのですよ。鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたりするのです。他でもない、この私がしていたのです。

これは今まで誰にもいったことがない、はじめて明かすのですが、あるとき私は、上級生に知恵を付けられて、赤ん坊を電信柱にくくりつけて遊んだことがあります。これで、背負うのと同じだというのですね。そのせいなのかなあ、あの子が1歳のうちに死んじゃったのは。

今私は72歳。これ、一生忘れないんですね。

そのほか、私のまわりには、いくつもの悲運な死があります。そのいくつかは、私に関係があるような気がしてなりません。すぐ下の弟の死。妻の死。共に自殺。

   罪幾つ重ねて死ぬやつくつくし  ぼんくらカエル

もちろん、私と同じ環境にあって、他の人ならどうできたのだ、と言う、居直った気持ちもあるのです。でもなあ・・・。

御伽婢子・93

屏風の絵が踊る

細川右京太夫政元は足利義高公を取り立て、将軍に祭り上げ、自らは権威をほしいままにした。

あるとき、大酒を呑んで家に帰り、バタン、キュウで寝てしまったが、夜中に物音で目が覚めた。

枕元の屏風に、誰が描いたのか分からない古い絵があり、女房と少年が遊んでいる。その絵の中の女房と少年が絵から出て、手を打ち、足踏みをして、唄い、踊っている。身長は15センチばかりだ。

その歌を聴いてみると、

《世の中に、恨みは残る有明の、月に群雲春の暮れ、花に嵐は物憂きに、あらいはしすな玉水に、映る影さへ消えて行く》

月には群雲、花には嵐がある。あまり乱暴すると水に映る影も消えてしまう、とくり返して唄う。

政元は声を荒げて叱ったら、女房も少年も、元の屏風に帰った。

しかし気になって、陰陽師を呼んで占わせた。

屏風にある女の風流踊りは風に関係がある。花に嵐というのも風に関係がある。風の字にに注意しなさいと言うのが陰陽師の占いであった。

永正4年(1507年)6月、政元は精進潔斎して愛宕山に参籠し武運長久を祈った。

23日、愛宕山から下りるとき、馬が倒れて死んだ。

24日、政元は自宅で風呂に入ったところを、暴漢に襲われて死んだ。政元の事務官が敵に内通したのだという。陰陽師が風の字に関係があると言ったのは風呂のことだったのだ。

                      終わり

これで第8巻が終わりです。御伽婢子は全13巻、まだ3分の1以上が残っています。長いなあ。

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2009年9月 6日 (日)

木下航志のライブと子守唄 修行僧幽霊に逢う・3

9月6日(日)

木下航志と言う盲目の歌手がいる。ピアノの弾き語りをする。狭山市の市民会館で、そのチャリティーライブがあった。

目を閉じて聞いていると、山の彼方から雲がもくもくと湧いてくるような感じを受けたり、広い池の岸に波が静かに寄せているように感じたりする。声量があり、澄んだ響きがある。

アンコールで、最後の1曲だけアカペラで歌ったのが「竹田の子守唄」。歌詞は悲しい。なんで日本の子守唄は悲しいのだろう。ライブのはじめの方で、「赤とんぼ」を唄ったが、その歌詞の違いについて、いろいろ考えた。

「赤とんぼ」は子守唄ではなくて、子守をしてくれた姐やを懐かしんでいる詩である。

1) 夕焼け小焼けの赤とんぼ

   負われて見たのはいつの日か

2) 山の畑の桑の実を

   小籠に積んだは幻か

3) 十五で姐やは嫁に行き

   お里の便りも絶え果てた

4) 夕焼け小焼けの赤とんぼ

   止まっているよ竿の先

三木露風作詞である。三木露風が「子守の背中で赤とんぼを見た、あれはいつだったのか」、と言うのが1番の歌詞。「背負われている」のであって、「追われている」のではない。

「子守り」という者の存在は、私の世代でも話しで知っているだけである。貧しい家の少女が、金持ちの家の子守りに雇われて、赤ちゃんを背負いながら1日を過ごすのである。三木露風は、その子守りの「姐や」を懐かしんでいるのである。「子守り」の存在をしらない人が「負われて見た」を「追われて見た」と思ってしまうのは、やむを得ないのかも知れない。

「子守り」なのだから、3番は「姉や」ではなく「姐や」なのである。

ブログというのは私程度の生半可な知識しかない者でも。自由に書き込める。そのせいで、この「赤とんぼ」の解釈なんか、随分傑作があるんだそうですね。「負われて」の間違いは良くはないけれど、しょうがないな、とは思う。でもたとえば、「赤とんぼ」は戦後の歌で、「戦闘機の零戦」のことだとか、「姐や」は「従軍看護婦に行って生死が分からず、便りが来なくなった」だとか言う解釈もあるんだってサ。

「赤とんぼ」を「零戦」と解釈したのは、ひょっとしたら「あれかな?」というのはある。

Tati0009

左のイラストは幼いころに見た記憶をもとにして描いてみた。戦争中の航空兵の練習用の飛行機である。私は市ヶ谷の陸軍練兵場の近くに住んでいたが、まだ戦局が悪化しないうちは、上空を、よくこの練習機が飛んでいた。主翼が上下2枚ある複葉で、航空兵の顔が見えるほど低空で飛んでいることもあった。人々は、この飛行機のことを、「赤とんぼ」と呼んでいた。胴体の色が赤かったように思っているけれど、幼少時の記憶である。確信は持てない。さっきも書いたが、ブログというのは、私程度の人間でも、自由に書くのである。援用しようとするならば、自分でしっかり調べなくてはいけない。

脱線ばかりしているので、だいぶ長くなった。

「竹田の子守唄」だが、悲しい歌ですね。赤ん坊のための歌と言うよりは、子守りをしている子供の、嘆きの歌です。「五木の子守歌」と同じ系統ですね。

1) 守もいやがる盆から先にゃ

   雪もちらつくし子も泣くし

2) 盆が来たとてなにうれしかろ

   かたびらはなし帯はなし

3) この子よう泣く守をばいじる

   守も1日痩せるやら

4) 早よも行きたやこの在所越えて

   向こうに見えるは親の家

この歌は京都の部落民に歌い継がれた歌だそうです。この在所を越えて親の家に帰ったところで、貧しい生活が待っているだけです。それでも帰りたいのが親のところ。しかしそれも出来ないことを、子供ながらも知っているのです。

これはもう、恨み節ですね。本歌には、自分たちが食べるのは「もんぱ飯」というような歌詞もあったようです。「もんぱ飯」とは「オカラ」のことだそうです。  

御伽婢子.92

修行僧幽霊に逢う・3

前回までのあらすじ 河内の国を旅していた修行僧が、日暮れて泊めてくれるところを探していたとき、14-5歳の少年に逢う。少年は自宅に案内し、過去帳に自分の名前を書かせ、消えてしまう。修行僧はその家の持仏堂の前で夜を明かす。

夜が明けて、その家の家族が持仏堂の前に集まると、痩せこけた僧が一人、仏前に座っているのを発見した。

これはまた、盗賊か、それとも古狸が化けて出たのか、と、問いつめると、修行僧は昨日の出来事をありのままに語った。仏前の供物を見ると、修行僧が食べたという半分はなくなっていたが、少年が食べたという半分は、そのまま残っている。

「さては藤四郎の亡霊が現れたか、なんで修行僧の前には現れて、母である私には現れないのだ」

とは母嘆き悲しんだ。

聞けば、ちょうど100日前に、流れ矢に当たって亡くなったのだという。

無情を感じた母は、修行僧に髪を切ってもらい、尼となって菩提を弔ったと言うことだ。

                              終わり

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2009年9月 5日 (土)

家でごろごろ 修行僧幽霊に逢う・2

9月5日(土)

 思いっきり寝坊をして・・・目は覚めていたけれど布団の上でごろごろしていた・・・11時頃朝食件昼食。ブランチというのかな。その後、とうとう家から一歩も出ず。昨日洗濯をしてベランダに干したままだったのを、取り入れて畳んだくらいが仕事かな。漫然とテレビを見て、数独を2-3問解いて、本を少し読んで、ボーとして1日を過ごしました。

 鳩山由紀夫のホームページで、アメリカで問題になっているとか言う論文を読んでみました。割とまともなことを書いていると思いました。アメリカの市場至上主義を多少批判したところがあったけれど、それがアメリカの気に入らないんだね。日本の政治家のするとは、1から10までアメリカの言う成りでなければ批判されるのかな。

御伽婢子・91

修行僧幽霊に逢う・2

 前回のあらすじ 修行僧が河内の国を旅して、止めてくれる宿を探しているとき、14-5歳の美しい少年に会う。その少年の家に1夜の宿を借りることにする。

 「もう少し早ければ家の者に命じて食事を作らせるのですが、もう夜更けです。霊前に供えている供物を差し上げますので、食べてください」

 少年は仏前の供物を下げ、半分を僧に捧げ、残りは自分が食した。

 「今夜の宿を貸してくれてありがとう。あなたはどんな方なのか教えてください」

「私の父は隅屋藤九郎と言う武士で、武勇の誉れが高かったのですが、討ち死にをしました。私たち兄弟二人であとを継いだのですが、弟はまだ幼児です。私もまだ子供なので母に育てられています。私の名前は藤四郎です。今夜貴僧に宿を貸したのも他生の縁と言うことでしょう。私がもし亡くなるようなことがあったら、どうぞ跡を弔ってください」

 「なんでそのようなことを言われますか。あなたはお若い。これから花も咲こうというものです。私はこのように歳をとっていて、いつ死んでもおかしくない者ですよ」

 「いたいや、武士の家に生まれた者は命よりも名を惜しみます。戦があれば、夕べまで持つ命でもありません。だからお願いするのです。ここに過去帳がありますから、私の名前を書き入れてください」

 「これはまた妙なことを言われます。過去帳には死んだ人の名前を書くものです。しかし宿を貸してくれた方の望みに背くのもどうかと思いますので、逆修と言うことにして書き入れ、武運長久を祈りましょう」

 少年は打ち笑い、

 「それはお心のままに」

 と言って席を立ち、立てかけてあった太刀をとり、障子を開けて出て行った。そしてそのまま姿が消えた。聖は不思議に思い外を見たが、何も見えず、物音一つ聞こえない。やむを得ず、持仏堂の前に座って夜を明かした。

                         続く

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2009年9月 3日 (木)

無題 修行僧幽霊に逢う・1

9月3日(木)

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荒川。上江橋(大宮)付近からのスケッチ。対岸の川岸に男が1人いるのですが、分かるでしょうか。川合玉堂の絵やスケッチには、画面の目立たないところに生活感のある人物が小さく入っていたりします。私はあれが大好き。

御伽婢子・90 

修行僧幽霊に逢う・1

隅屋藤九郎は楠の一族で、畠山義就(ハタケヤマヨシナリ)の部下であった。戦では数々の手柄を立てたが、最後に討ち死にをした。

その子、藤四郎は同じく義就に仕え、応仁の乱で死亡した。親子二代にわたって忠義をつくしたので、義就は藤四郎の弟藤次に河内の国門間の庄を知行地として与えた。知行地を与えられたといっても、まだ5歳である。母と二人で住んでいた。

あるとき、巡礼の聖がその近くにやってきた。日はすでに暮れようとしている。どこかに宿はないものかと門間の辺りで佇んでいると、幽かに横笛の音が聞こえる。振り向くと、笛を吹きながら歩いてくる者がいる。

近づいてみると14・5歳の少年である。見目美しく薄化粧をし、髪は頭の上に二つの輪を作って結っている。ただ一人田の畔を歩きながら、僧の近くまで来た。

「坊様はなんでこんなところに立っておられますか?」

「私は諸国修行の者ですが、日が暮れたので、どこかに宿はないものかと周りを見ているのです」

少年は少し笑って、

「いまは物騒な世の中です。なかなか宿を貸してくれるところもないでしょう。たとえお坊様だとしても、人を騙そうとしているのではないかと疑われます。うろうろしていれば、怪しい奴だと思われて、命を落とすようなことにもなりかねません。もう夜が更けました。私の家においでなさい」

「それはありがたい。ぜひお願いします」

少年は修行僧を自分の家に案内した。

「もう家の者は寝ているだろうから、こちらからどうぞ」

少年は裏口から内にはいる。中には持仏堂があり、阿弥陀三尊を祭り、机の上には三部経が置いてある。又、先祖の位牌には供物があり花などを供えている。感心して聖は読経し念仏を唱えた。

                       続く

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2009年9月 1日 (火)

奥多摩むかしみち 歌の仲立ち・6

9月1日(火)

「奥多摩むかしみち」を歩いてきました。

ちょっと散歩のつもりだったのですが、軽い山登り程度の体力は必要でした。

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スケッチをしながらのハイキング。左はハイキングコースの途中。右は終点の奥多摩湖。

Tati0009

圧巻は惣岳渓谷。むかしみちは惣岳渓谷のわきを通るのだが、高低差が大きすぎ、斜面の樹木がじゃまをしてよく見えない。吊り橋で対岸に渡り、怪しげな踏み跡をたどって河原に降りると、その一部を見ることが出来る。但し舗装道路や林の中の道を歩くだけの人には、危険なのでお勧めできない。街中を歩くような革靴の人は無理ですから近づかないこと。危険な目にあったとしても自己責任です。

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これは昔トロッコが走っていたという橋。 完全に廃道ですね。この先にトンネルもあります。「むかしみち」というのだから、こういうところも通れるようにしてくれればいいのに、なんて、勝手なことを思います。

とは言え、トロッコ道というのはダム建設のための道だそうで、「むかしみち」ほど古くないんです。「むかしみち」は「甲州裏街道」とも言われた道だそうだ。道の途中には、「耳の神様」やら「牛頭観音」やらさまざまな「地蔵様」など、民間信仰にまつわる遺跡などがあって、いかにも古い道だなあ、と思わせる。

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こんな細い道が続き、時々集落に出る。

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惣岳渓谷。

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もうこれ以上は画像を載せられないようです。全長10キロで、最後の3キロくらいは長い登りになります。これがきつい。

しかし、全体に風情のある山道で、なかなかのコースです。

実は精障者授産施設のボラの予定だったのに、すっかり忘れていました。別に今日でなくても良いボラなので、明日、行くことにしました。

御伽婢子・89

歌の仲立ち・6

前回までのあらすじ 永谷兵部は山名一族に連なる娘牧子とわりない仲になったが、親に認められ正式な夫婦になった。しかるに、応仁の乱が起こり、牧子とその両親は殺された。難を逃れていた兵部は、京都に帰ってそれを知り、悲しみに沈む。

ある夜、兵部のもとに、夢のように牧子が現れた。

「私はあなたと別れてから、田舎武士の手にかかって殺されました。けれども貞節を守ったことを天帝が憐れみ、今日あなたの前に現れました」

兵部は牧子が亡くなった悲しさと、会えた嬉しさで、涙が雨のように降った。夜もすがら語り合って朝になった。

   思はずよまためぐりあふ月かげに

       かはるちぎりをなげくべしとは

牧子返し、

   行末をちぎりしよりぞ恨みまし

       かかるべしともかねて知りせば

こんな嘆きを言うようになるとは思わなかった。こうなるとは分かりませんでしたものね。と互いに涙を流し、牧子は別れて立ち去った。牧子の後ろ姿は、影のようになって、薄れて消えた。

兵部は剃髪して寺に籠もったが、間もなく病によって虚しくなった。

                    終わり

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2009年8月31日 (月)

やっと代わります 歌の仲立ち・5

8月31日(月)

8月は今日で終わり。自民党は今日で終わりかな? それとも再生はあるか? ひょっとしたら分裂かな?

民主党は支持されたと言うより、相手があまりにひどかったのでやむを得ず選ばれた、と言うことだと思う。

昨日、今日のブログは、選挙を取り上げた人が多いだろう。私も時流に乗って平凡なことを書いているわけです。もうよしましょう。

関東地方、今日は寒かったね。朝から雨が降ってサ。台風が今夜、千葉の沖を通るんだって。

精障者作業所Mへ。行きも帰りもズボンの裾は雨でびっしょり。

明日は快晴といきたいねえ。そしたら私は遊びに行ける。「奥多摩むかしみち」なんか、行ってみたいなあ。

御伽婢子・88

歌の仲立ち・5

前回のまでのあらすじ 永谷兵部は外出中に知り合った娘と良い仲になり、夜な夜な会いに行く。しかし父に外出を禁じられる。娘(牧子)は兵部と会えないことで恋煩いになり、痩せ衰える。両親は召使いに聞いて病の原因を知る。

娘がそこまで思い詰めているのなら、その思いを叶えてやろうとして、牧子の親は仲人を立てて兵部の父に申し入れた。

兵部の父は、

「わが子には学問の才能があります。やがて公に仕えて我が家のあとを継がせる者です。妻を持つのはまだ早いでしょう」

牧子の父は、

「兵部さんのことは噂に聞いています。きっと出世なさる方です。私の娘と結婚してくれたら、何もわが家を継げとは申しません。財産もみな差し上げましょう」

こうして話はまとまり、吉日を選び、兵部は婿になった。

    命あれば又も逢瀬にめぐりきて

        ふたたびかはす君が手まくら

娘返し、

    三日月のわれて見し夜の面かげを

        有明までになりにけるかな

又あなたの手まくらで寝ることが出来ると歌にすれば、今は明るいところで逢えるようになったのね、と返す。以後は誰はばかることなく幸せに暮らしていたが、やがて応仁の乱が起こった。

京都の町は戦火に見舞われ、家々は焼かれ、田舎侍の乱暴狼藉はとどまることを知らない。牧子は狼藉者に掴まり汚されようとした。

「私は死んだって、あんたみたいな田舎者の思い通りにはならないわ!」

「なんだと! それなら殺してやろう」

軍兵は怒って、牧子を串刺しにした。

それとも知らず兵部は、難を逃れて田舎に隠れ住んだ。その年の冬、やっと戦が収まったので京都に帰ってみると、妻の家は焼かれて跡形もない。父も母も殺されたという。兵部は1人、牧子の部屋の辺りに佇み、涙に暮れていた。

                        続く 

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2009年8月30日 (日)

一匹芋虫 歌の仲立ち・4

8月30日(日)

ゆっくり起きて投票に行き、午後、傘を持って散歩に出る。

Tati0009

いつも変わり映えしない入間川のスケッチ。書き終える寸前に雨が降り出し、今日はこれだけ。傘を差して帰る。

選挙の結果はどうなるか、まあ民主党が圧勝という勢いなのだそうですが・・・。

今回の選挙はそうでもないのですが、だいたい私は、少数派に属しています。政治的なことばかりではなく、なにごとでも少数派に属する傾向があります。物の見方、考え方が、人と違うのかも知れません。若いときからそんなふうだったので、今では自分が多数派に属しているときは、何だか不安に感じます。少数派に属している方が、精神的にも落ち着くのです。少数派の方が安心、と感じるのも少数派なんでしょうね。

「1万人あるとも我行かん」などという威勢の良い言葉もある。自分の味方は誰もいなくても、1人でも向かっていくというわけです。私にはとてもそんな勇気はありません。そんな場合、私は信念を曲げるわけではありませんが、信念を隠します。でもこれ、信念を曲げないつもりでいても、隠していると、いつの間にか曲がるんです。相手に迎合したい気持ち、世間と歩調を合わせたい気持ちは、きっと誰にでもあるのです。毅然として1人立つ、なんていうのは難しいなあ。

はぐれ者が、自分のことを「一匹狼」などと言います。それはそれなりに格好が良いですけれど、私は1人で世間に向かっていくなどと言うことは出来ません。私は自分を「一匹芋虫」だと思っています。誰でもつぶすことが出来ます。

御伽婢子・87

歌の仲立ち・4

前回までのあらすじ 永谷兵部は外出先で美しい娘牧子を見かけ、たちまち恋をする。牧子も兵部に一目惚れし、塀の内と外で歌を取り交わし、その夜兵部は夜這いをする。そして朝、衣ぎぬの別れをする。

さてそれからというもの、兵部は心もそぞろで、学問にも身が入らない。夜になると牧子のもとに夜這いに行く。そんな兵部にたまりかね、父が怒っていった。

「おまえは学問のために通っていたはずだ。朝家を出て夕方に帰るのが当たり前だろう。それなのに近ごろは、夕方家を出て朝に帰るとは何事だ。定めし、女のもとにでも通っているのであろう。そんなことをしていては、悪い噂が立つばかりだ。もしも相手の女が身分の高い者だったら、家門をけがされたと言って大騒ぎになるだろう。そんなことがあっては、わが家にとっても大問題だ。今日から暫く、家を出ることを禁ずる」

と、兵部を一間に押し込めてしまった。

夜、庭で待っていても兵部はぷっつりと来なくなったものだから、牧子は思い悩んだ。飛鳥川の昨日の淵は今日の瀬となるように、人の心も変わりやすい。私は捨てられたのかしら・・・。それとも兵部さんは病気になったのかしら。心配でじっとしていられない。召使いに様子を調べさせたところ、兵部は父親に閉じこめられているらしいと分かった。

それを知って牧子は嘆き悲しみ、食事も喉を通らず、思い乱れてうわごとを言うありさま。やせ衰え、肌の色つやも落ちた。両親はびっくりして、医者よ薬よと手を尽くしたが、一向に良くならない。何か思い詰めていることでもあるのかと聞いてみても、牧子ははっきりとは答えない。

両親は牧子の枕元の箱を見て、中をあらためたところ、兵部の歌が出てきた。召使いに問いただし、娘の病は恋煩いであることを知った。

                        続く

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2009年8月29日 (土)

今日も雑談 歌の仲立ち・3

8月29日(土)

暑い1日。出かけたいところがあったけれど、あんまり暑いのでやめました。

麻薬で話題の酒井法子は小学生のころ狭山市にいたようです。ボラ仲間のHさんの子供が酒井法子と同級生だったと言うことで、マスコミからの電話がいくつかあったそうです。

さて、明日は選挙。今けたたましい音を立てて選挙カーが窓の外を通りました。どうやら政権交代がありそうですが、長かったなあ、自民党政権。自民党は長かったけれど、首相はころころ変わったね。今の自民党、麻生さんのせいも大きいだろうけれど、小泉さんが本当に自民党をぶっつぶしたのだと思います。

今日は何だか西瓜が食べたくなって、行きつけのスーパーへ行ったら、もう置いてないんです。今日は暑かったけれど、ここのところ涼しかったからかなあ。

そう言えば、俳句では西瓜は秋の季語なんだ。おかしいね。西瓜と言ったらどうしたって夏のイメージなのに。西瓜を秋の季語と主張する人は、俳人は季節を先取りするのだ、なんていうよ。先取りするのは良いけれど、実感とあまりに離れてはいけないだろう。秋に西瓜を食ったって、夏ほど美味いとは感じないサ。

御伽婢子・86

歌の仲立ち・3

前回までのあらすじ 永谷兵部は外出中に立ち休みをした塀の外から屋敷内を覗いたところ、美しい娘(牧子)が目に入った。たちまち一目惚れをしたが、牧子も兵部に気がついて、これまた一目惚れをした。塀の内と外で歌を読み交わし、その夜、夜這いに行くことに決まった。

その夜が来た。兵部が外の塀へ来ると、塀の外にまで伸びている桜の枝に、縄のような細帯が吊してあるのが見えた。兵部がその帯を掴んで塀を越え屋敷内に降り立つと、女は樹の下で待ちわびていた。

   うつつにもおもひ定めぬあふ事を

       夢にまがへて人にかたるな

兵部の返歌。

   また後の契りはしらず新まくら

       ただ今宵こそかぎりなるらめ

私たちが会うことを、人には言わないでね、と牧子。あなたが私と夜を共にするのは今夜だけなんでしょうね、と兵部。

牧子は恨んで、あなたに抱かれるのは千年の後まで同じ想いからなのに、なんでそんなに薄情なことを言うの。あなたのためなら死んでも良いと思っているのに。

   たのまずばしかまのかちの色を見よ

       あひそめてこそふかくなるなれ

という藤原俊成の歌の心よ。あの桜に垂らした帯の「しかまのかちの色」(濃い紺、または褐色)を見たでしょう。あいそめてますます深い色になるの。

牧子は兵部を部屋に導き。下女に酒のよういをさせた。

牧子の親は山名氏の一族だが、武門を離れて久しい。一族の中には大名などもいるが、お互いに付き合いはない。家は豊かで親は牧子のために花園を作り、そこに家を建てた。それがこの家で、親は近くに住んでいる、と牧子は話す。

    世にもれむ後の浮き名を嘆くこそ

        逢世も絶えぬおもひなりけれ

女返し、

    ながれてはひとのためうき名取川

        よしや我身はしづみはつとも

やがて世間に知られたらあなたに悪い噂が立ち、逢えなくなったら辛い、と言えば、どんな噂が立ってもあなたを愛するわ、と体をぶつけてくる。

その夜二人は愛し合った。愛し合う二人に夜明けは早い。

    ちぎりおくのちを待つべき命かは

         つらき限りの今朝のわかれぢ

女返し、

    くらべては我身の方や勝るべき

         おなじわかれの袖のなみだは

別れは辛いね、私の方がもっと辛いのよ、と歌を交わし、兵部は桜の枝を伝って外に出る。

                          続く    

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2009年8月28日 (金)

水遊び(水彩) 歌の仲立ち・2  

8月28日(金)

Imgp1855                   

水彩画の会。航空公園の水場で遊ぶ子どもたちです。私の絵ですから、バックは意識的に変えています。現場の写真も撮りましたが、子どもたちは入れ替えました。乱暴で早いのが私の絵です。

御伽婢子・85

歌の仲立ち・2

前回のあらすじ 永谷兵部少輔色男で学問を好む。いっぽう牧子という美女が万里小路のあたりに住んでいた。あるとき兵部は牧子の家の塀の外で休んでいた。中に人の気配がするので、塀の崩れから覗いてみると、美しい娘が針仕事の手を休めて、桜の花を愛で、小鳥のさえずりを聞いている。そして歌などを詠んでいる。

兵部はその美しい姿を見て、目が離せなくなった。牧子はそんなことも知らずに、庭に降りたが、ふと、兵部と目があった。これまたポーとしてしまい、「この人に抱かれたいわ」と思った。そして、

   我門のそとにもさける卯の花を

       かざしのために折るよしもがな

と、歌を詠む。

外に立っている人を私のもとに引き寄せる方法はないかしら、との歌を聴いて、兵部の心も高ぶり、あり合わせの紙に2首の歌を書いて、塀の中に投げ入れた。

   いのちさへ身の終にやなりぬらむ

       けふくらすべき心地こそせね

   入りそむる恋路はすゑやとほからむ

       かねてくるしき我こころかな

あなたを思う苦しさに、今日にも命が終わりそうだ、という歌である。牧子は短冊に歌を書き投げ返す。

   あじきなし誰もはかなき命もて

       たのめばけふの暮れをたのめよ

今晩来てね、と返した。兵部はその短冊を持ち帰る。夜が待ち遠しいったらありゃしない。

                         続く

何しろこの先が良いところだから、今日はここでおしまい。プラトニックラブなんテエのはないんだね。

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2009年8月25日 (火)

憧れは半分実現する? 歌の仲立ち

8月25日(火)

子供のころ、大人になったら何になりたいと思っていただろうか。長年生きてきたので、大方忘れてしまった。

透明人間なんかにはあこがれたネエ。あのころ透明人間になって何処に行きたいと思っていたのかナア。子供だから、まさか女風呂じゃああるまいし・・・。

少し長じては、詩人とか画家とかにはなりたかったね。但しこれは貧乏と結びついていました。芸術家なのに金持ちなんて言うのは、偽物のような気がしていました。芸術家になれるなら、貧乏でも良いと思っていたのです。

但し、何かになるために努力したことはありません。だいたい努力することが嫌いです。ただ漫然と憧れるわけですナ。

でもその憧れ、半分は実現しましたょ。憧れは、努力しなくたって、半分くらいは実現するのです。その証拠に、私は芸術家には成れませんでしたが、貧乏には成れました。                     

御伽婢子・84

歌の仲立ち・1

浅井了意の物語の主人公は、なんで美男美女ばかりなのでしょうか。これもまた、美男美女の話です。

永谷兵部少輔と言う者が、1條戻り橋付近に住んでいた。21歳になるイケメンで、風流人と言われていた。学問を好み、北畠昌雪法印のようにすぐれた学者のもとに通い、儒学を勉強した。

一方、神祇官の家の近くに裕福な家があった。もとは山名氏1族だったが、今は武門を捨て平和に暮らしている。その家に娘が1人いて、「牧子」という名前である。これがまた美女で、絵が上手で生け花が上手。歌の道も心得、風流を解した。

あるとき、兵部は書を持って、万里小路に詣でた。帰りに牧子の家の辺りを通る。塀の外で休んでいると、中に人の気配がする。塀の少し崩れたところから覗いてみると、ことのほか美しい娘が、縫い物の針を止めて、庭の花を眺め、小鳥の声に耳を傾けている。そして歌を作り、つぶやいた。

   ほころびて咲く花ちらば青柳の

      糸よりかけてつなぎとどめよ

やっと咲いた花が散ったらば、青柳の糸でつなぎ止めなさいと言う歌である。

                      続く

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2009年8月24日 (月)

意識の流れ 邪神を責め殺す・3

8月24日(月)

若い頃は、いつも何かを考えていた。何かを考えていたといえば偉そうだけれども、あの娘の気を惹くためにはどうしたらいいか、などと考えるいる時間が多かった。深い思索にふけっていたわけではない。ただ、気がつくと何かを考えているのだ。人間は、起きているときに何も考えていない時間なんてあるのだろうか、と疑問に思ったほどである。

それがいまはどうだろう。気がつくと、何も考えていないのだ。時々、少しは考えるけれど、あんまりまとまったことは考えませんね。何かを考えているときだって、常に雑念が入ってくる。

今ブログを書いていますが、意識は書くことに集中しているわけでもないのです。そう言えば冷蔵庫の野菜がもう無かったな、明日買いに行かなくちゃ、なんて思いが、ふとよぎります。それからあらためて、さっきまで書いていたことの続きを考えるのです。「考えるのです」と書いた尻から、何だか耳が痒いナアだとか、家の前の99円ショップは模様替えして明るくなったなあ、ァ、いま客が入った、テナ調子で、意識はあっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりします。

今日のブログは、意識がちゃらんぽらんに動くことを主題にしているけれど、何か一つのテーマで書くときだって、頭の中には関係のないことも浮かびます。そのようにいろいろと頭に浮かぶことの中からテーマにあったことを拾い上げて、何とかまとめるのが私のブログかな・・・いつだって、まとまった文章になんかなっていないぞ、テナ声が聞こえそうだ。だから今日も、まとめを書かずに、これで終わり。

御伽婢子・83

邪神を責め殺す・3

前回までのあらすじ 常陸の国、筑波山の麓に小さな社があって、そこの神は散米や御神酒を上げないで通りすぎる者には災いを与える。旅の僧、性海がお経を上げただけで通りすぎると、妖怪が後を追いかけてきて、とり殺そうとした。性海は何とか逃げ切って、鹿島明神に辿り着き、自分がなぜ追われたのか理由を知りたいと祈った。その世の夢に、明神が現れて、家来に言いつけて白髪の老人を連れてこさせる。明神はその老人を責める。「おまえも神の1人だ。なんで国人を苦しめるか。その罪は重いぞ」

老人は平伏して答える。

「確かに私は末社の神だけれども、大蛇に社を乗っ取られました。やむを得ず、傍らの木の根元を住みかにしています。災いを起こしているのはこの大蛇の仕業です。私はとてもこの大蛇を抑える力がありません」

「ならば、なぜそのことを訴えてこないのか?」

「この大蛇は妖術が巧みで、鬼神や悪霊を家来にし、私が訴えに出ようとすると取り押さえられ、住みかに閉じこめられます。今日は明神のお召しなので出てくることが出来ました」

話を聞いて明神はその社に軍勢を差し向けた。数時間後、軍勢は大木に大蛇の首をくくりつけて持ち帰った。その首は5トントラックにやっと積めるほどの大きさである。角は尖り、耳は大きなベニヤ板のようである。口は耳まで裂け、目は焼けただれた鉄板のようである。その目をふさがないで死んでいる。

「訴えはこれで解決」という声が聞こえて、性海は夢から覚めた。

性海が昨日の神社へ行ってみると、社も鳥居も焼き払われて、木も草も折れ、砕けて、300メートルもありそうな首のない蛇が横たわっていた。正夢だったのである。

                          終わり

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2009年8月22日 (土)

俳句大会 邪神を責め殺す・2

8月22日(土)

つばさ俳句会夏季俳句大会。会場は社会福祉協議会館。私は裏方。

小規模な大会ではあるが、狭山市、入間市、飯能市など、近隣の地で指導的な役割を果たしている人が参加してくれる。選句、披講、選評などを行い、午後2時頃から近くの蕎麦屋「溝呂木」に場所を変えて有志による懇談会。「春風」や「秋の風」も良いが、「8月くらいは『戦争の句』を」という意見も出る。

 兄いまも東支那海泳ぎをり  青野三重子

などという句は良い句だと思いました。

御伽婢子・82

邪神を責め殺す・2

前回のあらすじ 性海という僧が筑波山の麓の小社を、お経を上げただけで通りすぎた。ところがその性海を妖怪が追いかけてきて取り殺そうとする。やっと逃げおおせた性海が鹿島神宮に「なぜ自分が追われたのか、そのわけが知りたい」と祈って、軒下に寝る。

その夜、夢を見た。神殿の内陣が開き明神が現れる。

「汝が観音普門経を奉じたのは、しっかりと受け止めた。汝が真相を知りたいと願ったことは、間もなくあきらかになるであろう」

間もなく数十人の人々が空を駈けていくのが見えた。やがて、白髪の老人を連れてくる。

明神は言う。

「おまえも神の端くれだろう。なんで国家の人民を惑わすのだ。神を信じる者にむやみにわざわいをおよぼすなど、もってのほかだ。ましてやうやまいながら通る人にまで難儀させる。ここにいる旅人もお経を奉納したではないか。それなのに妖怪に追いかけさせるとはなんたることか? その罪は軽くないゾ」

                     続く

明日山行なので、準備があります。そのため、今日はこれでおしまい。

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2009年8月21日 (金)

何だっけナア 邪神を責め殺す・1

8月21日(金)

何だっけナア。

近ごろこれが多いんです。さっきやろうと思ったのは何だっけ? 今朝の食事のおかずは何だっけ? あれ?俺が探しているのは何だっけ? テナもんですね。

その一つに、ブログで書く内容があります。さっきまであることを書こうと思っていたのに、今は思い出せません。何だっけナア。

近ごろは「俺も惚けがまわってきた」と口にします。半分は本気ですが、内心は、まだ本当の惚けではないという気持ちもあるわけです。でも、あやしいんだよねこれが・・・。人間は必ず死ぬ。私くらいの歳になれば、いつ死んでもおかしくはない。でも、明日死ぬと思わぬところが甘いのです。惚けも同じ。まだまだと思っているうちに、敵は後ろから近づいてくる・・・のかな?

今日のボラは特養老人ホームS。痴呆症の進んでいる人が相手だった。いつも行っているので顔見知りの人が多い。ああ、この人は前よりも進んでいるなあ、と感じることもしばしば。

認知症の人には、そんな言葉は知らないとしても、自分が認知症になった悲しみがあると思います。惚けたから何も分からないというのは間違いでしょう。

知的障害でも同じです。自分が充分に知的に発達できなかったという悲しみが、本人が意識するしないにかかわらず、あると思います。不治の病にかかった人が持つ悲しみと、それは同じです。認知症の人も、知的障害の人も、それを言葉で表せないだけだと私は思います。

話はまるっきり変わりますが、炎天下の道路工事で地べたを叩いている人と、冷房の効いた部屋でマネーゲームをやっている人とを比べると、本当に社会に役立っているのは、地べたを叩いている人の方だと思うのです。しかし、地べたを叩いている人は、人に馬鹿にされる存在です。辛い仕事に堪えて、食うや食わずの生活を送るのです。安楽椅子に座る人々は、落ちこぼれは本人のせいだと言います。少し環境が違ったら、自分が地べたを叩く方にまわっていただろうなどとは、考えがおよばないのです。

話しが横滑りしちゃったけれど、いつものことです。

御伽婢子・81

邪神を攻め殺す・1

常陸の国(茨城県)笠間郡の荒野に小さな祠がある。後ろには筑波山が迫って社はいつも日陰である。前には沢があり、水は深く、藻が覆っている。その辺りは常に雲が覆い、小雨が降っている。

人々はこの社の神を畏れて、傍を通るときには、必ず散米をし、御神酒を供える。さもなければ、必ず祟りに会う。

明徳年中(1390-1394年)岐阜の僧、性海という者がこの地を通った。元より修行で諸国行脚をしている身なので、袋の中には何の蓄えもない。ただ礼拝しいて、お経を唱えて通りすぎた。

ところが1キロばかり行くと、道が不明になり、あちこち探し歩いているうちに、急に大風が吹き出した。砂を巻き上げ、石を飛ばし、黒雲は空を覆い、霧が立ちこめる。何か怪しげな声を上げて、後ろから追いかけてくる者がある。振り返れば、見たこともないような妖怪が大勢でこちらに迫ってくる。

性海は必死に逃げた。化け物のために命を落とすかも知れないという恐怖に駆られ、お経を唱えながら、ただひたすらに逃げた。どうにかこうにか鹿島明神の社まで逃げると、化け物は去り、雲は切れて晴間が現れた。

性海は鹿島明神に祈りを捧げ、先の社でお経を唱えたのに、なぜ自分を殺そうとして妖怪が追いかけてきたのか、その理由を教えて欲しいと祈った。先の社は邪神を祭っているのか、それとも自分に誤りがあったためなのか、その理由が知りたかった。

その夜は疲れ果てて、他に行く当てもなかったので、、鹿島明神の軒下に寝た。

                            続く

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2009年8月20日 (木)

蝉を釣る ひげ長の国・3 

8月20日(木)

一口に釣りと言えば相手は魚だけれど、トンボ釣りなんて言葉もある。鯉釣りもあって、「出てこい出てこい陸の恋」などと言う。と、まあ、これは冗談だけれど、蝉釣りなんて、人は言いません。

でも私は子供のころ、蝉釣りをやりました。親の蝉を釣るのではなく、今夜脱皮しようとする蝉を釣るのです。

誰でも知っていることですが、蝉は6年か7年土の中で生活し、陸上に出てくると1週間くらいで死ぬんですってね。鳴くのは雄で、親になって4日目くらから鳴き出すのだそうです。雄だけ、死ぬ少し前だけ鳴くんです。それにしてはうるさいね。

  頓(ヤガテ)死ぬけしきは見えず蝉の声  

言わずと知れた芭蕉の句。

  蝉時雨命の限り声限り  

言わなきゃ知らない、ぼんくらカエルの句。

蝉の命が果てるとき、ジジと鳴いて落ちてきます。鳴かないのもいるんだろうけれど、とにかく落ちてきます。落ちたときに完全に死んでいるかと思うと、そうではなくて、触ると羽ばたいたり、鳴き声を上げたりします。まだ命のあるうちに落ちるのです。

蝉が親になる日、地上に出て脱皮しますが、その時の抜け殻は、すでに命はないのに、木の幹などにしっかり爪を立て、まるで意志があるように掴まっています。落ちる蝉とは対照的です。

地下で過ごして7年、今日地上に出ようとする蝉は、地表に向けて穴を掘ります。ありの穴くらいの大きさに、地上に穴を開けます。夜になったらそれを広げて、自分が出られるくらいの穴にして、のこのこと這い出して、樹の幹などにとりつくのです。

蝉が這い出す季節になると、大きな木のまわりにいくつもの穴があきます。直径が1センチくらいの丸い穴が沢山ある樹を探しましょう。但しその穴は、すでに蝉が這い出してしまった穴です。そんな穴の多い樹のまわりに、直径が3ミリくらいのを見つけたらしめたもの。それが今夜蝉が這い出す穴です。夕方、蝉の出る樹の傍で、その小さな穴を見つけるのです。見つけたらその穴を少し広げて木の枝を差し込んでやると、今夜脱皮しようとしている蝉が釣れるのです。

釣った蝉を枝ごと持ち帰って観察すれば、脱皮が見られるでしょう。脱皮する前の蝉に触ってはいけません。上手く脱皮できなくなったり、脱皮しても羽根が縮んだままで伸びなかったりします。経験したので知っています。脱皮した蝉ははじめは白いのですが、朝日に当たると、成虫の蝉の色になります。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・80

ひげ長の国・3

前回までのあらすじ 越前と北海道の間を行き来して商売をしていた商人が、難破してひげの長い人達が住んでいる国に流れ着いた。国主に気に入られ、そこお姫様と結婚し、幸せに暮らしていた。しかしある日、国主が竜王に召されて、生きて帰れぬと言う。商人は国主を助けるために竜宮に行く。そして龍神に国主の釈放を願い出る。

商人は、

「東海第3の海域、第7の島の国主を帰したまえ」

と願う。龍神は役人に調べさせて答える。

「そのような島はないぞ」

「いいえ、長ひげの国があります」

龍神は役人にもう1度調べさせた。役人は言う。

「その海域は、エビの住んでいるところです。昨日、食料にするためにエビを釣り上げました」

竜王は笑い出した。

「おまえは人間なのに、エビに騙されたのか。われわれはむやみに食料をとっているわけではない。天帝から許された物しか獲りはしない。だからそのままにしても良いのだけれど、わざわざ命乞いに来たのだから、おまえの顔も立ててやろう。料理番のと一緒に台所へ行って、見つけたらそれを放してやりなさい」

商人が料理番と共に台所に行くと、さまざまな食材の中に、ひときは立派なエビがあった。商人を見ると、跳ね、踊って、涙を流し、まるで助けてくれと言っているようであった。

商人の願いで、龍神はそのエビを放してやり、商人を龍の背中に乗せて日本に送り返した。

                         終わり

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2009年8月18日 (火)

景気って何? ひげ長の国・2

8月18日(火)

精障者作業所Mへ。

景気が良いとか悪いとかの決め方って、私などの理解を絶する方法で決めるんですね。

江戸時代、明治時代、あるいは戦後まもなくのころまで、景気が良いというのは、庶民に金回りが良いと言うことだったと思います。経済的に庶民が楽になることを、景気が良いと言ったのではないでしょうか?

それが近ごろは違うんですよね。驚いたことに、現在は景気が上向きなんだってサ。給料は下がっている。雇用状況は悪化を続けている。暫く回復しそうもない。それでも景気は良くなっているんだって。

現在の景気という奴は、庶民とは関係のないところにあるんだね。せめて雇用状況だけでも改善されているならまだしも、それすら悪化しているんだもん。その上、働いたって、ワーキングプアーが増えている。格差は拡大し、この日本で、にっちもさっちもいかなくて自殺する人が増えている。それでも景気は回復しているんだって。一体これは何? 資本主義は袋小路に入っちゃったの?

御伽婢子・79

ひげ長の国・2

前回のあらすじ 北海道と越前を往復して商売をしていた商人とその船が、嵐で漂流し、ひげの長い人の住む島に着いた。島の国主は商人を歓待し、娘と結婚してくれと頼み、商人は快諾する。

国主は言う。

「今夜は満月だ。酒宴遊興の時だ。唄え、踊れ」

姫君が女房20人あまりを連れて出てきた。皆美しいのだけれども、女なのにひげがある。商人は1首を詠む。

   さくとても蘂なき花はあしからめ

       妹がひげあるかほのうるはし

しべのない花が咲いてもつまらない、ひげのある女の顔が美しい。国主が笑ったので、満座の者もどよめいた。姫と女房は恥ずかしげにしていた。

この夜、商人は役所の長を任命された。

3年が過ぎた。その後の商人は栄華を極め、人々の尊敬も集まり、ひげのある妻にもなじみ、1男2女を儲けた。

ある日、家中の者がこぞって嘆き悲しみ、妻も悲しみに沈んでいる。一体どうしたことだろうか。家中がひっそりとして音もない。商人が妻に理由を聞くと、

「昨日、海竜王の召しによって、私の父は竜宮に行きました。もう2度と生きて帰ってくることはないでしょう。だからみんな悲しんでいるのです」

商人はびっくりして言う。

「何とか手だてを尽くせば助かる方法があるんじゃないか。そのためには私は命がけでやるよ」

「この難儀はあなた以外に救える人はいません。お願いです。竜宮に行ったくださいな。そして、竜神に次のように言ってください。『東海の第3の海、第7の島、ひげ長の国が滅びようとしています。哀れみを持って国主を帰してください』。竜神は邪悪な者ではありません。ぜひ竜神にお願いして、この嘆きを喜びに代えてください。どうか、一刻も早く竜宮に行ってください」

商人は数人の家来と道案内を連れ、竜宮に赴いた。

竜宮のある島の砂浜は、みな金銀である。人々は体も大きく、着ている物も立派である。竜宮は聞きしにまさる立派な御殿で、玉のきざはしに進むと、龍神が迎えてくれた。

「役所の長というのはおまえか。何の用があってここへ来たのだ」

商人は、第3の海、第7の島の危機について述べ、国司の解放を願いでた。

                          続く

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2009年8月17日 (月)

雑感 ひげ長の国・1

8月17日(月)

精障者作業所Mへ。

昨日の昼、何気なくテレビを付けたら、2人乗りの自転車で旅をする番組をやっていた。そして今流行の「布ぞうり」のことを「わらじ」と言っている。テレビに登場する人物が「わらじ」と言い、ナレーターが「わらじ」という。それをテレビで流すのだから、その番組制作の関係者が、「ぞうり」と「わらじ」の区別がつかないと言うことだ。

言葉は生き物。時代によって代わっていくのだから、仕方がないんでしょう。

このところ芸能人が亡くなったり、麻薬でつかまったりと、話題が多い。最も多く取り上げられているのが酒井法子の麻薬問題。でも、私にとって一番大きな問題は、大原麗子が亡くなったこと。白馬童子(芸名は何だったっけ)もなくなったけれど、やはり大原麗子だな。ファンでした。女優が亡くなって淋しい感じがするのは、夏目雅子以来です。

いつも選挙の時期になると、某宗教団体の人が、投票を頼みに来る。これまで1度も入れたことはないけれど、「ああそうですか。はい、はい」ってなことをいっていた。しかし、もう歳なので、愛想のいい顔をするのもいやになった。今回初めて「いやです、入れません」とお断りする。

それにしても、今度の総選挙、民主党のひとり勝ちになるのだろうか。今度は政権交代をしてもらわなければ困ると思っているけれど、右でも左でも、人々が一定の方向に、わーっと流れていくのは心配だな。われわれ日本人は、集団ヒステリーにかかりやすいような気がしている。

戦争中はみんな熱狂して「鬼畜米英」などと叫び、「大和魂」という精神力で戦争に勝つと信じ、戦後はアメリカ崇拝になった。やがて今度は安保反対で熱狂し、郵政改革では何が何でも小泉だった。みんな集団ヒステリーだ。

そのうち、どこかの国を「討つべし」なんて言うんじゃないだろうね。

御伽婢子・78

ひげ長の国・1(御伽婢子第8巻)

    原作   浅井了意

    現代語訳  ぼんくらカエル

越前の国、北の庄に1人の商人が住んでいた。毎年木綿、麻布を持って松前(北海道)に渡り、昆布や干しアワビと交換して持ち帰った。

ある年、松前に向かう船が嵐に遭い、帆柱は折れて漂流を始めた。幸いにも一つの島に流れ着き、上陸することが出来た。人家はないかと思いながら岸から500メートルも歩いただろうか、多くの人が立ち働く人里を見つけた。

その人たちは、みんな髪が短くてひげが長い。どうやら日本語が通ずるようである。

「ここは何という国ですか」

「長ひげ国」

「国主は何処にいますか」

「1里ばかり先」

住民に教えられていって見ると、なるほど立派な城郭がある。商人が惣門に近づいたら、門番たちが商人に向かって丁重にお辞儀をする。そして見慣れない装束ではあるが正装した者が出てきて、商人を奥に招き入れた。

宮殿の様子は、天上から床まで、金銀をちりばめ、宝石を飾り、紫檀、黒檀、白檀などの香木をふんだんに使い、きらびやかなこと、このうえもない。

「大日本国より、珍客が来られた」

国主の知らせで、一族の者がぞくぞくと集まってきた。いずれも、背が低く、髪は短くひげが長い。幾分か腰が曲がっているように見える。

黄色の栗、紫の菱をはじめとし、山の珍味がうずたかく積まれた。まことに美味で、人間界の食べ物ではない。ただ不思議なことに、海のものがなにもない。

国主は水晶の盃に銘酒を酌み、菊の花を浮かべて商人にすすめて言う

「私には娘が1人ある。あなたはここにとどまって、婿になってくれませんか。栄華は欲しいままですよ」

「仰せに従います」

商人は国主の婿になることが嬉しくてしょうがない。盃を数杯傾けた。

                            続く

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2009年8月15日 (土)

敗戦日 菅谷九右衛門・2 

8月15日(土)

敗戦の日

今日、普通には終戦記念日と言うようです。でも私は、敗戦の日、あるいは敗戦記念日と書きます。確かに終戦記念日に違いないのですが、日本が負けて終戦になったわけです。その負けたことを曖昧にするように終戦記念日といいだしたのではないか、と私は疑っています。言葉を代えることによって「事実を直視するのを避けようとする」、そんな気がするんです。嫌なことでも何でも、事実をきちんと直視することが、人間には必要だと私は思っています。

「おまえにそれが出来ているのか」と言われたら「ごめんなさい」とでも言うしかないのですけれども、言葉のあやで直視を避けようとするのには、抵抗感があります。辛いことでも知られたくないことでも、事実は事実で、しょうがないんだナ。

例年通り、T寺の和尚さんがお経を上げに来てくれる。

その後でどこかに散歩と考えていたのだけれど、テレビで、戦争関連の特集が次から次にあり、結局、家から1歩も出ずにを1日終わる

御伽婢子・77

菅谷九右衛門・2

前回のあらすじ 伊勢の国の柘植三郎左衛門と滝川三郎兵衛は国司の悪政に愛想を尽かし、信長に内通し、国司を滅ぼし、伊勢を信長の国とした。これによって地位を得たが、伊賀の国の反乱で戦死する。1年後、信長の家来、菅谷九右衛門は思わぬところで2人に会う。死んだはずなのにと不審に思って声をかけ、道ばたにござを敷き3人で酒盛りを始める。

酔いが回ったところで、滝川が言う。

「人間は貧しいときは豊かになることを願い、地位が低いときは高くなることを望む。しかし、富貴になると必ず危ない目に遭う。そうかと言って元の地位に帰ろうとしても、なかなか思うにはまかせない。富貴のまま天国に行くなどは、ちょっとやそっとで出来るものではない。後の世に名前を伝えられるほどの手柄のある者ならばともかく、大概は恥を残すことになる。織田家だけを考えてみたって、織田掃部はたいそう勲功のある者なのに、誅せられた。佐久間右衛門は信長公草業の時からの忠臣なのに、追放されて恥にあった。ましてわれらごとき途中からの家来では、その先は知れたものではない」

さらに滝川は言葉を継ぐ。

「下間筑後守(シモヅマチクゴノカミ)は越前の朝倉に味方をしたけれども、朝倉が敗れてからは、平泉寺に隠れて跡をくらまし、仏法に帰依して道人になった。こんな歌を作っている。

    梓弓ひくとはなしにのがれずば

        今宵の月をいかでまちみむ

戦に明け暮れていたら月の出を待つようなことは出来なかったと、名を捨て道を究めた。荒木摂津守の家来、小寺官兵衛は主君の乱心を諫めきれずに、髪を落として僧になった。こんな詩を残している。

    四十年来謀戦功

    鉄冑着尽折良弓

    緇衣編衫靡人識

    独誦妙経殉梵風

(ヨンジュウネンライセンコウヲハカリ、テッチュウヲツクシテリョウキュウヲオル、シエヘンサントナビキヒトノシルコトナシ、ヒトリアキラメテミョウキョウヲヨミボンフウニシタガウ)

戦を捨てて仏法に従ったこれら2人、逆心の君に仕えながらもよく災いを逃れた。思慮の深いではないか」

柘植は笑っていった。

「伊賀の反乱などは、大した事件ではなかった。そんな例を挙げては、われわれの方が恥ずかしい」

滝川が答える。

「いや、今はそれを言うときではない。とにかく呑みましょうや」

更に3人は盃を重ねた。菅谷は2人に向かって、「今の気持ちを歌にしてくれ」頼んだ。と

柘植の歌。

    霜露ときえての後はそれかとも

       くさ場より他しる人もなし

滝川三郎兵衛の歌。

    うずもれぬ名は有明の月影に

       身はくちながらとふ人もなし

いずれも死んでからは思い出してもくれない、と嘆く歌である。

やがて酒がつきたので、2人は別れを告げた。50メートルくらい歩いただろうか、二人の姿は、跡形もなく消え失せた。そこでやっと、菅谷は二人が討ち死にした者であることを思い出した。菅谷は帰宅してから、僧を招いて、2人の霊を懇ろに弔ったということだ。

                        終わり

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2009年8月14日 (金)

私も夏休みです 菅谷九右衛門

8月14日(金)

私は仕事をしていないわけですから、毎日が日曜日みたいなものです。それでも、ボランティアをしたり、趣味の会へ行ったりで、何かしらやることがあります。ところが今週はそれらもなくて、私も夏休みです。

昨日、お墓参り。明日、お坊さんがお経を上げに我が家に来ます。それだけが用事で、後は家事くらいのものです。

Tati0009

毎度おなじみの入間川のスケッチです。

少し暑かったのですが、西武電車で仏子駅まで行き、そこからなるべく入間川沿いに歩くようにして、狭山川越自転車道まで、何とか繋いでみました。残念ながら川の土手ばかりで歩き通すというわけにはいかないようです。

御伽婢子・75

菅谷九右衛門

天正年中(1573-1592年)のことである。

伊勢の国の国司は具教(トモノリ)公でその御所を武井の御所と言った。国司の甥は民部少輔具時(トモトキ)と言い、南伊勢の木作りと云うところに住んでいた。

具時の郎党に、柘植三郎左衛門および滝川三郎兵衛という者がいた。二人とも、武勇、知謀にすぐれていた。

国司具教、甥の具時共におごりがあり、百姓を苦しめ、おべんちゃら言うものを可愛がり、国の行く末も危なく思われた。そこで二人は、信長に内通し、国司を滅ぼし、信長に認められて、高い地位を得た。

隣国伊賀に反乱が起こり、武井の残党や近郷のあぶれものなどが集まり、要害に立てこもった。信長はこれを討とうとしたが、敵もなかなか強くて、柘植と滝川は討たれてしまった。その後、反乱者と信長の和議が成立し、伊賀は信長のものとなった。

それから1年ほどたったとき、信長の家来、菅谷九右衛門が所用で山田郡に行ったとき、柘植、滝川の2人にばったりと出会った。2人は死んだはずなのに、夢でも見ているのかと声をかけた。

「柘植さんと滝川さんではありませんか?」

「やあ菅谷さん。こんなところで会いましたか。久しぶりですねえ。酒でも飲みましょうや」

柘植はそう言うと、小僧に小袖を持たせて、酒を買ってこさせた(つまり、物々交換です・ぼんくらカエル註)。3人は酒屋に借りたむしろを道ばたの草の上に敷き、酒盛りを始めた。

                             続く

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2009年8月13日 (木)

早朝散歩 墓参 死んでからも愛し合う・3

8月13日(木)

早朝散歩

朝5時過ぎ、ゴミ出しをした。空気は爽やかで、急に散歩を思い立った。

5時45分、半袖、半ズボンで家を出る。目的地は智光山公園。家の横の道をまっすぐ進むと、智光山公園の裏に出る。いつもの散歩コースである。

西武線を横切り、国道16号を横切り、入間川の橋を渡る。ここで気が変わって、入間川沿いに歩くことにした。但し朝食前に帰るのだから、遠くまでは行けない。Tati0009   

散歩コースの変更には、別段理由はない。気分の問題です。

遠くの空で陰のような者がふわっと動いたような気がしたがすぐに消えた。こんな時私は、アル中で幻覚が見えたるようになってしまったのかと、一瞬心配になる。しかし事実は、多数の鳥が空を旋回しているだけでした。こちらの目が悪くなっているせいもあるのでしょうが、角度によって鳥の集団が、見えたり消えたりするのです。

鳥と言えば、入間川の流れの中の石の上に、羽根を広げて動かない鳥がいました。誰かが模型でも置いたのかと思いましたが、じっと見ていると、たまに首を動かしたり、体の向きを少し変えたりします。どうやら風の方向に向かって羽を広げているようです。羽根を広げるのは飛び立つときだと思っていたのですが、違う場合もあるのですね。

それにしても、この鳥は何でしょうか。クロサギにしては、首や足が短いと思いました。家に帰ってから図鑑で調べてみると、カワウという鳥が、羽根を乾かすためにこんな格好をするんだそうです。この鳥を見たのが、今朝の早朝散歩の第1の収穫かな。

7時10分帰宅。1時間25分の散歩でした。

墓参

お彼岸の墓参。わが家の墓は高尾なので半日はかかります。他の季節だと、墓参の後、高尾山に昇ってみたり、なんやかやその辺の散歩をしたりするのですが、何しろ暑いので散歩はカット。

代わりに国分寺で「殿ヶ谷戸公園」に寄りました。駅からすぐで、湧水池と樹木が多いのがよい。

Tati0011

 

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御伽婢子・74

死んでからも愛し合う・3

前回までのあらすじ 奈良の桜田源吾は猿沢の池で見かけた娘に恋をし、相思相愛になった。源吾の伯父はその娘を息子彦八の嫁にと、仲人を立てて申込み、親の承諾を得た。源吾と娘は駆け落ちしたが、役所の裁定で、娘は彦八の嫁となる。落胆のあまり娘は死んでしまうが、源吾はそれを知らず、もう娘は俺のことなど忘れただろうと嘆いている。

ある日の夕方、源吾の家の戸を叩く者がある。開けてみると、娘とその乳母である。娘の姿は、昔と少しも変わらない。娘は言う。

「彦八さんの家にいても、あなたのことばかり思い出されて、辛くてしょうがなかったの。だから逃げてきました。またこの家に置いてくださいね」

源吾は嬉しくて嬉しくて、娘と手を取り合って泣いた。

暫くして、彦八の家の者が郡山に来たとき、源吾の家の前で、乳母を見かけた。それを彦八に告げたが、にわかには信じがたい。乳母も娘と前後して死んだのに、源吾の家にいるはずがない。半信半疑で源吾の家を覗いてみたら、確かに、かっての妻とその乳母がいる。

彦八は家に入り、源吾にいった。

「妻と乳母はとうに死んで、墓の中にいる。それがここにいるとは怪しいことだ」

彦八はなにを言うのだと思って、源吾が部屋の方を見ると、妻と乳母は、跡形もなく消えていた。

それまで一緒に暮らしていたのは、幽霊だったのである。

その後、源吾と彦八は高野山に籠もり、再び山を出ることはなかった。

                       終わり

ぼんくらカエルの一言

テレビで言っていたが、どこかでアンケート音ったら、幽霊を信じる人の方が、信じない人より多いんですってね。ほんとかなあ。幽霊を信じるなんて、1割にも満たない少数派だと思っていたのに。

私は御伽婢子の現代語訳をやっていても、お話として書いているだけで、全く信じません。見たら信じますけどね。それでも、幻覚と思うかもしれません。                                          

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2009年8月12日 (水)

盗むこと 死んでからも愛し合う・2

8月12日(水)

盗むと言っても、泥棒のことではありません。

昔、職人の技術は盗むのが基本でした。芸人の世界でも同じだったでしょう。

昔、親がその子を職人にしようと思えば、10代のうちに親方のもとに送り込みました。その子は見習いとして、使い走りをしたり、子守をしたり、さまざまな雑用をしながら、親方や兄弟子たちの仕事ぶりを見ました。まだ仕事を与えられなくても、見習いは内心の欲求によって、頭の中で親方や兄弟子たちと、一緒に仕事をしているのです。ですから見習いが、始めて単純な仕事を任されたとき、すでに素人ではないのです。

近ごろは、住み込みで雑用をしながら仕事を覚えるなどと言うことは無くなりました。職種によっては、学校で教えるなどというのも多くなりました。良いか悪いか分からないけれど、時代による変化ですね。

特殊な技術になると、父子相伝とか一子相伝、などと言うこともありました。他の弟子には教えず、自分の子供だけに教えるのが父子相伝。さらには、子供のうちのひとりにしか教えないというのが一子相伝。

そうして家業を守ったりしたんですね。今そんなことをしたら、技術自体が滅びます。一子相伝の技術などは、それこそ盗まなければならなかったわけですけどね。

御伽婢子・73

死んでからも愛し合う・2

前回のあらすじ 奈良の桜田源吾は、猿沢の池で見かけた娘を見初め、娘の方でも源吾を好きになった。伯父の津田長兵衛はその同じ娘をわが子彦八の嫁にしたいと考えた。仲人を立て、正式に申込、娘の親もそれを受け入れた。しかし娘が病気になったことから源吾のことを知り、娘のために2人を駆け落ちさせる。

さて、仲人が縁談を進めようとすると、、母は、娘が乳母と共に誰かにさらわれたという。その話を聞いて津田は、源吾が娘に懸想していたことに気づいていたので、さては源吾だなと思った。

そうこうしているうちに、娘の母は病でなくなった。その弟が後を取り仕切ったが、源吾夫婦も陰ながら野辺の送りに出た。それを見つけた津田が二人の後をついて行き、郡山に棲んででいることを見届ける。

津田は奈良の役所に訴えて、源吾と対決した。津田の方が正式な仲人を立てているので、源吾に勝ち味はなかった。娘は彦八の妻にされてしまった。

娘と乳母は深く悲しみ、病気になり、2人とも間もなく死んでしまった。彦八も大いに悲しみ、2人の墓を同じ寺に作り、懇ろに弔った。

そんなことを知らない源吾は、今頃娘は、私のことも忘れて、彦八と仲良くやっているだろうと考え、ひたすらに恨めしかった。

    なびくかと見えしもしほの煙だに

         今はあとなき浦かぜぞふく

私に靡くと見えた塩焼きの煙は跡形もなく消えて、今は風が吹くばかり、などと嘆いていた。

                           続く   

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2009年8月11日 (火)

無駄は無駄ではない 死んでからも愛し合う・1

8月11日(火)

いつも書くことだけれど、私は、やらなければならないことはやりたくないし、やらなくても良いことはやりたくなる。小学生のころからそんな性格でした。勉強は嫌いではなかったと思いたいのですが、学校の勉強はしたくありませんでした。

いつかも書いたと思うけれど、中学3年の夏休み、岩波文庫の「哲学史」上下2巻を買ってきて、ノートをとりながら読みました。今読んだって分かりっこないものを、当時の私に分かるはずがないのです。そんなことをしたって、別段学校の成績が上がるわけではないし、無駄と言えば無駄なんです。

でも、「哲学史」を読んだことは、その後なにかと役に立つことがありました。読んだことが財産になったんです。たとえば読んでいる本の中で、「スコラ哲学」なんて言葉が出てきても、ははあ、なんて思うわけです。「弁証法」なんて言葉を見ると、ソクラテスやヘーゲルやマルクスを思うわけです。どの弁証法だ、なんてね。

なーに、今だって分かりゃあしないよ。感じるわけだ、なんとなく。

と、まあ、大層なことを書いたけれど、何のことはない、今日は掃除をしたのです。家事の中で、一番したくないのは掃除で、1日のばしにしていて、埃が目立ってきて、どうにもならなくなって掃除をするのです。

そして、やらなければならないことはやりたくなくて、やらなくても良いことはやりたがる自分の性格を、再確認したわけです。

掃除は、やらなければならないことでした。やらなくても良いこととは、たとえば今日これから書く「御伽婢子」の現代語訳です。こんなもの誰に頼まれたわけでもないし、誤訳、珍訳何でもありの現代語訳なんて、わざわざ下調べまでしてやるなんて、時間も労力も、無駄のようなものです。

まあ、しかし、ここで私は居直るのです。人生は、無駄も含めて人生である。無駄のない人生なんて、山葵の効かない刺身みたいなものだ。どんな無駄をしているかと言うことで、その人の人間性が分かる場合だってある。それに、大きな意味で言えば、無駄というのは、本当は無駄ではないのだ。なんてね。

御伽婢子・72

死んでからも愛し合う・1

奈良に桜田源吾という者がいた。25歳になるが独身で、父母は既に亡く、独りで住んでいた。源吾には津田長兵衛という伯父がいて、伯父もまた源吾と同じ歳の子供を持っていた。彦八である。源吾と彦八は仲がよかった。

あるとき、源吾は東大寺に詣で、帰りに猿沢の池にさしかかった。見ると美しい籠が池の縁に泊めてあり、中から白い手を伸ばし、幾分赤みを帯びた指で鯉に餌をやっている。

源吾が立ち止まると、女は乗り物の戸を開いて源吾を見た。なかなかの美人である。やがて女はお付きの者に籠を担がせて立ち去った。源吾はそれとなく後を附いていくと、3条通りの筒井という者の家に入った。

源吾は娘のことが気になって、いろいろと手ずるを求め、その様子を調べると、幸いなことに、娘の乳母は源吾の知っている人だった。娘の父は河内の戦で討ち死にし、母ひとり、子ひとりであるという。

源吾は乳母に、二人の仲を取り持ってくれるように頼んだ。源吾は美男子であるし、金持ちでもある。それを知っている乳母は、快く引き受けてくれた。

源吾は、

   いさり火のほのみてしより衣手に

         磯辺のなみのよせぬ日ぞなき

「一目見てから忘れられません」といった意味の歌を書いて、乳母に持たせた。娘はその書き付けを乳母から受け取ると、顔を赤らめて、袂に入れた。

ところで、その娘のことを、伯父の津田長兵衛が聞き知り、彦八の嫁にしたいと、正式に仲人を立てて申し込んだ。津田も武門の末で、立派な人なので、娘の母は、彦八と結婚させることとした。

娘は鬱々として楽しまず、乳母には、

「源吾さんのところに行きたいわ。それが出来ないなら死んだ方がまし」

と言ったきり食事もとらず、薬も飲まない。乳母に聞いて、始めて事情を知った母は、何とか娘を助けたいと考えた。そこで乳母と心を合わせ、源吾と娘を駆け落ちさせることに決めた。

源吾は大いに喜び、娘と乳母を連れて、郡山と言うところに隠れ住んだ。

         

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2009年8月 9日 (日)

横瀬町散歩とカタカナ語 霊魂と契る・3

8月9日(日)

Tati0009

秩父の横瀬町の散歩。散歩と言っても、たいして歩いたわけではなくて、ウオーター・パークでスケッチをして、武甲の湯に入って帰ってきただけ。それにしても、「水遊び公園」とか「親水公園」とでもすればいいのに、「ウオーター・パーク」なんて名前を付けるのは、どういう神経なのかねえ。

何の意味もなく、カタカナを言いたくなるのが、時代の雰囲気なのですね。白状しますが上の段で「なんて名前を付ける」と書いたとき、私の頭には、「ネーミング」という言葉が最初に浮かびました。私もカタカナ語に毒されていると、時々思います。

漢字は日本語を豊かにしました。大和言葉だけではわれわれは自分の考えや経験を表現できないでしょう。理論的な文章も書けないでしょう。

カタカナ語は、日本語を豊かにしていると言えるのだろうか。学術論文などでは、どうしてもカタカナ語が必要なこともあるのでしょう。しかしそれだって、日本人相手に書く場合には、何とかして日本語に訳す努力をすべきではないかと私は思います。

今の人は、カタカナで表現する方が格好良いと思っているんだよね。戦前の人が、庶民には分からないような難しい言葉や漢字を使うことが、格好良いと思ったようにね。

文章でも講演でも、わかりやすさより、なんだかよく分からないけれどもなんとなく良さそうだ、と感じさせるのが良いんだね。受け取るわれわれの方も、理解して動くよりは、なんとなく、感じで動くことの方が多いからね。

スケッチは、ウオーターパーク。

御伽婢子・71

霊魂と契る・3

前回までのあらすじ 小山田記内は家の前を通る美人と懇ろになる。やがて女が記内の家に来て忍び会う仲になった。半年ばかりする内に、女は昼間も公然と記内の家にいるようになった。

ある夜、いつものように女は来たが、どうにも浮かない顔をして、涙ぐんだりしている。

「どうしたの?」

記内が聞けば、

「もう、別れなければならなくなりました」

と答える。

「何だって! いついつまでも心変わりしないと誓った仲なのに、なんでそんなことを言うんだ」

「今はもう隠しておけません。本当のことを言います。実は私、3年前、17歳で死んでいるの。霊魂がこの世に残っていられるのは、3年間に限るの。明日はその3年目。もう会えないわ」

と泣き伏した。記内は相手が幽霊だったと知っても、何の恐ろしさも感じず、ただ別れの悲しさのみがつのる。

女は白銀の盃を形見として渡し、

    面影のかわはらぬ月に思ひでよ

        契りは雲のよそになるとも

二人が愛し合ったことは雲の彼方になってしまっても、月を見たら思いだしてね、と詠えば、記内はかたみに小袖を与えて、

    待ちいづる月の夜な夜な其のままに

       ちぎり絶やすなわがのちの世に

月が決まって出てくるように、私のことも忘れないでくれよと、泣き明かした。

記内が女の墓のありかを聞くと、甚目寺と答えて、女はかき消えた。

後日、記内は甚目寺へ行ってみたが、それらしい墓はついに分からなかった。

    たのめこしその塚野辺は夏ふかし

        いづこなるらむもずのくさぐさ

当てにしてきたのに夏草はぼうぼうとして、何処が墓なのかさっぱり分からない。記内は泣く泣く家に帰った。それからは、女のことばかり思って、病に伏し、薬も食事もとらず、ただ女のところに行きたいと言うのみだったが、間もなく亡くなった。

                           終わり  

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2009年8月 8日 (土)

ベランダの野菜 霊魂と契る・2

8月8日(土)

ベランダに、ナス、キュウリ、ピーマンの苗をそれぞれ1本ずつ植えたが、その内のナスとキュウリの苗を、切りました。

植えた時期が遅かったせいもあるのかどうか、茄子の出来は最低で、実が3個成っただけです。キュウリは茄子よりましとは言うものの、収穫は5個くらいかな。ピーマンだけはまだ成り続けている。この先も10個以上は穫れそうです。

先月末プランターに分葱を植えましたが、芽が出てきました。ニラや葱は、1度植えたらいつまででも収穫できます。根を引き抜かず、地上部だけをハサミで切って収穫すれば、そこからまた伸びてきます。何回もそれを続けると、葉が細くなってきますが、根分けして植え直せば、また元のようになります。その意味では、ベランダ向きの野菜かも知れません。

パセリなどは、1株植えて、時々必要分だけ枝を欠いて収穫していれば、1年じゅう収穫できます。琴屋時代に30坪ほど農園を借りて野菜作りをしていたので、多少の知識があります。紫蘇なども楽に出来そうな気がします。これからは、そんな野菜を作ってみようかと思います。

御伽婢子・70

霊魂と契る・2

前回のあらすじ尾州の人、小山田記内はなかなかのイケメン。家の前を通る美人を家に連れ込んで、わりない仲になった。明け方に女は帰る。

4・5日して、また女がやってきた。今度ははじめからうち解けている。そんなことを続けている内、女は毎晩通ってくるようになった。

「こんなに深い仲になったのだから、今度は私があなたの家に行きましょう、家を教えてください」

と記内が言えば、

「私の家は貧しくて狭の。兄の家なのよ。でも、その兄は亡くなり、今は兄嫁がやもめ暮らしなの。そんなところに来てもらえないわ」

と答える。なるほどと記内は思い、二人の関係はそのまま続いた。

この女は針仕事が上手で、記内の身につける物をよく作ってくれた。記内はまわりの者に、衣類を褒められるようになった。女は可愛らしい少女を連れてくるようになったが、この少女も、針仕事が得意だった。

半年ばかり過ぎると、女は家に帰らず、昼も居続けるようになった。

「夜来るのさえ人目を忍ぶ中なのに、昼も帰らないのでは、兄嫁が変に思うんじゃないかなあ」

と記内が言えば、女は、

「そんなに人の家のことを気にしないで。あなただって心変わりするかも知れないし、先のことは分からないわ。私はあなたを愛しているから、こうやって通ってくるのよ」

と言う。記内は嬉しくてしょうがない。

                         続く

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2009年8月 7日 (金)

今日の失敗 霊魂と契る

8月7日(金)

水彩画の会。

今日、重大な失敗を二つしました。そのうちの一つを書きます。

朝、天気がよかったので、ベランダの植物に水をやり、布団を干しました。

午後は水彩画の会。帰りは雨が降り出しましたが、Yさんの車で送ってもらったので、私は濡れずに済みました。代わりに濡れたのが、ベランダの布団です。干したときには、昼には取り込まなければと思っていたのに、忘れたんです。

飯能市では1時間に百何十ミリとかの雨で、記録的だったとニュースで言っていました。我が狭山市は飯能の隣です。一時は本当に激しく降りました。おかげで布団はびしょ濡れ。

びしょ濡れになった布団は、それでお釈迦と思われがちですが、天気の良い日に数時間干すと、完全に乾きます。なぜ知っているかと言えば、過去にも布団をびしょ濡れにしたことがあるからです。

ドジのトホホ人間は、ドジをしても慌てないのです。でも、やっぱりトホホ。

御伽婢子・69

霊魂と契る・1

尾州清洲と言うところに、小山田記内という者が住んでいた。

ある夕方、門に立ってぼんやりと外を見ていたら、17.8歳のイケメンの女が西から東の方に歩いて行く。次の日もまた、その女が西から東に通っていった。

記内も、いささか評判のイケメンである。女は記内をチラと見て、ポット顔を赤くして通りすぎた。

次の日も、その次の日も、記内は門に立ち、女は通りすぎた。4.5日たって、記内は意を決して女に近づき、手を握ってみたら、女も軽く握り返した。

「あなたは毎晩ここを通りますが、何処にお住まいですか? そして、何処へ行かれるのですか?」

「私に家は西の方にあります。用事があって、東の村に参ります」

記内は「うちへ寄っていきませんか」などと言って誘ってみたら、女は「嫌」とも言わず着いてくる。二人は、その夜の内に出来てしまった。

明け方、女が帰るとき、

「今度は、いつ来てくれるのですか?」

「人目を忍ぶ身です、決まった日に必ず来るとは言えません」

   なほざりに契りおきてや中なかに

         人の心のまことをも見む

と歌を詠んだ。記内は、歌までもと思っていなかったので、ますます心を惹かれ、その返歌。

   言いひそめて心かはらば中なかに

         契らぬさきぞ恋いしかるべし

                          続く

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2009年8月 6日 (木)

平凡だけれど 飛び加藤

8月6日(木)

広島原爆忌。誰でも日記に書いているだろうから、私は書かないのが良いのかも知れない。でもやはり、忘れてはならない日。

戦争は絶対悪。核兵器は廃絶すべきもの。庶民の多くは、そう思っているのではないか。頭の良いひねくれ者が、核兵器の戦争抑止力なんて言っているうちは駄目。知性を持っているなどとうぬぼれている人類が、いかに地球の生命を脅かしているか。人類が核兵器を廃絶できなければ、核兵器が人類を殺すだろう。

核兵器と公害が、人類を滅ぼしかねない2大要素。

平凡だけれど、私の意思表示をするとしたら、このように言うしかない。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・68

飛び加藤

越後の上杉謙信のところに、常陸の国から忍者がやってきた。もっとも得意とするのは手品である。たとえば、広場に曳きだした牛を、この忍者はのみこんで見せた。見物人が驚いていると、松の木に登って見ていた者が言った。

「牛なんか呑んでいない。牛の背中に乗ってるだけだ」

忍者は腹を立て、その場に夕顔の種を蒔いた。その種はまたたく間に芽を出し、蔓を伸ばし、花が咲き、実が成る。忍者は刀を抜いて、夕顔の蔕(ヘタ)を切り落とした。すると、松の木に昇っていた男の首が落ち、見物人は眉をひそめた。

謙信はその忍者を呼び、なにが出来るかを尋ねた。忍者は「飛び加藤」と名乗り、「忍術の奥義を究めた」という。

謙信は言った。

「ならば、今夜直江山城守の屋敷に忍び込んで、奥に立てかけている長刀をとってきてみろ」

山城守は四方八方に隙間無く見張りを置き、イノシシにも向かっていく犬を門の中に放って、用心していた。

飛び加藤は持っていった餅で犬を毒殺し、誰にも気づかれず長刀を盗んだばかりでなく、召使いの11歳になる女の子まで眠らせて、背負って帰ってきた。

謙信は、敵を攻めるときは重宝だけれども、内通されたらやっかいなことになる。信用できる男ではないと感じて、直江山城守に殺させようとした。飛び加藤はそれを察して、逃げてしまった。

その後、甲府の武田信玄のところへ行って奉公したが、素性が悪くて、打ち殺されたと言うことだ。

                         終わり

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2009年8月 5日 (水)

俳人にとっての季節 あの世で官職に就く・3

8月5日(水)

夏とは言っても、からっと晴れることはなく、梅雨を引きずっているようなじめじめした日が続いている。

こんな中で、明日は立秋。暦の上では明日から秋。だから俳句を作る人達にとっては、明日から秋と言うことらしい。信じられないよね。

私は高齢になってから俳句を始めたので、どうしても俳句を外から見たがる。変だと思うところはいろいろあるけれど、その最たるものは、もっとも暑い盛りを秋と言うことだ。

明日から秋だなんて言うのは、一般の感覚から大きく離れていると思う。暑いから夏、寒いから冬、と単純に考えてはいけないんだってサ。暑さの中で秋を探る、それが季節に敏感な俳人のあるべき姿だそうだ。

デモね、暦通りに四季を分ける俳人の考え方も、硬直しているように思うよ。それで無理やり、秋を探ったりするわけだ。温暖化がもっと進んでも、俳人たちは立秋が過ぎたら、大汗をかきながら秋を探るんでしょうね。たとえば朝晩のちょっとした風とかにね。時には熱中症で倒れたりしながら秋を探るんです。それが季節に敏感な俳人のあるべき姿らしいです。変だねえ。

御伽婢子・67

あの世で官職に就く・3

前回までのあらすじ 芦沼次郎右衛門は廉直な代官だったが、死んでからはあの世で官職に就いた。その甥庄八が代官職をついだが、悪代官だった。天帝は庄八を討ち果たそうとしたが、芦沼の願いで思いとどまり、庄八の髪を剃って坊主にした。信心もなしに、にわか坊主になった庄八は、命乞いをしてくれた芦沼の恩も忘れ、墓参りもしない。空念仏を唱える庄八のもとに芦沼が現れて説教をする。

芦沼の説教に庄八は返す言葉もない。芦沼はあの世で「修文郎」という役職に就いている。この世で不義不全を行ったものを調べる役割だらしい。

「だからあの世に庄八が来ても、贔屓するわけにはいかない。今のままなら地獄へ送るしかない」

と言う。その他、あの世の様子などを語り、道心堅固にして不全を行ってはならないこと、地獄に堕ちるな、と説教して姿を消した。

これにより庄八は目を覚まし、心を込めて念仏を唱え、極楽往生を遂げたという。

(最後はだいぶ端折りました)

                         終わり

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2009年8月 4日 (火)

入間川のスケッチ あの世で官職に就く・2 

8月4日(火)

Tati0009

Tati0010

精障者授産施設リバーサイドへ。ここへ来たあとは、入間川河川敷を散歩して帰るのが楽しみ。先月に続き、今日も川上に向かって歩きました。

途中、何度か買ったことのある酒屋でビールを買おうとしたら、今日は休みでした。それから見る景色は何処もいまいちで、スケッチする気にもなりません。仏子の近くまで行ったらスーパーがあって、ビールを買うことが出来ました。二つのスケッチは、ビールを飲みながらのスケッチです。

「酒無くてなんで己が桜かな」の心境。

藤村に「千曲川のスケッチ」という作品があります。「入間川のスケッチ」と響きは似ていますが、中味は・・・まあいいでしょう。私は私なのだから。

御伽婢子・66

あの世で官職に就く・2

前回のあらすじ 芦沼次郎右衛門はさほど学問があったわけではないが、正直一筋に代官を務めた。芦沼が病死すると、その甥庄八が代官になった。庄八は欲深く、民百姓を苦しめた。ある夜、昭八の夢の中に10数人の手勢を連れた大将が現れ、庄八の首を取ろうとする。そこへ芦沼が現れて命乞いをし、大将は許して、代わりに庄八の頭を剃る。目が覚めて頭に手をやると、髪はきれいに剃られていた。庄八は心ならずも坊主になり、光明寺に籠もって念仏を唱える。

庄八が念仏を唱えているところに芦沼が現れた。

「おまえは仏教に帰依したのに、まだ私の墓にも参っていない。明日必ず参りなさい。おまえは欲が深く、民百姓を苦しめたので、天帝はおまえの首を討ち、地獄に落とそうとした。それを私が助けてやったのに、その恩を忘れ、墓参りもしないとは何事か」

庄八は一言もなく、ただうなだれるばかり。ややあって、庄八は聞いた。

「あなたはあの世の役人のように見える。どんなことをしているのですか?」

「この世で1芸1徳のあったもの、正直で慈悲深かったものは、死んでからそれぞれの役職に就く。たとえ優れた能力があっても、、心の邪なものは地獄に堕ちる。また、仏を信じても、自分の流派だけが正しいと考え、他をそしるものも同じである。

私はあの世で、修文郎と言う官職にある。人間の善悪を記録する係だ」

                          続く

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2009年8月 3日 (月)

古橋選手、橋詰選手 あの世で官職に就く・1 

8月3日(月)

気がつくと、今日は母の命日でした。死後55年もたつのに、母のことは、いまだに思い出します。母は永遠に母です。

私は、とうの昔に、父の年齢を超えました。母に至っては、倍以上の年月を生きています。それでも、いまだに親は親ですね。

水泳の古橋選手がなくなった。私たちにとっては、戦後すぐの英雄でした。水泳の記録なんて、ほかにはなにも知らないのに、1500メートルで出した古橋選手の驚異的(当時としては)世界記録18分19秒0というのを、いまだにそらんじています。

古橋選手の出場する水泳大会の実況放送やら録音放送やらを、ラジオのかじりつくようにして聞いたものです。

その古橋と、いつも争って、いつも2位になる選手がいて、橋詰選手と言いました。仮に橋詰選手と書きましたが、「橋詰」なのか「橋爪」なのか、それとも他の字なのか分かりませんが、あの「はしづめ選手は」今どうしているのでしょうか。お元気なのか、亡くなられたのか、陰の英雄についても知りたいと思います。

精障者作業所Mへ。

御伽婢子・65

あの世で官職に就く・1

芦沼次郎右衛門重辰(アシヌマジロウエモンシゲトキ)は、鎌倉の管領が上杉憲政のときに、神奈川県藤沢の代官をしていた。

芦沼は、無欲で公正で、身辺はいつも潔白だった。妻子はなく、まして妾などもなかった。

さほど学問があるわけではなかったし、後世のためにどうこうしようなどと考えてもいなかった。ただ、生まれつき正直で、百姓を憐れみ、自分だけよい思いをしようなどとは、少しも思っていなかった。

その芦沼が亡くなって、甥の三保庄八があとを継いだ。庄八は芹沼とは反対に、百姓を虐げ、自分の利益になることばかりを考えていた。

ある夜、庄八の夢の中に、大将が現れ、「庄八は人の世の道に外れている。よって、このものの首をはねよ」と手勢のものにいう。そこへおじの芦沼がやってきて、大将にむかっていった。「庄八の罪は重いけれども、もう一度立ち直る機会を与えてください。そのため、この者の髪を刷らせます」

「おまえの甥ならば、今は許してやろう。けれどもこれから心を入れ替えるのでなければ、また来ることになる。私の目の前で頭を剃れ」

大将は少し笑ってそう言った。そして、自らカミソリを持ち、庄八の頭を剃った。

庄八が夢から覚めて頭に手をやってみると、丸坊主になっていた。気持ちはまるで道心とは遠いのに、形ばかりは修行者で、光明寺に入って念仏を唱えるようになった。

                        続く 

   

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棒道 絵馬のねたみ

Imgp1750 8月2日(日)

山梨県に棒道というものがある。長野県との堺を通っている。

武田家(信玄、晴信)が軍事用に作ったのだと言われている。元は3本あったのだそうだけれども、今は上道1本だけが残されているのだそうだ。

随分昔、この道を通ったことがある。残雪のころだった。水彩画をはじめたとき、その時撮った写真から絵を描いた。

Imgp1750

その頃から、絵の腕が少しも進歩していないのは困ったものだ。

私は山に登るのも好きだが、別段高いところに登らなくても、自然の中を歩き回るのが好きだ。棒道を歩いたのは、水彩画の会や山の会に入るよりもずっと前のことだ。

最近、もう1度棒道を歩いてみたいと思うようになった。でも、インターネットで調べてみると、これは意外に大変なんです。最寄りの駅から棒道の起点になる甲斐小泉駅まで、3時間50分もかかるのです。最寄りの駅へ行くまでの時間を考えるならば、片道で4時間を超えるのです。朝早く出て、夜遅く帰るつもりにならなければいけません。

もう一つの問題は費用で、最寄りの駅から片道5300円もかかるんです。それだけの費用があれば、奥日光、戦場河原に行けちゃうんですよね。かかる時間だって、似たようなものです。それに、1万円、2万円かかるところに、そうちょこちょこ行ける身分ではないし・・・。

こんな時、貧乏人は思うような行動が出来ません。でも、ワーキングプアと言われる人達に比べたら、贅沢すぎる悩みです。

御伽婢子・64

第7巻 絵馬のねたみ・1

    原 作   浅野了意

    現代語訳 ぼんくらカエル

伏見の香の宮は神宮皇后の廟である。願い事のある者たちは絵馬を奉納して祈る。霊験あらたかだと言われ、ありとあらゆる絵馬が神前にかけられている。

文亀年中(1501-1504年)京の七条の商人で、奈良と京の間を往復して商いをしている者があった。

9月の終わりごろ、商人は奈良を出て京都に帰ろうとしたけれど、秋の日は釣瓶おとし、伏見の辺りで日が暮れてしまった。狐火が山際に輝き、狼の声が聞こえる。商人はおそろしくて、香の宮で夜を明かそうとして立ち入った。拝殿に横になり、肘枕をし、涼しい松風を友とし、ほの明るい灯明の中で、しばらくはまどろんだ。

商人は人の気配を感じて目を覚ました。貴人の装束を身につけた者が枕元に立っている。起き上がると、貴人が、

「これから、やんごとないお方がここに見える。少し傍らに控えて休むように」

と言う。商人は不承不承わきに下がっていると、美女がひとり、若い女の子を連れて拝殿に昇った。むしろの上に布団を敷き、灯を掲げ、酒さかなをとりだした。

美女は辺りを見まわし、商人に気づくと、ほのかに頬笑んで、

「そこに居られるのは旅の方ですか? 旅の途中で日が暮れて、そんなところで夜を明かすのは侘びしいものです。遠慮はいりません、ここへ来て私たちと一緒に楽しみませんか?」

商人は嬉しくなり、畏れながらも這い出して、傍らにかしこまっていた。

「そんなにかしこまらないで、まあ一杯おあがりなさい」

と、少女に酒ゐつがせた。

その姿の美しいことといったら、見たことはないけれど、楊貴妃や李夫人もかくやと思われるほどだ。この方は一体どんな高貴な人なのだろうか。どんな縁があって私はここにいるのだろう、と、商人はまるで夢を見ているような気分だった。

その女に従っている少女は17.8歳で、これも並以上に美しい。女は商人に手ずから酒をつぎ、商人はしたたか飲んだ。

女は東琴を奏で、少女はくご(竪琴)を弾いた。商人も酔っぱらって、その頃はやっていた「波枕」という歌を唄った。

商人は酔った勢いで、女に白銀の小箱を奉り、少女には亀の甲で作った琴爪を与えた。その際少女の手を握ると、少女もにっこり笑ってにぎり返した。女はこれを見とがめて、

   あやにくにさのみなふきそ松の風

         我しめゆひし菊のまがきを

折悪しく、私が作った菊の垣根に松の風が吹いた(でいいのかな?・・・訳者)

と詠い、傍にあった盃の台を、少女に向けて投げた。それが顔に当たって、襟も袖も、赤く染まった。

商人は驚いて立ち上がったら、夢から覚めた。

朝になって、奉納された絵馬を見ると、美しい女が琴を弾き、少女がくごを弾く絵馬があった。少女の顔には怪我の跡があった。昨日の夢に現れたのは、まさにこの絵馬の人達である。この絵馬を描いた者については、誰も知らない。

                            終わり

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2009年8月 1日 (土)

豊かさの中にある貧しさ 死の前兆

8月1日(土)

マニフェストというものも、読んでみると、そうできたらいいねと思うけれども、ほんとに出来るのかなと思う約束が多い。

中でも、「それ、違うんじゃないの」と思うのが、10年後に国民の所得を月10万円上げて、世界最高水準の高所得の国にする、と言う約束だ。

それが理想だろうか?国民の多くがそれを望んでいるのだろうか? それやあ、収入は多い方が良いサ。だけど、日本の問題は、豊かさの中にある貧しさではないのか。アメリカは、もっとも所得の高い国だが、貧困大国でもある。日本もそうなってしまった。豊かさの中にある貧しさこそ問題なのだと思う。

豊かと言われる日本には、ホームレスが沢山にて、ワーキングプアをよぎなくされている人も多い。昔は日本にだって、「稼ぎに追いつく貧乏無し」なんて言う諺もあった。「働けど、なおはたらけど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」なんていう、身につまされる啄木の歌もあるけれど、健康でよく働く人は、他の貧しい人と同じ程度に生きていくことは出来た。

今の世の中、怠け者が貧しくなるのではないんです。普通の人が、何かの弾みで、ワーキングプアになるのです。そして、それを自己責任だなんて言ってるんです。犬に高額なチョッキを着せて自慢しているような人がね。昔ならそんな人を、罰当たりと言ったんです。

今は、一度ワーキングプアになってしまうと、めったなことで、這い上がることが出来ないんですからね。豊かと言われる国のこのような実状は、恥だと思います。ワーキングプアの問題を解決できないようでは、資本主義はもう駄目だとまで思います。

ちなみに、啄木の場合は、一般労働者の何倍もの給料をもらいながら、派手な遊びで金を使っていたんですけどね。

老人介護施設Kの夏祭り。太鼓や踊りがあり、誘導、その他の手伝い。

御伽婢子・63

死の前兆

享徳年中(1452-1455年)細川勝元の家来磯谷甚七という者が昼寝をしていた。その妻は外出先で、見たこともない人が右手に太刀を持ち、左手に磯谷甚七の首を提げて走っていくのを見た。

妻が驚いて家に帰ってみると、磯谷は前後不覚に眠っていた。妻は思わず、枕元にへたり込んだ。

すると磯谷が目を覚まし、誰とも知らぬものが俺の首を切って持ち去る夢を見たという。

二人は気味悪くなり、祈祷師を頼んで、正夢にならないように、夢違えの祈祷をしてもらった。

その同じ月の末、細川勝元は足利将軍に叱責されることがあった。勝元は、それを家来のせいにして、磯谷の首を切らせて差しだし、自分の罪を逃れた。

                       第6巻 終わり

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2009年7月31日 (金)

何か嘘くさい 白骨の妖怪

7月31日(金)

政治家の公約って、なにか嘘くさいんだよね。あんまり守られないからだね。近ごろはマニフェスト、マニフェストとうるさいけれど、これは政党の公約と言うことだろう。どうしても請けの良いところを書く結果になるだろうし、投票してもらうのだから、ある程度はやむを得ないとも言える。

今日、自民党もマニフェストを発表したはずで、まだ私は読んでいないけれど、これで主な政党のマニフェストが出そろったことになる。

今の日本の政治は、一方で落ちこぼれを作るような仕組みにしながら、他方の手で福祉にも力を入れているような振りをしている。なんか嘘くさいのだ。

企業や団体に対する援助を捨てても、この辺でベーシックインカムを考えてみるべき時期に来ているのではないだろうか。

特養さくらへ。

今日は3F。痴呆の進んだ人達相手。歌を唄ったり、私はグウを出しますから皆さんはそれに勝つのを出してくださいね、と言ってじゃんけんをしたり。何とかして皆さんと遊ぶ算段。

御伽婢子・63

白骨の妖怪

長間佐太は岐阜の人である。文亀丙寅の年(1506年?)幕府の軍役にかり出され、京に上った。その軍役が終わっても、国には帰らず

  わすれてもまた手にとらじあずさ弓

       もとの家路をひきはなれては

と詠んで道心を起こし、都の北に庵を結んだ。

さすがに乞食も出来ないので、北山の薪を買い受けて都に運び、わずかばかりの利益を上げ、餅を食い、酒を飲んだ。酒に酔うと、自分の尻を叩き、歌を唄いながら庵に帰った。

時には寺に行き、庭を掃除し、仏前のちりを払い、その軒先で夜を過ごすこともあった。

粗末な着物を身につけ、肩や裾が破けても、一向に気にする風もなかった。

ある人が同じ郷土と言うことで同情し、小袖一つと、銭300文を与えた。しかし4・5日すると、佐太はこれを返しに来て、こう言った。

「ものを蓄えるというのは妻子のある者にとって必要だろう。私は独り者だ。食事は、食えれば喰い、食えなければそれまでで、行く先何処にでも寝泊まりする。それが自由気ままでなによりだ。ところが小袖や銭を家に置いていると、泥棒が来やしないかと気になって、戸締まりをして出かけるし、出れば出たで、早く帰らなくてはと思う。これでは私の楽しみが無くなってしまう」

ある日、北山に行って帰りが遅くなった。道の傍らに崩れた墓があって、中から松明を灯すような光が見えた。佐太はもともと肝っ玉の太い男なので、中を覗いてみた。

そこに見たのはひとそろいの骨で、人間が寝たような形で白骨になっていて。その白骨がむっくりと起き上がって、佐太の首に抱きついてきた。佐太が思いっきり突き放したら、骨はバラバラに砕けて、再び動かなかった。

その後の佐太については、何処でどうしたのか、誰も知らない。

                        終わり

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2009年7月30日 (木)

スケッチ風に 蜘蛛の鏡

7月30日(木)

Tati0009

昨日スケッチをするつもりで出かけたのに、満足にスケッチをすることが出来ずに、欲求不満になりました。そのため、デジカメで写した写真から、スケッチ風に描いてみました。

残念なのは、写真を見て描く方が、実物を見て描くより上手そうに見えてしまうことです。本当は、逆じゃなくてはいけないよね。ものの見方も描く腕も、まだまだ駄目だと言うことです。

家で描いている分には、ヤブ蚊に刺されなくて良いけどね。今でも腕のあちこちが痒いんです。

自然は大切。害虫だからと言って、むやみに退治すべきではありません。そう言いながら、ヤブ蚊ごときにいらつくこの矛盾。私はわがまま者です。

Tati0011_2

御伽婢子・62

蜘蛛の鏡

永正年中(1504-1521)のことだったろうか、越中の砺波辺りに住む人は、柴を刈り、山畑を作り、蚕を飼って生活していた。その糸を買い集め、他の土地に売りに出し、わずかな利を稼いでいる人もいた。生活のために奥山に分け入り、富士ずるを便りに谷を渡ったり、かなり危険なこともしなければならなかった。

ある商人が、深山の危険な谷の対岸に、直径1メートルもあるような大きな鏡があるのを見つけた。

これほどの鏡、一体誰が作ったのだろうか。天上の鏡がここに落ちてきたのだろうか。何とかあの鏡を手に入れて一儲けしたいものだと、その商人は思った。今日はひとまず帰り、準備を調えて、明日にも取りに来ようと心に決めて、その場所をよくのみこんで、家に帰ってきた。

妻は「そんな山奥にそれほどの鏡があるとはおかしい。もしあったとしても、危険なところへ行くべきではない。鏡を求めて命を失っては意味がない、やめなさい」と言ったが、男は聞かない。次の朝、夜が明けるのも待ち遠しいというありさまで、男は出かけてしまった。

妻はなんとも心許なく感じ、倅と使用人を連れ、3人で男の後を追った。

男はその鏡に近づこうとして岩角を伝って曲がったところで大声を上げて叫んだ。しかし一声だけで、後は静かになった。

妻たちは急いで谷におり、現場に近づいてみた。すると男は、まるで繭のように、糸でぐるぐる巻きにされ、大きな黒い蜘蛛がとりついている。妻たちは、持ってきた槍や鉞を振りかざし、突いたり切ったりしてその蜘蛛を離したが、男は蜘蛛に頭を割られ、脳味噌を食べられていた。

昔から大きな蜘蛛が鏡に化けて、時々人をたぶらかすと言うことである。

                             終わり

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2009年7月28日 (火)

『武士の娘』 遊女宮木野・4

7月28日(火)

私は専門もなく、雑然と本を読むので、これと言って得意な分野はない。ただ、義務教育終了程度の人間としては、興味の範囲が割合広いのではないかと思っている。残念ながら深くはない。義務教育終了程度だって、深い知識や大変な経験をしている人はいるからねえ。こちらの頭が自然に下がるような生き方をしている人って、学歴に関係なく、結構多いんだ。

読み終わった本について書こうとしたのだが、ここまで書いただけで、すでに脱線がはじまっている。ブログを読んでいる人には分からないけれど、書いている私は、はじめに書こうとしたことと違う方向に文章が進んでいることに気づいている。

はじめの方向に戻るか、このまま続けるか、面倒だからここでやめちゃうか。・・・本の紹介だけはしましょう。

その本は杉本鉞子著、大岩美代訳『武士の娘』。日本人の著書なのになんで訳者がいるのかと言えば、原作は英語で書かれたものだからです。

著者・杉本鉞子(スギモトエツコ)は明治6年、新潟長岡藩の家老の娘として生まれた。昔の家老の娘としての教養を身につけ、アメリカで貿易商をしていた杉本松雄と結婚し、日米の文化や習慣の違いにとまどいながら思索を深めていく。コロンビア大学で日本文化史を講義するなど、アメリカでも活躍した人のようである。

『武士の娘』は長岡で生まれ、アメリカで結婚し、夫に先立たれ、日本に帰り、娘の教育のため再びアメリカに渡るるまでが書かれている。7ヶ国語に訳されているという。日本という国が外国人には珍しかった時代、国粋主義でもなく、排外主義でもない立場の女性が、良識を持って書いた著書が、アメリカやヨーロッパでは人気になったのでしょう。この本、その割に日本では知られていませんね。現代ではなく、明治という時代に読まれるべき本だったのだと思います。

当時の最高の教養を身につけている著者にして、八丈島を女護ヶ島と認識している辺り、ふーんてなもんです。八丈島では女が実権を握っていて男は家事や育児をしていると思っていたようです。へんぴな地方の情報は、中央にはなかなか正確には伝わらないものなのでしょう。

御伽婢子・61

遊女宮木野・4

前回までのあらすじ 駿府の藤井静六は遊女宮木野を身請けし妻とする。京の叔父に会いに行き、戦乱にあってなかなか帰国できないでいるうち、母が亡くなり、宮木野は暴徒化した兵の魔の手から逃れるため、自殺した。その後、やっと帰ってきた静六は、宮木野の墓の前で、どうかもう一度会いたいと祈る。

こうして20日ばかり、自分の家と墓を往復して暮らした。

月はなく、星の夜、静六が灯を掲げて座っていると、宮木野が影のごとくにやってきた。

「あなたが私のことを心から念じてくれたので、あの世の役人の許可を得てやってきました」

と宮木野は、静六が京に去ってからの出来事を語った。静六は宮木野が我が母を熱心に看取ったこと、貞節を守るために自殺までしたことを知り、涙ぐんだ。

「私はもとより貧しい家のでです。遊女に身をやつし、昨日の客を送って今日の客を迎え、夜に会って明け方には別れ、名残も留めない月日を送っていました。それをあなたに迎えられ、正しい道に入ることが出来たのです。しかし、とんだ災難で死ぬようなことになりました。けれども、貞節孝行の徳により、男の子に生まれ変わることになりました。鎌倉の高座某という家に、明日男の子が生まれます。その子は誰を見ても笑いませんが、あなたを見ると笑います。それがしるしです」

それだけ言うと、宮木野は煙のように消えた。それから7日後、静六は高座某の家を訪ねた。そして赤ん坊のことを尋ねた。確かに7日前男の子が生まれたが、泣くばかりで誰を見ても笑わないという。だが静六が顔を見せると、にっこりと笑って泣きやんだ。

静六は訳を話し、その家と親戚付き合いをすることとなった。

                        終わり

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2009年7月27日 (月)

日焼け 遊女宮木野・3

7月27日(月)

25日の磐梯山は、山頂でも気温は30°ありました。おかげで、首から肩にかけて日焼けでヒリヒリしています。日焼け止めのクリームを勧めてくれた人もいたのですが、塗ったことはないと言って断りました。馬鹿だなあ。もっとも、クリームを使わせてもらったところで、顔にぬるくらいで、首や肩にぬるなんて思いつかなかったでしょう。結果は同じだね。

麻生さんって、気の利いたことを言うつもりになると、失言をするねえ。今度は、今の高齢者は働くしか能がないんだって。

多少は当たってるんだよ。貧し時代に青春を送っているからね。射撃をやるほど余裕のある人は少なかったサ。だけど65歳や80歳になってなにかをやろうとしてももう遅い、テナことを言われたら、なに言ってやがる、と思うよ。働くしか能がないんだから働かせろ、だなんて、若い人でさえ失業で苦しんでいるんだよ。歳寄りに働き口を与えられる世の中だと思っているのかい?

精障者作業所Mへ。

パーキンソン病の奥さんのケアをしているKAさんがMへが尋ね来る。やはりパーキンソン病のI・Mさんへの伝言を頼まれる。

御伽婢子・60

遊女宮木野・3

前回までのあらすじ 静岡の長者・藤井静六は、遊女・宮木野を身請けして結婚した。京に住む叔父の頼みで、静六は京に上ったが、叔父が亡くなっても、戦争のため帰ることが出来なくなった。

静岡の母は、清六の帰りがいつになるか分からず、便りもないことを悲しみ、病に伏した。宮木野は心を込めて看病したが、病はいよいよ篤く、半年ばかりして帰らぬ人となった。

姑は臨終に際して宮木野に言った。

「おまえは嫁として、本当の子でさえ出来ないほどよく仕えてくれた。あなた方の子を見ないで死ぬことは残念だ。その子は必ず親孝行な子になるだろう」

永禄11年(1568年)武田信玄は静岡に攻め入り、民家に火をかけた。武田方の軍兵は家々に押し入り、乱暴狼藉を働いた。宮木野は美しく魅力的な女性だったので、その餌食になりそうだったが、逃げて、首をくくって亡くなった。

程なく、駿府は武田の手に落ち、戦は止み、藤井静六は、やっと家に帰ることが出来た。しかし、母も妻もこの世の人ではなかった。静六は宮木野の墓の前で祈る。

「君は賢く才知があり、情をわきまえていた。私が帰れなかったのは戦のせいだ。世の中は思うようにいかないものです。ぜひもう1度、私の前に現れてください」

                             続く

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2009年7月23日 (木)

早めに書くブログ 遊女宮木野・2

7月23日(木)

明日のブログ、そして多分明後日のブログを休みます。

明日から猫魔岳、磐梯山に登る予定です。問題は天気。ノー天気な私も、天気は心配・・・なんて、だじゃれを言ってもしょうがないか。とにかく、注意して行ってきましょう。

われわれ一行、チャーターしたマイクロバスで出かけます。朝5時半の集合です。それに間に合うように食事をして、お腹の調子も整えて、と言うことになると、3時頃起きなくてはなりません。

いつもなら1日の最後の仕事としてブログを書き、書き終わるのは12時を過ぎることもあります。今日は現在午後3時半。窓の雨を見ながら書いています。自動車が雨をはじく音、さっきより激しくなりました。傘を差した母親と娘でしょうか、親子連れが通っているのが見えます・・・何だか実況中継みたいになってきたぞ。

だじゃれはそれくらいにして、早く書き上げてしまいましょう。

ボラグループ定例会。

御伽婢子・59

遊女宮木野・2

前回のあらすじ 静岡に宮木野という遊女がいて、美人で気だてがよく風流を解し歌をよく詠んで、人気があった。藤井静六という富裕の者が、その宮木野を身請けして妻とした。宮木野は姑にもよく仕え、家庭内は円満だった。

静六の母方の叔父が京都に住んでいた。その叔父が病を得て、先が長くないと感じたのか、「静六に言い残すことがある。京に来て欲しい」という便りがあった。母はすぐに出かけろと言うが、静六は老いた母のことも心配で、迷うところがあった。

宮木野は、京に上ることをすすめ、その代わり少しでも早く帰ることを願った。門出の水杯を取り交わし、涙を浮かべて、

   うたてなどしばしばかりの旅の道

       わかるといえば悲しかるらむ

と詠めば、静六も、

   つねよりは人も別れを慕うかな

       これやかぎりの契りなるらむ

と返して涙ぐんだ。

そのやりとりを見て母は、どうせ帰ってくるのだからそんなに名残惜しがっているとは女々しいことよ、と静六を追い立てた。

静六が京へ着くと間もなく、叔父は虚しくなった。子どもたちがまだ幼かったので、静六は妻の一族に叔父の財産を与え、その子どもたちを育ててくれるように手はずを整えた。

さて帰ろうと言うことになったが、戦が始まって、安全な道が無くなってしまった。それで帰りそびれているうちに1年ほど過ごす。諸国何処も乱れていたので、便りを出すことも出来ず、お互いに音信不通であった。

                                                 続く

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2009年7月22日 (水)

日食 遊女宮木野・1

7月22日(水)

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入間川のスケッチ。西武線仏子駅の近くです。自転車で、あちこち寄りながら辿り着いたので、もう1度同じ所へ行けと言われても、果たしてたどり着けるかどうか疑問です。例によって、出たとこ勝負方式なのです。

今日はとから列島や硫黄島などで皆既日食。とから列島は、曇りや雨で見えなかったようですね。東京や埼玉でも、曇りで、部分日食が見られませんでした。

まだ小学生だったか、あるいは中学生になっていたのか、疎開先の秋田で、部分日食を見た経験があります。昭和20年代で、それも前半の方でした。たしか、北海道の礼文島で金環食があったはずです。礼文島の名をその時覚えました。

今では、そんな見方をしてはいけないと言われているようですが、ガラスのかけらをすすで曇らせて太陽を見た記憶があります。貧しい時代です。ガラスをすすで汚した以外の器具を持っている人なんて、私のまわりには誰もいませんでした。ガラスをすすで黒くして見るという方法は、多分、学校の先生に教えてもらったと思います。危険な方法だったんですね。目が潰れた人はいなかったけど・・・。

御伽婢子・58

遊女宮木野・1

宮木野は静岡の遊女であった。美人で字が上手く、和歌の心得があり、情が深かった。そのため風流人の間では人気があり、もてはやされた。

8月15日の夜、風流人が宮木野の宿に集まって、十五夜の歌を詠んだ。宮木野の歌二首。

   眺むればそれとはなしに恋しきを

        くもらばくもれ秋の夜の月

   いく夜われおしあけがたの月影に

        それと定めぬ人にわかるる

この歌は、もし自分が宮木野の立場だったら、きっとそう思うだろうと、一座の者たちは感じ入った。

その一座の中に、藤井静六という者がいた。先祖は役人であったが、野に下り、この地に住みつていた。田畑を多く持って、豊かに暮らしている。

静六は情が深く風流を好んだ。この一座にあって、宮木野に一目惚れしてしまい、大金をはたいて身請けしてしまった。

富裕な生活をしているのだから、どのような娘だって娶ることが出来るのに、遊女を娶るとはなんとしたことかと、母は不満であった。しかしせがれが気に入ったのであれば、なんともしがたいと思って、心ならずも二人の結婚を認めたのである。

ところが、一緒に暮らしてみると美人と言うだけではなくて、こころざしがすぐれて優しい。たとえ大名の娘でも、人の道に外れるような者ではしょうがない。出自はどうであれ、この娘は人の道をわきまえていると母は思った。わが子が好きになったのももっともだと思い、母は嬉しかった。

宮木野の方も、よく姑に仕え、孝行の限りを尽くした。

                         続く

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2009年7月21日 (火)

暢気な話(蚊柱) 長生きの仙人・2

7月21日(火)

精障者作業所Mへ。

いろいろなことがありますね。今日、衆議院解散。明日、皆既日食。先日、北海道の大雪山系の山の縦走で大勢の遭難者。今日、山口県で土砂崩れによる死者の出る被害。

山仲間のSさん。遭難者の出た同じコースを、その4日前に縦走をしたンだって。やはり天候不順で大変だったそうです。今度の事故は、ガイドの責任が大きいと思うけれど、山には危険がつきものであることをあらためて認識。

この4-5日、大きなニュースが幾つも伝えられたけれど、ぼんくらカエルらしく、暢気な話をします。

あれは6月だったか7月だったか、梅雨の合間に大菩薩嶺に行きました。長い雨の後でやっと晴れた日だったためなのか、ものすごい量の蚊が発生していました。登る人、降りる人、登山者の誰の頭の上にも、蚊柱が付いていました。顔と言わず、首と言わず、手と言わず、いたるところに蚊が襲いかかります。血を吸うわけではないのだけれど、煩わしいことこのうえもありません。登山者がすれ違うときには、蚊柱同士のすれ違いでもありました。すれ違う人は口々に、

「私の蚊柱を持っていってください」

「こちらこそ蚊柱を差し上げます」

などと、挨拶代わりに言いながらの登山でした。自分の頭の上に蚊柱を背負うなどと言うことは、田舎で育った少年時代にも、何度も経験しています。しかし、あれほどの蚊柱というのは、後にも先にも、あのときだけです。

その後しばらくは、山行のさい必ず虫除けスプレーを持ち歩きました。

御伽婢子・57

長生きの仙人・2

前回のあらすじ 阿波の国の城主里見義広に会いに来た岩田刀自という老人は、数百年を生きているらしい。山中で修行していた岩田に仙人がきて薬を与え、「鶴や亀はいつも静かに呼吸しているから長生きだ」などと、仙人になる道を教える。

「人間には気持ちの乱れがあり、気候は一定しない。色情にふけり、食い意地をはる。そのために諸病が起こり、悲しみが生まれる。だから100歳まで生きる者はほとんどいない。人間のすることは、飛んで火にいる夏の虫のようだ。小さい胸の内に妄執を抱き、怒り、悲しみ、妬む。そんな気持ちをはなれれば、本当の自由を得られる」

仙人の教えはそのようなものだった。以来仙人の教えを守り、山に籠もり、松の葉を食べ、石をこねて塗り薬を作り、霜を煮て飴を作った。穀物は長く食べたことがないが、飢えたりはしない。松風や月、滝やせせらぎを慰めとして、欲を去り怒りを去った。

義広は感心して尋ねた。

「私も仙術に努めればあなたのようになれますか?」

「心を静かに保ち、色情をはなれ、欲を去り、悲しいことにも楽しいことにも心を動かされず、徳を施していれば、天地の恵みにかなって長生きするようになるでしょう。声をみだりに出さず、あまりものを見ないで、むやみに聞こうとしないで、体もあまり使わないこと。行くことも立つことも寝ることも、みだりに行ってはいけない」

「それでは、人間のすることはみんな害があるみたいじゃないですか。そんなことをして長生きしても意味がないでしょう。ここに用意した料理をどうぞ食べてください」

と義広がすすめたが、岩田刀自はなにも食べない。ただ、酒だけはよく飲んだ。それなのに、少しも酔った景色がない。刀自の格好がおかしいと言って女房たちが笑ったが、刀自が指を差したところ、皆おばあさんになってしまった。女房たちは驚いて、涙を流して詫びたところ、刀自はまた指を差して、もとの姿に戻した。

義広は怒って、刀自を殺そうとしたが、刀自はすぐそれを悟って、座を立ち、かき消えてしまった。

義広は間もなく北條氏康に滅ぼされてしまった。

                        終わり

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2009年7月20日 (月)

秩父の御輿洗い 長生きの仙人・1

7月20日(月)

11時頃、やるべきことは終わり、他にすることもなかったので、どこかにスケッチに行こうと思った。鉛筆やスケッチブックを持って、サンダルのまま家を出て、取りあえず狭山市駅に出る。そして、駅前のバスで、最初に来たのに乗ることにする。そのバスが入間市行きだった。

入間市周辺の何処でスケッチをしようかと考えたが、思いつかなかった。そこで、エイ、面倒、とばかりに秩父行きの電車に乗ってしまった。

Tati0009

Tati0010                      

こんなことを私はよくやります。出たとこ勝負、行き当たりばったり方式です。

秩父について、荒川まで歩き、河原でスケッチ。この2枚を描いて、帰るつもりでした。そして川下の方に歩いて行きました。すると川を見つめて、黒山の人だかりです。何だろうこれは、と思って聞いた見ると、御輿の水洗いがあるのだという。何だか知らないけれど、こんなに大勢の人が見物にきているのだから、きっと有名なお祭りなのでしょう。カメラを持ってこなかったのが悔やまれます。

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となれば、スケッチしか術がありません。大勢の中で、立ったままスケッチするなんて初めての経験です。河川敷も土手も、二つの橋の上も、人で一杯です。私は土手の上でスケッチしています。

帰ってからテレビを見ていたら、NHKのニュースで、秩父の御輿の水洗いを取り上げていました。さすがに絶妙の位置でカメラに納めていますね。

Tati0012 河川敷では、こんな光景も見られました。神主がなにかお祈りをしているみたいです。祝詞でもあげているんでしょうかね。

行き当たりばったり方式でも、時にはこんな、計算外の出来事にぶつかります。ァ、行き当たりばったりだから、全部計算外か。

御伽婢子・56

長生きの仙人・1

阿波の国(千葉県)の里見義広は武勇を持って国を治めていた。その頃1人の老人が城中に連れてこられた。年を聞くと、数百歳になるが覚えていないという。髭や髪は白いと言うよりも黄金色に近く、目は青く耳は長い。顔色は50歳くらいにしか見えない。座れば、髪は床を払う。名は岩田刀自という。

老人は後鳥羽院(1180-1239)のころの出来事を、昨日のことのように話す。三浦大輔の供をして狩りに行き、九尾の狐を殺し、殺生石を砕いた祟りで、多くの者が死んだという。その時、彼の父母兄弟も皆亡くなってしまったらしい。

18歳の時だった。無情を感じて山に籠もり、修行をはじめた。

いつのことだったか、仙人らしい人がきて、青い薬をくれた。それを飲むと、身の心も軽くなり、その仙人に連れられて空を飛んだ。そしてどこかの大きな山の上に行った。立派な屋代があって、宝石の床に座り、霞で醸した酒を飲んだら酔い倒れた。仙人は天の甘露を飲ませ、酔いを醒ました。そして、仙人が言った。

「おまえは鶴や亀を見たことがあるだろう。彼らは静かに息をしている。けしって荒い息づかいはしない。だから長生きなのだ。

おまえの目はこれから90年後、青光りするようになる。それで良く闇の中を見なさい。そうすれば1千年後骨が替わり、2千年後皮が替わる。それ以後は永遠の命を得て歳をとることはない」

仙人の話しは更に続く。

                            続く

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2009年7月19日 (日)

汗をかく 伊勢兵庫仙境に至る・2

7月19日(日)

私は汗かきである。私はほとんどエアコンを使わず、扇風機で過ごしているから、わが家にいるだけで汗をかく。わが家のエアコンは、付けても効きが悪い。買い換えたくても金がないというのが実状。別に、エアコン買ったら破産する、と言うほどではないけれど。まあとにかく、扇風機で過ごしているのです。だから毎日汗をかいています。

なぜか知りませんが、汗かきなのに、私は昔から、掌や足の裏に汗をかきません。木工関係の職人(琴作り)ですからノコギリやカンナやノミを使って仕事をしていました。私が使う道具は、使い込めば使い込むほど、ぴかぴか光ってきます。掌に汗を多くかく人は反対で、ノコギリでもノミでも、指や手の当たるところが錆びてきます。

掌に汗をかく人は、手が汚れても洗うときれいになりますが、汗をかかない人は、幾ら洗っても汚れが取れません。だから私は、汚れが取れずに苦労しました。

足の裏に汗をかく人の靴や靴下は、すぐに臭くなりますが、かかない人は、靴が匂ったりしません。だから私は、自分の靴の匂いを嗅いで、鼻を摘んだりはしません。

汗のかきかたでも、いろいろあるんですよね。

汗をかく位置は、歳をとるにしたがって、体の上の方に移動するそうです。ホームで電車を待っているおじさんが、ハンカチやタオルで、しきりに頭を拭いているのを目にしませんか。あれは頭に汗をかく年齢になっているからです。

実はかくいう私も、頭に汗をかきます。胸や背中にもかきますが、タオルで拭きたくなるのは頭です。タオルで何回も頭を拭いていると、頭の天辺の辺りの汗が粘ってくるんだなあ。まるで脳味噌がにじみ出てくるようだ。

大丈夫だろうかねえ、私の脳味噌は・・・。

頭を左右に振ってみてください。なにか音がしますか。しなければ安心です。頭骸骨の中に脳味噌が一杯詰まっているからです。私も音がしません。頭蓋骨の中が空っぽだからです。味噌が頭からにじみ出てしまったのです。きっと・・・。

御伽婢子・55

伊勢兵庫仙境に至る・2

前回のあらすじ北條氏康の家臣伊勢兵庫は、北條氏康の命を受けて八丈島の探索に出かける。しかし悪天候のため、遙か南の島に流れ着く。どうやら観音浄土に近い仙境らしい。親切な島人の家を訪れ、珍しい酒を振る舞われ、爽やかな気分になる。

主は、大昔の保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)について、まるで目の前に見ているように話す。

(ぼんくらカエル独り言。家の調度は、金銀宝石で出来ていて、花でも木でも箱でも、この世のものとは思われない色、形、香りがしているんだってさ。見慣れない鳥が美しい声で啼き、池の水は強くて石を投げても沈まず、島の人は全部若くて歳をとらず、美男美女ばかり、なんてことを、延々と書いてます。全部カット)。

伊勢兵庫はここに住みつきたいと思ったが、主君の命で来たことでもあり、やはり帰らなければと思い、主に相談した。主は、ここまで来た証拠として馬とオオムを船に積み、兵庫を送り出してくれた。そして順風を吹かしてくれたので、1日で伊豆に着いた。

まず氏康に報告しようとして城に行ったら、兵庫が船出してからもう何年もたっていて、氏康は既に亡くなっていた。兵庫は嘆き悲しみ、子の氏政に仙境の報告をした。

その昔、垂仁天皇が田島守に命じて、常世の国から香実(カグノミ)を求めさせた。田島守がその実を手に入れて帰り着いたとき、すでに垂仁天皇は亡くなっていた。田島守は嘆き悲しんで死んでしまった。その実とは、今の橘である。

兵庫もまた、腹を切って死んでしまった。その前に物語を書き残していたので、いまの世に知られたのである。

                         終わり

ぼんくらカエル独り言

なにも死ぬことはないだろう。腹を切ったなどと、生々しい。

田島守については、戦時中の学校で習いました。こんな歌があります。

   香りも高い橘を

   積んだお船が今帰る

   君の仰せをかしこみて

   万里の海をまっしぐら

   今帰る田島守

   田島守

2番もあるのですが、歌詞を忘れてしまいました。

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2009年7月18日 (土)

無題 伊勢兵庫仙境に至る・1

7月18日(土)

つばさ俳句会例会。来月の俳句大会の相談なども。

夜、ベランダから、川越の花火を見る。入間川縁の市場で挙げているらしい。

御伽婢子・54

第6巻 伊勢兵庫仙境に至る・1

      原作  浅井了意

      現代語訳  ぼんくらカエル

伊豆の国、北條氏康は関8州を手に入れ、武勇の誉れ高く、大いに勢いがあった。氏康はあるとき浜辺でつぶやいた。

「昔、鎮西八郎源為朝(チンゼイハチロウミナモトノタメトモ)が伊豆に流されたとき、沖に飛んでいく鳥を見て、この先にきっと島があるに違いないと思った。そこで舟を出して行ってみたら、鬼が住むという島にたどりついた。これは今でいう八丈島だ。その後、誰も八丈島に行ったという話を聞かない」

そして言った。

「誰か八丈島に行って、島の様子を見てくるものはいないか」

坂見岡紅雪と伊勢兵庫頭の2人が進み出て、

「われわれが行ってきましょう」

と、簡単に引き受けた。両名にはそれぞれ大船が与えられた。両名は漕ぎ手を付けてもらい、吉日を選んで、沖に向けてこぎ出した。伊豆の沖には7つの島があるという。どの島かは知らないが、一つの島に近づいたとき、風が変わって波が高くなり、船の自由が利かなくなった。

紅雪の方は、どうやら島にたどりつき、運良くそこが八丈島だったので、島の様子を見聞して帰った。

兵庫頭の方は更に南に流されて、10日ばかりたったところで、風も弱まり、ある島に流れ着いた。島の様子を見ると、宝石のような岩石がそばだち、奇岩、奇石など日本では見ることの出来ないような物ばかりだ。草木も見慣れないもので、たわわに実を結んでいる。

20歳ばかりの色の白い若者が磯に出ていた。頭に羅の帽子を被り、草木で作った着物を着て、花の靴を履いている。姿は中国人に似ているが、言葉は日本語である。

兵庫頭をみて、

「どこから来たのか」

と聞く。兵庫頭はありのままに答えた。

「ここは滄浪の国です。日本からは3000里ほどはなれています。観音浄土、補陀落世界も近いのです。淳和天皇の時代、橘三千代皇后の仰せで恵萼僧都がこの島に来たと伝えられています。わざわざ日本からここまでこられたのでは、さぞかし疲れたでしょう。わが家で休んで行きなさい」

兵庫頭は言われるままにその家に行った。主は、菖蒲の酒や花のしべで造った酒などを勧め、兵庫頭は玉の盃で数杯を重ねたところ、神気はまことに爽やかになった。

                     続く

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2009年7月15日 (水)

ノウゼンカズラ 原隼人佐

7月15日(水)

私のようになんと言うこともなしに、日記形式でブログを書いている人、今日の1行目は「暑いですね」なんて言うたぐいの言葉ではじまるのではないでしょうか。

それにしても暑いですね。ハハ。

2行目は自民党のごたごたかな? 総裁選前倒しだとか何だとか。どうでもいいよ。自民党そのものに愛想を尽かしているのだから、表紙を替えたところでどうにもなりゃあしないさ。総選挙では、「惜敗を期する」じゃなくて、惨敗でしょうけれどね。

こんなことだけ書いているならブログの維持は楽なんです。なにを書こうかなんて考える必要がないものね。

ちょっとだけ、独自なことを書きます。

私の本職は琴作りの職人でしたが、それだけでは食えなくて、さまざまなアルバイトをしました。

今考えてみて、もっとも辛かったのは、型枠大工の仕事でした。型枠大工というのは、建築物のコンクリートを流し込むための型を組む仕事です。コンパネというベニヤ板に組んだ型の中にコンクリートを流し込んで、ビルの壁などが出来ていくわけです。

今日みたいに暑い日は、その辛さたるや、並大抵ではない。よく熱射病で倒れる人もいました。炎天下のガードマンを大変だろうという人がいますが、ガードマンの何倍も辛いですね・・・私はガードマンのアルバイトもしたことがあるんです・・・。

そんな暑い日の現場への行き帰りに見かける花が、ノウゼンカズラでした。暑い盛りに、赤やオレンジの花を咲かせているのですから、暑苦しいように思うけれども、実際には、むしろ爽やかでした。その花を見て。少しばかり仕事の苦労を忘れたものです。

以来、ノウゼンカズラは好きな花になりました。街では、今を盛りに咲いています。

    冷酒旨し凌霄花咲けばなお  ぼんくらカエル

   

御伽婢子(おとぎぼうこ)・53

原隼人佐(はらはやとのすけ)・1

武田信玄の家臣、原隼人佐昌勝(はらはやとのすけまさかつ)は、加賀守昌俊の子である。父はたびたび手柄を立てた武将だったが、隼人佐に次のような言葉を遺を残した。

鳥や獣、虫のたぐいまで、みんな得意なことがある。人に生まれ、まして侍という身分まであるものは、戦に関することで、何か優れたものが無くてはいけない。その得意の技を持って主君の恩に報いなくてはならない。いたずらに禄を喰み、1芸1能もないものは、虫けらにも劣る。良くそのことを考え、忠節に励みなさい。

隼人は父の死後、信玄に仕え、私心なく忠節に励み、軍功があった。中でも、隼人はいつも敵陣深く入り込み、味方の陣を立てるに適する場所や合戦の場所を考えるに優れていた。山、川、谷、峰、など、始めてのところでも、案内人無しでもその様子を知り、小道や裏道まで道筋を悟り、味方を率いて先登しても、誤った試しがない。まるで神に通じているようである。

実は、隼人の出生には秘密があった。その昔、加賀守の妻は妊娠の苦しみの中、死亡してしまった。加賀守は嘆き悲しんだが、なんともできず、法成寺の裏に墓を作ってそこに埋めた。

死後100日目の夜中、80歳にもなろうかという老僧が訪ねてきて(70歳まで生きるのさへ稀だった時代です・・・ぼんくらカエル註)、玄関の戸を叩いた。戸を開けると、死んだ妻がよみがえり、老僧に連れられて帰ってきた。

「私は法成寺のものである。よみがえった妻を良く保養しなさい」

と言って、老僧は消えた。妻は、はじめはうとうとしていたが、7日くらい過ぎると、もとのようになった。ただ、明るいところを嫌うようだった。

次の年に、妻は男の子を産んだ。その子が3歳の時、、妻は涙ながらに告げた。

「私は本当の人間ではありません。あなたとの縁が深かったために、地蔵菩薩が閻魔様にお願いして、魂を3年ばかりこの世に帰してくれました。今はもう、帰るべき時です」

そういって妻の姿は消えてしまった。

その妻の子が原隼人である。18歳で初陣し、神に通じているように見えたのも、故のないことではない。

                 御伽婢子 第5巻 終わり    

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2009年7月14日 (火)

健康診断今年もセーフ 火事の定め

7月14日(火)

狭山台胃腸科外科で健康診断。肺のレントゲン、胃ガンの検診も。

機械が故障したとかで、今日はバリュームではなく、胃カメラを飲む。この医院の良さは、その日のうちに結果が分かること。肺、胃共に異常なしだった。検診が終わったのが12時で、ちょっと待ち時間が長かったなあ。

午後、精障者作業所Mへ。

御伽婢子・52

火事の定め

西の京に富田久内という者が住んでいた。こころざし優しく、情け深い者である。

ある日、北野天神に詣で、その帰り道、茶屋で休んでいると、12・3歳くらいの小坊主がやってきた。痩せて青ざめた表情に疲れが見えている。久内が話しかけてみると、東山のあたりに住んでいるらしい。

「朝からあちこちに使いにやらされて、まだ何も食べていません。師の坊さんの命令に従うばかりで、きつくてしょうがない」

と言う。

久内は気の毒に思って、餅を注文して小坊主に与えた。小坊主が餅を食べ終わったので、そろって店を出たところ、小坊主が口を開いた。

「実は私は人間ではないのです。火の神の使いで、火事を起こす役割です。あなたは優しい方ですからお教えします。明日、西の京は火事になり、ことごとく焼失します。あなたの家は焼きたくないけれども、もうそういうわけにはいかないのです。すでに、焼失する範囲に入っています。ですから、財宝や家財道具は今日のうちに運び出してください」

そういって、小坊主は消え失せた。

久内は急いで家に帰り、財宝や家財道具をすべて運び出した。特に何も言わなかったけれども、強いて理由を聞く人には、北野で会った小坊主のことを話した。人々は、狐にでも化かされたのだろうと言って、あざ笑った。

実はその年の3月ごろ、西の京と東の京の酒・麹を売る業者で組合を作った。ところが西の京の業者は、組合の座を破って商売をしたのである。東の京の業者が怒って、時の管領、畠山徳本に訴え出た。畠山の裁定は、東の京の主張を入れるものであった。

西の京の業者はそれを不服とし、北野の社に立てこもり、管領の言うことを聞かず、東の京の業者を打ち殺すと息巻いていた。やむを得ず、管領は侍たちに命じて、立てこもる者たちを捕まえて獄舎に繋ごうとした。立てこもる者たちはこれに抵抗し、最後は社に火を放って自害した。火はたちまち燃え広がり、西の京は火の海と化したのである。

時に1444年4月12日。久内が小坊主にあった次の日であった。

                        終わり

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2009年7月13日 (月)

飲みながら書いてます 幽霊が武将の評をする・5

7月13日(月)

精障者作業所Sへ。

作業所の畑で収穫したナスやキュウリを薄く刻んでポリ袋に入れ、塩を入れて袋もみにする即席漬け物が好評。みんなにおだてられて、今日も作る。

Sの旅行は那須に決まったそうで、「ぼんくらカエルさん、今年は行くの?」と聞かれる。去年旅行に参加しなかったので、その後何度も、同じ質問を受ける。去年はスッタフ以外にこぶし福祉会の理事長が参加した。メンバーさん達は、私が行かなかったから理事長が参加したと思っている。理事長では気詰まりらしいのだ。今年は行きますけどね。まだ先の話しです。

明日、近くの狭山台胃腸科外科で、健康診断を受けます。胃ガンの検診も受けるので、今日の夜9時以降飲み食いを禁じられています。いつもならブログが終わってからも一杯やるのですが、今日は出来ません。だからいま、飲みながら書いています。

実は、いま、丁度9時です。もういけないのですけれど、私の予約時間は10時。9時から診察を受ける人も、前日の夜9時まで飲食できるのですから、私は10時まで良いのだと勝手に判断して、後1時間飲み続けます。

私の場合の「飲む」というのは、アルコールの意味ですが、お茶も飲んじゃいけないというのは、この暑い時期に辛いよね。先生によっては、お茶はかまわないという人もいるんだけどなあ。私の先生はそれも駄目なんです。「熱射病だってあるんですよ、先生」というのは、ないしょの独り言。

御伽婢子・51

幽霊が武将を評する・5

前回までのあらすじ 武田の武将鶴瀬安左衛門は恵林寺の庭で、既に亡くなった北條左衛門、山本勘助、直江山城守、多田淡路守、などが信玄、謙信、氏康、信長を評をするのを聞く。そこへ長野信濃守が来て、山本勘助の評をした。

ひとしきりそれぞれの思いを述べた後で、多田淡路守が進みでた。

「いまは敵も味方もない。死んでしまったのだから、すべては夢のようなものだ。酒でも飲んで楽しみましょう」

参会者は、したたか酒を飲んだ。

やがて、長野信濃守が詩を吟じた。

  義重命軽如鴻毛

  肌骨今鎖没艾蒿

  山宣平重淵宣塞

  残魂尚誓節操高

    義は重く命は鴻毛のように軽い

    身体は今荒れた草原に埋もれる

    山は平らにして淵は埋めるべく

    残った魂はなお節操が高い

北條左衛門佐も吟じる。

   泉路茫々隔死生

   落魂何索貽武名

   古往今来几是夢

   黄泉峙耳聞風声

     あの世のへは草ぼうぼうとして死生をへだつ

     死せっる魂にとって武名とは何か

     昔から今まで、すべては夢だ

     黄泉では耳をそばだてて風の音を聞くのみ

直江山城守の詩

   物換星移幾度秋

   鳥啼花落水空流

   人間何事堪憫悵

   貴賤同帰土一丘

    時代は移りまた秋が来る 

    鳥はなき花は落ち、水は虚しく流れる

    何事ぞ人間は悲しみに堪えている

    尊きも卑しきも一塊の土となるものを

山本勘助は文盲であるが思うところをいはなければと、次のように詠う。

   平生知略胸中満

   剣払秋霜気吐虹

   身後何謾興廃

   可憐怨恨深叢

    生きているうちは胸中は知略に満ちて

    剣は秋霜を払い、気宇壮大だった

    死後はそれも虚しい

    今さら怨恨を言うのは哀れむべきだ

多田淡路守の詩

   魂帰冥漠魄帰泉

   却恨人世名聞権

   三尺孤墳苔累々

   暫会幽客恵林辺

    魂魄は冥土にあって

    いまだに生前のことをあげつらう

    三尺の墓は苔に覆われているというのに

    恵林寺で幽客に会えて良かった

鶴瀬安左衛門は、はなはだ怪しい気分になった。これは夢かまことか。話しをしているのは、すべて故人だ。ひょっとして、私自身が死んでしまったのか? と思っているところに、ホラ貝や太鼓の音がして、座中の人は押っ取り刀で立ち上がったが、ふっと消え失せた。

夜は白々と明けている。あまりの不思議さに、鶴瀬は甲府に立ち帰り、信玄公に話した。信玄に、「おまえ、狐に化かされたか」と言われたので、他人には語らず、筆に記して、箱の中にしまっておいたと言うことだ。

                        終わり      

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2009年7月11日 (土)

社会福祉大会 幽霊が武将を評する・5

7月11日(土)

狭山市の社会福祉協議会が創立30周年だそうで、狭山市市民会館でそのセレモニー。と言って、例年とそう大きく変わるわけではない。表彰式があって祝辞があって、講演と、ちょっとしたアトラクション。

講演は「中越地震の報告」で、講師は柏崎市社協の人。被災の状況と、救援活動の実際を話す。

もう一つの講演があって、「災害直後の連携体制」と言う題。狭山市の防災課の人が講師。こちらはまあ、うん、終わり。

御伽婢子・50

幽霊が諸将を評す・5

前回までのあらすじ 武田信玄の家臣鶴瀬安左衛門は恵林寺の境内で、いまは亡き武将たちが、武田信玄、上杉謙信、北條氏康、織田信長を評しているのを聞く。そこへ上杉憲政の家臣長野信濃守がやってきて、上席にいる山本勘助を非難する。勘助の第1の罪は、信玄を諫めず、敵の娘を妾にし勝頼を生ませ、武田家に内紛のもとを作ったこと、と言う。信濃の守の非難は続く。

「信玄の父信虎は剛毅不敵の人だったが、偏屈で自分勝手なところがあった。信玄がまだ晴信と言っていたころ、晴信を追放して弟の次郎信繁に跡を継がせようとした。信玄はこれを知って、妻の実家、今川義元と組んで、信虎を追い出し、家督を奪った。信虎は流浪して北條氏康に助けを求め、どうにか養われている。

後に信玄は自分の不幸を思い、信虎を甲府に呼び戻そうとしたとき、おまえはそれを諫めて、信虎を呼び戻したらまた内紛が起こる。そのままにしておけ、と言ったではないか。これでは信玄は、後々までも不幸者と言われてしまう。これがおまえの罪の第2である。

次は川中島合戦の時だ。山本勘助、おまえは軍配を任されたのに、西条山の上杉軍にばかり気を取られて、上杉軍が夜の間に川を渡ることに全く気がつかなかった。川を渡られてから慌てて陣を立てたが、このときも、武田軍の右側は上杉にとって攻めやすいところだったのに、ここを義信望月などと言う脆弱な大将に守らせた。案の定簡単に破られてしまった。

謙信は一気に押しつぶそうとして自ら先頭をきり、武田の本陣を切り崩した。西条山の軍が引き返してきたから良かったものの、信玄は危うく敵に討たれるところだった。この戦で、大勢の有力な大将が討たれ、おまえも恥じて討ち死にをした。これも前もって備えるべきを備えなかったためである。何を持って軍師などと言えるのか。これがおまえの罪の第3である。

おまえは武道の修行と称して諸国を渡り、四国では尾方という武将に軍法を伝授し、城の設計をし位置取りを決めたという。だいたいおまえが設計して建てた城などと言うものは何処にあるのだ。

今川家に嫌われ、信玄に拾われたらこれをひけらかし、人に笑われているのを知らないか。武田家の軍師になったからと言って、その後信玄には大した勝ち戦がない。おまえの功績など何もないではないか。

もともとおまえはわれわれの敵方だ。それを目の前にして、親しく語り合うなど、私の大将が許さないだろう」

山本勘助は一言もなく、黙って座を退き、信濃守に上座を譲った。

信濃守は重ねて発言した。

「皆様はそれぞれ立派な家臣ですが、私は1城をまかせられていたものです。そのために上座を占めます。はしたないことを言ったけれど、どうか許されよ」

                      続く

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2009年7月10日 (金)

今日の水彩画 幽霊が武将を評する・4

7月10日(金)

Imgp1576

水彩画の会。例によって子供のいる絵です。

御伽婢子・49

幽霊が武将を評する・4

前回までのあらすじ 武田信玄の家臣鶴瀬安左衛門は恵林寺の境内で、いまは亡き武将たちが、大将の批評をしているのを聞いている。北條氏安の家臣、北條左衛門は武田信玄の批評をする。武田の軍師山本勘助は、上杉謙信の批評をする。上杉の家臣直江山城守は北條氏康の評、武田の家臣多田淡路守は織田信長の評をする。

そこへ群馬の箕輪の城主だった長野信濃守がやってきた。これは関東の上杉憲政の家臣で、知謀無双の者だった。武田信玄と7年にわたって戦いをくり返してきたが、最後は病気でなくなってしまった。その子右京進は城を守る器量がなくて、間もなく武田信玄に城を落とされてしまった。

信濃守は辺りを見まわし、山本勘助が上座にいるのを見て、会釈もせずに、ずかずかと勘助の上座に座った。そして刀の柄に手を掛けながら、勘助をののしった。

「勘助が上座にいるとは何事であるか。おまえはどんな手柄があって上座にいるのだ。おまえには3つの罪がある。それを知らずに世間の人は、軍師だなどとあがめている。いまそれを暴いてやる」

山本勘助は顔色も変えずに、

「ならばそれを言いなさい。ちゃんと聞いてやるぞ」

と言う。

「ああ、言うとも。若いとき、信玄は領国のことを忘れて色に溺れたことがある。その時板垣信方が良くいさめて、信玄は心を入れ替えた。そして戦に明け暮れた。信州諏訪の祝部頼重が降参して、甲府にやってきたときだ。おまえは信玄に、頼重をだまし討ちにして信州を自分のものにしなさいとすすめた。そしてあえなく降参してきたものを殺した。昔から窮鳥懐に入れば、猟師もこれを殺さずと言う。従う気持ちを示した頼重を討つとは、無慈悲な心だ。これを、戦の習いというならば、獣の心と同じと言わなければならない。

そればかりではない。頼重の娘が美人だったので、信玄は色香に迷い、その娘を妾にしたいとおまえに相談した。おまえは賛成して妾にさせた。目の前で父を殺された者を、殺した者の妾にするなどと言うことは、人の道に外れている。おまえは諫めなければならかった。

その妾の腹に、勝頼が誕生した。そして太郎義信の継母となった。利口で口先の上手な女だったので、いろいろと讒言をした。信玄は知恵のある人間であるが、色に溺れ、妾の言葉を信じて義信を殺し、義信を支持した家臣飯富兵部、その他80人あまりの侍を咎なく殺した。これも元はといえば、おまえが諫めるべき時に諫めなかったためである。

これがまず、おまえの罪の第一のものだ」

信濃守はなおも言いつのる。

                    続く

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2009年7月 9日 (木)

次女妊娠 カナブン土に潜る 幽霊による武将の評価・3 

7月9日(木)

ボラグループ定例会。

午後、家のベランダに大型の昆虫が飛んできて、勢いよくベランダの植物のまわりを飛び回っていたが、すっと植木鉢の上に下りた。その大きさから。クマンバチ(スズメバチ)かと思ったのだが、そのまま鉢から飛び上がらない。

不思議に思ってベランダに出て、その鉢を見た。ピーマンの鉢である。カナブンと思われる昆虫が頭を土の中に潜らせて、もぞもぞと動いている。そして、2-3分のうちに完全に体を土の中に潜らせてしまった。こんなのを見るのは初めてである。中で卵でも産むのだろうか。幼虫が樹液でも吸おうというのか。掘り返そうかと思ったが、やめておいた。私はたまたま見てしまったけれど、見なければそのままにしておくはずだ。だから、見なかったことにする。

夜、ブログを開こうとしたら、私にとってはビッグニュースが飛び込んできた。次女が妊娠したというメール。高齢出産だ。ウーン。

何だか知らないけれど、カナブンを土から掘り返さないで良かった。関係ないんだけれど、関係づけてしまう。ピーマンの苗は、枯らさないようにしなくては・・・。もしカナブンが卵を産むのだったら、成虫になるまで、実が採れなくなってからでも、枯らさないようにしなくては。

本当は関係ないのだけれど、そんなことを考えてしまう。

御伽婢子・48

幽霊による武将の評価・3

前回までのあらすじ 武田の家臣鶴瀬安左衛門は恵林寺の庭で、いまは無き武将たちが、大将たちの評価をしているのを聞いている。まず北條氏康の家臣北條左衛門が信玄を評する。信玄は知謀武勇とも優れているが奇策はなく、和をを求めない。いつも戦ってばかりで大勝することなく、結局自国を守るだけに終わる。次に信玄の軍師山本勘助が上杉謙信を評する。謙信は戦上手で戦えば勝つ。しかしうちを固めないので、大業はなしがたい。今度は謙信の家臣直江山城守が北條氏康を評する。氏康は人格者で、いたずらに戦を好まない。実力はありながらそれを現さない。しかし現在のような乱世では、やみくもに戦うような武将の方が頭角を現す。

今度は信玄の家臣多田淡路守が話し出す。

皆さんの付けた評価はそれぞれ一理はあるが、、われわれごときがどうして名将の奥の心を知るだろうか。きっとわれわれに計り知れない深慮があるのだろう。信玄、謙信、氏康は、戦国のいまの世で、最も優れた武将であることは確かだ。しかし諸国の中には、それぞれわれこそはと思っている者は多い。名将と思われている人も、たいしたこともない人に倒されることがある。何が起こるか分からないのがいまの世の中である。信玄、謙信、氏康は確かに際だった名将だけれども、近隣の小身の大将でも侮ることは出来ない。

近ごろ、尾張の織田信長は大志があって、すでに近隣諸国を従えている。1556年、猛将の誉れ高かった今川義元を1朝のうちに倒した。

信長は深慮があって、武田信玄には縁を求め、伯母を秋山伯耆守の妻となし、姪を武田勝頼の室とした。常に甲府に人を使わし、まるで臣従の礼を取っているようだ。これはひとえに、信玄をなだめて後ろを安らかにし、足利義昭を将軍にもり立て、近隣の弱兵を攻め、強敵をなだめておいていずれ討とうとしているためだ。西方の弱敵をうち強敵をなだめているうち、すでに強力になり、、京都を自分の影響下にした。

信玄、謙信、氏康は自国のために戦って疲弊している。おそらく信長が大業をなすのではないか。

                              続く

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2009年7月 8日 (水)

トホホ2題 幽霊による武将の評価・2

7月7日(金)

こぶし福祉会授産施設へ。

作業を終えて、入間川の散策。霞川と入間川の合流点から少し上流、入間市側からのスケッチ。

Tati0009

Tati0010

下手でも何でも、スケッチが楽しみになりました。スケッチを趣味にすると、散歩の楽しさが、何倍にもなります。

妻が亡くなって10年。ひと