2009年12月30日 (水)

本のないお話・7

12月30日(水)

本のないお話・第7回(最終回)

楽しいお話を作ろう。

「お話はこれでおしまいです」

 山田先生は、そう言って口を閉じました。暫く、みんなは何も言いませんでした。それから、誰かがつぶやきました。

「みち子は、その後どうなったのかなあ」

「先生、その後のお話もしてください」

「続きを話して下さい」 

 みんなが口々に言いました。での、先生は黙って、窓の外を見ていました。何だか泣いているみたいでした。

「分かった。みち子は先生だ」

 正夫が云いました。みんなはびっくりして正夫を見ました。

「だって、先生は山田美智子先生だもの。山梨の伯父さんが迎えに来たんだもの。だって、先生のお母さんは、山梨にいるんだもの・・・」

 先生は何も答えず、ただ遠くを見ていました。先生は、やっぱり泣いているのでした。

 やがて先生は、みんなの方を見て言いました。

「人間は誰でも、自分のお話を持っています。本に書いてあるお話もあれば、書いてないお話もあります。だれかに聞いて貰えるお話もあれば、誰にも聞いて貰えないお話もあります。たとえば、空襲で逃げ遅れて死んだ人も、自分のお話を持っていたのに、誰にも聞いて貰えませんでした。皆さんもこれから、お話を作りながら生きていくのです。出来るだけ楽しいお話を作って下さい。何年かして、先生と会ったとき、今度はそのお話を先生にして下さい」

 先生の顔は、もう、いつものこにこした顔に戻っていました。

                  終わり

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2009年12月29日 (火)

本のないお話・6

12月29日(火)

本のないお話 第6回

東京大空襲・2

 それから2,3日して、また空襲がありました。焼夷弾がどんどん落とされます。家の近くまで迫ってきているようです。でも、今逃げたら、また臆病者だと笑われるかもしれません。じっと辛抱していました。

 けれども、攻撃はますます近くなってきます。どうにもたまらなくなって。みち子は隣組の班長さんの家に、もう逃げて良いかどうか聞きに行きました。ところが驚いたことに、班長さん達はもう逃げたあとでした。そればかりではありません。警防団の人もふくっめて、隣組の人は、誰一人残っている気配がありません。

 みち子が青くなって帰ってくると、さすがにお母さんは、逃げる用意をして、玄関でみち子を待っていました。二人は防空頭巾の上に布団を被り、まだ火の回っていない方に走り出しました。

Tati0009

 みち子たは、上野の山をめざして逃げました。あちらからも、こちらからも、上野の山に向かって逃げる人達がいました。

 逃げる途中の街角で、何人かの人が並んでいました。見ると、ポンプの井戸があって、男の人が二人で、バケツに水を汲み、先頭の人にかけてやっていました。みち子たちも列に並んで、水をかけてもらいました。

「私とお母さんに、もっと水をかけてください」

 とみち子が言うと、、バケツの小父さんがギロリとした目で、みち子を睨みました。

「みんな並んでいるんだぞ。一人に一杯だけだ! もう火が回ってくる、早く逃げろ!」

 それから先は、何処をどう走って、上野の山まで逃げたのか、何も思い出せません。上野の山で、何回か寝たような気がします。上野の山にいるうちに何か食べたのでしょうか、それさえも覚えていませんでした。ただ、いつまでもいつまでも、家々が燃え続け、不気味な赤い空を見ていたことだけを覚えています。

 気がつくと、あたり一面が焼け野原でした。

 みち子たちは、もとの家の方に帰ることにしました。けれども、建物がみんな焼けてしまった街では、方角がよく分かりません。

 帰る途中、道のあちこちに、逃げ遅れて焼け死んだ人が倒れていました。赤ん坊をおんぶしたまま倒れている人もいました。防空壕の中で死んだ人が、担架で運び出されていました。担架に乗せられた人の首が、胴体から離れて、道に転がり落ちるのも見ました。

 家の近くまで行っても、本当に家のあったところは、なかなか分かりません。

「お母さん、あの木、久保田さんの家の松の木みたい」

 焼けただれた松の木を見つけて、みち子たちは、やっと自分たちの家のあったところが分かりました。

 男手のある家の人達は、焼け残った板やトタン板を集めて、掘っ立て小屋を作っていました。焼け残ったのは、コンクリートで作られた公園の便所くらいで、そこに陣取った人達もいました。

 みち子たちは何もできず、ただぼんやりと座っていました。けれども、容赦なく夜は近づいてきます。仕方なく、玄関があったところの土台石に沿って土の土手を作り、、お母さんとみち子がやっと寝られるだけの窪みを作りました。二人はそこに横になり、拾ってきたトタン板で、近所の人に蓋をしてもらいました。トタン板が風で飛ばされないように、石の重しもしてもらいました。

 逃げるときに被っていた布団は、何処でなくしたのか、もう持ってはいませんでした。防空頭巾を枕にして地べたに寝たのですが、疲れていたので、ぐっすり眠りました。朝になると、下からトタン板をどんどん突きます。すると近くの人が気づいて、、石の重しを取り、トタン板の屋根を外してくれました。

 こうして何日か過ごしました。ある日、役所から、お父さんが戦死したという知らせが届きました。お母さんが、遺骨の入って箱をもらってきました。その箱があまり軽いので、なかを開けてみると、「御霊」と書かれた紙が入っているだけでした。

 その晩、遺骨の箱を枕元に置き、トタン板をかぶせてもらったあとで、お母さんがみち子の手を握りながら言いました。

「私は信じない。お父さんが本当に死んだのなら、遺骨があるはずだもの。紙切れなんて、私は信じない」

「そうよ。お父さんが死ぬはずはないわ。みち子がお嫁に行くときは、すばらしい琴を作ってあげる、って、お父さんはいつも言っていたの。私の琴を作る前に死ぬはずはないわ」

 みち子は本気でそう思いました。だから二人は、お父さんが死んだなどとは信じないことにしました。

 次の日、山梨の伯父さんが尋ねてきました。

「やあ、二人とも無事でよかった。本当に良かった」

 でも、お父さんの遺骨の箱を見ると、びっくりして口をつぐみました。そして、リュックサックを背負ったまま、手を合わせました。

「俺のところは田んぼはないんだ。畑ばかりだから、米は陸稲だ。量も穫れない。なけなしの米で作ってきたんだ。食えよ」

Tati0010

 伯父さんはリュックからお握りを出して、二人に渡しました。みち子はそのお握りを、指に付いた飯粒まで、全部食べました。家の焼け跡を見たときにも、お父さんの遺骨の箱を見たときにも流れなかった涙が、あとから、あとから、あふれ出るのでした。

                    続く

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2009年12月28日 (月)

本のないお話・5

12月28日(月)

本のないお話・第5回

東京大空襲・1

 毎日のように空襲がありました。昨日まで元気に登校していた友達が、何の前触れもなく、学校に姿を見せなくなることもありました。空襲で亡くなるのです。疎開していく友達もいました。残っている子どもたちも、近いうちに学童疎開になるという噂です。

 お母さんはみち子に、疎開の相談をしました。

「お父さんは兵隊に行ってしまったし、このままだと、みち子は学童疎開に行くようになるし、家中が離ればなれになるわね」

「そんなの嫌だわ」

「山梨の伯父さんを知っているでしょう。あの伯父さんがね、来ても良いって言うの。みち子はどう思う?」

 お父さんが兵隊に取られてからというもの、お母さんは何でもみち子に相談します。お母さんは末っ子です。山梨の伯父さんは一番上の兄さんで、富士山の裾野で開拓をしているのです。荒れ地や林を切り開いて、畑を作っています。伯父さんは背は低いけれども、がっちりと肩幅の広い人です。お母さんは痩せて背が高いので、兄妹でも随分違うんだなあと思っていました。

 去年は開拓地で採れた野菜と、ヤマブドウで作ったという葡萄酒を持ってきてくれました。そのころは普通の人がお酒を造ってはいけなかったのですが、こっそり作ったのです。お父さんと葡萄酒を飲みながら、大声で、

「アハハハ」

 と笑っていました。

「あ、伯父さん、のどちんこが見えた」

 みち子が冗談を言うと、

「女の子がそんなことを言ってはいけない。アハハハ」

 とまた笑いました。

「お母さん。あの伯父さんなら、私好きよ」

「でも、開拓地だから、生活は苦しいのよ」

「苦しくても、東京にいるより安心なんでしょう?」

「そうね。お父さんが帰ってくるまで、伯父さんのところへ行きましょう」

 みち子たちがそんな話しをした晩にも、空襲がありました。焼夷弾がこれまでになく、近くに落ちてくるような気がします。みち子とお母さんは、びっくりして、布団を被って逃げました。

 でも、その日の空襲では、みち子の家の当たりは無事でした。みち子たちが帰ってくると、警防団の人達に、

「あんな空襲で逃げ出すなんて、臆病者だ」

 と笑われてしまいました。

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2009年12月27日 (日)

本のないお話・4

12月27日(日)

本のないお話 第4回

道具を埋めるお父さん

 戦争中にも、みち子たちの学校には、給食がありました。1年生の時には、給食にご飯が出ました。家から、おかずと空の弁当箱を持っていきます。お昼になると、1年生から順番に、大きな釜のあるところへ行きます。すると小使いさんが、空の弁当箱に、ご飯を入れてくれるのです。2年生になると、ご飯の代わり、コッペパン1個の給食になりました。パンは、おかず無しで食べました。ジャムもバターも付けないコッペパンを、水を飲みながら食べるのです。

 やがて、土曜日は玄米パンになりました。すぐに、水曜日も玄米パンになりました。それから、給食がなくなりました。

 家では、みんな雑炊を食べていました。雑炊は、どろどろしたお湯の中に、あり合わせの野菜が入り、お米がほんの少し混ざっていました。雑炊も配給で、3食ごとに、雑炊を作るお店の前に、鍋を持って並ぶのです。お店の人が、その家の人数分だけ、大きなひしゃくで雑炊を掬って、鍋に入れてくれます。みち子も、良く鍋を持って並びました。戦争が終わって何年も経ってから、豚の餌を見たとき、みち子は、あのときの雑炊と似ていると思いました。

 そのころお父さんは、強制疎開の家を壊す仕事はやめて、メガホンと荷札を売る仕事をしていました。

 メガホンは、警防団の人達が、

「警戒警報発令!」

 とか、

「空襲警報発令!」 

 などと叫んで歩くために必要な物でした。また、配給のお知らせなども、メガホンでやりました。

 荷札は、疎開する人が荷物を送るために必要でした。疎開する人はおおいし、荷物は乱暴に扱われるので、荷造りはあり合わせの木の板で囲んで作りました。荷札はベニヤ板で出来ていて、四隅を荷造りの板に釘で打ち付けるのです。

 荷造りするための釘も不足していました。そのくせ、なぜがあのころは、道に釘が落ちていたものです。錆びて曲がった釘です。そんな釘でも、見つけたら拾うのが当たり前でした。金槌で叩いて、のばして使うのです。荷造りしたものを壊すときも、抜いた釘は大切に取っておきました。1本の釘を何度も使うのです。

 それでも釘がたりなくて、、荷札を売るときに、釘も付けるように求められました。それでお父さんは、上手に打たなければすぐ曲がってしまうような細い釘を、荷札1枚に4本付けて、一緒に売るようになりました。そんな釘しか手に入らなかったのです。

 お父さんは自転車の荷台に、メガホンと荷札を積んで、東京中を売り歩きました。

ある日お父さんは、荒川の近くに売りに行きました。気がつくと、空襲警報も警戒警報もなかったのに、アメリカの飛行機B29が真上にいました。警報はいつでも遅れ気味なのです。B29が焼夷弾を落とすのが見えました。お父さんは手許のメガホンで、

「焼夷弾落下!」

 と叫びながら、自転車を全速力で走らせました。お父さんが夢中で逃げて、荒川の土手まで来たとき、焼夷弾が目の前の荒川に落ちました。慌てていたので、焼夷弾の落ちる方に逃げたのでした。家に帰って、お父さんがその話しをして、言いました。

「今日は命拾いをした。お前たちの疎開先を、早く見つけなくてはいけないなあ」

                                                            Imgp2672  

 昭和20年1月、おとうさんは補充兵として入隊することになりました。お父さんは、カンナやノミを丁寧に研いで、油をひき、新聞紙に来るんで、油紙を敷いたリンゴの箱に入れました。更にその箱を油紙で包み、庭に穴を掘って埋めました。そのころは、ラップもビニールもありません。濡らしたくないものは、油を染み込ませた紙に包んだのです。

「道具はね、使う人がいなくなると、不思議に早く錆びるんだ。なんでかなあ」

 みち子が側に行くと、お父さんが話しかけました。

「まして土の中に埋めたりしたら、錆が早いだろうなあ。そうかと言って、出しておいたんでは空襲でやられるかもしれないし・・・」

 最後は独り言のようにつぶやきました。

「俺は、満足な琴はひとつも作れなかったような気がする・・・」

「元気で帰ってきて、もっと、もっと、良い琴をたくさん作ってください」

 いつの間にか側に来ていたお母さんが言いました。

「うん、死にやしないさ。だけど、また琴を作れるような時代が来るのかなあ・・・」

「来ますとも。きっと、来ますとも」

 そう言うお母さんは、少し涙声でした。

                 続く

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2009年12月26日 (土)

本のないお話.3

12月26日(土)

本のないお話 第3回

さよなら さっちゃん

 昭和19年、みち子は3年生になりました。同級生のさっちゃんは、みち子と大の仲良しです。

 その日も、二人は石蹴りをして遊んでいました。そこへ何人かの男の子がやってきて、みち子に声をかけました。

「兵隊ごっこしようぜ」

「ええ、私は航空兵になる」

 みち子は飛行機が大好きなのです。

「ばかだな。女の子は従軍看護婦さんだよ」

「看護婦さんは嫌。工兵でも良いわ。工兵なら、橋を架けたり出来るから」

「でも、私は看護婦さんをやりたい」

いつも優しい、さっちゃんが言いました。

「おまえは駄目だ。おまえの家は強制疎開なのに、まだ疎開してないじゃないか。おまえは非国民だ」

 一人の男の子が言いました。みち子は、はっとしました。さっちゃんの家が強制疎開になるなんて、少しも知りませんでした。

「非国民じゃないもん。疎開するもん」

 さっちゃんは真っ赤になり、下を向いて、小さな声で言いました。

 疎開というのは、空襲を避けて田舎の方へ引っ越すことです。強制疎開というのは、、空襲の被害を少なくするため、一定の区域を決めて、そこに住む人達を強制的に立ち退かせることです。強制疎開と決まった区域の人は、立ち退く先があってもなくても、決められた日までに引っ越さなくてはならないのです。みち子の家は、東京の市ヶ谷にありました。近くに陸軍の練兵場があり、そこを守る為なのかどうか、みち子の家の、道路の向かい側の家が、強制疎開になりました。

「そうだ、非国民だ」

 他の男の子達も、口をそろえて言いました。

 非国民というのは、戦争中では、もっとも強い非難の言葉でした。国を挙げて戦争をしているのに、その戦争に協力しないとんでもない人、という意味がありました。

「引っ越すもん。非国民じゃないもん」

 さっちゃんはもう一度小さな声で言うと、泣きながら家の方に走っていきました。

「あんた達となんか遊ばないよーだ」

 みち子は男の子達に赤んべえをして、さっちゃんの後を追いました。

 そのころ、みち子のお父さんは大工の手伝いをしていました。琴は、大川さんに売ったのが最後で、それっきり売れなくなったのです。戦争になって、琴が売れたのは、ほんのわずかな間だけだったのです。

 大工の手伝いといっても、空襲の激しい東京で、家を建てる人はいません。だから、強制疎開の家を壊す仕事をしているのです。さっちゃんの家が強制疎開になると聞いて、はっとしたのは、お父さんがさっちゃんの家を壊すのではないかと思ったからです。

 昨日、お父さんがお母さんに言っていました。

「俺は今の仕事は嫌だ。まだ、ちゃんと人が住める家を壊すなんて、幾ら何でももったいないや。屋根を剥がして、壁をぶち抜いて、梁に縄をかけて、みんなで引き倒すんだ。柱がギイギイ言うんだ。家が泣いているように聞こえるよ。職人は物を作るのが仕事だよ。それなのに今のおれときたら、家を壊す仕事をしてるんだ。情けないったらありゃあしない。皿1枚でも、わざと割るのは嫌なもんだ」

 さっちゃんが家に帰ると、さっちゃんのお父さんとお母さんは荷造りをしていました。さっちゃんを見て、お母さんが腰を伸ばして言いました。

「おや、また泣いて帰ってきたの。泣き虫だねえ」

「おばさん、男の子が悪いの。だって、強制疎開なのにまだ疎開しないから非国民だ、なんて、みんなでいじめるんだもの」

 さっちゃんと一緒に来たみち子が言いました。それを聞いて、さっちゃんのお父さんが怒りだしました。

「うちは非国民なんかじゃない。明日疎開する。だから荷造りをしているんだ」

「みち子ちゃん、そうなのよ。お父さんの友達の紹介で、やっと引っ越し先が決まったの。お父さんも私も、東京の人だから、強制疎開といわれても、急には行き先も見つからなくてねえ」

 まるで大人に話すように、さっちゃんのお母さんが言います。

「みち子ちゃん、さち子と仲良くしてくれてありがとう。疎開先で落ち着いたら、さち子に手紙を書かせるから、あなたも手紙をくださいね」

「はい」

 頭をこっくりすると、みち子は走ってうちへ帰りました。さっちゃんとお別れをいうのが辛くて、黙って走りました。涙があふれそうでした。

Tati0009 その夕方、さっちゃんがお手玉を3つ持ってきました。

「みち子ちゃんと遊んだお手玉よ。お母さんが作ってくれたものなの。全部で6つあるから、半分上げる。そうすれば、離れていても、同じお手玉で遊べるもの」

みち子は缶詰の空き缶を持ってきて、中に入っているおはじきを畳の上に広げて言いました。

「ねえ、これも半分ずつにしましょう」

 続く

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2009年12月25日 (金)

本のないお話・2

12月25日(金)

本のないお話 第2回

お父さんの仕事

 美智子のお父さんは、琴を作る職人でした。住んでいる家の庭に、小さな仕事場があって、そこで琴を作っていたのです。琴は桐の木で作ります。それから、シタンとかコウキとかいう木を使います。シタンやコウキは石みたいに固くて、水に入れると沈みます。

 みち子は小さいときから、お父さんの仕事場に行くのが好きでした。仕事のじゃまになるときは、

「あっちへ行きなさい」

といわれます。でも、お父さんの側にしゃがんで、ノコギリやカンナやノミで、木を切ったり削ったりするのを見ることが出来るときもあります。

 仕事場にはいろいろな道具があります。みち子の手のひらに隠れるような、小さなカンナもあります。あるときそのカンナで板を削らせてもらったら、みち子の力でもちゃんと削れました。

Photo

 そのころ、みち子は国民学校の2年生でした。今の小学校のことを、太平洋戦争のころは、国民学校といっていたのです。そうです。みち子が皆さんくらいの時は、日本は戦争をしていたのです。ですから、このお話は、戦争中のお話です。

 みち子が1年生の時は、お母さんが鉛筆を削ってくれました。2年生になると、お母さんは肥後守(ヒゴノカミ)という小刀を買ってくれました。そのころ流行っていた小刀で、刃が柄の中に折りたためるようになっていました。みち子のクラスの男の子は、たいてい肥後守を持っていました。女の子も、何人かが持っていました。お転婆で、男の子と喧嘩をしても負けないみち子が、肥後守を欲しくないはずがありません。お母さんは、それをちゃんと知っていたのです。

 そんなことを知らないお父さんも、みち子に小刀を作ってくれました。切り出し小刀の刃を買ってきて、柄とさやを付け、刃先を研いで作ってくれたのです。みち子が肥後守を持っているのを知ると、お父さんは何だかつまらなそうな顔をしました。そして言いました。

「これを使え。こっちの方が切れるぞ」

 本当に、お父さんの作ってくれた小刀の方がよく切れました。だから家では、切り出し小刀で鉛筆を削ります。でも、学校には肥後守を持っていきます。みんなと同じだからです。

 ある日みち子が学校から帰ってくると、お父さんは畳の上に湯飲みを置いて、お酒を飲んでいました。この頃はお酒が手に入らないので、大切にしていたことを、みち子は知っていました。それなのに、昼間からお酒を飲むなんて、一体どうしたのでしょう。お父さんは何かぶつぶつとつぶやいています。

「ふん、何が『琴やこっちへおまわり』だい。こちとらは犬ころじゃねえんだ。勝手口へまわしておいて『はい、これが琴のお代だよ。持っておゆき』なんて言いやがる。ご用聞きじゃねえんだ、勝手口はねえだろう。べらぼうめ。お前なんかに琴の良し悪しが分かってたまるかッてんだ」

 お父さんは江戸っ子なので、悪口を言うときは、べらんめえ口調になるのです。

 みち子は台所のお母さんに聞きました。

「ねえ、お父さんはどうしたの?」

「それがね、大川さんにお琴を届けに行って、帰ってきたらあの調子なの。よっぽどおもしろくないことがあったらしいわ。高い琴を頼まれたので、喜んでいたのだけれどねえ」

 みち子は知らなかったのですが、ここ何年かは、琴があまり売れなくなっていたのです。それなのに、戦争になったら、かえって高い琴が売れるのです。不思議なことに、高い琴と安い琴が混ざって売れるのではなくて、高い琴だけが売れるのです。

「心配していたけれど、戦争になったら、かえって景気がいいや。もっとも、今買ってくれる人は、丸山さんを別にすれば、どうせ大して弾きやしないんだ」

 いつか晩ご飯の時に、お父さんが言いました。

「そんなことが、どうして分かるの?」

「練習用に安い琴を買って、演奏会の時に良い琴を使うとか、下手なうちは安い琴を使って、上手になったら高いのを使うのが普通なのさ。あの人達は、はじめから高い琴だけだもの」

 初めに買ってくれたのは、軍人の丸山さんの奥さんでした。お父さんの琴をとても気に入ってくれて、軍人や、軍のために必要な物を作っている工場の偉い人を、何人も紹介してくれました。お父さんとお母さんの話の中に「丸山さん」という言葉が良く出てくるので、みち子もその名前を知っていました。今日琴を持っていった大川さんも、丸山さんの紹介だったのです。

「おい、酒がないぞ」

 お父さんが怒鳴ります。

「もうありませんよ」

 お母さんが答えます。

「買ってこい」

「今どき、お酒なんか簡単に買えませんよ。あなただって知ってるでしょう」

 お父さんはまだ飲み足りなそうでしたが、何かぐずぐずいいながら畳に横になり、そのまま眠ってしまいました。

                 続く

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2009年12月24日 (木)

本のないお話

12月24日(木)

本のないお話・1

終業式のあとで

Tati0012

 3年3組の教室はとても賑やかでした。今、終業式が終わったばかりです。終業式では、担任の山田美智子先生が、学校をやめて山梨へ行ってしまうと言う話しがありました。この学校では、担任が大抵2年くらい、同じクラスを受け持ちます。だからみんなは、4年生になっても、山田先生が担任になるのだとばかり思っていました。それなのに、終業式で、山田先生が学校を辞めると発表されたのです。

 教室のドアが開いて、山田先生が入ってきました。

「先生、どうして学校をやめるの?」

「なんで今までないしょにしていたの?」

みんなは口々に聞きました。

「今まで黙っていてごめんなさい。言うと寂しくなるので、わざといいませんでした。実は先生のお母さんがずっと、山梨の田舎に住んでいます。そのお母さんが歳をとって、体が弱くなったので、先生が一緒に住むことになったのです」

 先生が静かに話しました。

「先生が皆さんくらいの時、日本は戦争をしていました。それから、戦争が終わって、誰もが苦しい生活をしました。そんな中で、お母さんは苦労をして私を育ててくれました。今度は、私がお母さんの世話をしようと思います。ですから、田舎に行くことにしたのです」

「先生のお母さんは病気なの?」

和子が聞きました。

「ええ。悪いところもあるようです。先生は学校を辞めますが、皆さんは、今までと同じように、元気な4年生になってください。みんなのことは、何時までも忘れませんよ。でも、辞める話はそれくらいにしましょうね。落ち着いたら、先生が皆さんにお手紙を出します。皆さんも、きっとご返事をくださいね」

 みんなは、もっともっと話を聞きたいと思いました。でも、先生はそれ以上話してくれそうもありません。クラス中がシーンとしました。いつもは賑やかな正夫も、何だか淋しくなってきました。その淋しさがたまらなくなって、わざと大きな声で言いました。

「先生、今日は本を読んでもらう日です」

「あっ、そうだ。お話の日だ」

「本を読んでください」

 ひろしも、次郎も云いました。山田先生は1週に1度、みんなに本を読んでやっていたのです。みんなはそれを、とても楽しみにしていました。

 教室が少しザワザワしてきました。

「そうですね、お話の日ですね。だけど、今日は本を読みません」

いつもの、少しいたずらっぽい目をして、先生が言いました。

「ずるい。お話がなしだなんてずるいと思います」

びっくりするほど大きな声で、正夫が言いました。先生はクスリと笑いました。

「本は読まないけれど、お話はします。今日は先生の知っているお話をします。本のないお話です」

 みんなはお話が聞けると知って、ほっとしました。でも、本のないお話って、どんなお話でしょうか。クラス中が、まっすぐ先生の方を見ました。先生は静かに話し始めました。それは次のようなお話でした。

                   続く

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2007年6月 6日 (水)

影隠し地蔵縁起 13

6月6日

影隠し地蔵縁起 13 ーー風は見ていた

エピローグ

夏も冬も、春も秋も、強く弱く、風は吹き続ける。四季を重ね、年を重ね、村は発展して、町になっていた。人間は、いつになったら争いをやめるのだろうか。その頃日本は、アメリカと戦争をしていた。

初夏の風が穏やかに吹いて、気持ちよく晴れたある夏の日、少女が一人、村はずれの広場で遊んでいた。

しかし空の彼方から爆音が聞こえてきて、アメリカの爆撃機B29が現れた。B29は、町にあった軍需工場をめがけて飛んできて、沢山の爆弾と焼夷弾を落としていった。軍需工場やその付近かからいくつもの火の手が上がり、火は燃え広がっていった。炎は風を呼び、風は炎を増幅させる。風はまもなく清水八幡の社まで炎を運び、社ははげしく燃え上がった。

あたり一面の火の海の中で、少女は逃げまどい、影隠し地蔵の後ろに身を隠した。影隠し地蔵が、逃げまどうものの身と影を隠してくれることを、少女は知っていた。しかし炎は、影のあるものもないものも、すべてを焼き尽くしていった。地蔵にも火がつき、少女と共に燃え上がった。

「ひどい!なんてひどい!」

どこかで声がします。風の声でしょうか? いえ、慎君が叫んだのかもしれません。気がつくと、慎君は影隠し地蔵の前に立っていました。

何事もなかったかのように、人は歩き、車は走っています。影隠し地蔵は、二瘤川の橋のたもとにあるお地蔵様でした。いつも赤いよだれかけを掛けていて、慎君はこれまで、何度も見たことがあるものでした。

地蔵は町の人々が、戦のあとで建て直したものです。それは今も「影隠し地蔵」と呼ばれています。だが地蔵は、もう誰も隠しません。ただ黙って立っているだけです。

今も風は吹いています。風には喜びも悲しみもありません。風は、ただ吹いています。風は黙ってみています。

慎君は、駅に向かって、のろのろと歩き出しました。

                                              終わり

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2007年6月 5日 (火)

影隠し地蔵縁起 12

6月5日

影隠し地蔵縁起 12 ーー風は見ていた

首塚 3

翌日、義宗とおとき、藤治と七人の仲間は、義興の首塚にお参りをした。そのあと、藤治と参三郎、与十郎の三人は、義宗が引き留めるのも聞かず、立ち去ってしまった。なんとしても百姓になることを潔しとしなかったのである。それ以外の五人は、義宗のもとに残った。

毎朝、おときは首塚の前に置いてあるお椀の水を取り替えに行く。藤治たちが立ち去ったその翌朝、首塚の前でおときが見たものは、藤治たち三人の自決した姿であった。

おときの知らせを聞いて駆けつけた義宗は、ただ呆然と立ちつくした。

「藤治殿は、義宗殿に会うことを楽しみにしておられたが……」

と義宗のもとに残った武将の一人が言った。

「期待を裏切られたというわけか」

絞り出すような声で、義宗が言った。

そして、しばらく無言が続いた。

「藤治たちは、一度立ち去りはしたが、大将無しでは足利と戦えないと思ったのであろう」

誰かが、つぶやくようにいう。

「それで、ここまで帰ってきて、自決したというのか」

「昔の主人の後を追ったのだろう」

五人の武将たちは声をひそめて話す。義宗は、終始無言で立っていた。

藤治たちが自決してからと言うもの、義宗はめっきり無口になり、おときが話しかけても、上の空の返事ばかりが帰ってくる。五人の武将たちも、たまにおときの畑を手伝うことはあっても、おしなべて無口だった。

義宗たちは、義興の首塚のまわりに、三人の墓を作った。そして首塚と、三つの墓へのお参りは毎日欠かさなかった。

義宗と五人の武将たちが、ときどき、何か小声で話しているのを、おときは何度か見た。何か分からないが、嫌な予感がして、おときは胸ふさがる思いだった。

ある時、義宗がおときにいった。

「われわれはこれから北陸へ行く。新田に心を寄せるものを集めて、もう一度兵を挙げる。ここに帰ることはもう無いだろう」

あまりのことに、おときは返す言葉を失った。なぜ? なぜ? と思うのだが、何をどう言えばよいのか分からない。

「嫌だ、いかないで!」

とだけ叫んだ。

その晩義宗は、おときと水杯を交わした。それ以後、義宗は全くものを言わなくなった。おときが話しかけても、怒っても、泣いても、ただ黙っていた。

次の朝、義宗と五人の武将は、無言で水垢離をとった。そして無言で家を出た。義興の首塚と三人の武将の墓に、長い祈りを捧げ、影隠し地蔵と清水八幡に必勝祈願をし、二瘤川を渡って、村を出て行った。

川の向こうに去って行く義宗に向かって、おときは叫んだ。

「畑はどうするだ! ネギはどうするだ! 田んぼはどうするだ!」

吉宗たちは振り向きもしない。

「なんで戦をするだ!なんで、なんで百姓ではいけねえだ!」

おときの叫び声は風に運ばれて川を渡る。その声が聞こえておるのかいないのか、義宗たちは、ただ黙って遠ざかっていく。

春まだ浅い冷たい風が、おときの体に吹き付けていた。

義宗たちのその後のことは、誰も知らない。北陸の戦で死んだと、風は噂に聞いた。

                                       続く

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2007年6月 4日 (月)

影隠し地蔵縁起 11

4月4日

影隠し地蔵縁起 11 ーー風は見ていた

首塚 2

義興を討って安心したのか、まもなくも基氏は二瘤山の御所を閉じ、鎌倉に帰っていった。しかし、基氏が鎌倉へ帰ったあとも、義宗は村に残った。義宗はおときを妻とし、いつの間にか百姓に馴染んでいった。

ある日、そんな義宗の前に、8人の武将が尋ねてきた。武将と言っても、武器を持っているからそう分かるだけで、着ているものは百姓と変わらず、いつ洗濯をしたのか分からないような、薄汚れた衣類である。表情も、いくらか疲れているように見えた。それでも、義宗と会えたことがいくらか誇らしげで、一人が口を切った。

「義宗どの、山岡藤治です。山岡の藤治です」

「なに?藤治?山岡の藤治か」

「はい。山岡の藤治です。お懐かしゅうございます」

山岡藤治は、兄義興に従っていた武将で、義宗も何度か会ったことがある。

「私は真間の参三郎です」

「私は神部与十郎」

「私は……」

「私は……」

八人の武将は、次々に名乗りを上げた。皆、義興の家来である。

「義宗殿がいまだに二瘤村にひそんでいると聞き及び、我ら八人こうして尋ねて参りました」

義興が討たれた後、家来たちはちりじりに逃げ去った。出身地に帰って、ひそかに暮らす者はまだしあわせだった。あるものは身分を偽って、見知らぬ土地で暮らし、またある者は各地を放浪する、乞食となっていた。

山岡藤治もまた、そのような放浪者となっていた。そして放浪中に、義宗がまだ二瘤村に潜んでいるらしいという噂を聞いた。

藤治は、義宗に会いたいと思った。義宗は、もう一度兵を起こすに違いないと思った。その時、自分もその軍団の中にいたいと思った。藤治の胸には、自分はこんな乞食として終わる人間ではない、と言う自負もあった。

義宗が二瘤村に潜んでいるらしいと知ってからの藤治は、、かっての仲間を訪ね歩き、同志を募った。しかし藤治に同調する者は少なく、七人の仲間を集めるのも、容易ではなかったのである。だが、その仲間と共に、今は義宗の前にいる。藤治は、胸の思いを義宗に伝えた。

義宗は困惑した。新田の勢力も、今はちりじりである。世の中は足利に定まってしまった。それを不承不承受け入れ、おときと百姓で暮らそうと思っていた。そこへ藤治立ちが尋ねてきたのである。現在の新田氏には、足利を討つ力がないことを話しても、藤治は納得してくれないのだ。一晩話しあったが、藤治も義宗も、自分の意見を変えなかった。

                                                 続く

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