2008年8月31日 (日)

死後の烈女・2

8月31日(日)

死後の烈女・2(狗波利子・通算76回)

(前回のあらすじ・福島角左衛門は豊臣秀吉に仕官をすべく、姫路から都に向かっていた。摂津の国(一部大阪、一部兵庫)高槻で、貧しく美しい女に会う。一緒に都に上ろうと誘うが、夫がある身だとと言って、激しく断られる。)

角左衛門は、その夜、山崎に宿を取った。次の日、その女のところに書類を忘れてきたのに気がつき、引き返した。その道中で葬儀の列にあった。

「誰の葬儀ですか」

「布商人の籐内の葬儀です」

なんと、昨日の女の夫の名前である。角左衛門は驚いて、その葬列に加わり、行き着いたところは昨日女にあったところだ。しかし、昨日は見えた家はなくて、草ぼうぼうの野原である。籐内の遺体を埋める穴を掘ると、隣の女房の棺があった。そこに、昨日女が縫っていた足袋と、角左衛門が与えた餅、菓子があった。

その傍に塚が二つあり、誰の塚かと聞けば、舅、姑の塚で、10年ほど前のものだという。

角左衛門は感激し、葬儀の者たちに昨日の出来事を話し、金子を与え、跡の弔いも懇ろに行った。

この女房は、死すとも二夫にまみえず、舅、姑に孝養をつくし、女の道を全うした。夫を忘れて再婚したり、ふしだらな生活に走るものは、この女房の話を聞けば、少しは反省の気持ちが湧くのではないか。

                 狗波利子全巻終わり

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2008年8月30日 (土)

死後の烈女・1

8月30日(金)

死後の烈女・1(狗波利子・通算75回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

福島角左衛門は、姫路の人間である。長いあいだ主を持たずにいた。豊臣秀吉に仕える福島左衛門太夫が知り合いなので、その口利きで秀吉に取り立ててもらおうと思い、故郷をでて都に向かった。

明石、兵庫の浦を過ぎ、尼崎に出て、ようやく津の国、高槻のあたりに来た。すると、しきりに喉が渇く。見ると道ばたに小さな家があり、女が1人、道に向けて開けられた窓の明かりを頼りに、せっせと足袋を縫っている。こんな田舎には珍しい美人である。

角左衛門が湯水を求めると、女は隣の家からお茶をもらってきて、角左衛門に与えた。角左衛門が家の中を見まわしたところ、台所や竈がない。

「この家では火を使わないのですか?」

「うちは貧しくて、ご飯を炊くことが出来ない。近くの人に雇われてその日その日を送っている。まことに情けない暮らしです」

と言いながら、女は手を休めることなく足袋を縫っている。美しく、優しさに溢れた姿に角左衛門は心を動かされ、女の手を取り、

「あなたのような方が、こんな田舎で貧しく暮らしているのは気の毒です。私と一緒に都に行きませんか。悪いようにはしませんよ」

女は汚らわしいというように手を振り払って、返事もしない。しばらくして、

「私には籐内という夫があります。布を商う人で、今は商売のため遠くに行っていますが、私はここにとどまり、舅や姑に孝養をしている。貧しいながら仕事をし、舅姑が飢えや寒さを感じないように心を尽くしているのです。明日は久しぶりに夫が帰ってきます。あなたは早く立ち去ってください」

角左衛門はその女の貞節を感じ、大いに恥じ入った。そして従僕に持たせた食料入れの箱を開き、餅と果物を女に与えて立ち去った。

                        続く

 

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2008年8月29日 (金)

鼠の妖怪・2

8月29日(金)

鼠の妖怪・2(狗波利子・通算74回)

(前回のあらすじ・徳田という商人が応仁の乱で荒廃する京都を避けて、賀茂の方に隠棲することにした。新居のお祝いをしていたら、その家の以前の住人が、一晩だけこの家で婚礼をさせてくれと言って大勢を引き連れてやってくる。どんちゃん騒ぎの跡、ふいに人がいなくなる。)

夜が明けてみると、婚礼用具として持ち込んだものは何もなくて、この家の主人徳田の家具、道具類、秘蔵していた茶の湯の道具まで、ことごとく引き散らされていた。割られたり破かれたり、まともな物はなかった。ただ、床の間にかけていた、牡丹の下に猫が眠っている絵の掛け軸だけが、無事であった。

「これは何かよくないことが起きるのではないか」

と、人々は眉をひそめてささやきあった。

ここに、村井澄玄という老儒がいた。博学博識の儒者が言った。

「怖れることはない。これは老いた鼠の妖怪の仕業だ。鼠は猫を怖れるから、猫の絵には近づかなかったのだ。このような霊は昔からよくある。『ものはその天を畏れる』という諺がある。二つ三つその例を挙げましょう」

と、次のような話しをした。

昔、ある村の子供が、かえるが数10匹、汚れた池の草陰に集まるのを見た。これを捕まえようと思って近づくと、大きな蛇が茨の下にいて、悠々と蛙を食べている。蛙は凝り固まって、逃げもせず食われるのを待っていた。

また、ある村の年寄りが、ムカデが蛇にあうのを見た。ムカデは急いで蛇に近づいていく。蛇は動かずに、口を開いて待っている。ムカデはその蛇の中に入り、しばらくして出てきた。その時すでに、蛇は死んでいた。年寄りはその蛇を山の中に捨てた。10日くらいしてそこへ行ってみると、無数の小さなムカデが、その蛇の肉を食っていた。ムカデは蛇の中に卵を産んだのである。

またある人が、蜘蛛がムカデを追いかけているのを見た。ムカデは切り倒された竹の中に逃げた。蜘蛛は中へは入らず、竹の上で腹を何回もゆらして去っていった。そのままムカデは出てこない。竹を割ってみたら、ムカデはすでに腐り爛れて、味噌のようであった。これは蜘蛛が排泄物をムカデにかけたためである。

「ものが天を畏れるというのはこういう事です。鼠が猫の絵を畏れるのも同じです。鼠の妖怪などに好き勝手をさせてはいけません。鼠穴をたどって、鼠狩りをしなさい」

そこで、鼠穴をたどっていくと、屋敷から100メートルほど離れたところに、石ころの重なった小高いところがあった。その下に大きな穴があって、年を経た鼠が沢山群がっていた。それを全部捕らえて殺して埋めた。

その後は何事も起こらない。

                      終わり

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ネズミの妖怪・1

8月28日(木)

鼠の妖怪・1(狗波利子・通算73回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

応仁(1467-1469年)年中、京の四条のほとりに、徳田という大商人がいた。家は富み栄え、財宝は倉庫に溢れるほどだった。

その頃、世の中は大いに乱れて(応仁の乱)、戦が止むことはなかった。特に、山名、細川の両家は、権を争い、野心満々で、たびたび戦っていた。そのため都は荒らされ、人々は怖れとまどい、深い淵の上で薄氷を踏むような生活をしていた。

徳田も都がいやになり、北山と賀茂のあたりに親戚があったので、引っ越していけるような家を探してもらった。賀茂の在所に古い御所があったのでそれを買い、山荘としてしばらくそこに住むことにした。

しかしながら、長く人が住んでいない古い屋敷なので、荒れ果てて、軒は傾き、垣は崩れている。さしあたって掃除をし、何はともあれ、引っ越しを済ませた。

京にいる親族たちは、お祝いに集まってきた。徳田は大いに喜び、客を家に入れ、終日酒宴を催した。詠い、踊り、夜には主客とも酔いつぶれて、前後も知らずに寝てしまった。

夜中に、急に大勢の足音がして、誰かが門を叩く。主人がいぶかりながら戸を開けると、盛装をして、立派な髭を蓄えた人が立っていた。

「私はこの屋敷のもとの持ち主です。私に息子がいて、今日結婚します。その婚礼の儀式をしたいのですが、私の今の家は狭くて汚いのです。今夜だけ、この屋敷を貸してください。朝になったらそうそうに立ち去ります」

そう言い終わりもしないうちに、大勢の者がどかどかと入ってきた。提灯が大小200あまり、2列になって、建ち並び、まず飾り立てた腰が入り、続いて、数々の乗り物が入る。その後ろに供の女たちが、おしゃべりをしながら入る。そして、60歳以上と思われる老人が、大小の刀を差して馬に乗り、歩行の侍6,70人を引き連れているのは、前後を守護しているものと見える。

漆塗りの立派な長持ち、はさみ箱、衣類懸け、屏風、貝あわせの貝を入れる桶など、次から次にと持ち込まれる。

さらには、身分あるものない者など2~300人、が家の中やら庭に入って、酒宴が始まった。山海の珍味を並べ、かつ唄い、かつ踊る。

めでたい席なのだからと、主人や客人も誘い、共に唄い興じる。

新嫁は、まだ14.5歳に見える。少し細めで、色白く、たぐいなき美人である。まわりの女たちもなかなかの顔立ちである。みんなで新婦の手を取り、今日はどうしても飲ませると迫るけれど、新婦は嫌がって、あちらこちらへと逃げる。それを捕まえようとして騒いでいる内に、強い風が吹き、明かりがすべて消えた。主人と客は驚いて、あらためて灯を付けてみると、誰もいなくなっていた。

                       続く     

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2008年8月26日 (火)

五条の天神・2

8月26日(火)

五条の天神・2(狗波利子・通算71回)

(前回のあらすじ・医師・寿玄斎は5条の天神に深く帰依していた。ある夜、不遇を託つ玄斎の夢に、五条の天神が現れて、玄斎に諭して話す。その話しが続く)

今の世になって、人道はますます乱れ、子は親を殺し、臣は君の隙を狙う。上の者は政道を考えることなく、下の者は忠誠心を失う。

君主たる者は仁義に暗く慈悲の心を持たず、税と課役を重くする。国民をむさぼり、家臣を苦しめる。そして自分だけが愉しむ。

こうして得た富を誇り、順序を越えて位階の進むことをのぞむ。能もなく知恵もなく、やることはわがままかってで、善悪、邪正もわきまえない。へつらう者を可愛がり、忠孝心のある者に罪をかぶせる。

たまたま武芸学問に志を持つ人も、禄を得て名声を求めるためで、人のために尽くす気持ちは少しもない。

およそ学問武芸というものは、聖人賢者の求めたところを求め、探るもの。出世を求めるものではない。

切磋琢磨して自分を磨きもせず、目新しい小さな利益に走り、先人の堂々たる道を捨て、奇襲を行う。正攻法の奥深さを知らない。熱心に聖賢の書を読んでも、やることは邪だ。仁義の心なく、学問を持って利欲に代える。君にへつらい、友を妬む。もともと誠がないのだから、利がありと思えば義を忘れる。欲のために道義を忘れ、遊興を好み、富貴栄花の者をうらやみ、美しく着飾ることを好む。

このように、君主は下の者をむさぼり、栄花を極める。臣は上にへつらい、贅沢をする。

そこに必要とする富は、天から降るわけではないし、地から湧くわけでもない。これはみな人民の汗の結晶を搾り取ったものである。

こんなことをしていれば、天下は再び乱れて、人民は苦しむ。賊どもは互いに国を争い、大なるものは少なるものを呑み込み、強い者は弱い者をくじく。争いは至るところに起こり、飢饉疫病が流行る。天下に身を置く場所もない。

寿玄斎よ。お前はこんな世の中に生まれたのだ。自分の不運を嘆いて、少しばかりの禄にありつこうと願っても、無駄なことだ。そんな禄はいつふいになるか判らないし、かえって災いになることもある。

しかし、お前に一つの霊法を教えておこう。水上の浮き草に疫病をいやす効能のあるものがある。沢山集めておいて、時を待ちなさい。

・・・・・

今の世のありさま、将来の事変、あきらかに教えてくれたと思えば、玄斎は夢から覚めた。夜はほのぼのと明けようとしている。

                    続く

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2008年8月25日 (月)

五条の天神・1

8月25日(月)

五条の天神・1(狗波利子・通算60回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

京都五条西洞院の西に、五条の天神がある。

ここには大国主命が祭られている。命はその昔、少彦名命と共に国を治めた。また命は人民の疫病の苦しみを救おうとして、その対処の仕方を教えた。後の世に偉大な仁恵を施したこと、神皇、黄帝(共に中国の伝説上の皇帝)勝とも劣るものではない。従って、代々の執権、奉行職の人は、命を敬ってきた。

応永(1394-1411年)の頃、寿玄斎と言う医者がいた。若い頃より学問に熱心で、黄帝岐伯の教えを探り、秦、越人の深意を極めようとしたが、いまだにその奥義に達することが出来ない。しかも、身は不遇である。

玄斎は日頃より五条の天神に帰依している。信仰心が深く、ことあるごとに天神を敬って、長年過ごした。

玄斎はある晩、夢を見た。

・・・・・

朝早く家を出て、天神の社の前で深く頭をたれていたとき、かたじけなくも天神が社殿の扉を開き、玄斎の前に現れた。

お前は誠を尽くして私を敬っている。その心は私に通じている。お前は身の不遇を嘆いているが、それはむしろ、お前の幸いなのだ。

日本は神の国である。天子は、天照大神の子孫で、その系統を代えたことがない。だから、神道を大切にし、王の道を興隆させ、朝廷の権威を全うすべきである。昔、王の道が守られ、神道に合う世の中の時は、民は素直で豊かに、国家は安泰だった。雨風も季節に応じて穏やかに吹き、飢饉飢餓の憂いもなかった。ましてや、謀反を起こすことなど無かった。

後の世になって、元暦には安徳天皇、承久には後鳥羽院、元弘には後醍醐天皇などに災いがあった。これはみな、君徳がなかった。

天下を敵に奪われ、朝廷は安らかではなかった。落花が海の風にさまよい、悲しみの月が雲に隠れる。王道の徳を忘れず治めていれば、このようなことはなかった。神道のもとを忘れ、政道に人望がなかったためである。王道は衰え、神道も廃れた。悲しいことである。

                       続く

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2008年8月24日 (日)

飯森が陰徳の報い・3

8月24日(日)

飯森が陰徳の報い・3(狗波利子・通算69回)

(前回までのあらすじ・豊臣秀頼の侍大将、鈴木田隼人介の家臣飯森兵助は、人望のある盗賊奉行だった。しかし徳川方に攻められ鈴木田の城は落ち、以来浪々の身であった。播州で昔命を助けた土井孫四郎に会い、歓待を受けるが、孫四郎は兵助を殺そうとする。兵助は命からがら逃げ出す)

兵助は播州堺の宿にたどりついたが、いかにもあわただしい逃亡である。従僕が、なぜそんなに慌てて逃げたのかと聞いたので、兵助は、孫四郎が昔の恩を忘れて自分を討とうとしたことの次第をかったった。

すると、床の下から、痩せた男が抜刀して現れた。

兵助は肝をひやして驚いた。その男が言った。

「私は忍びの者だ。しかし仁義を重んずる侍でもある。孫四郎があなたの首を取れと命じたのでやってきたが、今の話を床下で聞いて、非は孫四郎にあると知った。危うくあなたを殺すところだった。私は義に感ずる人間である。しばらく寝ないで起きていてください。孫四郎の首を取ってきます」

「分かった。よろしく頼む」

その男は刀をひっさげて門を出ると、屋根を伝い、塀を跳び越え、飛ぶように走っていった。そして、夜半には、首を持って帰ってきた。灯を点してみると、確かに孫四郎である。

その男はすぐに立ち去って、再び兵助の前に現れることはなかった。

兵助はその後諸国を回り、のちには都に上って、後方守備の師範として、一生を終えたと言うことである。

                        終わり

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2008年8月23日 (土)

飯森が陰徳の報い・2

8月23日(土)

飯森が陰徳の報い・2(狗波利子・通算68回)

(前回のあらすじ・豊臣秀頼の侍大将鈴木田隼人介の家臣、飯森兵助は、慈悲深い盗賊奉行だった。ある時、土井孫四郎という者を牢から逃がしてやる。鈴木田の城は徳川方に破られ、兵助は浪々に身となり、播磨に至る。聞けば、その土地の代官が土井孫四郎だという。)

兵助は不思議に思い、その屋敷を訪ねてみた。顔を合わせてみれば、まごうことなく、昔助けた囚人の孫四郎である。孫四郎は驚き、自宅と隣り合わせの座敷を清め、招き、まことの命の親として昼夜酒宴を催し、10日ばかり一緒に過ごして、その後ようやく家に帰った。

孫四郎の家のトイレは、兵助の座敷と壁一つ隔てた隣である。兵助は、孫四郎がトイレで妻と話している声を聞いた。

「あなたはこの10日ばかり、客人をもてなしているが、あれはどなたですか」

「昔大恩を受けた人だ。命を救ってもらった。今こうしていられるのも、あの人のおかげだ。だから、厚くもてなしている」

「あなたは、つまらないことをおっしゃいますね。人の一生に、盛衰浮沈があること、別に珍しくはありません。時を得れば人の上に立ち、運が窮まれば人に屈します。今さら昔のことなどにとらわれる必要はありますまい。大恩には報ぜず、と言う諺もあります。あなたが昔、囚われの身となったことを今は知る人もいません。それなのに今のようなことをしていては、いずれ人に知られてしまい、恥をかくことになります。今の時勢に従って判断してください」

孫四郎はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「なるほど。お前の言うのももっともだ。何とかしよう。しかし、このことは他の者に悟られるなよ」

これを聞いて兵助は大いに驚き、衣服や荷物を置いたまま、馬を走らせて逃げた。午後8時頃までに、40キロほど離れた播州、堺にたどりつき、宿を借りた。

                        続く

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2008年8月22日 (金)

飯森が陰徳の報い・1

8月22日(金)

飯森が陰徳の報い・1(狗波利子・通算67回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

豊臣秀頼の侍大将、鈴木田隼人佐は水上からの敵の侵入を防ぐため、番船という仕事を仰せつかり、えた城に居住していた。

その家臣、飯森兵助というもの、盗賊奉行として、二心無く鈴木田に仕えていた。生まれつき心が素直で、慈悲深く、貧しい者を哀れみ、富おごれる者をいさめた。そのため人々はその裁断に従い、服して、反抗する者はなかった。

ある時、土肥孫四郎という囚人があった。罪状は紛れもなかったので、両手を後ろ手に縛って白状させようとした。孫四郎は兵助に、

「私は何もしていない。名のある武士である。知恵も勇気も人に負けることはない。どうか私の言うことを信じて、故郷に帰してください。そうすれば必ずあなたのために力を尽くし、その恩に報います」

と言った。

兵助がつくずくと彼の顔を見ると、憶する様子もなく、まことに豪傑のようだ。兵助はこれを助けようと思ったが、その場ではわざと聞こえないふりをして、牢獄に入れた。

夜中に牢役人を呼んで、孫四郎を逃がし、その牢役人も逃亡させた。

翌朝、囚人が1人、牢役人と共に逃げたと届け出た。鈴木田は大いに驚き、兵助に落ち度があったとして、しばらく蟄居させた。

その頃、徳川家の勢力が大阪に在陣し、蜂須賀阿波守にえた城を攻めさせた。平助は馬に乗り、士卒を下智して、命を惜しまず戦ったが、城は落ちた。鈴木田はようやく一方を切り抜け、万死に一生を得て、秀頼の城に帰参した。

兵助は浪々の身となり、あちこちを漂白したが、食料も金子も尽き果て、困窮して播州の地に至った。そこで代官職の姓名を聞いたところ、代官は土肥孫四郎だという。

                      続く

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2008年8月21日 (木)

蜘蛛塚

8月21日(木)

蜘蛛塚(狗波利子・通算66回)

   原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

昔、諸国行脚の山伏、覚円という者がいた。

紀州熊野で修行をしたのち、都に上って清水寺に参詣しようとした。五条烏丸あたりで日が暮れたので、そこにあった大善院という大きな寺で宿に請うたところ、大善院の僧は、本堂の傍らの、汚い、小さな小屋を貸した。覚円は腹を立て、

「僧の身でありながら、修行者にこんな汚い小屋を貸すとは何事だ」

と噛みついた。

「修行者を侮っているのではない。この本堂には、長年妖怪が住みついている。泊まった者はみな行方不明になり、死体さえ残されていない。この30年間に30人にもなる。だから本堂は貸せない」

「私にそんなことがあってたまるものか。妖怪は人を見て出るものだ」

と、覚円は言う。僧は再三止めたけれども覚円が聞かないので、本堂の戸を開いて覚円を入れた。覚円は静かに仏に礼拝し、念仏を唱え、心を澄まして座っていた。

しかしながら、寺の僧の言葉も気になって、腰の刀を半分抜いた状態で、柄を手ににぎりながら眠った。

夜の10時頃、ぞくぞっくっと寒くなり、堂内がしきりに震動した。そして、天井から、大きな、毛の生えた手が出てきて、覚円の額をなでた。覚円は刀を振り上げて払ったところ、手応えがあって、何かが仏壇の左に墜ちた。午前2時頃、また同じようなことがあって、覚円はやはり刀で払った。

夜が明けて、寺の僧が不安げに様子をうかがいに来た。覚円は、昨夜の出来事を話した。寺の僧は急いで仏壇の傍らを見ると、大きな蜘蛛が死んでいた。80センチあまりもある蜘蛛である。目は大きくて、爪は銀色であった。寺僧はますます驚き、この蜘蛛を本堂のわきに埋葬した。

また、覚円の徳が高いことを感じて、しばらく寺に留め、祭文を書かせて、その墓を祭った。

その墓を蜘蛛塚と言って、今でも大善院に存在する。

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2008年8月20日 (水)

花火

8月20日(水)

特養老人ホームSで花火大会。

2Fの利用者さんが、玄関前に集まり、線香花火をしたり、スタッフがけっこう大げさな花火をしたりして、一時を過ごす。

今日のボラは、Sさんと私の2人。搬送、移動の手伝い、花火の火を付けたり消したり。いつものボラは日中なのだが、今日は花火なので、夕方からである。

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細工の唐船・3

8月20日(水)

細工の唐船・3(狗波利子・通算65回)

(前回までのあらすじ・足利義教将軍が駿河の国行幸するというので、今川範政は家臣に細工物を作らせる。細工物は精巧に出来た唐船で、多くの人形が乗っており、それぞれの仕事をしている。)

目をつむっている人形は、出航の日取りを占うつもりらしい。

7,80歳に見える人形は、これから中国の港まで、海路の無事を祈っている。

管弦が始まった。美しく着飾った麗人の人形が、それぞれ楽器を持ち、笛を吹き、鉦を鳴らし、太鼓を叩く。音程をととのへ、リズムを合わせ、太平楽を奏した。美人の人形が5,60人、美しい衣装を着て、音楽に合わせて舞い踊り、すだれの内側に退いた。

こんどは100人ばかりの人形が出てきて、インドの音楽を奏し、踊った。玉のような首飾りは風に靡き、きらきらと光る。その美しさは言葉に表すことが出来ない。

およそ5,60人ほどの人形がみなそれぞれの働きをし、芸を見せた。

最後に小さい人形が1人現れ、火打ち石のようなもを取り出し、帆柱のもとで2,3度打ち付けたところ、鉄砲が破裂するような音がして、数多くの人形はみな、唐船もろともに消えてしまった。ただ、池の白波が残るのみである。

満座は大いに驚き、呆然としているばかりである。将軍は興を醒まし、その細工人を呼んだところ、彼はすでに姿をくらましていた。

これは天下に兵乱が起き、人民が滅ぶ前兆ではないか、と人々は噂した。将軍も駿河の守も眉をひそめて、外に漏らさぬように注意したので、しばらくの間は知る人もなかった。

                       終わり

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2008年8月19日 (火)

名栗湖散歩

8月19日(火)

名栗湖は、1日暇があるときなどによく出かける、私の散歩コースだ。たいてい名栗湖を1周する。今日もいつもと同じだが、違うのは名栗湖の水が少ないこと。上の写真2枚はPhoto 水の多いところ。Photo_2

Photo_4 Photo_5 

左の写真、湖底が見えています。右の写真は湖底の浚渫工事。

工事している人の話では、毎年夏には水を抜くのだそうです。土砂がたまる場所はいつも同じでどということでした。

湖の底まで草が生えています。水が無くなれば、草はすぐに生えるらしい。その草は、真夏だけれど、若草の色だ。

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細工の唐船・2

8月19日(火)

(前回のあらすじ・足利将軍が駿河の国に来るので、迎える今川範政は、もてなすための細工物を作らせる)

さて、9月になって、いよいよ将軍がやってきた。範政は丁重にもてなし、抜かりはなかった。珍しい膳、新鮮な魚、美食の限りを尽くし、夜は舞楽の宴を催した。

将軍は大いに喜び、高亭に登って、富士山をごらんになった。

    みずばいかに思いしるべきことの葉も

            およばぬ富士と兼ねて聞きしも

駿河守の返歌

    君がみむ今日のためにやむかしより

            つもりは初めし富士のしらゆき

このようにして将軍のご機嫌を伺い、頃合いを見て、細工物を持ってくるように命じた。細工人は、なにやら大きな箱を献上した。将軍が開かせてみると、長さ5-6メートル、幅1メートル半くらいの、精巧にこしらえた唐船の模型である。

昔、隋の煬帝が数千の大船を作り多くの官女と共に舞楽を愉しみ、舟歌を歌わせた。そして西国の銘木、貴花を求めさせたのは、この船のようだったろうか。龍の舳先、瑞鳥の彫り物。玉楼、金殿があざやかに浮かび上がっている。その船を、主殿の前の池に浮かべて見た。

すると、多くの人形がでて船の仕事をしながら歌をうたう。桂の櫂を蒼海にさして歌をうたう。しばらくして、日焼けした人形たちが、倒してある帆柱を、そろりそろりとくみ上げた。

                        続く

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2008年8月18日 (月)

細工の唐船・1

8月18日(月)

「狗波利子」第7巻を今日から始めます。「狗波利子」の最後の巻です。

細工の唐船・1(狗波利子・通算63回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

永享4年(1430年)9月、足利将軍義教卿、富士山を見るため東国、駿河国に行幸した。

このことは前の年に思い立たれて、兼ねてから駿河国守今川範政殿に仰せつけられていた。しかし、執権の斯波、細川、畠山などが、

「今は大乱の後で、国力は衰え民は疲れている。しかも南方の敵は未だ滅びたわけではない。こんな時にはめでたい行事もなさらない方がよい。思いとどまってください」

と、たびたび諌言していた。

そのため延び延びになっていたが、長年の希望なので、やはり義教は、駿河国を尋ねることになった。

駿河守は将軍義教の希望を兼ねてから承知していたので、どのようにおもてなしをするか家臣たちに相談した。家臣たちを呼び集め、来年9月、将軍が来臨されること、お迎えする御主殿の前の大きな池があること、その池の上で何か珍しい趣向を凝らすことは出来ないか、と下問した。

末席に連なる者が申し出た。

「私は細工が得意です、もし1年の休暇をいただけるなら、国元へ帰り、何か将軍の慰みになる物を工夫いたします」

「それはよい。国に帰り、細工物を作ってこい」

駿河守は彼の申し出を受けた。細工人は喜んで国帰り、家に引きこもって細工物を仕上げた。

                                                  続く

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2008年8月14日 (木)

杉田彦左衛門天狗に殺される・2

8月14日(木)

杉田彦左衛門天狗に殺される・2(狗波利子・通算62回)

(前回のあらすじ・杉田彦左衛門は、月に3度、日光の今市の市が立つ日に必ず出かけていた。そして帰りには山賊となり追いはぎを働いた。日光の天狗孫太郎が、お前を4月15日に殺すと言い、その言葉通り、4月15日に彦左衛門は狂い死にした。)

国西寺の国道和尚によって葬儀は行われた。雨風が強く、葬儀の列に降り続けた。棺が墓の近くまで来たら、稲光がしきりにして、空から雷神の声があった。

「その亡骸をここに置いていけ」

和尚は答える。

「たとえ何があったにしろ、私が葬儀を引き受けた以上は、死体を渡すことは出来ない」

と言って脇差しを抜いた。雷神は墜ちてきて、脇差しをひん曲げて去った。死体は無事で、空は晴れた。その脇差しは、今も寺に保管されている。

和尚は静かに引導を渡し、霊を弔った。

のちの和尚は語った。

杉田彦左衛門は力が強くふてぶてしかった。人を人とも思わず、神仏、天の教えに背き、やりたい放題の悪行をした。人を殺し、財物を奪い、人を苦しめた。だからこのような怪しげなことに逢うのだ。

怪しげなことは怪しげな行為から起こる。邪気が勝と正気が失われる。心にやましいことがあれば、実際には無いものが見える。煩悩に心を奪われ、常に迷って苦しみを受ける。その心を取り戻すところにこそ、正見正智が現れる。この正念を環境に奪われ、蝉の抜け殻のようになれば、怪しげなことがが現れるものだ。鍵をかけていない家に、泥棒が入るようなものである。

世の中には怪奇現象というものもある。人には魂がある。その魂が正気ならば、非道はない。妖邪は出ない。

自分から正しい行いをして正心正念を求められない凡人は、神仏に頼り、敬い尊べば、神仏の神通力によって、正念にいたるものだ。

昔は人が死ぬと、鬼婆が来て、死体を奪い取り、引き裂いて大木の枝にぶら下げたりした。今は神仏に頼る者が多くなり、鬼婆の出番は減った。

ただ、恐るべきは、我々の悪行、妄念である。地獄の鬼畜も、どこかから来るのではない。自分の内から出てしまう罪科だ。生きている間にそんな過ちをしては、死んでから取り返すことが出来ない。仏道、菩薩の道こそ、願い求めるべきものである。

                    第6巻・終わり

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2008年8月13日 (水)

杉田彦左衛門天狗に殺される・1

8月13日(水)

杉田彦左衛門天狗に殺される・1(狗波利子・通算61回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

武蔵の国榛沢の郡に杉田彦左衛門という者がいた。気が強く、ものに動じない性格だった。

20歳の頃から月に3度、日光の今市の市日には必ず出かけていた。そして帰りには、山賊になって、道行く人を追い倒し、財物を剥ぎ取ったり、打ち殺したりしていた。そのため、家は豊かで、家族、使用人など17・8人はゆるゆると暮らし、不足することはなかった。

ある年の9月、今市から馬に乗って帰る途中、日光山の孫太郎という天狗にあった。孫太郎は背の丈3メートル近い山伏に化け、彦左衛門の行く手を塞いだ。馬は身震いをして立ちすくんだ。

彦左衛門は刀を抜く構えをして束に手をかけて言った。

「お前は日光の孫太郎だな。その道を開けろ。馬を通せ!」

山伏は退いたが、

「今は退く。しかし、来年の4月15日に、必ずお前の命をいただく」

と言って、たちまち姿を消した。

彦左衛門は元来がものに動じない性格だから、そのまま馬にむち打って宿に帰った。

しかしながら、何となく怖れをなして、日光へは、それっきり行かなかった。

次の年の2月の末ごろから、彦左衛門の気分は優れず、病に伏した。そうこうするうちに4月になり、病は重くなった。

15日になると甚だしく苦しみ、高熱になり、狂乱のうちに彦左衛門は死んだ。

                           続く

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2008年8月12日 (火)

亡霊を八幡に鎮め祭る

8月12日(火)

亡霊を八幡に鎮め祭る(狗波利子・通算61回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

寛永の初めのころ(1625年前後)吉川某の家来で松岡四郎左衛門という者がいた。正直で、武術が優れていた。

しかし、同僚の讒言によって打ち首になってしまった。四郎左衛門は、せめて切腹ならばまだしも、ありもしない讒言で打ち首になるとは、悔しい限りだ。死んでからあの世というものが無ければどうにも出来ないが、魂が残るものならば必ず仕返しをしてやる、と歯ぎしりをして首を討たれた。

死後7日、四郎左衛門の亡霊が現れた。讒言をした者は親子とも、続けざまに死んだ。そればかりではない、四郎左衛門の亡霊に逢う者は、老若男女を問わず、たちどころに死に、その数は千人を超えた。

僧を頼んで経を読み、弔ったけれども効果はなかった。陰陽師に祈ってもらったが、変わりはなかった。社を造り、八幡神社として祭ったら、やっと静かになった。

                      終わり           

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2008年8月11日 (月)

板垣信形天狗にあう・3

8月11日(月)

板垣信形天狗にあう・3(狗波利子・通算60回)

(前回までのあらすじ・勇敢だが思慮に欠けたところのある武田家の武将板垣信形が、羽黒山の山伏たちを酒宴でもてなす。山伏たちが見せた奇跡に感じ、息子弥二郎のために、戦の秘術の教えを請い、山伏と信形のいる部屋から竹刀の音などが聞こえてくる。)

夜も明けてきた。信形に仕える中間、若党たちが障子の隙間から覗いてみると、山伏と思ったのは人ではなかった。あるいは鼻の先が高くそばだち、あるいは口が鳥の嘴のようで、背中には翼がある。異類異形の者たちである。

これはなんとしたことだと、中間、若党たちは太刀や長刀を持って障子を開け中へはいると、10人の山伏たちはどこかに消え失せてしまった。信形は前後も知らず倒れ伏している。

せっかくの料理は少しも食わずにまわりに散らかし、酒はこぼし放題。畳の上には鳥の足跡のようなものが付いている。これは間違いなく天狗の仕業だ、と家中の者は思った。

信形はその日の夕方になってやっと目が覚めたが、しばらくはぼうっとしているばかりだった。

信形は元来気丈な者なので、こんなことは武家にはあることだ、といって平然としていた。しかし、他人には知らせず秘密にしていたが、いつの間にか漏れてしまった。

信形は勇者として名高く、戦ではいつでも手柄を上げていたため、慢心をおこし、敵を侮る気配があった。そのためにこのような妖怪にあったと思われる。

このころより信形は浮ついた気持ちになり、無分別で、軍備を怠り、怪我をしたこともある。しまいには信州上田原の戦で討ち死にをした。これも、慢心のためだという。

                          終わり

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2008年8月10日 (日)

板垣信形天狗にあう・2

8月10日(日)

板垣信形天狗にあう・2(狗波利子・通算59回)

(前回のあらすじ、板垣信形は羽黒山の山伏たちをもてなし、酒宴を行う。僧たちの先達は大変感謝して、信形に奇跡をお見せするように、と、他の山伏達に命ずる。)

山伏たちは、膳の上に置いてあった箸を集め、なにやら唱えながら印を結んだ。そしてその箸を、座の傍らの暗いところに放り投げた。

しばらくすると、身長が30センチくらいの鎧武者が100人ばかり出てきた。信形とその子、弥二郎は、目をこらしてみた。座敷の真ん中に、陣形を建てている。

先達の山伏は、戦の様子をお目にかけなさい、という。

次席の山伏は座を立って、ムカゴを掴み、後ろの方に投げた。すると今後は小さな鎧武者が200人ばかり、戦の陣形をして現れた。

両軍は互いに挑み戦う。

「えいえい、おう!」

などとときの声を上げ、うめき、叫び、突き合い切り合う。人間の戦と少しも違わない。首を取ったり差し違えたり、しばらく戦ったのちさっとひいたように見えたが、箸の先にムカゴを突き刺していた。

信形は先達に言った。

「私は武田家譜代の家来だけれども、戦いではいつも先陣を切り、強敵を倒してきた。敵がどのように防ぐとも、破らなければ帰らないという気持ちで、後れをとったことがない。向かうところ、必ず討ってきた。

世の中には勇気のある者はまれで、卑怯者が多い。軍法には、日取りも方角も入らない。勇気さえあれば、小勢でも大勢の臆病者をやっつけるに手間暇はいらない。

わが子、弥二郎は少し気が弱いので、私のようにはいかないだろう。何か戦に勝つよい方法があったら教えてくれませんか」

「よい方法は、あるにはあるが、大勢の中では言えない。あなた1人に教えましょう。他の者たちを遠ざけてください」

信形は、弥二郎はじめ、家に仕える者たちをみな下がらせた。

しばらくは、先達が何事か指導をし、下座の山伏が竹刀で受けている音が、部屋の外に聞こえていた。

                         続く

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2008年8月 9日 (土)

板垣信形天狗にあう・1

8月9日(土)

板垣信形天狗にあう・1(狗波利子・通算58回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

板垣信形は、甲斐の信玄がまだ武田大膳晴信といっていた頃から武勇の名が高く、戦では数々の手柄を立てた者である。晴信の秘蔵の勇者なので、ことのほか重要な家来と思われていた。しかしながら、忠節はあるが思慮がたりず、勇気はあるが頭が固く粗忽なところもあった。

ある時信形が家の前にいると、50歳くらいの山伏が来て、食事を求めた。その格好は、普通の人とは思えない。目は鋭く、色黒で、背が高い。筋肉が発達し骨張っていて、苦行を修した者のように見える。

信形は山伏を家に入れて聞いた。

「お坊はどこのかたでしょうか?」

「私は、出羽の羽黒山の行者です。去年は葛城の山で修行をし、熊野で年を越しました。これより羽黒山に帰り、一夏を過ごすつもりです」

「お坊はお一人でしょうか? それとも仲間がおありですか?」

「仲間は10人です。今、それぞれに食事を求めて、近くの家をまわっています」

「それならば、見苦しいところではあるが、ここへお泊まり下さい。お仲間の山伏たちもご一緒にどうぞ」

「それはありがたいこと。さっそく呼び寄せましょう」

山伏は門を出て、腰に付けたホラ貝をとり、寄せ貝と思われるほらを吹いた。たちまち9人の山伏が集まってきた。どうやら信形の家に来た山伏が先達らしく、9人はまだ若い。そして信形の家に来た山伏を敬っているように見えた。

日が暮れてきたので、灯火をともし、食事を作り、山伏たちをさまざまにもてなした。

信形はどう思ったのだろうか、いつもは倹約家なのに、山伏をもてなす酒宴を開くのだといって、子息の弥二郎を呼び出した。また、家に使われる者たちをも集め、その人数は50人を超えた。

さっそく酒宴である。信形も客僧たちも、数杯を重ねた。客僧の先達が言った。

「今日は思いがけないご芳志で、身も心もゆったりと出来ました。旅の疲れもいやされます。我々は名山霊地をまわって修行をし、さまざまな奇跡を起こすことが出来ます。普段はそのようなことは隠して表には出さないのだけれど、今日は特別です。何かお見せしましょう」

そして下座の山伏たちに言った。

「お前たち、ご主人に、何かお見せしなさい」

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2008年8月 8日 (金)

天狗にとられた子の物語・6

8月8日(金)

天狗にとられた子の物語・6(狗波利子・通算57回)

(前回までのあらすじ・愚直な社家の子、次郎が天狗の僧につれられ、諸国で不思議な体験をする。伯耆の国大山で出会った僧に、人間が地獄に堕ちる性を聞き、多くの僧が生きながら焼き尽くされる様を見た。次に天狗の僧は、次郎を都の能見物に連れて行く)

能はすでに始まっていて、名人上手が入れ替わり演じている。見るものは心を空にして、すべてを忘れている。天狗の僧は、「このものたちはあまりに心を見失っている。みんなの目を覚まさせる」といって、舞台に上がり、なにやら唱えた。

たちまち三条の西から黒煙が上がり、いちめんに広がって燃え上がる。風は荒く吹き、炎は飛び散って、ここでもあそこでも燃え上がる。火事だ火事だと叫んで、見物の者たちは、上を下への大騒ぎ。桟敷から転げ落ち、木戸に向かって、われ先にと押し合いへし合うありさま。女子供の泣き叫ぶ声、転び、踏みつけて、何がなんだか分からない。

やがて火が治まると、天狗の僧は、さらに次郎を連れだした。歩くともなく飛ぶともなく、都をでて、近江を越え、越前の敦賀に出た。

僧は次郎を、あらゆるところに連れて行った。どこもかしこも隈無く見て、その間、飢えも知らず寒さも知らなかった。あまねく東国をまわり、富士の高嶺、浅間山、田子の浦、清美が関、箱根の山から駿河の国、鎌倉山の昔の跡、聞き伝えた名所はめぐり残したところがない。

次郎は僧に連れられて、春もたち、夏も過ぎ、秋の空、冬の時も、心に苦しむこともない。しばらくもじっとしている時はなく、天の下をうちめぐり、山川海の上、空を駈けた。折々、恐ろしいこと、不思議なことを経験し、年月のたつのも忘れていた。それから5年たったけれども、そんなに長かった気がしない。

そういって次郎は話し終えた。

それから20日ばかり、次郎は社家にいて、さまざまな不思議をまわりの人に見せたが、また行方不明になった。その形見と言うことなのか、次郎は、檜の笠、檜の杖、着古した鈴掛の衣を残していった。

次郎の父彦八も老衰して、間もなく亡くなった。

鈴掛の衣は、熱病にかかった人の枕元に置けば病気が治ったので、方々で借りていたが、しまいにはどこへ行ったか分からなくなった。

笠と杖は、朽ち果ててしまった。

                        終わり

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2008年8月 7日 (木)

天狗にさらわれた子の物語・5

8月7日(木)

天狗にさらわれた子の物語・5(狗波利子・通算57回)

(前回までのあらすじ・社家の子、次郎は天狗の僧につれられて、諸国を見、不思議な体験をする。伯耆の国大山では、大道を踏み外して魔道に入ってしまう人間の性を聞く)

この話を聞いて、多くの僧、法師達は怖れわなないた。しかし、体を柱に縛り付けられていて、動きがとれない。空から猛火が下りてきて、一同は宮殿もろとも燃え上がり、うめき声を上げ、泣き叫ぶ声と共に焼き尽くされた。次郎だけは繋がれていなかったので、遠くの谷に逃げ延びた。

しばらくすると、天狗の僧が来て、次郎をつれて山を出た。振り返ってみると、宮殿も楼閣も、すべて消え失せていた。

こののち次郎は、僧につれられ、西国をくまなく巡り歩いた。また京に帰ろうと言うことになり、播磨の港で船に乗せてくれと頼んだところ、船頭たちはにべもなく断った。

僧は腹を立てて、沖に向かって印を結んだ。

すると、にわかに黒雲が辺りを覆い、大風が吹いて、海は闇夜のように暗くなった。波は高く、雪の山、砂の山のごとく、沖の船はフライパンから放り出されるようだ。岸に帰ろうとしてもかなわず、船子たちは伊勢神宮の方に向かって拝み、観音経を読んだ。

夕方になってやっと風と波がおさまり、船は室の津や、兵庫の港に吹き寄せられて岸に着いた。それでも、命が助かったことを喜ぶ者が多かった。

僧は次郎をつれて山崎にいたり、、都に入った。

5条河原で「能」があるという。都の人々は貴賤上下を問わず、見物に集まっている。桟敷にはさまざまな幕を張りながら、お偉方が誰彼となく見物に来ていた。僧は次郎をつれて見巡ったけれども、誰も二人に気づく人はいない。

                     続く

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2008年8月 6日 (水)

天狗にさらわれた子の物語・4

8月6日(水)

天狗にさらわれた子の物語・4(狗波利子・通算56回)

(前回までのあらすじ・シャケの子、次郎は天狗に連れられて、様々な経験をする。今は伯耆の国大山で、魔界の主の僧の話を聞いている)

主の僧は、話を続ける。

修善寺の恵山長老は、唯識法相の宗義を極め、華厳、涅槃の道理を知り、常に講義をし、数百人の弟子がいる。しかし、自分の流派を立てて他流をけなし、自己主張が強い。

上覚寺の行蓮上人は説法上手で名をあげ、諸方の男女を善導し、一切経を書き、仏像を多く作った。世間から仏のように思われている。しかし、ただ経論を集め、仏像を作り、他の財物を求めて、むさぼりのM心が起こった。功徳があるようだが、実際にはどん欲の煩悩にとりつかれた。

霊光寺の明寂法師は高名な武士だったが、武器を捨て、仏門に入った。しかし俗家にあるときは、道理を曲げ、百姓の財産を奪い、人を傷つけて得た金銀を寺に入れ、堂舎を建てた。

これらの輩はみな、我々が障害を作って導いたわけでもないのに、死んでからは魔道に入る。

彼らばかりではない。世の中には出家と言われるものが幾らでもいるが、なすべき行も行わず、仏法の道理も知らず、布施する人にはへつらい、欲の深さは俗にまさる者が多い。在家を惑わせて世を渡る法師も、死んで地獄に堕ちる者だ。地獄で、信者からもらった布施の償いをしなければならない。

儒道を学ぶ者もこれに似ている。物事から解放され、清く自由な境地になることなど思いも及ばず、詩を作り、文を作る。だから、心にもない偽りを筆にあらわし、やるべきことを行わず、人をたぶらかす。まるで手を出して盗みをせぬばかりの行いで録を汚す。天の理に背き神徳に違う。死んだからといって本道に帰る道はなく、餓鬼道、畜生道、地獄道に墜ちることは確かである。

在家の者は、世を渡り生活をしているうちに、後生のことを気にしたりはするが、愛欲にひかれて心底からの思いはなく、多くは地獄に堕ちるという。

これらの者、魔道に入って耐え難い苦しみを受けながら、慚愧し懺悔する心を興さず、帰って仏敵法敵になる浅ましさだ。

                        続く

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2008年8月 5日 (火)

天狗にとられた子の物語・3

8月5日(火)

天狗にとられた子の物語・3(狗波利子・通算55回)

(前回までのあらすじ・伏見の社家の子、次郎は5年間天狗に連れられて、不行方不明だった。天狗に出会った最初の日、空を飛ぶようにして京の如意ヶ岳という山に行き、7-8人の僧が銅の煮え湯を飲み、焼けこげてから復活するのを見る)

次の朝、天狗の僧につれられて空を飛んでいった。霧を開き、雲を分けて飛んだ。

「ここはどこですか」

と聞くと、

「播磨の国、姫路」

と言う。時間は6時頃である。

「腹が減っただろうから何か食わせてやろう」

と、大きな家の中に連れて行った。何か祝い事があるのか、人が大勢出入りしていた。それなのに、誰も僧や次郎に気付く者はいなかった。僧は次郎に、食べたいものは何でも食べさせた。

それからまた、空に昇り、雲の上を駈ける。下には青海原がみえる。浜には、所々に人家があり、貧しげな家の近くでは、海草をほしている者がいる。塩屋からは、塩を焼く煙が立ち上っている。西の方には松原があり、沖には帆をかけた船が行き交っている。漁り火が波に揺れているのが見え、もう太陽が海に沈みそうだと思う頃、大きな山の上に降り立った。

「ここはどこですか」

「伯耆の国の大山だ」

谷を越えて、大きな楼門があった。近づいて、案内してもらう。恐ろしげな法師が案内をしてくれた。御僧は次郎と共に中に入った。

主の僧が出てきて、座り直し、さまざまな物語をした。年の頃は50ばかりに見える。話しの間に、4,5人が集まってきた。みな上品で、徳が高そうに見える。

主の僧が話す。

生死というものは、位が高かろうが低かろうが、誰にでも訪れる。逃れようがない。正しい行いをして立派に見える人でも、妄執があったりすれば、死後、我々のところに来るようになる。だから、昔も今も、徳高く行いが正しいと思われている者も、多くは魔道の者となる。我々の昔の迷いも、みな似たようなものだ。

学問に優れ、徳高く行いが正しいと言っても、まことの大道をはずれやすい。知らないことを知っていると思い、持たないものを持っていると思う。自分は人に劣らないつもりで、優れた者をそしり、まさる者を憎む。増長慢は、山よりも高く、海よりも深い。

我々はここに来る者を求めて、探し歩く必要はない。魔道の網にかかる者は、まことに多い。何も障害があるわけではないのに、自ら大道をそれる者ばかりだ。

                       続く      

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2008年8月 4日 (月)

天狗にとられた子の物語・2

8月4日(月)

天狗にとられた子の物語・2(狗波利子・通算54回)

(前回のあらすじ・伏見の藤の社の息子次郎は、知恵遅れだったが正直者だった。ある時、急に行方不明になり、5年後に帰ってきた。そして、5年間の経験を語り出す)

私は今年で22歳、よそを巡り歩いて5年になる。

私がこの土地を離れたのは8月(旧暦です。現在なら9月ごろ)の初めだった。ようやく風も涼しくなり、稲の穂が出かかっていた。どこから来たとも知れぬ、がっしりした僧が近づいてきた。紅初めの衣の上に紫の袈裟を懸け、手には水晶で出来た角張った数珠を持っている。その僧が私に話しかけた。

「次郎。私についてきなさい。悪いようにはしない」

言われた通りついていくと、まるで空を飛ぶようにして、京の東、如意ヶ岳という山に行き、岩に腰をかけて休んだ。すると、見かけぬ小法師達が出てきて、食べ物を持ってきた。何という食べ物かは知らないが、まことにおいしかった。

日の暮れ方になると、僧が言った。

「これから驚くようなことが起こる。しかし、お前は怖れる必要はない」

どんなことが起こるのかと思っていると、同じような格好の僧が7,8人出てきた。空から鉄の釜が下りてきて、岩の上にしっかりとすえられた。さらに、鼻が高く、目が大きい、両脇に翼がある法師が3人現れた。いずれも足は鳥のようで、柿色の衣を着け、腰には太刀を差している。たすきを掛け、衣の下をはしょり、働き者のかいがいしさを見せて、鉄の勺を釜に差し入れ、銀の茶碗に煮えたぎった銅の湯をもり、7,8人の並み居る僧に差し出した。

僧たちは恐れおののく表情を見せたが、その湯を飲み干した。僧たちは倒れ伏し、頭から黒い煙を上げ、焼け棒杭のようになった。空には、バクバクと鳴り響く音がした。

ややあって、僧たちは夢から覚めたように起き上がり、もとの姿に帰った。そして礼儀正しく挨拶をして別れていった。

初めの御僧は

「このありさまを、けして人に語るな。今日は疲れただろうからもう寝なさい。そして、明日は早く起きなさい」

と言って岩屋に入った。

                       続く

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2008年8月 3日 (日)

墓参

8月3日(日)

墓参

母の命日。母の死は63年も前である。私はまだ8歳だった。母というのは特別のものですね。そんな昔のことなのに、いまだに思い出す。

父の家系は美男美女が多い。それに反して母の家系は、ウーン、言いにくい。てなもので、美形であるとは言えない。中で、母などは良い方で、まあ、普通でした。私は顔も性格も母似というか、母系というか、母より少し落ちるくらいの母系似で、お世辞にも美形といえないのは残念。もう歳だし、この先どうのこうのという気はないから、まあいいけどね。

わが家の墓は高尾にあって、電車で行けば、小1日はかかる。他の季節ならば、ついでに高尾山に登って来るという手もあるのだけれど、こう暑くてはどうもならない。墓参をして、そのままとんぼ返りだ。

なぜか私は親兄弟の縁が薄くて、8歳で母を亡くし、30歳で父と別れ、4人兄弟のはずが、長男の私だけ生きている。おまけに妻まで先に死んでしまった。娘たちや孫たちが元気なのが救いかな。

     わが家系私で絶える盆迎え    ぼんくらカエル

今は私みたいな人が多いでしょうね。家を継ぐと言うことが絶対では無くなったから。

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天狗にとられた子の物語

8月3日(日)

天狗にとられた子の物語・1(狗波利子・通算53回)

慶長の末の年(1610年)伏見の木幡の人、彦七という者が藤の社に住んでいた。明神で、くがだち、神楽などをすれば、彦七は太鼓を叩き、守の御託宣を伝えたりした。

次郎という子供がいて、少し知恵遅れだったが、正直者で、掃除や落ち葉かきをしていた。暇があるときは近所の子供と遊んでいたが、ある時、不意に行方不明になった。

親は悲しがって、稲荷山の奥、霧が谷、霞みの谷まで探したけれど、ついに見つからなかった。

それから5年も過ぎて次郎が帰ってきて、大きな松の木に登っていた。彦七がそれを見つけて家に連れて帰ったが、そのありさまは、まるで山猿のようであった。頭髪は、荒れ野の草木のようにぼうぼうと生え、手足は汚れ、口もきかない。

母は次郎の頭や体をお湯で洗い、口に合いそうなものを食べさせ、面倒を見ていたら、10日ほどして、人心地がついたのか、次郎は物を言い出した。

近所の人も集まってきて、行方知れずになっていた間のことを、次郎にあれこれと聞いた。

以下は次郎の話しである。

                      続く

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2008年8月 2日 (土)

塩田平九郎怪異を見る・5

8月2日(土)

塩田平九郎怪異を見る・5(狗波利子・通算52回)

(前回までのあらすじ・落城する城から1人落ち延びた塩田平九郎は、髪を切って修行の旅をする。18年ぶりに帰った城跡近くのあばら屋で、不思議な者たちが話しあっているのを聞く)

やがて一人が言った。世の移り変わりや武田勝頼の愚かさなど、今さら話してみてもしょうがない。我々の心を述べて、自らを慰めようではないか。

そうだねと言って、色が白く丸顔の者が詩を吟じた。

     高く低く柄を持てば月ひとつ

     応えて動き涼風を興す

     愉しんだものは捨てられて土に埋められる

     皮は爛れ骨は腐り苦しんでいる

細身でえくぼのある者も詩を吟じた。

     その昔龍吟の調べを得意とす

     一曲の声は飛んで空を渡る

     今は庭の中の破れた竹

     林の騒ぐ音を聞くのみ

もう1人も吟詠する。その身は太って背は低い。髪や髭はたれて乱れている。

     しきりに埃を掃いてさらにいとまなし

     憂いを抱いて疲れ髪も髭も失う

     今は憔悴して荒れ果てた村の客のごとし

     短く朽ち衰えて垣に身を寄せる

平九郎はつくずくと聞いて、懐旧の心はあり、それなりの訳のある者たちだろうと思う。座り直して念仏を唱えたところ、一同は雪のように消え失せた。

夜が明けてからあばら屋を出て近くの家に立ち寄り、昨夜の出来事を話した。すると、

「あの家には人が住んでいない。時々話し声が聞こえ、笑っているような声が聞こえることはある。狐か狸の仕業と思うが、他の家に悪さをすることはない」

平九郎は昨夜の人々が、大して上手くはないが一首ずつ詩を作ったことなどを話した。

話を聞いた主は、何人かの若い者と共にそのあばら屋の中を探してみると、破れた団扇と、割れた笛、ちびた箒が出てきた。詩の心もこれだったのだろう。焼き捨てるわけにもいくまいと言うことで、離れた山際に、一緒に埋めた。

それ以後は、怪しげなことも起こらなくなったと言うことだ。

                           終わり

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2008年8月 1日 (金)

無題

8月1日(金)

取り立てて書くこともなし。

特養老人ホームSへ。話し相手をしただけ。

手紙を2通書く。共に、冊子を送っていただいた礼状で、本当は、もっと早く書かなければならなかった。ブログは書くけれども筆無精だから、いつも遅れ気味になる。

テレビでは、内閣改造人事の入閣者が、抱負やらなにやらを言っています。これからそれを見ます。たいしておもしろくはないけれど。

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塩田平九郎怪異を見る・4

8月1日(金)

塩田平九郎怪異を見る・4(狗波利子・通算51回)

(前回までのあらすじ・塩田平九郎は、織田信長によって落とされた城からただ1人逃げ出して、出家する。18年間の西国行脚の後、故郷に帰る。落城した城跡近くのあばら屋で、誰とも知らぬ3人の者が、武田家の滅びた理由などを話しあっているのを聞いている)

およそ戦というものは、天、地、人にかなうことが必要である。天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずという。このたびの武田勝頼の出陣は、大凶日であった。徳もなく、義もなく、思慮もたりない上に、血気にまかせて時日も選ばなかった。

父の信玄は、山本勘助や前原筑前守、あるいは小笠原源与斎に聞いて、攻防の吉日忌日などを軍配の裏に書いていたという。

5月は南の方角に勢いがあり、21日の午後2時は現在過去未来にわたって、北、あるいは北東に不吉がある。にもかかわらず勝頼は、南に向かって陣を敷き、こともあろうに午後2時に戦を始めた。これは、天の時に違うものである。未だ戦う前から、敗北の兆しがあった。天の時は失われていた。

信長方はわざと前を開けて置いて、切田、切り堀の片方が崩れてゆがんでいるところを選んで、三重の柵を立てた。勝頼をおびき出すためである。自分から仕掛けず、勝頼軍を待ち受けていたのだ。勝頼は、相手の作戦を探ろうともせず、無理に戦を仕掛けたのは、地の利の背いたことになる。

その上、去年東美濃に出陣したときから、家臣達の不和があった。旗本外様近習と諸浪人信濃衆とが不和になり、長坂釣閑と内藤修理の間もきくしゃくしていた。勝頼は、家老方を快く思っていなかった。そんなありさまだから、内部はバラバラだった。軍事評定にもしまりがなかった。

国の大きなこと、人数の多いことを誇り、むやみに戦を仕掛ける勝頼を、釣閑は無理にも支えようとした。家老達がいさめるのも聞こうとせず、それを勝頼に中傷して報告した。これこそ、家運の傾くしるしである。長篠の戦いでは、家老、諸将、みな討ち死にしてしまった。

その時の落首に、

    信玄の跡をやうやう四郎殿

           敵の勝頼名をばながしの

この後どんな世の中になるのだろうか、と語った。

                    続く

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2008年7月31日 (木)

塩田平九郎怪異を見る・3

7月31日(木)

塩田平九郎怪異を見る・3(狗波利子・通算50回)

(前回までのあらすじ・織田信長に攻め落とされた播州の城からただ1人落ちのびた塩田平九郎は、出家し、西国を行脚して18年ぶりに故郷に帰った。かっての城跡近くのあばら屋で、3人の者が、謙信、信玄、北條氏康は優れていたが、その跡取りは才能がない、などと語っているのを、こっそりと聞く)

中でも武田勝頼は、武勇は優れているけれども暗君で、才能が乏しい。自らの武勇に慢心し、敵を虫けらのように思う。これは必ず滅びのもととなる。初めのうちは武力によって敵に勝つこともあるだろうが、愚かで知恵がなく、あるいは敵の策略に載せられ、あるいは驕りたかぶって、人を評価することが出来ない。おべんちゃらを言う軽薄なものを侍らせ、知恵深い家臣を遠ざける。自分の武勇を頼み、深い考えも無しに戦を仕掛けていれば、やがて味方の頼りになる者が討ち滅ぼされ、国を失うことになる。昔からこのような者は多い。

天正年中(1573-1583)奥平美作守、同じくその子、九八郎は勝頼の才能を見限り、甲府に背き、長篠に立てこもる。武田勝頼は大いに怒って、1万8選余騎を率いて押し寄せた。美作守は信長に加勢を求めたところ、織田、徳川の兵7万6選余騎が長篠に赴いた。そして、三重の柵を作って武田軍を迎え撃った。

勝頼軍1万4選余騎、先陣の山県三郎兵衛を初めとし、三重の柵に防がれ、3千丁の鉄砲の的になって討たれた。死する者1万3千余騎。しかるに敵方は、名ある武将で討たれた者はない。勝頼はただ3騎のみで逃れ、甲府に帰った。

この後は、織田徳川の両家は日の出の勢いとなり、武田方は、あちこちの砦を攻め落としても、それを守る人数もととのわず、捨て殺されるありさまである。従って、武田はそんなに長くは持たないだろうと人々は思った。事実、天目山の麓で信長に攻められ、武田の一家はみな死に絶えたことこそ哀れである。

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2008年7月30日 (水)

川越へ

7月30日(水)

川越へ

川越の紀伊国屋に行く。月に1度くらい、川越に本を買いに行く。狭山市では間に合わないのである。月刊誌1冊、新書2冊。

しかしこのところ、本が読めない。時間はあるのだが、ないのは気力。狭山で買う本を加えたところで、何冊でもない。読もうと思ってはいても、延び延びになって、結局「積ん読」になってしまう。

絵の準備

大きな木の下で、子供が二人、上を見上げている絵を描きたいと思っている。そのため、適当な木を見つけてスケッチをするなり、写真に撮るなりしておきたい。

稲荷山公園に行ってみる。写真を何枚か撮る。暑くて、スケッチなどしていられない。

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塩田平九郎怪異を見る・2

7月30日(水)

塩田平九郎怪異を見る・2(狗波利子・通算49回)

(前回のあらすじ・播州、花隈の城が織田信長によって落とされ、ただ1人生き残った塩田平九郎は、頭を丸めて西国を行脚する。出家して18年後、故郷に帰ってくる)

18年の間に故郷の様子も変わり、知っている人もいない。花隈の城の焼け跡に行って、

    かへりこむ昔をおもふ袂には

            秋ともなしに露ぞおきける

と詠んだ。夕暮れになり、野寺の鐘の音がかすかに聞こえたので、また1首。

    見るままに過ぎにしかたは入逢の

            鐘や昔の跡に聞のゆる

このようにして花隈のあたりを歩いてみると、どこもかしこも荒れ果てて、茨や茅が生い茂り、すすきの根元から聞こえる虫の声も哀れである。話を聞けるようなところもない。

草原の中に人気のない家があったので、入ってみると、軒は傾き、板戸は割れ、雨漏りの跡も多い。平九郎はうずくまって、静かに経を読み、念仏を唱えた。

月がようやく東の空にでる頃、誰かは知らないが3人の者が入ってきた。その格好は、そこらの卑しい者ではない。平九郎は壁に隠れて息を凝らしていた。その者たちは話の内容も、高尚である。

その中の1人が口を開いた。大永にの頃(1520-1525)から諸国が自己主張を初め、強い者は弱い者を従え、大国は小国を合併し、天下はすでに4分5裂している。戦の絶えることがない。

甲斐に武田信玄、北越に上杉謙信。北條、織田の家々、人数を集め、謀をする。戦国の7雄、三国の乱と言えども、今よりひどいということはあるまい。いつになったら治まることか。

また一人が言う。天下の治乱は時運の変災、天地の妖怪である。飢饉が起きたり、疫病が流行ったりするのは、皆この類である。時がきて、徳が高く行いの良い人に依って、天下は統一されるだろう。

それまでは党を結び、血を争う人が出てきても天の理にかなわなければ、やがて滅びるだろう。まことに吉凶は天の理に依るのであって、人事に依るのではない。

だから信玄、謙信、北條氏康は、みな他界し、子供はあるがいずれも父に似ていない。

                             続く

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2008年7月29日 (火)

塩田平九郎怪異をみる 1

7月29日

塩田平九郎怪異を見る・1(狗波利子・通算48回)

   原作・浅野了意  現代語訳・ぼんくらカエル

播州(兵庫県)花隅の城主、荒木摂津守は織田信長に楯突いたので、信長は滝川左近将監にその城を攻めさせた。その戦で、野村丹後守初め、雑賀衆なども皆討ち死にし、城には火が懸けられた。

雑賀衆の塩田平九郎という者が1人だけ生き延びて、故郷に帰り、しばらくは世の移り変わりを見ていたが、この先良いことがあるとも思えず、儚い命をいたずらに生きているより、後の世を大事にしようと思い定めた。

平九郎は髪を切り、墨染めの衣を着て、家を出た。

心の赴くまま、足の向くままに、野を越え、山を越え、村里を巡った。行く先々の風俗習慣、暮らしのありさまを見聞した。名所旧跡をたずね、霊地と聞けば、行って拝んだ。

豊かな土地があるかと思えば、侘びしい土地もある。薄情な人もいれば、情け深い人もいる。土地も人も同じではない。

ある時は地理も分からぬ山に紛れ込み、樵に麓への道を尋ね、またあり時はどことも分からぬ野辺をさまよい、草を刈る者に里のありかを聞いた。行けども行けども人家のないところや、宿を貸してくれる人のいないところでは、木の下や墓地をねぐらとして夜を明かした。

九州肥後の国(熊本県)阿蘇の深谷では、地獄のありさまを目の当たりに見た。燃え昇る炎は天を焦がし、雷鳴は山をも崩すようだ。罪人の呼び叫ぶ声が谷底から聞こえる。

このありさまを見れば、悔い改めずにいることはできない。すでに世を捨てている身であるから、深く感じるのである。ますます志を深くして、鹿児島に至り、俊寛が流された硫黄島に渡った。俊寛の哀れな物語を、いま目の前に見るように思われた。

浦では海女が日暮れまで千尋の海に漂い、釣り船は棹をさす。塩田では海水を運び、柴を焚き、塩を焼く煙が心細い。磯では、海草を拾い藻を掻き集める。どこにいても生きていくのは楽ではない。

その後四国をめぐり、ようやく播磨の姫路を経て、故郷に帰った。平九郎が家を出てから、18年にたっていた。

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2008年7月24日 (木)

杉谷源次・附・男色の弁・2

7月24日(木)

杉谷源次・附・男色の弁・2(狗波利子・通算47回)

(前回のあらすじ・伊勢の国司に奉公する深見喜平は、奥方の小姓杉谷源次を殺し、自分も腹を切る。二人を埋めた墓から人魂がでるので、国司は僧に弔ってもらう。国司はその僧に男色について尋ねる。)

僧の話しは続く。

古代中国の周の穆王は慈童を愛した。漢の高祖は籍孺を愛し、恵帝は公孺に執心し、哀帝は薫賢、衛の彌子は鄧通をそれぞれ可愛がった。皆男色に迷ったのである。

史記には佞幸の伝がある。太平通載には権幸の編がある。晋書には、西晋の武帝威寧太康の年より、男色の気風が興り女色よりも甚だしかったことが記されている。あるいは夫婦別離にいたり、恨みごとが多かったという。

昔から佞幸のともがら、終わりは悪いものである。財をもって交わるものは、財がつきれば交わりは絶える。色を持って交わるものは、花が落ちれば去っていく。人はいつまでも若くはない。歳をとることは、たとえば水が流れるようなものだ。過ぎ去ったものは帰らない。たとえ美しき雅な姿といえども、それほど時を待たずに衰えてしまう。朝顔が日陰を待つようなものだ。これはもう、人間の落とし穴のようなものだ。

宋の時代になって、学問を重んじるようになり、男色は少し衰えた。

日本では、眞雅僧正が業平に恋し「常磐の山のいわつつじいわねばこそあれ」と詠んだ。中古に瓜生判官の弟義鑑房が金崎にて討ち死にし、鱗岳和尚が田野で討ち死にした。皆男色の迷いからである。

このごろの男色をするものは、自分の内ももや腕をを傷つけて、思いが本気であることを相手に伝えようとする。古い歌にもある。

   思うこころ色にはみえず身を刺して

           朱の千入(ちしお)を君それとしれ

こんな歌を詠み、詩を作って、愛に惑う。

文でもなく武でもなく、非道の色に身をすて命を失うもの、女色よりも甚だしい。忠を忘れ、徳をけがし、家を廃らせ身を滅ぼすばかりである。

男色は、僧俗にわたりこのようなもの。慎むべきです。と、僧は話した。

                         終わり。

狗波利子第5巻の終わり。

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2008年7月23日 (水)

杉谷源次・附・男色之弁

7月23日(水)

杉谷源次・附・男色の弁(狗波利子・通算46回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

文禄3年(1594年)のことだったろうか。

伊勢の国司の家に、深見喜平という才覚のある気の利いた侍がいた。良く奉公をして、外に屋敷を持つことを許され、奥方を持つまでになった。

奥方の使う小姓に、杉谷源次という見目美しい者がいた。喜平は心をひかれ、あれこれと気を惹いてみるが、いっこうに色よい返事をしない。そこで恋文を書き、源次のたもとに入れた。

    伊勢の海あら磯によるうきみるの

             うきながらみるはみぬにまされり

という歌と共に、行く末までも契ろうではないか、このことは決して人に漏らすな、と書いておいた。

源次はどう思ったのか、そのことを同僚に漏らしてしまった。そのため家中の噂になり、喜平は恥ずかしいこと限りがなかった。返事をくれないだけならばまだしも、人に漏らすとは何事か。人を馬鹿にしている。このままでは見苦しいことになるばかりだ、と憤慨した。

喜平は、源次が朝早く目覚めて寝床から出てきたところを捉えて、あっさりと斬り殺してしまった。そして自分も腹を切って死んだ。

人々は、二人を共に墓に埋めたところ、夜な夜な人魂がでるようになった。

国司はことの次第を知り、憎いけれども、そんなに執心が深かったのかと気の毒にも思った。それで僧を頼み、墓の前で経を読んでもらったところ、人魂は出なくなった。

国司はいたく感心し、その僧を呼んで、仏法の話を聞いた。そして男色などについて書かれているような経はあるかと尋ねた。

僧は次のように答えた。

お経の中には男色について直接説いたものはない。邪淫戒のうちに、非道淫戒があり、その中にはいるだろう。

                         続く

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2008年7月22日 (火)

毛虫祟りをなす・3

7月22日(火)

毛虫祟りをなす・3(狗波利子・通算45回)

(前回までのあらすじ・山城の里の少年孫四郎に恋をした学道僧宥快は、恋文を送ったり、孫四郎の家の近くをうろついたりした。孫四郎の親は怒って、二人を近づけないようにする。宥快は落胆し、絶食をして死のうとする。宥快の同僚が、学道に励むように諭すが聞き入れない。)

それから7日、宥快は餓死した。同僚の僧は集まって、野辺の送りをし、荼毘に付した。

その夜、孫四郎は夢うつつのうちに、宥快が寝所に入ってくるように感じた。

その日から、孫四郎は病気になった。時々は高熱を出し、医者を頼んでも、悪くなるばかりであった。日ごとに衰え、ついに亡くなってしまった。孫四郎が亡くなるまさにその時、天井から、

「孫四郎どの、いざ、いざ」

と宥快の声がした。

期待していた子供に先立たれ、父母の深い嘆きの中、葬儀が行われた。

死後35日、五月の初めごろ(現在の6月ごろ)だが、家の柱、天井など、いたるところに毛虫がわき出した。五月雨(梅雨のことです)が続くので、腐った木や竹からわき出たのかと思ったが、そうではなくて、この家にだけわき出るのである。拾い集め、履き集めて堀や川に捨てたが、捨てても捨てても、幾らでも湧いてくる。しかも、毛虫に触るとかぶれてしまう。

やがて毛虫は蝶になる。群がり飛んで、人の顔にとまり、着るものにまといつく。夜には灯火にたかって灯りをけし、食事中には食い物に転がり落ちる。

さすがにただごとではない。宥快の亡魂がなすわざと考えられた。元興寺に知らせ、同学の僧に頼んで弔わせた。同学の僧は、祭文を作り、懇ろに仏事を行った。加持をして弔ったところ、2.3日後には毛虫がいなくなった。亡魂も浮かばれたのであろう。

                          終わり

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2008年7月21日 (月)

毛虫祟りをなす・2

7月21日(月)

毛虫祟りをなす・2(狗波利子・通算44回)

(前回のあらすじ・山城の里に孫四郎という少年がいた。まだ12歳だが、学を好み、大人びて容貌は衆に優れていた。宥快という僧が孫四郎に心を奪われ、手紙を送ったり、その家のまわりをうろついたりしていた)

孫四郎の親はその様子を知って腹を立てた。

「憎い坊主だ。年端もいかぬ孫四郎をそそのかし、恋文を送ったりするとは何事だ。大人になったら大名、高家へ仕官させ、その才覚で立身出世して、衰えたわが家を立て直す子供だ。寺の小僧になって、やがて乞食坊主になるような腰抜けの若僧ではない。孫四郎は外に出すな。その坊主が家の近くに来たら追い払え」

とののしった。

これを聞いて、宥快に心を動かされている孫四郎は悲しんだ。親の言いつけを守れば、鳥や獣と同じように、情け知らずになってしまう、と嘆いた。

     いかにせんあまのを船のいかり縄

            うき人のためつながるる身を

1人思い嘆いてこのような歌を詠んだ。その様子を聞いて、宥快は、

     あまのたく藻塩の煙あじきなく

            心ひとつに身をこがすらん

と詠む。ままならぬ世の中だ。生きていても物憂く辛いことばかりだ。恋いこがれて生きているより、死んだ方がましだと思い定めて、寺の房に引きこもり、断食をしていた。

同学の僧が心配をして、戸を叩いたが、しばらくは返事もしない。やがてあらあらしく障子を開けたその姿を見ると、やつれて、目はくぼみ、白目は血走っている。髪の毛はわずかの間に白髪になり、痩せて骨と筋ばかりが目立つ。

同学の僧は、諭して言った。

「何というありさまです。1人の少年にそんなに執心するとは・・・。人間は、それでなくても生死の迷いが深いもの。聖賢と言われるような人たちでさえ、一心に修行して、得度してきたのです。多くの修行者は、あるいは山に籠もり、あるいは諸国を行脚し、妄念を去り、煩悩を捨て、まことの行いをしようとしている。菩提を求め、功徳を積んでこそ、輪廻を離れ解脱するというのに、あなたは何ですか。大事の未来を忘れ、浮き世の恋に思い沈んでいる。そんなことでは魔道に落ちてしまう。人間に生まれたかいもなく、地獄道、餓鬼道などをさまようようになってから悔いても遅い。狂気を去って、正しい道に帰るのは今だ。このままでは、血の池、針の山に行くのも近いぞ」

宥快は同学の僧の言葉に感謝しながらも、

「私の思いは前世の業によるものだろう。百回、千回思い返してみても、どうにもならないのです。私も、もうこの世には久しくないでしょう。重ねて輪廻を受けること、死後に針の山に登ることも、もはや避けられない。私はまもなく死にます。同学の僧として志があるならば、跡を弔ってください。今はもう、お帰り下さい」

と障子を閉めた。同学の僧は、やむを得ず帰った。

                             続く

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2008年7月20日 (日)

毛虫祟りをなす

7月20日(日)

毛虫祟りをなす(狗波利子・通算43回)

   原作・浅野了意  現代語訳・ぼんくらカエル

元和年中(1615-1624年)だったろうか。西国の侍、柳岡甚五郎某という者、大友氏の中で、羽振りを利かしていた。しかし、戦で怪我をし、体は自由にならず、苦しみ、困って、山城の里に住んでいた。

孫四郎という子供があり、まだ12歳だったけれども、大人びていて、同じ年頃の子供と一緒に遊ぶようなことはなかった。もの静かで、字を書き、書を読むことを好んだ。さらに、下品なところは少しもなかった。

彼を知る人たちは、皆、すごい少年だと褒めそやしていた。しかも姿形は麗しく、衆に優れていた。長ずれば、身を立て、家を興すであろうと、親は期待していた。

元興寺の僧、宥快と言う法師、京に登る途中で山城の知人を訪ねたところ、ひとめ孫四郎を見て、心を奪われてしまった。京に上ることも忘れ、つてを求めて手紙を送った。

  江南柳窕緑 江南の柳たおやかにして緑なり

  尚愛枝葉陰 なお哀れむ枝葉の陰を

  頻莅黄鶯翼 しきりにのぞむ黄鶯の翼    

  暫堪待春深 しばらく堪えて春の深きを待つ

    葉をわかみまだふしなれぬくれ竹の

           このよをまつは程ぞ久しき

このような手紙をもらい、孫四郎は宥快の思いを感ずるものの、返事の書きようも知らず、手紙を懐に隠したまま、

    おなじ世にいきて待とは聞きながら

           こころづくしのほどぞはるけき

と詠った。

宥快はこの歌を伝え聞き、学道修行は忘れて、寺を出て山城の里に通いつめ、人の目も気にせず、辺りを忍び歩いた。

                      続く

    

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2008年7月19日 (土)

掃部新五郎遁世捨身・2

7月19日(土)

掃部新五郎遁世捨身・2(狗波利子・通算42)

(前回のあらすじ・上杉憲政の家臣掃部新五郎は徳之丞と言う14歳の田舎の少年に恋をし、わりない仲になった。徳之丞は17歳の時、重い病のかかる)

親や親族は、何とも出来ずにただ手をこまねいていた。

そんな中で、徳之丞はむっくりと起き上がり、新五郎の手を取り、

    すゑの露浅茅がもとを思ひやる

            我身ひとつの秋の村雨

と詠んで息絶えた。新五郎は悲しく哀れに心迷い、同じになりたいと願ったが、その甲斐もない。野辺の送りを行い、徳之丞の亡骸を苔の下に埋めて墓の主とした。そして自らは、墓の前で髪を切り、家にも帰らず、そのまま遁世した。

     のがれてもしばし命のつれなくば

            恋しかるべきけふの暮れかな

と詠み、足にまかせて立ち去った。

その後新五郎は、西国に行き、霊仏霊社を拝みつくし、次の年の4月ごろ故郷に帰り、人知れず徳之丞の墓に立ち寄った。草はぼうぼうとして、露のみが溢れていた。哀れ昔を思い、面影は忘れられない。

新五郎が涙ながらに念仏をすると、墓の向こうに徳之丞が現れて、影のごとくしょうしょうと立った。新五郎が近づくと、かき消すように姿を消した。

心を静めて経を読み、跡を弔い、泣く泣く立ち去った。東国の方に行ったが、世の中はいっこうに静かにならない。行く末も見えた。この先長らえても何ほどのことがあろうかと思い、松の枝に、

    露の身のおき所こそなかりけれ

              野にも山にも秋風ぞふく

と言う歌を結びつけ、傍らの、あなしの池という池に身を投げて死んでしまったのこそ哀れである。

たまたま知る人があって、死体を水から取り上げ、徳之丞の墓の前に埋めたということだ。

                         終わり

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2008年7月18日 (金)

掃部新五郎遁世捨身

7月18日(金)

掃部新五郎遁世捨身(狗波利子・通算41回)

   原作・浅井了意  現代語訳(誤訳)ぼんくらカエル

上杉憲政の家人、掃部新五郎は美しい字を書き、和歌が巧みで、自然や人の風情を深く感じる武士である。特に色好みということもないが、心にかなう人があれば、思い思われて、後の世までも連れ添いたいと思っていた。しかし、妻も定まらぬ中に、月日を送っていた。

久我の住人、名草の徳太夫という気だての優しい者がいた。その子徳之丞は14歳で、田舎の子ではあるが、見目麗しく情けがあり、立ち居振る舞いも上品であった。

新五郎はこの子を見染め、つてを求めて近づき、さまざまなことを教えた。四書五経なども教えたので、父の徳太夫も大切な客と思って、身内のように接した。

そうこうしているうちに、徳之上と新五郎は、恋人になって、月日がたった。3月、家の軒下に忍という草が生えてきたのを見て、新五郎が歌を詠んだ。

    ことの葉に出でてはいわじ軒におふる

              忍ばかりは草の名もうし

徳之丞の返歌

    我もかく人も忍びていはぬまの

              つもる月日をなどかこつらん

    ことの葉の末の松山いかならん

              波のしたにも我は頼まん

遠く語らい、深く契りて、徳之丞ははや17歳になった。4月の初めから病気になり、さまざまな治療をしたが、少しも良くならない。

新五郎も気をもんで、神仏に願をかけたけれども、何の効き目もない。もはや手を施すことも出来ず、時を待つより仕方がない。

                      続く

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2008年7月17日 (木)

男郎花・2

7月17日(木)

男郎花・2(狗波利子・通算40回)

(前回のあらすじ・越前の国朝倉家の小姓、小石弥三郎は見目かたち優れ、気だても良くて、同僚から可愛がられていた。足軽大将・州河藤蔵は弥三郎に恋文を送る)

神に懸け、命に懸けて送った恋文の誘われ、弥三郎はその夜、藤蔵と忍び会った。千年の思いを夜通し語り合い、名残の尽きぬまま、きぬぎぬの別れをした。

藤蔵の歌

     ほどもなく身にあまりぬる心地して

           おき所なき今朝の別れじ

弥三郎の返歌

     別れゆく心の底をくらべばや 

           帰るたもとととまる枕と

またいつという約束もせずに別れた。ことさら今のような物騒な世の中なので、今日は無事でも明日のことは計り知れない。今朝の別れが永遠の別れにも成りかねない。互いに涙しながらの別れであった。

まさに、次の日に戦があった。朝倉義影は軍を出して、臼井峠に向かわせた。武田方と戦ううち、州河藤蔵は討ち死にした。

弥三郎は大いに悲しみ、もはや生きる望みはないと、軍法を破り、旗本からただ一騎ぬけだし、駆けつけて討ち死にをした。

二人の屍は味方に取り返し、二人の中を知る人々によって、同じ墓の中に埋られた。

やがてその墓から、名も知らぬ草が生えてきて、夏には花が咲いた。男郎花と言って、大変珍しい花である。さだめし弥三郎と藤蔵の魂のしるしに違いない。

二人の中を知る人は、その根を分けて庭に植えたので、今はその草が多くなった。

                          終わり    

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2008年7月16日 (水)

男郎花

7月16日(水)

男郎花(狗波利子・通算39回)

越後の国朝倉家の小姓、小石弥三郎は顔かたち世に優れ、知恵深く、物静かで、情け深い愛らしい人であった。そのために、仲間は皆可愛い人と思っていた。

足軽大将、州河藤蔵は武勇に優れた者であったが、弥三郎を思う心は強かった。

   身にあまりおき所なき心地して

        やるかたしらぬわが思いかな

ただむなしくあこがれ、何ともしようがなく、つてを頼って手紙を送った。

    蘆垣の間近き中に君はあれど

               忍心やへてなる成らん

思いが絶えれば、死ぬほどであると書いて送った。

弥三郎はこれを読んで、限りなく心にしみ、哀れの思えて返事の奥に、

   人のためひとめしのぶも苦しきや

            身一つならぬ身をいかにせん

と書き付ければ、藤蔵はいよいよ心乱れて、

   いかにせん恋は果てなき陸奥の

           忍ばかりにあわでやみなば

   もらさじとつつむ袂の移り香を

           しばし我が身に残すともがな

                      続く

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2008年7月15日 (火)

常田合戦甲州軍兵幽霊・4

7月15日(火)

常田合戦甲州軍兵幽霊・4(狗波利子・通算38回)

(前回までのあらすじ・上求寺の住職頼胤は大変な名僧である。武田信玄は深く帰依し、戦の前には必ず祈祷をした。地蔵峠の戦では、武田軍、上杉軍双方に多大の犠牲者が出た。戦のあった夜、双方の軍兵が上求寺に押し入りその庭で入り乱れて戦った)

武田の館の留守居役、典廐信繁、穴山伊豆守手の郎党、同心、被官など300人、太刀や長刀をもち、馬を引き連れて、闇夜のくらい中を上求寺に駆けつけた。門の内では、激しい戦の音がする。門をこじ開けて、松明を灯し庭に入ってみると、1000人くらいの者が戦っていたと思われるのに、雪や霜が消えるように、一同皆消え失せて、ただ、松風の音ばかりである。

頼胤阿闍梨は、あまりの不思議さに、寺の戸を開き、典廐や穴山に会い、ことの始終を物語った。

話の内容は、ただごとではないと思われた。典厩たちは、味方が負けたのかも知れないと思った。拳をにぎり、肝をひやし、館に帰って、これからの戦い方などを、夜もすがら語り合った。

明け方に飛脚が到来し、館はやっと静まった。

討たれた敵も味方も、怒り、高慢、業因にひかれ、こんな苦しみを受けるのであろう。この世の掟に従って生きる迷いのありさまは、まことに悲しいものである。

やがて信玄が帰陣し、敵味方の討たれた者のために、上求寺において仏事を営んだ。僧衆を供養し、7日間経を読み、跡を弔ったので、その後は幽霊のでるようなことはなかった。

                   終わり

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2008年7月14日 (月)

常田合戦甲州軍幽霊・3

7月14日(月)

常田合戦甲州軍幽霊・3(狗波利子通算・37)

(前回までのあらすじ・甲州恵林寺の奥にある上求寺の住職・頼胤は大変な高僧である。国主信玄は、深く帰依して、戦の前には必ず祈祷をする。地蔵峠で上杉方と戦い、相手方は去ったが、味方も多くの痛手を受けた。上求寺で祈祷したときに、不吉なことがあったっが、住職は誰にも告げなかった)

26日の亥の刻(夜中の10時頃)鎧武者が300騎ばかり、上求寺の門を開いて駈け入った。戦死したはずの小山田古備中の声がして、兵たちに指図をしている。

寺にいた法師達は、驚き慌てて、縁の下や天井裏に隠れた。

頼胤は少しも慌てず、窓から外を見ていた。300騎ばかりが並んでいるところに、6.7百騎が入ってきた。それらが庭の中であい争い、撃ちあい、引き倒しあった。鉾より出る火は、沢辺の風に咲き乱れる蛍よりも輝き、行き違う軍馬は雲の上で鳴り響く雷のようだ。

地元の甲府の人々は、この声に驚き、味方ヶ負けて、敵軍が押し入ってきた、と、にわかに騒ぎ出した。親は子の手を引き、私財を担いで逃げた。

                    続く

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2008年7月13日 (日)

常田合戦甲州軍幽霊 2

7月13日(日)

常田合戦甲州軍幽霊 2(狗波利子・通算36回)

(前回のあらすじ・恵林寺の奥にある上求寺の頼胤阿闍梨は、まれに見る名僧である)

武田信玄は国主である。信玄の生まれた年の干支は、運の良い時期に当たっている。信玄の本尊は不動明王なので、上求寺に深く帰依していた。出陣の前には、上求寺に参じて護摩を修し、館の安全、軍勢の無事、大将の勝利を祈祷した。信玄自らの参詣は毎度のことである。

天文21年3月、越後の長尾影虎が千余騎を率いて信州の地蔵峠を越え、長尾義景3千余騎を先陣として、押し出してきた。

武田信玄は1万3千の軍勢で迎え撃つ陣を張った。お互いに足軽を出して競り合ったけれども、はかばかしい進展もない。

謙信は何を思ったのだろうか、陣を払って越後に帰ってしまった。義景は陣をはらい、静かに引き揚げた。そのありさまを見て、武田方の飯富兵部、小山田備中、郡内の小山田左兵衛、芦田下野、栗原左衛門佐などが真っ先になって、義景の退却をくい止める。

義景、少しも慌てず、甲州方を坂の中に引きつけて、3千の手兵をまとめて、一気に武田方に立ち向かった。

武田方は足場も悪く、坂より下にまくり落とされた。さんざんに切り崩され、小山田古備中は討ち死に、原、郡内の小山田の2名は深手を負って動けなくなった。武田方の旗本前備甘利左衛門、馬場民部内藤修理が駆け寄って、敵を切り倒しながら二人を担いで味方の陣に戻った。しかし、いくほどもなく、二人は死んだ。

義景は、武田の軍に713人が討たれ、わずか3騎で引き返した。武田方も371人が討たれ、怪我をした者は数知れない。戦いは勝ったように見えるけれども、そうそうたる侍大将を失ってしまった。

このたびの戦の前にも上求寺で護摩を修したけれども、護摩はくすぶり、注ぐ水はこぼれた。頼胤阿闍梨は不吉に思ったが、口には出さず、胸の奥に深くしまっておいた。

                            続く

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2008年7月12日 (土)

常田合戦甲州軍兵幽霊

7月12日(土)

常田合戦甲州軍兵幽霊(狗波利子・通算36回)

(難解な仏教用語多く、誤訳がでそうです)

甲州東郡恵林寺の奥に、真言の寺がある。上求寺という。本尊は不動明王である。不動明王の強く猛々しい憤怒の様相は、わがままでだらしない者、残酷な者たちを戒めるものである。

不動明王の本来は、知恵で正邪を決断し、般若真理の実相を示すものである。目、耳、鼻、舌、体、心の4つの魔、すなわち肉体魔、煩悩魔、死魔、天魔を制御し、四生、すなわち人間など胎生の者、鳥のように卵生の者、カエルのような湿生の者、蝉などのように脱皮したりする化生の者、及び、天上界、人間界、地獄道、畜生道、餓鬼道の者たちに、あまねく恵みをたれ給う。

その時の住職は、頼胤阿闍梨という知行兼備の得の高い僧であった。万物はその眞底において皆一体であることを示す曼荼羅には、花の下に白馬がいななき、身、口、意の秘密を見定めている月の前で、青龍が雲を吐いている。阿闍梨の心の底では、密教金剛界にふさわしい玉を磨き、中尊を安置する中台の胸の内には、すべてを良しとする香を包んでいた。身、口、意の秘密を知る名僧として、諸人は皆敬っていた。加持祈祷をし、護摩を焚き灌頂をすれば、谷にこだまが響くように、その功をあらわした。

                        続く

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2008年7月11日 (金)

今川氏眞没落・4

7月11日(金)

今川氏眞没落・附・三浦右衛門最後(狗波利子・通算35回)

(前回までのあらすじ・今川氏眞の佞臣、三浦右衛門は、主君が戦いに敗れ駿府城を捨てて落ちのびるとき、自分が助かりたい一心で、1人駆け落ちした。しかし土民、百姓のため身ぐるみ剥がれ、丸裸で小笠原与八郎に助けを求める。与八郎は、一度はかくまったものの、三浦を討ち果たすため、広庭に引き出す)

三浦は大いに驚き、

「親とも、兄とも思って頼ってきたのに、あまりに情けない行いです。せめて命ばかりはお助けを」

と頼み、涙を流す。

小笠原の家臣で足助長七というものが首き切り役人の傍により

「何とか申し開きをさせて命だけは助けてやれ」

といった。

「命を助ける代わりに、鼻をそぎ、片耳を切りをとすが、それでも命が惜しいか」

と聞くと、三浦は、

「それでも良いから命を助けてくれ」

という。

これを聞いた人々はあきれ果て、

「あんな根性だから重恩の主君をすててここまで逃げてきたのだろう。早く首をはねて、不忠不義の佞臣の懲らしめにしろ」

という。三浦右衛門は、身をよじり、声を上げて泣き伏した。

「今はこれまでだ。念仏を申せ」

といっても、前後不覚に取り乱し、首切り役人も、太刀のあてどころが定まらない。やむを得ずうつぶせに踏み倒して、首をかききった。

死体は野辺に捨てられ、鳶や鴉が目をついばみ、はらわたを千切った。犬やオオカミが手足を引き散らし、尻に食らいつく。

往き帰の人はこれを見て、哀れとも思わず、積悪の因果の報いだとささやきあう。

運に乗じて権威をふるい、竜虎の勢いだったものが、運が尽きて屍を草むらにさらし、恥を残すことこそ哀れである。

                          終わり

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2008年7月10日 (木)

今川氏眞没落・3

7月10日(木)

今川氏眞没落・附・三浦衛門最後・3(狗波利子・通算43回)

(前回までのあらすじ。三浦右衛門は今川氏眞の寵愛を受けたが、氏眞が武田勢に敗れて駿府城を落ちのびるとき、主君を捨てて、1人で逃げた。しかし百姓たちに襲われ、赤裸にされてしまう)

三浦は、命ばかりは助かったが、丸裸なので、破れた菅笠で前を隠し、ちぎれた古い菰を腰に巻いて、泣きながら逃げた。夜もすがら、田の畦を伝ったり、山道を歩いたりして、手は野バラの棘でひっかき傷がつき、足は石に躓いて血が噴き出すありさまだった。

ようやくのことで三河の高天神の城に着き、小笠原与八郎に助けを求めた。与八郎は、また三浦の時代が来るかとも思い、初めのうちは、小袖、脇差しなどを与えてかくまった。しかし、今川氏眞は掛川でも破れ、小田原の落ちのび、つき従うものもいなくなったと聞き、心変わりをした。

今川の領土の一部を押さえ、三浦右衛門を絡め取った。

「お前は長年わがままを働き、人々を苦しめた。民百姓を困窮させ、おのれの意に合わなければ、同輩の侍の知行を取り上げ、職を解いた。取り柄のない者でも、へつらえば取り立て、主君をだました。お前を恨む者は多い」

さらに言葉を継いでいう。

「今はすでに、主君の運は傾いた。国は滅びようとしている。主君の恩を忘れ、自分だけが助かろうとしたことなど、神仏の教えに背き、人道にはずれる。悪逆無道の恥知らずである」

そして、人夫どもに命じた。

「こんな役立たずを生かしておいては、生きている者のじゃまである。早くあの世に送って、閻魔の裁きを受けさせろ」

と、三浦を庭に引き出した。

                           続く

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2008年7月 9日 (水)

今川氏眞没落

7月9日(水)

今川氏眞没落

附・三浦右衛門最後・3(狗波利子・通算42回)

(前回までのあらすじ・今川義元も跡を継いだ今川氏眞は、三浦右衛門を偏愛し酒宴遊興にふけり、武術をないがしろにした。臣下は忠誠心を失い、武田信玄に攻められ、駿府城は落城した。氏眞が掛川に落ちのびるとき、三浦はあれほど可愛がってくれた主君を裏切り、1人で駆け落ちした)

駿河、遠江、三河の間では、誰でも三浦に媚へつらたのに、積年の悪が現れて、今は身の置き所がない。身分を隠し、人に隠れ、雷の中で川を渡り、薪を背負って焼野を通るありさま。馬をせかせて通れば、

「落ち武者がくるぞ!」

と百姓たちが叫び、錆びた槍や長刀を持って走り寄る。

「われは三浦右衛門である。うかつなことをするな」

といえば、

「それならなおのこと、捕まえて日頃の恨みを晴らそう」

という。

「身ぐるみ剥いで、裸にし、恥をさらしてやれ」

また、他のものはいう。

「主人に可愛がられているのを良いことに、百姓を苦しめ、妻や子供まで身売りさせ、年貢を納められないものには拷問を加え、その報い、来世まで待つことはない、今ここで、なぶり殺しにしてやる」

口々に叫び、三浦を馬から引き下ろし、鎧かぶとから小袖までも剥ぎ取り、赤裸にした。

三浦は百姓どもに手を合わせ、

「どうか身を隠す小袖くらいは残してください」

と頼んだが、若い者たちは、

「こいつに遺すものなどあるものか、高手小手に縛り上げ、木に吊して思うままに打ち殺してやる」

という。さすがに年寄りは、そこまでしなくてもと、縄を解き、許してやった。

                      続く

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2008年7月 8日 (火)

今川氏眞没落

7月8日(火)

今川氏眞没落・2(狗波利子・通算42回)

(前回のあらすじ・今川義元の子、今川氏眞は、佞臣、三浦衛門を偏愛し、武道をないがしろにして、酒宴遊興にふけり、財政は疲弊した)

氏眞は譜代の忠臣でも、少し気に入らぬことがあれば、所領を没収し、職を奪った。政は、みな三浦の思うがままで、家臣たちは、上も下もあきれ果て、三浦をもてあましていた。今川の老臣、朝比奈平太夫と三浦右衛門佐は仲違いをし、家臣はみな三浦を憎んだ。

今川氏眞は武田信玄の甥なのだが、今川のこの様子を見て、信玄は三万五千余騎をひいきいて、駿府に押し寄せた。

氏眞は庵原左馬頭を先手とし、岡部小倉七千余騎、氏眞は二万五千余騎を率いて迎え撃とうと出陣したが、朝比奈は心変わりして引き返してしまった。他の陣の者たちも、訳の分からぬまま引き返した。氏眞の家来たちは色を失い、逃げる支度をはじめたので、清見寺の本陣は崩れて、府中に帰った。

武将たちは心変わりをし、寄せてくる敵を防ぐ義務もないと思った。

氏眞は城に籠もって討ち死にしようとしたが、三浦が、

「ここはひとまず砥城の山家に引きこもり、時期を待って軍をおこし反撃を」

というのに従って、わずか五〇騎ばかりで城を抜け出し、小原備前守、朝比奈備中守、長谷川次郎左衛門などの計らいで、掛川の城に入った。城中には、七千余騎の兵がいた。

武田方は主のいなくなった駿府城に押しかけ、館に火を放った。おりから、大風が吹いて、激しく燃え上がり、さしもの大館も一時の内に灰になってしまった。次の日その焼け跡に、歌を書いた板が立てられていた。

    甲斐も無き大僧正の官賊が

           欲にすがるのおひたふすみよ

三浦右衛門は、一朝に威を失い、戦の恐ろしさに、手も足も震え、ものの心もわきまえず、氏眞と共に城を出たのだけれども、何とも行く末が心許なく、ことのほか偏愛を受けた氏眞の恩をうち捨てて、1人で駆け落ちしてしまった。

                        続く 

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2008年7月 7日 (月)

ぼんくら日記  今川氏眞没落

7月7日(月)

ぼんくら日記

精障者作業所Mへ

お客様のMさんから変わった注文あり。段ボールで踏み台を作れと言う。段ボールだから軽くできるけれど、踏み台なので、その上で、人が跳んだりはねたりしても潰れないように作らなくてはならない。まあ、出来ないこともないけれども・・・。今日ではなく、次回に作ると言うことで引き受ける。

今日は七夕。今日から洞爺湖サミット。ブッシュさんは環境問題に鈍感な人だねえ。想像力が鈍いんだな。

明日、健康診断、胃ガンの検診。今日はそろそろ、飲み物食い物が取れなくなる。この先のブログは、飲みながら書くことにする。普段だと、書いた後に飲むのですけれどね。もちろん、書く前にも飲んでいるのですよ。今日は、書き終わった頃にはもう飲めない。

今川氏眞没落・附・三浦右衛門最後(狗波利子・通算41回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

駿河の国、今川義元は織田信長に討たれ、その子、今川氏眞が跡を継いだ。しばらくは、国を守り何とか収めていたが、永禄(1558-1569年)の初め頃から、家運が衰え、氏眞は風流にうつつを抜かすようになった。

武藤新三郎という美少年の佞臣がいた。

氏眞はことのほか新三郎を愛し、酒席に侍らせ、淫舞淫楽を共にし、和歌を愉しみ、蹴鞠に興じた。

新三郎が成人してからは、三浦右衛門佐と名乗らせ、茶会を企て、何事も、三浦のいうことを良しとした。庭を造っては深山幽谷の景を求め、路地に築山を作り、水の流し方、木の枝つきまで、三浦の意見を取り入れた。

三浦の喜びが氏眞の喜びとなり、紹鴎の高麗茶碗を3千貫で買い取り、連歌の名匠宗祇の秘蔵した白梟の香炉を5千貫で買った。そのほか、夢窓国師の青磁の花入れ、忍性聖人の柿色の眞壺、あるいは茄子の肩衝き、緑葉の香合、匙、机、等々、枚挙にいとまがない。

日本のものであろうが中国のものであろうが、三浦のためならば、財宝を惜しまず買い求めた。綾錦を買い求めては切り刻んで袋を作り、香木を削って部屋の柱とした。

そんなこと使う金は、幾千万とも限りがない。財宝は、天からも振らず、地からも湧かない。結局のところ、土民百姓をむさぼり、税を重くし、課役を激しくするのであった。そうして絞り上げたものを、砂に水を撒くようにして使った。

                        続く    

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2008年7月 4日 (金)

手品  不幸の子雷にうたれる

7月4日(金)

手品(ぼんくら日記)

今年初めての真夏日。

特養Sへ。私のやることは、話し相手、手品、紙切り。いつも同じようなものだけれど、何となく、私のまわりの人が集まる。看護婦さん、介護士の人、なども、私がいるテーブルに利用者さんを連れてくる。で、私は得意になってやるわけだ。

ひとしきりやっていると、新館の方にも行ってくれ、という。後半は、新館で過ごす。こちらの方は、知能程度で言えば、私などより高い人が多い。そこで、話しをし、手品をする。たいていの手品は、種明かしもしてしまう。「次に来るまで、忘れてくださいね」と言いながら・・・。

私の手品は、時々失敗する。私は言う。「失敗はしょうがないですよ。何しろ、木戸銭をもらってないんだから・・・」。つまり、笑わせながらやるのが、私の手品であり、紙切りなのです。

ある利用者さんが言った「お人柄が良い」。で、私はますます調子に乗ってやるのです。その辺が私の軽いところ。

不幸の子の雷にうたれる(狗波利子・通算40回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

慶長の初め(1600年前後)大宮、7条に、丸や弥介という商人がいた。弥介には2人の子供がいて、弥介の死後は、兄の弥二郎が跡を継いだ。何とかやっていける程度の収入はあった。弟の弥三郎は、3条堀川に住んで、百姓をしていた。家計は貧しく、朝夕の食事にも事欠くありさまだった。

2人の母は歳をとってしまった。兄、弥二郎が言うには、

「おればかりが面倒を見るのはおかしい。弟がいるのだから、あっちにも行けばいい。10日ごとに交代で面倒を見よう」

そんなわけで、母を10日ずつ交代で面倒を見ることになった。母は、弟の家にいるときは心安らぎ、兄の家にいるときは気まずいことが多かった。嫁にさえも、すげない扱いをされた。

ある時、弟の家にいて8日目になったら、食べる物が無くなってしまった。これではどうしようもないので、兄の家に行ったところ、

「まだ2日残っている。あっちへ行け」

と言って、家にも入れさせない。そうこうしているうちに、朝食の飯が炊けたらしい。母は、

「せめてその飯を少し食わせてくれ。そしたら弟のところに帰る」

と言ったら、嫁は返事もせず、少しも食べさせようとはしない。弥二郎も、

「早く帰れ」

とあしざまに言う。やむを得ず母は弥三郎の家に向かって歩き出した。

まだ5百メートルも行かぬうちに、急に空を雲が覆い、雷が鳴り、弥二郎の家に落ちた。弥二郎は頭を打ち割られ、嫁は門口まで逃げたが打ち殺された。せっかくの飯も辺りじゅうにうち撒かれた。

弥二郎の家は、またたく間に絶えてしまった。

                     狗波利子第4巻終わり

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2008年7月 3日 (木)

趣味  母に不幸の子狗となる

7月3日(木)

趣味(ぼんくら日記)

私は、ボランティアと趣味で日を送っている。ある種の年寄りの1パターンですね。

趣味としているのは、山歩き、水彩画、俳句です。

毎日ブログを更新しているから、これも趣味みたいですが、自分の意識の中では、そんな気がしない。昔から日記は書いていたし、それがブログに変わっただけです。ただ、ブログにしたことで、文体は変わりました。読んでくれる人もいるのだから、当たり前ですね。いろいろな不自由なことも出てきました。書くことで、人に迷惑もかけられないからです。

三つの趣味の中で、もっとも楽しいのは山です。気のあった山友達がいて、一日中一緒に行動して、夜は、反省点があろうと無かろうと反省会(ニケさんの表現)をやったりして・・・。

でも、三つの趣味の中で、一番最初にやめるのも山でしょうね。ぼんくらカエルは71歳の老カエル。体力が無くなったら、ハイそれまでよ。

絵や俳句は、体力が無くなっても出来ます。惚けたらどうかな。俳句なんか。惚けた方が上手くなるような気もします。半分くらいは本気で言ってます。

Mizutani10009 入間市の彩の森公園でのスケッチ。左側は水彩鉛筆で、現場で彩色。Mizutani10010

右の絵は、家に帰ってから彩色。 下手はどちらも下手だけど、右の方が良いような気がする。絵も俳句も、退職後にはじめたもの。上手くなりたいと言うよりも、自分勝手にやりたいという気持ちの方が強い。

今年の4月ごろから、鉛筆スケッチをはじめた。それまでは気持ちはあっても、彩色までするのは気が重かった。で、結局、まれにしかスケッチをしなかった。色を付けないと決めてから、気が楽になって、散歩にはスケッチブックを持って行く習慣が出来た。

俳句については、またの機会に書きます。

母に不幸の子狗になる(狗波利子・通算29回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

永正年中(1504-1520年)京の西、鳴滝と言うところに、彦太夫という百姓がいた。金持ちというほどではないけれど、田畑を作り、人並みの生活は出来た。

生まれつき、無道無頼な男で、神仏を敬う気持ちは少しもなかった。そんなくらいだから、近くの寺に参ったこともない。乞食非人が来ても、口汚く罵り、少しも恵んでやることはない。

母親を粗末にし、不幸なことこの上もない。明け暮れ辛くあったって、少しでも気に入らないことがあると、ことさらになじった。母が歳をとって、何事も上手に出来なくなると、

「早く死んでしまえ。役立たずが無用に長生きをして」

などという。母は自ら育てた子供にそのようなことを言われ、なんと情けない命かと、嘆かぬ日はなかった。

母が病気になって、食べ物が喉を通らず、魚なら食えるかと、嫁に頼んで単の着物を売ってもらった。その金で魚を買ってくれと息子に渡した。ところが彦太夫は、金を受け取りながら、魚は買わなかった。

隣の人が哀れに思って、鯉の羮を作って母親にと持ってきたのに、母には与えず、自分で食ってしまった。

すると、たちまち腹が痛くなり、薬を飲んでも、少しも良くならない。くらい閨に籠もり、夜昼5日間うめき続けた。5日目に人が様子をうかがうと、なんと彦太夫は犬に変身していて、恥ずかしげにうずくまっていた。

その犬、食を与えても食わず、100日たって死んでしまった。そのありさまを見た人は、不幸の報いを思い知り、親孝行をしたということだ。

                           終わり

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2008年7月 2日 (水)

科学と迷信 木島加伯・2

7月2日(水)

科学と迷信(ぼんくら日記)

またまた、題が大げさです。

私は今、パソコンでブログを書いている。ローマ字入力でキーを打つと、ディスプレーの画面にひらがなが出てきて、変換キーを押して、文章を作る。にこれを保存すると、外部に公開できる。

なんでそうなるのかは、とんと分からない。

今は科学が発達して、生活していく上で、大変便利である。電気もテレビも電話も、大いに利用しているけれども、それが利用可能な理由など、私には全然分からない。

私は地球が太陽のまわりをまわっていることを知っている。しかし誰かが、多少の天文学の知識を持って、太陽が地球をまわっているのだと、理路整然と主張したら、私は彼に、有効な反論を言うことが出来ない。科学者は地球が回っていると言っているとか、学校で習ったとか、しか言えない。

専門知識は何もないけれど、地球は太陽を回っていると信じているのである。これ、迷信の信じ方と同じではないだろうか。

私は、血液型で性格を判断する、などと言うことは信じない。生まれた日によってどうだとか、姓名判断だとか、厄日とか、厄年だとかを信じない。狐が人を化かすとは思わない。死者の呪いで生きている者に不幸がおこるとは思わない。

私は、進化論を信じる。天動説を信じる。物質は分子で出来ていることを信じる。地球にも寿命があることを信じる。生物に遺伝子があることを信じる。ビッグバンがあったのだろうと思う。相対性理論は正しいのだろうと思う。

Mizutani10009 けれども、それらを信じるのは、理解しているからではない。理解しようとしったって、理解できないことも多い。それでも、科学で正しいとされていることだから、正しいのだろうと思う。

何も分からず信じているのである。これ、迷信の信じ方と同じじゃないのかなあ。どこが違うんだろう。

画像は、智光山公園です。現場で鉛筆スケッチ、家で彩色。

木島加伯・2(狗春子・通算38回)

(前回のあらすじ。京都に、子供を亡くした人がお参りをする、安養寺という寺がある。一方、木島加伯という欲張りがいて、子や孫に死なれたものだから、有り余る財産を夫婦だけで使っていた。鬼が来て、それを咎めた)

その後も、やれ花だ、やれ月だと、美食をし酒に溺れていたら、また、鬼がやってきて、加伯を責めた。加伯はしょうがなくて、高僧に相談した。

「欲深く、法外な財産をむさぼるように使うのは、仏の道に背くものだ。神の掟にも反する。そんなことをしていては、この世でもあの世でも、身の置き所が無くなる。必ず災いが来るだろう。憂いや悲しみが絶えることはない。慈悲の心で物を恵み、仏と、仏の教えと、僧侶を敬いなさい。後生のことを考えて、これまでのことを悔やみ、心をあらためなさい」

高僧の言葉に、夫婦ともこれまでのことを悔い、懺悔した。

その後、都に上り、誓願時にお参りし、堂塔を修繕した。また安養寺に懸けられた地獄の絵を見て、いよいよ後生が大事と思い、夫婦して髪を切り、自分たちの座像を作らせた。そしてそれを壇に飾った。

今もそのことを語り伝え、木造を見て、仏門に入る人がいると言うことだ。

                           終わり

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2008年7月 1日 (火)

1升飯・他  木島加伯

7月1日(火)

スケッチなど(ぼんくら日記)

午前、社協で、たなばたの飾り付けの会議。Mizutani10009_2

会議中に向かい側の席の人をスケッチしちゃった。不謹慎だなあ。でも、話は聞いていたし、発言もしたんですよ。ウーン、やっぱり不真面目だな。相手にも、まわりの人にもわからないように、気を使って描いているんだから、会議に身が入っていないんだよね。そんな状況だから、細かいところまでは描けない。

午後、精障者の福祉法人が経営する食堂の包丁研ぎ。終わって、食堂裏の霞川を入間川の合流地点まで散歩。

Mizutani10010 スケッチをしながら散歩のつもりだったが、暑いんですよ。日陰で描くつもりが、めぼしいところはたいてい釣り人が占領しているのです。現場では鉛筆だけ。彩色は家に帰ってから。邪道かなあ。Mizutani10011

もう1枚。これは入間川。これも、彩色は家でしています。視点が低かったので、橋が馬鹿に高く見えますね。真ん中の人は釣り人です。オシッコをしているのではありません。余分なことを書いちゃった。アハハ。

1升飯(ぼんくら日記)

毎日見ているブログやホームページの一つに「増殖する俳句歳時記」というのがあります。去年までは清水哲男という詩人兼俳人が一人で書いていましたが、今は清水哲男を含む7人が、日替わりで書いています。

今日の担当は土肥あき子で俳句は「歩荷くる山を引きずるやうに来る」作者は加藤峰子。「歩荷」は「ボッカ」で、山小屋などに荷物をを担いで運ぶ人。

土肥あき子氏の舅は立山連峰で歩荷の経験があるのだそうだ。その労働のきつさを「1回で1升の弁当が無くなる」と言ってあらわしたそうだ。

やはりそうだったか。私の田舎で、山仕事をする人が、「1回に1升飯を食えないようでは1人前じゃない」と言っていたのを記憶している。話を聞いてから何十年もたつし、1回で1升というのは間違いで、1日のことだったろうかなどと考えていた。お盆ほどもあるような大きな握り飯を風呂敷に包んで、山仕事に出かけていく人だった。

木島加伯(狗波利子・通算28回)

   原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

京都誓願寺の南の方に、格子の中に仏壇をしつらえ、地獄の様相の絵図を懸けている寺がある。安養寺という。

近郷近在の人々の子供が亡くなったとき、親はその衣類や玩具などをその寺に寄進し、せめてもの悲しみを安らげようとする。しかし、子を失った悲しみは、なかなか消えるものではない。

ある人は、子に先立たれ、悲しみのあまり衣装を寄進したが、後に寺を訪ねて、その衣装を見ると、ナデシコを摺り縫いした衣装だった。その衣装を見るにつけ、また昔を思い出し、涙と共に歌を詠んだ。

    なでしこの花の衣はうつ蝉の

             もぬけし殻と見るぞかなしき

元和年中(1615-1623年)長門の国(山口県)萩と言うところに、、木島加伯という強欲の人がいた。聞くところに依ると、黄金5千両を持っていると言うことである。

子や孫はいたのだけれども、どういう訳か皆早く死んでしまって、今は年取った夫婦だけが残っている。財産を譲るべき人はいない。

この上は浮き世の思い出に、好き勝手に暮らそうと、贅沢のし放題であった。旨いものや酒を、飽きるほど食って飲んで、自分たちだけで愉しみ、人には与えなかった。

ある夜、鬼の形をした者が尋ねてきて、夫婦の喉を掴んで言った。

「お前たちは我々の脂を絞って、剥ぎ取った金銀を、自分たちのためにだけ使っている。とんでもない奴だ」

加伯は畏れて言った。

「今日からは、旨いものばかり食べたりしません。酒もやめます。豪華な衣装で着飾ったりしません。家の新築などもしません。世捨て人のような質素な生活をします」

それを聞いて鬼は立ち退いた。加伯は夢から覚めたような気分だったが、恐ろしさは残った。

                           続く

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2008年6月30日 (月)

統計の数字  霞谷の化け物

6月30日(月)

統計について(ぼんくら日記)

書くことはチンケなのに、題名は大きいねえ。

子供がまだ小さい頃、S厄よけ大師から厄よけをするようにというハガキが何度も来た。文面を見ると、大人も子供も含めて、何とかの厄とかいうのが沢山あって、しかもそれに、本厄、前厄、後厄があるのである。そして、交通事故にあう人の約3割は、厄年の人ですと書いてあった。

当たり前だろう、むやみに厄年を作って、前厄後厄を含めれば、人生の3割くらいには成るサ。あほらしいから、そのハガキを、受け取り拒否で送り返してやった。

男の厄年の最たるものは42歳らしい。「死に」という言葉からの連想だろうけれども、いかにも科学的なように、その頃に体の変化が現れる、さまざまな病気も、その頃から起こる、などと説明される。まあ、そうでしょうよ。体だって、歳と共に変化する。ただし、42歳だけが特別というはずもない。もしも42歳が特別ならば、その年だけ死亡率が高いとか、癌の発生率が高いとかの統計が出るはずである。厄年が体の変化の歳だと主張する人たちが、そのような統計を見つけたら、飛びつくはずである。でも、そんな統計が出ないところを見ると、42歳前後が特に他の年齢とは違うという統計はないんでしょうね。

もっとも、統計というのも、当てにならないんだよね。先日テレビで、日本人の塩の摂取量が多すぎるという統計が、紹介された。確かに、他の先進国よりも多かった。だから塩をとりすぎてはいけないというのである。なるほど、この統計自体は正しいのでしょう。だけど、この統計は、逆の目的に使うことも出来る。日本人は、塩の摂取量が多いし、世界一長寿である。だから、塩は多めに取るのが良い。このような結論だって出せる。統計も使いようだ。

統計は有効だが、その数字の使い方には注意を要する。統計学なんか知らない私たちは、数字にだまされないようにしなくてはいけない。

霞谷の化け物(狗波利子・通算37回)

伏見稲荷の北に小さな橋がある。世間の人は、朽木橋と呼んでいる。

その橋の麓に、喜衛門という百姓が長年住んでいた。その喜衛門が、藤森に住む知人のところに、麻の種をもらいに行った。

酒を振る舞われて帰る頃には、すでに日が暮れていた。酔っていたものだから、裏道から帰ろうなどと思って、野中の道を、鼻歌を歌いながら帰った。

気がつくと、前の方に、手燭にロウソクを立てた二人の大男が見える。変な奴がいるなあ、と思って近づいて行くと、二人は身の丈3メートルに近い法師である。とは言うものの、法師の衣も着ていないし、数珠も持っていない。独りは藍の小袖を着ている。もう独りは、その頃流行の短めの小袖を着、脛を大きく出している。

喜衛門を見て、

「怪しい奴だ。鋤を担いでいるところを見ると、百姓だな。夜、この道を通るものは、たやすく通すわけにはいかない。こっちへ来い」

と、喜衛門の腕をとり、引きたてていった。何しろ3メートル近い大男である。力も強い。声を立てたところで、人影もない。そのまま山に入り、霞谷まで引きずられてきた。

喜衛門はそこの洞窟に放り込まれ、二人の法師は、入り口で見張っている。どうしようもない。人影は見えないし、逃げようとすれば、奥に追い返される。三日二夜、ものを食わず、洞の奥にうずくまっていた。

二人の法師も疲れたのだろう、居眠りをはじめたので、鋤を持って洞からで出た。その際、鋤で二人をなぎ倒し、一目散に走って家に帰った。そして、布団を被ってふるえていた。

じつは、喜衛門がいなくなったので、近所の人が集まり、探しに行こうとしていたのである。そのため、喜衛門の枕元で、どうしたのか尋ねたが、恐ろしさのせいか、喜衛門は何も答えなかった。

朝になって、喜衛門はようやく口を開き、自分の経験を語った。

血気にはやる若い者が10人ばかり、弓や、ちぎり(木の棒で出来た武器、中央が細く、両端が太い)、錆槍を持って、霞み谷に行った。

洞の入り口に行ってみると、30センチくらいのヒキガエルと亀が、鋤の傷を見せながら死んでいた。このものたちが化けていたのであろう。

その後は何事もなかった。

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2008年6月29日 (日)

無題  塚中の契り・2

6月29日(日)

無題(ぼんくら日記)

一日中雨で、買い物以外はどこにも出ませんでした。

Mizutani10009 女流棋士、梅沢ゆかりのスケッチ。

NHKテレビで対局中の姿。

実力ばかりでなく、囲碁界のアイドルだそうです。実物はもっときれいです。

手を顔のあてて考え込む癖があるようです。

塚中の契り・2(狗波利子・通算27回)

(前回のあらすじ。浅原平六は早世した弟の娘を育てたが、年頃になって、娘は亡くなってしまった。隣に、父に死に別れた筒岡権七という者がいたが、行方不明になった。その母は権七をさがして墓の辺りに来る)

たまたま雪が降って、辺りは真っ白である。新しい女の墓に、黒い袖が土からはみ出しているのが見えた。引き出してみると、土の底から権七の声が聞こえた。

「人の逢い引きをじゃまするのは誰だ」

人を頼んで墓を掘り出せば、どこから入ったのか、権七は女と二人で棺の中に寝ていた。女の屍は、まるで生きているようであった。寝ている下に、慶弔用の用紙に書かれた歌があった。女手で、

   流れてのうき名もらすな草がくれ

          結びし水の下さわぐとも

   独りねをならわぬ身にはあらねども

          君帰りにし床ぞさびしき

また、権七が書いたと思われる歌、

   契るてふ心のねより思いそむ

          軒の忍の茂りゆく袖

   笛による男鹿もさぞな身にかえて

          思い絶えせぬ習い成るらん

この歌も携えて家に帰ったけれども、権七は、正体もなくただぼうっとしている。

山伏を頼んで、祈ってもらったら、しばらくして元のようになった。

半年ばかり過ぎた頃、召し使っている下女に、女の亡霊がとりついた。下女は、あらぬ事を口走る。

「ああ恨めしい。隠していたことが現れて、浮き名がもれたことが恥ずかしい。前世で縁があったために、契りを交わした。それなのにもう、水が流れるように私のことを忘れた人に、もう一度契るわけがある」

といって涙を流した。

その夜権七は、急死した。

人々は、女の亡魂と二世を契る約束があったのであろうと、同じ墓に埋葬した。

                            終わり

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2008年6月28日 (土)

平々凡々 塚中の契り

6月28日(土)

平々凡々(ぼんくら日記)

血圧検査でS医院へ。薬を飲んでいるためか、血圧はずっと正常で、今日も、上が120台、下が70台である。

午後、川越、紀伊国屋へ。月に1回くらい紀伊国屋に行く。我がマンションの隣が本屋で、狭山市内では大きい方だが、そこでは間に合わない本もある。大した本を買うわけではないけれど・・・。

秩父の、江戸巡礼古道を1度歩いてみたいと思っている。以前、ほんの一部を歩いたことがあるが、最近、地図が手に入った。全長11キロくらいらしい。所々で沢を渡ったりするようだ。私が歩いたのは、竹林の中だった。こんど、天気の良い日に行ってみよう。

塚中の契り(狗波利子・通算36回)

西国、大伴家の侍、浅原平六は武術に有名な人である。二人の娘がいた。平六の弟平三郎が早く死んだので、その娘も引き取って育てた。

三人の娘が年ごろになったとき、自分の娘二人は嫁がせたが、平三郎の娘については、放っておいてなにもしなかった。娘は恨んで、こんな歌を詠んだ。

    をし鳥のとりどりつがうつばさにも

            いかに我のみ独りすむらん

この娘は病気になり、何とはなしにやせ衰え、ついに死んでしまった。城の東の方の野を墓とし、型どおり僧を呼び、経を上げ、念仏をして弔った。

平六の家の隣には、筒岡権七という、未だ二十歳を過ぎたばかりの男が住んでいた。父に早く死なれてから後は、立派に奉公をしていた。大変な美男子で、同僚で娘を持っている者たちは、婿に迎えたいと思っていた。しかし、どうしたことか、ふっと居なくなってしまった。

権七の母は半狂乱になって、あちこちを尋ね歩いたが、行方が知れない。物の怪にかどわかされたかも知れない、東の墓場を訪ねてみなさいと言われて、墓場の辺りを探し歩いた。

                                                      続く

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2008年6月26日 (木)

屍舞い踊る

6月26日(木)

定例会(ぼんくら日記)

午前、ボラグループ定例会

午後、老人介護施設K。

屍舞い踊る(狗波利子・通算25回)

山崎の庄屋、宗五郎という者の妻は、河内の国(大阪府)高安の里の者である。性格はだらしなく、恥知らずである。死後のことなど、少しも考えない。結婚して何年もたつが、子供は居ない。生家は日蓮宗だが、題目一つ唱えたことはない。

家のこと、田畑のこと、牛馬のことなど気に懸けることもなく、使用人たちには辛くあたり、ずけづけとものを言い、怒鳴り散らす。優しさがまるで感じられない。

死後のことも気に懸けなさいと忠告した人には、見ることも出来ないあの世のことより、この世の方が大事だ。人に頼って死後の心配などをするのは無駄なことだ。と、口から出任せに恐ろしいことを言う。その下で使われる者、百姓たちは、みんな彼女を憎んだ。

そんな女にも寿命はある。宗五郎の妻は、文禄2年(1593年)、ちょっと病気をして、そのまま亡くなってしまった。葬儀は明日と言うことにして、疎遠だった者も含めて、人々がその家に詰めかけた。枕元には香をたき、通夜をしていると、何とはなしにもの悲しくなってくる。

そんな折、遙か西の方から音楽が聞こえだし、だんだん近づいてくる。そしてとうとう庭から聞こえるようになった。人々が不思議に思っているうちに、死体が動き出した。音楽は、もう、家の中から聞こえるようである。

死体は音楽の調子に合わせて起き上がり、手を上げ、足を踏んで踊り出した。人々はびっくりして後ずさりしていると、音楽は、また、家の外に出て行った。音楽が門の外に出ると、死体も倒れたり転がったりしながら、門の外に出る。そして、音楽に合わせて動いていく。

家中の者は畏れ、騒いで、やれ松明だ、やれ灯火だと言いつのる。月の暗い夜だった。

主の宗五郎もあきれ、とまどうが、どうも出来ない。庭の前に生えている桑の木の枝を、手頃な大きさに切って杖を作り、酒の酔いにまかせて死体の後を追って行く。

2キロばかり先の野原に墓地がある。そこに生えている松の当たりから音楽の音が聞こえる。宗五郎が近づいてみると、松の根元に火が燃えていて、屍はその前で踊っている。宗五郎は持ってきた杖で、屍を打ち据えた。すると、屍は倒れ、灯が消え、音楽もはたと止んだ。宗五郎は屍を持ち帰り、葬った。

なぜそんなことが起きたのかは、分からない。

                       終わり

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2008年6月25日 (水)

丸山  柿崎和泉守亡魂

6月25日(水)

日向山から丸山へ(ぼんくら日記)

Hさん、Kさんとハイキング。Aさんは九州へ行っているので、今回は3人。

コース

西武線芦ヶ久保駅~日向山(633メートル)~丸山(960メートル)-大野峠~赤谷~芦ヶ久保駅

日向山も丸山も車道で頂上近くまでいけるけれども、それではつまらない。やはり山道を歩く。日向山に向かう道で、すぐしたに駐車場を見おろせるあたり、ツツジが満開。その他、名は知らないが、黄色の花が咲いている。ベンチも置いてあり、時間によっては、ここで昼食なんてのも、いいかも。

その他、コース中に目立った花としては、ヤマボウシ、ホタルブクロなど。カメラが無くて残念。

日向山から丸山の途中に、黄色い木イチゴが沢山あって、3人それぞれ、一粒ずつ食べる。けっこう甘い。

芦ヶ久保から直接丸山に行くコースは比較的良いが、日向山のコースは、道の手入れがされていない。荒れていると言うほどでもないが、イノコズチがズボンにびっしり付いたり、イラクサの小さな棘が手に刺さったりする。

今にも降り出しそうな曇り空だったせいもあって、はっきりしないが、日向山頂上の見晴らしは、あまり良くなさそう。

芦ヶ久保から丸山への道に合流すると、しばらくの間、道が広くなる。コース全体に杉林、ヒノキ林が多い。

丸山頂上で昼食。

大野峠を過ぎると、何度か沢をわたり返す。沢は梅雨で水量が多く、岩の間を滝のように滑る落ちる。なかなか見応えがある。

梅雨だから、蒸し暑いのはやむを得ないか。歩行時間は4時間半くらいかな。

柿崎和泉守亡魂(狗波利子・通算34回)

   原作・浅野了意   現代語訳・ぼんくらカエル

越後の国(新潟県)長尾影虎謙信の家臣、柿崎和泉守は有名な武将である。以前、川中島で信玄と戦ったときも、柿崎は先陣として、手柄があったため、謙信はいよいよ信頼した。越中(富山県)に住み、北越(新潟)の侍たちも、柿崎に従った。

ある時、柿崎は京都で馬を売った。きわめて優れた荒馬である。織田信長は、柿崎の名馬と聞いて、高く買った上に、布一反を添えた。さらに、このような良い馬が在れば、いつでも売るように、と書を送った。

柿崎はどう思ったのか、このことを謙信には言わなかった。謙信は程なくこの事実を知り、大いに怒り、柿崎を呼び出し、殺害した。

柿崎の亡魂はよほど悔しかったのか、時々謙信の前に現れて怒り狂った。謙信はさすがに武勇の大将、物ともしないようだった。

とは言うものの、天正6年(1578年)3月9日、信玄は脳卒中で倒れた。痰咳はひどく、呼吸はいびきの如く、顔は赤く、汗は玉のようである。家中の者、四方八方に医者を捜し、さまざまな薬を与え、灸をすえ、鍼を刺したが、少しの効き目もなく、ついに3月13日に亡くなってしまう。49歳であった。

罪もない忠節の家臣を殺し、その恨みのため、未だ武勇の盛りに亡くなってしまった。柿崎に取り殺されたと人々はうわさしている。

                     終わり

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2008年6月24日 (火)

デジカメ  田上の雪地蔵・3

6月24日(火)

デジカメ、行方不明(ぼんくら日記)

買ってからまだ10回も使っていないのに、デジカメが行方不明になりました。近ごろ惚けてきたので、年中捜し物をしています。しかしデジカメは、置く場所がだいたい決まっているし、そこになければリュックその他、外出するときに持って行く鞄などの中と、相場が決まっています。それなのに、どこをさがしても見つかりません。何かの拍子にひょっこり出てくることもあるかも知れませんが、無くした可能性の方が大です。どこでどうしたか。全く心当たりがありません。やっぱり、ボケかなあ。

田上の雪地蔵・3(狗波利子・通算32回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ・子供の頃、雪地蔵を作り、戯れて開眼供養をした明阿僧都は、説法上手の学僧である。ある時、1昼夜息絶えたように見えたが、じつは冥土に案内され、閻魔大王の新築寺院の供養を頼まれる)

僧都は新築の精舎に入り、高座に上って説法をはじめた。閻魔大王をはじめ、並み居る冥官たちは、世界宇宙の真理を述べる説法に感激した。

「この上は、何なりと望みを言いなさい」

と大王が言う。僧都が答える。

「出家して名利を離れた身なので、特にに望むものはない。願わくば、母に会わせてもらいたい。私を育ててくれた恩に報いたいのです」

大王は僧都の母が叫喚地獄にいることを知り、冥官一人に案内させて、僧都を地獄に行かせた。

銅の大地、鉄の門、燃えさかる猛火の音、大音響の雷、罪人の泣き叫ぶ声、魂も消え入るほどである。

冥官が門を叩くと、獄卒が門を開いた。猛火がほとばしり出る。

僧都が母を訪ねると、獄卒は炭の塊のような物を鉾に貫いて投げてよこす。外の風に当たって炭の塊は動きだし、しばらくして人の形になる。僧都の母であった。

僧都の悲しみは限りなく、言葉も出ず、ただ嘆くのみであった。

今は本物の地蔵に生まれ変わった元雪地蔵が来て、

「そなたの母をなんとか助けようと思ったが、力が及ばなかった。早く娑婆に帰り、法華経を書いて弔いなさい」

といわれ、夢のように感じて僧都はよみがえった。

僧都は母のために金字で法華経の写経をし、金の地蔵菩薩像をつくった。それが完成した日、母は都卒天に生まれ変わったと夢の中で告げられた。僧都の憂いは晴れ、ますます熱心に修行をした。

雪から生まれ変わった地蔵菩薩は、しばらく田上の草堂におられたが、うち続く世の乱れに、焼け失せてしまったと言うことである。

                    終わり

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2008年6月23日 (月)

尺貫法・田上の雪地蔵2

6月23日(月)

尺貫法(ぼんくら日記)

精障者作業所Mへ。

計量法というのがあって、今は何でもメートル法で表記するようになっている。

私は琴を作る仕事をしていたから、現役時代は尺貫法に馴染んできた。そんな私でも、身長や体重はメートル法が分かりやすい。長さや重さについてはメートル法である。

しかし、体積となると、少し事情が違ってくる。1升とか1合の方が、1リットルなどと言うよりは実感がある。

面積となると、なおさらである。○平方メートルといわれるよりは、○坪といわれるほうがイメージがわく。部屋の大きさは○畳に限る。6畳とか4畳半とかなら、ははあと思うけれども、○○平方メートルではぴんと来ない。若い人は、こんな場合でもメートル法が分かりやすいのだろうか。

今でも建築資材などは、尺貫法が基礎になっている場合が多い。たとえばベニヤ板は、90センチに180センチの大きさが標準である。これは1畳の大きさで、2枚合わせると1坪になる。市販されている障子紙は、90センチ幅の障子が貼れる寸法である。

昔の日本家屋は建具も畳も、窓の大きさも、部屋の間取りも、90センチ、180センチの寸法を積み重ねたり、割ったりする大きさで出来ていた。

精障者作業所Mで、障子紙を使う作業をしたものだから、ふとこんなことを考えてみた。

田上の雪地蔵・2(狗波利子・通算32)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくら日記

(前回のあらすじ・子供の頃雪地蔵を作って遊び、その雪地蔵をたわむれに供養した子供が、学識豊かな明阿僧都という僧になった。明阿僧都は急病になり、息絶えたが、1昼夜後によみがえった)

明阿僧都は、その1昼夜の出来事を話す。

夕方2人の役人が来て、知らないところに連れて行かれた。玉で出来た階段を上がり、瑠璃の大地を踏みしめていくと、楼門があった。内には宝殿があり、屋根は黄金のタルキ、鳳の瓦、、虹の梁で出来ている。

庭には見慣れない樹木が花を乱れ咲かせている。もしここが天上でないとしたら、いったいどの浄土だろうかといぶかりながら見渡せば、御殿の左に、小さな旗をつけた矛が立っている。その上には、人の頭がふたつ載っている。右の方には、黄金の台に大きな鏡が立てられて、四方に旗が翻っている。

青い衣の役人が玉のすだれを上げれば、その床は、金銀珊瑚などで出来ていた。

垣の外には、囚人が、手かせ、首かせをされて、泣き叫ぶありさま、まことに哀れである。

この様子を見て、ここは閻魔大王の宮殿であると分かった。

閻魔大王が現れて玉の床に座ると、冥官二人が明阿僧都を招き入れ、床に座らせて言った。

「寺院を新築したので、あなたをここに迎えました。供養を述べて、法事を行ってください」

僧都が中門まで進むと、若い法師が来て、

「私はその昔、あなたが供養した雪地蔵です。あなたが軽い気持ちで雪地蔵の開眼供養を行った功徳で、さわやかな弁舌と学識を得たのです。それを感じて、閻魔大王は新しい寺院の供養にあなたを迎えました。あなたにこの如意棒を与えましょう。これを持って説法をすれば、弁舌は泉のようにわいて、滞ることはないでしょう。」

と言って去った。

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2008年6月22日 (日)

気が抜けた日・田上の雪地蔵

6月22日(日)

気が抜けた1日(ぼんくら日記)

今日はちょっと気が抜けたような1日で、まとまったことは何もしていません。

この前覚えた八方ダシを作ってみました。

次の水彩画の会ため、絵に登場させる子供の下絵を描いて見ました。

本を少し読みました。

数独をやりました。

狗波利子の下読みをしました。

書いてみると、いろいろやってるナア。そうか、前からやるべきだと思っていた掃除をしなかったので、何もしなかったような気がするのだな。それと、食事を作る気がしなくて、外食に出たこと。気分のもとは、これだな。

田上の雪地蔵(狗波利子・通算31回)

元亀2年(1571年)2月(旧暦)の半ば、春だというのに寒くて、冷たい風が吹きすさび、大雪が降った。山々は雪を戴き、まるで白銀の世界である。木々の梢は花のように雪を飾り、まるで冬に戻ったようだ。

近江の国(滋賀県)田上というところの子どもたちが、雪にはしゃいで大勢集まり、雪ころがしをして遊んだ。そして雪地蔵を作り、花や香の形まで雪でそっくりに作り、岩の上に置いて、本物の地蔵にするように開眼供養をした。

12,3歳くらいの子供が供養の導師となり、恭しく地蔵尊建立の趣意を述べた。

・・・そもそもこの地蔵菩薩は全部雪で出来ている。この雪地蔵は、地獄から天上に至るまで6道のである。この菩薩の誓いは、暖かな日ざしが来れば、残りなくとけることだろう。

と冗談を言った。いい加減な戯れごとに似ているけれど、雪で作った仏像の道理にかなった祈りだったらしい。この子供、もともとそのような生まれつきだったのだろう。長じて出家をし、説法上手の法師として知られるようになる。天台の教理を学び、講師も務めるほど学識が高かった。名は明阿僧都という。

この明阿僧都、にわかに病を得て息絶えてしまった。脇の下が温かく、脈が残っていたので、葬式はしなかった。弟子たちが見守る中、1昼夜して、明阿僧都は目を覚ました。

                         続く

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2008年6月19日 (木)

きりたんぽ  味方ヶ原の戦い

6月19日(木)

きりたんぽ(ぼんくら日記)

老人介護施設Kへ。

私のことでも、待っていてくれる人がいる。ある人は手品を要求する。他の人は、紙切りを要求する。そして、話しを愉しみたい人もいる。

100歳になるUさんは、私と雑談することを楽しみにしてくれる。今日は、私の生まれ故郷のことを聞かれた。毎週行くわけではないのに、ちゃんと私のことを覚えている。

100歳になっても、自分のことだけを話すのではなくて、人の話を聞こうとするところがすごい。秋田生まれだと答えると、秋田の名物はなんだと聞く。食べ物では、きりたんぽ、はたはた、しょっつる鍋、と答える。

きりたんぽは聞いたことはあるが食べたことはない、という。生きているうちに食べてみたいものだ、とも言う。食べさせてあげたな。

たまたま、Uさんの家のお嫁さんは、私の知り合いである。Uさんは、私がお嫁さんを知っていることを不思議がるけれども、ボランティア活動の中で知りあったものです。こんど会ったら、きりたんぽのことを話してみます。

味方ヶ原の戦(狗波利子・通算30回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

永禄、天正の間(1558-1585年)は天下は大いに乱れ、近くでも遠くでも、争いが絶えなかった。互いに隣国を奪おう、境界を広げようと戦いを挑んだ。家来は主君を欺き、主君は家来を疑う。兄弟は敵となり、親子は相争った。

運の良いものは数国の主となり、勢いを失えば浪々の身となる。栄枯は移り、盛衰は日ごとに変わる。

その間に死する者、幾千万人とも知れない。兵乱はうち続き、京も田舎も静まるときがない。世の中の人が死に絶えるのではないかと思うほどだ。

元亀3年(1572年)12月22日甲斐の国の武田信玄は5万以上の兵を率いて、遠州浜松に押し入り、味方ヶ原に攻め入った。

徳川方には織田信長公からの加勢として、平手監物、大垣卜全、安藤伊賀守以下九大将が加わった。岡崎白州賀まで武将たちが兜の星を並べて埋め尽くした。さらには、水野下野守、滝川伊予守、毛利河内守らが、備えを堅くして待ち受けた。

信玄側は、小山田兵衛が先陣を務め、徳川方の先手、内藤三左衛門と合戦を始めた。しかし、小山田はうち負けて退いた。次に山縣三郎兵衛が続いたが、酒井左衛門尉にうち負けて危なくなったとき、横手から四郎勝頼が援軍に入り持ちこたえた。しかしながら、北條氏政の加勢大内式部少輔が徳川方の鉄砲で胸板を撃ち抜かれ、馬から逆さまに落ちて死亡した。

これに勢いを得て、徳川方はかさにかかって攻めかかる。本田平八、榊原小平太、安倍善九郎、大菅、萱沼、櫻井、設楽(シダリ)、足助(アスケ)の人々が、息つく暇もなく責め立てる。

浜松と味方ヶ原の間に犀ヶ崖という深い谷がある。武田の軍勢は破れて、この谷に突き落とされた。落ちた上にさらに落ちてきて、うち重なり、自分の刀に貫かれたりして死する者、数が知れない。やむを得ず、信玄は陣を払って帰った。

その後、死んだものの魂が谷底に残り、夜な夜な泣き叫んだ。徳川家の僧が五色の布を灯籠に張り、花や食べ物を供え、七月十三日から七月十五日まで盂蘭盆会を行い、念仏踊りをした。それで泣き声は止んだ。

この行事を賓灯籠と名付け、以後毎年七月には、魂祭りとして念仏踊りをしているらしい。

                      終わり

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2008年6月18日 (水)

品がない・深川左近の亡霊2

6月18日(水)

品がない(ぼんくら日記)

精障者作業所みちくさへ。

近ごろは、ほんとに品のない世の中になりました。

犬のファションショウをやることは聞いていました。まあいいでしょう。宝石で飾るんだそうですね。犬に宝石ですか。豚に真珠といいますけどね。

犬を宝石で飾り立てる人がいれば、その飼い主をセレブだなどとおだてる人がいる。分からないなあ、この感覚。犬を宝石で飾るなどと言うのは恥ずかしいことだと思うのだけれども、飾る方の人にしてみたら、逆に、それがなんで恥ずかしいのか分からないんだろうな。

金儲けのためならなんでもする。儲けた金はどう使おうと自由だ、といったところかな。アフリカの人が飢えようとも、金儲けのために小麦にちょっかいを出す、世界中の庶民が困ろうとも、石油価格を操作する。何をしても自分が儲かればいいんだ。企業が儲けるためには、ワーキングプアーが増えることだって平気だ。・・・品がないねえ。

深川左近亡霊・2(狗波利子・通算29回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらビッキ

(前回のあらすじ・黒川俊昌と深川左近は、先に死んだ方があの世の様子を知らせに来ると約束していた。深川左近が亡くなって数日後の夜、黒川の庭に左近の声がする。黒川は左近の言葉に従い、灯りを消して左近を招き入れる。)

真っ暗な中で、深川左近は部屋に入った。深川は昔のことなどを語った。その声、言葉付きなど、生前と少しも変わらない。

「ところで、来世というのはあるのかね」

と黒川が聞く。

「確かにある。罪の深い者は地獄に落とされる。次に罪深い者が行くのが餓鬼道だ。この世の罪は正直に現れる。たとえわずかでも、罪の報いはある。私より先に死んだ者も、それぞれ罪の深さによって、畜生道に行ったり、修羅のちまたに行ったりしている。人間に帰る者もある」

深川が語るうちに、嫌な匂いがあたりにただよい、黒川が暗闇の中で手を払ってみると、何か冷たいものが手に触る。亡霊だったら、触って分かるような形はないはずだと思って、その物を押してみたけれど、大層重そうだ。

深川はもう帰るという。黒川は止めたけれども、深川はなおも帰るという。

明け方になって、黒川が灯りをつけてよく見れば、そこにあったのは深川ではなくて、2メートル以上も在ろうかという大男の死体だった。死んでからしばらく立つらしくて、腿のあたりは爛れはじめていた。その臭いことと言ったらない。

その死体は、遠くの野原に捨てた。見物人が沢山来て、中の一人が、私の兄だという。家の中で死んだのに、不意にいなくなってしまったのだそうだ。その死体を持ち帰り、葬式をしたということだ。

                        終わり

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2008年6月17日 (火)

高齢者医療保険・深川左近亡霊

6月17日(火)

Mizutani10009 ぼんくら日記1

小幡歯科へ。今回は今日で終わり。

彩の森公園へ散歩。散歩とは言うものの、稲荷山公園駅までは自転車。歩いたのは、駅からの往復と公園内だけ。軟弱だなあ。

スケッチ数枚。これはそのうちの1枚。

高齢者医療保険(ぼんくら日記2)

私が子供の頃、日本は戦争をしていた。戦争が終わったのは、私が8歳の時である。その私は、現在71歳。今75歳以上の人は、みな戦争経験者である。そして、戦後の貧しい時代を生きてきた。

食うためには、なんでもしなくてはならなかった。ちゃんとした企業に勤められた人はいい方で、給料をくれる会社なら、たとえ労働条件は悪くても勤めなければならなかった。厚生年金にも入っていないようなところで、長年働いてきた人も多い。

私は曲がりなりにも厚生年金を貰えているので、赤字気味だが食べてはいける。しかし、国民年金だけの人は、本当に苦しいだろう。中には、無年金の人もいる。国は、無年金の人からさえ、高齢者医療保険の保険料を取るのだという。

政治は、弱い立場の者を保護するためにこそ在るべきだろう。それがこのごろは大分おかしい。企業は儲かっているのに、サラリーマンの手取りは、むしろ減り気味だ。ワーキングプアーが増えている。それで景気がいいのだ、上向きなのだという。どこに目を向けているのだろうか。

金儲けの上手な者を才能のある者だとして保護し、企業を設けさせることで庶民の生活を向上させるというのが、大義名分らしい。しかし、現実はどうだ。健康で、働く意欲のある者でも、ワーキングプアーなどという救いのない状態におかれている。

75歳以上の老人や、もっと若くても重度の障害者は、その人たちだけの医療保険に入れて、応分の負担をしてもらうのだという。もっともみたいな言い分だが、医療費のかかるところだけを別枠にしようと言うのだ。保険の目的は、みんなで共同して弱い者を支えようということではないか。弱い者を切り離すのが、なぜ保険なのだ。

75歳以上の多くの人は、恵まれない立場で頑張ってきた人たちである。年金などの面では、戦後の混乱の中で仕事を始めなくてはならなかった分だけ、不十分な人が多い。貧しい中から、現在の豊かと言われる社会を作り上げた人々である。そして高齢になったら、このありさまだ。保険とは弱い者いじめをるることなのか。

マスコミで姦しい高齢者医療保険について、私などが平凡な意見を言ってみてもという気はするけれど、あまりにひどいと思うものだから、つい書いてしまいました。

深川左近亡霊(狗波利子・通算28回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

左京太夫大内義隆の家臣、黒川市左衛門尉俊昌は、大力武勇の侍である。

黒川がつくづく考えてみるに、死んだ人は再び帰ってくることはない。先に死んだ人は、残った人のためにも帰ってきて、あの世の様子や生まれ変わった先などを知らせてくれたらいいのに、と思った。

黒川の同僚に深川左近という者が居た。

「私も同じことを考えている。どちらかが先に死んだら、必ずかえってきて知らせることにしよう」

と約束をした。

何年か過ぎて、左近が先になくなった。

数日後、黒川が書院で詩歌を口ずさんでいると、庭に誰かが訪れたような気配がある。そして、

「黒川殿はご在宅か」

という。

「その声は深川殿ではないか。まず、家に入られよ」

「入るには灯火を消してもらわなくてはならない。話しはそれからだ」

日はすでに暮れて、月もない夜だったので、黒川は灯を点していたが、その灯を吹き消した。 

                           続く  

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2008年6月16日 (月)

特殊法人の無駄遣い 大内義隆の歌

6月16日(月)

ぼんくら日記

精障者作業所Mへ。

特殊法人の無駄遣い

毎日新聞夕刊に、ジャーナリスト若林亜紀さんの経験談が出ている。10年ほど特殊法人に勤めたことがあるのだそうで、その時の話しだ。

特殊法人の無駄遣いについてはマスコミでさんざん取り上げられているから、今さらびっくりもしないけれども、やっぱりナア、とは思う。

若林さんの経験のほんの1部を、毎日新聞を読んでいない人のために採録。

「3月が近くなると、上司から『お母さんと好きなところへ旅行に行った来なさい』と出張をうながされ、現金を渡された」

「私も(中略)『労働問題の研究期間との意見交換』という名目で米国へ行ったが、実際は(中略)名刺を交換しただけ」

「『銭湯に行ってきます』といって毎日3時間は戻ってこない後輩に文句を言ったら、財務省から出張していた課長から『(残業代は)自分の金じゃないのに、ぎちぎち言うな』と怒られた」

ほかにもこんな話しが満載。真面目にやっている人だっているとは思うけどねえ。これだもんなあ。

大内義隆の歌(狗波利子通算27回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

大内義隆の家系は、推古天皇の時代より始まり、周防の国山口に城を構え、中国地方の大名として、7ヶ国を支配した。従2位左京太夫にまで成り上がった。

しかし、驕りたかぶり、取り巻きにおだてられ、政治をないがしろにした。女色と酒におぼれていたら、家臣の陶尾張守に国を奪われてしまった。自身は自害をし、24代続いた家系は絶えるというありさまだ。

全盛時には、京都から著名な人々を呼び寄せ、春は花、秋は紅葉と遊興にふけり、やれ雪の朝だ、月の夜だと酒宴を催し、歌を詠み、詩を作っていた。

それがあっさりと滅びてしまったので、心ある人々は、皆気の毒に思ったものだ。

義隆がおごり浮かれていた頃、愛人に恋文を送ったのだが、使いの者が間違えて、本妻の元に持って行ってしまった。本妻は愛人に、次のような歌を送った。

    頼むなよ行く末かけてかわらじと

           我にもいいし人のことの葉

また、義隆のは次のような歌を送った。

    思うことふたつありその浜千鳥

            ふみたがへたる跡とこそみれ

義隆はこの歌をみて、大いに恥ずかしく、使いの者を手打ちにした。そして本妻の元に通うようにしたが、すでに没落の時は来ていた。

頼むべき味方もなく、泣く泣く城を出て、主従11人が腹を切り、大内家は滅びた。本妻をはじめ、召し使われていた女たちも、互いに差し違えて重なるようにして死んだ。哀れなことである。

しばらくの間、女たちが死んだ深川の大寧寺では、夜ごとに女の泣き声が聞こえた。寺の僧が、重々しく法要を行い弔ったので、その泣き声も治まった。

                          終わり

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2008年6月15日 (日)

いろいろ  隅田宮内卿の怪異

6月15日(日)

Mizutani10009 地震の死者が増えている。被害に遭われた方々、お見舞い申し上げます。

良い天気で、やることはないしで、入間川河川敷の散歩。とは言っても、暑くて、そうそうに帰って来ちゃった。

絵は、河川敷で描いた物ではありません。新聞の写真からです。

『狗波利子』今書いているのは第3巻。1巻はつまらなかったけれど、2巻、3巻と進むに従って、興味が持てるようになってきた。仏教説話的なめんはあるけれど、説教臭が抜けてきている。まだしっくりしないところもあるけれど・・・。たとえば男尊女卑、なお残る出家至上の思想。仏に拝めば、長い間あくどいことをした人でも救われちゃうような話。

隅田宮内卿の怪異(狗波利子・通算27回)

   原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

人の家が没落するときは、必ず不思議なことが起こるという。しかし、気にしないでいると、それとは分からないこともある。後になって、あれがそうだったか、と思い当たったりするのである。

村上義清の家臣、隅田宮内卿は武勇に優れた者として知られていた。武田信玄が大勢を引き連れて、信濃の国小県戸石の城に押し寄せて戦を仕掛けたとき、信玄秘蔵の侍大将、甘利備前守を討ち取ったのは隅田宮内卿である。

それほど武勇に優れていたが、運に見放されると、やることなすこと、思い通りに行かなくなる。このような状態ではいつまで生きていったところで、立身出世も出来はしないとふさぎ込んでいた。時には仮病を使って、屋敷に籠もったりもした。

すると屋敷の中に怪しい化け物が出てくるようになった。その化け物、声は聞こえるのだが姿は現さない。朝夕には、人並みに食事を持ってこさせ、いつの間にか食べてしまう。

使用人が宮内卿の噂をすれば、空から声がして、

「おまえたちは主人の悪口を言うな。宮内に言いつけて、首にさせるぞ」

と脅す。寝物語で化け物の話しをすれば、

「わしの悪口を言えば、この家のためにならないぞ」

と、だみ声で怒鳴る。

毎日使っている道具類や着るものが、訳もなく消え失せて、どこをさがしても出てこないのに、ふっと目の前に現れたりする。

家中の者がうんざりして、山伏を頼んで祈祷をさせた。お札を貼れば片っ端から剥がし、お供物を盛って神仏に供えれば、引きずりおろす始末である。山伏が怒って、角張った数珠をもみ、呪文を唱えれば、その手を離れなくする。山伏は、ほうほうの態で帰ってしまった。

神子を頼んで神霊を呼び寄せる梓弓に懸けて正体を知ろうとしたが、名乗ることもなく、弓の弦を打ち切り、空からはせせら笑う声が聞こえた。

神楽を奏して神意を問おうとしたが、そのものの背中に木枕を差し込んでいたずらをする。

神主を呼んで祝詞を唱え、御弊を振って祈ったところ、家の梁の上から声がした。

「お前たちは儂をうるさがり、いろいろな者を呼び寄せて祈祷をするとは何事だ。そんなことをするなら、この家を挽き崩すぞ」

といって、梁の上からノコギリを挽く音がした。その音が夜になると、ますます激しくなる。あまりのことに灯りをつけて棟木の当たりを見ようとしたら、その火を吹き消してしまう。家中の者が外に出て、みんなで灯りをつけて見たところ、棟木には別段の変化がなかった。

妖怪は、おもしろがって笑っている。

高僧を頼んで、経を読みながら、ニラやニンニクなど臭みのある物を家の外に出したところ、化け物はやっと静かになった。

これは家が滅びる前兆だったのだろう。

その後宮内卿は浮ついた気持ちで戦に出て、笛吹峠で討ち死にした。隅田の家はそれで絶えた。

                           終わり。

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2008年6月14日 (土)

地震、他  甲府の亡霊・2

6月14日(土)

地震、他

こんどは日本で大地震。

岩手内陸南部で震度6強。私の故郷秋田内陸南部は震度5。

死者は現在のところ3名。行方不明者12名。

次女からビールのおくりもの。今日か明日かが父の日らしい。

甲府の亡霊・2(狗波利子・通算27回)

    原作・浅野了意  現代語訳・ぼんくらカエル

(前回のあらすじ・好雲という僧が諸国修行中に甲府で賤ヶ屋に宿を取った。宿の主は、武田家が滅びてからこのあたりは寂れ、異様な出来事も起こる。それでも良ければお泊まり下さいという。)

好雲が寝ていると、17,8の女が部屋に入ってきた。美しく、雪のように白い肌で、後れ毛が鬢のあたりにかかっている。女がほほえみながら話しかけた。

「秋空は静かで、独り寝は物寂しいですね。虫たちが夜もすがら鳴き通し、月影に風がそよぎます。桐の葉も静かに落ちるこんな夜を、一人で過ごすのも淋しくて尋ねて参りました。

    草の葉も露も我が身の上なれば

           ほさぬ袖だに月やどるらん

この歌はいかがですか。お坊様、目を開けて下さいな」

好雲は何も言わなかった。女はさらに話しかける。

「今夜はこの賎ヶ屋にも月影が美しく差し込んでいます。共に酒を酌み交わし、旅の心を慰めましょうよ」

それでも好雲は返事をしなかった。女は重ねて言う。

「なんでそのように何も言わないのですか。まるでくちなしのようですね。たとえば恋の闇に迷う人でも、まだうち解けなくても、一言くらいは話すものですよ。なんでそれほどまで黙っているのですか」

    いかにかく問えど答へぬくちなしの

            花も染まれば色に出るを

また、声に出して詩を吟じた。

    黄帝上天の時   鼎湖元ここに在り

    七十二玉質    化して黄金の宝を作る

それを聞いても、好雲はものを言わなかった。

やむを得ず、女は座を立って、帰るかに見えたが、そのまま跡形もなく消え失せた。

女は好雲の心を乱れさせようとしていたのである。最後の詩は、中国の昔の伝説を言っている。黄帝は鼎湖というところから龍にのって天に昇った。その時72人の玉女が黄金の宝に変じて、地中に埋められたという。もし好雲が女に心を許して戯れるなら、武田の埋蔵金のありかを教えますよという謎である。 

人の心を惑わすものは、色と欲である。好雲は世を捨て、立派に修行をしたので、なんの災いも起きなかった。

やれやれ、安心して寝ようと思ったところ、こんどは庭の方が騒がしい。もはや丑三つ時で、月は傾いている。

三メートルに近い大男が、手に五,六ッ個の骸骨を持って、好雲の部屋に入ろうとした。好雲は起き上がり、手元に置いていた棒をとって、横に払った。その大男は倒れたように見えたが、骸骨共々消え失せた。

小屋の主が起きてきて、灯をともし、庭に出てみたが、なんの変化もない。

次の朝、東の空に横雲がたなびく頃、好雲は旅立っていった。誰もその行く末を知らない。

                           終わり  

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2008年6月13日 (金)

水彩画の展示  甲府の亡霊

6月13日(金)

水彩画の展示

Mizutani10009 まず、新聞の写真のスケッチ。このスケッチをしようと思ったのは、唇の形が美しい人と思ったから。でも、この絵では何とも分からないや。

2枚目もMizutani10010 これも新聞から。

「水彩画の会」公民館ホールの展示が、今日から2週間。みんなで会場の整理をする。イスやテーブルを片付け、倉庫から、展示のためのパネルを出したり、展示用に組み立てたり。

全員の作品の位置を決め、展示を終えたら、誰も彼も、もう疲れちゃった。

その後、絵を描く時間もあったわけだが、まともな水彩画を描いた人は0。私は小さめのスケッチブックに、鉛筆画を3枚。もっとも頑張った方ですね。

甲府の亡霊(狗波利子・通算26回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

武田勝頼は、織田信長によって滅ぼされ、城は一片の煙となった。城跡は草ばかりが生い茂り、狸の寝床、狐の住みかとなってしまった。

まわりには、今でも百姓の家が所々に立っているけれども、昔とはまるで違って、いかにも荒れ果てた様子である。

時々は、考えられないような異様なことがおこり、人々を悩ませると言うことだ。

修行僧、好雲坊というものがいた。もとは竹田の人である。世の無常を感じ、出家して、諸国を渡り歩いていた。諸国修行とは言っても、関所があったり、役人の取り締まりがあったりで、自分の思うままにはならない。

たまたま甲府に来たときに、夕方になったので宿を取ろうとして、うらぶれた茅屋の戸を叩いた。小屋の主が出てきて言う。

「旅のお坊様に宿をお貸しすることはたやすいことです。しかし、この小屋に泊まった方には、夜中に異様な出来事があります。それを承知の上ならばどうぞ」

「私は出家の身。もともと命を捨てた者です。そんなことなど気になりません。野山の木の根元や岩の間、古い社の横などに野宿することも多いのです。まして、人が住んでいる家に泊まるのに、なんの不足がありましょうか」

その答えを聞いて、主は小屋の奥の粗末なむしろの上に案内し、粟飯を勧めた。たいまつで明かりをとり、主は話しをはじめた。

「このあたり、昔は豪勢な城があり、城の外には、侍たちの家々が並んでいました。大変賑やかでした。それが今ではこの有様。この家のように、落ちぶれた貧しい家が、わずかばかりあるだけです。昔の人の思いが残っているのか、異様なことが起こります。驚かないでください」

夜も更けたので、主は自分の部屋に入った。好雲は念仏を唱えて、心静かに眠りについた。

                            続く

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2008年6月12日 (木)

猪熊の神子

6月12日(木)

猪熊の神子(狗波利子・通算25回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

元和(1615-1623年)の終わりごろ、京都四条猪熊に、一人の娘を持つ、年取った神子がいた。

神子とは言いながらも、神道のことなど何も分からず、神のお告げだといいながら、金銭を取り、賭け事をした。愚かな女をだまし、雨が降っても風が吹いても、祈祷をさせる。神のお告げを口実に、衣類や帯までのだまし取った。

仏法のことなど耳にも入れずに世を渡ってきたが、さすがに70歳を過ぎて、心身共に衰えてきた。娘はさる高貴な方に家に宮仕えをしているし、頼るべきものもなく、行く先も短い。来世のことも気にかかる。といって、これまでしてきたことは、仇やおろそかではない。

過去を悔いながら、北野の朝日寺に参詣した。

・・・私は身過ぎ世過ぎのために神仏の教えに背き、人をたぶらかし、へつらい、偽りをいい、正直の道に背いて、自分が得をすることばかりを求めてきました。願わくば、私の死後、身から出た恥を隠し、魂を助けてください。

と、涙ながらに祈った。その後は、暇を見つけては朝日寺に通った。

こうして年月を重ねているうちに、神子はにわかに重い病気になった。自分の死を悟った神子は、娘に使いをやった。日頃は、神子のくせに娘がいるなどと言われるのが嫌で、隠し通していたのだが、このたびは命の瀬戸際なので、早く帰ってきてほしいと伝えた。

娘は驚いて、急いで帰ったところ、神子は喜び、嬉しげに娘を見ながら、そのまま息を引き取った。

娘はまだ若かったので、このような時、どうすればよいか分からない。人里離れたところなので、簡単に人に聞くことも出来ない。ただ泣き崩れていると、夕方に若い法師が4、5人来て、

・・・この方は朝日寺に常に見える人です。死んだときは、遺体の処理をお願いしますと頼まれていました。

と、かいがいしく働いた。遺体を棺に収め、阿弥陀ヶ峰で火葬にした。

・・・この方の来世は心配ありません。我々が後を弔います。

と僧たちがいう。悲しさの中にも、娘はありがたく、白い薄絹に包んだ蒔絵の香合を差し上げながら、

・・・お坊様方は、どこのお寺の、なんというお名前の方々ですか?

と聞いたところ、

・・・朝日寺の正観坊を尋ねてきなさい。

といって帰った。次の日、朝日寺に行き尋ねてみたけれども、そのような僧はいない、ということだった。

不思議に思いながら堂内を拝みまわっていたところ、観音様が昨日差し上げた薄衣をつけておられた。膝には、香合がおかれている。

娘は、畏れかしこみ、思わず手を合わせた。ご本尊様が母を弔ってくださったのは、もはや間違いない。来世も救ってくださるだろう。観音様の大慈悲にありがたく涙を流した。

その後は、暇を見ては朝日寺に参り、母の菩提を弔った。

娘にも良いことがあった。和泉のあたりの人と結婚し、子供も多く生まれ、家は栄えたという。

                       終わり

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2008年6月11日 (水)

武甲山・他 伊原新三郎蛇酒を飲む

6月11日(水)

こもれび通信

私の1日の最後は、ブログを書くことである。その前に、いくつかのホームページやブログを読む。その一つに「こもれび通信」というのがある。作っているのはsa-yaというパソコンに詳しい人である。そこの載せられる画像は、くっきり、すっきりという感じで、美しく気持ちがよい。

その「こもれび通信」に画像の処理の仕方を載せてくれた。ひょっとしたらぼんくらカエルのために書いてくれたのかな、などとのぼせて読んでいたら、コメント欄で、本当にそうだったことが分かった。

ありがとうございます。今日のブログでは出来ませんが、次回からは、もう少し上手に画像処理が出来るように努力します。

武甲山(山行)

Hさん、Kさん、Aさんと武甲山に登る。

Photo 西武線横瀬駅で下車。Hさんが予約してくれ たタクシーに乗って、武甲山の登山口まで行く。

御嶽神社の鳥居をくぐって登り始める。沢沿いの湿った道。杉の木が多く、石も、木の根本も、緑の苔がびっしりと生えている。

左の写真は不動滝。写真より上の方にも滝があって、かなりの高度差がある。

武甲山の頂上には、見晴台はある。快晴ならば、秩父市などが見えるはず。残念ながら、曇りなので、はっきりしない。

下山は浦山口へ向かう。登ってきた道は、杉ばかりのじめじめしていた。しかし下山に選んだ道は、カラマツの多い、明るい道である。快適さは、こちらの方だ。

Photo_5 Photo_6 下山道も、中腹以下は谷沿いの道になる。橋立川だ。渓谷沿いの道で、紅葉の頃は、さぞ美しいだろうと思われる。

大小の滝が多く、その1部をここに載せます。

先日スケッチに来た浦山口川は、橋立川に平行して流れるような位置、ごく近くにある。

伊原新三郎蛇酒を飲む・2(狗波利子・通算24回)

(前回のあらすじ・伊原新三郎は三方原で美しい女性のいる飲食店にはいる。女性の誘いに新三郎が鼻の下を伸ばしていると、女性は酒を幾らでも持ってくる。覗いてみると、それは大蛇の血であった。逃げる新三郎。追う妖怪の仲間。)

新三郎は恐ろしくて、必死に逃げた。そして、やっと町はずれにたどりついた。そこの家の戸を叩き、中に入れてもらった。

しばらくは、怖さと息切れで、何も言えなかった。

やがて新三郎は、今日の出来事をその家の主に語った。主が答える。

「あの辺には家もなければ茶店もない。大方、妖怪にあって、恐ろしい目を見たのでしょう。この辺の事情を知らない旅人は、時々かどわかされます。あなたは逃げられて良かったですね」

あまりの不思議さに、新三郎は家に帰ってから、大勢の人と共に、その場所にやってきた。酒を飲んだところに行ってみたが、家もなければ茶店もなかった。人の気配もない荒れ野で、ぼうぼうと草が生えるばかりである。

よく見ると、60センチくらいのはいはい人形の、手足が少し欠けたものが、草にまとわれてうち捨てられていた。これがあの娘に化けたのだろうか。

そのそばには60センチくらいの蛇が、腹を割かれて死んでいた。近くには風雨にさらされた人骨があった。

それらを集め、ことごとく打ち砕き、薪を積んで焼き捨てた。残った灰は、堀の水に沈めた。

新三郎は、もともと中風の気があったが、蛇酒を飲んだせいか、治ったと言うことである。

                         終わり

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2008年6月10日 (火)

青梅民族博物館・蛇酒を飲む

6月10日(火)

青梅郷土博物館、宮崎家住宅

車椅子のTさんと、青梅郷土博物館へ。

Imgp0090 この写真は、同博物館の近くに成木(近くの地名)から移築された、築250年の民家、宮崎家。屋根には、苔や草がびっしりと生えていた。葺き替えてから24年目で、来年葺き替えるのだそうだ。つまり、一番苔の多い時期の屋根を見ているわけだ。

内部は、たたき(土間)があって、囲炉裏があって、座敷があって・・・まあ昔の民家の標準タイプみたいなもの。

成木は、漆喰の産地だったそうで、江戸城の白壁なども、そこで作られたのだという。

この写真、拡大すると、多分紙面をはみ出します。スキャナーから取り込む場合は、拡大しても大丈夫なように出来るのですが、デジカメからだと、どうして良いのか分からない私です。

伊原新三郎蛇酒を飲む(狗波利子・通算23回)

元和年中(1615-1623年)に、伊原新三郎というものが、長く浪人をしていた。ある日、三方原に行ってみた。

折から夏のこととて、暑さが甚だしいのだが、蝉の声が涼しい。ぼんやりとある続けた。気がつくと、日はもう傾いて、風が柔らかに吹いている。道の辺に林があり、新しく建てられた家が4-5軒見えた。飲食をさせる家のようだ。立ち寄って休もうとすると、うら若い美しい娘が出てきて、

「ここはお武家さまがたがお遊びになるところです。しばらくお休みになって下さい」

という。

言葉つきも、愛嬌たっぷりなので、中に入ってみると、他に客はいなかった。新三郎が戯れにちょっかいを出すと、嫌がる風もなく、

「今日は誰もいないから大丈夫よ」

などと、しなだれかかる。新三郎は喜んで、夜まで居続けた。娘は、

「何も食べていないので、お疲れになったでしょう」

といって餅をすすめた。

「酒はないのかね」

「おいしい酒があります。お持ちしますね」

新三郎は、もともと飲んべえなので、娘に勧められるまま、差しつ差されつで盃をかさねた。娘は奥の方から、幾らでも酒を持ってくる。新三郎は足音を忍ばせて娘の後に付いて行き、奥を覗いてみると、大きな蛇が吊されている。娘は刀でその蛇の腹を刺し、したたる血を桶に受け、なにやら怪しげな粉を入れて酒に変えている。

新三郎は恐ろしくなって、家の外へ出て逃げ出した。

それと気づいた娘は、

「まて!」

と叫んで後を追いかける。

東の方から声が聞こえた。

「しまった! せっかくの獲物を逃がしてなるものか」

新三郎が振り返ると、3㍍ばかりの得体の知れない白い怪物が、木のもとから立ち上がった。

林の外から声が上がる。

「今晩こいつを逃したら、明日は俺たちに災いが及ぶ。のがすな!」

新三郎は生きた心地もしなかったが、なんとか町はずれにたどりついた。

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2008年6月 9日 (月)

聞き書きボランティア・他

6月9日(月)

ありがとう

サーヤさん、あしながおばさん、いつもコメントありがとうございます。さーやさまのコメントに返事を書きました。ある人から、コメントに返事がないことを怒られました。Kさんからのコメント、ありがとうございます。

K福祉会関連

街頭募金。私は新狭山駅前。

精障者作業所Mへ。

通り魔

Kさんから電話。昨日の山行による足の怪我は、単なる打撲だけだったと。取りあえず、良かった。

私たちがのんきに山歩きをしているとき、秋葉原では大変な事件が。通り魔が、7人を殺し、10に怪我をさせたというのである。犯人に依れば、殺すのは誰でも良かったのだそうだ。

近ごろは、人間が壊れているとしか思えないような事件が起きる。こんな時、私たちはなぜだろう、と意味を求める。そうしないと、私たちの心は落ち着かないのである。で、正しいかどうか分からないが、自分の結論を持つ。時には、結論を作ると言ってもよい。

私の結論。一度閉塞感を持ってしまった人間は、そこから這い出すす術の無いのが今の社会である。本当はあるかも知れないのだが、無いと感じて、孤独感に陥ってしまう社会である。その孤独感を救うものがない。絶望が深ければ、過激な行動に出る。

実は、この最後の一行、NHKテレビで高校生の性についての番組があり、その講師の言葉。ちゃっかり引用しちゃった。

ただし、自分の結論に固執すると、真実を見失う場合がある。これが絶対正しいと思えても、他の考えもあることを、そして、多くの場合それにも一理あるのだと言うことを忘れないようにすること。

聞き書きボランティア

やはりNHKの番組で、聞き書きボランティアの活動が紹介されていた。

80歳90歳の老人から話を聞き、それを本にまとめるというボランティアである。

実は、これこそ私のやりたかったボランティアだ。かって、職人の聞き書きをしようとして、少しばかり実行したことがある。だが、案外嘘をつかれていることに気がついて、やめてしまった。他人の仕事を自分の仕事のように言ったりして。

誰でも、自分をよく見せたいし、職人なら、腕が良かったと言いたいよね。私だって、自分をよく見せたいのである。その辺の見極めが甘かった。私の方に、正直に話してもらうだけの能力がなかったということだろう。

でも、聞き書きボランティアというのは、私に向いていると自分では思う。71歳で始めるには歳をとりすぎているような気がするけれども、出来ないものでもない。私がよく行く老人ホームや介護施設に、働きかけてみようかな。

狗波利子第3巻

狗波利子第3巻は今日から始めるつもりでしたが、ぼんくら日記が長くなりました。明日からに変更します。

カテゴリーの欄から「狗波利子」を消して、ぼんくら日記だけにしようと思ったのだけれども、どうしても出来ませんでした。ごめんなさい。私はブログを、やっと書いているだけなのです。

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2008年6月 6日 (金)

一泊山行 形見の山吹 3

6月6日(金)

一泊山行

Mizutani10009 毎度下手な絵を載せるのもどうかと思うけれど、又載せちゃった。新聞の写真のスケッチです。

このような絵も、近ごろ始めた「狗波利子」の現代語訳も、数少ない読者を減らしていると思うけれど、まあ、自分のたのブログだから、しょうがないや。

私の属する山の会のは、夏に一泊の山行をする。今年の山行は、会津駒ヶ岳と決めて、檜枝岐温泉に泊まることにした。宿とバスの手配をする。宿は民宿、バスはいつものK観光にお願いする。民宿の方は、税込みで、一律みんな同じ値段。バスはガソリン代も上がっているけれど、競争が激しいのか、思ったより安い。参加者10人として計算してみたが、一人ひとりの負担は、ツアーで行くより安いと思う。

形見の山吹 3(狗波利子 通算22回)

(前回までのあらすじ・菅野喜内という者が風流を求めて外出中に、御簾の中から顔を覗かせた少女を見初める。文などをやるが、かたくなに、色よい返事が来ない。千通も文をやるうちに、少女の方にも変化が現れたようだ。)

幾世にもわたって契るまでは、身持ちも堅くします。死ぬまでその気持ちは変わらないのですか、という歌の返事をもらって、喜内は飛び上がるほど嬉しくなった。

喜内は仲介してくれる女に案内させて、垣根の隙間から忍び入った。そして、そっと障子を開けたところ、弥子は薄暗い灯火に照らされながら、恥ずかしげに横を向いていた。喜内はそのそばににじり寄り、日頃の弥子に対する深い思いを語り、命ある限り、愛することを誓った。

弥子は黙って聞いていたが、

     言の葉は只情けにもありなまし

             見えぬ心の奥は知られず

言葉ではどのようにも言えますが、本心が分かりませんと言われ、喜内は、

    あいそめし後の心を神もしれ 

             ひくしも縄の絶えじとぞ思ふ

神にかけて、心変わりのないことを誓った。

そのようなことがあった後は、二人は人目を忍んであっていた。

しかし世の中は儚いもので、弥子の母が病気になり、亡くなってしまった。弥子は悲しくて、家に閉じこもっていた。さらに枯れた草の上に雪が降り積もるように、辛いことが重なってきた。

喜内の父は尼崎に住んでいたのだが、関白豊臣秀次に召し抱えられ、喜内を連れてはせ参じた。しかし幾ばくもなく秀次は、秀吉の命によって、高野山で自害させられてしまった。この騒ぎに、喜内は、木津の里、弥子のもとに訪れることが出来なかった。

     我はうき人やはつらき中川の

               水の流れも絶えはてにけり

と嘆いているうちに、弥子は体調を崩し、病に伏せた。そこへ喜内から文が届いた。あっちへ行ったりこっちへ行ったりで、ほんの少しの暇もないと書いて、

    関守のうちぬるほどのわびし夜も

               今はへだつる恨みとやなる

の歌が添えられている。弥子は病の床の上でその手紙を読み、

    ふみみても恨みぞふき浜千鳥

                跡はかいなく残る夢の世

と詠み、そのまま気が遠くなり、ついに亡くなってしまった。

近所の人々が気の毒に思い、近くに墓を作ってやった。

                            続く

 

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2008年6月 5日 (木)

スケッチについて 形見の山吹・2

6月5日(木)

スケッチについて、 。(ぼんくら日記)

老人介護施設Kへ。Yさんと3F。

Mizutani10009 私の絵など、どうってことはないのだけれど、載せ出すと続けて載せちゃいます。こんなものを載せていれば、文章を書く手間が省ける、なんて言う不届きな考えもあるものですからね。

これはサッカー選手の絵。例によって、新聞の写真から描いたものです。

私は水彩画を描くのが趣味ですが、本当は、じっくり構えて描くというのではなく、短時間で、さっつ、さっつとスケッチをしたいのです。今のところ早描きのスケッチは、鉛筆だけでしかできません。色を付けると時間がかかってしまうのです。

色を付けて、15分で描けるようになるのが目標。今は、鉛筆だけで、それくらい、あるいはそれ以上かかってしまう。要領悪いんだナ。

形見の山吹 2(狗波利子 通算21回)

(前回のあらすじ・菅野喜内というものが、外出中にちらりと見た弥子という娘に心を奪われ、なんとか近づこうとして、取り持ってくれる女性に歌を託す。)

喜内が話を聞いた家の妻が間を取り持ってくれるという。その夜、その女性は喜内の歌を持って、弥子に会いに行った。お話でもしましょうといって弥子に会い、ひそかにその文を渡した。

弥子はその文をたもとに入れて、自分の部屋に行き、喜内からおくられた和歌を読んだ。

儚い歌で、本心かどうかも分からない。心を寄せてくれるのは嬉しくもあるけれど、恥ずかしくて仕方がない。ただ言葉の上だけの気持ちかも知れないのに、いたずらに心を動かされては、嫌な噂も立てられかねない。結局、なんの返事も出さなかった。

喜内は家に帰っても、彼女のことが忘れられない。夜になっても寝ることも出来ず、いつまでも来ない返事を待って、悶々の日々を過ごしていた。間を取り持つ女性は見かねて、ひそかに弥子のもとに行き、「ご返事を」と催促した。

弥子は、恥ずかしそうにしながら、

     あまのたく浦の塩やの夕煙 

              思いきゆともなびかましやは

と詠んだ。あなたには靡きませんという返事をもらい、喜内の思いはいよいよ募った。

     恋しなば煙をせめてあまのすむ

              里のしるべと思いだにしれ

私が焦がれ死にしたら、あまの塩焼きの煙を見て、私の思いだと知ってください。たとえ私は死んでしまっても、あなたを思う心はいつまでも続きます、などと掻き口説いた。

     面影はほのみし宿にさき立ちて

               こたへぬ風の松にふく声

私がこんなに思っているのに、あなたは何も答えてくれないなどと嘆いた。

手紙の束が千通にもなったので、さすがに弥子も心を動かされ、次のような歌を詠んだ。

     世々かけて契るまでこそかたからめ

               命のうちにかはらずもがな

                       続く

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2008年6月 4日 (水)

テレビの人物  形見の山吹

6月4日(水)

テレビの人物スケッチ

テレビ番組からの人物スケッチ。しょっちゅう動いて同じ向きになってくれないから、難しいけれどね。

Mizutani10010 右が、作家の柳美里

左は、作家、故色川武大の奥さん。

NHKの対談番組から。

メモ用紙2枚に描いたのを並べてみたけれど、顔の大きさなど、違いましたね。

形見の山吹(狗波利子 通算20回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらビッキ

(実は少し困っています。原作にある和歌などは訳さないつもりですが、「形見の山吹」では、全く触れないというわけにはいきません。和歌を訳さないのは、その力がないからで、その禁を破るのは気の重いことです。逐語訳あり、意訳あり、珍訳あり、誤訳あり、なんでもありだから、まあいいことにしますか。)

都の南、泉河のあたりに、菅野喜内と言う風流人がいた。

文禄の頃である。春も末になり、散る花の名残を惜しんで、家を出た。どこかに散り残った花でもありはしないか、行き慣れぬ山にでも行けば、青葉の中に遅咲きの桜などがありはしないか、そんな桜があったら、見たいものだと思って、瓶の原(ミカノハラ)鹿瀬山(カセヤマ)あたりを歩いた。

    都出てけふみかの原泉河

          川風寒し衣かせ山

などという古歌を思い出したりして、木津の里まで来た。ある家の前を通ると、年の頃なら17・8の女が、すだれの間から顔を覗かせているのを見て、その美しさに心を奪われてしまった。

昔、女三宮が飼っていた猫の綱にひかれて、御簾の陰から覗いたのを見て、柏木が見初め、互いに心を通わせた。

それも、このような状態だったのだろう。家の様子は古びているけれども、何となく品があった。喜内はその女を見てから、心は乱れ、魂も奪われてしまった。それで、近くの家に立ち寄り、

「あそこの、軒端の古びた家は、どなたが住んでいるのでしょうか」

と聞いた。その家の主は答える。

「大内義高の家来、高梨三郎左衛門という人の家でしたが、お亡くなりになりました。残された奥様と娘さんが、少女の召使いと共に、ひっそりと住んでおります。お気の毒なことです。」

「その娘さんのお名前は?」

「弥子といって、今年18歳になります」

「実は私、その弥子さんを一目見ただけで、すっかり思い乱れています。せめてこの思いを弥子さんに伝えていただけないでしょうか。仲を取り持っていただいたら、これに勝るご恩はありません」

そばで聞いていた主の妻が、

「それならばお便りをお書きなさい。私が届けて差し上げましょう」

という。喜内は嬉しくなり、肌に着ていた小袖の襟をほどき、歌を書いた。なかなか言葉が見つからなくて、次のような歌になった。

    君にかく恋そめしがと知らせばや

               心に忍ぶもじずりの跡

                        続く

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2008年6月 3日 (火)

銃後の写真  原隼人佐謫仙

6月3日(火)

ぼんくら日記

精障者授産施設Rへ。月に1度、K食堂の包丁を研いでいる。ついでに精障者作業所Cの包丁も。今日は包丁9本。

銃後の写真

Mizutani10009 もはや写真といえないような写真を載せます。昭和19年12月ごろの、ぼんくらカエルの家族の写真。父と母、弟と私ですが、顔が見えなくなっているのが私。とっびっきりの美少年だったのに、顔が見えればナア(アハハ)。

当時、たいていの男は坊主刈りでしたが、父は、この写真を撮る少し前まで、長髪でした。長髪の人には、風当たりの強かった時代です。父は髪を刈り、その髪と、手足の爪を切って、袋に入れました。父に万一のことがあれば、それが遺骨の代わりになるのです。

弟が左の脇の下に、何かを抱えているように見えます。これは防空頭巾です。空襲などのさい、少しでも頭を保護するために被るものです。

父の胸にあるのは鉄かぶとですが、一般人が外に出るときは、誰でも防空頭巾を肩にかけ、脇の下に持ち歩きました。

弟の胸に名札がついています。そこに書かれているのは、名前と住所、それに血液型です。電話番号などはありません。電話など、一般家庭にはありませんでした。

母のはいているのはもんぺ。女性はみんなもんぺをはきました。普通の着物で外出したら、非国民などと言われかねない時代でした。

父はネクタイなどをしています。父も母も子どもたちも、これで普段は着ないよそ行きの服装なのです。

この写真は父を東京に残し、母と私と弟が疎開するときに撮ったものです。父が髪を切ったのはそのためでしょう。写真は東京に残った父の元にありましたが、防空壕で水浸しになり、こんな無惨な有様になりました。

こんな写真を持ち出してきたのは、少しでも戦時中の庶民の生活を知ってもらいたいと思ったからです。戦争など、決してしてはいけないのです。

今でも、あちこちで戦争があります。戦争を輸出している国もあります。日本だって、少しは片棒を担いでいるのです。

原隼人佐謫仙 3(狗波利子 通算19回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ。原田隼人佐は16ヶ月母の体内に宿り、母の死と引き替えに生まれた。容貌、才知人に優れ、戦上手で、主君武田信玄の信用も厚い。見知らぬ土地でも陣の敷き方、合戦の場の見極め方に緩みがなかった。ここで作者は、昔の一ノ谷の戦いでの、平山李重の例をひく。)

平山は反論した。

「鹿のいる山は漁師が知る。鳥のいる野は鷹匠が知る。魚のいる海は漁師が知る。泊瀬(ハツセ・奈良県にある地名)の花の色、須磨や明石の月影は、土地の人が知らなくても、風流人が知っている。桃やスモモは何も言わないけれど、その下には自ずから路が出来る。敵を城より誘い出すことや、軍を山中に動かしたりする場合は、剛勇の者こそ案内者になれる。」

そういって平山李重は、先陣を切って進んだと言うことだ。その道に心を尽くして考え抜いたならば、なんで出来ないことがあろうか。遠い昔、中国の路に管仲が老馬に先導されて帰ったのは、理由のないことではない。

天正8年(1580年)9月、武田四郎勝頼が巡幸したとき、太湖山地延(タイコサンチセン)城から戦争を仕掛けられた。その時武田方は戦の準備無く、甲冑をつけずに戦い、城は落としたけれども、多くの犠牲者が出た。

中でも、侍大将原隼人佐は城兵7-8人を相手に戦ったが、溝に足を踏み入れ、体のバランスを崩したとき、頭から眉間にかけて斬りつけられた。深手だったので、倒れ伏したが、曲渕庄左衛門という者が、肩に担ぎ助け出した。そして、甲府に帰ってから死んだといわれている。

しかし、実際は違っている。武田家は長篠の戦いで敗れ、家老や主だった者が皆討たれてしまった。隼人佐は生き残ったが、武田家は裏切り者がはびこるようになって、武田家の家運がつきたことを知った。

隼人佐は范れい、張良(ハンレイ・チョウリョウ・共に古代中国の忠臣)のことを思い、山に入って、仙術を求め、ついに大仙に会って、修行を全うした。そして、白昼、天に昇った。

その後、下界に下りたときに、土地の者に会い、ついに武田家が滅びたことを知った。隼人佐は憂いの色を隠さず、土地の者に話した。

「私はもと、原隼人佐昌勝といわれたものだ。元々は天の仙人だったが、失敗をして、人間世界に流されてしまった。武田家にしばらく身を隠していたが、罪を許され、天に帰った」

そういうやいなや、足下から雲が興り、空に昇っていくように見えたが、すぐに消えてしまった。

                           終わり

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2008年6月 2日 (月)

またやっちゃった 原隼人佐謫仙2

6月2日(月)

またやっちゃった(ぼんくら日記)

ぼんくら日記を書いて「狗波利子」も書いて、そのブログを消しちゃった。萎えるなあ。

Mizutani10009 今日も新聞写真のスケッチ。これは気分次第で載せたり載せなかったりする予定。描き続けるかどうかも、気分次第。

精障者作業所Mへ。先週植えたサツマイモの苗は、根付いているようだ。

梅雨入りだそうです。夜になって、雨。

原隼人佐謫仙 2(狗波利子 通算18回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

(前回のあらすじ。原隼人佐の母は、妊娠期間が16ヶ月も続いて亡くなった。隼人佐は墓の中で生まれた。彼は容貌、才能、共に人に優れ、武田信玄は彼の才能を愛し、武士としてのあり方を説いて聞かせた。)

隼人佐は武勇才覚人に優れていたが、原家には、他家にない特色があった。父加賀守は軍陣の立て方が上手で、ホラ貝や太鼓などの楽器を使って、兵士の士気を高める方法をを始めた人である。そのため、たびたび軍功があった。

父は隼人佐に、「侍は戦に際して、何か一つ得意なものを持たなければいけない」

と、常々言い聞かせていた。

そのせいなのか、隼人佐は他国に攻め入っても、どこに陣を敷き、どこで戦をするかという見極めが人に優れていた。その国の案内者などに聞かなくても、隼人佐の言うことに間違いはなく、誰もが彼の判断に従った。

その昔、平家が落ちのびて一ノ谷に籠もったとき、源九郎義経は鵯越から攻めたとき、

「この山の中を案内できる者はいるか」

と聞いたところ、武蔵の国の住人、平山李重が進み出て、

「私が案内しましょう」

といった。土肥、畠山などの武将は、

「武蔵の国の人間が、初めて来たこの山の中で、道案内など出来るはずがない」

と笑った。しかし、平山は反論する。

                           続く

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2008年6月 1日 (日)

人物スケッチ・他  原隼人佐謫仙

6月1日(日)

朝の人物スケッチ(ぼんくら日記)

Mizutani10013_2 この2-3日朝起き抜けに新聞の写真から、人の顔を描いている。

現役の頃は、朝6時には起きていたが、今は、山にでも行く日のほかは、起床は7時過ぎである。といって、早く目覚めることも多い。わが家の辺りでは5時ちょうどくらいに新聞が配達される。で、布団の上で半身を起こし、インスタントコーヒーを飲みながら新聞を読む。次に、ナンプレを1題解く。そして、この2-3日は新聞の写真の顔をスケッチというわけだ。

Mizutani10014_2

Mizutani10015 Mizutani10016_2                                                                          それがこんなスケッチです。3枚目の絵は、確かバトミントンの選手ですが、果たして分かって貰えるかどうか。

テレビを見ながら、画面の人をスケッチしてみることもあります。それが帽子の人の絵ですが、グループに属する歌手のようです。グループ名も、歌手の名前も知りません。知っている人に、「ははあ、あの人だ」と言って貰える程度の描けているでしょうか。下手な絵ですけどね。

午前。マンションと周辺の掃除

草取り、芝刈り、生け垣の刈り込み、など。私はこういうのを人一倍一生懸命やっちゃやうんですよね。それで、後で疲れるんです。

午後、車椅子と仲間の会

狭山市駅西口と、駅舎の工事についての説明会。市役所の係や業者が来て説明。車椅子の人たちの要望、特にトイレ、移動手段などについて。

 

原隼人佐謫仙(狗波利子 通算17回)

   原作 浅井了意   現代語訳 ぼんくらカエル

(「謫仙・ダクセン」とは難しい言葉ですね。天上界の仙人が罪を犯して、人間世界に追放されることだそうです。転じて、超俗の人、大詩人、超人的な能力を持つ人などを指します。)

原加賀守は武田家譜代の家臣で、武勇にすぐれた武将として有名である。秋山伯耆守の妹を妻としたが、長い間子がなかった。

ある時、妻がただごととは言えない病気になった。医者よ薬よと治療したけれども、治らない。ある人が、これは妊娠であって病気ではない、薬など無用だと言った。それはめでたいと、10ヶ月待ったけれども、とんと生まれる気配がない。病はますます重くなり、16ヶ月たったとき、ついに亡くなってしまった。やむなく、妻を恵林寺の墓地に埋めたのである。

その夜は月の明るい夜だった。新しい墓の中から、赤ん坊の泣く声が聞こえるので寺の僧が不思議に思い、掘ってみたところ、玉のような男の子が、母の亡骸にすがりついて泣いている。

知らせを聞いて駆けつけた父は、乳母を雇い、大切に育てた。その子はたくましく、美しく、品格のある子に育った。何をやらせても人並みにすぐれ、ねばり強く、利口である。

初陣は15歳の時。すぐに手柄を上げ、その後も戦に功があった。武田信玄も、その子の器量を認め、ことのほか可愛がったのである。

ある時信玄公は、その子、原隼人佐を呼んで、次のように言い聞かせた。

・・・そなたの父加賀守は前代、従5位下左京太夫信虎公のときから、武勇の誉れが高く、忠節の働き、人にぬきんでていた。武田の譜代の家臣も皆一目置いている。その子だからといって、父の名声に寄りかかってはいけない。自分の働きもしっかりしなさい。

・・・戦上手の者に近づき、その教えを受けなさい。自分が知恵があると思って、人に聞かなければ、広く物事を知ることは出来ないものだ。

・・・国の法は守りなさい。その法に背く者は、臆病、不忠の罪人である。主君のおかげで生活し、妻子を育てているのに、その家の法に背き、恩を忘れるような者、自分の感情のままに生きる者は、主君の役にも立たず、国の盗賊である。このような人間は、義理も恥も知らない。いざというときには逃げ出して、味方を不利にする。たとえ先祖が立派でも、子孫にとっていいことはないだろう。自分の行いがしっかりしていなくては、世の中に受け入れられないだろう。

・・・隼人佐、そなたは立派な父にも負けず優れている。とにもかくにも、正直に、家をしっかりと治め、百姓を哀れみ、忠節に励みなさい。

                          続く

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2008年5月31日 (土)

なぜ訳す?  武庫山の女仙

5月31日(土)

狗波利子をなぜ訳すのかなど

特養老人ホームSの遠足は雨のため中止。おかげで暇が出来ました。

「狗波利子」の現代語訳を始めてからは、パソコンの前にいる時間が長くなりました。「狗波利子」を訳すときは、パソコンのまわりに、「広辞苑」、博友社の「大漢和字典」、岩波の「古語辞典」、角川の「日本史事典」などを置きます。

それらの辞書をめくっても、はっきりしないこともあります。江戸時代の初期に書かれたものですから、古文になれている人なら、すらすらと訳せるのでしょうが、私は、ひっかかりながら訳しています。いわゆる擬古文というのですかね、原作は、古い時代の文章スタイルで書かれています。

「狗波利子」を訳せば、古典などをもう少し楽に読めるようになるのではないか、などと考えての訳です。まあ、自分の勉強のためですね。それに、荒唐無稽な話しは好きですから・・・。

全7巻のうち、今訳しているのは2巻目。1巻目は意外につまらないと思いました。2巻目には興味を持てるものもあります。

作者は浄土真宗の出家ですから、仏教説話というめんがあり、それが強く出過ぎると、訳している方ではつまらなく感じます。「武庫山の女仙」や、次の「原隼人佐謫仙」などは、おもしろみもあるようです。

武庫山の女仙 3(狗波利子 通算16回)

   原作 浅井了意   現代語訳 ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ。小野民部が武庫山で不思議な女性に会う。その女性に武庫山の由来や身の上話を聞く。女性は数百年前の天長天皇の側室に仕える女官だった。側室と、もう1人の女官は天に登った。語り手の女性は武庫山に残った。)

・・・その後は、松の葉を食べ、数百年を過ごしました。夏だからといって暑さを感じず、冬だからといって寒いわけでもない。山や谷を登り下りしても、疲れることもない。体は健やかで、歳をとることもありません。

最後にその女性が聞いた。

「ところで、今はどんな世の中なのですか?」

民部は答える。

「天長天皇の頃からは、すでに数百年もたっています。今は天正天皇の時代です。世の中は乱れて、あちらでもこちらでも戦があります。国は治まらず、人々は苦しんでいます。身分の高い人も低い人も、心穏やかには過ごせません。まるで浮き雲のような世の中です」

そう答えて、民部は、

「今日は本当に尊い話を聞かせていただきました。まことの仙人に会い、何ともありがたいことです」

と頭を下げている間に、女仙は消え失せてしまった。

民部は、不思議でならない。麓の里で、女仙のことを話し、誰かその人にあった者がいるかと尋ねた。すると、ある男が大いに驚いて、

「わが家の亡くなったお爺さんが、若いときに、芝刈りで山に入ったとき、二十歳あまりの美しい女性にあったと話していました。木の葉で出来た着物を着て、岩の上に立っていたのですが、こちらの驚く声を聞いて、飛んでいるとも走っているとも言えぬような早さで、峰を越えて消えたと言うことです。その後、見た人の話は聞きません」

と答えた。

                            終わり

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2008年5月30日 (金)

クロスワードパズル 武庫山の女仙2

5月30日(金)

クロスワードパズル

狭山台胃腸科外科へ。

血圧、上が120幾つかで、下は60幾つか。毎日一錠だけ薬を飲んでいるのだが、本当に必要なのかなあ。薬を飲んでいるから正常なのだとも言えるし。

破傷風の注射。先日の怪我の時、破傷風の注射を打ったが、全部で3回注射しなければいけないのだそうで、最後の1回は1年後である。覚えてられますかね。

新聞のクロスワードパズルをやったら、これが全く出来ないの。どうなってるんだ。私も相当惚けた。新しい言葉について行けない。たとえば埋めるべきますが4ッつあって、3ッつは出来たが後の1つが出てこない、なんてのがある。つまり、その言葉自体を知らないのだ。本当に、新しいことが頭に入らなくなっている。だめだよねえ、こんなの。

時々思うのだが、私の頭は、貯金で喰っているようなものだ。過去に得た知識で今を判断しようとする。新しい知識は入っていないのだ。現在は収入が無くても、過去の蓄積で食いつないでいるようなものだ。だから現実に対応できなかったりする。クロスワードパズルをやって、そんなことを感じちゃった。

武庫山の女仙 2(狗波利子 通算15回)

     原作 浅井了意  現代語訳 ぼんくらカエル

(前回のあらすじ。小野民部少輔が武庫山で不思議な女に会う。そして、武庫山の由来、その昔、武庫山に入った天皇の側室の話などを聞いている)

・・・この年は大変な干ばつで、空海和尚は雨乞いの祈りをした。その時、如意の尼が前から持っていた浦島太郎の玉手箱を借りて、大秘法を行った。おかげで雨が降り、人々は大いに助かった。

・・・武庫山の頂上には大きな桜の木があった。如意の尼は空海に命じて、その木で仏像を作らせた。浦島太郎の玉手箱は、その仏像の体内に収められた。

・・・天長天皇の側室如意の尼がこの山に入ったとき、2人の女官がこれに従った。1人は従4位上和気眞綱のむすめ豊子といい、もう1人は相馬将門のむすめ将子という。それが私です。

・・・私は如意の尼に怠りなく仕えました。ある時、供養の桶に水を汲むため滝のもとに行ったら、とてもかわいらしい赤ん坊が出てきた。私を見てにこにこ笑う。あまりのかわいらしさに見とれて、帰りが遅くなった。

・・・なぜそんなに遅くなったのですか、と如意に尼が尋ねたので訳を話すと、連れてきなさいと言う。

・・・また滝のもとに行ってみると、赤ん坊はやはりはい出してきて笑いかける。その子を抱いて帰ったが、門に入ったら、赤ん坊はまるで動かなくなった。そして重くなり、姿も変わった。如意の尼がごらんになって言われた。

・・・「これは茯苓(ふくりょう)というものです。これほど大きくなるには、何年かかったか計り知れません。大変な仙薬で、これを食べれば永遠の命を授かり、天の登れると言うことです。甑で蒸しなさい」

・・・言われた通りに蒸して、如意の尼に差し上げると、自らも召し上がり、私たちにも下さった。3人で食べ尽くしたところ、心は晴れやかになり、身も軽くなった。そして如意の尼と豊子は天に昇っていった。私は登り切れずにこの山にとどまったのです。

                           続く

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2008年5月29日 (木)

Kの後援会 武庫山の女仙

5月29日(木)

福祉法人Kの後援会総会(ぼんくら日記)

だいたいこういうのはシャンシャン大会、異議なしで終わり。言いたいこともあるにはあるが、もっと少人数の会で言おうと思う。こういうの、卑怯なのかなあ。

総会の後、先日のK福祉会役員会の書記と言うことになっているので、その書類について、Hさんより話あり。

小幡歯科へ。歯磨きなどいい加減だから、歯の手入れも何ヶ月かかかる。

これから訳す「武庫山の女仙」は、これまでの訳した『狗波利子』の中では、もっともおもしろいかなと思います。

武庫山の女仙(狗波利子 通算14)

   原作 浅井了意 ・ 現代語訳 ぼんくらカエル

天正(1573-1586)年間に、京都七条の辺りに小野民部少輔という、もとは身分のあった人の子孫が住んでいた。しかし落ちぶれて、京に住み続けるのも物憂くなり、知人を頼り、兵庫県の冠の里というところに引っ越した。そこは淋しい田舎で、自分と似たような境遇の友達もなかった。

ある春の日、うららかな日ざしに誘われて、あてもなく歩くうちに、武庫山(現在の六甲山)の麓に辿り着いた。

    見渡せばすみのえ遠しむこ山の 

           浦づたいして出る船人

などと詠み、さらに歩いて、谷を越え茂みの中に入っていった。

すると、二十歳を過ぎたくらいの女が一人で立っていた。花を尋ねてそぞろ歩いているようにも見えないし、薪を拾っているような貧しい女にも見えない。木の葉の着物で身を纏いながら、どことなく品がある。

民部は不思議に思い、近寄って問いかけた。

「あなたはなんで、こんな山の中に、一人でいるのですか?」

女は笑って答えた。

「私はこの山に長年住んでいます。昔の話を、お聞かせしましょう」

と、次のような話をした。

・・・大昔、神功皇后(西暦170年-269年・14代、仲哀天皇〈ヤマトタケルの子供〉の后。天皇の崩御ののち新羅を制して凱旋したとされる)は、朝鮮半島や中国をうち従えて、この国に帰ってきた。その時、弓、矢、矛、剣、鎧、兜など、あらゆる武器をこの山に埋めた。そして、この山を「武庫山」と名付けた。

・・・そののち天長天皇(在位・824-832)の側室がこの山に入り、如意輪観音を奉じられた。そのためこの方を、如意の尼と申し奉る。

・・・ここは弁財天の住み給うところです。広田神社(兵庫県の神社)の神が常に守り給います。神は形を変えて白い龍になり、その龍が石となってその形を今に残しておられます。

・・・空海和尚がこの山で如意宝珠の法を修めたとき、弁財天が現れて、「私はこの山にとどまり、あらゆる貧しい人のために、宝を与えよう」と誓われました。

・・・如意の尼は、伽藍を建て、如意輪の経を誦し、空海和尚を招き、受戒をされました。

                             続く

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2008年5月28日 (水)

Sの遠足 死して2人となる

5月28日(水)

Sの遠足(ぼんくら日記)

特養老人ホームSの遠足。

利用者wo

小分けにして、少人数ずつの遠足である。多くても10人くらい。

目的地は智光山公園の子供動物園。

10時からハンディーキャブに乗り込み、10時半頃出発。2時頃帰る。

小鳥や小動物、ロバや馬、山羊などを見たり触ったり。私がついたTさんは、車に乗るときは行きたくないなどと言っていたが、動物園に着いてからは、もっとも愉しんだ1人だ。ひよことハムスターを抱き、山羊と馬に触った。フラミンゴを見たり、狸の狸寝入りを見たりして、満足そうだった。

去年、一昨年は、羽村動物園まで行ったが、道中が長く、利用者の中には、退屈する人、トイレに行きたくなる人などがいた。智光山公園の方が利用者、スタッフ共に楽だである。小さな声で言いますが、ボランティアも楽デス。聞こえちゃったかな。

死して2人になる(狗波利子 通算13回)

      原作 浅井了意 ・ 現代語訳 ぼんくらカエル

小田原城の裏に、百姓の住む村があった。その村に家中の侍も、少しは住んでいた。

西岡又三郎という下級の侍も住んでいたが、病を得て死んでしまった。同僚が葬儀のために集まっていたところ、見慣れない男が来て、まわりの人には目もくれず、死人の前に座り、声を限りに泣き叫んだ。

すると、なんとしたことだろうか、死人がむくむくと起き上がった。泣いていた男も立ち上がって、こんどはつかみ合いの喧嘩を始めた。殴るは、蹴飛ばすは、ものは投げるはで、まわりのものは手の下しようがないほどである。みんなは驚きあきれて、家から飛び出し、外から入り口の戸にしんばり棒を交って、2人を家の中に閉じこめた。

それからも2人は喧嘩を続けていたが、夕方になって、やっと静かになった。同僚が中に入ってみると、2人は枕を並べて死んでいる。着ているものはおろか、姿かたち、容貌、顔のしわの,ほくろの一つ一つにいたるまで、そっくり同じであっる。いつも一緒だった同僚にも、全く見分けがつかない。

2人を同じ棺に入れ、塚を築いて埋めたと言うことである。

                             終わり    

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2008年5月27日 (火)

浦山川スケッチ 交野忠治郎発心

5月27日(火)

秩父線浦山口駅下車、浦山川のスケッチ。(ぼんくら日記)

Mizutani10010  

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Mizutani10009_2  Mizutani10011                 

どうも上手く並びませんね。技術が未熟です。

交野忠治郎発心(狗波利子 巻2の2 通算12)

(前回のあらすじ。交野忠治郎は静岡にの今川氏の家臣だったが、今川氏が滅びてから、その日の食に不自由するほど貧しくなっていた。妻にそそのかされて辻斬りをするが、その妻に嫌気が差し、出家し放浪する。3年後、若い法師の家に宿を借りる。)

忠治郎が若い法師に聞いた。

「先ほどの念仏の間中、しきりに涙を流されていたが、なぜでしょうか?」

「私はもと、三好日向守の家来でした。幼い頃父に死なれ、母方の祖父に育てられました。祖父の跡を継ぎ、妻を迎えてこの近くの田宮の里に住んでいました。しかし、程なく妻は盗賊に殺され、悲しく、悔しさは限りがありませんでした。妻の敵を見つけたら、たとえ虎の住む荒野に隠れていようとも、鯨の住む海にいようとも、その恨みを晴らさずにおくものかと思っていたのです。そんな思いばかり強くては、世の中を渡って行くことが出来ません。いっそのこと出家して、その迷いを覚まそうと思いました。」

法師はさらに話を続ける。

「浮き世のことはこれまでと思い定めて、仏に身を仕え、妻の菩提を弔う毎日です。そういえば、妻を討たれてから、今日がちょうど3年目です。あなたも仏に仕える身、妻のために、どうぞ一緒に祈ってください」

    恨めしく又なつかしき月日かな

            別れみとせのきょうと思えば

忠治郎は法師の話を神妙に聞いて、

    年ふればわすれ草もや生ぬらん

            みとせのきょうと思われもせぬ

「その話を聞いて、慚愧に堪えないことがあります。あなたの妻を殺したのはこの私です。そのために、諸国を巡る身となりました。今日ここへ来たのは私の運の終わりです。むしろ嬉しく思います。どうか私の首を討って、敵を取ってください。」

と首を差し出した。

法師はそれを押しとどめて、

「確かに敵に会いたいと祈った来ました。しかし、もはや仏に仕える身。憎しみは消えました。今日ここで巡り会ったのも、仏のお導きによるものでしょう。これも仏道の縁。しばらくここにとどまって、妻のため、念仏を上げて弔ってください」

その後10日ばかり、忠治郎はとどまったが、その後法師のもとを去り、行方を知るものはいない。

若い法師は4年ほど後、病を得て亡くなった。村人たちは法師を塚に埋め、木を植えてその標とした。

                            終わり

 

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2008年5月26日 (月)

芋苗を植える 交野忠治郎発心

5月26日(月)

芋の苗を植える(ぼんくら日記)

精障者作業所Mへ。

Mの畑に、サツマイモの苗を40本植える。この前、畑を起こし畝を作っておいたので、今日は植えるだけだ。作業としては楽なもの。昨日雨が降ったので、畑はちょうど良いぐらいに濡れている。これで今晩雨が降ってくれればと願ったら、上手い具合に夕立があった。

これまでに、消石灰を撒き、鶏糞を鋤込んである。サツマイモというのは、肥料はそれほどいらないと思っているが、間違っているだろうか。どちらかといえば、さらさらした土の方が向くというのが、私の考えである。農家ではないから、本当のところは分からない。後は結果待ちだ。

交野忠次郎発心(狗波利子  巻2の1  通算11回)

大阪、交野(かたの)の里に水崎忠次郎宣重というものが住んでいたが、もとは静岡の今川氏の家来だった。今川氏が滅びて浪人となり、交野に住みつき、妻をめとった。

もとより武士であるから、百姓仕事は出来ず、商売をする才覚もない。ただ、良い主君に巡り会い、戦で手柄を立て、一旗揚げたいと暮らしていた。しかしそのような機会もなく、朝夕の食事にも事欠くほど貧しくなってしまった。

ある夜、寝物語に妻に語った。

「前世の報いなのかどうか、こんなに貧しくて、つらい思いをさせること、まことに面目ない。主君に恵まれて世に出ることが出来たら、少しはよい思いもさせてやれるのに」

妻は答える。

「こんな田舎に引きこもって、何度生まれ変わったところで、良いことなどあるとは思えない。世を渡るすべもない。このような生活を続けていれば、いずれは、道ばたのどぶに落ちて飢え死にするしかない。いっそのこと追いはぎでもやって、金品を奪い、私にも楽をさせてください」

忠治郎は、侍として、曲がったことは何もしないで生きてきた。しかしながら、情を持って契りあった妻の言葉に逆らえず、辻斬りの決心をした。

夜の明けるのを待ちかね、刀を抱え、人通りの少ない野の末、草むらに隠れて、手頃な相手を待っていた。

そこへ通りかかったのが、17.8歳の女性と、それに従う小袋を持った女の子である。前後の人影がないことを確かめ、忠治郎は刀を持って立ちはだかり、そのまま二人を討ち殺した。そして二人の女の着物をはぎ取り、小袋を奪って、家に持ち帰って、妻に与えた。

「17.8歳の美しい女だった。誰かの妻だろう。可哀想なことをした」

といったが、妻はなんの感情もあらわさず、井戸のそばへ行き、水を汲み、嬉しそうに笑いながら血の付いた着物を洗っている。

忠治郎はその顔を見、心根を考えると、急に妻が疎ましく思えた。とてもこの女とは暮らせないと思い、即座に髪を切り、家を出た。

その後はただ、足にまかせて諸国を歩き、ひたすら修行をするばかりである。

3年ほどたったときに、大和の吉野に巡ってきた。山のほとりで日が暮れ、どこかに宿を借りようと思っていたところ、道の辺にあばら屋が見え、幽かに灯がともっている。立ち寄って戸を叩くと、

「どなたですか」

と、若い法師が出てきた。

「諸国を修行している聖です。今宵一晩、宿を貸していただけませんか」

「おやすいご用です。どうぞお入り下さい」

若い法師は忠治郎を招き入れ、粟入りの飯を出してきた。そして自分は、持仏堂に向かって念仏を唱える。忠治郎が見ていると、しきりに涙を拭っている。食事を終わって、忠治郎も供に念仏を唱えたが、何とも哀れに思えて、涙が流れた。

念仏が終わってから、二人は身の上話を始めた。

                            続く

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2008年5月25日 (日)

北條甚五郎出家2  第一巻終わり

5月25日(日)

北條甚五郎出家 2(狗波利子 10)

(前回のあらすじ 越後の豪傑北條甚五郎が急死し、地獄で母の苦しむ姿を見る。閻魔は、まだ寿命が来ていないからと甚五郎を人間界に帰す。帰り道で知人、忍の長七に会い、父母にあって、自分を弔ってくれるよう言付けられ、証拠の品として笄を預かる。)

甚五郎をこの世に送り帰す獄卒は、たとえ弔いのために写経をしたり、仏像を作ったとしても、不正に得た金でやったのでは、なんの効果もない。預かった笄(こうがい)はきちんと届けなさい、という。

やがて甚五郎は、大きな穴に落ちると、この世によみがえった。預かった笄は、しっかりと握っていた。その笄を持って長七の家に行き、そのいきさつを話したところ、確かに長七の棺に入れた物だと言うことだった。長七の父母は、念入りに供養をした。

弓矢をとってきた者が、こんなに乱れている世の中を逃れて出家するのは、主を裏切ることにならないか、親の期待に背くのではないか、不忠、不幸となり、人に笑われ、末代まで恥を残すことになるのではないかと、甚五郎は悩んだ。しかし、恩愛を捨て、世俗を捨てて修行することが、本当の報恩だと仏も説いている。浮き世の望み、欲を離れ雲水となれば、主君も許してくれるだろう。幸い妻子もない。

甚五郎は髪を切り、すべてを捨てて家を出た。諸国を巡る修行者になったのである。

                               終わり

狗波利子第1巻終わり

「狗波利子」の第1巻は、これで終わりである。訳してみると、意外につまらないというのが実感。第2巻以後、おもしろい話があるものと期待して、続けます。作者が浄土真宗の出家だけあって、仏教説話の雰囲気が強い。読む方としては、宗教臭がない方がおもしろいのだが・・・。

「狗波利子」は浅井了意晩年の作で、全7巻。本人はもっと続けるつもりだったらしい。しかし、7巻書き終えたところで亡くなってしまったということである。

浅井了意については、5月15日の「ぼんくら日記」に書いたが、少し付け足すと、1612年生まれ、1691年没といわれる。生年については、確実とも言えないようだ。本名不詳。

浅井了意の「かな草子」としては、なんと言っても『伽婢子』が有名で、中国の怪異小説「牡丹灯籠」などの翻案もこれに載っている。上田秋成や三遊亭円朝の落語に影響を与えた。「牡丹灯籠」はさまざまな人が翻案しているようで、その中には「近路行者」などというふざけた名前の人もいる。

三遊亭園朝は、名人といわれ、言文一致の文体を作るべく努力していた小説家が、参考にするため、その落語を聞いたものだという。

ちなみに、岡倉天心などは、日本語よりも英語で文章を書く方が楽だったそうだ。これは岡倉天心に限らず、当時西洋の学問をしたものの共通するものであったらしい。言文一致の文体はまだ試行錯誤の時代で、完成していなかったからである。

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2008年5月24日 (土)

施設の遠足 北條甚五郎出家

5月24日(土)

施設の遠足

特養Sの遠足。利用者を幾組にも分けて、5月中旬から6月上旬にかけて、遠足をする。今日の場所は智光山公園。

10時頃出発。今日の利用者は全員が車椅子。智光山動物園の見物。お弁当を食べて、1時半ごろ帰る。家族の付き添いもいて、ボランティアとしては楽でした。

北條甚五郎出家(狗波利子 9)

長尾謙信の家老、北條丹後守は新潟の橡生の城代で、豪傑として名高い。その弟甚五郎は、まだ20代だが、兄におとらぬ勇者である。

その甚五郎が天正元年(1573年)の2月、急病で亡くなってしまった。生前は神も仏も信じなかったので、死んだらさっそく閻魔大王の前に連れてこられた。

「おまえは生前、どんな善根を積んだのか。悪いことは山のようにしているが、まだ寿命にはなっていない。もう一度人間界に返すけれども、その前に自分の母親を見ておけ」

といって、獄卒に甚五郎の母親を連れてこさせた。

骨と皮ばかりに痩せこけて、手には手かせ、首には首かせをされた母親が、引きずってこられた。母親は涙を流して甚五郎に訴えた。

「私は他人が良い着物を着ていると、それをうらやみ妬んだ。おまえのことは少しでもいかめしく見えるようにと、馬の鐙にも気を使い、立派な太刀をつけさせた。そんなことばかり考えて、仏法のことはないがしろにし、なんの善根も積んでいない。そのため死んだらすぐに地獄に連れてこられた。ここでは毎日、剣の山に登らされ、焼けただれた鉄の湯に追いやられる。少しの間も苦しみから逃れることは出来ない。おまえは人間界に帰されると言うことだが、帰ったら、私の弔いをしっかりやっておくれ」

言い終わりもしないうちに、獄卒が母親を引きずっていった。そしてその先から泣き叫ぶ声が聞こえてくる。甚五郎は悲しさのあまり、涙は滝の如く流れた。

閻魔大王が言った。

「見ての通りだ。おまえは帰ったら、母親の言葉を忘れるな。早く帰れ」

そこへ多くの鳥や獣が来て、甚五郎に噛みついたり突いたりする。閻魔大王は、鳥や獣たちに、

「この者は帰ったら、おまえたちのためにも功徳を積むだろう。そうしたらおまえたちも、来生は人間に生まれる。許してやれ」

という。みんな甚五郎に攻撃するのをやめたが、一匹だけ甚五郎を放そうとしない犬がいる。

「なぜ許してやらないのだ」

「私は犬として生まれたが、甚五郎に捉えられた。甚五郎が鷹狩りをしたとき、私を縛り付けて、皮を剥いだり、腿を切り刻んだりして鷹の餌にした。その痛さ、苦しさ、たとえようもなかった。誰にも訴えることが出来ず、苦しみの中に死んだこと、いつの世になったところで、忘れられるものではない。その恨みを晴らさずにはおかない」

これには閻魔大王も困ったが、なんとかなだめて、獄卒に案内させて、甚五郎を帰した。

帰り道で、忍の長七という、最近敵に討たれて亡くなった知人とすれ違った。長七は甚五郎の袖を捕まえて、

「私はこれから地獄に行く。人間界に帰ったら私の父母に会い、法事をちゃんとやってくれるように頼んでください」

という。

「それはいいけれども、ここであなたに会ったという証拠が無くては信じてくれないだろう」

というと、腰から笄(こうがい・箸のような髪掻き、一方は平たく、一方は尖っている。銀や象牙などで作る)を取り出し、

「これを証拠にしてくれ」

と言って甚五郎に渡した。

                            続く

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2008年5月23日 (金)

武川岳  島村ガニ 

5月23日(金)

武川岳

Imgp0061_2 Hさん、Kさん、Aさんと山行。

コース  名郷~武川岳~焼山~双子山~芦ヶ久保駅

写真は、コース途中から見た双子山。

距離は比較的長く、岩場などもあり、山なれた人向けのコースである。山の上の樹木は、まだ新緑で、柔らかい黄緑の葉をひろげている。その緑の中に控えめなツツジが、紅の花を咲かせている。圧倒的なツツジというのではないのだけれど、それがまた美しい。そして、藤の花。

よい写真が撮れればよかったのですが・・・。言葉の説明だけではね。

島村ガニ(狗波利子 8)

細河高国の家来、島村左馬助は武術の心得があった。しかし、ちょっとした失敗で殺されてしまった。亡霊はカニとなって、大阪尼崎の辺りにわき出た。このカニ、少し小さめで、甲にはしわが多い。顔にしわの多い人を、島村ガニのようだというのは、このことである。

昔、平家の一門が壇ノ浦の戦いに敗れ、海に沈んだが、その亡霊はことごとくカニになった。そのカニが山口県の赤間が関の辺りに今でも多くいる。

    横ばしる蘆まのカニの雪ふれば

          あなさむけしとやいそぎかくるる

と古歌にも詠まれている。この世に迷いが有れば、どのような者にも生まれ変わるとは、仏の教えにもある。

治承(1177年-1179年)源頼政、謀反を起こし、宇治川をはさんで源平の戦いになった。その時討たれた者は蛍になった。今でも毎年4月5日には平等院の前に集まって、幾千万の蛍が源平の戦いをする。

この世に未練を残す者は、死んでから異類になって生まれ変わるという古代中国の学者の言葉は、間違っていない。

                               終わり

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2008年5月22日 (木)

注意力散漫 守江の海に迷う魂

5月22日(木)

注意力散漫

ボランティアグループ定例会

守江の海に迷う魂(狗波利子 7)

豊後の国(大分県)の守江の浦には、亡霊がでて、たびたび人を悩ませている。その昔、慶長5年(1600年)9月関ヶ原の戦いがあり、石田三成側西軍は、東軍に打ちのめされ、ちりじりに逃げた。

西軍の将、黒田長政は、瀬戸内海に数十艘の船を出し、東軍を逃がさないようにと見張りをした。折しも、闇に乗じて島津の船が逃げようとした。長政の軍勢が、それを止めようとしたが、島津の船は聞かず、戦になった。

島津の船が砲弾、火矢を発したが、手元が狂って味方の船に落ちてしまった。その船の者38人が船と共に焼け沈んだ。その中にいた中村新衛門という者が亡霊になり、沖を通る船の人々を悩ませると言うことである。

寛永(16224-1628)の終わりごろ、広島倉橋の去る身分ある者の娘が、長らく宮崎の佐土原と云うところに住んでいたが、国に帰ろうとして、この沖を通った。その船の中で、娘は何かの物の怪にとりつかれ、あらぬ事を口走るようになった。供の者が、

「こんな沖の船のなかまできて、人にとりついたりする、おまえは何者だ」

と問いただしたところ、娘の口を借りて、

「吾はこの沖で、戦のため海に沈んだ中村新衛門という者なり。魂はいまだに浮かばれず、この海に浮きつ沈みつしている。その苦しみのために、こうしてこの娘にとりついた。私のために法事を営んでほしい」

といい、涙を流した。船中の者は驚いて港に船をつけ、浦人に聞いてみた。すると、同じようなことがたびたびあるという。

それでは、ということで、僧を呼び、三日二晩の法事を行ったところ、娘の口を借りて、中村新衛門は、関ヶ原のこと、この沖の戦いのことなどを物語った。聞く者はその哀れさに涙を流した。

法事が済むと、

「ありがたや、これで苦しみもなくなった」

といって、娘は正常に戻った。

それより後は、沖を通る船にとりつく亡霊はなくなったということである。

                           終わり

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2008年5月21日 (水)

K福祉会  富士垢離 

5月21日(水)

K福祉会役員会 総会

平成19年度、精神障害者支援福祉法人Kの役員会、総会。自立支援法によって起こる様々な問題について、まだ、確とした方針が立てられないでいること。というより、精障者の福祉施設にとっては、ほとんど不可能な要求をされていると言うこと。しかし早急に何らかの方針を立てなければならないことなど、話題になる。

かって、北海道伊達市の知的障害者の福祉施設「太陽の園」を見学したとき、その指導者が言っていたことを思い出す。「施設は有限である。だから他人のふんどしで相撲を取る」、「スタッフは有限である。ボランティアは無限である。だからボランティアの力を借りる。ボランティアを掘り起こす」。この考えを、理事長に言ったことはある。実際に中心になってやっている人は大変だとは思うけれど、まだ余地はあるのではないか。

富士垢離 2(狗波利子 6)

(前回のあらすじ。鳥岡弥二郎は病を得て、医師も匙を投げ出すほどだったのに、行者に頼んで、富士の浅間菩薩に帰依して祈ってもらったところ、全快した。そこで富士詣でをしたが、誤って滑り落ちたところを、老法師に助けられた。)

弥二郎は帰ることも忘れて、老法師身の上話を聞いた。

「私は東国のものです。奥州衣川の辺りに長く住んでいたけれども、心ならずも戦に巻き込まれ、なんとか生き延びて、ここに隠れました。修行に明け暮れて、年のたつのも忘れてしまいました。たまには昔を思い出して、奥州に行ってみることもありますが、もとより隠れて住む身なので、人と話をすることもありません。」

老法師は、白木で作った折り箱のような箱から、くこの葉を混ぜたご飯を勧めた。

「まあ、そんな状態ですから、あなたに何か食べ物をと思っても、こんなものしかありません。」

弥二郎は深く感じ入り、もう一度名を尋ねた。老法師は眉をしかめ、

「名乗りたくはないのだが、私の名は残夢といいます」

さらに言葉を継いだ。

「人との交際がないので、世の中の移り変わりが分かりません。今世の中はどんな状態ですか?」

弥二郎は、おおよそ次のように話した。

昔、足利尊氏が世を治め、13代にわたった。その後、世は乱れ、群雄が割拠するようになった。互いに争い、近隣の国を襲い、自国の領土を広げようとしている。駿河に北条氏康、甲斐に武田晴信、越後に長尾景虎、常陸に佐竹、会津に蘆名、越前に朝倉、周防に陶晴賢、安芸に毛利、出雲に尼子、豊後に大友、肥前に龍造寺、伊勢に師、近江に浅井、佐々木、畿内や南海に三好一族とその家来の松永などがいる。

そのほかにも、全国いたるところで、群雄が争っている。強いものは弱いものを滅ぼし、家来が主人を倒し、親子兄弟でもいさかいを始める。皆、私利私欲に走り、忠孝を忘れ、、運がよければ卑しいものも国の主となり、勢いを失えば貴族も乞食になる。栄枯は入れ替わり、盛衰は日ごとに移ろう。その間に死する者、幾千万人とも知れない。

そんなところに、尾州に織田信長が興り、猛威をふるった。おかげで今のところは静かになったが、この後どうなるかは分からない。

「そうですか。盛衰は運によるものです。知恵や武力や才覚ではどうにもならないこともあります。そのようなことは天地神明にまかせて、自らは慈悲の心を持って、正直に生きるのがいいでしょう」

と、残夢は言い、

「この辺りは夜になると恐ろしいことが起こったりします。もうお帰りになるのがいいでしょう」

と弥二郎を送り出した。

日は傾き、風の音もすさまじい。門を出て振り返ると老法師は見えず、庵もかき消えている。ただ人の叫ぶような声が空から聞こえるばかりであった。

案内人が、

「曇っている日には、ここから地獄の有様が見える」

という。弥二郎は足早に宿に急いだ。

                               終わり

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2008年5月20日 (火)

富士垢離

5月20日(火)

今日は、日記としては、あまり書くことがない。小幡歯科に行ったこと、マルエツで買い物をしたこと、ヤマダ電機でプリンター用のインクを買ったこと、くらいかな。

富士垢離(狗波利子 5)

近ごろは都でも田舎でも富士垢離と言うことが流行っている。毎日川に入り、水垢離をし、浅間大菩薩を念じるのである。熱心に行えば、御利益があるという。どんな病気も治るし、貧乏人は豊かになると言うことだ。

摂津の国(大阪と兵庫にまたがっている)のゆすりぎと言うところに、鳥岡弥二郎と言う人がいた。病が重く、医師も匙を投げる状態だったが、浅間の行者に頼んで祈ってもらったところ、程なく回復した。

弥二郎はあまりのうれしさに富士詣でを思い立ち、案内人を頼んで山に登った。富士山は、まさに三国一の山である。頂は遙かに雲の上で、夏でも雪が降る。麓の方は春のようで、樹木の緑がさわやかだ。

杖を便りに踏み後を伝い、万丈の壁を登る。雲は足の下にたなびき、遠くの山は遙かに霞み、まるで影のように見える。よじ登るのに、頼るべき蔦や藤の蔓もない。砂を胸につけながら這うようにして登る。

昔、常陸坊海尊という者、源義経の家来だったが、義経が奥州衣川で討たれたとき、一人生き延びて、富士山に登って身を隠した。あまりの空腹に絶えかねて、浅間菩薩に祈ったところ、岩の間から飴のようなものがわき出てきた。舐めてみると、まるで甘露のようであった。これを食べて飢えを癒やしたところ、心身はまことに健やかになった。その後は、霧の中に住み、かすみを食べてついに仙人になった。たまには里に下り、人々の難儀を救うこともあるが、普段は富士山に隠れ住んでいるという。

弥二郎は、遠くから歩いてきたので疲れてしまい、頂上の近くで、油断をして足を滑らせた。そのまま、まるで玉を転がすように転げ落ちた。そこに老法師が不意に現れて、弥二郎を抱き留めた。危ういところで命が助かった弥二郎は、老法師に手を合わせ、尋ねた。

「ありがとうございます。あなた様はなんというお名前でしょうか。どちらにお住まいでしょうか」

「私は世を捨てたものです。名乗るほどのものではありません。この麓に住んでいますので、気が向いたらおたずね下さい」

老法師はそう言い残して山を下るかに見えた。しかし、その姿はまたたく間にかき消えてしまった。

弥二郎が山を降りて、麓の辺りをさがしたら、小さな門があった。蔦、葛に覆われ、草が深く、道もはっきりとは分からぬところを入っていくと、先ほどの老法師にあった。  100㍍ほど進むと一つの庵があり、仏壇に祭られた大日如来が光り輝いていた。

山からの風は読経の声に聞こえ、海からの浪の音は、錫杖を揺するように聞こえる。煩悩や妄想を忘れ、み仏の力を感じる。けむりは消え、霧は晴れ、時ならぬ花が咲き、この世とも思えない。

                                  続く

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2008年5月19日 (月)

いろいろ  足柄山 3  

5月19日(月)

いろいろ

精障者作業所Mへ。畑仕事。かき菜を抜き、畑を掘り返し、畝を作り、消石灰を撒く。手伝いのメンバーは、KKさん、KOさん、Nさん、Tさん。

珍しく、M開所当時の所長Kさん、個人的知り合いのOさんなども、Mに来所。

私がブログを書くのは、酒を飲んで夕食も食べて、寝る前と決めていたのだが、狗波利子の現代語訳などをやり始めたら、そうも行かなくなった。現代語訳と言ったところで、書き流しているだけだけれども、、下読みはしなくてはならないし、辞書なども開いてみなくてはならない。書くのにも時間がかかる。結局、夕食前の暇な時間なども、ブログに向かうことになる。その割におもしろくないような気がしないでもない(もう、弱音を吐いている!)。まあ、続けますけれどもね。

次の日曜日、5月25日、東京家政大学狭山校で学園祭がある。緑苑祭というらしい。狭山市の精神障害者の福祉施設も、バザーに参加させてもらう。ぼんくらカエルも手伝って作った自主作品なども売られる予定だ。西武線稲荷山公園駅近くです。お暇な方はお寄りください。

5月14日のブログ韓国の特攻隊慰霊碑に、ヒゲババさんから「背景をあまりご存じないようですね」のコメントあり。韓国籍の人が11名特攻隊でなくなっているそうで、志願したわけではないと言うことです。居丈高にならない抗議で、好感が持てました。

私は、志願した人も含めて、亡くなった方は気の毒だと思います。志願するように導かれていたのだし、どちらにしろ戦争の犠牲者です。それでもなお、韓国で特攻隊の慰霊碑を建てようとすれば、反対されるのは必然と思います。亡くなられた方は、本当に、気の毒です。

足柄山 3(狗波利子 4)

(前回までのあらすじ。由井源藏と仲間3人が仙術を学ぼうと足柄山にこもるが、仲間3人は修行を諦めて途中で故郷に帰る。それぞれに出世した3人の仲間と由井源藏が再会する。3人は仙術を会得した由井源藏のもてなしを受け、その不思議さに驚いている。)

日暮れともなると灯火を掲げ、着物に香を炊き込めた遊女が10人進み出て、さまざまな歌舞音曲を披露する。見れば、この辺りに有名な遊女たちである。中に1人、東琴(日本古来の6弦の琴。和琴)の名手がいて、爪音に併せて、

   花の宴の夕暮れ、朧月夜に引く袖、

   定かならぬ契りこそ、心浅くも見えけれ

と謡う。その声は雲に響き、空に満ちた。

昔、源氏の花の宴の夜、内侍のかみと別れるとき、扇を取り替えて帰られた。その扇の歌に、

   世にしらぬ心ちこそすれ有明の

       月のゆくへをそらにまがえて

とある。今宵急なごお呼びで参りましたが、思いがけないことでしたので、準備もととのわず、心浅くやと謡いました。

3人ともこの歌に、心が浮かれてしまった。

   みほの松かぜふきたえて、おきつ浪もあらじな。

   水にうつろふ月とともに、ながめにつづくふじさん。

この地に合わせた琴と歌、風も静かに、海原の浪もおさまり、雲は消えて、月はさやかに映る。三保から富士までさえ渡って見えるさまは、たとえようもなく美しい。

由井源藏が歌を詠んだ。

   夜もすがらふじのたかねに雪消えて

             清美が関にすめる月影

やがて夜明けとなり、鳥の声があちこちから聞こえてきた。名残は尽きないが、また尋ねることにして3人は立ち上がった。門を出て50㍍ばかり進んで振り返ると、後ろはもう霧に隠れ、雲に閉ざされている。三保より船に乗り、松吹く風に送られて家に帰った。

そして10人の遊女たちに、どのようにして由井源藏のところへ行ったのかと聞いたところ、昨夜は夢の中で高貴な人のもとに呼ばれ、酒盛りをした。その場所は分からない、と皆同じように答える。

人を使って由井源藏の家を訪ねさせたが、その場所はようとして分からなかった。

3人とも、少しばかり出世したのを大層なことに思っていたが、今は修行を捨てたことが悔やまれる。しかし、こればかりは取り返しがつかない。

                              終わり

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2008年5月18日 (日)

ほりかねの井  足柄山 2

5月18日(日)

ほりかねの井(ぼんくら日記)

車椅子と仲間の会。

今日の会場は狭山博物館。博物館長高橋さんから、狭山の歴史講座を受ける。と言っても、2時間だけの講義だから、大まかな歴史である。

その中で、ほりかねの井については、かなりの時間を割いた。

高橋さんは下の絵のような形に掘り下げられた井戸の総称を、「ほりかねの井」Mizutani10009 だとしている。私はちょっと異論がある。しかし、人の住んでいないところになぜ井戸を掘るのか疑問に思っていたが、高橋さんの話を聞いて、納得できるところもあった。

平安時代には行き倒れをれの人を救うために、街道筋に多少の施設が作られていたらしい。そんな中に、水の不自由な場所に井戸を掘ったことは考えられる。高橋さんの言うように「道沿いの井」はあってもおかしくない。記録では、狭山市の「七曲の井」などは、何回も掘り返されているらしい。人が住んでいて、日常使われている井戸ならば、掘り返さなければならないほどなおざりにされることはないはずだ。「道沿いの井」ならば、それも考えられる。

上の絵のような井戸の総称を「ほりかねの井」とすることへの疑問の一つをあげておく。鎌倉時代、大納言源雅忠の女(当時の女の人は、固有名詞が分からない人が多い)の『とわずがたり』に、

   ほりかねの井は跡形もなくて、ただかれたる木の一つ

   残りたるばかりなり

とある。『とわずがたり』はきわめて写実的で、当時の風俗、人情を知る上で貴重な資料だという。この書き方は、特定の井戸を指していると考えられるがどうだろうか。

足柄山 2(狗波利子3)

(前回のあらすじー由井源藏、神原四郎、藤山藤治、浦安又五郎の4人は、仙人の修行をするため足柄山に入り、3年過ごした。しかしこれという成果もなく、由井源藏1人を残し、3人は故郷に帰り出世をした。その3人がみすぼらしい身なりの由井源藏に再会し、援助をしようと申し出る)

由井源藏はうち笑って、言った。

「君たちは出世をし、私はごらんの通りだ。しかし、魚や鳥でさえ自分の心にかなった生き方をしている。私も、必要なものくらいは何とかなっている。この山の向こうに私の住まいがある。むさ苦しいところだけれども、案内しましょう」

源藏は3人を連れ、三保の岬から足柄山に向かい、峰を越え、谷をわたった。

やがて、桃や桜の林に辿り着くと、見なれない門がある。門の中は茨や茅が生い茂っていて、道らしい道もない。100㍍ばかりも進むと大きく立派な楼閣があった。玉で甍を葺き、虹で梁をつくっている。道の傍らには緑の竹がほどよい高さに生え、青葉の間には白い雲が浮いている。風が吹けば小枝の葉ずれの音がさわやかに聞こえる。

楼門の内には見慣れぬ木の花や名も知らぬ草花が、深緑、浅紫、あるいは赤く、あるいは白く、咲き競っている。まわり中かぐわしく匂い、まるで人間世界ではないようだ。魂はさわやかに、心はうきうきとして、雲に登るようだ。

中に入って庭を見渡せば、木々の梢には五色の鳥が飛び交い、さえずっている。とてもこの世のものとは思えない。まるで極楽のクジャクが鳴いているようである。

池の中の清らかな水には、金銀の鱗を持つ魚が浮き沈みして泳ぎ回り、庭木には、10センチもあろうかという大きな赤い栗、緑のナツメなどがなっている。

敷き渡した白砂の間に、ほどよく配置された岩が立ち並び、岩の間からはさわやかな音を立てて、水が流れ出している。

感心して見ていると、髪を中国風に束ねた童子が二人出てきて、3人を書院に案内した。書院の飾り棚には、琴(キン、七弦の琴)、瑟(シツ、大琴24弦くらい)、笛、折りたたみ式の箏(日本の琴、ただし現在は折りたたみ式はない)が置かれている。また、香炉、香合、西湖の壺が美しい錦に包まれ、深紅の紐で結ばれていた。

背もたれのある豪華な椅子には豹の皮がかけられ、中国の絵が描かれた三幅一対の屏風が床に立てられている。

しばらくすると、いかにも気品のある姿で由井源藏が現れ、3人に礼儀正しく挨拶をした。

「皆様はこんなにも騒がしい世の中で、主君に使え、心の安まるいとまもないでしょう。生臭く汚らわしい食物を取り、欲望の炎に身を焦がし、憂いごとで心を悩ましながら、この年月を送られた。さぞや苦しいことでしょう。しばらくここで心を慰め、憂さを晴らしてください」

3人はその不思議さに驚き、言葉もなく、ただ頷くばかりであった。

すぐに、童子4人が出てきて、それぞれの前に山海の珍味を揃えた食膳をすえた。

                            続く

食膳は「山海の珍味」としたけれども、原文では、オランウータンの唇、熊の掌、鹿の胎児、子鹿の吸い物、などが出てくる。迷ったが、カットすることにした。熊の掌はまだしも、ほかはちょっとね。(ぼんくらカエル)

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2008年5月17日 (土)

俳句の会  足柄山1

5月17日(土)

俳句の会

稲荷山公園で障害者団体によるバザーその他のイベントのある日だったが、私の関係するところでは、人手が足りていたので、そちらは失礼する。

午後、俳句の会。5句投句。2点以上入ったのは次の2句。

   やわやわと児は抱かれたり若葉風

   若葉風カヌーを担ぐ人の列

足柄山1(狗波利子2)

昔、興津というところにに由井源藏というものが住んでいた。鎌倉のご家人の子孫であるが、時代が変わり、貧しい暮らしになっている。同じような境遇の友達に、藤山兵次、浦安又五郎、神原四郎というものがいた。

古老の話では、昔から富士足柄の山には仙人がいる。真剣に修行する人の前に現れて、霊験あらたかな奇跡を行うという。

4人はこの話に感じ入り、我々も修行をして、その仙人にあい、長生きの秘訣を聞こうと足柄山に分け入った。

岩の洞穴をすみかとし、峰に登ったり谷に下ったり、蔦を衣服とし、苔の上に眠って修行した。あるいは素肌を雪や霜にさらし、嵐に身をまかせ、露を食らい、呪文を唱えた。こうして3年ばかり修行