2009年11月 7日 (土)

清里

11月7日(土)

Imgp2294

こぶし福祉会親の会の日帰り旅行に参加。清里へ行きました。

最初の写真は萌木の村オルゴ-ル館の前。

Imgp2296

萌木の村は、案外広くて、中にはさまざまな家や小屋があり、食堂や売店がありました。

私が興味を持ったのは、木の枝で作った動物などを展示販売している小屋でした。それにしても、結構いい値段で売ってますなあ。

村は。落葉松が取り囲み、その落葉松は紅葉しています。

Imgp2300_2

Imgp2303

但し光りの加減か、特別美しいというほどの紅葉ではありませんでした。落葉松の写真はありません。

Imgp2326

美し森に登る。標高は1500メートルを超えていたけれど、正確には覚えていない。頂上まで、バス駐車場から、標高差100メートルくらい有るのかな。

清里を巡っていると、所々で八ヶ岳が見事な姿を現します。

Imgp2329

富士も肉眼ではかすかに見えるのですが、私のカメラでは写らないと思いました。天気がよいのはなによりでしたが、暖かすぎて、空は水蒸気を含み、まるで春のようです。

本当は、今日、立冬なんですよね。この陽気で冬だといわれてもネエ。

旅行は天気が1番大切。富士がくっきり見えなかったくらいは仕方がないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 6日 (金)

レインコート

11月6日(金)

狭山台胃腸科外科へ。血圧の定期検診。

特養Sへ。今日は3F訪問。

以前使っていた山用のレインコートは、水が漏るようになったので、今年、新しいものに買い換えた。その新しいレインコートに穴があいちゃった。洗濯するときに、どこかに引っかけたらしい。幸い足首に近い方で、スパッツで隠れる位置である。取りあえず、幅の広いビニールテープを貼り付ける。これで暫く様子を見る。

前のレインコートは10年以上使っていると思うけれども、破れはしなかったなあ。

明日は精障者の家族会主催のバス旅行で清里へ。

明後日は山の会の仕立てたバスで大和田山の予定。

ブログは書くつもりでいるけれど、ひょっとすると休むかも。

2日間、天気は良いらしい。何処へ行くのも、天気が1番。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 5日 (木)

なじみの俳句

11月5日(木)

精障者授産施設リバーサイドへ。

今読んでいる本のせいで、

「え、あれは俳句だったの?」

と言うのが幾つかある。たとえば、

  夕涼みよくぞ男に生まれける   榎本其角

そういえば五七五ですね。季語もあるし。

  化け物の正体見たり枯れ尾花  横井也有

なるほどねえ。これも俳句だわ。

  この塀に小便するな管理人   ぼんくらカエル

さすがにこれは俳句ではない。でも、五七五というのは調子が良いから、格言やスローガンなどになりやすいんだろうねこんな看板、無意識のうちに作りそうだ。

次は、俳句と知ってはいたが、誰の作か知らなかったもの。

  行水の捨て所なし虫の声   鬼貫

  雪の朝二の字二の字の下駄のあと  田捨女

  これはこれはとばかり花の吉野山   貞室

  梅一輪一輪ほどの暖かさ   其角

  鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春   其角

  我がものと思えば軽し笠の上(雪)   其角

さすが其角、芭蕉の高弟だけあって、「夕涼み」の句を含め、俳句に興味のない人でも知っているような句を、幾つも作ってますね。

以上は、良いか悪いかは別にして、なじみの俳句です。

おもしろいのは路通。乞食坊主だっだのを芭蕉に拾われて弟子になり、やがて還俗する。

  いねいねと人にいはれて年の暮   路通

乞食のころ、「あっちへ行け」「あっちへ行け」なんて言われていたんですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 4日 (水)

秩父ミューズパーク

10月4日(水)

いちょうという木は神社や寺院などに大木が多い。黄葉の季節には、1本で見事な美しさを見せる。

秩父ミューズパークに行ってきました。全長4キロくらいの遊歩道のいちょうが見頃という情報があったからです。ここのいちょうはまだ樹齢が若いので、神社や寺院などの見事さはない。その代わり、長い道筋に見頃ないちょう並木が続いているのが魅力。

Tati0009

臆面もなく、まず下手なスケッチから生きましょう。

Imgp2266

どういう訳か(と言うより、あまり考えずに写真を撮ったため)両側の並木が見えるように撮った写真は、全部逆光でした。

Imgp2250

これは、もう少しましでしょうか

Imgp2260

これは冬桜。何本も咲いていますが、いちょうに負けています。こんな花も咲いていました。Imgp2264               

そして紅葉も。

Imgp2281

最後に、お笑い。車中スケッチ。

Tati0010                                                           

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 3日 (火)

俳家奇人談・続俳家奇人談

11月3日(火)

文化祭に出品した絵の撤収。

Imgp2233

これが今回の私の絵です。これは日光白根山ですが頂上ではありません。上の方にぼんやり浮かんでいるのは男体山。

65歳で俳句を始めて、しばらくの間気になったのは、俳句と川柳の違いでした。いろんな説があるんです。切れのあるなしで決めるとか季語のあるなしだとか、人事が川柳で自然詠が俳句だとか、穿ちのあるのが川柳でないのが俳句だとかね。

現実の作品を見ると、川柳のような俳句もあるし、俳句のような川柳もある。だから私は、大変乱暴な結論に達した。つまり、作者が川柳と思って詠んだら川柳で、俳句と思って詠んだら俳句だ、と言うものだ。これでは客観的な違いはないことになってしまうけれど、私にはその違いが発見できなかったということである。

なんでそれが気になったかと言えば、私は誘われて俳句の会に入ったけれど、性格は川柳向きかもしれないと思っていたからである。

こんなことは、以前もブログに書いた。なぜまた書いたのかと言えば、今読んでいる本のせいである。

今、2冊の本を平行して読んでいる。1冊は、竹内玄玄坊著『俳家奇人談・俗俳家奇人談』(岩波文庫)、もう1冊は、池田弥三郎著『俳句。俳人物語』(古典文学全集・ポプラ社)である。

竹内玄玄坊というのは詳しいことは分からないようだが、盲目の出家で、1800年頃亡くなった人らしい。『俳家奇人談・続俳家奇人談』は、俳句の始まりごろの宗祇(1421-1502)から江戸中期(1740年ころ)までの俳人について書いたものである。同書は、俳人の奇行や情報については間違いもあるようで、私は当時の俳人がどんな俳句を書いたのかに興味があって読んでいる。

江戸時代の俳人については、私は芭蕉の句集を読んだ程度である。蕪村や一茶の句を幾つか知ってはいるが、その句集は読んでいない。俳句をやっている以上は、いつかは読まなくてはいけないだろうと思っている。それに、『柳多留』の選集みたいなのも読みたいな。『俳家奇行談・続俳家奇行談』は、江戸時代の俳句を知る、手軽な1冊とでも言うような意味で読んでいるのである。

池田弥三郎の『俳句。俳人物語』は、少年少女向きに書かれたものである。少年少女向きと言っても、池田弥三郎のことだもの、ごまかしなんか無いわけで、俳句の歴史を通観できるようになっている。

本というのも、種類によって、早く読めるものと、なかなか進まないものとがあるが、今読んでいるのは、後者の方。読み始めて10日ぐらい経つが・まだ半分にも達しない。小説1冊くらいなら、1日で読み上げることくらいはあるのだが、こっちの方は、少し時間がかかりそう。

江戸時代の俳人は、談林派に限らず、川柳みたいな俳句を沢山詠んでいますね。底が浅いと言われようが、私はそっちの方だから、これからもおとぼけ俳句で行きたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 2日 (月)

再び、ビンボー人のゴウカな朝食

11月2日(月)

精障者作業所Mへ。

Imgp2230_2

今日の朝食は、おじやと野菜サラダ。 

おじや

 ご飯       1膳

 たまご      1個

 シラス干し

 大根の皮

 大根の茎

 にんじんの皮

 紫蘇の葉(みじん切りにして干したもの)

 梅干し      1個 

野菜サラダ

 レタス

 キュウリ

 ツナ(缶)

 ミックスビーンズ(缶)

インスタントコーヒー

何時も野菜の皮ばかり食べているようですが、中味を食べたから皮が残っているのです。でも、皮って随分残りますね。

夕方、Mからかえってくると、マンションのドアノブに紙袋がぶら下がっている。中には、Tさんからの書類。そしてカボチャの3倍くらいある大きな梨、というのは嘘だけれど、とにかく大きな梨が入っている。

Imgp2231

そこで、わが家にある果物を写してみる。

柿ももらい物。知人の庭の柿である。大小6個の柚子は、柚子味噌でも作ろうと思った買ったもの。

梨と柿からは、また皮が出ますねえ。今度はどうやって食べようか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 1日 (日)

ナンセンス落語

11月1日(日)

今日、北海道では雪が積もったところもあるとか。関東地方は、まだ暖かです。北海道は、やはり北国なんだなあ。

今は何処にでも気楽に旅行できるが(私は金欠病で旅行できない)、昔は関東の人が北海道に行くというのは、大変な旅行だった。

その頃の落語。

「北海道に行ってきたんだってねえ。あっちはどうだい、寒いんだろうねえ」

「寒いの何のって、北海道の人は冬になると、みんな小槌を腰にぶら下げている」

「なんでだい」

「オシッコをしながら凍るから、凍ったオシッコを小槌で叩くんだ」

「そんなに寒いのかい」

「ああ、そんなもんじゃないよ。火事が燃えながら凍るんだ。だから消防の人はノコギリを持って火事場に駆けつける」

「それで?」

「燃えている炎をノコギリできるのさ。それを橇に積んで、川に捨てに行く」

「そりゃあすごいねえ」

「そればかりじゃない。声だって凍る」

「声が凍る?」

「そうだよ。朝道で知り合いがすれ違うだろう。その時両方の人がお早うと言うんだ」

「そりゃあそうだろう」

「すると、その、お早うが凍るんだ」

「なんだと?」

「お早うの声が凍るんだよ。お早う棒と言ってな、冬の間は、道ばたに幾らでも落ちている。それが春先になると融けるもんだから、あっちからもこっちからも、お早う、お早うって声が聞こえて、うるさいの何のって」

などというナンセンスなのがありました。

もっとも北海道では、今でも冬になると、犬や猫が毛皮を着てふるえているそうです。

車椅子と仲間の会。定例会。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月31日 (土)

ビンボウ人のゴウカな朝食

10月31日(土)

はばかりながら私は、子供のころから一貫して貧乏であります。私くらいの貧乏になりますと、貧乏を楽しむことが出来るようになるのであります。今朝の豪華な食事をお目にかけましょう。

Imgp2229

ご飯の器とみそ汁の器の並べ方が違うなどと言ってはいけません。 スプーンも箸もない、などと言ってもいけません。写真を撮ることに夢中になって、そんなことには気が回らないのだな、と思うのが正しい態度です。

今朝はチャ-ハンでした。余り物で作るチャーハンです。

材料は

 ご飯           1杯

 たまご          1個

 ささみ          1本

 ミックスベジタブル   1握り

 小エビ干し       1つまみ

 大根の皮

 サツマイモの皮

 柿の皮

みそ汁の具

 水菜

 みかんの皮

みかんの皮だろうが大根の皮だろうが、私はすべて食べるのです。今日のチャーハンなんか、結構美味しくできました。もちろんみそ汁だって美味しいですよ。

幸いにして私は、大概のものを美味しいと感じる、健全な舌を持っています。好き嫌いの多いあなたに、貸してあげられないのが残念です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月29日 (木)

文化祭はじまる

11月29日(木)

狭山市の公民館では、ブンカブンカドンドンと文化祭が始まる。その準備でいつもの公民館に行き、パネルを運んだり立てたり。大騒ぎして絵を飾る。会場が狭いので、各人1点ずつ。

毎年一つずつ歳をとるので、毎年少しずつ疲れるようになる(はずなのだ)。でも、元気です。

終わって、堀兼から青柳の辺りを散歩。狭山市の郊外です。

Tati0009

青柳の村社、氷川神社境内からメモ用紙にスケッチ。

   あてもなく歩き続けて落ち葉かな

                 ぼんくらカエル

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月28日 (水)

施設の運動会

10月28日(水)

特養老人ホームMの運動会。ボランティアとして行っているのだが、ボランティアをしているのか、一緒になって遊んでいるのか、よく分からない。職員主体の綱引きなんか、私は本気になって引っ張った。私は白で、白が2勝。みんなでハイタッチしたりして、これが本当に嬉しいんだよね。一緒に行っていた相棒のボランティアが紅組で、

「この勝負はぼんくらカエルと私の差が現れた」

と言っていた。褒められたけれど、それは腕力のことなんだよね。頭とか、能力とかを褒めてくれればいいのに、残念だなあ。

小さな原稿を二つ書いて、山の会の12月山行の案内を書いて(年2回担当する)、プリントアウトする。昨日は溜まっていた家事を片付けたし、これで当面、やらなければならないことはなくなった。現役を離れて10年も経つと、気楽なもんですな。だから酒が旨いんだよ。アル中・・・肝臓・・・まあいいや。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年10月27日 (火)

天気が良いのに家事雑事

10月27日(火)

昨日に引き替え、今日はよい天気。普段ならこんな日は、外へ出たくなる。ところが日頃の無精が溜まって、洗濯やら掃除やら、ボタン付けやら、やり出すと、やるべきことが沢山あります。その合間に手紙も書かなければならなかったり、夕方は人に会わなければならない用事もあったりで、1日過ぎてしまいました。

いつも書いていますが、私の洗濯は、かなり溜めてから行うので、大洗濯といいたくなります。ちなみに、今日は9日ぶりの洗濯でした。

普通のおじさんたちは、どれくらいの下着を持っているのでしょうか? 女の人がおしゃれで持っているのならともかく、しゃれっ気のないおじさんの下着は、10枚もあれば充分ではないでしょうか。私は20枚はあります。つまり、毎日取り替えても、20日間くらいは、洗濯をしなくても大丈夫なのです。

シャツもタオルもその他の衣類も、下着に準じます。そのせいでめったに洗濯をしないというわけでもないのですが・・・。

掃除も似たようなものですね。大掃除というわけでもないから、中掃除と言うところですかね。そんな言葉はないけれど・・・。さまざまな物をその辺に置いておくので、掃除機をかけられる状態にするのが大変なんです。そのつど片付けておけばいいのだが、それが出来ないのです。

そんなわけで今日は、この好天にもかかわらず、散歩にも出ませんでした。ちょっと欲求不満です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月26日 (月)

雨なのに 巨人ファンではないけれど

10月26日(月)

精障者作業所Mへ。

雨なのに、カッパを着て畑へ行きました。つまみ菜にする野菜の種蒔きです。メンバーさん達を連れて行くわけにもいかないので、今日は1人。この前、種をまける状態にしていたので、30分もかからなかったけれど。

あとは通常の作業。

私は60年くらい前から野球ファンで、大下の青バット、川上の赤バットなど、ラジオの放送を聞いて覚えました。ズーッと巨人ファンでした。

南海から別所投手を引き抜いたときは、それをどうこう考える能力が、まだ私にはありませんでした。江川が巨人に入団したときは、巨人のやり方を汚いと思いました。それでも巨人ファンを続けました。

その後も巨人は、私の美学に反することばかりやりました。とにかく強引なやり方で、よそのチームのスター選手を引き抜いたりしていました。他のチームなら出番があると思われる若手も、巨人で飼い殺しにされました。それでも我慢して、巨人ファンで居ました。一度惚れてしまったらなかなか離れられないのです。

私が巨人ファンをやめたのは、駒田が巨人を出て行ったときです。駒田は随分巨人のために尽くしたと思いますが、他チームから入った選手に押し出されかねない状態になり、巨人を出たと思います。

巨人の嫌いになる理由としては、駒田の問題などは小さい問題ですが、前から不満が昂じていたところに、あと一押しが加わったという感じです。

それからはアンチ巨人でしたが、いつの間にか、野球そのものに興味を持てなくなりました。

でも、今度の、巨人、中日戦は、少しだけ気になりました。

私は中日の落合監督が嫌いです。原が選手会長で、プロ野球選手の地位向上のために努力していたとき、落合は協力しませんでした。それなのに原たちが勝ち取った選手の移籍の権利を使って、巨人に移籍し、原の地位を脅かしたのです。これは私の美学に反します。

そんなわけで、巨人ファンではないけれど、巨人が勝って良かったと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月25日 (日)

御伽婢子下読み

10月25日(日)

マンションの庭の清掃日で、芝生や植木を苅ったりする予定でしたが、雨で中止。

いろいろと家事をしたり、寝ころんだり、鼻毛を抜いたりしたあとで、『御伽婢子11巻』の下読み。10巻まで終わりましたが、11巻、12巻、13巻が残っているのです。今年中に終わるのは無理かな。

Imgp2167

上は私の種本。昭和2年、日本名著全集刊行会発行の『怪談名作集』(非売本)。左は広辞苑。両方ともひどいオンボロです。

『御伽婢子』を現代語にする犀、もっともご厄介になるのが「広辞苑」です。そのほか、漢和辞典、古語辞典、歴史事典、百科事典など必要に応じて使っています。

私のブログで、以前に『犬張り子』を現代語に訳し、今また『御伽婢子』を訳しています。両方とも作者は浅井了意。『犬張り子』の時は、随分誤訳もしました。『御伽婢子』は犬張り子より誤訳は少ないと思いますが、なあに、古文の知識のない義務教育終了程度の人間がやっていることです、まだまだいい加減な訳はあるさ。それでも続けているのは、やりかけてしまったのだから最後までやろうという押しの太さと図々しさ、それにわずかとは言え、読んでくださる方が居るからです。私自身の勉強にもなっています。

暫く、浅井了意に係わっているわけですが、浅井了意の人となりもいろいろと感じたりします。そのことはいずれ書くこともあるでしょう。

明日から『御伽婢子』11巻の現代語訳、はじめます。

昨日のおかしな話し・・・申し訳ない話しです。

歩く会の集合場所に行くためにバスに乗りました。私が座っていると、妊娠していると思われる女性が前に立っていることに気がついて、席を譲ろうとしました。

「どうぞ」

「いいえ、座りません。私は違います」

白髪の爺さんに妊娠していると思われてしまった女性、むかついたんじゃないかな。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月24日 (土)

奥多摩むかし道

10月24日(土)

歩く会で、奥多摩むかし道を歩く。

参加者7名。奥多摩駅から奥多摩湖まで、約10キロ。4時間弱かけて歩く。奥多摩むかし道というのは、旧青梅街道で、甲州裏街道とも言うらしい。

Imgp2152

Imgp2156

昔の人は、山の斜面に細い道を通して、生活道路を造ったものらしい。こんな道でも、街道と言うからには、生活道路以上の役目があったのだろう。

Imgp2153

道筋には、こんな家を幾つも見かけた。険しい斜面に家を作るため、玄関を道路と同じ高さにすることが出来ないのだ。

Imgp2159

コースの途中に吊り橋が二つ。二つとも、渡って戻ってくると言うだけの橋で、むかし道自体は渡らずに進むのである。

でも、吊り橋などがあると渡ってみたくなるのが人情。最初の橋、しだくら吊り橋のある辺りは、惣岳渓谷というのだけれども、道と渓谷の高低差がありすぎて、渓谷の様子がよく分からない。しだくら橋を渡って、その脇から河原におりる径があり、河原に降りてはじめて渓谷を実感できるのである。

しかし、渓谷へ降りる径は一般の人にお勧めは出来ません。われわれは山の会なので、少々の悪路でも行ってみます。この河原で昼食。

コース中、昼食に適している場所といえば、河原に降りる降りないにかかわらず、しだくら橋を渡った辺りと、中山集落を過ぎた辺りの草地(草原と言うほど広くない)くらいかと思います。あとは奥多摩湖畔かな。

惣岳渓谷、河原からの写真をもう少し載せてみましょう。

Imgp2157

Imgp2160

Imgp1888

今年の紅葉は早いと言うことですが、さすがにこれからはじまるという雰囲気。紅葉を愛でると言うには、まだ早すぎました。

Imgp2165

今日一日、快晴といえないのが残念。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月23日 (金)

悪いところが一つある

10月23日(金)

水彩画の会。

Imgp2150

私はスケッチは実物を見て描きますが、絵は勝手に作ります。この絵はまさしく草野球。男の子がバットか球を打ち、女の子がそれを捕ろうとしている。絵の中の犬はボールを見ています。その辺、芸は細かいのですよ。絵は下手だけど。

先日久しぶりに市内の温泉に行ったら、以前のボラ仲間Hさんに会いました。雑談してるうちに、

「かえるさんは何処も悪いところはないの?」

と聞かれました。

「一ヵ所だけある」

と答えました。

「え、そうなの。どこ?」

「頭」

頭が良ければ、毎日のブログの種に困らないでしょう。書きたいことが沢山あって、その中から何を書こうかと迷うでしょう。私なんか、パソコンの前に座ってから、何か書くことがないか探すのが大変です。今日などは「絵」があったので、気楽でした。

だから「頭」と答えたのです。頭以外は悪くないと思ったのですが、本当は違いますね。冷静に考えれば、「顔」も悪いのです。

あ、もう一つあった。「根性」も悪い。

こんな私のブログを読んでくださる方、ご苦労さん。ご同情申し上げます。この辺で、自分で淹れたお茶などを飲んでください。なんなら、タバコやアルコールでもかまいませんよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月22日 (木)

書作品展

10月22日(木)

ボラグループ定例会。出席者少なく、会議自体は早めの終わる。のち、雑談。

Tati0009

雑談になってから、前の席のHさんのスケッチをしちゃった。Hさんごめんなさい。私がこんなスケッチをしていたことは、隣の席の人も気づいていなかったはず。気づかれないようにあちこち気を使うことが多くて、ちょっと似てないな。雰囲気はあるけど。

Hさん3兄弟の書作品展をKさんと共に見に行く。会場は新狭山駅近くの画廊「麦」。書の良し悪しはよく分からないが、私としては、勢いのある字が良いと思いました。

画廊のオーナーKさん、一緒に行ったKさんとぼんくらカエルの3人、暫く雑談。絵や俳句、農業などについて・・・。

3兄弟にも会う。末弟は福祉関係の仕事をしていて、よく会う。長兄には何度か会ったことがある。この人も福祉関係の仕事をしている。次兄は初めてで、会社員。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月21日 (水)

ゴンチャ-ロフの日本渡航記

10月21日(水)

江戸から明治にかけて、日本に来た外国人が日本をどう見たか、逆に、外国へ行った日本人が何を感じたか、ということになぜか興味がある。

その興味のせいで、今『ゴンチャ-ロフ日本渡航記』を読んでいる。ゴンチャーロフとは1860年ころのロシアに人気作家で『オブローモフ』は傑作とされる。セルバンテスの『ドン。キホーテ』が一つの人物像を作り上げたように、『オブローモフ』もまた、一つの人物を作り上げたと言われるそうだ。「オブローモフ気質」とは、「無為徒食する人」という意味に使われるらしい。

そのゴンチャロフ、日本開国を迫るロシアの艦隊の提督の秘書官として、来航したときの手記である。そんな関係で一般庶民との接触はなく、役人とか通訳などの観察などを書いている。そのことが少し物足りない。当時の幕府が、開港したくなくて、渋々交渉に臨み、引き延ばし策ばかり取っていることはよく分かる。

あとは食事に招待したり招待されたり、おくりものをしたりされたり、当時の日本の習慣や、両国の文化の違いみたいなものはあるが、たいしておもしろいとも思わない。

文化の違いにとまどいながら、その中で生活したり、旅行したりする物の方が、私は好きだ。ゴンチャロフの場合、「上から目線」で書いているので、それも少し気になります。当時とすればやむを得ないかとも思うけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

ミニ放浪?

10月20日(火)

気が向いて、行くあても決めずに自転車でふらりと出かけた。で、まあ、結論だけ言えば、稲荷山公園から電車に乗り、西武秩父からバスで、小鹿野町まで行ってしまった。電車に乗ったのも、西武秩父からバスに乗ったのも、単なる気まぐれ、その場で決めたことである。

私はこういう事をよくやる。出来ることなら、山下清や山頭火なみに放浪したいところだ。何時もぽかぽか陽気ならばいいけれど、雨風の日や、暑い日寒い日があることを知っているから、本気で放浪しようとは思いませんけれどね。憧れる気分みたいなものはあるわけです。

ふらりと小鹿野町まで行ってしまったが、実はこの町、好きなんです。町のたたずまい、風景画美しいですね。毎年2回くらいは訪れます。

西武秩父からバスで行くのですが、途中の田村と言うところがまた素敵な土地です。低い山に囲まれた、秩父盆地の中のミニ盆地で、小さな集落があります。いつぞやこの集落を訪れたとき、土地の老婆と親しくなり、いろいろな話しをしました。「私が嫁に来てから、ここは何も変わらない。家が2軒増えただけだ」なんて行っていたなあ。よほど田村で下車しようかと思ったけれど、昼食を取れるような食堂もなさそうなので、結局小鹿野まで行きました。

小鹿野町役場で下車。近くの食堂で昼食。小鹿野での昼食は大抵ここで食べる。

その後、正永寺、辻が丘天満宮、小鹿野神社を経て四季の道を歩く。

Tati0009

近ごろはカメラを忘れてでることが多い。ちょっとした外出には、やはりカメラが欲しい。スケッチだけではもの足りません。

Tati0010

正永寺から小鹿野神社へは、自動車1車線のの細い道で繋がっています。

Tati0011

通りがかりの農夫と絵を描きながら雑談。

「この道路はみんな、自分たちで造ったんだよ」

「へえ、そうなの?」

「みんな自分たちの土地を、只で出してさ。俺はこの電信柱のところから向こうの電信柱まで出したんだ。それに、道作るために1ヶ月くらいただ働きしてさ」

「それでこの道が出来たんだ」

「うん。今年は出来が悪くてナア」

「え?」

「今年はなんにも満足に出来ねえだよ。サツマイモだけだな、平年並みに出来たのは・・・」

「ああ、そうですか」

「夏の天気がおかしかったでな・・・これから芋掘りに行くだ」

下は西武秩父駅の電車から見た車窓風景。

Tati0012

そして車内スケッチ。

Tati0013

Tati0015

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月19日 (月)

ナラ枯れ

10月19日(月)

精障者作業所「みちくさ」へ。

今あちらこちらの山で楢の木が枯れているのだそうです。気がつかなかったなあ。私は山歩きといっても、関東地方の山が中心だし、関東地方はまだ被害が少ないのだそうだから、そのせいで気がつかなかったのだろう。

松枯れは随分前から問題になっています。山歩きをしていると、手入れのされていない森林を多く目にします。杉だって、勢いの無い木が多くなっています。天然林の楢までですか。

楢は家具材として人気のある材質でした。しかし現在ではあまり使われなくなったと聞きます。また、楢は高給炭の材料でもあります。しかしこれも、使われる量は減っていますよね。

使われなくなった楢は、当然大木になるわけです。人間などは、大男を見ても、「あいつはデッカイや」と思うだけですが、木は、大木を見ただけで、畏敬の念に駆られます。でも、楢は大木になるのが問題なんですってね。楢の害虫「ナキノナガキクイムシ」とか言う奴は、楢の大木を好むんだって。とにかくこの「ナキノナガキクイムシ」(長い名前だねえ、もう一度書いたらきっと間違うよ)という奴に寄生されると、楢菌というのが繁殖して、導管がふさがり、木は水を吸い上げられなくなるのだそうです。

八ン場ダムについては、私ごときが軽々しくものを言うことが出来ません。しかし、他にも計画中のダムが、何百もあるんだそうですね。江戸時代から、洪水対策は、山の手入れをすることでした。戦後は、山の手入れを怠って、ダムで解決しようとしたのです。その報いで、今、山は荒れているのでしょう。ダムにそそぐ金の何割かを、山の整備に使っていたら、松枯れも楢枯れも防げたのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月17日 (土)

10月17日(土)

また今日もドジをしましたが、毎度のことなので、書きません。

   秋の夜ときどき嘘を書くブログ  ぼんくらカエル

今日句会があって、この句に何点か入りました。このブログのことですが、意識して嘘を書いているわけではありません。結果として嘘になっている場合があるのです。それに、かなり正直に書いているようでも、自分をよく見せようなんて気持ちはどうしたって、零にはなりません。おまけに私はうかつだから、本当は知りもしないことを、知っているつもりで書いたりします。まさに「知るをもって知るとなし、知らざるをもって知らざるとなす。これ知るなり」だなあ。

   居直ってしまえば正直秋の暮れ   ぼんくらカエル

こんな句をさっき作ってみました。嘘をついて、つき通せないと思ったら、居直るのが1番。そんなときは洗いざらい正直になって、あとはどうなとしてくれ、と投げ出してしまうのです。これは投げやりな私の処世術。粘りなんて、さらさら無い。

今日書いたブログの中にも、少し嘘があります。クイズ、どこでしょう?

「洗いざらい」というところです。居直ったって言えないこともありますよ。言えないことというのは、実はささいなことが多い。ささいなことでも、恥ずかしくて言えないことというのはあるものです。それに比べると、重大なことは案外言えるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月16日 (金)

無題

10月16日(金)

特養さくらへ。

書くことがないので、車椅子と仲間の会で話題になったこと、ボラグループで話題になったことから1つだけ書きます。

一人暮らしの障害者や高齢者が、地震や火事、その他非常の際に支援を求めるにはどうしたらよいか、ということが話題になることがあります。支援組織をしっかりと作るというのもあるのですが、災害の時には誰でも、まず第1に自分が助かりたいと思います。自分が助かったのち、他の人に目がいくわけです。そんなとき、思い出して貰えるようにしておくことが大切、近所付き合いとかをしておくことが大切、というような平凡な結論になりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月15日 (木)

酔わずにいられるか

10月15日(木)

老人介護施設、狭山ケアセンターへ。

「100万人あるとも我行かん」という言葉を父から教わりました。世の中全部が反対しても、自分の信ずる道を行く、という意味ですが、その通り出来たら、たいそう威勢が良いですね。なかなか人間は、そんなことが出来るものではありません。

そんなことを言う父は、別段人と衝突する人間ではありませんでしたが、組織に属することの出来ない人で、紙芝居屋をしたり、際物を売ったりして生活していました。ここで際物といったのは、別段怪しげな物という意味ではなく、アイスボンボンが流行ればアイスボンボン、ヨーヨーが流行ればヨーヨーを売るといった意味です。たとえば戦争中は、荷札とメガホンを売りました。

ちょっと説明がいるようですね。

当時、疎開をする人が家財道具を送るのに、荷札が必要でした。戦時中のことですから荷物は乱暴に扱われ、荷札も紙ではなくベニヤ板で、荷物を梱包した枠に、しっかり打ち付けられるようになっていました。

メガホンは、今の拡声器のように立派な物ではなく、ボール紙をラッパ型に丸めただけの物ですが、当時の生活では必需品でした。「空襲警報発令」とか「食糧の配給があります」とかを知らせる為に使ったのです。

そんな状態ですから、父は別段「100万人あるとも我行かん」などという生活をしていたわけではありません。「そうありたい」という気持ちがあったのでしょう。

なんでこんなことを書くかと言えば、最近インターネットのサイトで「戦争と文学」というのを読んだためです。ダウンロードしたら61ページ分あり、さまざまな情報がありました。与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の詩で、反戦詩人と言うことになっているが、第2次大戦中は戦争協力者だったことなども書かれていました。また菊池寛の反戦の思想が、次第に戦意高揚の思想に変わっていく様を、彼の発表した文章によって証明しているものなどもありました。

与謝野晶子については、まんざら知らなかったわけではありませんが、菊池寛の変化など、当時の知識人の意識の変わり方のサンプルとして読みました。

今の若い人達が、当時の知識人の変化を、時代に迎合するため本心を隠していたのだ、と判断したりします。でも、違うんですよね。与謝野晶子も菊池寛も、本心から戦争に賛成するようになっていくのです。時代に迎合するつもりなど全くないのに、結果として迎合しているのです。

与謝野晶子も、菊池寛も、「100万人あるとも我行かん」という気概を持っていた人だと思います。それなのに、時代の熱狂というものに酔って行くのです。インテリであろうとなかろうと、状況によって私たちはそうなってしまうかも知れないのです。自分は決してそうならないなどと自信を持っている人の方が、むしろ危ないような気が、私はします。時代が一つの熱狂に流されるとき、自分は酔わずにいられるか、それが問題なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

狭山市立博物館収蔵美術品展 斧と手斧 

10月14日(水)

精障者授産施設「リバーサイド」へ行った後では、裏の霞川と、すぐ下で合流する入間川の土手を散歩して帰るのを楽しみにしている。いつも霞川の下流の方へ歩くわけだが、今日は上流へ行ってみようと思った。

でも、これは間もなく行き止まりになってしまいました。リバーサイドから1キロ歩くかどうかと言うあたりに、霞橋があり、その先は川岸も個人所有になっているようです。

帰ってから地図を見ると、もっと上流へ行けば、また川岸を歩けるとろがあるようですが、そこは車道になっています。そのうちいつか行ってみるかどうか、車道ではね、という気持ちもあります。

帰りに稲荷山公園の博物館に寄りました。収蔵美術品展をやっていたからです。

横山大観の富士、藤田嗣治の風景画2点、河鍋暁斎が板に描いた絵2点、などがありました。その他、いくつかありましたが、不勉強で他は名前を知らない人でした。

常設展示もあり、そこの石器の斧が目にとまりました。

Tati0009_3

まあこんなような物ですが、これを見て今から35年くらい前に行ったタイの貯木場の労務者が持っていた道具を思い出しました。これとそっくりだったのです。但し、刃は石器ではなくて、鉄でしたけれどね。矢印の方向に刃をねじると、刃の向きは斧のようにもなるし、手斧 のようにもなるし、その中間にもなるという物でした。原始的といえば原始的ですが、融通無碍の便利さはあると思いました。

斧は知っていると思いますが、手斧という道具についてはどうでしょうか?Tati0011

Tati0010

左が斧、右が手斧です。手斧 は斧の刃を90度ねじった形、鍬の向きに刃がついています。絵の導入、ちょっと失敗しました。手斧にも種類は沢山あります。上の手斧は特殊な物で刃に重みを付けるため、刃の上に樫の台が付いています。普通の手斧は、次のような物です。

Tati0012_2 昔、今のような鉋(台鉋といいます)がなかったころ、槍鉋という物を使って、板の表面を削りました。まだ縦挽きのノコギリがなくて木を裂いて板を作っていた時代です。その板を手斧でほぼ平らにし、その後で槍鉋を使って仕上げていたのです。

槍鉋についても説明しなくてはいけないのですが、刃に反りを持たせた、なぎなた状の物で板を削ったのだと思ってください。

Tati0014 私のイラストは、実物を見ながら書くのではなく、イメージで書いていますから、正確ではありません。槍鉋も立って使う物から座って使う物まで、いろいろな種類があります。三味線職人が使っている「なまずり」なども槍鉋の一種といわれますが、小刀ほどの大きさです。

昔の大工は誰でも手斧を使ったのだろうと思いますが、今では使う人はほとんどいません。そのためか、手斧を非常に危険な道具のように思うようです。手斧を使った人も、そう言って人を驚かすのです。しかし、正しい使い方をすれば、特に他の刃物より危険と言うことはありません。刃物はみんな、危険といえば危険で、庖丁だって、指を切ることがあります。私は長年手斧を使ってきましたが、手斧でけがをしたことはありません。

テレビの時代劇などを見ていると、よく薪を割るシーンなどがあります。その場合、必ず薪を台の上に立てています。太くて、下が平らで台の上に載せられる木ばかりならばいいのですが、実際はそうは行きません。

Tati0013 そんなときは図のように薪を寝かせて足で押さえて割ったものです。私の絵が下手なので斧を勢いよく振り下ろしたようには見えませんが、割るのですから、実際にはもちろん勢いよく振り下ろすのです。自分に向かって斧を振り下ろすのですから、随分危険そうです。しかし、振り下ろしそこねて薪をはずれても、斧は薪の下の横の木に当たります。正しい使い方をしている限り、けがはしないのです。でも、危険そうなので、テレビではこんな薪割りはしないのでしょうね。

なお、手斧で木を削ることを「はつる」と言います。「はつる」を漢字で書くと「削る」に成ります。はつるとは叩き削ることであって、鉋や小刀でなめらかに削るのとでは、意味あいが違います。それなのに同じ漢字を使うのは、漢字を扱う人達、インテリの注意を惹かなかったからだろうと思います。

漢字を扱う人達の注意を惹けば、煙が上る、山に登る、噂に上る、日が昇る、などと同じように、違う漢字を当てたはずです。まして、「削る」と「はつる」音が違うのですからね。

                    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月13日 (火)

サツマイモの日

10月13日(火)

今日はサツマイモの日なんだそうです。知ったいましたか? 私は初耳です。サツマイモの日などというのがあるのだとすると、ジャガイモの日とか、カボチャの日なんて言うのも、きっとあるんでしょうね。

10月13日がなんでサツマイモの日なのか、語呂合わせを考えてみたけれど、どうも上手く行かない。いろいろ考えているうちに思い当たったのが「栗より旨い13里」という言葉だ。これはサツマイモのことを言うのだけれど、栗(9里)より(4里)旨い、9里と4里をたした13里というわけです。

ほくほくしたサツマイモは栗以上に旨いと言うのですが、本当はやはり、栗の方が旨いと私は思っています。

戦争中、甘いものが食べたくて、サツマイモが恋しかったことがあります。ところが、サツマイモが米の代わりに配給になったら、来る日も来る日もサツマイモで、たちまち飽きてしまいました。ジャガイモなどと違って、毎日食べると飽きやすいのがサツマイモです。

戦後も良くサツマイモを食べました。それからカボチャですね。だから食糧事情が安定してからしばらくは、サツマイモとカボチャは、食べたくありませんでした。この二つの食品は「戦中戦後に1生分食べた」などと言って、今でも毛嫌いする人がいます。その気持、わかります。

そういう私は、いつの間にかサツマイモを食べるようになりました。カボチャは長い間嫌いでしたが、今ではそうでもありません。食べてみると、今のカボチャやサツマイモは、結構旨いんです。戦争中のような味ではありません。

あのころ食べたサツマイモは、水っぽくて、ぺちゃぺちゃしていました。たしか「農林1号」と言う種類と思います。味なんか度外視して、量がたくさん採れると言うだけのイモだったのでしょう。

サツマイモの日に義理を立てたわけではありませんが、今日の昼、サツマイモを食べました。美味しかったです。13里ほどではありませんが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

どうでもいいこと

10月12日(火)

老夫婦が散歩していたり、いたわり合って歩いているのを見るのは、ほほえましくて、こちらの気持ちもほのぼのとしてくる。若い恋人同士が仲良く山登りなどしているのも、良いなあと思う。

先日の白毛門登山で、恋人同士と思われる二人連れがいて、難所では男性が手をさしのべたりしている。、羨ましく思った。断ったおくが、羨ましくあっても、妬ましかったのではない。

福沢諭吉かなんかの言葉で、人を羨ましく思うのは心が貧しいからだ、といった意味のことがあったような気がする。幾ら福沢諭吉でも、私は納得できない。羨ましいと思うのは素直な気持ちだ。恋人同士が仲良くしてるなどは、羨ましくほほえましいのである。自然にこちらの表情も和む。

で、白毛門の恋人の話だが、一緒に登った仲間によると、あの二人は年齢が離れすぎていた、というのである。私は気がつかなかったなあ。してみると、あの二人、ほほえましいなどと思うような関係ではなかったのかな。

どうでもいいことを書きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月11日 (日)

白毛門登頂せざるの記

10月11日(日)

山の会山行。谷川岳の眺望が特にすばらしいという白毛門へ。

狭山市からマイクロバスでの土合橋登山口へ。

9時少し前に登山開始。

Imgp2140

登りはじめは、こんな具合。良い天気です。ところが、

Imgp2144_2

間もなく雨が降り出しました。朝のうちも雨が降っていたようで、道はどろんこ。登山口からすぐ小さな橋を渡り、あとは急登につぐ急登。

もう紅葉がはじまっています。

何処の山にもあることですが、巨木が多く、根の張り方など、おもしろい樹が沢山ありました。

Imgp2145

雨が激しくなってくる。この先で、下山するグループとなおも上をめざすグループに分かれる。私は上をめざす方。だが、雨はますます激しくなって、標高1300メートルくらいで登頂を諦め、下山することに。

Imgp2147

これは下山中の写真。

Imgp2148

ときどき滝が見えました。これはハナゲの滝かと思うのですが、はっきりしません。

Imgp2143

登山口の沢で、靴やレインコートの泥を落として、無事、バスに帰着。この写真は登りに撮ったものなので、まだ日が差しています。もっとも、下りでも、下の方はそんなに降っていませんでしたけれどもね。

バスの中で昼食という山行でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月10日 (土)

こぶし祭り 強制疎開(銃後の生活)

10月10日(土)

こぶし祭り

第3回こぶし祭り。精障者授産施設リバーサイドと、生活支援センタースペースきずなの庭(車庫)で、こぶし祭り。市長やら国会議員やらお偉方が来賓出来ていた。

今年は大概職員がセットしたので、私などはやることがない。売り場を少し手伝ったが、そんなに売れるわけではないのに売り子は沢山いる。やることがなくてボーとしているのも嫌なので、そうそうにトンズラ。

職人出の私は、たいしてやることもないのに、世間話などをしながら時間をつぶすというのは大の苦手である。仕事があるならやる、なければ帰るというのが、私のやり方。仕事をしているような雰囲気で無駄話しているだけというのは辛い。

その場から消えようとしたら理事長に会っちゃった。だから「私は消えます」と言ったら、「楽しんでいけば・・・」という。楽しめないのだから、ヤナコッタ。

強制疎開

戦時中の疎開の話は、よく語られる。子どもたちには学童疎開があった。これもよく話される。しかし、強制疎開というのがあったことが話題になることは少ない。ご存じだろうか。

ある施設などを守るために、そのまわりの家を強制的に立ち退かせる、強制疎開というものがあった。

私の住んでいた市ヶ谷には、陸軍の練兵場があった。その練兵場を守るために、まわりの家々がかなり広い範囲で強制疎開させられることになった。

B29は住宅地に焼夷弾を落とした。当時の日本の家屋はほとんど全部と言っていいほど木造建築だったので、爆弾を落とすより、焼夷弾で火を付けて焼いてしまう方が、効率的だったのである。おそらく、その類焼を免れるため、重要な施設のまわりを強制疎開させたものと思う。

私の住んでいた家は無事だったが、狭い道路を挟んだ向かい側までが強制疎開になった。強制疎開地域と指定されると、引っ越す先があろうとなかろうと、一定の期日までに引っ越さなくてはならない。そして人々は、引っ越した家を壊すのである。

Tati0009

当時のことである。壊すのも人海戦術だ。向かいの家の場合、梁に縄をかけて、大勢の人がよってたかって、ひき倒した。家がギシギシ言っていました。子供心にも、もったいないなあと思ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 9日 (金)

雑炊(銃後の生活・2)

10月9日(金)

水彩画の会。

雑炊

雑炊と言っても、いま食堂で食べるようなものではなく、戦時中の雑炊です

太平洋戦争で、日本が敗色濃厚になったころ、食傷事情は逼迫してきました。さまざまな物が不足し、人々は自由にものが買えなくなりました。とくに困ったのが食料で、米、その他が配給制でした。米の配給は戦後も長く残りましたが、戦争中野戦後しばらくは、その米も満足に配給されない状態でした。

Tati0009 またも幼稚園児なみのイラストですが、説明しやすくするために書いてみました。

これは戦争中、雑炊の配給を受けるために人々が並んでいるところです。食糧の配給を受けるため食券が配られました。その食券を持って、雑炊を買いに行くのです。もう国には1ヶ月分の食料を各戸に渡す力はなくて、配給を受ける国民は、その日の雑炊を決められた米屋なり食堂なりに、ナベを持って受け取りに行くのです。子供の私も、その行列に何度も並びました。

配給の時間は、メガホンで知らされました。各戸から一人ずつナベを持った人が集まります。すると米屋のおじさんが、大きな釜で焚いた雑炊を、ひしゃくで酌んで、その家の人数分だけナベに入れてくれるのです。

雑炊は、菜っ葉やら芋の切れ端やらが、どろりとした汁の中に入っていて、米が少し泳いでいました。子供心にも不味いと思った物です。疎開先で豚の餌を見たとき、雑炊を思い出しました。似ていたのです。

この絵の中の腰に下げているのは防空頭巾で、もし警戒警報のサイレンが鳴ったら、頭に被るのです。空襲のための用心です。

こんな話しも今では知っている人が少なくなったので、昨日の「伏せ!」に続いて、書いておこうかと思いました。

戦争中の銃後の生活について、あと2-3書いておきたいことがあります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月 8日 (木)

振り子時計 伏せ

10月8日(木)

台風一過です。

狭山市にいると、大した台風ではないような気がしていました。ベランダの鉢などは昨夜室内に入れていたのですが、そのほかには、これと言って問題はありませんでした。でも全国では、いろいろな被害があって、亡くなられた方もいたようです。お悔やみ申し上げます。

文化財の被害も結構あるようです。石清水八幡宮、法隆寺、大徳寺、唐招提寺、上賀茂神社、彦根城、高松塚古墳などにも被害があったそうです。かって訪れたことのあるところもないところもありますが、大した被害ではないことを祈ります。

ボラグループたけのこ定例会。

精障者作業所みちくさへ。

Imgp2139       

こんな時計を作りました。12時、3時、6時、9時の文字はコルクをくりぬい手作った物、その他の時刻にはってあるのは木の枝を切った物、振り子は木材です。

私などが戦争中の話しをするのは、もはや郷愁のようになってしまいましたが、たまにそんな話しをすると、熱心に聞く人もいます。少しは話す価値があるのかなあ。

「伏せ!」の話しをします。

と言ってもなんのことか分からないでしょう。小学校低学年のころ、授業中に、先生がときどき「伏せ!」と言うことがありました。

Photo

絵が下手なのはしょうがないとして、このイラストを見てください。先生に「伏せ!」と言われると、私たちは急いで座っている椅子を机の上に置き、目と耳たぶを塞いで頭を机の下に潜り込ませて伏せるのです。

目と耳たぶを塞ぐのは、空襲による爆風で、目がとびだしたり鼓膜が破れたりするのを防ぐためです。頭を机の下に入れるのは、いくらかでも頭を保護しようと言うことでしょう。

いつ何があるか分からない時代ですから、先生は授業中でも、いきなり「伏せ!」と言って、練習させるのです。机の上に椅子を置き、目と耳を塞ぎ、机の下に伏せるまでの時間は、3秒でやることを求められました。

でも、この姿勢、練習でやったことはあっても、実際にしたことはありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 7日 (水)

台風

10月7日(水)

台風が近づいているときに、「台風」なんて言う題を付けるなんて、おもしろくもなんともないや。

まあ、とにかく台風が近づいている。メンバーの○○さんはそれが気になるようで、すっかりふさぎ込んでいる。

誰だって、台風が近づくのはありがたくないけれども、(いや、ありがたい人もいるかな、たとえば屋根やさんとか)その心配で沈み込むというのは、やはり精神の病気の現れなのか。

御伽婢子第10巻の下読み。意味の取りにくいところがあったりして、私などの実力では、結構大変です。登場人物も、歴史上の人の場合は、一応は調べなくてはならないし、辞書やら百科事典やら、インターネットやら、それなりにいろいろ調べます。私の場合、調べたことをメモしておかなければ、次の日には忘れます。忘れたいことは何時までも覚えているくせに・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 6日 (火)

耶律楚材 今坂柳二

10月6日(火)

日記なのだから、今日したことを順に書いてみましょうか。

朝起きて顔を洗って仏壇に線香をあげて・・・、これじゃあしょうがないよね。飯食って、数独をやって本を読んで、精障者授産施設リバーサイドのかすみがわ食堂へ。月1回の包丁研ぎボランティア。

かすみがわ食堂には、ボランティアのMさんが配食手伝いに来ていた。Mさんは仕事を持っているのだが、忙しい合間を縫って、月に1回くらい手伝いに来てくれる。

ボランティアのMさん、こぶし福祉会理事長のMさん、それにぼんくらカエルで、しばし歓談。

リバーサイドへ行った帰りは、霞川や入間川の散策をするのが楽しみなのだけれど、今日は雨でなので、バスで帰る。

家に帰れば帰ったで、やらなければならないことは沢山あるんだ。贈られてきた文芸小冊子に感想を書いて送らなくてはならない。これは早いほうが良いに決まっている。書かなければならない原稿もある。俳句会の会計をやっているが、夏季大会の会計報告に間違いがあったので、訂正の収支表も書かなくてはならない。10月の歩く会の紹介も書いておかなくては・・・。

その他諸々、生活上のことなど・・・、全部後回しにして読書。

陳舜臣の『耶律楚材』読了。実はこの本、買いたくて買ったと言うよりは、古本屋に立ち寄った際、『耶律楚材』という題名に惹かれてふらふらと買ったものである。私は知らなかったけれど、発売当時ベストセラーになったんですってね。

私はかろうじて、チンギスカンに仕えた「耶律楚材(ヤリツソザイ)」という名前だけを知っていた。その名前に惹かれて買った本である。

耶律楚材については、「たいした者だ」という説と「どうって事ないよ」という説があるようだが、陳舜臣は「たいした者だ」という立場で書いている。被征服者の生活などにまるで関心のない支配者に対し、いかにして人民の生活を守るかに苦心した高潔の士、としての耶律楚材である。

御伽婢子第10巻の下読みをしている。第13巻まで、今年中に終わるのは無理かなあ・・・。まあ、急ぐ必要はないんだけどね。

つばさ俳句会代表、今坂柳二さんが去年出版した『棒球譚』で関口比良男賞を受賞したと言うことです。

おなじ今坂さんが、秋田で行われた100キロマラソンで最高齢チャレンジ賞(78歳)の表彰を受けたようです。

つばさ俳句会は小さな会だが、桑原三郎などと言う全国区の俳人もいたりして、私などが平気な顔をして、桑原さん、今坂さん、などと言ったりするのは不遜なのだけれど、みんな偉ぶらない人達だから、コッチもいい気になっちゃうんだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 5日 (月)

無駄について

10月5日(月)

精障者作業所「みちくさ」へ。

鳩山政権は、国の無駄を省こうとして躍起になっています。

どんな政府でも、どんな国家でも、無駄はあります。世の中はなんだって、無駄だらけです。私なんか「おまえなんぞが生きているのは無駄だ」と言われたら、「ごもっとも」と言うしかありませんけれどね。

我が国は、多分無駄の多い国なのでしょう。私は他国と比較する力はないから断言は出来ませんが、かなり無駄なことをしていますね。

無駄にもいろいろありますが、今日は経済的な意味だけに使います。私のように何も考えず、ボーッと過ごしているような人間にも、それと分かる無駄に良くであいます。自治体や公益法人が建てたと思われる施設で、ほとんど使われていない物など、あちこちで目にします。マスコミにも随分取り上げられたことですから、別に目新しくはないけれど。

北八ヶ岳に行ったときだったかなあ・・・。林道が落石で通行不能になっているのを見ました。地形から言って、落石の多いところだったようです。その日の宿で、地元の人に、

「あの道が本当に必要な道なんですかねえ。落石で歩けない状態になってるし」

と聞いてみると、

「あそこは良く通れなくなるんだよ。でも、それでいいのさ。道が壊れれば治す仕事が増えるから」

だって。

林道を造るより林を作る方が大切なはず。林の手入れに金を回せばいいのに・・・。地方に仕事を与えると言っても、土建屋さんばかりじゃネ。

せっかく政権を交代させたんだから、取りあえず新政権に頑張ってもらいましょう。

平凡なことを書きました。「今日は」ではありません。「いつものように」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 4日 (日)

ボランティアは遊びだ

10月4日(日)

車椅子と仲間の会、定例会。

たとえば「特養さくら」に行ったとか、「狭山ケアセンター」に行ったとかいうときに、私はその内容を書く気がしない。それなのに、買い物に行ったとか、洗濯をしたとかを書きたがる。買い物というのは、高級品を買いに行くと言うことではなくて、秋刀魚や大根を買うこと指している。こちらもその内容を書きはしないけれども、私の中では、ボランティアも買い物のも等価である。

洗濯や買い物は、生活のために必要なこと。ボランティアはその余力でやるようなもの。

ウーン、参ったぞ。何を書くか考えつかないままに書きだしてしまったから、この先を書き進めても、上手いことまとめることが出来そうもない。

何はともあれ、人間は太古から、生きるために必要なことだけをやってきたのではない。遊び心があるんですね。何か自分が生きていくのに必要なこと以外に、余分なことをやらないと、生きているような気がしないいんです。

  遊びせんとや生まれけむ

  戯れせんとや生まれけむ

  遊ぶ子供の声聞けば

  我が身さへこそ揺すぶられ

だったかなあ。ちょっと違うかも知れないけれど、そんな古遥がある。

生きていくために必要なことは、どうしたってやらなければならない。私が買い物をしたり洗濯をしたりすることがこれに当たる。太古ならば、狩猟採集をすることなどがまさにこれだろう。

狩猟採集の生活から、牧畜や農業を始める時代になると、生活にゆとりが出てくるから、芸術みたいなものも生まれるし、自分で生産をしないで食っていくような者も出る。王様になったりしてね。こんなのが文化なんだろうね。

私はいま、自分で分かりもしないことを書いているんです。文章って変ですね、勝手に進んでいく。・・待てよ、こんな挿入を入れると、思考の流れが中断される。この先をどう書けば良いのだろう。

王様とか、学問や芸術の担い手は、自分が生産に与らなくても喰っていくのだから、それを正当化しなくてはならないわけです。人の労働の対価を奪って喰うわけだから、何のかんの言ったって、心苦しいわけですよ。だから自分たちには当然その権利があると、人々に納得させなければならないのです。その理論を考えて、自分でも信じ、人々にも信じさせるのですね。マルクス主義の言葉を使うならば「搾取」する理論です。

風呂敷を広げすぎてしまって、もう私の力ではまとめようがないや。はじめに帰りましょう。普段の生活に必要なことと、ボランティアがどうとか言うことだったと思います。

王様とか、学問などをする人は、一般の人より立派なことをしているような理論が作られるのですが、本当はそんなことではないのです。生活に必要なことをするのと等価です。ボランティアも同じだと思っています。

やれやれ、やっとまとめたぞ。筋が通っているかどうかは、ともかくとして・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年10月 3日 (土)

みちくさバザー

10月3日(土)

社協で「みちくさバザー」

ボランテイアグループや、障害者団体が活動資金を得るために毎年行っているバザーです。いつも行っている精障者作業所の「みちくさ」とは無関係。私たちは、ボランティアグループ「たけのこの会」として参加。

会場は、天気が良ければ社協の駐車場、悪ければ社協の建物内と決まっています。天気予報は芳しくなかったので、社協内を覚悟していたのに、バザーの準備する段階では、好天でした。だからどのグループも外に店を開き「天気で良かった」などと言っていたのです。

ところが10時のスタート前に雨が降り出しました。そのうち止むのではないかと商品にシートをかけたりしてぐずぐずしていたのですが、結局駄目で、慌てて建物内に商品を運び、狭い室内で陳列し直す騒ぎ。私たちは、3階の一番奥の部屋になりました。階段を何回も上がったり下りたりして汗をかき、おまけに私は、駐車場の後かたづけで、背中も靴下も雨に濡れました。昼になっても背中や足は少し濡れていました。幸いその程度のことでは風邪を引かない体ですけれどね。

癪なのは、バザー終わって外に出たころには、もう晴れていたことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

出句

10月2日(金)

狭山台胃腸科外科へ。血圧の定期検診。

特養老人ホーム「さくら」へ。

10月の「つばさ句会」への出句。

   木漏れ日に声を落としてつくつくし

   あのころはドングリだけが宝物

   言い訳は1ダースもあり秋刀魚喰う

   石投げて届くあたりは山の霧

   秋の夜やときどき嘘を書くブログ

「つばさ句会」は毎月あるのだけれど、出句をブログに載せるのははじめて。なぜ今日はそれをするかと言えば、他にこれと言った話題がないから。

「胃腸科外科」で出た血圧の上下を書いたり、「咲く」での活動の内容を書いたりしても良いのだが、取り立てて変わったこともないので、なんとなく書く気がしない。

私の気分としては、朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、それから昼ご飯を食べて、夜は酒を飲んで、眠くなって寝ました、なんて書くのが嫌なように、いつものことを書くというのは気が進まないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 1日 (木)

ときどき嘘も書く日記

10月1日(木)

また例によって、パソコンの前で何を書こうか考えている。書くことなんて無いんです。それを無理にひねり出している毎日。

   秋の夜やときどき嘘を書くブログ  ぼんくらカエル

本当は、そんなに嘘は書いていません。逆に、公開しない日記なら書くであろう事も、ときどきは書かずにすませるという意味です。書かないことが嘘なんだな。それでも嘘をついたことになるのかな。

前の段を注意深く読んでください。「そんなに嘘を書いていません」と書いたのです。「全く嘘をついていません」なんて書いてないよ。

ブログはともかくとして、私も随分嘘をついてきましたね。閻魔様の前で裁きを受けるとき、なんと言えばいいでしょうかね。正直に言わないと舌を抜かれるそうですからねえ。

「ハイ私は嘘をついたことがあります。生きている間に、3回嘘をつきました」

などと答えたら、閻魔様に、

「これがおまえの、死んでからの最初の嘘だ」

なんて言われて、舌を抜かれちゃうなあ。

老人介護施設「狭山ケアセンター」へ。Kさん、Yさん、私の3名。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月30日 (水)

田辺聖子『古典の森へ』

9月30日(水)

精障者作業所「みちくさ」へ。

文字盤や振り子を木材にして時計を作ろうとしている。試作品のに取りかかる。

ユーモアのある随筆を読むのが好きである。だから、たとえば、田辺聖子、佐藤愛子、遠藤周作、北杜夫、などの随筆は好んで読む。

田辺聖子の『古典の森へ』を読み終わったところだ。正確には随筆ではなくて、田辺聖子が毎日の編集者山崎れいみ、児童文学者の工藤直子に話したものを、工藤直子が書き留めたものである。話はあちらへ飛んだり、こちらへ飛んだりしながら、自由な語り口になっているので、肩が凝らない。

私は何事も広く浅くのほうだから、古典も少しは読んでいるけれど、注釈を見ながら読んでも、満足に分かりはしないのである。『古典の森』を読んで、読みたくなった古典がある。それは『落窪物語』だ。日本版シンデレラだそうである。『源氏物語』のような深い感動はないけれども『落窪物語』の方はゲラゲラ笑って楽しめるのだそうだ。私にはそういうのが良いね。

もう一つは『俳風柳多留』。これは前から読みたいと思っていたものだけれども、

   死に水を嫁に取られる残念さ

   抱いた子にたたかせてみる惚れた人

   もてぬやつかんらかんらとうちわらい

なんて。1句目、それは残念でしょう。世の中皮肉なものだ。2句目、本当は自分がたたきたいのにね。抱いた子というのは、もちろん自分の子ではない。3句目、超然としている振りをして、本当は悲しい。高笑いする自分の声が虚しく響く。

やはり読んでみたいなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月29日 (火)

昨日の訂正

9月29日(火)

昨日の記事の訂正です。

Imgp2077

アケビコノハ?

昨日この写真を載せ「コノハチョウ」と書きましたが、間違いです。これは「蛾」のようです。コノハチョウとは形も止まり方も違うそうです。

そう言えば、私の知る範囲では、蝶は羽根を背中で合わせて止まり、蛾は開いて止まります。しかしそれも大方そう言えるだけで、実際にはその逆もあるようです。写真の蛾の実物は、羽を広げたときに12-3センチの大きさがあったと思います。はじめは枯葉だと思いました。この「蛾」の種類は図鑑で調べましたが、はっきりしません。「アケビコノハ」に似ていると思いましたが、図鑑では、後ろ羽根に紋があります。この「蛾」も、よく見ると後ろ羽根に紋があって、上の羽根でそれを隠しているように見えます。はたしてどうでしょうか。

「蝶」や「蛾」には木の葉に似ているものが何種類もあると言うことです。うかつに「コノハチョウ」なんて言ってはいけなかったのです。

このブログの格言

ぼんくらカエルの言うことは、あまり信用するな!

今日から、「ぼんくら日記」と「御伽婢子」を分けて書きます。今日これから、「御伽婢子」(100回目)を更新します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月28日 (月)

旅でござんす

9月28日(月)

25日から家を離れていました。

25日

精障者小規模作業所「みちくさ」の一泊旅行に付き添い。旅行先は那須高原。牧場へ行ったり、木工品の展示を見たり。牧場では、メンバさん達が馬に乗ったり、私は甘すぎるアイスクリームを食べたりしました。宿泊は大きなホテル。広い敷地の中に何棟ものビルが建ち、敷地内をシャトルバスがまわっているホテルです。風呂だけでも44種類あるのだそうです。スゲエ。

広いことには驚いたけれど、私の記憶に残るのは、コノハチョウらしいチョウを始めて見たことです。

Imgp2077

露天風呂へ行くドアの外側にはりついているコノハチョウを見つけ、チョウが逃げないことを願いながら、急いで部屋へカメラを取りに帰りました。でも、カメラを持ってきたときにはその場所にいなくてガッカリ。しかし、目の前の露天風呂の縁にいたのです。これが枯葉の中にいたら、見つけるのは難しいよネ。

コノハチョウと思ったのは間違いで、蛾のようです。

26日

信夫山

途中で私だけ皆さんと別れ、福島へ。娘たちはいま福島に住んでいますが、娘の連れ合いは東京に転勤になりました。来年3月孫が小学校を卒業すれば、娘たちも東京に移転するので、福島に行くのはいまのうちです。

娘たちのマンションからは、歌枕で有名な信夫山の全容が見える。百何十メートルの低い山にもかかわらず、幾つも峰の連なる大きな山塊を作っています。この山を囲むようにして町があるのですから、福島というのも変わっています。

27日

娘のご主人(婿殿・・・仮にそう呼びます。実際は娘が嫁に行ったのです)は金曜の夜新幹線で帰り、月曜の早朝東京に行きます。それで会社に間に合うそうです。

浄土平

その婿殿に運転してもらって、浄土平に行きました。もともと天気は怪しかったのですが、途中まで行くとたいへんな霧。山で霧に巻かれると自分の前を歩く人くらいは見えますが、そのまた前を歩く人が見えなくなるようなことがあります。声は聞こえるので話は出来る、しかしその相手は霧の中という状態です。ちょうどそのような状態で、蛇行する山道を、緊張しながら、そろりそろりと登りました。Uターンして返ろうにも、Uターンできる場所なんて無いんですね。

  石投げて届くあたりは山の霧  ぼんくらカエル

そんな状態でなんとか浄土平に辿り着きました。浄土平にはビジターセンターや売店、食堂などもあり、ここで昼食。

幸いなことに、食事中にいくらか霧が晴れて、草紅葉などが見られました。

Imgp2118_2

Imgp2114

Imgp2115

霧の晴れ間を縫って、吾妻小富士に登ることができました。

浄土平が標高1580メートル、吾妻小富士が1707メートルだったと思います。わずかの標高差で、道もしっかりしているので、子供でも楽に登れます。

Imgp2126

28日

急ぐ旅では無し、鈍行で帰宅。途中下車でどこかに寄るつもりでしたが、宇都宮で餃子を食べただけ。幾つか寄るところも考えたのだけれども、天気がパッとしなかったので、すべて取りやめです。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月24日 (木)

酒井法子 八ッ場ダム

9月24日(木)

ボラグループの定例会なのだが、個人的理由で欠席。

午後、老人介護施設狭山ケアセンターへ。

近ごろマスコミをにぎわしているのは、八ッ場ダムと酒井法子。

酒井法子については、もういい加減に放っておいたら・・・と言う気がする。仮釈放されて記者会見したとき、あらかじめ用意された原稿があることまで問題にしているんですね。馬鹿じゃないんだもの、記者会見する前には、どう言ったら自分に有利だろうか位のことは、誰だって考えるよ。捕まったばかりで、気が動転しているときならともかく、拘留されて20日以上も立てば、これからどうしようくらいのことは考えるさ。本当に反省しているかどうかとは、別問題でしょう。

私なんか意志が弱いから、自分が芸能人だったとしたら、何かの加減で薬物に手を付けるかもしれないと思う。もちろん薬物に手を染めた人は非難されるべきだけれど、何時までも責め続けるのはどんなもんかね。自分は何があっても酒井法子にはならないという自信があるのかなあ。偉いものです。

私は酒井法子のファンでもなんでもないけれど、誘惑に負けた弱い人間を、高飛車になって責めるのは嫌だな。あとは酒井法子が更正できるかどうか、本人の問題だ。

八ッ場ダムについては、今さら工事中止と言われても、と言う地元の声が大きく取り上げられている。中止されては困るという人達も、はじめは工事反対だったという人が多いという感じの報道だ。おかげで前原大臣に風当たりが強い。

この問題の元凶は、私は自民党と官僚の癒着にあると思っている。一度計画を立てたら、何がなんでもその通り押し通すのが、これまでの公共事業のあり方だった。その公共事業が本当に有益かどうかは2の次で、とにかく計画を完遂すべく、何十年も頑張っていれば、反対派だって息切れするよ。計画を立てて50年も60年もたって、7割は出来ているというけれど、本当かね。予算の7割を使ったという事じゃないのかい。怪しいなあ。

私には工事中止が良いのか続行が良いのか判断できないけれど、確かに地元で踊らされた人は気の毒だ。その元凶は、無理な計画を推し進めてきた側にあるだろうというのが、私の考えだ。

明日から28日あたりまで、ブログを休みます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月23日 (水)

川越狭山自転車道 

9月23日(水)

川越狭山自転車道

まずドジ話からはじめます。川越狭山自転車道に行こうとして、まず自転車の空気を入れるべく、空気入れを持って階下の自転車置き場へ行きました。ところが私の自転車がないのです。どこかに置き忘れたようです。いろいろ考えた結果、何時も買い物に行くマルエツだろうという結論。空気入れはマンションの自室へ持ち帰り、マルエツからそのまま出かけられる用意をして家を出ました。

我がマンションの隣は大きめの本屋ですが、その本屋の駐輪場を見ると、私の自転車がありました。そう言えば先日マルエツの帰りに取り寄せてもらった本を取りに行ったのでした。

何はともあれ、自転車があったので、そのまま川越の八瀬橋(と言ったと思う)あたりから自転車道にはいることにしたのです。タイヤの空気が少し甘いなと気にはしたのですが、まあいいや、とそのまま進みました。これがいけなかったんですね、パンクしてしまいました。困りましたね、何処に自転車屋があるか分からないし・・・。何度も人に聞きながら、南大塚駅の近くのバイク屋さんに修理をしてもらうはめに。

バイク屋さんに注意されました。このパンクの仕方は、尖った異物が刺さったためのパンクではない。空気を入れずに走ったから、タイヤが潰れて出来たパンクです。もっと空気を入れなければ・・・。

家の前でもう一度空気を入れ直せば良かったのです。面倒くさがったのがいけないのだ。

何はともあれ、自転車道へ。

今日は川越狭山自転車道の終点、入間川と荒川の合流点にまで行ってみました。

私の属する山の会で、歩く会もつくって、月に1度出かけています。先日JR指扇駅で降り、荒川まで行ってみたことは、ブログに書きました。それは歩く会のコースとしてどうだろうか、と思ったからでした。結果はあまり芳しくありませんでしたけれどね。今日行ってみて、あらためて、駅からのアクセスが大変であることを確認しました。

それにしても川越狭山自転車道の、川越側の道は思いやりがないですね。狭山の方は、基本的には土手の上を走り、見晴らしの良い道です。川越の方は、土手の下を通るようになっています。土手の上は自動車用の道ですが、幅員は自転車道とさほど変わらず、砂利道が多い。車は工事でもするときに通る程度でしょう。せっかく自転車道を造るのだから、これを逆にしてくれればいいのに。

自転車道も、時々は土手の反対側に誘導しなければならない場合がありますが、川越側では、そんなとき、ヘヤーピンカーブが多くなります。自転車のスピードを極端に下げないと曲がれません。しかもきつい登りで、脚力の弱い人では自転車を降りて押さなければならないでしょう。

もう一つ、狭山側だと、橋の下をくぐるとき、その橋の名前が分かるようになっていますが、川越の方には、そんな標識もない。

自転車道を造るときの師の係の人や施工業者は、車のことは頭にあっても、自転車の人が楽しめるようになんて思いはなかったんでしょうね。

もう1つドジ話。

家にココナッツサブレがあったので、腹が減ったらこれを食おう、と思って出かけました。帰路、自転車道の途中でスケッチをしている時、食べようと思ったのです。ところがないのです。家に忘れてきました。そうなると無性に腹が減る。帰心矢のごとしで、急いで返ってきました。

Imgp2060

安比奈公園の花壇です。もう1枚。

Imgp2062

私の下手なスケッチも。

Tati0009

Tati0010

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年9月22日 (火)

スケッチをし損なう 金閣寺の幽霊と契る・1

9月21日(月)

スケッチをし損なったこと

昨日、竜門峡へは、スケッチの用意をして出かけた。しかし歩道は狭く、落ち着いてスケッチの出来るような所はあんまりありませんでした。

Tati0009

途中、休憩舎が1ヶ所あり、そこで昼食のパンを食べながら書いたのがこれ。この出来の悪い1枚だけが竜門峡でのスケッチです。

Tati0010

見てお分かりのように車内スケッチ。左側の女性はかなり美人だったのですが、画家の腕が「いかがなものか」。こんな風に描かれたなんて知ったら、きっと真っ赤になって怒るよ。美人に色っぽく怒られてみたいな。

デジカメ写真のプリント

先日、車椅子の会のバス旅行で、写真を撮るように頼まれて、何枚かの写真を撮った。バカチョンカメラしか扱えない人間だから、いずれ大した写真は撮れない。その写真を組み合わせて印刷しようとしたら、なんとしても印刷できなかった。「原因不明で印刷が中止されました」なんて言うメッセージが出てくるのである。アッチをいじったりコッチをいじったり、パソコンを再起動させたりしたが、どうしても駄目だった。

暫く悩んだあとで、「ははあ」と自得するところがあった。実は前にも、ブログで似た経験をしている。写真を組み合わせるとき、すんなりと挿入すればいいのだけれど、挿入したあとで、順序を変えたり、大きくしたり小さくしたり、別の絵と入れ替えたりをくり返すと、パソコンの方が混乱するらしい。

「ほんとにこのパソコンは頭が悪いんだから」などと独り言を言いながら作業をしたのだが、なあに、はじめからすんなりと組み合わせられないこちらの方が、頭が悪いのサ。

よく考えて、すんなりと写真を組み合わせたら、すんなりとプリントできました。苦労した私は、ぐったりしました。なんてね。

御伽婢子・99

金閣寺の幽霊と契る・1

中原主水正(ナカハラモンドノカミ)は美男と評判が高く、色好みで、26歳になるのに結婚もしていなかった。春には花に浮かれて風を恨み、秋には月を愛でながら雲に心を痛めた。官職は得ていたが、もっぱら風流を友としていた。

天永乙酉(キノトトリ・1522年)3月(旧暦です)、思い立って北の京に遊び、暮れゆく春の名残を惜しんだ。その辺り一帯をさすらって、最後に金閣寺に近くまで来た。征夷大将軍源義光(足利義満)この地に家を建て移り住んだのだが、崩御されて後、寺にしたのである。庭の築山泉水の立石、たぐい無き絶景の地である。

中原がここまで浮かれ来たときは、すでに日が暮れて、朧月が東の方に上がっていた。春宵一刻値千金とか、花に移ろう月の影、木の元も立ち去りがたい。近くの家に1夜の宿を借りたが、寝られもせず、敷石をめぐり、こけむした道を踏んで、金閣寺まで来た。

義満公が崩御されて、すでに118年。その昔はさしも賑やかだったが、今は住む人も稀になり、いしづえは傾き、柱は朽ち、わずかに金閣ばかり昔の面影を残している。

主水は軒に立ち寄り、欄干に寄りかかって、時の移ろいを感じ、月に思いを寄せ、桜のこぼくに花が少し残っているのを見て、1首。

   桜花いざこと問わん春の夜の

       月はむかしも朧なりきや

桜の花よ、あなたに聞きます。春の夜の月は昔もこのように朧でしたか?

                          続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

竜門峡

6月21日(月)

1度行ってみたいと思っていた竜門峡へ行く。紅葉の名所らしいので、本当はもう少し時期をずらす方が良いのだけれど、シルバーウイークでボラも趣味の会も休みで、暇をもてあまして出かけたしだいです。

中央線甲斐大和駅下車。竜門峡入り口までバスがあるのだけれど、本数が少なくて、往復とも全部歩いた。11時15分ころ甲斐大和駅着。次のバスは13時30分とか言うのだから、待ってはいられない。途中、武田勝頼の霊廟がある景徳院には帰りに寄ることにして素通り。竜門峡入り口についたのがちょうど12時。

                                                                                     Imgp2021  

はじめはこんな立派なな遊歩道。奥にいる二人ずれは老夫婦。老夫婦がいたわり合いながらこんな所を歩いているのを見ると、ほのぼのする。私にはもはや縁のないことだけれども。

Imgp2023

けれどもすぐに、こんな道になります。一人で通るのがやっとで、すれ違うのも場所を選ばなければなりません。コース案内では、竜門の滝、落合3つの滝、など書かれていますが、滝をどうこう言うより、売りは渓谷美ですね。

Imgp2027

Imgp2026

Imgp2035

Imgp2038

Imgp2041

Imgp2042

気まぐれに渓流ばかり載せてみたけれど、こんなに並べてしまうと、返って迫力がないね。小さな滝が幾つもあって、白く泡を立てる急流との組み合わせ良いと思いました。

樹木の様子を見ると、紅葉は、間違いなく美しいだろうと思います。

竜門峡を上り詰めると栖雲寺があり、そこからは一般道を下る。途中天目山温泉で入浴。3時間で500円(1日800円)。露天風呂もある、アルカリ温泉。

Imgp2051

景徳院です。武田勝頼と一緒に自刃した奥方は19歳なんですね。嫌だネエ戦争は、今も昔も。

                      

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月20日 (日)

清潔と不潔 下界の仙境

9月0日(日)

清潔と不潔

 私の中に、清潔と不潔が同居している。

 若い頃から、髪をとかすのが面倒くっさかた。「髪の毛の個性を大切にする」などと負け惜しみを言って、ぼさぼさの髪で平気だった。ひげは時々しか剃らないし、靴を磨くのも嫌だった。よほど靴が汚れてくると、蛇口の下に持って行き、たわしと石けんでざぶさぶと洗った。着る物についても、暑さ寒さを防げる物で良い、と言う考えしかなかった。

 随分不潔そうだけれども、風呂は毎晩は入らないと気が済まなかった。同じ下着を2日続けて身につけるなどと言うことは、もっとも嫌うところだ。

 このような性格は、今でも続いている。髪の毛は半分以上なくなってしまったし、若い頃のような剛毛直髪ではない。梳かそうが梳かすまいが、さほどの変わりはない。信じようと信じまいと、櫛やブラシを、私は何年も使ったことがない。ブラシはどこかにあったような気がするけれど、多分わが家には櫛がない。「多分」と書くのは、櫛を探したことがないからである。

 そんな私でも、今でも風呂は毎日入る。下着は毎日取り替える。洗濯物を取り込んで、その山の中から着る物を探すようなことはしない。洗濯物は必ず畳んで、一度はタンスの中に入れる。妻に死なれて10年を超えるが、この習慣だけは変わらない。

 もう一つ付け加えれば、万年床にはしない、と言うのがある。一人で生きているのだから、布団を敷いたままにしたところで、誰も文句は言わないけれど、これだけはしてはいけないと心に言い聞かせている。しかし、布団のまわりは惨憺たるものだ。寝ていて手の届く範囲に、辞書やら本やら、筆記用具やら、その他あらゆる物が散乱している。

総合的に言うならば、私はあまり清潔好きの方ではないと思っている。その証拠は掃除で、これは家事の中でも一番苦手です。部屋の中に綿埃が目についても、一度くらいは見なかったことにします。そうかと言って、ゴミの山の中で暮らすというのは、やっぱり嫌ですね。最低限の掃除はしています。

御伽婢子・98

下界の仙境・2

前回のあらすじ 太田道灌が江戸城を造ったころ、江戸は水に不自由していた。ある金持ちの町民が抗夫を雇って井戸を掘らせた。何百メートルも掘ったがやはり水は出ない。その穴の底で、抗夫は地下の別天地を見つけ、その宮殿に行き着く。

抗夫の世話を命じられた者は、抗夫を清い滝の元に連れて行き、体を洗わせた。次に、乳白色の滝の元に連れて行き、口をそそがせた。その水は甘く、密のようである。抗夫は心ゆくまでその水を飲んだ。まるで酒に酔ったような心地がして、暫くすると、身も心も爽やかになった。

抗夫は係の者に案内されて、半日ばかり、宮殿楼閣を見て回った。それは谷ごとにそそり立っているのだが、抗夫は中に入ることは許されず、外から眺めて中の様子をうかがうだけである。おそらく中は、美をつくし、善を尽くした豪勢なものだろうと想像するばかりである。

「一体ここは、どんな所なのですか」

と抗夫は案内の者に聞いた

「修行をして仙人になった者が、まずやってくるのがここです。ここで70万日修行をし、悟りを得て、終わったら天上に行き、それぞれの役割につくのです」

「仙人の世界ならば、天上にありそうなものなのに、地下にあるとは不思議です」

「ここは下界仙人の国なのだ。人間世界の上に、上界仙人の国がある・・・だけど、おまえはもう人間世界に帰りなさい」

案内のものは抗夫を乳白色の滝の元に連れて行き、またその水を飲ませた。そして抗夫が入ってきた岩穴の所まで連れて行った。

「おまえは今日の出来事を、半日くらいのことと思っているだろうけれども、人間世界では何十年も過ぎている。とにかく、もう帰りなさい」

抗夫が穴を出ると、そこは富士の裾野の洞穴だった。まわりの人に聞いてみると、太田道灌が江戸城を造ったのは100年以上前だという。

江戸では、昔、深い井戸を掘らせた者がいるなどと言うことを知る人もなく、抗夫を知る人も無かった。

その後抗夫は五穀を断ち、木の実を喰らい、山の水を飲み、足にまかせて修行した。富士の裾野で逢ったという人もいたけれど、何処のどう消えたか知る人はいない。

                            終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月19日 (土)

会食

9月19日(土)

午前。壊れた扇風機やガスレンジ、その他の物を環境センターに捨てに行く。私は車を運転できないので、次女夫婦に来てもらう。

午後、つばさ俳句会。

夜。池袋で、長女夫婦と孫たち、次女夫婦と池袋で会食。

今日のブログはこれだけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月18日 (金)

白寿の人 下界の仙境

8月18日(金)

特養さくらへ。Kさんと二人。施設長のTさんと、最近のボランティア事情について話す。

2Fへ。昨日の老人介護施設狭山ケアセンターも、この特養さくらも、1Fはデイケアーの人、2Fが普通の高齢者、3Fがいくらか認知症の進んだ人、と言う分け方になっている。

しかしこの分類も微妙で、かなりしっかりしているのに3Fの人もいれば、その逆もある。

今日は2F。もっともしっかりしていると思うのが、今年99歳の人である。新聞なども読んでいる。今度政権が代わったことについても興味を持っているのだ。「○○さんは昨日の新聞なんか読んでいる。昨日も今日も分からないらしい。まだ若いのに」なんて言うのである。

99歳に比べたら、大抵の人は若いヤ。私などはまだら惚けがはじまっている。昨日の新聞を読むことだってある。すごい人だなあ。

市長から、白寿のお祝いの花束が届いていた。

御伽婢子・97

下界の仙境・1

昔、太田道灌は江戸に城を築いた。江戸は水が乏しい土地で、多くの人が苦労した。

そのころ舟木甚七という金持ちの町人がいた。掘り抜きの井戸を作ろうとして、抗夫を雇い、人足を入れて何百メートルも掘らせたが、ついに水は出なかった。

抗夫はその穴の底に座って暫く考えていたが、地面のそこから犬の声が聞こえる。鶏の鳴き声もする。不思議に思って、もう1-2メートル掘ってみたら、切り通しの石の門が出てきた。入ってみると、両側は壁になっている。通路らしい。暗い中を手探りで100メートルほど進むと、切り通しの出口で、にわかに明るくなった。

上を見ると、青天白日の空である。下を見ると、大きな山の峰が続いている。どうやら別世界のようだ。

抗夫は峰におり、山を登り、谷を下り、約4キロほど進むと、山の中に立派な宮殿があった。玉や金銀、瑪瑙、瑠璃などをふんだんに使った宮殿である。庭には大木が生い茂り、不思議なことにどの木にも竹のような節がある。葉っぱは芭蕉のようで、紫の花が咲いている。花の大きさは、荷車の車輪ほどもある。

花の間を五色の蝶が飛び回り、その羽根の大きさは、団扇ほどもある。大形の鳥が梢を飛び回り、木も草も見慣れぬ実を付けている。

岩の間から二筋の滝が流れている。一つは澄んだきれいな水、他の一方は乳白色の水が流れ落ちている。

抗夫は楼門の前に行った。門の上に「天桂山宮」という額がかけられていた。

抗夫に気づいて、二人の門番がとがめ立てをする。

「おまえは何者だ。どうやってここに来たんだ」

「私は井戸掘りの抗夫です。深くまで掘ったら犬や鶏の声が聞こえたので不思議に思って、ここまで来ました」

門のうちから20人ばかりの小ぎれいな者たちが出てきて、

「汚らわしい匂いがする。どうしたのだ」

と門番を責める。門番は恐縮して答える。

「人間世界の井戸掘り抗夫が、迷ってきました」

その時また奥からきらびやかな衣装をまとい、金の冠を被った者が来て、

「この抗夫を案内してやりなさい」

と命じた。

                           続く

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月17日 (木)

盛衰がある 狐に騙される・3

9月17日(木)

老人介護施設狭山ケアセンターへ。今日はYさんと二人なので、3Fに行く。われわれ、たけのこの会も、会員の高齢化や身内に介護者を抱える人がでてくるなどの理由で、4-5年前の活力はない。夫婦共働きの孫の面倒を見なければならない、と言う人もいる。いずれにしても、前にはケアセンターへ行ける人が4-5人はいたのに、今は二人だけだったりする。これでは、2Fと3Fの両方を訪問することは出来ない。われわれのボラグループも最盛期は過ぎました。ボラグループにも盛衰があります。

御伽婢子・96

狐に騙される・3

前回までのあらすじ 安達喜平次は京から岐阜へ帰る途中、道に迷っている美しい娘に出会う。自分の馬の乗せて娘を送っていくと、娘の連れの者たちに逢う。その誘いで、娘の家に一晩泊めてもらうことになる。そこで酒宴が行われた。

安達はすでにかなりの酒を飲み干した。主の女房は安達に、姥と双六をしなさいと勧める。姥と言っても25-6歳のきわめて美しい女性である。双六の盤は紫檀や黒檀などを使った高級なもの、水牛や象牙で作った筒から取りだした蒔絵のあるさいころで、二人は勝負を争った。時には手が触れたりして、なんとなくなまめかしい雰囲気である。安達が勝ったときには、沈香が与えられた。負けたときには、特別持っていたものもないので、頭に刺してあった、髪をとかすときに使うコウガイを与えた。

すでに明け方近くなったころ、家の中がにわかにザワザワとして、「盗賊だ」という声が聞こえた。女房は慌てて安達を裏門から外に出した。姥もどこかに隠れて姿を消した。安達が外に出ると、そこは大きな穴で、まわりには荒野が広がっていた。松に風が渡り、谷川の音が遠くに聞こえる。

双六で勝ったときにもらった沈香はただの木片で、与えたコウガイはなかった。安達の供をしていた者たちが来て、道に迷った女性を馬に乗せたら急に姿が見えなくなり、みんなで探していたという。どうやら狐に騙されたものらしい。

                          終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

飛行船 狐に騙される・2

9月16日(水)

荒川と入間川の合流点に行ってみたくて、指扇駅から荒川に行ってみたのだけれど、駅から荒川までは、ずいぶん歩かなければならない。「随分歩く」というのも曖昧な言い方だが、時間は計らなかったし、距離も分からない。分かっているのは、疲れるほど歩くと言うことだ。

Imgp2008

  秋の陽の影を水面に飛行船  ぼんくらカエル

荒川の上に、暢気そうに飛行船が浮いていました。入間川とは違って、岸の土手に立っても、川の流れはなかなか見えない。河川敷が広く、木や草が生い茂っていて、見えるのは緑ばかり。

それはそれで美しいのですが、土手を歩いている以上は水も見たいのです。河川敷の、丈の高い草の中に所々川面が見えそうな踏み跡があります。その一つを行くと、とんだ藪こぎで、ズボンはおろかシャツにまで草じらみ(ヌスビトハギ)がびっしりと附いてしまった。

それでも、土手の上から見て、「ここなら」と思ったところで、水の淵に出ることが出来ました。ところがそこでは、若い女性が一人、フルートの練習をしていました。

「私はここで少し休みたいと思います。私にかまわず練習をしてください」

と断って、女性からはすぐ近くですが、草に隠れて見えない位置に座り、衣類に付いた草じらみむしりに専念しました。そしてスケッチ。

Tati0009

私のブログを読む人は、こんな下手くそなスケッチも見なければならない羽目に陥ります。スケッチと言うよりは。クロッキーですけれどね。女性のフルートを聞きながら描いていたわけです。

さて次のスケッチをしようとすると、後ろに人の気配を感じました。くだんの女性が立っていたのです。おやおや、あとは話でもするしか仕方ありません。女性はなかなかの美形で、福岡の人だそうです。北九州市の大学で中国語を学んでいるとか。夏休みの間に運転免許を取るため、合宿に来ているのだそうです。

話しをしながら描いたのが、次のスケッチ。

Tati0010

女性は描き上げる「早さ」に感心していました。クロッキーですから、早いのは当たり前。「上手さ」にではないところが問題ですよね。

御伽婢子・95

狐に騙される・2

前回のあらすじ安達喜平次は京から岐阜へ帰る途中で、道に迷った美しい娘に会う。その娘を自分の馬に乗せて送っていくと、娘の供の者たちに逢い、今晩は泊まっていくようにすすめられる。

さてそれから300メートルほど進むと、木々の茂っている屋敷があった。梅、桜、桃、スモモの花が咲き、藤の花や山吹も咲いている。池には、アヤメやカキツバタも咲き競い、名のある人のお屋敷と思われた。

案内されて入った住居は部屋数がことのほか多い。安達は廊下の先の、部屋に通された。そこは、唐や日本の絵画が飾ってある部屋だった。

その家の主の妻は40歳くらいで、立ち居振る舞いが上品で、気高く見えた。

「よくぞ娘を送ってくださいました。野遊びの娘が酒に酔い、座を逃げて道に迷ったとき、あなたが助けてくださいました。あなたに助けられなければ、狼に襲われたかも知れないし、盗賊にあったかも知れません。今夜は、心ゆくまで楽しんでください」

それからは酒宴である。姫の乳母なる者がまかり出て、安達の相手をする。乳母といえどもまだ若く、稀なる美人である。安達は仙境にいるような心地がした。たとへ雲の上にいるとしても、今夜のこの楽しみ以上ではあるまいと思われた。

                             続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月15日 (火)

下読みなど 狐に騙される・1

9月15日(火)

先週は肉体を使う趣味やらボラやらが多くて、それをやり終えた今、我ながら72という歳の割りにはタフなものだと思っています。

先週月曜日、ボラ先の畑おこし、火曜日、車椅子の会の日帰り旅行付き添い、水、木は南アルプス仙丈ヶ岳登山、金曜日は水彩画の会、これだけは肉体労働系ではありませんが、土曜日は精障者ソフトバレー大会の線審、日曜日はまた山行で男山天狗山へ、そして昨日の月曜日、精障者の理解を求めるビラ配り・・・、多少は疲れたけれど、明日山行があっても、まだ行けますね。

元気自慢の日記ですね、これは。そういう奴に限って、ころっと逝っちゃうのかな。それも良いね。どうせ逝くなら、ピンピンコロリが良い。

今日は自重して、買い物以外に体を使うようなことはしていません。やったことと言えば、御伽婢子第9巻の下読みです。

私のブログの読者は、ごく少ないことを知っています。その中で、「御伽婢子」の現代語訳は、更に読者が少なくなります。でも、その「御伽婢子」を読んでくれている人もいることを知っています。「御伽婢子」は全13巻、今日やっと9巻目に辿り着きました。ここまでやったのだから、自分のためにも終わりまでやります。

御伽婢子 第9巻

  原作      浅井了意

  現代語訳   ぼんくらカエル

御伽婢子・94

狐に騙される・1

安達喜平次は岐阜の人である。室町幕府の公方に参候しての帰り、美しい女性にあった。

安達が召使い二人に馬の口をとらせ、手下の武士二人を連れ、山の中にさしかかった時である。すでに暮れ方であった。年の頃17-8歳の美しい女性が、華やかな衣装の裾をつまみ上げながら、草むらを右往左往して、道に迷っているように見えた。見るからに高貴な人の娘のようだ。疲れているのか、足元はふらつき、石に躓いて転びそうになったりする。

「何処のお方ですか? こんな日暮れに供も連れずに、どうなさいましたか?」

と声をかけたが、女は返事をしない。なおも重ねて、

「いかにも気の毒に思えます。私の馬をお召しください。何処なりとも、あなたのお屋敷までお送りいたしましょう」

それを聞いて娘は嬉しげなそぶりを見せた。安達は娘を抱き上げて馬に乗せてやった。まるで着物だけのように軽い。

娘は見れば見るほど美しく、気高い雰囲気があり、たおやかである。そこはかとなく芳しい香りがして、まるでこの世の人とも思えない。安達はすっかり心を奪われ、この人のためならば命さへ惜しくはないと思うほどだった。

馬は京の方へ戻っていく。安達は馬の後ろに付き従い100メートルくらい進むと、田中の方から5-6人の少女が走り出してきた。

「なんとしたことでしょうか。暮れ方になって姫様を見失い、胸がふさがる思いでした。あちこち探していたのですよ」

更に200メートルばかり進むと、60歳くらいの男が、息を弾ませながら言った。

「姫様。心配していたのですが、ホッとしました」

安達に向かって、

「あなたが馬をお貸しくださったのですね。まことにありがとうございます。今日はみんなで田中に遊びに来たのですが、酒を飲み、興に乗じて、姫君は一人で近くに出ているうちに、道に迷われたようです」

「このお方が道に迷っておいででしたので、お気の毒に思い、馬をお貸ししました。お供の方にあえて、安心いたしました。私はこれにて失礼し、家に向かいます」

「いやいや、もはや日も暮れました。これからお帰りになるのは大変です。今夜は私どものところにお泊まりください」

「それはまことにかたじけない」

安達はその申し出を、ありがたく受けることにした。

                             続く

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月14日 (月)

ビラ配り 木の時計

9月14日(月)

精障者作業所、みちくさへ。

午前中、新狭山駅前で街頭募金。と言うより、精神障害者の理解を求めるためのビラ配り。募金自体が主目的ではない。

午後、木の時計作りの準備。針や機械は既製のものを買うのですが、文字盤や枠を板などで作ろうというもの。枠を木の枝で作るのがおもしろいのですが、思うような木の枝が、案外手に入りにくいので、今回は板だけで作ることにしました。振り子も付ける予定。

かって、木の枝で作った椅子などを、植木鉢などを置くために愛用してくれている人が何人もいることを、今日知りました。もう作らなくなったのかと言われましたが、私としにみれば、売れなくなったので作らない、と言うところです。「みちくさ」だけで売るのでは、客が限られているのです。

木の枝の時計、木の枝の椅子やベンチ、板と輪切りの丸太で作ったテープカッター、蔓などを使った木の枝の植木鉢飾り、障子紙と竹籤で作った巻き上げ式のスクリーン(カーテン)など、幾つかそれなりに人気のあるものも作りましたが、何を作っても、客が限られるため、すぐに売れなくなります。その他いろいろ作りましたが、すぐに頭打ちになります。そうかと言って、新しい物を無限に作り続ける能力は、私にはありません。みちくさの自主作品を作ると言っても、販売網を広げられるか、と言うことが課題になります。

                           

| | コメント (0) | トラックバック (1)

天狗山・男山

9月13日(日)

山の会、山行で、天狗山、男山に行ってきました。昭文社の地図では西上州のはじっこにありますが、奥秩父、八ヶ岳、西上州の間にあるような山。

快晴。絶好の登山日和。大深山登山口から登ったのですが、登山口にはなんの標識もありません。と言うより、入山禁止ののぼりが立っていました。Imgp1980

それでも一般道のようなのでそのまま天狗山に向かって進む。

やがて舗装道路から登山道らしい道にはいると、間もなく鉄線で道を遮られる。しかしその道しかなさそうなので、あえて進む。暫く直進し、右に曲がり左に曲がり、やっと小さな標識に出会う。そこから急登。林の中に、道があるようなないような、ルートを探しながら登ります。

尾根まで出ると馬越峠からの道に合流。私たちの登ってきた道にはさほど太くはない丸太が横に置かれ、下山できないと思わせているようです。

どうやら土地の所有者は、その登山道を通らせたくないようです。昭文社の地図には登山道として記されていますが、廃道と言っても良いでしょう。

登山と言っても地主にとっては迷惑なばかり、と言う訳なのでしょう。天狗山への入山は、馬越峠からをおすすめします。

Imgp1987

天狗山からは360度の絶景。これから向かう男山(奥の方)です。たまたま今日だけのことと思いますが、頂上は羽虫が多くて、それを避け、少し下がったところで昼食。

天狗山から男山へは、尾根道を、かなり下って登り返します。樹林や岩の道が時々開け、すばらしい景色を見せてくれます。

Imgp1990

前方に男山、

Imgp2003

振り返れば天狗山。

Imgp2001

うっすらと富士山も見えます。 富士山の左は瑞がき山。

変化の多い良い山行でした。標識は極端に少なく、ルートの見極めもしなくてはなりません。昭文社の地図では一般ルートというようですが、初心者は避けるべき山と思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月12日 (土)

ソフトバレー大会

9月12日(土)

精障者によるソフトバレー埼玉西部地区大会に、ボランティアで参加。優勝チームと2位チームは県大会に行くことになる。

会場は所沢アリーナ。私は審判の手伝いで、線審を3試合。そして大会前後の設営、撤去など。1日の仕事。

私が応援する狭山市のチーム「強健美茶」は3位。去年まで3年連続優勝でしたが、4連覇ならず「強健美茶」を破った「シリウス」が優勝でした。

それにしても、水、木の山行で足に疲れの残るなか、1日中立っていたので、筋肉が固くなっています。明日の山行、大丈夫とは思いますけれどね。今週は肉体労働系ばかり多かったなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

仙丈ヶ岳

9月9日、10日(水、木)

いつものメンバー6名で、南アルプス、仙丈ヶ岳(3032.7m)に行ってきました。

9日

甲府から広河原、広河原から北沢峠へとバスを乗り継ぎ、登山開始。

Imgp1924                      

しばらくはシラビソの好ましい樹林帯を歩く。

やがて道は急坂に。                         

Imgp1932

そして沢に沿って登るようになる。

Imgp1936

Imgp1939

時にはこんな滝を見ながら沢を登り詰め、今日の宿、馬の背ヒュッテへ。

10日

夜中に窓から見える星空がきれいで、翌日の好天が約束されているようだった。

爽やかな朝を迎える。登りはじめは寒いくらいで、私は薄手のシャツ2枚を着ていたのだが、途中で薄手のジャンパーとレインコートを重ね着する。

Imgp1945

Imgp1950

ダケカンバなどの樹林帯を抜けるころになると、甲斐駒ヶ岳など、ことのほか見事な山容を見せる。逆光気味なのが残念。私の腕ではこの程度にしか写せない。

恥ずかし気も無く休憩時に描いたラフスケッチを載せます。

Tati0009

Imgp1964

Imgp1961

Imgp1969

頂上。そして小仙丈ヶ岳を経て北沢峠に下山。

馬の背ヒュッテのオーナーに、よほど天気が良ければ富士が見えると言われていた。その、よほど天気がよい日に当たり、頂上からは360度見事な展望です。

富士は北岳の大きな山容に沿うようにして、下山道からたびたび見えました。

快晴に恵まれたすばらしい山行でした。山行中、何度かホシガラスを見かけました。これでライチョウに会えたら、と思ったのは欲が深過ぎるというものでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 8日 (火)

車椅子の会日帰り旅行

9月8日(火)

車椅子と仲間の会、日帰り旅行で奥日光へ。障害者用のバスで狭山市役所を7時45分出発。金精峠越えで湯の湖がわから入る。中禅寺湖畔の食堂で昼食。湖畔散策。いろは坂を通って狭山市に向かう。景色を見ながらのドライブという感じの1日。

実は明日、仙丈ヶ岳に行きます。これから山の用意をしなければならないので、ブログはこれで終わります。

Tati0009 中禅寺湖のスケッチです。

そんなわけで、明日、明後日のブログは休みます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 7日 (月)

昨日の続き 屏風の絵が踊る

9月7日(月)

まず、昨日の続きから。「木下航志」は「キシタコウシ」と言うのだそうです。「木下」と書いたら、普通は「キノシタ」と読むのですが「キシタ」なのだそうです。地名とか人名とか、固有名詞は漢字を見ただけでは読めなくてもしょうがないと思うことが良くあります。私の知人で「藤木」という人は「フジノキ」と言わないと機嫌が悪いのです。「フジキ」ではないのだそうです。いろいろあるんですね。間違って呼ばれることを気にする人と、あんまり気にしない人がいますね。どちらがどうとは言えませんが。

以上は余談です。余談から書き出すというのは文章の常道に反しますよね。まあ私の文章は、「アッチよろよろ」、「コッチよろよろ」ですから、数少ない読者は、つきあってください。

「子守唄」というか、「子守り」の話です。三木露風はよほどませた子で、子守りに背負われて見た「赤とんぼ」を覚えていたわけです。何かの文章で、三島由紀夫は縁側でおしめを取り替えられたのを記憶していたと読んだことがありますが、ほんとかネエ。

私は何十年も昔、暗い闇のなか、狭い空洞を泳ぐようにしながら、明るいところに出てきた夢を見たことがあります。私は勝手に、くらい産道を通って誕生したときの無意識の記憶が夢に現れたのだと思いました。しかし、あくまでも夢です。

現実に帰ります。

「竹田の子守唄」も「五木の子守歌」も子守りをする子どもたちは、現実の辛さをうたっています。昨日も書きましたが、私はそのような少女たちがいたことを、知識として知っています。私が育ったほんの少し前まで、それは現実にあったことです。

三木露風のようにませた子は、子守りを懐かしがったりするわけですが、大抵はそのもう少し後、女中に可愛がられた子供が、「女中っ子」として育ちます。女中を懐かしがる文学作品と言ったら、これはもうきりがありません。夏目漱石の「坊ちゃん」も、太宰治の「津軽」も女中が大きな位置を占めています。誰だったかなあ、女流作家だと思いますが、文字通り「女中っ子」という作品もありました。

子守りが長じて女中になった場合もあるでしょうし、子守りとは別に、女中に可愛がわれて育つという場合もあるでしょう。女中と言っても、はじめはまだ少女です。

昔は、子供が子供の面倒を見るというのが、当たり前のことでした。現にこの私が、小学2年の時、生まれて間もない弟を背負って遊んでいたのです。信じられますか? 小学2年生が赤ん坊を背負って、友達と遊ぶのですよ。鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたりするのです。他でもない、この私がしていたのです。

これは今まで誰にもいったことがない、はじめて明かすのですが、あるとき私は、上級生に知恵を付けられて、赤ん坊を電信柱にくくりつけて遊んだことがあります。これで、背負うのと同じだというのですね。そのせいなのかなあ、あの子が1歳のうちに死んじゃったのは。

今私は72歳。これ、一生忘れないんですね。

そのほか、私のまわりには、いくつもの悲運な死があります。そのいくつかは、私に関係があるような気がしてなりません。すぐ下の弟の死。妻の死。共に自殺。

   罪幾つ重ねて死ぬやつくつくし  ぼんくらカエル

もちろん、私と同じ環境にあって、他の人ならどうできたのだ、と言う、居直った気持ちもあるのです。でもなあ・・・。

御伽婢子・93

屏風の絵が踊る

細川右京太夫政元は足利義高公を取り立て、将軍に祭り上げ、自らは権威をほしいままにした。

あるとき、大酒を呑んで家に帰り、バタン、キュウで寝てしまったが、夜中に物音で目が覚めた。

枕元の屏風に、誰が描いたのか分からない古い絵があり、女房と少年が遊んでいる。その絵の中の女房と少年が絵から出て、手を打ち、足踏みをして、唄い、踊っている。身長は15センチばかりだ。

その歌を聴いてみると、

《世の中に、恨みは残る有明の、月に群雲春の暮れ、花に嵐は物憂きに、あらいはしすな玉水に、映る影さへ消えて行く》

月には群雲、花には嵐がある。あまり乱暴すると水に映る影も消えてしまう、とくり返して唄う。

政元は声を荒げて叱ったら、女房も少年も、元の屏風に帰った。

しかし気になって、陰陽師を呼んで占わせた。

屏風にある女の風流踊りは風に関係がある。花に嵐というのも風に関係がある。風の字にに注意しなさいと言うのが陰陽師の占いであった。

永正4年(1507年)6月、政元は精進潔斎して愛宕山に参籠し武運長久を祈った。

23日、愛宕山から下りるとき、馬が倒れて死んだ。

24日、政元は自宅で風呂に入ったところを、暴漢に襲われて死んだ。政元の事務官が敵に内通したのだという。陰陽師が風の字に関係があると言ったのは風呂のことだったのだ。

                      終わり

これで第8巻が終わりです。御伽婢子は全13巻、まだ3分の1以上が残っています。長いなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月 6日 (日)

木下航志のライブと子守唄 修行僧幽霊に逢う・3

9月6日(日)

木下航志と言う盲目の歌手がいる。ピアノの弾き語りをする。狭山市の市民会館で、そのチャリティーライブがあった。

目を閉じて聞いていると、山の彼方から雲がもくもくと湧いてくるような感じを受けたり、広い池の岸に波が静かに寄せているように感じたりする。声量があり、澄んだ響きがある。

アンコールで、最後の1曲だけアカペラで歌ったのが「竹田の子守唄」。歌詞は悲しい。なんで日本の子守唄は悲しいのだろう。ライブのはじめの方で、「赤とんぼ」を唄ったが、その歌詞の違いについて、いろいろ考えた。

「赤とんぼ」は子守唄ではなくて、子守をしてくれた姐やを懐かしんでいる詩である。

1) 夕焼け小焼けの赤とんぼ

   負われて見たのはいつの日か

2) 山の畑の桑の実を

   小籠に積んだは幻か

3) 十五で姐やは嫁に行き

   お里の便りも絶え果てた

4) 夕焼け小焼けの赤とんぼ

   止まっているよ竿の先

三木露風作詞である。三木露風が「子守の背中で赤とんぼを見た、あれはいつだったのか」、と言うのが1番の歌詞。「背負われている」のであって、「追われている」のではない。

「子守り」という者の存在は、私の世代でも話しで知っているだけである。貧しい家の少女が、金持ちの家の子守りに雇われて、赤ちゃんを背負いながら1日を過ごすのである。三木露風は、その子守りの「姐や」を懐かしんでいるのである。「子守り」の存在をしらない人が「負われて見た」を「追われて見た」と思ってしまうのは、やむを得ないのかも知れない。

「子守り」なのだから、3番は「姉や」ではなく「姐や」なのである。

ブログというのは私程度の生半可な知識しかない者でも。自由に書き込める。そのせいで、この「赤とんぼ」の解釈なんか、随分傑作があるんだそうですね。「負われて」の間違いは良くはないけれど、しょうがないな、とは思う。でもたとえば、「赤とんぼ」は戦後の歌で、「戦闘機の零戦」のことだとか、「姐や」は「従軍看護婦に行って生死が分からず、便りが来なくなった」だとか言う解釈もあるんだってサ。

「赤とんぼ」を「零戦」と解釈したのは、ひょっとしたら「あれかな?」というのはある。

Tati0009

左のイラストは幼いころに見た記憶をもとにして描いてみた。戦争中の航空兵の練習用の飛行機である。私は市ヶ谷の陸軍練兵場の近くに住んでいたが、まだ戦局が悪化しないうちは、上空を、よくこの練習機が飛んでいた。主翼が上下2枚ある複葉で、航空兵の顔が見えるほど低空で飛んでいることもあった。人々は、この飛行機のことを、「赤とんぼ」と呼んでいた。胴体の色が赤かったように思っているけれど、幼少時の記憶である。確信は持てない。さっきも書いたが、ブログというのは、私程度の人間でも、自由に書くのである。援用しようとするならば、自分でしっかり調べなくてはいけない。

脱線ばかりしているので、だいぶ長くなった。

「竹田の子守唄」だが、悲しい歌ですね。赤ん坊のための歌と言うよりは、子守りをしている子供の、嘆きの歌です。「五木の子守歌」と同じ系統ですね。

1) 守もいやがる盆から先にゃ

   雪もちらつくし子も泣くし

2) 盆が来たとてなにうれしかろ

   かたびらはなし帯はなし

3) この子よう泣く守をばいじる

   守も1日痩せるやら

4) 早よも行きたやこの在所越えて

   向こうに見えるは親の家

この歌は京都の部落民に歌い継がれた歌だそうです。この在所を越えて親の家に帰ったところで、貧しい生活が待っているだけです。それでも帰りたいのが親のところ。しかしそれも出来ないことを、子供ながらも知っているのです。

これはもう、恨み節ですね。本歌には、自分たちが食べるのは「もんぱ飯」というような歌詞もあったようです。「もんぱ飯」とは「オカラ」のことだそうです。  

御伽婢子.92

修行僧幽霊に逢う・3

前回までのあらすじ 河内の国を旅していた修行僧が、日暮れて泊めてくれるところを探していたとき、14-5歳の少年に逢う。少年は自宅に案内し、過去帳に自分の名前を書かせ、消えてしまう。修行僧はその家の持仏堂の前で夜を明かす。

夜が明けて、その家の家族が持仏堂の前に集まると、痩せこけた僧が一人、仏前に座っているのを発見した。

これはまた、盗賊か、それとも古狸が化けて出たのか、と、問いつめると、修行僧は昨日の出来事をありのままに語った。仏前の供物を見ると、修行僧が食べたという半分はなくなっていたが、少年が食べたという半分は、そのまま残っている。

「さては藤四郎の亡霊が現れたか、なんで修行僧の前には現れて、母である私には現れないのだ」

とは母嘆き悲しんだ。

聞けば、ちょうど100日前に、流れ矢に当たって亡くなったのだという。

無情を感じた母は、修行僧に髪を切ってもらい、尼となって菩提を弔ったと言うことだ。

                              終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 5日 (土)

家でごろごろ 修行僧幽霊に逢う・2

9月5日(土)

 思いっきり寝坊をして・・・目は覚めていたけれど布団の上でごろごろしていた・・・11時頃朝食件昼食。ブランチというのかな。その後、とうとう家から一歩も出ず。昨日洗濯をしてベランダに干したままだったのを、取り入れて畳んだくらいが仕事かな。漫然とテレビを見て、数独を2-3問解いて、本を少し読んで、ボーとして1日を過ごしました。

 鳩山由紀夫のホームページで、アメリカで問題になっているとか言う論文を読んでみました。割とまともなことを書いていると思いました。アメリカの市場至上主義を多少批判したところがあったけれど、それがアメリカの気に入らないんだね。日本の政治家のするとは、1から10までアメリカの言う成りでなければ批判されるのかな。

御伽婢子・91

修行僧幽霊に逢う・2

 前回のあらすじ 修行僧が河内の国を旅して、止めてくれる宿を探しているとき、14-5歳の美しい少年に会う。その少年の家に1夜の宿を借りることにする。

 「もう少し早ければ家の者に命じて食事を作らせるのですが、もう夜更けです。霊前に供えている供物を差し上げますので、食べてください」

 少年は仏前の供物を下げ、半分を僧に捧げ、残りは自分が食した。

 「今夜の宿を貸してくれてありがとう。あなたはどんな方なのか教えてください」

「私の父は隅屋藤九郎と言う武士で、武勇の誉れが高かったのですが、討ち死にをしました。私たち兄弟二人であとを継いだのですが、弟はまだ幼児です。私もまだ子供なので母に育てられています。私の名前は藤四郎です。今夜貴僧に宿を貸したのも他生の縁と言うことでしょう。私がもし亡くなるようなことがあったら、どうぞ跡を弔ってください」

 「なんでそのようなことを言われますか。あなたはお若い。これから花も咲こうというものです。私はこのように歳をとっていて、いつ死んでもおかしくない者ですよ」

 「いたいや、武士の家に生まれた者は命よりも名を惜しみます。戦があれば、夕べまで持つ命でもありません。だからお願いするのです。ここに過去帳がありますから、私の名前を書き入れてください」

 「これはまた妙なことを言われます。過去帳には死んだ人の名前を書くものです。しかし宿を貸してくれた方の望みに背くのもどうかと思いますので、逆修と言うことにして書き入れ、武運長久を祈りましょう」

 少年は打ち笑い、

 「それはお心のままに」

 と言って席を立ち、立てかけてあった太刀をとり、障子を開けて出て行った。そしてそのまま姿が消えた。聖は不思議に思い外を見たが、何も見えず、物音一つ聞こえない。やむを得ず、持仏堂の前に座って夜を明かした。

                         続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

元気です

9月4日(金)

本当はもうすぐ、9月5日の午前1時になります。もう遅くなったので、長いブログは書きません。

このブログの第1の目的は、私が元気でいることの、子どもたちへのメッセージですから、理由無く休むことが出来ません。

とにかく元気です。健康です。多少惚けていることを除けば、問題はありません。しかし、今日のブログはこれでおしまいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 3日 (木)

無題 修行僧幽霊に逢う・1

9月3日(木)

Tati0009

荒川。上江橋(大宮)付近からのスケッチ。対岸の川岸に男が1人いるのですが、分かるでしょうか。川合玉堂の絵やスケッチには、画面の目立たないところに生活感のある人物が小さく入っていたりします。私はあれが大好き。

御伽婢子・90 

修行僧幽霊に逢う・1

隅屋藤九郎は楠の一族で、畠山義就(ハタケヤマヨシナリ)の部下であった。戦では数々の手柄を立てたが、最後に討ち死にをした。

その子、藤四郎は同じく義就に仕え、応仁の乱で死亡した。親子二代にわたって忠義をつくしたので、義就は藤四郎の弟藤次に河内の国門間の庄を知行地として与えた。知行地を与えられたといっても、まだ5歳である。母と二人で住んでいた。

あるとき、巡礼の聖がその近くにやってきた。日はすでに暮れようとしている。どこかに宿はないものかと門間の辺りで佇んでいると、幽かに横笛の音が聞こえる。振り向くと、笛を吹きながら歩いてくる者がいる。

近づいてみると14・5歳の少年である。見目美しく薄化粧をし、髪は頭の上に二つの輪を作って結っている。ただ一人田の畔を歩きながら、僧の近くまで来た。

「坊様はなんでこんなところに立っておられますか?」

「私は諸国修行の者ですが、日が暮れたので、どこかに宿はないものかと周りを見ているのです」

少年は少し笑って、

「いまは物騒な世の中です。なかなか宿を貸してくれるところもないでしょう。たとえお坊様だとしても、人を騙そうとしているのではないかと疑われます。うろうろしていれば、怪しい奴だと思われて、命を落とすようなことにもなりかねません。もう夜が更けました。私の家においでなさい」

「それはありがたい。ぜひお願いします」

少年は修行僧を自分の家に案内した。

「もう家の者は寝ているだろうから、こちらからどうぞ」

少年は裏口から内にはいる。中には持仏堂があり、阿弥陀三尊を祭り、机の上には三部経が置いてある。又、先祖の位牌には供物があり花などを供えている。感心して聖は読経し念仏を唱えた。

                       続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

民主主義の基本 

9月3日(水)

精障者授産施設のかすみがわ食堂へ。Tati0009

帰りに稲荷山公園により、樹のスケッチ。

民主主義の基本だなどと、大層なタイトルを付けてしまいました。

昔は、王様が権力を持っていました。今でも王様はいますね。呼び方が違うだけで、たとえば北朝鮮のキム・ジョンイル様とかね。

専制君主の権力を国民の側にもたらしたのが、たとえばフランス革命。

民主主義というのは、出来る限り富や権力を個人個人に持たせるものだと私は思っている。現在では、国民の権力の行使が選挙だろう。選挙でなんでも変えられるのだけれど、国民というのは、私程度の馬鹿が多いから、誤った選択をしてしまうことも多い。

共産国や軍事国家は、専制主義になる。資本主義国家は一見違うようだが、本当に庶民に権力があるかというとそうでもなくて、金持ちに権力が集中する。ホームレスやワーキングプアーに権力があるかと言ったら、ないよね。

権力と富が一部の人に集中してしまうのは、民主主義を崩壊させるものだと思う。ここ数年、日本では格差が拡大してきたが、そのことに関する危機感が、自民党の政治家にどれほどあったんだろうか。

落ちこぼれるのは努力不足で自己責任だなどと言うのも、たまたま巡り合わせで豊かになった人の傲慢さだと思う。もちろん、本人の責任はあるさ。けれどもそればかりではあるまい。そもそも現在の日本は、落ちこぼれを作る社会だと私は思う。

いっぽうでせっせと落ちこぼれを作りながら、福祉はなおざりにしてきたのが、今の日本。民主党が政権を取ったからといって、上手く救えますかね。企業よりも家計という考えは、正しいと思うけれども、その政策で景気が良くなるまでは、どれくらいの時間がかかるのだろう。そう急には出来そうもない。

もっとも、つい2年くらい前までは景気が良いなんて言っていたけれど、その恩恵は一般庶民には届かなかった。庶民に届かない景気なんて、ほんとの景気じゃないよ。景気が良いときでも庶民は苦しい。悪くなればさっそくリストラ、なんていうのでは民主主義とは言えない。大企業が専制君主になっただけだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年9月 1日 (火)

奥多摩むかしみち 歌の仲立ち・6

9月1日(火)

「奥多摩むかしみち」を歩いてきました。

ちょっと散歩のつもりだったのですが、軽い山登り程度の体力は必要でした。

Tati0011 Tati0010

スケッチをしながらのハイキング。左はハイキングコースの途中。右は終点の奥多摩湖。

Tati0009

圧巻は惣岳渓谷。むかしみちは惣岳渓谷のわきを通るのだが、高低差が大きすぎ、斜面の樹木がじゃまをしてよく見えない。吊り橋で対岸に渡り、怪しげな踏み跡をたどって河原に降りると、その一部を見ることが出来る。但し舗装道路や林の中の道を歩くだけの人には、危険なのでお勧めできない。街中を歩くような革靴の人は無理ですから近づかないこと。危険な目にあったとしても自己責任です。

Imgp1862

これは昔トロッコが走っていたという橋。 完全に廃道ですね。この先にトンネルもあります。「むかしみち」というのだから、こういうところも通れるようにしてくれればいいのに、なんて、勝手なことを思います。

とは言え、トロッコ道というのはダム建設のための道だそうで、「むかしみち」ほど古くないんです。「むかしみち」は「甲州裏街道」とも言われた道だそうだ。道の途中には、「耳の神様」やら「牛頭観音」やらさまざまな「地蔵様」など、民間信仰にまつわる遺跡などがあって、いかにも古い道だなあ、と思わせる。

Imgp1870

こんな細い道が続き、時々集落に出る。

Imgp1872

惣岳渓谷。

Imgp1888

もうこれ以上は画像を載せられないようです。全長10キロで、最後の3キロくらいは長い登りになります。これがきつい。

しかし、全体に風情のある山道で、なかなかのコースです。

実は精障者授産施設のボラの予定だったのに、すっかり忘れていました。別に今日でなくても良いボラなので、明日、行くことにしました。

御伽婢子・89

歌の仲立ち・6

前回までのあらすじ 永谷兵部は山名一族に連なる娘牧子とわりない仲になったが、親に認められ正式な夫婦になった。しかるに、応仁の乱が起こり、牧子とその両親は殺された。難を逃れていた兵部は、京都に帰ってそれを知り、悲しみに沈む。

ある夜、兵部のもとに、夢のように牧子が現れた。

「私はあなたと別れてから、田舎武士の手にかかって殺されました。けれども貞節を守ったことを天帝が憐れみ、今日あなたの前に現れました」

兵部は牧子が亡くなった悲しさと、会えた嬉しさで、涙が雨のように降った。夜もすがら語り合って朝になった。

   思はずよまためぐりあふ月かげに

       かはるちぎりをなげくべしとは

牧子返し、

   行末をちぎりしよりぞ恨みまし

       かかるべしともかねて知りせば

こんな嘆きを言うようになるとは思わなかった。こうなるとは分かりませんでしたものね。と互いに涙を流し、牧子は別れて立ち去った。牧子の後ろ姿は、影のようになって、薄れて消えた。

兵部は剃髪して寺に籠もったが、間もなく病によって虚しくなった。

                    終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月31日 (月)

やっと代わります 歌の仲立ち・5

8月31日(月)

8月は今日で終わり。自民党は今日で終わりかな? それとも再生はあるか? ひょっとしたら分裂かな?

民主党は支持されたと言うより、相手があまりにひどかったのでやむを得ず選ばれた、と言うことだと思う。

昨日、今日のブログは、選挙を取り上げた人が多いだろう。私も時流に乗って平凡なことを書いているわけです。もうよしましょう。

関東地方、今日は寒かったね。朝から雨が降ってサ。台風が今夜、千葉の沖を通るんだって。

精障者作業所Mへ。行きも帰りもズボンの裾は雨でびっしょり。

明日は快晴といきたいねえ。そしたら私は遊びに行ける。「奥多摩むかしみち」なんか、行ってみたいなあ。

御伽婢子・88

歌の仲立ち・5

前回のまでのあらすじ 永谷兵部は外出中に知り合った娘と良い仲になり、夜な夜な会いに行く。しかし父に外出を禁じられる。娘(牧子)は兵部と会えないことで恋煩いになり、痩せ衰える。両親は召使いに聞いて病の原因を知る。

娘がそこまで思い詰めているのなら、その思いを叶えてやろうとして、牧子の親は仲人を立てて兵部の父に申し入れた。

兵部の父は、

「わが子には学問の才能があります。やがて公に仕えて我が家のあとを継がせる者です。妻を持つのはまだ早いでしょう」

牧子の父は、

「兵部さんのことは噂に聞いています。きっと出世なさる方です。私の娘と結婚してくれたら、何もわが家を継げとは申しません。財産もみな差し上げましょう」

こうして話はまとまり、吉日を選び、兵部は婿になった。

    命あれば又も逢瀬にめぐりきて

        ふたたびかはす君が手まくら

娘返し、

    三日月のわれて見し夜の面かげを

        有明までになりにけるかな

又あなたの手まくらで寝ることが出来ると歌にすれば、今は明るいところで逢えるようになったのね、と返す。以後は誰はばかることなく幸せに暮らしていたが、やがて応仁の乱が起こった。

京都の町は戦火に見舞われ、家々は焼かれ、田舎侍の乱暴狼藉はとどまることを知らない。牧子は狼藉者に掴まり汚されようとした。

「私は死んだって、あんたみたいな田舎者の思い通りにはならないわ!」

「なんだと! それなら殺してやろう」

軍兵は怒って、牧子を串刺しにした。

それとも知らず兵部は、難を逃れて田舎に隠れ住んだ。その年の冬、やっと戦が収まったので京都に帰ってみると、妻の家は焼かれて跡形もない。父も母も殺されたという。兵部は1人、牧子の部屋の辺りに佇み、涙に暮れていた。

                        続く 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月30日 (日)

一匹芋虫 歌の仲立ち・4

8月30日(日)

ゆっくり起きて投票に行き、午後、傘を持って散歩に出る。

Tati0009

いつも変わり映えしない入間川のスケッチ。書き終える寸前に雨が降り出し、今日はこれだけ。傘を差して帰る。

選挙の結果はどうなるか、まあ民主党が圧勝という勢いなのだそうですが・・・。

今回の選挙はそうでもないのですが、だいたい私は、少数派に属しています。政治的なことばかりではなく、なにごとでも少数派に属する傾向があります。物の見方、考え方が、人と違うのかも知れません。若いときからそんなふうだったので、今では自分が多数派に属しているときは、何だか不安に感じます。少数派に属している方が、精神的にも落ち着くのです。少数派の方が安心、と感じるのも少数派なんでしょうね。

「1万人あるとも我行かん」などという威勢の良い言葉もある。自分の味方は誰もいなくても、1人でも向かっていくというわけです。私にはとてもそんな勇気はありません。そんな場合、私は信念を曲げるわけではありませんが、信念を隠します。でもこれ、信念を曲げないつもりでいても、隠していると、いつの間にか曲がるんです。相手に迎合したい気持ち、世間と歩調を合わせたい気持ちは、きっと誰にでもあるのです。毅然として1人立つ、なんていうのは難しいなあ。

はぐれ者が、自分のことを「一匹狼」などと言います。それはそれなりに格好が良いですけれど、私は1人で世間に向かっていくなどと言うことは出来ません。私は自分を「一匹芋虫」だと思っています。誰でもつぶすことが出来ます。

御伽婢子・87

歌の仲立ち・4

前回までのあらすじ 永谷兵部は外出先で美しい娘牧子を見かけ、たちまち恋をする。牧子も兵部に一目惚れし、塀の内と外で歌を取り交わし、その夜兵部は夜這いをする。そして朝、衣ぎぬの別れをする。

さてそれからというもの、兵部は心もそぞろで、学問にも身が入らない。夜になると牧子のもとに夜這いに行く。そんな兵部にたまりかね、父が怒っていった。

「おまえは学問のために通っていたはずだ。朝家を出て夕方に帰るのが当たり前だろう。それなのに近ごろは、夕方家を出て朝に帰るとは何事だ。定めし、女のもとにでも通っているのであろう。そんなことをしていては、悪い噂が立つばかりだ。もしも相手の女が身分の高い者だったら、家門をけがされたと言って大騒ぎになるだろう。そんなことがあっては、わが家にとっても大問題だ。今日から暫く、家を出ることを禁ずる」

と、兵部を一間に押し込めてしまった。

夜、庭で待っていても兵部はぷっつりと来なくなったものだから、牧子は思い悩んだ。飛鳥川の昨日の淵は今日の瀬となるように、人の心も変わりやすい。私は捨てられたのかしら・・・。それとも兵部さんは病気になったのかしら。心配でじっとしていられない。召使いに様子を調べさせたところ、兵部は父親に閉じこめられているらしいと分かった。

それを知って牧子は嘆き悲しみ、食事も喉を通らず、思い乱れてうわごとを言うありさま。やせ衰え、肌の色つやも落ちた。両親はびっくりして、医者よ薬よと手を尽くしたが、一向に良くならない。何か思い詰めていることでもあるのかと聞いてみても、牧子ははっきりとは答えない。

両親は牧子の枕元の箱を見て、中をあらためたところ、兵部の歌が出てきた。召使いに問いただし、娘の病は恋煩いであることを知った。

                        続く

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年8月29日 (土)

今日も雑談 歌の仲立ち・3

8月29日(土)

暑い1日。出かけたいところがあったけれど、あんまり暑いのでやめました。

麻薬で話題の酒井法子は小学生のころ狭山市にいたようです。ボラ仲間のHさんの子供が酒井法子と同級生だったと言うことで、マスコミからの電話がいくつかあったそうです。

さて、明日は選挙。今けたたましい音を立てて選挙カーが窓の外を通りました。どうやら政権交代がありそうですが、長かったなあ、自民党政権。自民党は長かったけれど、首相はころころ変わったね。今の自民党、麻生さんのせいも大きいだろうけれど、小泉さんが本当に自民党をぶっつぶしたのだと思います。

今日は何だか西瓜が食べたくなって、行きつけのスーパーへ行ったら、もう置いてないんです。今日は暑かったけれど、ここのところ涼しかったからかなあ。

そう言えば、俳句では西瓜は秋の季語なんだ。おかしいね。西瓜と言ったらどうしたって夏のイメージなのに。西瓜を秋の季語と主張する人は、俳人は季節を先取りするのだ、なんていうよ。先取りするのは良いけれど、実感とあまりに離れてはいけないだろう。秋に西瓜を食ったって、夏ほど美味いとは感じないサ。

御伽婢子・86

歌の仲立ち・3

前回までのあらすじ 永谷兵部は外出中に立ち休みをした塀の外から屋敷内を覗いたところ、美しい娘(牧子)が目に入った。たちまち一目惚れをしたが、牧子も兵部に気がついて、これまた一目惚れをした。塀の内と外で歌を読み交わし、その夜、夜這いに行くことに決まった。

その夜が来た。兵部が外の塀へ来ると、塀の外にまで伸びている桜の枝に、縄のような細帯が吊してあるのが見えた。兵部がその帯を掴んで塀を越え屋敷内に降り立つと、女は樹の下で待ちわびていた。

   うつつにもおもひ定めぬあふ事を

       夢にまがへて人にかたるな

兵部の返歌。

   また後の契りはしらず新まくら

       ただ今宵こそかぎりなるらめ

私たちが会うことを、人には言わないでね、と牧子。あなたが私と夜を共にするのは今夜だけなんでしょうね、と兵部。

牧子は恨んで、あなたに抱かれるのは千年の後まで同じ想いからなのに、なんでそんなに薄情なことを言うの。あなたのためなら死んでも良いと思っているのに。

   たのまずばしかまのかちの色を見よ

       あひそめてこそふかくなるなれ

という藤原俊成の歌の心よ。あの桜に垂らした帯の「しかまのかちの色」(濃い紺、または褐色)を見たでしょう。あいそめてますます深い色になるの。

牧子は兵部を部屋に導き。下女に酒のよういをさせた。

牧子の親は山名氏の一族だが、武門を離れて久しい。一族の中には大名などもいるが、お互いに付き合いはない。家は豊かで親は牧子のために花園を作り、そこに家を建てた。それがこの家で、親は近くに住んでいる、と牧子は話す。

    世にもれむ後の浮き名を嘆くこそ

        逢世も絶えぬおもひなりけれ

女返し、

    ながれてはひとのためうき名取川

        よしや我身はしづみはつとも

やがて世間に知られたらあなたに悪い噂が立ち、逢えなくなったら辛い、と言えば、どんな噂が立ってもあなたを愛するわ、と体をぶつけてくる。

その夜二人は愛し合った。愛し合う二人に夜明けは早い。

    ちぎりおくのちを待つべき命かは

         つらき限りの今朝のわかれぢ

女返し、

    くらべては我身の方や勝るべき

         おなじわかれの袖のなみだは

別れは辛いね、私の方がもっと辛いのよ、と歌を交わし、兵部は桜の枝を伝って外に出る。

                          続く    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月28日 (金)

水遊び(水彩) 歌の仲立ち・2  

8月28日(金)

Imgp1855                   

水彩画の会。航空公園の水場で遊ぶ子どもたちです。私の絵ですから、バックは意識的に変えています。現場の写真も撮りましたが、子どもたちは入れ替えました。乱暴で早いのが私の絵です。

御伽婢子・85

歌の仲立ち・2

前回のあらすじ 永谷兵部少輔色男で学問を好む。いっぽう牧子という美女が万里小路のあたりに住んでいた。あるとき兵部は牧子の家の塀の外で休んでいた。中に人の気配がするので、塀の崩れから覗いてみると、美しい娘が針仕事の手を休めて、桜の花を愛で、小鳥のさえずりを聞いている。そして歌などを詠んでいる。

兵部はその美しい姿を見て、目が離せなくなった。牧子はそんなことも知らずに、庭に降りたが、ふと、兵部と目があった。これまたポーとしてしまい、「この人に抱かれたいわ」と思った。そして、

   我門のそとにもさける卯の花を

       かざしのために折るよしもがな

と、歌を詠む。

外に立っている人を私のもとに引き寄せる方法はないかしら、との歌を聴いて、兵部の心も高ぶり、あり合わせの紙に2首の歌を書いて、塀の中に投げ入れた。

   いのちさへ身の終にやなりぬらむ

       けふくらすべき心地こそせね

   入りそむる恋路はすゑやとほからむ

       かねてくるしき我こころかな

あなたを思う苦しさに、今日にも命が終わりそうだ、という歌である。牧子は短冊に歌を書き投げ返す。

   あじきなし誰もはかなき命もて

       たのめばけふの暮れをたのめよ

今晩来てね、と返した。兵部はその短冊を持ち帰る。夜が待ち遠しいったらありゃしない。

                         続く

何しろこの先が良いところだから、今日はここでおしまい。プラトニックラブなんテエのはないんだね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

暑気払い 

8月27日(木)

実は今、28日早朝です。ですから、昨日の日記になります。簡単にすませます。

日記を書き出す前に、今日はじめにしたことは、ブログに附いたエッチさいとのトラックバックを消すことでした。トラックバックを全部確かめるなんてことはしていませんが、エッチサイト気がついたものは消すようにしています。この頃量は減りましたが、毎日のように附いてくるんですよね。誰か、私が助平だということを世間に言いふらしている人がいるんじゃないでしょうか?

午後、老人介護施設Kへ。新型インフルエンザのに神経を尖らせなければならないのが、このような施設。来訪者は手洗い消毒をして、使い捨てマスクをする仕組みになっていた。

夕方から、ボラグループの暑気払い。食事と飲み会です。

本当は昨日のうちにブログを書くつもりだったのですが、普段になく眠くなって、寝てしまいました。酒を飲むと、無性に眠くなることがあります。昨日がそうでした。それほど深酒をしたわけではないのですが、弱くなっているんだナア。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2009年8月27日 (木)

棒ノ嶺

8月26日(水)

現在8月26日午後11時57分。いろいろあって書き出しが遅れました。今58分。書き終わるのは明日になります。

山行、棒ノ嶺。

白矢沢コースを登り、仙岳尾根を経て落合に下山。狭山市からSさんの車で登山口へ。同行Hさん、Tさん、Kさん。

白矢沢コースは奥武蔵の登山道で、もっとも好きなコース。

Imgp1837

Imgp1840

両側から岩が迫る間の沢を登る。ゴルジュというらしい。

初心者を山好きにするにはもっとも良いコースだと私は思っている。とは言え、久しぶりの白矢沢、思っていたよりはきつかった。

下山は仙岳尾根から落合へ。昭文社の地図では波線になっている。急勾配が多く、棒ノ嶺を巡る他のコースと比べたら、楽とは言えない。道も、判断を強いられるところもある。

Imgp1847

こんな危険なところも。

落合の観光釣り場に下山。

Imgp1851

Sさんの車のバッテリーが上がってしまうトラブルがあり、帰りはバスと電車。Sさんは明日もう一度ここまで来ることに。車に関する知識のない私は、申し訳ない、ご苦労さん、と言うしかない。

狭山市で反省会。車のことを話したわけではありません。

御伽婢子は休みです。実況放送のように言うならば、現在、12時25分。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月25日 (火)

憧れは半分実現する? 歌の仲立ち

8月25日(火)

子供のころ、大人になったら何になりたいと思っていただろうか。長年生きてきたので、大方忘れてしまった。

透明人間なんかにはあこがれたネエ。あのころ透明人間になって何処に行きたいと思っていたのかナア。子供だから、まさか女風呂じゃああるまいし・・・。

少し長じては、詩人とか画家とかにはなりたかったね。但しこれは貧乏と結びついていました。芸術家なのに金持ちなんて言うのは、偽物のような気がしていました。芸術家になれるなら、貧乏でも良いと思っていたのです。

但し、何かになるために努力したことはありません。だいたい努力することが嫌いです。ただ漫然と憧れるわけですナ。

でもその憧れ、半分は実現しましたょ。憧れは、努力しなくたって、半分くらいは実現するのです。その証拠に、私は芸術家には成れませんでしたが、貧乏には成れました。                     

御伽婢子・84

歌の仲立ち・1

浅井了意の物語の主人公は、なんで美男美女ばかりなのでしょうか。これもまた、美男美女の話です。

永谷兵部少輔と言う者が、1條戻り橋付近に住んでいた。21歳になるイケメンで、風流人と言われていた。学問を好み、北畠昌雪法印のようにすぐれた学者のもとに通い、儒学を勉強した。

一方、神祇官の家の近くに裕福な家があった。もとは山名氏1族だったが、今は武門を捨て平和に暮らしている。その家に娘が1人いて、「牧子」という名前である。これがまた美女で、絵が上手で生け花が上手。歌の道も心得、風流を解した。

あるとき、兵部は書を持って、万里小路に詣でた。帰りに牧子の家の辺りを通る。塀の外で休んでいると、中に人の気配がする。塀の少し崩れたところから覗いてみると、ことのほか美しい娘が、縫い物の針を止めて、庭の花を眺め、小鳥の声に耳を傾けている。そして歌を作り、つぶやいた。

   ほころびて咲く花ちらば青柳の

      糸よりかけてつなぎとどめよ

やっと咲いた花が散ったらば、青柳の糸でつなぎ止めなさいと言う歌である。

                      続く

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月24日 (月)

意識の流れ 邪神を責め殺す・3

8月24日(月)

若い頃は、いつも何かを考えていた。何かを考えていたといえば偉そうだけれども、あの娘の気を惹くためにはどうしたらいいか、などと考えるいる時間が多かった。深い思索にふけっていたわけではない。ただ、気がつくと何かを考えているのだ。人間は、起きているときに何も考えていない時間なんてあるのだろうか、と疑問に思ったほどである。

それがいまはどうだろう。気がつくと、何も考えていないのだ。時々、少しは考えるけれど、あんまりまとまったことは考えませんね。何かを考えているときだって、常に雑念が入ってくる。

今ブログを書いていますが、意識は書くことに集中しているわけでもないのです。そう言えば冷蔵庫の野菜がもう無かったな、明日買いに行かなくちゃ、なんて思いが、ふとよぎります。それからあらためて、さっきまで書いていたことの続きを考えるのです。「考えるのです」と書いた尻から、何だか耳が痒いナアだとか、家の前の99円ショップは模様替えして明るくなったなあ、ァ、いま客が入った、テナ調子で、意識はあっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりします。

今日のブログは、意識がちゃらんぽらんに動くことを主題にしているけれど、何か一つのテーマで書くときだって、頭の中には関係のないことも浮かびます。そのようにいろいろと頭に浮かぶことの中からテーマにあったことを拾い上げて、何とかまとめるのが私のブログかな・・・いつだって、まとまった文章になんかなっていないぞ、テナ声が聞こえそうだ。だから今日も、まとめを書かずに、これで終わり。

御伽婢子・83

邪神を責め殺す・3

前回までのあらすじ 常陸の国、筑波山の麓に小さな社があって、そこの神は散米や御神酒を上げないで通りすぎる者には災いを与える。旅の僧、性海がお経を上げただけで通りすぎると、妖怪が後を追いかけてきて、とり殺そうとした。性海は何とか逃げ切って、鹿島明神に辿り着き、自分がなぜ追われたのか理由を知りたいと祈った。その世の夢に、明神が現れて、家来に言いつけて白髪の老人を連れてこさせる。明神はその老人を責める。「おまえも神の1人だ。なんで国人を苦しめるか。その罪は重いぞ」

老人は平伏して答える。

「確かに私は末社の神だけれども、大蛇に社を乗っ取られました。やむを得ず、傍らの木の根元を住みかにしています。災いを起こしているのはこの大蛇の仕業です。私はとてもこの大蛇を抑える力がありません」

「ならば、なぜそのことを訴えてこないのか?」

「この大蛇は妖術が巧みで、鬼神や悪霊を家来にし、私が訴えに出ようとすると取り押さえられ、住みかに閉じこめられます。今日は明神のお召しなので出てくることが出来ました」

話を聞いて明神はその社に軍勢を差し向けた。数時間後、軍勢は大木に大蛇の首をくくりつけて持ち帰った。その首は5トントラックにやっと積めるほどの大きさである。角は尖り、耳は大きなベニヤ板のようである。口は耳まで裂け、目は焼けただれた鉄板のようである。その目をふさがないで死んでいる。

「訴えはこれで解決」という声が聞こえて、性海は夢から覚めた。

性海が昨日の神社へ行ってみると、社も鳥居も焼き払われて、木も草も折れ、砕けて、300メートルもありそうな首のない蛇が横たわっていた。正夢だったのである。

                          終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月23日 (日)

甘利山・千頭星山

8月23日(日)

山の会、山行。

登った山は甘利山と千頭星山。

甘利山1731メートル。千頭星山2138.5メートル。

Imgp1785 Imgp1791

山梨県韮崎の広河原まで、マイクロバスで入る。売店のわきから入山。すぐにお花畑が広がる。

Imgp1829

広々とした高原状の道を爽やかな空気の中で歩く。足元に花、遠くに富士、落葉松の林の間に南アルプスや八ヶ岳の見える道。楽しい1日になりました。

Imgp1792

Imgp1802

林の中では、もう秋がはじまっている。

Imgp1795

帰りの中央高速は大渋滞。1000円効果かな。山を降りたのは2時。狭山市着は7時過ぎでした。

N市から参加のTさんが新潟土産の純米吟醸酒(越後与板衆)をわれわれ飲んべえに差し入れてくれました。渋滞の中、呑んだり喋ったり。

    

                                                                                           

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月22日 (土)

俳句大会 邪神を責め殺す・2

8月22日(土)

つばさ俳句会夏季俳句大会。会場は社会福祉協議会館。私は裏方。

小規模な大会ではあるが、狭山市、入間市、飯能市など、近隣の地で指導的な役割を果たしている人が参加してくれる。選句、披講、選評などを行い、午後2時頃から近くの蕎麦屋「溝呂木」に場所を変えて有志による懇談会。「春風」や「秋の風」も良いが、「8月くらいは『戦争の句』を」という意見も出る。

 兄いまも東支那海泳ぎをり  青野三重子

などという句は良い句だと思いました。

御伽婢子・82

邪神を責め殺す・2

前回のあらすじ 性海という僧が筑波山の麓の小社を、お経を上げただけで通りすぎた。ところがその性海を妖怪が追いかけてきて取り殺そうとする。やっと逃げおおせた性海が鹿島神宮に「なぜ自分が追われたのか、そのわけが知りたい」と祈って、軒下に寝る。

その夜、夢を見た。神殿の内陣が開き明神が現れる。

「汝が観音普門経を奉じたのは、しっかりと受け止めた。汝が真相を知りたいと願ったことは、間もなくあきらかになるであろう」

間もなく数十人の人々が空を駈けていくのが見えた。やがて、白髪の老人を連れてくる。

明神は言う。

「おまえも神の端くれだろう。なんで国家の人民を惑わすのだ。神を信じる者にむやみにわざわいをおよぼすなど、もってのほかだ。ましてやうやまいながら通る人にまで難儀させる。ここにいる旅人もお経を奉納したではないか。それなのに妖怪に追いかけさせるとはなんたることか? その罪は軽くないゾ」

                     続く

明日山行なので、準備があります。そのため、今日はこれでおしまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月21日 (金)

何だっけナア 邪神を責め殺す・1

8月21日(金)

何だっけナア。

近ごろこれが多いんです。さっきやろうと思ったのは何だっけ? 今朝の食事のおかずは何だっけ? あれ?俺が探しているのは何だっけ? テナもんですね。

その一つに、ブログで書く内容があります。さっきまであることを書こうと思っていたのに、今は思い出せません。何だっけナア。

近ごろは「俺も惚けがまわってきた」と口にします。半分は本気ですが、内心は、まだ本当の惚けではないという気持ちもあるわけです。でも、あやしいんだよねこれが・・・。人間は必ず死ぬ。私くらいの歳になれば、いつ死んでもおかしくはない。でも、明日死ぬと思わぬところが甘いのです。惚けも同じ。まだまだと思っているうちに、敵は後ろから近づいてくる・・・のかな?

今日のボラは特養老人ホームS。痴呆症の進んでいる人が相手だった。いつも行っているので顔見知りの人が多い。ああ、この人は前よりも進んでいるなあ、と感じることもしばしば。

認知症の人には、そんな言葉は知らないとしても、自分が認知症になった悲しみがあると思います。惚けたから何も分からないというのは間違いでしょう。

知的障害でも同じです。自分が充分に知的に発達できなかったという悲しみが、本人が意識するしないにかかわらず、あると思います。不治の病にかかった人が持つ悲しみと、それは同じです。認知症の人も、知的障害の人も、それを言葉で表せないだけだと私は思います。

話はまるっきり変わりますが、炎天下の道路工事で地べたを叩いている人と、冷房の効いた部屋でマネーゲームをやっている人とを比べると、本当に社会に役立っているのは、地べたを叩いている人の方だと思うのです。しかし、地べたを叩いている人は、人に馬鹿にされる存在です。辛い仕事に堪えて、食うや食わずの生活を送るのです。安楽椅子に座る人々は、落ちこぼれは本人のせいだと言います。少し環境が違ったら、自分が地べたを叩く方にまわっていただろうなどとは、考えがおよばないのです。

話しが横滑りしちゃったけれど、いつものことです。

御伽婢子・81

邪神を攻め殺す・1

常陸の国(茨城県)笠間郡の荒野に小さな祠がある。後ろには筑波山が迫って社はいつも日陰である。前には沢があり、水は深く、藻が覆っている。その辺りは常に雲が覆い、小雨が降っている。

人々はこの社の神を畏れて、傍を通るときには、必ず散米をし、御神酒を供える。さもなければ、必ず祟りに会う。

明徳年中(1390-1394年)岐阜の僧、性海という者がこの地を通った。元より修行で諸国行脚をしている身なので、袋の中には何の蓄えもない。ただ礼拝しいて、お経を唱えて通りすぎた。

ところが1キロばかり行くと、道が不明になり、あちこち探し歩いているうちに、急に大風が吹き出した。砂を巻き上げ、石を飛ばし、黒雲は空を覆い、霧が立ちこめる。何か怪しげな声を上げて、後ろから追いかけてくる者がある。振り返れば、見たこともないような妖怪が大勢でこちらに迫ってくる。

性海は必死に逃げた。化け物のために命を落とすかも知れないという恐怖に駆られ、お経を唱えながら、ただひたすらに逃げた。どうにかこうにか鹿島明神の社まで逃げると、化け物は去り、雲は切れて晴間が現れた。

性海は鹿島明神に祈りを捧げ、先の社でお経を唱えたのに、なぜ自分を殺そうとして妖怪が追いかけてきたのか、その理由を教えて欲しいと祈った。先の社は邪神を祭っているのか、それとも自分に誤りがあったためなのか、その理由が知りたかった。

その夜は疲れ果てて、他に行く当てもなかったので、、鹿島明神の軒下に寝た。

                            続く

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月20日 (木)

蝉を釣る ひげ長の国・3 

8月20日(木)

一口に釣りと言えば相手は魚だけれど、トンボ釣りなんて言葉もある。鯉釣りもあって、「出てこい出てこい陸の恋」などと言う。と、まあ、これは冗談だけれど、蝉釣りなんて、人は言いません。

でも私は子供のころ、蝉釣りをやりました。親の蝉を釣るのではなく、今夜脱皮しようとする蝉を釣るのです。

誰でも知っていることですが、蝉は6年か7年土の中で生活し、陸上に出てくると1週間くらいで死ぬんですってね。鳴くのは雄で、親になって4日目くらから鳴き出すのだそうです。雄だけ、死ぬ少し前だけ鳴くんです。それにしてはうるさいね。

  頓(ヤガテ)死ぬけしきは見えず蝉の声  

言わずと知れた芭蕉の句。

  蝉時雨命の限り声限り  

言わなきゃ知らない、ぼんくらカエルの句。

蝉の命が果てるとき、ジジと鳴いて落ちてきます。鳴かないのもいるんだろうけれど、とにかく落ちてきます。落ちたときに完全に死んでいるかと思うと、そうではなくて、触ると羽ばたいたり、鳴き声を上げたりします。まだ命のあるうちに落ちるのです。

蝉が親になる日、地上に出て脱皮しますが、その時の抜け殻は、すでに命はないのに、木の幹などにしっかり爪を立て、まるで意志があるように掴まっています。落ちる蝉とは対照的です。

地下で過ごして7年、今日地上に出ようとする蝉は、地表に向けて穴を掘ります。ありの穴くらいの大きさに、地上に穴を開けます。夜になったらそれを広げて、自分が出られるくらいの穴にして、のこのこと這い出して、樹の幹などにとりつくのです。

蝉が這い出す季節になると、大きな木のまわりにいくつもの穴があきます。直径が1センチくらいの丸い穴が沢山ある樹を探しましょう。但しその穴は、すでに蝉が這い出してしまった穴です。そんな穴の多い樹のまわりに、直径が3ミリくらいのを見つけたらしめたもの。それが今夜蝉が這い出す穴です。夕方、蝉の出る樹の傍で、その小さな穴を見つけるのです。見つけたらその穴を少し広げて木の枝を差し込んでやると、今夜脱皮しようとしている蝉が釣れるのです。

釣った蝉を枝ごと持ち帰って観察すれば、脱皮が見られるでしょう。脱皮する前の蝉に触ってはいけません。上手く脱皮できなくなったり、脱皮しても羽根が縮んだままで伸びなかったりします。経験したので知っています。脱皮した蝉ははじめは白いのですが、朝日に当たると、成虫の蝉の色になります。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・80

ひげ長の国・3

前回までのあらすじ 越前と北海道の間を行き来して商売をしていた商人が、難破してひげの長い人達が住んでいる国に流れ着いた。国主に気に入られ、そこお姫様と結婚し、幸せに暮らしていた。しかしある日、国主が竜王に召されて、生きて帰れぬと言う。商人は国主を助けるために竜宮に行く。そして龍神に国主の釈放を願い出る。

商人は、

「東海第3の海域、第7の島の国主を帰したまえ」

と願う。龍神は役人に調べさせて答える。

「そのような島はないぞ」

「いいえ、長ひげの国があります」

龍神は役人にもう1度調べさせた。役人は言う。

「その海域は、エビの住んでいるところです。昨日、食料にするためにエビを釣り上げました」

竜王は笑い出した。

「おまえは人間なのに、エビに騙されたのか。われわれはむやみに食料をとっているわけではない。天帝から許された物しか獲りはしない。だからそのままにしても良いのだけれど、わざわざ命乞いに来たのだから、おまえの顔も立ててやろう。料理番のと一緒に台所へ行って、見つけたらそれを放してやりなさい」

商人が料理番と共に台所に行くと、さまざまな食材の中に、ひときは立派なエビがあった。商人を見ると、跳ね、踊って、涙を流し、まるで助けてくれと言っているようであった。

商人の願いで、龍神はそのエビを放してやり、商人を龍の背中に乗せて日本に送り返した。

                         終わり

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月19日 (水)

飯能まで入間川の散歩

8月19日(水)

Tati0013_2

Tati0011

Tati0012 先日、仏子から狭山市まで、入間川の岸を散歩しました。今日は仏子から先、飯能までの散歩です。ちょうど12時頃家を出ました。

昼食は、途中でパンでも買って食べるつもり。昼食よりも大切なのはアルコールで、これも一緒に買うつもり。

市街図を見ながらの散歩ですが、川の土手の道なんて手持ちの地図には描いててないんだよね。川越狭山自転車道のような道があればいいのだけれど、入間市から先は土手の道は寸断され、歩けないところも多い。地図を見ながら右岸を歩いたり左岸を歩いたり、時には川から離れて一般道を歩いたりしながら、何とか飯能の加治まで行く。

仏子駅を出て中橋というのを渡り、元加治近くで上橋というのを渡る。そして最後が加治橋である。上橋付近の風景はなかなかでした。1枚目のスケッチに3本の橋がありますが、1番下の橋が上橋。そのほかのところも、それなりに、まあまあの景色です。

Tati0010

今日は、描いたスケッチを全部載せちゃった。

こんな下手なスケッチ、しょうがないんだけれど、載せたくなるのは自己愛だね。もちろんアルコールも、ちびりちびりやりながら描いているのです。

ついでに言えば加治橋から飯能駅に向かう途中に五十嵐酒造があり、寄ってみると「天覧山」という酒の製造元がそうです。さっそく1本買いました。

上橋のあったところは、大山街道(鎌倉裏街道)で、昔は船の渡しがあったのだそうです。明治45年に橋を造ったのですが、その経費捻出のために料金を取ったそうです。その額。

徒歩    1人   5厘

       但し3歳以上10歳未満は半額

牛馬    1匹   1餞

荷牛馬車 1輌    1餞5厘

人力車   1輌   1餞

御伽婢子は休みます。

 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年8月18日 (火)

景気って何? ひげ長の国・2

8月18日(火)

精障者作業所Mへ。

景気が良いとか悪いとかの決め方って、私などの理解を絶する方法で決めるんですね。

江戸時代、明治時代、あるいは戦後まもなくのころまで、景気が良いというのは、庶民に金回りが良いと言うことだったと思います。経済的に庶民が楽になることを、景気が良いと言ったのではないでしょうか?

それが近ごろは違うんですよね。驚いたことに、現在は景気が上向きなんだってサ。給料は下がっている。雇用状況は悪化を続けている。暫く回復しそうもない。それでも景気は良くなっているんだって。

現在の景気という奴は、庶民とは関係のないところにあるんだね。せめて雇用状況だけでも改善されているならまだしも、それすら悪化しているんだもん。その上、働いたって、ワーキングプアーが増えている。格差は拡大し、この日本で、にっちもさっちもいかなくて自殺する人が増えている。それでも景気は回復しているんだって。一体これは何? 資本主義は袋小路に入っちゃったの?

御伽婢子・79

ひげ長の国・2

前回のあらすじ 北海道と越前を往復して商売をしていた商人とその船が、嵐で漂流し、ひげの長い人の住む島に着いた。島の国主は商人を歓待し、娘と結婚してくれと頼み、商人は快諾する。

国主は言う。

「今夜は満月だ。酒宴遊興の時だ。唄え、踊れ」

姫君が女房20人あまりを連れて出てきた。皆美しいのだけれども、女なのにひげがある。商人は1首を詠む。

   さくとても蘂なき花はあしからめ

       妹がひげあるかほのうるはし

しべのない花が咲いてもつまらない、ひげのある女の顔が美しい。国主が笑ったので、満座の者もどよめいた。姫と女房は恥ずかしげにしていた。

この夜、商人は役所の長を任命された。

3年が過ぎた。その後の商人は栄華を極め、人々の尊敬も集まり、ひげのある妻にもなじみ、1男2女を儲けた。

ある日、家中の者がこぞって嘆き悲しみ、妻も悲しみに沈んでいる。一体どうしたことだろうか。家中がひっそりとして音もない。商人が妻に理由を聞くと、

「昨日、海竜王の召しによって、私の父は竜宮に行きました。もう2度と生きて帰ってくることはないでしょう。だからみんな悲しんでいるのです」

商人はびっくりして言う。

「何とか手だてを尽くせば助かる方法があるんじゃないか。そのためには私は命がけでやるよ」

「この難儀はあなた以外に救える人はいません。お願いです。竜宮に行ったくださいな。そして、竜神に次のように言ってください。『東海の第3の海、第7の島、ひげ長の国が滅びようとしています。哀れみを持って国主を帰してください』。竜神は邪悪な者ではありません。ぜひ竜神にお願いして、この嘆きを喜びに代えてください。どうか、一刻も早く竜宮に行ってください」

商人は数人の家来と道案内を連れ、竜宮に赴いた。

竜宮のある島の砂浜は、みな金銀である。人々は体も大きく、着ている物も立派である。竜宮は聞きしにまさる立派な御殿で、玉のきざはしに進むと、龍神が迎えてくれた。

「役所の長というのはおまえか。何の用があってここへ来たのだ」

商人は、第3の海、第7の島の危機について述べ、国司の解放を願いでた。

                          続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月17日 (月)

雑感 ひげ長の国・1

8月17日(月)

精障者作業所Mへ。

昨日の昼、何気なくテレビを付けたら、2人乗りの自転車で旅をする番組をやっていた。そして今流行の「布ぞうり」のことを「わらじ」と言っている。テレビに登場する人物が「わらじ」と言い、ナレーターが「わらじ」という。それをテレビで流すのだから、その番組制作の関係者が、「ぞうり」と「わらじ」の区別がつかないと言うことだ。

言葉は生き物。時代によって代わっていくのだから、仕方がないんでしょう。

このところ芸能人が亡くなったり、麻薬でつかまったりと、話題が多い。最も多く取り上げられているのが酒井法子の麻薬問題。でも、私にとって一番大きな問題は、大原麗子が亡くなったこと。白馬童子(芸名は何だったっけ)もなくなったけれど、やはり大原麗子だな。ファンでした。女優が亡くなって淋しい感じがするのは、夏目雅子以来です。

いつも選挙の時期になると、某宗教団体の人が、投票を頼みに来る。これまで1度も入れたことはないけれど、「ああそうですか。はい、はい」ってなことをいっていた。しかし、もう歳なので、愛想のいい顔をするのもいやになった。今回初めて「いやです、入れません」とお断りする。

それにしても、今度の総選挙、民主党のひとり勝ちになるのだろうか。今度は政権交代をしてもらわなければ困ると思っているけれど、右でも左でも、人々が一定の方向に、わーっと流れていくのは心配だな。われわれ日本人は、集団ヒステリーにかかりやすいような気がしている。

戦争中はみんな熱狂して「鬼畜米英」などと叫び、「大和魂」という精神力で戦争に勝つと信じ、戦後はアメリカ崇拝になった。やがて今度は安保反対で熱狂し、郵政改革では何が何でも小泉だった。みんな集団ヒステリーだ。

そのうち、どこかの国を「討つべし」なんて言うんじゃないだろうね。

御伽婢子・78

ひげ長の国・1(御伽婢子第8巻)

    原作   浅井了意

    現代語訳  ぼんくらカエル

越前の国、北の庄に1人の商人が住んでいた。毎年木綿、麻布を持って松前(北海道)に渡り、昆布や干しアワビと交換して持ち帰った。

ある年、松前に向かう船が嵐に遭い、帆柱は折れて漂流を始めた。幸いにも一つの島に流れ着き、上陸することが出来た。人家はないかと思いながら岸から500メートルも歩いただろうか、多くの人が立ち働く人里を見つけた。

その人たちは、みんな髪が短くてひげが長い。どうやら日本語が通ずるようである。

「ここは何という国ですか」

「長ひげ国」

「国主は何処にいますか」

「1里ばかり先」

住民に教えられていって見ると、なるほど立派な城郭がある。商人が惣門に近づいたら、門番たちが商人に向かって丁重にお辞儀をする。そして見慣れない装束ではあるが正装した者が出てきて、商人を奥に招き入れた。

宮殿の様子は、天上から床まで、金銀をちりばめ、宝石を飾り、紫檀、黒檀、白檀などの香木をふんだんに使い、きらびやかなこと、このうえもない。

「大日本国より、珍客が来られた」

国主の知らせで、一族の者がぞくぞくと集まってきた。いずれも、背が低く、髪は短くひげが長い。幾分か腰が曲がっているように見える。

黄色の栗、紫の菱をはじめとし、山の珍味がうずたかく積まれた。まことに美味で、人間界の食べ物ではない。ただ不思議なことに、海のものがなにもない。

国主は水晶の盃に銘酒を酌み、菊の花を浮かべて商人にすすめて言う

「私には娘が1人ある。あなたはここにとどまって、婿になってくれませんか。栄華は欲しいままですよ」

「仰せに従います」

商人は国主の婿になることが嬉しくてしょうがない。盃を数杯傾けた。

                            続く

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年8月15日 (土)

敗戦日 菅谷九右衛門・2 

8月15日(土)

敗戦の日

今日、普通には終戦記念日と言うようです。でも私は、敗戦の日、あるいは敗戦記念日と書きます。確かに終戦記念日に違いないのですが、日本が負けて終戦になったわけです。その負けたことを曖昧にするように終戦記念日といいだしたのではないか、と私は疑っています。言葉を代えることによって「事実を直視するのを避けようとする」、そんな気がするんです。嫌なことでも何でも、事実をきちんと直視することが、人間には必要だと私は思っています。

「おまえにそれが出来ているのか」と言われたら「ごめんなさい」とでも言うしかないのですけれども、言葉のあやで直視を避けようとするのには、抵抗感があります。辛いことでも知られたくないことでも、事実は事実で、しょうがないんだナ。

例年通り、T寺の和尚さんがお経を上げに来てくれる。

その後でどこかに散歩と考えていたのだけれど、テレビで、戦争関連の特集が次から次にあり、結局、家から1歩も出ずにを1日終わる

御伽婢子・77

菅谷九右衛門・2

前回のあらすじ 伊勢の国の柘植三郎左衛門と滝川三郎兵衛は国司の悪政に愛想を尽かし、信長に内通し、国司を滅ぼし、伊勢を信長の国とした。これによって地位を得たが、伊賀の国の反乱で戦死する。1年後、信長の家来、菅谷九右衛門は思わぬところで2人に会う。死んだはずなのにと不審に思って声をかけ、道ばたにござを敷き3人で酒盛りを始める。

酔いが回ったところで、滝川が言う。

「人間は貧しいときは豊かになることを願い、地位が低いときは高くなることを望む。しかし、富貴になると必ず危ない目に遭う。そうかと言って元の地位に帰ろうとしても、なかなか思うにはまかせない。富貴のまま天国に行くなどは、ちょっとやそっとで出来るものではない。後の世に名前を伝えられるほどの手柄のある者ならばともかく、大概は恥を残すことになる。織田家だけを考えてみたって、織田掃部はたいそう勲功のある者なのに、誅せられた。佐久間右衛門は信長公草業の時からの忠臣なのに、追放されて恥にあった。ましてわれらごとき途中からの家来では、その先は知れたものではない」

さらに滝川は言葉を継ぐ。

「下間筑後守(シモヅマチクゴノカミ)は越前の朝倉に味方をしたけれども、朝倉が敗れてからは、平泉寺に隠れて跡をくらまし、仏法に帰依して道人になった。こんな歌を作っている。

    梓弓ひくとはなしにのがれずば

        今宵の月をいかでまちみむ

戦に明け暮れていたら月の出を待つようなことは出来なかったと、名を捨て道を究めた。荒木摂津守の家来、小寺官兵衛は主君の乱心を諫めきれずに、髪を落として僧になった。こんな詩を残している。

    四十年来謀戦功

    鉄冑着尽折良弓

    緇衣編衫靡人識

    独誦妙経殉梵風

(ヨンジュウネンライセンコウヲハカリ、テッチュウヲツクシテリョウキュウヲオル、シエヘンサントナビキヒトノシルコトナシ、ヒトリアキラメテミョウキョウヲヨミボンフウニシタガウ)

戦を捨てて仏法に従ったこれら2人、逆心の君に仕えながらもよく災いを逃れた。思慮の深いではないか」

柘植は笑っていった。

「伊賀の反乱などは、大した事件ではなかった。そんな例を挙げては、われわれの方が恥ずかしい」

滝川が答える。

「いや、今はそれを言うときではない。とにかく呑みましょうや」

更に3人は盃を重ねた。菅谷は2人に向かって、「今の気持ちを歌にしてくれ」頼んだ。と

柘植の歌。

    霜露ときえての後はそれかとも

       くさ場より他しる人もなし

滝川三郎兵衛の歌。

    うずもれぬ名は有明の月影に

       身はくちながらとふ人もなし

いずれも死んでからは思い出してもくれない、と嘆く歌である。

やがて酒がつきたので、2人は別れを告げた。50メートルくらい歩いただろうか、二人の姿は、跡形もなく消え失せた。そこでやっと、菅谷は二人が討ち死にした者であることを思い出した。菅谷は帰宅してから、僧を招いて、2人の霊を懇ろに弔ったということだ。

                        終わり

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月14日 (金)

私も夏休みです 菅谷九右衛門

8月14日(金)

私は仕事をしていないわけですから、毎日が日曜日みたいなものです。それでも、ボランティアをしたり、趣味の会へ行ったりで、何かしらやることがあります。ところが今週はそれらもなくて、私も夏休みです。

昨日、お墓参り。明日、お坊さんがお経を上げに我が家に来ます。それだけが用事で、後は家事くらいのものです。

Tati0009

毎度おなじみの入間川のスケッチです。

少し暑かったのですが、西武電車で仏子駅まで行き、そこからなるべく入間川沿いに歩くようにして、狭山川越自転車道まで、何とか繋いでみました。残念ながら川の土手ばかりで歩き通すというわけにはいかないようです。

御伽婢子・75

菅谷九右衛門

天正年中(1573-1592年)のことである。

伊勢の国の国司は具教(トモノリ)公でその御所を武井の御所と言った。国司の甥は民部少輔具時(トモトキ)と言い、南伊勢の木作りと云うところに住んでいた。

具時の郎党に、柘植三郎左衛門および滝川三郎兵衛という者がいた。二人とも、武勇、知謀にすぐれていた。

国司具教、甥の具時共におごりがあり、百姓を苦しめ、おべんちゃら言うものを可愛がり、国の行く末も危なく思われた。そこで二人は、信長に内通し、国司を滅ぼし、信長に認められて、高い地位を得た。

隣国伊賀に反乱が起こり、武井の残党や近郷のあぶれものなどが集まり、要害に立てこもった。信長はこれを討とうとしたが、敵もなかなか強くて、柘植と滝川は討たれてしまった。その後、反乱者と信長の和議が成立し、伊賀は信長のものとなった。

それから1年ほどたったとき、信長の家来、菅谷九右衛門が所用で山田郡に行ったとき、柘植、滝川の2人にばったりと出会った。2人は死んだはずなのに、夢でも見ているのかと声をかけた。

「柘植さんと滝川さんではありませんか?」

「やあ菅谷さん。こんなところで会いましたか。久しぶりですねえ。酒でも飲みましょうや」

柘植はそう言うと、小僧に小袖を持たせて、酒を買ってこさせた(つまり、物々交換です・ぼんくらカエル註)。3人は酒屋に借りたむしろを道ばたの草の上に敷き、酒盛りを始めた。

                             続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月13日 (木)

早朝散歩 墓参 死んでからも愛し合う・3

8月13日(木)

早朝散歩

朝5時過ぎ、ゴミ出しをした。空気は爽やかで、急に散歩を思い立った。

5時45分、半袖、半ズボンで家を出る。目的地は智光山公園。家の横の道をまっすぐ進むと、智光山公園の裏に出る。いつもの散歩コースである。

西武線を横切り、国道16号を横切り、入間川の橋を渡る。ここで気が変わって、入間川沿いに歩くことにした。但し朝食前に帰るのだから、遠くまでは行けない。Tati0009   

散歩コースの変更には、別段理由はない。気分の問題です。

遠くの空で陰のような者がふわっと動いたような気がしたがすぐに消えた。こんな時私は、アル中で幻覚が見えたるようになってしまったのかと、一瞬心配になる。しかし事実は、多数の鳥が空を旋回しているだけでした。こちらの目が悪くなっているせいもあるのでしょうが、角度によって鳥の集団が、見えたり消えたりするのです。

鳥と言えば、入間川の流れの中の石の上に、羽根を広げて動かない鳥がいました。誰かが模型でも置いたのかと思いましたが、じっと見ていると、たまに首を動かしたり、体の向きを少し変えたりします。どうやら風の方向に向かって羽を広げているようです。羽根を広げるのは飛び立つときだと思っていたのですが、違う場合もあるのですね。

それにしても、この鳥は何でしょうか。クロサギにしては、首や足が短いと思いました。家に帰ってから図鑑で調べてみると、カワウという鳥が、羽根を乾かすためにこんな格好をするんだそうです。この鳥を見たのが、今朝の早朝散歩の第1の収穫かな。

7時10分帰宅。1時間25分の散歩でした。

墓参

お彼岸の墓参。わが家の墓は高尾なので半日はかかります。他の季節だと、墓参の後、高尾山に昇ってみたり、なんやかやその辺の散歩をしたりするのですが、何しろ暑いので散歩はカット。

代わりに国分寺で「殿ヶ谷戸公園」に寄りました。駅からすぐで、湧水池と樹木が多いのがよい。

Tati0011

 

Tati0012

御伽婢子・74

死んでからも愛し合う・3

前回までのあらすじ 奈良の桜田源吾は猿沢の池で見かけた娘に恋をし、相思相愛になった。源吾の伯父はその娘を息子彦八の嫁にと、仲人を立てて申込み、親の承諾を得た。源吾と娘は駆け落ちしたが、役所の裁定で、娘は彦八の嫁となる。落胆のあまり娘は死んでしまうが、源吾はそれを知らず、もう娘は俺のことなど忘れただろうと嘆いている。

ある日の夕方、源吾の家の戸を叩く者がある。開けてみると、娘とその乳母である。娘の姿は、昔と少しも変わらない。娘は言う。

「彦八さんの家にいても、あなたのことばかり思い出されて、辛くてしょうがなかったの。だから逃げてきました。またこの家に置いてくださいね」

源吾は嬉しくて嬉しくて、娘と手を取り合って泣いた。

暫くして、彦八の家の者が郡山に来たとき、源吾の家の前で、乳母を見かけた。それを彦八に告げたが、にわかには信じがたい。乳母も娘と前後して死んだのに、源吾の家にいるはずがない。半信半疑で源吾の家を覗いてみたら、確かに、かっての妻とその乳母がいる。

彦八は家に入り、源吾にいった。

「妻と乳母はとうに死んで、墓の中にいる。それがここにいるとは怪しいことだ」

彦八はなにを言うのだと思って、源吾が部屋の方を見ると、妻と乳母は、跡形もなく消えていた。

それまで一緒に暮らしていたのは、幽霊だったのである。

その後、源吾と彦八は高野山に籠もり、再び山を出ることはなかった。

                       終わり

ぼんくらカエルの一言

テレビで言っていたが、どこかでアンケート音ったら、幽霊を信じる人の方が、信じない人より多いんですってね。ほんとかなあ。幽霊を信じるなんて、1割にも満たない少数派だと思っていたのに。

私は御伽婢子の現代語訳をやっていても、お話として書いているだけで、全く信じません。見たら信じますけどね。それでも、幻覚と思うかもしれません。                                          

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月12日 (水)

盗むこと 死んでからも愛し合う・2

8月12日(水)

盗むと言っても、泥棒のことではありません。

昔、職人の技術は盗むのが基本でした。芸人の世界でも同じだったでしょう。

昔、親がその子を職人にしようと思えば、10代のうちに親方のもとに送り込みました。その子は見習いとして、使い走りをしたり、子守をしたり、さまざまな雑用をしながら、親方や兄弟子たちの仕事ぶりを見ました。まだ仕事を与えられなくても、見習いは内心の欲求によって、頭の中で親方や兄弟子たちと、一緒に仕事をしているのです。ですから見習いが、始めて単純な仕事を任されたとき、すでに素人ではないのです。

近ごろは、住み込みで雑用をしながら仕事を覚えるなどと言うことは無くなりました。職種によっては、学校で教えるなどというのも多くなりました。良いか悪いか分からないけれど、時代による変化ですね。

特殊な技術になると、父子相伝とか一子相伝、などと言うこともありました。他の弟子には教えず、自分の子供だけに教えるのが父子相伝。さらには、子供のうちのひとりにしか教えないというのが一子相伝。

そうして家業を守ったりしたんですね。今そんなことをしたら、技術自体が滅びます。一子相伝の技術などは、それこそ盗まなければならなかったわけですけどね。

御伽婢子・73

死んでからも愛し合う・2

前回のあらすじ 奈良の桜田源吾は、猿沢の池で見かけた娘を見初め、娘の方でも源吾を好きになった。伯父の津田長兵衛はその同じ娘をわが子彦八の嫁にしたいと考えた。仲人を立て、正式に申込、娘の親もそれを受け入れた。しかし娘が病気になったことから源吾のことを知り、娘のために2人を駆け落ちさせる。

さて、仲人が縁談を進めようとすると、、母は、娘が乳母と共に誰かにさらわれたという。その話を聞いて津田は、源吾が娘に懸想していたことに気づいていたので、さては源吾だなと思った。

そうこうしているうちに、娘の母は病でなくなった。その弟が後を取り仕切ったが、源吾夫婦も陰ながら野辺の送りに出た。それを見つけた津田が二人の後をついて行き、郡山に棲んででいることを見届ける。

津田は奈良の役所に訴えて、源吾と対決した。津田の方が正式な仲人を立てているので、源吾に勝ち味はなかった。娘は彦八の妻にされてしまった。

娘と乳母は深く悲しみ、病気になり、2人とも間もなく死んでしまった。彦八も大いに悲しみ、2人の墓を同じ寺に作り、懇ろに弔った。

そんなことを知らない源吾は、今頃娘は、私のことも忘れて、彦八と仲良くやっているだろうと考え、ひたすらに恨めしかった。

    なびくかと見えしもしほの煙だに

         今はあとなき浦かぜぞふく

私に靡くと見えた塩焼きの煙は跡形もなく消えて、今は風が吹くばかり、などと嘆いていた。

                           続く   

| | コメント (1) | トラックバック (4)

2009年8月11日 (火)

無駄は無駄ではない 死んでからも愛し合う・1

8月11日(火)

いつも書くことだけれど、私は、やらなければならないことはやりたくないし、やらなくても良いことはやりたくなる。小学生のころからそんな性格でした。勉強は嫌いではなかったと思いたいのですが、学校の勉強はしたくありませんでした。

いつかも書いたと思うけれど、中学3年の夏休み、岩波文庫の「哲学史」上下2巻を買ってきて、ノートをとりながら読みました。今読んだって分かりっこないものを、当時の私に分かるはずがないのです。そんなことをしたって、別段学校の成績が上がるわけではないし、無駄と言えば無駄なんです。

でも、「哲学史」を読んだことは、その後なにかと役に立つことがありました。読んだことが財産になったんです。たとえば読んでいる本の中で、「スコラ哲学」なんて言葉が出てきても、ははあ、なんて思うわけです。「弁証法」なんて言葉を見ると、ソクラテスやヘーゲルやマルクスを思うわけです。どの弁証法だ、なんてね。

なーに、今だって分かりゃあしないよ。感じるわけだ、なんとなく。

と、まあ、大層なことを書いたけれど、何のことはない、今日は掃除をしたのです。家事の中で、一番したくないのは掃除で、1日のばしにしていて、埃が目立ってきて、どうにもならなくなって掃除をするのです。

そして、やらなければならないことはやりたくなくて、やらなくても良いことはやりたがる自分の性格を、再確認したわけです。

掃除は、やらなければならないことでした。やらなくても良いこととは、たとえば今日これから書く「御伽婢子」の現代語訳です。こんなもの誰に頼まれたわけでもないし、誤訳、珍訳何でもありの現代語訳なんて、わざわざ下調べまでしてやるなんて、時間も労力も、無駄のようなものです。

まあ、しかし、ここで私は居直るのです。人生は、無駄も含めて人生である。無駄のない人生なんて、山葵の効かない刺身みたいなものだ。どんな無駄をしているかと言うことで、その人の人間性が分かる場合だってある。それに、大きな意味で言えば、無駄というのは、本当は無駄ではないのだ。なんてね。

御伽婢子・72

死んでからも愛し合う・1

奈良に桜田源吾という者がいた。25歳になるが独身で、父母は既に亡く、独りで住んでいた。源吾には津田長兵衛という伯父がいて、伯父もまた源吾と同じ歳の子供を持っていた。彦八である。源吾と彦八は仲がよかった。

あるとき、源吾は東大寺に詣で、帰りに猿沢の池にさしかかった。見ると美しい籠が池の縁に泊めてあり、中から白い手を伸ばし、幾分赤みを帯びた指で鯉に餌をやっている。

源吾が立ち止まると、女は乗り物の戸を開いて源吾を見た。なかなかの美人である。やがて女はお付きの者に籠を担がせて立ち去った。源吾はそれとなく後を附いていくと、3条通りの筒井という者の家に入った。

源吾は娘のことが気になって、いろいろと手ずるを求め、その様子を調べると、幸いなことに、娘の乳母は源吾の知っている人だった。娘の父は河内の戦で討ち死にし、母ひとり、子ひとりであるという。

源吾は乳母に、二人の仲を取り持ってくれるように頼んだ。源吾は美男子であるし、金持ちでもある。それを知っている乳母は、快く引き受けてくれた。

源吾は、

   いさり火のほのみてしより衣手に

         磯辺のなみのよせぬ日ぞなき

「一目見てから忘れられません」といった意味の歌を書いて、乳母に持たせた。娘はその書き付けを乳母から受け取ると、顔を赤らめて、袂に入れた。

ところで、その娘のことを、伯父の津田長兵衛が聞き知り、彦八の嫁にしたいと、正式に仲人を立てて申し込んだ。津田も武門の末で、立派な人なので、娘の母は、彦八と結婚させることとした。

娘は鬱々として楽しまず、乳母には、

「源吾さんのところに行きたいわ。それが出来ないなら死んだ方がまし」

と言ったきり食事もとらず、薬も飲まない。乳母に聞いて、始めて事情を知った母は、何とか娘を助けたいと考えた。そこで乳母と心を合わせ、源吾と娘を駆け落ちさせることに決めた。

源吾は大いに喜び、娘と乳母を連れて、郡山と言うところに隠れ住んだ。

         

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 9日 (日)

横瀬町散歩とカタカナ語 霊魂と契る・3

8月9日(日)

Tati0009

秩父の横瀬町の散歩。散歩と言っても、たいして歩いたわけではなくて、ウオーター・パークでスケッチをして、武甲の湯に入って帰ってきただけ。それにしても、「水遊び公園」とか「親水公園」とでもすればいいのに、「ウオーター・パーク」なんて名前を付けるのは、どういう神経なのかねえ。

何の意味もなく、カタカナを言いたくなるのが、時代の雰囲気なのですね。白状しますが上の段で「なんて名前を付ける」と書いたとき、私の頭には、「ネーミング」という言葉が最初に浮かびました。私もカタカナ語に毒されていると、時々思います。

漢字は日本語を豊かにしました。大和言葉だけではわれわれは自分の考えや経験を表現できないでしょう。理論的な文章も書けないでしょう。

カタカナ語は、日本語を豊かにしていると言えるのだろうか。学術論文などでは、どうしてもカタカナ語が必要なこともあるのでしょう。しかしそれだって、日本人相手に書く場合には、何とかして日本語に訳す努力をすべきではないかと私は思います。

今の人は、カタカナで表現する方が格好良いと思っているんだよね。戦前の人が、庶民には分からないような難しい言葉や漢字を使うことが、格好良いと思ったようにね。

文章でも講演でも、わかりやすさより、なんだかよく分からないけれどもなんとなく良さそうだ、と感じさせるのが良いんだね。受け取るわれわれの方も、理解して動くよりは、なんとなく、感じで動くことの方が多いからね。

スケッチは、ウオーターパーク。

御伽婢子・71

霊魂と契る・3

前回までのあらすじ 小山田記内は家の前を通る美人と懇ろになる。やがて女が記内の家に来て忍び会う仲になった。半年ばかりする内に、女は昼間も公然と記内の家にいるようになった。

ある夜、いつものように女は来たが、どうにも浮かない顔をして、涙ぐんだりしている。

「どうしたの?」

記内が聞けば、

「もう、別れなければならなくなりました」

と答える。

「何だって! いついつまでも心変わりしないと誓った仲なのに、なんでそんなことを言うんだ」

「今はもう隠しておけません。本当のことを言います。実は私、3年前、17歳で死んでいるの。霊魂がこの世に残っていられるのは、3年間に限るの。明日はその3年目。もう会えないわ」

と泣き伏した。記内は相手が幽霊だったと知っても、何の恐ろしさも感じず、ただ別れの悲しさのみがつのる。

女は白銀の盃を形見として渡し、

    面影のかわはらぬ月に思ひでよ

        契りは雲のよそになるとも

二人が愛し合ったことは雲の彼方になってしまっても、月を見たら思いだしてね、と詠えば、記内はかたみに小袖を与えて、

    待ちいづる月の夜な夜な其のままに

       ちぎり絶やすなわがのちの世に

月が決まって出てくるように、私のことも忘れないでくれよと、泣き明かした。

記内が女の墓のありかを聞くと、甚目寺と答えて、女はかき消えた。

後日、記内は甚目寺へ行ってみたが、それらしい墓はついに分からなかった。

    たのめこしその塚野辺は夏ふかし

        いづこなるらむもずのくさぐさ

当てにしてきたのに夏草はぼうぼうとして、何処が墓なのかさっぱり分からない。記内は泣く泣く家に帰った。それからは、女のことばかり思って、病に伏し、薬も食事もとらず、ただ女のところに行きたいと言うのみだったが、間もなく亡くなった。

                           終わり  

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月 8日 (土)

ベランダの野菜 霊魂と契る・2

8月8日(土)

ベランダに、ナス、キュウリ、ピーマンの苗をそれぞれ1本ずつ植えたが、その内のナスとキュウリの苗を、切りました。

植えた時期が遅かったせいもあるのかどうか、茄子の出来は最低で、実が3個成っただけです。キュウリは茄子よりましとは言うものの、収穫は5個くらいかな。ピーマンだけはまだ成り続けている。この先も10個以上は穫れそうです。

先月末プランターに分葱を植えましたが、芽が出てきました。ニラや葱は、1度植えたらいつまででも収穫できます。根を引き抜かず、地上部だけをハサミで切って収穫すれば、そこからまた伸びてきます。何回もそれを続けると、葉が細くなってきますが、根分けして植え直せば、また元のようになります。その意味では、ベランダ向きの野菜かも知れません。

パセリなどは、1株植えて、時々必要分だけ枝を欠いて収穫していれば、1年じゅう収穫できます。琴屋時代に30坪ほど農園を借りて野菜作りをしていたので、多少の知識があります。紫蘇なども楽に出来そうな気がします。これからは、そんな野菜を作ってみようかと思います。

御伽婢子・70

霊魂と契る・2

前回のあらすじ尾州の人、小山田記内はなかなかのイケメン。家の前を通る美人を家に連れ込んで、わりない仲になった。明け方に女は帰る。

4・5日して、また女がやってきた。今度ははじめからうち解けている。そんなことを続けている内、女は毎晩通ってくるようになった。

「こんなに深い仲になったのだから、今度は私があなたの家に行きましょう、家を教えてください」

と記内が言えば、

「私の家は貧しくて狭の。兄の家なのよ。でも、その兄は亡くなり、今は兄嫁がやもめ暮らしなの。そんなところに来てもらえないわ」

と答える。なるほどと記内は思い、二人の関係はそのまま続いた。

この女は針仕事が上手で、記内の身につける物をよく作ってくれた。記内はまわりの者に、衣類を褒められるようになった。女は可愛らしい少女を連れてくるようになったが、この少女も、針仕事が得意だった。

半年ばかり過ぎると、女は家に帰らず、昼も居続けるようになった。

「夜来るのさえ人目を忍ぶ中なのに、昼も帰らないのでは、兄嫁が変に思うんじゃないかなあ」

と記内が言えば、女は、

「そんなに人の家のことを気にしないで。あなただって心変わりするかも知れないし、先のことは分からないわ。私はあなたを愛しているから、こうやって通ってくるのよ」

と言う。記内は嬉しくてしょうがない。

                         続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 7日 (金)

今日の失敗 霊魂と契る

8月7日(金)

水彩画の会。

今日、重大な失敗を二つしました。そのうちの一つを書きます。

朝、天気がよかったので、ベランダの植物に水をやり、布団を干しました。

午後は水彩画の会。帰りは雨が降り出しましたが、Yさんの車で送ってもらったので、私は濡れずに済みました。代わりに濡れたのが、ベランダの布団です。干したときには、昼には取り込まなければと思っていたのに、忘れたんです。

飯能市では1時間に百何十ミリとかの雨で、記録的だったとニュースで言っていました。我が狭山市は飯能の隣です。一時は本当に激しく降りました。おかげで布団はびしょ濡れ。

びしょ濡れになった布団は、それでお釈迦と思われがちですが、天気の良い日に数時間干すと、完全に乾きます。なぜ知っているかと言えば、過去にも布団をびしょ濡れにしたことがあるからです。

ドジのトホホ人間は、ドジをしても慌てないのです。でも、やっぱりトホホ。

御伽婢子・69

霊魂と契る・1

尾州清洲と言うところに、小山田記内という者が住んでいた。

ある夕方、門に立ってぼんやりと外を見ていたら、17.8歳のイケメンの女が西から東の方に歩いて行く。次の日もまた、その女が西から東に通っていった。

記内も、いささか評判のイケメンである。女は記内をチラと見て、ポット顔を赤くして通りすぎた。

次の日も、その次の日も、記内は門に立ち、女は通りすぎた。4.5日たって、記内は意を決して女に近づき、手を握ってみたら、女も軽く握り返した。

「あなたは毎晩ここを通りますが、何処にお住まいですか? そして、何処へ行かれるのですか?」

「私に家は西の方にあります。用事があって、東の村に参ります」

記内は「うちへ寄っていきませんか」などと言って誘ってみたら、女は「嫌」とも言わず着いてくる。二人は、その夜の内に出来てしまった。

明け方、女が帰るとき、

「今度は、いつ来てくれるのですか?」

「人目を忍ぶ身です、決まった日に必ず来るとは言えません」

   なほざりに契りおきてや中なかに

         人の心のまことをも見む

と歌を詠んだ。記内は、歌までもと思っていなかったので、ますます心を惹かれ、その返歌。

   言いひそめて心かはらば中なかに

         契らぬさきぞ恋いしかるべし

                          続く

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月 6日 (木)

平凡だけれど 飛び加藤

8月6日(木)

広島原爆忌。誰でも日記に書いているだろうから、私は書かないのが良いのかも知れない。でもやはり、忘れてはならない日。

戦争は絶対悪。核兵器は廃絶すべきもの。庶民の多くは、そう思っているのではないか。頭の良いひねくれ者が、核兵器の戦争抑止力なんて言っているうちは駄目。知性を持っているなどとうぬぼれている人類が、いかに地球の生命を脅かしているか。人類が核兵器を廃絶できなければ、核兵器が人類を殺すだろう。

核兵器と公害が、人類を滅ぼしかねない2大要素。

平凡だけれど、私の意思表示をするとしたら、このように言うしかない。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・68

飛び加藤

越後の上杉謙信のところに、常陸の国から忍者がやってきた。もっとも得意とするのは手品である。たとえば、広場に曳きだした牛を、この忍者はのみこんで見せた。見物人が驚いていると、松の木に登って見ていた者が言った。

「牛なんか呑んでいない。牛の背中に乗ってるだけだ」

忍者は腹を立て、その場に夕顔の種を蒔いた。その種はまたたく間に芽を出し、蔓を伸ばし、花が咲き、実が成る。忍者は刀を抜いて、夕顔の蔕(ヘタ)を切り落とした。すると、松の木に昇っていた男の首が落ち、見物人は眉をひそめた。

謙信はその忍者を呼び、なにが出来るかを尋ねた。忍者は「飛び加藤」と名乗り、「忍術の奥義を究めた」という。

謙信は言った。

「ならば、今夜直江山城守の屋敷に忍び込んで、奥に立てかけている長刀をとってきてみろ」

山城守は四方八方に隙間無く見張りを置き、イノシシにも向かっていく犬を門の中に放って、用心していた。

飛び加藤は持っていった餅で犬を毒殺し、誰にも気づかれず長刀を盗んだばかりでなく、召使いの11歳になる女の子まで眠らせて、背負って帰ってきた。

謙信は、敵を攻めるときは重宝だけれども、内通されたらやっかいなことになる。信用できる男ではないと感じて、直江山城守に殺させようとした。飛び加藤はそれを察して、逃げてしまった。

その後、甲府の武田信玄のところへ行って奉公したが、素性が悪くて、打ち殺されたと言うことだ。

                         終わり

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月 5日 (水)

俳人にとっての季節 あの世で官職に就く・3

8月5日(水)

夏とは言っても、からっと晴れることはなく、梅雨を引きずっているようなじめじめした日が続いている。

こんな中で、明日は立秋。暦の上では明日から秋。だから俳句を作る人達にとっては、明日から秋と言うことらしい。信じられないよね。

私は高齢になってから俳句を始めたので、どうしても俳句を外から見たがる。変だと思うところはいろいろあるけれど、その最たるものは、もっとも暑い盛りを秋と言うことだ。

明日から秋だなんて言うのは、一般の感覚から大きく離れていると思う。暑いから夏、寒いから冬、と単純に考えてはいけないんだってサ。暑さの中で秋を探る、それが季節に敏感な俳人のあるべき姿だそうだ。

デモね、暦通りに四季を分ける俳人の考え方も、硬直しているように思うよ。それで無理やり、秋を探ったりするわけだ。温暖化がもっと進んでも、俳人たちは立秋が過ぎたら、大汗をかきながら秋を探るんでしょうね。たとえば朝晩のちょっとした風とかにね。時には熱中症で倒れたりしながら秋を探るんです。それが季節に敏感な俳人のあるべき姿らしいです。変だねえ。

御伽婢子・67

あの世で官職に就く・3

前回までのあらすじ 芦沼次郎右衛門は廉直な代官だったが、死んでからはあの世で官職に就いた。その甥庄八が代官職をついだが、悪代官だった。天帝は庄八を討ち果たそうとしたが、芦沼の願いで思いとどまり、庄八の髪を剃って坊主にした。信心もなしに、にわか坊主になった庄八は、命乞いをしてくれた芦沼の恩も忘れ、墓参りもしない。空念仏を唱える庄八のもとに芦沼が現れて説教をする。

芦沼の説教に庄八は返す言葉もない。芦沼はあの世で「修文郎」という役職に就いている。この世で不義不全を行ったものを調べる役割だらしい。

「だからあの世に庄八が来ても、贔屓するわけにはいかない。今のままなら地獄へ送るしかない」

と言う。その他、あの世の様子などを語り、道心堅固にして不全を行ってはならないこと、地獄に堕ちるな、と説教して姿を消した。

これにより庄八は目を覚まし、心を込めて念仏を唱え、極楽往生を遂げたという。

(最後はだいぶ端折りました)

                         終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 4日 (火)

入間川のスケッチ あの世で官職に就く・2 

8月4日(火)

Tati0009

Tati0010

精障者授産施設リバーサイドへ。ここへ来たあとは、入間川河川敷を散歩して帰るのが楽しみ。先月に続き、今日も川上に向かって歩きました。

途中、何度か買ったことのある酒屋でビールを買おうとしたら、今日は休みでした。それから見る景色は何処もいまいちで、スケッチする気にもなりません。仏子の近くまで行ったらスーパーがあって、ビールを買うことが出来ました。二つのスケッチは、ビールを飲みながらのスケッチです。

「酒無くてなんで己が桜かな」の心境。

藤村に「千曲川のスケッチ」という作品があります。「入間川のスケッチ」と響きは似ていますが、中味は・・・まあいいでしょう。私は私なのだから。

御伽婢子・66

あの世で官職に就く・2

前回のあらすじ 芦沼次郎右衛門はさほど学問があったわけではないが、正直一筋に代官を務めた。芦沼が病死すると、その甥庄八が代官になった。庄八は欲深く、民百姓を苦しめた。ある夜、昭八の夢の中に10数人の手勢を連れた大将が現れ、庄八の首を取ろうとする。そこへ芦沼が現れて命乞いをし、大将は許して、代わりに庄八の頭を剃る。目が覚めて頭に手をやると、髪はきれいに剃られていた。庄八は心ならずも坊主になり、光明寺に籠もって念仏を唱える。

庄八が念仏を唱えているところに芦沼が現れた。

「おまえは仏教に帰依したのに、まだ私の墓にも参っていない。明日必ず参りなさい。おまえは欲が深く、民百姓を苦しめたので、天帝はおまえの首を討ち、地獄に落とそうとした。それを私が助けてやったのに、その恩を忘れ、墓参りもしないとは何事か」

庄八は一言もなく、ただうなだれるばかり。ややあって、庄八は聞いた。

「あなたはあの世の役人のように見える。どんなことをしているのですか?」

「この世で1芸1徳のあったもの、正直で慈悲深かったものは、死んでからそれぞれの役職に就く。たとえ優れた能力があっても、、心の邪なものは地獄に堕ちる。また、仏を信じても、自分の流派だけが正しいと考え、他をそしるものも同じである。

私はあの世で、修文郎と言う官職にある。人間の善悪を記録する係だ」

                          続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 3日 (月)

古橋選手、橋詰選手 あの世で官職に就く・1 

8月3日(月)

気がつくと、今日は母の命日でした。死後55年もたつのに、母のことは、いまだに思い出します。母は永遠に母です。

私は、とうの昔に、父の年齢を超えました。母に至っては、倍以上の年月を生きています。それでも、いまだに親は親ですね。

水泳の古橋選手がなくなった。私たちにとっては、戦後すぐの英雄でした。水泳の記録なんて、ほかにはなにも知らないのに、1500メートルで出した古橋選手の驚異的(当時としては)世界記録18分19秒0というのを、いまだにそらんじています。

古橋選手の出場する水泳大会の実況放送やら録音放送やらを、ラジオのかじりつくようにして聞いたものです。

その古橋と、いつも争って、いつも2位になる選手がいて、橋詰選手と言いました。仮に橋詰選手と書きましたが、「橋詰」なのか「橋爪」なのか、それとも他の字なのか分かりませんが、あの「はしづめ選手は」今どうしているのでしょうか。お元気なのか、亡くなられたのか、陰の英雄についても知りたいと思います。

精障者作業所Mへ。

御伽婢子・65

あの世で官職に就く・1

芦沼次郎右衛門重辰(アシヌマジロウエモンシゲトキ)は、鎌倉の管領が上杉憲政のときに、神奈川県藤沢の代官をしていた。

芦沼は、無欲で公正で、身辺はいつも潔白だった。妻子はなく、まして妾などもなかった。

さほど学問があるわけではなかったし、後世のためにどうこうしようなどと考えてもいなかった。ただ、生まれつき正直で、百姓を憐れみ、自分だけよい思いをしようなどとは、少しも思っていなかった。

その芦沼が亡くなって、甥の三保庄八があとを継いだ。庄八は芹沼とは反対に、百姓を虐げ、自分の利益になることばかりを考えていた。

ある夜、庄八の夢の中に、大将が現れ、「庄八は人の世の道に外れている。よって、このものの首をはねよ」と手勢のものにいう。そこへおじの芦沼がやってきて、大将にむかっていった。「庄八の罪は重いけれども、もう一度立ち直る機会を与えてください。そのため、この者の髪を刷らせます」

「おまえの甥ならば、今は許してやろう。けれどもこれから心を入れ替えるのでなければ、また来ることになる。私の目の前で頭を剃れ」

大将は少し笑ってそう言った。そして、自らカミソリを持ち、庄八の頭を剃った。

庄八が夢から覚めて頭に手をやってみると、丸坊主になっていた。気持ちはまるで道心とは遠いのに、形ばかりは修行者で、光明寺に入って念仏を唱えるようになった。

                        続く 

   

| | コメント (0) | トラックバック (2)

棒道 絵馬のねたみ

Imgp1750 8月2日(日)

山梨県に棒道というものがある。長野県との堺を通っている。

武田家(信玄、晴信)が軍事用に作ったのだと言われている。元は3本あったのだそうだけれども、今は上道1本だけが残されているのだそうだ。

随分昔、この道を通ったことがある。残雪のころだった。水彩画をはじめたとき、その時撮った写真から絵を描いた。

Imgp1750

その頃から、絵の腕が少しも進歩していないのは困ったものだ。

私は山に登るのも好きだが、別段高いところに登らなくても、自然の中を歩き回るのが好きだ。棒道を歩いたのは、水彩画の会や山の会に入るよりもずっと前のことだ。

最近、もう1度棒道を歩いてみたいと思うようになった。でも、インターネットで調べてみると、これは意外に大変なんです。最寄りの駅から棒道の起点になる甲斐小泉駅まで、3時間50分もかかるのです。最寄りの駅へ行くまでの時間を考えるならば、片道で4時間を超えるのです。朝早く出て、夜遅く帰るつもりにならなければいけません。

もう一つの問題は費用で、最寄りの駅から片道5300円もかかるんです。それだけの費用があれば、奥日光、戦場河原に行けちゃうんですよね。かかる時間だって、似たようなものです。それに、1万円、2万円かかるところに、そうちょこちょこ行ける身分ではないし・・・。

こんな時、貧乏人は思うような行動が出来ません。でも、ワーキングプアと言われる人達に比べたら、贅沢すぎる悩みです。

御伽婢子・64

第7巻 絵馬のねたみ・1

    原 作   浅野了意

    現代語訳 ぼんくらカエル

伏見の香の宮は神宮皇后の廟である。願い事のある者たちは絵馬を奉納して祈る。霊験あらたかだと言われ、ありとあらゆる絵馬が神前にかけられている。

文亀年中(1501-1504年)京の七条の商人で、奈良と京の間を往復して商いをしている者があった。

9月の終わりごろ、商人は奈良を出て京都に帰ろうとしたけれど、秋の日は釣瓶おとし、伏見の辺りで日が暮れてしまった。狐火が山際に輝き、狼の声が聞こえる。商人はおそろしくて、香の宮で夜を明かそうとして立ち入った。拝殿に横になり、