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2014年8月 9日 (土)

「本のないお話」・4

      「本のないお話」・4

    道具を埋めるお父さん

 戦争中でも、みち子たちの学校には給食がありました。一年生のときは、給食にご飯が出ました。家から、おかずと、空の弁当箱を持っていきます。お昼になると、1年生から順番に、小使いさんの部屋の前に行きます。大きな釜にご飯を炊いていて、小使いさんが空の弁当箱にご飯を入れてくれます。2年生になると、ご飯の代わりに、コッペパン一個になりました。そのころには、おかずうを持ってくる生徒はいなくなりました。ジャムもバターもつけないパンを、水を飲みながら食べるのです。
 やがて土曜日は、玄米パンになりました。すぐに水曜日も玄米パンになりました。それから給食がなくなりました。
 家では、皆雑炊を食べていました。雑炊は、どろどろしたお湯の中に、ありあわせの野菜が入り、お米がほんの少し混ざっていました。雑炊も配給で、三食ごとに雑炊を作るお店の前に鍋を持って並ぶのです。お店の人が、その家の配給の分だけ、大きな柄杓で雑炊をすくって、鍋に入れてくれます。みち子も、よく鍋を持って並びました。戦争が終って何年もたってから、豚の餌を見たとき、あのときの雑炊に似ていると思いました。

 そのころお父さんは、強制疎開の家を壊す仕事はやめて、メガホンと荷札を売る仕事をしていました。
 メガホンは、警防団の人が、
「空襲警報発令!」
 とか、
「警戒警報発令!」
 などと叫んで歩くために必要でした。また、配給のお知らせや、そのほかなんでも、メガホンで知らせあいました。
 荷札は、疎開する人が荷物を送るために必要でした。疎開する人は多いし、荷物は乱暴に扱われるので、紙ではなく、ベニヤ板の荷札を使うのです。
 荷札はその四隅を止める四本の細い釘と一緒に売りました。釘は、錐で穴を開けてから打たなければ曲がってしまうような細い釘です。そんな釘でも、荷札を買ってくれる人の要望で付けることになったのです。そして、そんな釘しか手に入れることが出来なかったのです。

 お父さんは自転車に、メガホンと荷札を積んで、東京中を売り歩きました。ある日は、荒川の近くに行っていました。ふと気がつくと、「警戒警報」も「空襲警報」もなかったのに、アメリカの飛行機B29が、真上にいました。警報はいつでも遅れ気味なのです。B29が焼夷弾を落とすのが見えました。お父さんは手元のメガホンで、
「焼夷弾落下!」
 と叫びながら、自転車で、全速力で逃げました。荒川の土手まで来たとき、焼夷弾は、目の前の荒川に落ちました。あわてていたので、焼夷弾が落ちるほうへ逃げたのでした。
 家に帰ってその話をしたお父さんが言いました。
「今日は命拾いをした。お前たちの疎開先を早く見つけなくちゃいけないなあ」

 昭和二十年一月、お父さんは補充兵として入隊することになりました。お父さんは、カンナやノミを丁寧に研いで、油を引き、新聞紙にくるんで油紙をしいたりんご箱に入れました。さらにその箱を油紙で包み、庭に穴を掘ってその中に埋めました。
 そのころは、ラップもビニールもありません。濡らしたくないものは油をしみこませた紙に包んだのです。
「道具はね、使う人がいなくなると不思議に早く錆びるんだ。なんでかなあ」
 みち子がそばに行くと、お父さんが話しかけました。
「まして土の中に埋めたら、錆が早いだろうなあ。そうかといって、出して置いたら空襲でやられるかもしれないし」
 最後は独り言のようにつぶやきました。
「俺は、満足な琴は一つも作れなかった・・・」
「元気で帰っててきて、もっともっと、良い琴をたくさん作ってください」
 いつの間にかそばに来ていたお母さんが言いました。
「うん。死にやしないさ。だけど、また琴を作れるような時代が来るのかなあ・・・」
「来ますとも。きっと、来ますとも」
 そういうお母さんは少し涙声でした。
                            続く

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