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2013年10月29日 (火)

昭和は遠くなりにけり

10月29日(火)

昭和は遠くなりにけり

 近頃は昭和時代の民族資料館などがあったりする。昭和は遠くなったのである。
 思えば昭和は長かった。昭和時代で何が一番印象に残っているか、と問われるならば、長かっただけに、答えは人さまざまであろう。
 私の場合は、なんといっても戦争と戦後である。日本が戦争に負けたとき私は小学校(国民学校)の三年生であった。日本全体としてもそうだが、私の生活にも変化の大きかった時期である。
 戦時中の雑炊は子供心にも不味いと思った。しかしその雑炊も配給の券がなければ買うことができない。食事時になると雑炊の配給があることがメガホンなどで知らされ、主婦などが鍋を持って並んだものである。ときどき私なども、母に言いつかってその列に並んだ。自分の番が来ると食堂の小父さんが、大きな柄杓で、大釜の中のどろどろの液体に葉っぱなどが入ったものを、家族の分だけ掬い上げてくれた。米などは液体の間に少しだけ泳いでいる程度である。
 疎開した伯父の家で、流しの脇にバケツ状の桶が置いてあった。台所の余り物、食事の残飯などを入れておき、豚の餌にするのである。その桶を見たとき「ああ、雑炊に似ている」と私は思った。
 じっさい行列の思い出にはろくなことがない。雑炊ばかりではなく、何かを得るには必ず行列が必要だった。これは戦後になってもそうである。行列があれば、何のための行列かを確かめる前に、とりあえず権利を確保するために、行列の後ろに並んだ。行列の先に何があるかを確かめるのは、その後である。前の人に何の行列か聞いても「さあ」と答えられたりしたものだ。
 だから私は今でも行列が嫌いである。どうしても必要なとき以外は並ばない。評判のラーメン店の行列に並ぶなどということは、どうしても嫌だ。そんなもの食わなくたって死にはしない。
   行列に並ぶのは嫌昭和の日
 この句をある句会に出したが、ほとんど点は入らなかった。昭和は遠くなったと思ったものである。
 私は昭和19年12月、東京から秋田の母の郷里に疎開した。父を東京に残し、母と弟と私の疎開である。
 そのころ父は、荷札とメガホンを自転車に積んで、都内を売り歩いていた。
 荷札は疎開するための荷物を送るために、どうしても必要だった。荷物を送るときは新聞やぼろきれで荷物をくるみ、りんご箱などを壊した粗末な板で作った枠に入れた。ダンボールなどは手に入らない時代である。荷物の取り扱いは乱暴だから、荷札はベニヤ板だった。紙の荷札と同じ大きさに切ったベニヤ板に、住所と氏名を書く欄が印刷されていた。その荷札の四隅を釘で打ちつけるのである。そんな荷札が飛ぶように売れた。
 メガホンは空襲警報発令だとか、配給の開始だとか、町内のお知らせやらで使う。どうしても必要なものだった。メガホンははじめは柿渋を塗った丈夫な紙でできていたが。やがてただのボール紙に変わった。使い方は激しいし、物は粗悪品だからすぐに壊れる。しかし必要だから買わなければならない。そんなわけでこれも売れるのである。
 疎開している母の元に、たびたび父から送金があった。その額が余りに多いので、伯母は父が東京で悪事でも働いているのではないかと、本気で心配したそうだ。

 日本は昭和20年8月15日に敗戦を迎えるわけだが、その10日あまり前、疎開先で母は亡くなってしまった。
 敗戦のその日、父は弟と私を連れ、自分の実家に引越しをした。玉音放送があるぐらいは父も承知していただろう。普通ならおとなしく放送を聴くべき日だが、父はそれには無頓着だった。後に祖母から聞いた話では、東京の惨状を語り、日本は戦争に負けると断言していたそうだ。物事をきわめて感覚的に捉える人だった。
 引越しといっても荷物らしい荷物は何もない。私はいずれ墨で塗りつぶすことになる教科書を持ち、防空頭巾を肩にかけていた。父は小学校一年の弟を乗せた自転車を押して、約二里(8キロ)の道を、歩きながらの引越しだった。道筋の集落で、大勢の人が立ったまま玉音放送を聴いているのを目にしたような気がするが、あるいは後から作られた記憶かもしれない。
 父の実家に着くと、ちょうど入れ違いに家から出てきた中年の女性が、父に話しかけた。
「日本は戦争に負けたんだと」
「ほう}
 父はそういっただけで家の中に入っていった。何か物足りなかったのだろう、その人は私に向かって言った。
「良ちゃん、あんたのお母さんはいい時に死んだ。日本が負けることも知らずに死んだんだもの」
 何で私の名前を知っているのか不思議に思ったのだが、母は乳の出が悪くて、私はその人の乳を飲んだものらしい。そのことは後で知った。
   敗戦日白く乾ける道ありき
   あえぎつつ我ら歩けり敗戦日
 これは象徴としての句ではない。その日感じた具体的な事実である。

 やがて私たちは東京に帰り、私は中学を出て、琴作りの職人になった。一緒の引越しをした父も弟も、私は早く失うことになる。私は貧しいながらも結婚をし、長女も生まれた。そんな私のもとに、母方の伯母から一通の手紙が届いた。「あなたもいつまでも一人で東京でがんばっていないで、こちらに帰って私たちと一緒に暮らしたらいいではないか」という内容だった。身内のないところで生きている私を、伯母は不憫に思ったらしい。
 しかし私は半端職人であっても、家庭を持って生活していたのである。そう簡単に帰れるものでもない。タンポポの綿も風に吹かれればどこへでも飛んでゆく。飛んだ先で上手く根がつけば、そこで花を咲かせる。といった意味の手紙を書いて送った。
 晩年になった俳句をはじめたとき、これを俳句にできないかと思って作ったのが次の句である。
   タンポポの綿は飛ぶなり人歩くなり
 私に属する句会に出したところ「この句にはなにかある」といって取ってくれた人がいた。桑原三郎先生にも
「何かありそうだ」
 といわれた。私はそのとき、とてもすべては説明することができないと思ったので、
「別に何もありません」
 と答えたのであった。

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