« 山行 日向山・金昌寺 | トップページ | こぶし福祉会評議委員会 »

2012年11月12日 (月)

後期高齢者の話題

11月12日(月)

Img008_2
まだ絵は仕上がっていないのです。しかし、朝起きるまでの時間で描く絵ですから、仕上げる時間がありませんでした。それでもアップしておきます。もともと下手なんだからしょうがない。

金昌寺の野仏です。

精障者作業所、ショップみちくさへ。授産施設、リバーサイドのベンチ直しなど。

後期高齢者の話題

われわれが集まると、話すことはだいたい決まっているんですよ。たとえば、病気の話、死の話、葬式の話、墓の話、まったくトホホだね。

病気をしようがしまいが、人間は必ず死ぬのだし、のたれ死でない限り、死ねば葬式になる。葬式というのは、死者のためのものではない。生き残ったものの気休めだ。使者を送るとき、その時代や民族によって、一応のルールのようなものがあって儀式化される。生きているものが儀式を必要とするのである。死んだ人間にとっては、どうでもいいことだ。私などは、菰にくるまれてその辺のどぶ川に捨てられても良いのだが、それだと、やった方が罪になるね。死体遺棄ってやつだ。遺族には、現在のルールに従ってやって貰うしかない。

次に来るのが墓の話ですね。私の友人が狭山市の成人学級で「ジャーナル学科」というのを受講した。そこで「墓」についてのアンケートを行ったりして、文章を書いたりしたらしい。友人の話しでは、ほとんどの人が、これまでと同じような墓のあり方については、疑問を感じているようだ。

それはそうだよね。高い料金の葬式を出して、高い金で墓を買って、そこに治まったところで、長い間には、誰だって無縁仏になるんだよ。私は無宗教で、死んだらなんにもなくなると思っている人間だから、墓もなんにも必要ないんだけどね。でも、親父が死んだとき、墓を作ったなあ。結局生きている人間、つまり私が気の済むようにしただけだ。墓参りに行くのも、それで死んだ人の供養になるなどと思ってはいない。死んだ人と対話をしてくるだけですね。

私個人のことをもう少し続ければ、親父は、長女が生まれて間もなくなくなった。長女は一度だけ会ってはいるけれど、記憶にはないだろう。次女は親父が死んで何年もたって生まれた。分かるわけがない。

私が死んでも、同じことが起きますね。孫たちは、すこしは記憶に残るかも知れないが、それだけ、そこまでのものです。苗字も違うんですからね。何かの時に気まぐれで調べたりして「私の先祖に『ぼんくらカエル』なんて人がいたんだ」と感心してくれれば上々で、大抵はそうは行きません。たとえ昔を知って貰ったところで、死んだ私にとっては、どうってことはないのです。

まあ、人間は生きている間だけの問題。老後を楽しく元気に過ごすこと、出来るだけ人の迷惑に成らずに生きること。でもそれが出来なくなったら、それはそれでしょうがないや。成るようになるさ、ケセラセラだ。

ベランダの手すりに雫遠紅葉

|

« 山行 日向山・金昌寺 | トップページ | こぶし福祉会評議委員会 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/118203/47818661

この記事へのトラックバック一覧です: 後期高齢者の話題:

« 山行 日向山・金昌寺 | トップページ | こぶし福祉会評議委員会 »