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2012年9月15日 (土)

つばさ俳句会報告、桑原三郎の孤愁

9月15日(金)

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秘沼・・・志賀高原渋池

つばさ俳句会報告

私個人について言えば、さんざんなものでした。山の句をそろえて5句出句。なんと、1句に1点だけ。それも私が、この句は失敗だったと思った句でした。ばかばかしいので、自分の句についてはもう書きません。来月、山の句でリベンジします。

今日私がもっとも感心した句。

かなかなや道がなくなるまで歩く 桑原三郎

先生の句だから上手いのは当たり前と言えばそうですが、この句には孤愁があります。私のイメージでは、かなかなが聞こえてくる草原の道を、一人静かにどこまでも歩いていく、道がなくなるまで歩いていく、そんな姿が思い浮かぶ。高村光太郎なら、ぼくの前には道はない、僕の後ろに道は出来る、で、草をなぎ倒して新しい道を切り開いていくかも知れない。しかし、この作者の道は、そんなに荒々しいものではない。静かに、かなかなの聞こえる道である。それはどこかで、芭蕉の「この道や行人なしに秋の暮」に通ずるようでもある。だが、誰も行かない道を私は行くというような気負いが、芭蕉にはある。桑原三郎の句は、その気負いとも無縁のように思える。ただ、淡々として、かなかなの声を聞くともなしに聞きながら草原を歩いている。静かな孤愁。

俳句をはじめた頃、「昔から太陽はあり葱畑」という桑原三郎の句に衝撃を受けた。それはそうだ、昔から太陽はあるさ、そんな当たり前のことをあらためて言う桑原三郎とは何者だ、という衝撃である。まだ私は、俳句に馴れていなかった。その後、句の言い回しの妙やら、新しがりの言葉遊びやらに触れてきたが、何か物足りなさを感じていた。そして「昔から太陽はあり」という力強く言い切る俳句の魅力は失われなかった。

今、全く違う形で、桑原三郎の「かなかなや道がなくなるまで歩く」に接すると、この何十年の間、作者が歩いてきた孤愁を感じるのである。他の人の判断はしらず、この句は桑原三郎の代表句だと私は思う。

雑木林連ねて秋の奥武蔵

13日一人吟行の句を改作しました。

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