『異本論』
2月6日(月)
スケッチ
湯の湖です。
○今日の俳句
冬の雲音無く落ちて滝煙る
送りがな振るか振らぬか氷雨降る
氷雨というのは元来は雹を言ったと思いますが、近ごろは冷たい雨にも使うようですね。
○精障者作業所「みちくさ」へ。
畑のホウレンソウなど間引き。
精障者生活支援センター「きずな」のコンパネ家具つくり。家具作りはせいぜい2時間くらいしかやれません。私はメンバーさんの仕事がやりやすいように準備したりしながら指導。家具は今月中にできればいいや、という感じ。
○『異本論』外山滋比古・著
本を読んで、作者が思い描いたこととそっくり同じように理解するということは不可能である。読者は読者の立場で理解する。だから著者は「誤解のない理解はない」という。「ものを読むのは、大なり小なり翻訳的である」。作者の意図を絶対視して、それだけが正しいとするようでは古典は生まれない。というような主張の本である。
昔の本が再評価されたりするのは、違った時代の新しい視点で見るためで、そういう視点に耐えられるものが古典になるということなのでしょう。純粋に作者の原典のみを探ろうとする読み方、源泉主義ではつまらないよと言いたいのでしょう。
実は私、この本を読みながら宗教のことを考えていた。私は何の宗教も信じてはいないけれど、ある種の宗教に対しては、尊敬の念を持っている。その理由を、たとえばキリスト教について言うならば、キリストの教えに、後の人々が考察を加えたために、より深みが出てきたと思うのである。私は神を信じていないのでキリストも人ですが、キリスト一人の考えでは、今のキリスト教はできなかったと思うわけです。
ところが信者たちの多くは、後に加えられたものを夾雑物として排除しようとしているようだ。その点が私などの考えとは違う。だから『異本論』の考え方は宗教にも通ずると思ったのである。ところが、「作者の意図を『正しい』ものとして、絶対視するならば、それは文学ではない。文学という名の宗教になる」だって。アレレ・・・宗教にも通ずると思うのは、作者の意図とはちがうみたい。でも私は、そのように翻訳して読みました。『異本論』の異本です。
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