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2012年1月 9日 (月)

聞き書き 長堀釜太郎 3

1月9日(月)

(昨日の続き・3)

○ ミンダナオ島へ

・・・仕事は本当に忙しかった。でも昭和17年の12月に徴用になってしまった。仕事関係の人が慌てて、「海軍の仕事をしている人だから」って掛け合ってくれたけれどダメだった。徴用先は熊谷の軍需工場だった。そこでは飛行機のピストンリンクを作らされた。

・・・そうこうするうちに今度は徴兵だよ。昭和19年の3月だった。フィリッピンのダバオに行った。ミンダナオ島の1番大きな町だよ。だけど、町っていうほど家はなかったな。海岸があって、道があって、おれには家なんかどこにあるのか分からなかった。それでもミンダナオ島には日本人が3万人もいたらしい。日本人向けの女学校まであったよ。中学校については覚えてないけれど、女学校があるくらいだから、中学校もあったんだろうね。

・・・ダバオはのんびりしていて、いいところだと思った。戦争が終わったらここに住んでもいいと思った。日本へ帰ったってどうせ貧乏で、あくせく暮らさなくちゃならないんだ。

・・・だけど昭和20年の4月19日、ドンパチ戦争が始まったら、あっけなくパアさ。1日でけりがついちゃった。一個大隊約2000人の兵隊が居たんだけど、終戦後日本に帰ってきたのは、40何人だからね。おれなんか、よっぽど運が良かったことになる。

・・・戦闘はやるにはやったけれど……自分では相当やったつもりでいるんだけど、戦争の本なんか読んでみると、ミンダナオ島のことは大して書いてないね。戦争全体から見たら、なんてこともない戦闘だったんだろうね。

・・・戦死した人は、だいたい砲撃でやられたんだ。鉄砲の弾に当たって死ぬ率は、8万発に1発ってことだよ。だから鉄砲で死ぬのは少ないんだ。それに、戦病死が多いね。死んだ人の3分の1くらいは戦病死だよ。

………戦闘は、日本軍が予想していたのとは反対の方から始まったんだ。アメリカ軍の砲撃が始まったら、何時間もしないうちに、最前線の兵隊がおれたちのところまで逃げてきた。その時俺たちは1500メートルほどうしろにいたんだ。

・・・おれの友達なんか、トーチカに機関砲を置いたまま逃げてきた。そしたら中隊長が「馬鹿者! 破壊してこい」なんて怒鳴るんだ。友達は戻っていったけれど、それっきりだ。友達もドジかも知れないけれど、逃げてきた前線に追い返す方も追い返す方だよ。

………鉄かぶとの紐は、あまり強く締めてはいけないんだ。爆風のショックが大きくなるし、弾が鉄かぶとを通り抜けちゃうんだ。もっとも、弾がまともに当たったら、紐が強くても弱くても貫通しちゃうけれどね。いくらかななめに当たったときの話しだ。

・・・いろんな人がいるもんだよ。鉄かぶとのてっぺんに手榴弾ぶつけられて、それでも助かった人がいる。おれたちの分隊長は、鉄砲の弾が腕時計にあったったけれど、ガラスが割れただけで、本人は怪我ひとつないんだ。

                    続く

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