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2009年12月31日 (木)

人物練習帳・7・8・番外

12月31日(木)

人物練習帳です。

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次は人物練習帳の番外

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今月はマンションの階段の掃除当番でした。3時半ごろ最後の階段掃除をして、風呂に入り、出てきたら、窓の外は雪がちらちら。降っている時間は15分くらいだったと思います。雪見酒と思うのもつかの間・・・それでも少し飲んじゃった。そして、早めにブログを書きます。今年の反省もなければ、来年の抱負もない私です。

ブログを書いている人はどなたも同じことを言うのでしょうが、私のブログを読んでくださった皆様、ありがとうございました。良いお年をお迎えください。

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2009年12月30日 (水)

本のないお話・7

12月30日(水)

本のないお話・第7回(最終回)

楽しいお話を作ろう。

「お話はこれでおしまいです」

 山田先生は、そう言って口を閉じました。暫く、みんなは何も言いませんでした。それから、誰かがつぶやきました。

「みち子は、その後どうなったのかなあ」

「先生、その後のお話もしてください」

「続きを話して下さい」 

 みんなが口々に言いました。での、先生は黙って、窓の外を見ていました。何だか泣いているみたいでした。

「分かった。みち子は先生だ」

 正夫が云いました。みんなはびっくりして正夫を見ました。

「だって、先生は山田美智子先生だもの。山梨の伯父さんが迎えに来たんだもの。だって、先生のお母さんは、山梨にいるんだもの・・・」

 先生は何も答えず、ただ遠くを見ていました。先生は、やっぱり泣いているのでした。

 やがて先生は、みんなの方を見て言いました。

「人間は誰でも、自分のお話を持っています。本に書いてあるお話もあれば、書いてないお話もあります。だれかに聞いて貰えるお話もあれば、誰にも聞いて貰えないお話もあります。たとえば、空襲で逃げ遅れて死んだ人も、自分のお話を持っていたのに、誰にも聞いて貰えませんでした。皆さんもこれから、お話を作りながら生きていくのです。出来るだけ楽しいお話を作って下さい。何年かして、先生と会ったとき、今度はそのお話を先生にして下さい」

 先生の顔は、もう、いつものこにこした顔に戻っていました。

                  終わり

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人物練習帳・5 宗教について

12月30日(水)

人物練習帳。たしか5枚目だったと思います。

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年末だからといって、来年はどうしようなどと言うことは、何も考えません。流れにまかせ、あるがままに生きています。でも、年末なので、まともなことを考えてみます。

私は何の宗教も信じてはいませんが、なぜか、若い頃から宗教に興味は持っています。

私は霊魂不滅などということを信じていません。ましてや来世とか、最後の審判だとか、天国や地獄も、信じていません。私の考えでは、死ねば何もかもなくなる、ただそれだけのことです。

仏教に親しみは感じています。釈迦は解脱をしました。私の理解に寄れば、解脱とは輪廻転生を去ること、何者にも生まれ変わらないことだと思います。つまり、何もなくなるということ、「無」ですネ。私のような未熟なものが、悟りを開いて解脱するなどと言うことはありません。しかし、悟りを開かなくても、無になることに変わりはありません。ただ、悟りを開くまでは輪廻転生をくり返す、などと言われれば「嘘でしょう」と思うわけです。

霊魂の不滅を考え出したのは、人間の弱さだと私は思います。死んで無になることに、われわれの精神は耐えられなかったからではないか、と思うのです。来世、あの世などについても同じです。

善因善果、悪因悪果などといいますが、現実の世界では、悪いことばかりしてぬくぬくと生活するものもあれば、まじめに一生懸命に働いても、辛い不幸に見舞われる人もいます。「悪い奴ほどよく眠る」などという状態を、目の当たりにしなければならないのが、現実の生活というものです。世の中は、あまりに不公平です。人間の感情は、それでは治まりません。だからせめて、悪い奴には来世で不幸になってもらはなくてはならないのです。その意味でも、ありもしない来世が必要なのですね。

日本の仏教が、葬式仏教になったのは、江戸時代に幕府の取った宗教政策のせいでしょう。お寺を通じて庶民を管理したからではないでしょうか。お釈迦様は、葬式をしろなんて言っていないはずです。

死んだ人にとっては、葬式も法事も仏壇も、どうでもいいのだと思います。問題は生きている人です。わが家でも、妻の葬式はしましたし、仏壇があり、その前に花を添えています。そこに仏様がいるわけでも何でもありません。ただ生きている私の問題なのです。仏壇に線香をあげ、花を供える。それで毎朝、妻を思い出すわけです。

どの民族でも、人が亡くなると、一定の儀式があると思います。そうして死者との決別をするのです。そうしないと、生きている人の気が済まないのです。葬式をしないからといって、罰が当たるなどと言うことはないでしょう。どの時代、どの民族にも葬式の儀式があるのは、生きている人間として、気持ちの整理をしたいのだと思います。

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2009年12月29日 (火)

本のないお話・6

12月29日(火)

本のないお話 第6回

東京大空襲・2

 それから2,3日して、また空襲がありました。焼夷弾がどんどん落とされます。家の近くまで迫ってきているようです。でも、今逃げたら、また臆病者だと笑われるかもしれません。じっと辛抱していました。

 けれども、攻撃はますます近くなってきます。どうにもたまらなくなって。みち子は隣組の班長さんの家に、もう逃げて良いかどうか聞きに行きました。ところが驚いたことに、班長さん達はもう逃げたあとでした。そればかりではありません。警防団の人もふくっめて、隣組の人は、誰一人残っている気配がありません。

 みち子が青くなって帰ってくると、さすがにお母さんは、逃げる用意をして、玄関でみち子を待っていました。二人は防空頭巾の上に布団を被り、まだ火の回っていない方に走り出しました。

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 みち子たは、上野の山をめざして逃げました。あちらからも、こちらからも、上野の山に向かって逃げる人達がいました。

 逃げる途中の街角で、何人かの人が並んでいました。見ると、ポンプの井戸があって、男の人が二人で、バケツに水を汲み、先頭の人にかけてやっていました。みち子たちも列に並んで、水をかけてもらいました。

「私とお母さんに、もっと水をかけてください」

 とみち子が言うと、、バケツの小父さんがギロリとした目で、みち子を睨みました。

「みんな並んでいるんだぞ。一人に一杯だけだ! もう火が回ってくる、早く逃げろ!」

 それから先は、何処をどう走って、上野の山まで逃げたのか、何も思い出せません。上野の山で、何回か寝たような気がします。上野の山にいるうちに何か食べたのでしょうか、それさえも覚えていませんでした。ただ、いつまでもいつまでも、家々が燃え続け、不気味な赤い空を見ていたことだけを覚えています。

 気がつくと、あたり一面が焼け野原でした。

 みち子たちは、もとの家の方に帰ることにしました。けれども、建物がみんな焼けてしまった街では、方角がよく分かりません。

 帰る途中、道のあちこちに、逃げ遅れて焼け死んだ人が倒れていました。赤ん坊をおんぶしたまま倒れている人もいました。防空壕の中で死んだ人が、担架で運び出されていました。担架に乗せられた人の首が、胴体から離れて、道に転がり落ちるのも見ました。

 家の近くまで行っても、本当に家のあったところは、なかなか分かりません。

「お母さん、あの木、久保田さんの家の松の木みたい」

 焼けただれた松の木を見つけて、みち子たちは、やっと自分たちの家のあったところが分かりました。

 男手のある家の人達は、焼け残った板やトタン板を集めて、掘っ立て小屋を作っていました。焼け残ったのは、コンクリートで作られた公園の便所くらいで、そこに陣取った人達もいました。

 みち子たちは何もできず、ただぼんやりと座っていました。けれども、容赦なく夜は近づいてきます。仕方なく、玄関があったところの土台石に沿って土の土手を作り、、お母さんとみち子がやっと寝られるだけの窪みを作りました。二人はそこに横になり、拾ってきたトタン板で、近所の人に蓋をしてもらいました。トタン板が風で飛ばされないように、石の重しもしてもらいました。

 逃げるときに被っていた布団は、何処でなくしたのか、もう持ってはいませんでした。防空頭巾を枕にして地べたに寝たのですが、疲れていたので、ぐっすり眠りました。朝になると、下からトタン板をどんどん突きます。すると近くの人が気づいて、、石の重しを取り、トタン板の屋根を外してくれました。

 こうして何日か過ごしました。ある日、役所から、お父さんが戦死したという知らせが届きました。お母さんが、遺骨の入って箱をもらってきました。その箱があまり軽いので、なかを開けてみると、「御霊」と書かれた紙が入っているだけでした。

 その晩、遺骨の箱を枕元に置き、トタン板をかぶせてもらったあとで、お母さんがみち子の手を握りながら言いました。

「私は信じない。お父さんが本当に死んだのなら、遺骨があるはずだもの。紙切れなんて、私は信じない」

「そうよ。お父さんが死ぬはずはないわ。みち子がお嫁に行くときは、すばらしい琴を作ってあげる、って、お父さんはいつも言っていたの。私の琴を作る前に死ぬはずはないわ」

 みち子は本気でそう思いました。だから二人は、お父さんが死んだなどとは信じないことにしました。

 次の日、山梨の伯父さんが尋ねてきました。

「やあ、二人とも無事でよかった。本当に良かった」

 でも、お父さんの遺骨の箱を見ると、びっくりして口をつぐみました。そして、リュックサックを背負ったまま、手を合わせました。

「俺のところは田んぼはないんだ。畑ばかりだから、米は陸稲だ。量も穫れない。なけなしの米で作ってきたんだ。食えよ」

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 伯父さんはリュックからお握りを出して、二人に渡しました。みち子はそのお握りを、指に付いた飯粒まで、全部食べました。家の焼け跡を見たときにも、お父さんの遺骨の箱を見たときにも流れなかった涙が、あとから、あとから、あふれ出るのでした。

                    続く

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冬の智光山公園

12月29日(火)

12月29日というのは微妙な日ですね。年末には違いないけれど、日曜祭日には入らない、普通の日のようでもある。30日になれば、祝祭日に入らなくても、それに準ずる日という感じがある。29日だと、どうなのかなぁ。心は浮ついていますけれど・・・。

今年中にすることは昨日終わったと思っていたけれど、いろいろすることはあるものです。たとえば、孫たちが去ったあとの洗い物や布団干し。

100円ショップにカレンダーを買いに行きました。絵や写真の付いているカレンダーではなくて、曜日と日にちだけあって、書き込みが出来る余白の多いカレンダーが欲しいのです。去年まで、そんなカレンダーを置いていたのですが、今年は絵や写真が入ったものだけになっていました。やむを得ず、ケイヨーデイツーに行き、2冊買いました。100円で買うつもりだったので、予算は大幅に増えました。

なんで2冊かと言えば、1冊はごみ専門の書き込みをするカレンダーで。もう1冊は、私の予定を書き込むカレンダーです。

ごみは、燃えるごみ、燃やさないごみ、プラスチック、ペットボトル、ビン、カン、電池、古紙、古布などがあり、とても覚えてはいられない。そこで専門のカレンダーを作っているわけです。

予定の書き込みは、普通は手帳に行うのでしょうが、歳なので忘れっぽくて、手帳とカレンダーの2本立てにしています。ボラ関係、趣味関係、個人的なこと、などいろいろあって、これも覚えてはいられません。私などは職人でしたから、現役時代の方が単純でした。

買ったカレンダーにさっそく書き込みです。ごみ関係は、市から配られた予定表を見ながら、1年分全部書き込みました。

そんなことをして午前中は過ごし、天気が良かったので午後は散歩。智光山公園へ。公園のいくつかの池は浚渫工事をするようで、水が抜いてありました。大きな池が、中心部でも、深さ30センチくらいしかなかったなんて、水を抜かれたのを見て、はじめて知りました。わずかに残った水溜まりに、かもがいるのが哀れです。

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年末のせいもあるのか、公園はいつになくがらんとしています。水を抜かれているので、カワセミばかりでなく、カワセミを狙うカメラマンもいません。確かにカワセミは美しいけれど、なんでそればかりなんだろう。白鷺だって美しいよ。

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智光山公園には、林、池、芝生、せせらぎ、などがあり、大好きな公園です。何度となく行っているのに、今まで気づかなかった碑がありました。

Imgp2683_4 智光山公園開園記念碑です。碑文は、次のように書いてありました。

「昔よりこの地は智光山と呼ぶ。九頭竜池とこの付近を遊園地にしようと有志相計り、協力、努力をかさね、市よりも助成金を得るにいたり、公園らしくなった。七ヶ年の皆さんの協力、尽力によるものであり、今後益々発展いたすよう七周年の記念として碑を建てる。昭和34年4月24日」

あまり上等な文章ではないけれど、原文のままです。句読点はぼんくらカエル。                  

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2009年12月28日 (月)

本のないお話・5

12月28日(月)

本のないお話・第5回

東京大空襲・1

 毎日のように空襲がありました。昨日まで元気に登校していた友達が、何の前触れもなく、学校に姿を見せなくなることもありました。空襲で亡くなるのです。疎開していく友達もいました。残っている子どもたちも、近いうちに学童疎開になるという噂です。

 お母さんはみち子に、疎開の相談をしました。

「お父さんは兵隊に行ってしまったし、このままだと、みち子は学童疎開に行くようになるし、家中が離ればなれになるわね」

「そんなの嫌だわ」

「山梨の伯父さんを知っているでしょう。あの伯父さんがね、来ても良いって言うの。みち子はどう思う?」

 お父さんが兵隊に取られてからというもの、お母さんは何でもみち子に相談します。お母さんは末っ子です。山梨の伯父さんは一番上の兄さんで、富士山の裾野で開拓をしているのです。荒れ地や林を切り開いて、畑を作っています。伯父さんは背は低いけれども、がっちりと肩幅の広い人です。お母さんは痩せて背が高いので、兄妹でも随分違うんだなあと思っていました。

 去年は開拓地で採れた野菜と、ヤマブドウで作ったという葡萄酒を持ってきてくれました。そのころは普通の人がお酒を造ってはいけなかったのですが、こっそり作ったのです。お父さんと葡萄酒を飲みながら、大声で、

「アハハハ」

 と笑っていました。

「あ、伯父さん、のどちんこが見えた」

 みち子が冗談を言うと、

「女の子がそんなことを言ってはいけない。アハハハ」

 とまた笑いました。

「お母さん。あの伯父さんなら、私好きよ」

「でも、開拓地だから、生活は苦しいのよ」

「苦しくても、東京にいるより安心なんでしょう?」

「そうね。お父さんが帰ってくるまで、伯父さんのところへ行きましょう」

 みち子たちがそんな話しをした晩にも、空襲がありました。焼夷弾がこれまでになく、近くに落ちてくるような気がします。みち子とお母さんは、びっくりして、布団を被って逃げました。

 でも、その日の空襲では、みち子の家の当たりは無事でした。みち子たちが帰ってくると、警防団の人達に、

「あんな空襲で逃げ出すなんて、臆病者だ」

 と笑われてしまいました。

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やるべき事が終わった

12月28日(月)

朝、布団の中で、今日やることの手順を考えた。①手紙を2通出すこと。昨日ブログのあとで車椅子の会の記念誌の原稿を書いた。これをもう1度読み直し、直すべきは直して、編集者に送る。もう1通は俳誌『つばさ』に7句を出句するもの。②大掃除。網戸、窓、トイレ、風呂場の順でやること。

7時半ごろから行動開始。ちょうど12時頃、すべて終えました。ご褒美に、市内の温泉、大和の湯へ行く。のんびり風呂に浸かって、アルコールも飲んで、本を読んで、良い1日でした。

本は『老子・荘子』野村茂夫編、角川ソフィア文庫。そんなもの読んで分かるかと言われれば、あんまり分かりませんね。なんとなく、こんなもんだろうなと思っていたものと、そう大きな違いはないように思いました。

しかし、老子や荘子から出ている言葉は、沢山あるんですね。知らずに使っていたけれど。

幾つか取り上げてみましょう。まず老子から。

①上善は水のごとし。②知るものは言わず、言うものは知らず。③大器晩成。④大功は拙なるがごとし。

次に、荘子。

①胡蝶の夢。②井蛙(セイア)はもって海を語るべからず。③朝三暮四。④轍鮒の急。⑤明鏡止水。

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2009年12月27日 (日)

本のないお話・4

12月27日(日)

本のないお話 第4回

道具を埋めるお父さん

 戦争中にも、みち子たちの学校には、給食がありました。1年生の時には、給食にご飯が出ました。家から、おかずと空の弁当箱を持っていきます。お昼になると、1年生から順番に、大きな釜のあるところへ行きます。すると小使いさんが、空の弁当箱に、ご飯を入れてくれるのです。2年生になると、ご飯の代わり、コッペパン1個の給食になりました。パンは、おかず無しで食べました。ジャムもバターも付けないコッペパンを、水を飲みながら食べるのです。

 やがて、土曜日は玄米パンになりました。すぐに、水曜日も玄米パンになりました。それから、給食がなくなりました。

 家では、みんな雑炊を食べていました。雑炊は、どろどろしたお湯の中に、あり合わせの野菜が入り、お米がほんの少し混ざっていました。雑炊も配給で、3食ごとに、雑炊を作るお店の前に、鍋を持って並ぶのです。お店の人が、その家の人数分だけ、大きなひしゃくで雑炊を掬って、鍋に入れてくれます。みち子も、良く鍋を持って並びました。戦争が終わって何年も経ってから、豚の餌を見たとき、みち子は、あのときの雑炊と似ていると思いました。

 そのころお父さんは、強制疎開の家を壊す仕事はやめて、メガホンと荷札を売る仕事をしていました。

 メガホンは、警防団の人達が、

「警戒警報発令!」

 とか、

「空襲警報発令!」 

 などと叫んで歩くために必要な物でした。また、配給のお知らせなども、メガホンでやりました。

 荷札は、疎開する人が荷物を送るために必要でした。疎開する人はおおいし、荷物は乱暴に扱われるので、荷造りはあり合わせの木の板で囲んで作りました。荷札はベニヤ板で出来ていて、四隅を荷造りの板に釘で打ち付けるのです。

 荷造りするための釘も不足していました。そのくせ、なぜがあのころは、道に釘が落ちていたものです。錆びて曲がった釘です。そんな釘でも、見つけたら拾うのが当たり前でした。金槌で叩いて、のばして使うのです。荷造りしたものを壊すときも、抜いた釘は大切に取っておきました。1本の釘を何度も使うのです。

 それでも釘がたりなくて、、荷札を売るときに、釘も付けるように求められました。それでお父さんは、上手に打たなければすぐ曲がってしまうような細い釘を、荷札1枚に4本付けて、一緒に売るようになりました。そんな釘しか手に入らなかったのです。

 お父さんは自転車の荷台に、メガホンと荷札を積んで、東京中を売り歩きました。

ある日お父さんは、荒川の近くに売りに行きました。気がつくと、空襲警報も警戒警報もなかったのに、アメリカの飛行機B29が真上にいました。警報はいつでも遅れ気味なのです。B29が焼夷弾を落とすのが見えました。お父さんは手許のメガホンで、

「焼夷弾落下!」

 と叫びながら、自転車を全速力で走らせました。お父さんが夢中で逃げて、荒川の土手まで来たとき、焼夷弾が目の前の荒川に落ちました。慌てていたので、焼夷弾の落ちる方に逃げたのでした。家に帰って、お父さんがその話しをして、言いました。

「今日は命拾いをした。お前たちの疎開先を、早く見つけなくてはいけないなあ」

                                                            Imgp2672  

 昭和20年1月、おとうさんは補充兵として入隊することになりました。お父さんは、カンナやノミを丁寧に研いで、油をひき、新聞紙に来るんで、油紙を敷いたリンゴの箱に入れました。更にその箱を油紙で包み、庭に穴を掘って埋めました。そのころは、ラップもビニールもありません。濡らしたくないものは、油を染み込ませた紙に包んだのです。

「道具はね、使う人がいなくなると、不思議に早く錆びるんだ。なんでかなあ」

 みち子が側に行くと、お父さんが話しかけました。

「まして土の中に埋めたりしたら、錆が早いだろうなあ。そうかと言って、出しておいたんでは空襲でやられるかもしれないし・・・」

 最後は独り言のようにつぶやきました。

「俺は、満足な琴はひとつも作れなかったような気がする・・・」

「元気で帰ってきて、もっと、もっと、良い琴をたくさん作ってください」

 いつの間にか側に来ていたお母さんが言いました。

「うん、死にやしないさ。だけど、また琴を作れるような時代が来るのかなあ・・・」

「来ますとも。きっと、来ますとも」

 そう言うお母さんは、少し涙声でした。

                 続く

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孫たちは1日で去る

12月27日(日)

娘の家族は、お台場を見手から帰るという。で、朝のうち家を出る。私はお台場まで行くのも億劫なので、家でさよなら。

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わが家のテーブルヤシ。

テ-ブルヤシの素焼きの植木鉢の縁に白いカビがびっしり生えた。先日それを拭き取ったのだが、10日もしないうちにまたびっしり生えてしまった。1日中日光に当てず、家の中に入れておく植木なので、素焼きというのは良くないのだろう。子供や孫が帰ったあとで、瀬戸物の鉢を買いに行き、植え替える。土も変える。

このテーブルヤシは、我が家に来てから20年くらいも経つ。ベランダに置いている鉢なども含め、わが家でもっとも長生きしている鉢植えである。

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2009年12月26日 (土)

本のないお話.3

12月26日(土)

本のないお話 第3回

さよなら さっちゃん

 昭和19年、みち子は3年生になりました。同級生のさっちゃんは、みち子と大の仲良しです。

 その日も、二人は石蹴りをして遊んでいました。そこへ何人かの男の子がやってきて、みち子に声をかけました。

「兵隊ごっこしようぜ」

「ええ、私は航空兵になる」

 みち子は飛行機が大好きなのです。

「ばかだな。女の子は従軍看護婦さんだよ」

「看護婦さんは嫌。工兵でも良いわ。工兵なら、橋を架けたり出来るから」

「でも、私は看護婦さんをやりたい」

いつも優しい、さっちゃんが言いました。

「おまえは駄目だ。おまえの家は強制疎開なのに、まだ疎開してないじゃないか。おまえは非国民だ」

 一人の男の子が言いました。みち子は、はっとしました。さっちゃんの家が強制疎開になるなんて、少しも知りませんでした。

「非国民じゃないもん。疎開するもん」

 さっちゃんは真っ赤になり、下を向いて、小さな声で言いました。

 疎開というのは、空襲を避けて田舎の方へ引っ越すことです。強制疎開というのは、、空襲の被害を少なくするため、一定の区域を決めて、そこに住む人達を強制的に立ち退かせることです。強制疎開と決まった区域の人は、立ち退く先があってもなくても、決められた日までに引っ越さなくてはならないのです。みち子の家は、東京の市ヶ谷にありました。近くに陸軍の練兵場があり、そこを守る為なのかどうか、みち子の家の、道路の向かい側の家が、強制疎開になりました。

「そうだ、非国民だ」

 他の男の子達も、口をそろえて言いました。

 非国民というのは、戦争中では、もっとも強い非難の言葉でした。国を挙げて戦争をしているのに、その戦争に協力しないとんでもない人、という意味がありました。

「引っ越すもん。非国民じゃないもん」

 さっちゃんはもう一度小さな声で言うと、泣きながら家の方に走っていきました。

「あんた達となんか遊ばないよーだ」

 みち子は男の子達に赤んべえをして、さっちゃんの後を追いました。

 そのころ、みち子のお父さんは大工の手伝いをしていました。琴は、大川さんに売ったのが最後で、それっきり売れなくなったのです。戦争になって、琴が売れたのは、ほんのわずかな間だけだったのです。

 大工の手伝いといっても、空襲の激しい東京で、家を建てる人はいません。だから、強制疎開の家を壊す仕事をしているのです。さっちゃんの家が強制疎開になると聞いて、はっとしたのは、お父さんがさっちゃんの家を壊すのではないかと思ったからです。

 昨日、お父さんがお母さんに言っていました。

「俺は今の仕事は嫌だ。まだ、ちゃんと人が住める家を壊すなんて、幾ら何でももったいないや。屋根を剥がして、壁をぶち抜いて、梁に縄をかけて、みんなで引き倒すんだ。柱がギイギイ言うんだ。家が泣いているように聞こえるよ。職人は物を作るのが仕事だよ。それなのに今のおれときたら、家を壊す仕事をしてるんだ。情けないったらありゃあしない。皿1枚でも、わざと割るのは嫌なもんだ」

 さっちゃんが家に帰ると、さっちゃんのお父さんとお母さんは荷造りをしていました。さっちゃんを見て、お母さんが腰を伸ばして言いました。

「おや、また泣いて帰ってきたの。泣き虫だねえ」

「おばさん、男の子が悪いの。だって、強制疎開なのにまだ疎開しないから非国民だ、なんて、みんなでいじめるんだもの」

 さっちゃんと一緒に来たみち子が言いました。それを聞いて、さっちゃんのお父さんが怒りだしました。

「うちは非国民なんかじゃない。明日疎開する。だから荷造りをしているんだ」

「みち子ちゃん、そうなのよ。お父さんの友達の紹介で、やっと引っ越し先が決まったの。お父さんも私も、東京の人だから、強制疎開といわれても、急には行き先も見つからなくてねえ」

 まるで大人に話すように、さっちゃんのお母さんが言います。

「みち子ちゃん、さち子と仲良くしてくれてありがとう。疎開先で落ち着いたら、さち子に手紙を書かせるから、あなたも手紙をくださいね」

「はい」

 頭をこっくりすると、みち子は走ってうちへ帰りました。さっちゃんとお別れをいうのが辛くて、黙って走りました。涙があふれそうでした。

Tati0009 その夕方、さっちゃんがお手玉を3つ持ってきました。

「みち子ちゃんと遊んだお手玉よ。お母さんが作ってくれたものなの。全部で6つあるから、半分上げる。そうすれば、離れていても、同じお手玉で遊べるもの」

みち子は缶詰の空き缶を持ってきて、中に入っているおはじきを畳の上に広げて言いました。

「ねえ、これも半分ずつにしましょう」

 続く

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孫たちが来る

12月26日(土)

夜、長女の家族が来る。本当は所沢で待ち合わせて、次女達と共に夕食を食べるはずだった。だが、連絡のミスなどもあり、私は家で待つことに。長女一家と次女が食事したのち、長女の家族はわが家へ。

孫二人は、新型インフルエンザにかかったのだそうです。知らなかった。子供はかかるんですね。二人とも今は元気だ。爺は風邪もひかず元気だ。

年賀状書き。とにかく終わりだ。年内、大掃除がまだ残っているけれど。

年賀状、何とか書き終える。

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2009年12月25日 (金)

本のないお話・2

12月25日(金)

本のないお話 第2回

お父さんの仕事

 美智子のお父さんは、琴を作る職人でした。住んでいる家の庭に、小さな仕事場があって、そこで琴を作っていたのです。琴は桐の木で作ります。それから、シタンとかコウキとかいう木を使います。シタンやコウキは石みたいに固くて、水に入れると沈みます。

 みち子は小さいときから、お父さんの仕事場に行くのが好きでした。仕事のじゃまになるときは、

「あっちへ行きなさい」

といわれます。でも、お父さんの側にしゃがんで、ノコギリやカンナやノミで、木を切ったり削ったりするのを見ることが出来るときもあります。

 仕事場にはいろいろな道具があります。みち子の手のひらに隠れるような、小さなカンナもあります。あるときそのカンナで板を削らせてもらったら、みち子の力でもちゃんと削れました。

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 そのころ、みち子は国民学校の2年生でした。今の小学校のことを、太平洋戦争のころは、国民学校といっていたのです。そうです。みち子が皆さんくらいの時は、日本は戦争をしていたのです。ですから、このお話は、戦争中のお話です。

 みち子が1年生の時は、お母さんが鉛筆を削ってくれました。2年生になると、お母さんは肥後守(ヒゴノカミ)という小刀を買ってくれました。そのころ流行っていた小刀で、刃が柄の中に折りたためるようになっていました。みち子のクラスの男の子は、たいてい肥後守を持っていました。女の子も、何人かが持っていました。お転婆で、男の子と喧嘩をしても負けないみち子が、肥後守を欲しくないはずがありません。お母さんは、それをちゃんと知っていたのです。

 そんなことを知らないお父さんも、みち子に小刀を作ってくれました。切り出し小刀の刃を買ってきて、柄とさやを付け、刃先を研いで作ってくれたのです。みち子が肥後守を持っているのを知ると、お父さんは何だかつまらなそうな顔をしました。そして言いました。

「これを使え。こっちの方が切れるぞ」

 本当に、お父さんの作ってくれた小刀の方がよく切れました。だから家では、切り出し小刀で鉛筆を削ります。でも、学校には肥後守を持っていきます。みんなと同じだからです。

 ある日みち子が学校から帰ってくると、お父さんは畳の上に湯飲みを置いて、お酒を飲んでいました。この頃はお酒が手に入らないので、大切にしていたことを、みち子は知っていました。それなのに、昼間からお酒を飲むなんて、一体どうしたのでしょう。お父さんは何かぶつぶつとつぶやいています。

「ふん、何が『琴やこっちへおまわり』だい。こちとらは犬ころじゃねえんだ。勝手口へまわしておいて『はい、これが琴のお代だよ。持っておゆき』なんて言いやがる。ご用聞きじゃねえんだ、勝手口はねえだろう。べらぼうめ。お前なんかに琴の良し悪しが分かってたまるかッてんだ」

 お父さんは江戸っ子なので、悪口を言うときは、べらんめえ口調になるのです。

 みち子は台所のお母さんに聞きました。

「ねえ、お父さんはどうしたの?」

「それがね、大川さんにお琴を届けに行って、帰ってきたらあの調子なの。よっぽどおもしろくないことがあったらしいわ。高い琴を頼まれたので、喜んでいたのだけれどねえ」

 みち子は知らなかったのですが、ここ何年かは、琴があまり売れなくなっていたのです。それなのに、戦争になったら、かえって高い琴が売れるのです。不思議なことに、高い琴と安い琴が混ざって売れるのではなくて、高い琴だけが売れるのです。

「心配していたけれど、戦争になったら、かえって景気がいいや。もっとも、今買ってくれる人は、丸山さんを別にすれば、どうせ大して弾きやしないんだ」

 いつか晩ご飯の時に、お父さんが言いました。

「そんなことが、どうして分かるの?」

「練習用に安い琴を買って、演奏会の時に良い琴を使うとか、下手なうちは安い琴を使って、上手になったら高いのを使うのが普通なのさ。あの人達は、はじめから高い琴だけだもの」

 初めに買ってくれたのは、軍人の丸山さんの奥さんでした。お父さんの琴をとても気に入ってくれて、軍人や、軍のために必要な物を作っている工場の偉い人を、何人も紹介してくれました。お父さんとお母さんの話の中に「丸山さん」という言葉が良く出てくるので、みち子もその名前を知っていました。今日琴を持っていった大川さんも、丸山さんの紹介だったのです。

「おい、酒がないぞ」

 お父さんが怒鳴ります。

「もうありませんよ」

 お母さんが答えます。

「買ってこい」

「今どき、お酒なんか簡単に買えませんよ。あなただって知ってるでしょう」

 お父さんはまだ飲み足りなそうでしたが、何かぐずぐずいいながら畳に横になり、そのまま眠ってしまいました。

                 続く

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ボラ修め 年賀状

12月25日(金)

今日は全国一律に12月25日で、北海道でも沖縄でも、クリスマスです。と、まあ、ろくでもない書き出しをしましたが、私たち歳寄りには、年末と言う方が実感があります。

年末といえば大掃除。精障者作業所Mの大掃除。その後、忘年会。忘年会といっても、メンバーさんも一緒なので、食事会ですね。近くの会場で、食事をして、お話をして、ビンゴをやって、プレゼント交換の商品をもらっておしまい。

年賀状の宛名をプリントする。ところが、昔からの個人的付き合いの人の住所録が、パソコンから失われている。趣味やボラや、その他のグループに属する人の分はあるのだが、個人として付き合いのある人の住所録は消してしまったらしい。ある程度は復元できるので、明日あらためて新しい住所録を作る。復元できない分は、しょうがないや。従って、明日も年賀状の続き。

今日も又、ドジ話がありましたね。

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2009年12月24日 (木)

本のないお話

12月24日(木)

本のないお話・1

終業式のあとで

Tati0012

 3年3組の教室はとても賑やかでした。今、終業式が終わったばかりです。終業式では、担任の山田美智子先生が、学校をやめて山梨へ行ってしまうと言う話しがありました。この学校では、担任が大抵2年くらい、同じクラスを受け持ちます。だからみんなは、4年生になっても、山田先生が担任になるのだとばかり思っていました。それなのに、終業式で、山田先生が学校を辞めると発表されたのです。

 教室のドアが開いて、山田先生が入ってきました。

「先生、どうして学校をやめるの?」

「なんで今までないしょにしていたの?」

みんなは口々に聞きました。

「今まで黙っていてごめんなさい。言うと寂しくなるので、わざといいませんでした。実は先生のお母さんがずっと、山梨の田舎に住んでいます。そのお母さんが歳をとって、体が弱くなったので、先生が一緒に住むことになったのです」

 先生が静かに話しました。

「先生が皆さんくらいの時、日本は戦争をしていました。それから、戦争が終わって、誰もが苦しい生活をしました。そんな中で、お母さんは苦労をして私を育ててくれました。今度は、私がお母さんの世話をしようと思います。ですから、田舎に行くことにしたのです」

「先生のお母さんは病気なの?」

和子が聞きました。

「ええ。悪いところもあるようです。先生は学校を辞めますが、皆さんは、今までと同じように、元気な4年生になってください。みんなのことは、何時までも忘れませんよ。でも、辞める話はそれくらいにしましょうね。落ち着いたら、先生が皆さんにお手紙を出します。皆さんも、きっとご返事をくださいね」

 みんなは、もっともっと話を聞きたいと思いました。でも、先生はそれ以上話してくれそうもありません。クラス中がシーンとしました。いつもは賑やかな正夫も、何だか淋しくなってきました。その淋しさがたまらなくなって、わざと大きな声で言いました。

「先生、今日は本を読んでもらう日です」

「あっ、そうだ。お話の日だ」

「本を読んでください」

 ひろしも、次郎も云いました。山田先生は1週に1度、みんなに本を読んでやっていたのです。みんなはそれを、とても楽しみにしていました。

 教室が少しザワザワしてきました。

「そうですね、お話の日ですね。だけど、今日は本を読みません」

いつもの、少しいたずらっぽい目をして、先生が言いました。

「ずるい。お話がなしだなんてずるいと思います」

びっくりするほど大きな声で、正夫が言いました。先生はクスリと笑いました。

「本は読まないけれど、お話はします。今日は先生の知っているお話をします。本のないお話です」

 みんなはお話が聞けると知って、ほっとしました。でも、本のないお話って、どんなお話でしょうか。クラス中が、まっすぐ先生の方を見ました。先生は静かに話し始めました。それは次のようなお話でした。

                   続く

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人物練習帳・4 歩き方

12月24日(木)

老人介護施設Kへ。

Photo

Tati0010 上は新聞や広告の写真を模写。左は昨日の電車内のスケッチ。描いている人が電車から降りたら、もうかけません。だから急いで描くのですが、その前に人が立っても、もう駄目です。途中で終わることも多い。

私は体を左右に揺すって歩く癖がある。先日、何年かぶりであった人が、

「歩き方で、遠くからぼんくらカエルだな、と思った」

という。中学の時、ある先生に注意された。

「その歩きは今の内に治す方がよい」

それでも、あまり気にしなかった。この癖は死ぬまで続くんだな。

ブログを書き始めたとき、幾つか童話を載せました。その頃は一月に1-3回くらいしか更新しなかったのです。今は毎日更新しているわけですから、同じ童話ですが、今日からもう1度載せたいと思います。

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2009年12月23日 (水)

北高尾

  12月23日(水)

一昨日の夕方、数人の仲間と23日に北高尾の登ることに急に決まる。6名参加。

Imgp2659

Imgp2666

コース

八王子城趾ー詰の城ー富士見台ー杉沢の頭ー高ドッケー狐塚峠ー小下沢林道ー小下沢分岐ー小仏

急に決まったので、コースも地図を見て、相談しながら変えたりする山行でした。日が短い時期なので、あまり無理をしないコース取りです。

Imgp2668_3

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小下沢林道から小下沢分岐へは沢沿いの道。

コース全体としては針葉樹の多い道でした。最後はこのような木漏れ日の道。

新所沢で忘年会。

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2009年12月22日 (火)

耳が遠くなりました

12月22日(火)

台所の棚、吊り戸棚、流しの下の棚などの掃除。2時間ほどかかりました。

買い物をして、耳鼻科に行って、あとはぶらぶらして1日を過ごす。耳が遠いのです。もう2-3年前からはじまっていますが、これまで病院には行っていませんでした。医師は、いろいろ調べたあとで、

「加齢による難聴」

だそうです。分かってるんだよそれは。

「高音が聴き取りにくくなっている」

それも。分かってるんだ。

「そろそろ補聴器を考える時期」

ああ、それも分かってる。

それにしても、耳鼻科で紹介する補聴器って高いねえ。ポケットに入れて耳にコードで繋ぐのが4万円以上、耳にかけるのが7万円以上、耳の穴に差し込むのが10万以上だってサ。

ポケット型はTシャツでは使えない。耳かけ型は眼鏡との併用が出来ない。とすれば耳穴式しかないじゃないか。10万円から14万円だって。こんな時は貧乏を嘆きたくなる。憂鬱だねえ。

今日は寒い。エアコンつけないわが家も寒い。ふところ寒くて、心も寒い。酒飲んで寝よう!っと。

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2009年12月21日 (月)

あれ? 今日だったのか

12月21日(月)

パソコンを開いたら娘からのメールで「誕生日おめでとう」だって。思わずカレンダーを覗きました。紛れもなく12月21日。近いうちだと思っていたけれど、今日だなんて思っていなかったぜ。もう惚けが相当に進んでいますな。

それにしても、誕生日に一人で冷や酒を飲んでいるなんて、トホホ。

精障者作業所Mへ。

人物練習帳・3

Photo

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2009年12月20日 (日)

天覧山、多峰之主山ウオーキング

12月20日(日)

歩く会で、天覧山、多峰之主山へ。

また今日もドジ話から始めなくてはならない。私のドジ話は、食傷気味でしょうが、我慢しておつきあいください。

今朝、何人かと待ち合わせ場所にしていた稲荷山公園駅に行こうとしたが、マンションの自転車置き場に私の自転車がないんです。昨日、車椅子と仲間の会に自転車で出かけて、バスで帰ってきたのです。慌てましたね。バスでは間に合わない時間です。それでも狭山市駅まではバスで行き、狭山市駅から稲荷山公園駅にはタクシーを使いました。何とかギリギリセーフです。

ドジ話は、まだあるのですが、それはあとにして、取りあえず写真です。

Imgp2640

駅から歩いて、最初に寄った観音寺では、梅が咲いていました。

同じ観音寺の水原秋桜子の句碑。

  むさし野の空真青なる落ち葉かな

Imgp2639

  

観音寺では梅が咲いていましたが、能仁寺の境内では霜の華です。

Imgp2644

やはり寒いのです。能仁寺の庭園を拝観しましたが、紅葉の季節ならよかったんでしょうけれどもネエ・・・。境内は美しいと思います。

Imgp2645

天覧山、多峰之主山を経て御岳八幡神社へ。天覧山からは白い富士が見えたのですが、上の方だけで、私のカメラの腕では、あまり映えた美しさには写せませんでしたのでカット。

多峰之主山は人が多く、一休みしただけで、御岳八幡神社前で食事。

Imgp2647_2

ここでもう一つのドジ話。朝慌てふためく状態でしたから、昼食は用意していませんでした。天覧山の登山口にコンビニがあるのを知っていたので、そこで買うつもりでした。でも、それも忘れてしまったのです。心優しい女性達に食料を分けてもらうありさまでした。これですむなら、これからそうしようか・・・なんて、嘘ですよ。

永田大杉に下山して、女性陣は飯能銘菓四里餅を買う。

吾妻峡、飯能河原に寄って、飯能駅へ。天気がよいのがなによりでした。

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2009年12月19日 (土)

車椅子の会望年会・俳句の会

12月19日(土)

まずは下手なスケッチから。

Photo車椅子と仲間の会の望年会で、市の財政事情を説明する市会議長中村正義氏。紙がないから手帳に描いちゃった。

というわけで、車椅子と仲間の会の望年会がありました。車椅子の会では、以前から「望年会」と言っています。近ごろはこんな例がよくあります。忘年会を望年会といったりするようになったのは、いくらか生活が豊かになってからでしょうね。ほんとに苦しかったら、その年は忘れたいんだもの。

ところで中村市議、器用な人で、今日は大正琴を奏で、ハモニカを吹いた。懐かしい歌ばかりです。

その歌の中に「みかんの花咲く丘」がありました。するとボラ仲間のNさん、

「その歌はおじさんの作詞した歌」

だという。母方のおじさんだそうだ。伯父なのか叔父なのかは聞き漏らした。そのほかに「可愛い魚屋さん」なども作詞したのだそうだ。みんなに愛された歌ですね。

その後、遅刻して「つばさ俳句会」へ。高点句の選評が終わったあたりから参加。

次回は新年句会なので、その準備の話しなども。

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2009年12月18日 (金)

水彩画の会忘年会

12月18日(金)

Tati0009

 

Tati0010

ドジなことを沢山しました。

先週の月曜日、稲荷山公園駅に自転車を忘れ、忘れたことを忘れて今日まで過ごしました。昼少し前に気がついて、バスを乗り継いで取りに行き、帰ってから、水彩画の会へ。

教室に着いたら、会計の帳簿とお金を忘れてきたことに気づきました。今期、私は会計を担当しています。どういう訳か、俳句の会の会計もやっています。とにかく絵の会のほうですが、今日は忘年会があり、会計が金を忘れては困る日なのです。で、取りに帰りました。他にもあるのですが、惚けの話しはこれだけにします。

教室のある公民館にわれわれの会の画材が置いてあるのですが、だいぶ前からこれを整理しなくてはと思っていました。そのために使う段ボールの箱を近くのスーパーにもらいに行き、古いダンボールに入れられた画材を整理、ごみはごみ、必要な物は必要な物と仕分けをしました。

そんなこんなで私の絵を描く時間はなくなり、やむを得ず、絵を描いている人の顔などをスケッチしました。それが上の画像です。人物練習帳みたいですが、こちらは画用紙に描いたもの。練習帳の方は、メモ用紙に描いています。

教室が終わって忘年会。会場は、ここ何年か公民館近くの華屋与兵衛です。

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2009年12月17日 (木)

人物練習帳

12月17日(木)

ボラグループ定例会。

Hさんが今回でボラグループを去る。だんだん淋しくなるね。

老人介護施設Kへ。

人物練習帳

新聞や広告の写真を模写したもの。朝起き抜けに、布団の上に座り、インスタントコーヒーを飲みながら、描いています。

Tati0009

原則として1日1枚です。ですから、今日アップしたのは8日分という事になります。

Tati0010

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2009年12月16日 (水)

怪異を語れば怪異が至る

12月16日(水)

御伽婢子・156 最終回

怪異を語れば怪異が至る

昔から怪しい話し、恐ろしい話しを100話すれば、怪しいこと、恐ろしいことがおこると言われている。

100物語をするには、方式がある。月の暗い夜、行灯に100筋の灯を点し、その行灯には青い紙を張るのである。ひとつの話しが終わるごとに、灯をひとつずつ消していく。そうすると終わりごろには座は暗くなり、青い紙に怪しい影が映り、不気味な気配が漂ってくる。

下京辺りの人が5人集まり、方式の乗っ取って、100物語をした。それぞれが着ているものも、青い小袖であった。

話が進んで、6.70話におよぶころは、春なのに、風が激しくなり、雪さえ降ってきた。その頃の気候にはない寒さで、髪の付け根に沁みるようにぞくぞくとしてきた。

窓の外にちらちらと光がさし、幾千万の蛍が飛ぶようで、それがついに、部屋の中に入ってきた。丸く集まって、人間の身長ほどの直径の鏡のようになり、毬のようになる。あるいは砕け散って今度は白い塊になり、天井に張り付き、畳の上にどさりと落ち、雷のような音がして、それは消えた。

5人は5人とも気絶してしまった。家の者に助けおこされてどうと言うこともなかったが、100物語のせいである。

諺に言う。日中に人の悪口を言うなかれ。言えば害が自分に及ぶ。夜中に鬼を語ることなかれ。語れば必ず怪異に至る、と。

したがって、この物語も100話に満たずして、ここに筆を留める。

                     完

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悔い改めればOKなの?

12月16日(水)

寒い日だ。

レンジの上の換気扇、それにレンジまわりの大掃除。わが家の大掃除では、毎年これが1番大変である。どうも、換気扇の構造がよくないような気がする。他の家の換気扇は知らないけれど、わが家の場合、外したり取り付けたりするのが容易ではない。結局、換気扇だけで3時間くらいはかかるのである。それにレンジまわりをやったので、今日の大掃除は4時間です。

長く続けたてきた『御伽婢子』の現代語訳は今日で終わります。やれやれ。

仏教説はなどでよくあるパターンに、長年真面目に修行したのに、最後の過ちがあって、すべてをパアにしてしまうというのがあります。又逆に、悪いことばかりやったのに、最後に悔い改めたので極楽へ行くなんてのもありますね。もちろん『御伽婢子』にもこのパターンがあります。

でも、考えてみると、これは何かおかしいよ。終わりさえ正しければ、途中はどうでもいいことになっちゃう。何をやっても、死ぬ前に悔い改めればオーケーってのはナア・・・。人生は、途中も大切ではないですか。でも・・・私もそろそろ悔い改めようかな、死ぬ前に悔い改めなくちゃ・・・今やらなくては間に合わなくなっちゃう。

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2009年12月15日 (火)

馬が人間の言葉を話す

12月15日(火)

御伽婢子・155

馬が人間の言葉を話す

延徳元年(1489)3月、公方足利義輝は佐々木判官高頼を攻めようとして、軍を率いて近江に陣を敷いた。しかし病気になり、26日に崩じた。

その前夜、広い厩に繋がれた馬のうち、芦毛の馬が、まるで人間のようにものを言った。

「もう駄目だろう」

たてがみの黒い馬が答えた。

「悲しいことだ」

厩の前には中間、小者など多くの人がいて、みんな馬野はなすのを聞いた。みんな、驚き怪しんだけれど、つぎの日、将軍義輝公は崩じた。

まことに不思議なことである。

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神も仏も順位がある

12月15日(火)

年賀状の裏面を作り、印刷。前もって絵を描いてあったので楽。取りあえず90枚。宛先印刷は又あと。

午後は例によって入間川の土手を散歩。写真も絵もありません。

Imgp2626

この絵は以前に描いたものですが、山形のある寺の仏像です。侍仏だそうです。

『梁塵秘抄』(植木朝子編)を読んでいると、次のようなものがありました。

  遊女の好むもの 雑芸 鼓 小端船 

  おおがさ翳 艫取女 男の愛祈る

  百太夫

(遊女の好むものは、今様の歌うた、鼓、小端船、おおがさを翳す人、船を漕ぐ女、男の愛情を得られるように祈る百太夫の神。・・編集者の訳)

今様(イマヨウ)というのは今風のはやりうたという意味で、平安時代に流行ったうた。「おおがさ」は竹冠に登ると描くのだが、字を出せない。「百太夫」とは道祖神の別名だという。峠や村境などにあって「悪霊疫病を防ぐと共に、恋愛を司る神」なのだそうである。なるほど、道祖神には男女の睦み合っている浮き彫などがありますね。ところで道祖神は神としての位が低いんだって。庶民や遊女などに信仰される神は、位が低いんだね。

神も仏も、お賽銭を上げる人がいなければ営業できません。だから神や仏のために、人間が必要なのです。私は無神論者だから、このように罰当たりのことを言います。もっとも、無神論者だから、罰が当たると思っていませんけれど。

とにかく、神や仏の地位には、人間の地位が反映するんですね。人間が地位にこだわれば、神にも地位が出来るわけです。

ところで最初に載せた仏像ですが、侍仏というのは、地位の低い仏だそうです。この侍仏、大日如来の来迎をかしこまって待っているところです。大日如来が天井から降りてくるんですね。仏の地位も沢山あるらしいよ。

人間って、順位を付けるのが好きだなあ。

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2009年12月14日 (月)

棒ノ嶺

12月14日(月)

精障者作業所Mへ。

街頭で、精障者支援の配り。畑、自主作品作り。

山の会、13日の山行、棒ノ嶺。

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                                                                                                         Imgp2631

白矢沢コースはこのような岩の間を登るのが魅力。奥武蔵の一般的な登山コースの中では、私のもっとも好きなコースです。今日は沢山のパーティが入っていました。

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頂上からの眺め。

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2009年12月13日 (日)

谷田の泉・笹井ダム

12月13日(日)

山の会で棒ノ嶺に行きましたが、それは明日書きます。

この下は昨日の出来事です。

Photo

西武線元加治駅近くの円照寺です。

Photo_2

これれは白髭神社。

天気がよかったので、散歩です。元加治から谷田の泉を見て、入間川に至り、笹井ダム、新富士見橋から狭山市駅へ。目的の谷田の泉は、見てガッカリ。なんと言うこともない水溜まり。水が湧いているわけですが、それだけでは特に感心もしない。わざわざ尋ねていくほどではない。まわりの林がちょと良いかな。

Imgp2610

入間川に出て狭山市へ向かって歩く。やがて笹井ダムへ。

Imgp2612

Imgp2618

白鷺たちが集まって会議でもしているのかな? 「環境汚染が進む中で、われわれはいかにして安全な小魚を確保するか」なんて問題を鳩首(鷺なのに)会議している?

最後に1枚、笹井ダムのスケッチ。

Tati0009

特養老人ホーム「さくら」スタッフの忘年会に招待され出席。

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2009年12月12日 (土)

休むはずでした

12月12日(土)

ブログを休むと書いたのですが、あらためて書きます。

ボランティア先の特養「さくら」の忘年会から帰ったところです。忘年会に呼ばれていたので、早いところブログを片付けようと思って、午後にパソコンにむかったのですが、何処をどう誤ったか、調子をおかしくしてしまいました。あっちをいじり、こっちをいじりして何とかブログを開けるようにしたのですが、その時はもう、忘年会に出かける時間になったいました。明日は山の山行なので、二日間休むと書いてブログを閉じたのです。

毎年、「さくら」の忘年会のつぎの日が山行の日です。深酒は出来ないと思いながら、好きな道で、飲んでしまいます。

今日は入間市の湧水地の散歩などもしているので、写真と共にそれも書くつもるでしたが、それは14日以後に書きます。今日のブログは、風呂を沸かす合間に書いています。これから風呂に入って、明日の用意をして寝るつもり。いくらか早起きをしなくてはならないのです。

飲んで風呂というのは、本当は避けなければならないのだと思いますが、まあ大丈夫だろうとたかをくくっています。

このブログ、明日からの記事がなくなったとすれば、風呂でめでたく昇天と言うことになります。それはそれで、まあいいや。

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ブログを休む

12月12

日(土)

ちょっとパソコンの様子がおかしいのです。やっとこのページを開きましたが、安定しません。今日と明日、パソコンを休みます。体調は正常です。悪いのは、頭とパソコンの調子。

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2009年12月11日 (金)

鬼にたぶらかされる・2

12月11日(金)

御伽婢子・154

鬼にたぶらかされる・2

前回のあらすじ 小石伊兵衛は河内の国片岡の城に籠もっていたが、負け戦になりそうなので、城を抜け出し、臨月の妻を連れて逃げた。大和の国に入る峠で休んでいると、妻が使っていた女が後を追いかけてくる。妻は産気づき、女はかいがいしく働いて妻は無事出産した。山の中で夫婦はまどろむ。

女房が目を覚ますと、女は懐に抱いた赤ん坊の頭を、舌を出して舐めている。不審に思って見つめると、女の口は耳まで裂け、赤ん坊の頭に食いついた。妻は驚いて、そっと夫を揺り起こした。

目を覚ました伊兵衛はこのありさまを見て、そっと刀を抜き、女に斬りつけた。女は毬のように弾み、木に飛び上がったかと思えば地上におり、又梢に飛び上がり、姿形も鬼になり、赤子を食い続ける。やがて20㍍くらい離れた岩の上に立ち、赤子を食い尽くした。伊兵衛は猛り狂って斬りかかるけれども、夢のごとく、影のごとく、ふわりふわりと飛び回り、刀にかすりもしない。やがて、蝶かトンボのようにどこかへ行ってしまった。

肩を落としてもとの木の辺りに来てみたら、妻もいなくなっている。呼んでみても返事がない。伊兵衛は山の中をあちこち探し回った。明け方になって、奥の岩の上に置かれた妻の頭を見つけた。鬼の仕業である。涙と共に妻の頭をその土に埋め、とぼとぼと大和をめざして歩いた。

伊兵衛は世の無常を思い、高野山の麓、新別所と言うところに籠もって修行をした。その後のことは誰も知らない。

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浅井了意

12月11日(金)

年賀状のための絵を描いて過ごす。楽しい絵になった。

浅井了意の『御伽婢子』の現代語訳は、どうやら今年中に終わりそうだ。先に『狗張子』そして今度の『御伽婢子』と、浅井了意とはブログ上で長い付き合いになった。

このブログは「俺は無事でいるぞ」という子どもたちへのメッセージが第一目的だから、とにかく毎日書かなければならない。ただかいているだけでは退屈なので、試みに『狗張子』の現代語訳をやってみたのが去年の5月である。それが、2作目の『御伽婢子』が間もなく終わろうとしているのだから、よく続いたものだと我ながら思う。どちらの作品もブログを書かなかったら、通して読むことさえなかっただろう。

両作品とも擬古文のスタイルで書かれている。古文の知識があるわけではになし、誤訳・珍訳何でもありだと思って始めた。それでも、『狗張子』7巻、『御伽婢子』13巻を訳せば、さすがに初めのころよりは楽になる。今では『狗張子』の誤訳に気がついたりしている。

何しろ子どもたちへのメッセージが第1目的なのだから、他の読者のことはあまり気にしない。それでも公開しているのだから、人に迷惑をかけたりすることのないようにとは注意している。その点、自分しか読まない日記とは違う。不便もある。

『狗張子』や『御伽婢子』など読んでくれる人がいようとは思っていなかったけれど、少数ですがいるんですね。ありがたいことです。

作者の浅井了意は僧侶のようですが、著作はやたらと多いらしい。ペンネームなども、幾つもあるようです。

この方、とにかく順位を気にしますね。登場人物でも、誰が上座に座って誰が下座だとか、2番目の席がどうで、3番目の席がどうだとか、幽霊になって出てきた人にまで順位があるんです。私には異常な気がしますけれども、ついこの間まで、日本人は順位を気にする国民でした。順位が定まったとき、そこが安定した居場所になる・・・昨日の続きみたいですが、それが日本人だったのかな? 縦社会なんだよね。

『御伽婢子』が終わったら、当分このようなことをするつもりはありません。それでも『ぼんくら日記』の方は続けます。何回も書くように、子どもたちへのメッセージが主目的ですから、特に読者を増やそうとかはしてきませんでしたし、これからもしません。ですが、自然に読者が増えるのであれば、やはり嬉しいと思います。少数の読者の方々、今後ともよろしくおつきあい願います。

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2009年12月10日 (木)

鬼にたぶらかされる・1

12月10日(木)

御伽婢子・153

鬼にたぶらかされる・1

摂津の国(一部大阪、一部兵庫)の兵、小石伊兵衛は河内の国片岡の城に籠もった。しかし大将の松永は悪行を重ねるし、寄せ手は大軍で意気が上がっている。とても勝ち目はない、逃げるにしかずと思って、夜陰に乗じた城を抜け出した。

兼ねて打ち合わせた通り、弓削と言うところに隠れていた妻と落あい、夫婦で逃げた。妻は身重である。それも臨月だ。大和をめざして逃げたけれども、妻の足は重く、峠にかかったころには、疲れがひどかった。そこで妻を休ませることにしたが、もし兵士達に見つかっては拙いので、道から0メートルばかり、藪の中に入った。

暫くすると、泣きながら峠を登ってくる女がいる。その泣き声をよく聞くと、どうやら妻が使っていた女である。逃げる身であるから、あえて連れてこなかったのだ。それをわざわざ追いかけてくる、そのこころざしが可愛くて、伊兵衛は声をかけた。

女は喜び、恨み言を言った。

「なんで連れて行ってくれないのです。私は何処までも一緒にいたいと思っているのに」

女の心が嬉しく、これからは3人で逃げることにした。そこで休んでいるうちに、妻は急に産気づいた。夫の伊兵衛は何をしてよいか分からず、ただおろおろするばかり。女はかいがいしく働き、無事に妻の出産をすませた。

この女が来なければ、どうしてよいか分からなかった。よくぞ跡を追ってきてくれた。夫婦共に女に感謝した。夜が明けたら山の中の家を探し、頼み込んで、養生させてもらおう、と赤ん坊を抱きながら、3人で話しあった。

女が赤ん坊を抱き、女房は木の幹に体をもたれさせてまどろんだ。伊兵衛も眠った。

                      続く

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居場所

12月10日(木)

老人介護施設Kへ。

精神障害者は自分の居場所を求める人達、と、ある人が言った。

でも、これ、みんな同じでしょう。われわれだって自分の居場所が欲しいよ。サラリーマンでの窓際族は、あまり良い居場所とは思わないだろう。もっと自分にふさわしい場所を、内心では求めているだろう。

人間ってのは、自分にふさわしい居場所を見つけるのは、案外難しいんだよね。まわりの人が、あいつにふさわしい居場所と思っても、本人はもう少し良い場所を求めるしね。たいていに人は、まわりの人が評価するより、自分を高く評価するもの。

私は独り者だから、自分の家に帰れば一人だ(当たり前だろう・・バーカ)。だから自分の家は何処でも自分の居場所だし、それにほぼ満足している。

満足している、と言い切らずに、「ほぼ」を付けたのは理由がある。欲を言えば私の隣に吉永小百合でも座っていてくれたらいいなあと思うからだ。米倉涼子でも良いよ。

独り者が自分の家にいても、そこが自分の居場所と思えない人も多いだろうね。それで夜な夜な繁華街をうろついたりしてサ。

私が自分の家でのんびり出来るのは、日中いろいろな人と接しているからかもしれに。もともと少し孤独癖はあったけれども、完全な孤独なんて、誰も絶えられるものではない。ほどほどに人に会っているから、家にいるときくらいは一人でも苦にならないのである。酒もあるし。

外に出ていれば、さまざまな組織に属したり、関係したりするのである。絶対的な孤独には誰も耐えられないけれど、どの程度の孤独に耐えられるかと言うことに関しては、個人差だある。組織に埋没しなければ不安でしょうがないという人もいるんだよね。

私などは、組織の中にいても、時には外から見るような目も必要と考えている。精神の自由のためには、一人になることも必要と思う。でも、あんまり醒めすぎて、いつでも冷ややかに見るだけ、というのもどうかなあ。ウーン。書いているうちに分からなくなってきた。もうやめます。

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2009年12月 9日 (水)

シラミの瘤

12月9日(水)

御伽婢子・152

シラミの瘤

日向の国の商人、背中に掌くらいの熱を持つ部分が出来、まるで燃えるようになった。20日くらい経ったら、熱はなくなったが、今度は痒くてしょうがない。そのうち腫れ上がり、盆を伏せたような状態になった。痛くはないのだが、痒くて痒くてたまらない。おかげで食事も進まず、骨と皮ばかりになってしまった。

財力にまかせてあちこちの医者に診せ、飲み薬だ軟膏だといろいろ試したが、少しも効き目がない。

その頃南蛮の商船で来たチャクテルスという名医がいると聞いたので、つてを求めて診てもらったところ、虱瘤(シツリュウ)といって、皮と肉の間に虱が湧く病気だそうだ。

普通の虱は皮の上に湧いて、1晩のうちに3升も5升も出てくることがある。シラミは衣類に満ち満ちて人肉を食らい、血を吸う。痒くてしょうがないけれども、他人にはうつらない。この病気は医者ならば誰でも治せる。虱瘤は知る人がいない。とチャクテルスが言う。

チャクテルスは患部に薬を塗った。そして言った。

「今晩きっと、シラミが這い出します」

その夜、瘤の天辺が破れて、シラミが次々と這い出してきた。その量はおよそ1斗ばかりである。みな足があった、ゴマくらいの大きさ、色は赤い。

商人は体が軽くなり、食も進んだ。シラミの出た後に、穴がひとつ残って、ときどきそこからシラミが這い出してくる。

チャクテルスは樹齢100年の唐木を焼いて龍の飲む水で練った薬でなければその後を直せないという。少し持っているので1匙上げましょうと言うことで、その薬を塗ったところ、17日ばかりして、傷の跡もすっかり治った。

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組織を守る

12月9日(水)

生きているものは、まず自分の身を守る。そして、家族や自分の愛するものを守る。その次くらいに、自分の属する組織を守る、というのが来るのかな。ときどきは逆転して、愛する組織のために我が身を捨てる、なんて言うのもあるけどね。

昨日は、太平洋戦争開戦の日。私は何がなんでも、戦争は絶対悪だと思っているけれども、そうは思わない人も多いんですよね。そんな人は、正義のための戦いなんて言うんだ。そのために、自爆テロをする人だっている。

アメリカにはアメリカの正義があり、イラクにはイラクの、アフガンにはアフガンの正義がある。一方の正義だけが正しいわけではない。正義のための戦いといって武器を取っていた日には、この世界から戦争は無くならないのである。

人間には戦争に限らず、他人を攻撃したいという、闘争心があると思う。それを、スポーツや碁や将棋や芸術や口論で競っていれば危険はないが、武器を持ったらアウトです。その武器が、国単位だと核兵器になったりする。危なくてしょうがない。核兵器の戦争抑止力なんていっているのは、やくざの論理だ。

国という単位は、われわれの属する組織の中で、1番とは言えないが、かなり大きい組織である。その組織のために核兵器が必要というわけだ。でもね、本当に核兵器が必要だと思っているのは、国ではなくて軍隊かもしれない。軍隊は国を守ることになっているが、最後になったら国に反しても軍隊は軍隊を守るよ。軍人が直接属する組織ですからね。太平洋戦争も、海軍や陸軍が、軍を守るために始めてしまったらしい。国の運命よりも、軍の運命の方が大切だったんだ。そして国民には自己犠牲を要求した。最たるものは特攻隊。

鳩山さん。3党連立は大切だけれど、連立という組織を守ることが最優先、と考えているわけではないでしょうね。

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2009年12月 8日 (火)

隋転力量・2

12月8日(火)

おとぎぼうこ・151

隋転力量・2

前回のあらすじ 隋転という修行僧は学問はあまりないが、力が強かった。信州で山賊に襲われたとき、逃げ疲れて松の木に座った。山賊が追いつくと、有り金は上げるから命だけは助けて、といい、松の木に座らせた。山賊が松の木に座ると、隋転は立ち上がった。すると松の木は跳ね上がり、山賊ははじき飛ばされて谷底に落ちた。隋転は松の木をねじ曲げて座っていたのである。

越前の朝倉家の家来に摩伽羅十郎右衛門という者がいて、北国一の力持ちだと評判であった。隋転は力比べを申し込んだ。

隋転は縁の上に立ち、摩伽羅は敷居の際に立った。そして隋転の手を握り力任せに引っ張ったが、隋転はびくともしない。隋転は縁の板を踏み抜き、、摩伽羅は敷居を真ん中から折った。人々は肝をつぶし、両方とも対等の力だと言った。

あるとき、隋転は問答の場に出たが、1門も答えられずに負けた。隋転は赤面し、大いに恥じた。

その日托鉢をして歩いたが、誰も食を与える者がない。まことに味気なく、出家として恥をかくよりは、還俗する方が良いと思い、鉢を割り、袈裟を捨てて、摩伽羅の家来になった。しかし最後は、姉川の合戦で討ち死にをした。

隋転は還俗の罪は深いことを知っていたので、還俗したとは言っても、毎日念仏は怠らなかった。そのためか、最期の時には、口から白い雲のごときものを吐き、西を指して飛んでいった。西方浄土に行ったのであろう。

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飯能と加治丘陵散歩

12月8日(火)

飯能と加治丘陵の散歩をしました。

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上は観音寺境内下は飯能恵比寿神社から見た楓。電線がじゃまですね。次は能仁寺山門です。これまた文字が隠れました。写真の取り方が下手ですね。たしか「武陽山」だと思いましたけれど、確信は持てません。

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飯能駅すぐ側の入間川の川原に出ました。飯能河原と呼ばれるところは知っていたのですが、駅のすぐ近くにこんなところがあるなんて、知りませんでした。なかなかの景色です。

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飯能駅から電車に乗って、仏子駅下車。入間市の旧サイクリング道路が遊歩道になっているというので、加治丘陵を歩く。加治丘陵といえば、先日も歩いたのですが、そことは隣り合わせみたいな場所です。

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コースは1度は簡易舗装をしたことがあるようで、比較的歩きよい。場所によって公共の違いもありますが、1.5メートル幅くらいが舗装されています。針葉樹の林が多いようです。

コースの中ほどに桜台展望台があり、360度の展望。但し、晴れてはいても室だが高いのか、遠くははっきりしません。丹沢の大山がやっと見える程度で、富士山はまるで見えない日でした。

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最後に、飯能駅近くの河原で描いたスケッチ。

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2009年12月 7日 (月)

隋転力量

12月7日(月)

御伽婢子・150

隋転力量・1

隋転(ズイテン)は房州の人である。幼くして出家し、のち武蔵の国小石川の伝通院で仏法を学んだ。

貧しくて朝夕の食事にも事欠くくらいだったので、山梨、長野、栃木、群馬の辺りを乞食して歩いた。そのため学問の方は進まなかったが、大変な力持ちである。一緒に学ぶものの間で、彼にかなうものはいなかった。そのため修行僧たちは、彼に明上座というあだ名を付けた。

中国の神秀禅師に従う者に、明上座という大力の法師がいた。禅宗6祖の1人恵能大師が旅行したとき、明上座が譲り受けた袈裟を持っていった。明上座は追いかけていき、袈裟を取り返そうとすると、恵能大師はその袈裟を石の上に無造作においた。明上座が取ろうとしたが、なんとも重くて、持ち上げることが出来ない。

「その袈裟は、力では上がらない。明上座よ、袈裟を着る者の本来の目的を考えなさい」

恵能大師に諭されて、明上座は翻然と悟るところがあった。

さてわれらが明上座の場合、力ばかり強くて、学問はまるで駄目だったので、仲間が馬鹿にして付けたあだ名である。

隋転(明上座)が信州の山中を通ったとき、山賊にであった。隋転は、ひとまずは逃げた。足にまかせて逃げたけれども疲れてしまって、近くにあった松の木を引き倒して、その上に腰をかけた。追いついた山賊に、隋転が言う。

「逃げようとしたけれども、息が切れて逃げ切れません。もう諦めました。有り金は全部差し上げますから、命だけは助けて下さい。とにかく、ここに座って下さい」

山賊はそれならばと隋転が座っている松に腰をかけた。すると隋転が立ち上がり、無理に曲げられていた松の木は跳ね上がった。山賊ははじかれて谷底に落ち、死んでしまった。

隋転はこのような力持ちである。

              続く

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タイガー・ウッズ

12月7日(月)

精障者作業所Mへ。

ゴルフのスーパースター、タイガー・ウッズに愛人がいたとかで話題です。Mの近くに食堂がないので、昼食は新狭山駅近くまで行きますが、今日行った蕎麦屋のテレビでは、タイガー・ウッズの問題を取り上げていました。愛人が11人もいたなんて言う話まで飛び出して、何処までほんとなのか分かりません。

どっちにしても、私には関係ないので、どうでもいいんだけどね。

人間というのは、正しいことだけやっている人なんていないと思うし、悪いことだけの人というのもいないでしょう。どっちに傾きが多いかという、バランスの問題でしょうなあ。私なんか、今思えば随分恥ずかしいことも沢山やってるよ。ここにそれを書くだろうなんて期待しないで下さい。恥ずかしいことだもの、書かないさ。

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2009年12月 6日 (日)

結核の家系を救う・2

12月6日(日)

御伽婢子・149

結核の家系を救う・2

前回のあらすじ 中山中将通親朝臣の娘が尼になったが、結核で死んだ。看病した妹にも結核が移り、痩せ衰えた。家族は養生や薬では治らぬと悟り、牛頭天王に祈願して治そうとした。病人は夢の中で、明日来る僧に治してもらえと告げられる。

次の朝、50歳くらいの出家が中山殿の門をくぐり、托鉢に来た。家の者はその僧を請じ入れ、病人の見た夢を話し、病気を治して欲しいと頼む。

「私はただ戒律を守って、托鉢修行している者に過ぎません。我が身を清く保つだけで、不浄な者に近づくようなことは出来ません」

「そうおっしゃらずに、お願いいたします。僧侶は大慈悲心で人を助け、我が身を忘れて他人のために尽くすのを本分としていると聞きます。一人の命を救うことで、まわりの者は喜びます。まして夢のお告げがあったので、こうしてお願いしているのです」

「そこまで言われては断り切れません。それでは、白絹1反をください。それで病を払いましょう」

中山家では白絹1反をその僧に差し上げた。僧は、それを受け取って帰った。

その夜、病気の姫君は夢を見た。仏像が門から入ってきて、12人の神様がそれに従っている。そしてひとつのお札で、12人の神々が、代わる代わる娘の体を撫でる。頭から足の先まで撫でまわした。すると体から白い糸筋のようなものが出て、天を指して昇っていった。

姫君が夢から覚めると、なんとなく心地よくて、気分が爽やかになり、食も進んだ。

つぎの日、昨日の僧が来て、絹に何事か書いた物を与え、跡をも見ずに消えてしまった。なんだろうと思って封を開き、中を見ると、薬師尊像の絵を墨で描いていた。

その絵を姫君の枕元に掛けて、朝夕香を焚き、礼拝して敬っていたら、病は程なく癒えた。

この僧のことは誰も知る人がなかった。多分、牛頭天王だったのだろう。仏の力の不思議を信ずることは、虚しいことではない。

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共用部分の大掃除 ラーメンと味噌

12月6日(日)

マンションの共用部分の大掃除。自慢になりますが、私はこんなことをするとき、もっともよく働く方です。又、肉体的にきついことを良くやります。そして疲れます。

何年くらい前からですかねえ、美味しいという評判のラーメーンを食べるのに、行列を作るようになったのは。

私は嫌だね、ものを食べるのに行列を作るのは。戦争中、不味い雑炊を食べるために、ナベを持って並んだけれど、食い物に行列を作るのは、あの経験だけで充分だ。

私の知人で、ラーメンを絶対食べない人がいる。そして、ラーメンを食べない人がいると知って、びっくりした知人もいる。私の場合は、付き合いで食べる程度かな。

実は、ラーメンを食べない知人は、料理好きである。ただ、食べ物には癖があって、コーヒーも飲まない。「俺の家には味噌がない」という。関西育ちだから味噌は食べないというのである。関西だって、味噌は食べるだろう。私はラーメンよりも、味噌の方がびっくりする。

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2009年12月 5日 (土)

結核の家系を救う・1

12月5日(土)

御伽婢子・148

結核の家系を救う・1

宝徳年中(1449-52)のことだっただろうか、中山中将親通朝臣の娘が尼になって西山に住んでいた。しかし結核にかかってしまった。咳をし、たんが出て、熱も上がり汗が出て、日に日に衰えた。

結核の病は、腹の中に虫があって起こる。その形は決まっていない。鍼、灸、薬などは効かない。この病にかかれば10人中9人は死ぬ。これを伝尸虫(デンシチュウ)と名付ける。

一人がこの病気にかかると、兄弟、親族にうつって、一族を滅ぼしてしまう。3人くらいにうつれば、その虫は、手足や鼻が備わってくる。そして、立って歩くようになる。その形は、人、あるいは鬼に似ているという。

さて、くだんの尼君、病が重くなり、妹が看病に行った。すると尼君の体から、白い、蠅のようなものが飛び出して、妹の袖の中に、白い筋をひきながら入った。妹は慌てて立ち上がり、ふり払ったが、虫は出てこない。

尼君はその夕方に亡くなる。妹はその日から気分がすぐれなくなり、家虫の者は、尼君の病がうつった、と嘆き悲しんだ。

その後いろいろと養生をしたけれども効き目がなく、薬ではどうにもならないと悟るしかなかった。

そこで、神仏に頼ることにした。白檀の木で35センチくらいの薬師尊像を造り、祇園の牛頭天王に祈願した。すると、ある日の夕方、病人がまどろんでいると、見慣れぬ人が来て言う。

「明日、薄墨色の衣に、紅色の袈裟をかけた修行僧が来るので、その僧に頼みなさい」

病人はそこで目が覚めた。

                 続く

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大掃除 下絵

12月5日(土)

大掃除第2弾、冷蔵庫。と、まあ大げさに書き出しましたが、とにかく冷蔵庫とその隣の棚を掃除する。冷蔵庫の中味を全部出して、中の汚れを拭き取り、外も拭いて、エタノールで消毒して、おしまい。2時間以上かかっちゃった。

Tati0009

何だか上に書いただけでは文章が短すぎる気がして、このイラストも載せました。

昨日描いた水彩画のバトミントンをやる少女の下描きです。こうしてみると、下絵の方がいきいきしているなあ。私は色を付けると駄目になるんだ。困ってしまう。

右のイラストが下絵の最終です。メモ用紙に描いた下絵ですが、左のイラストになるまでだって、何枚も描いているのです。モデルも写真も無しで形を決めるのは、絵の実力のない私には、結構大変です。

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2009年12月 4日 (金)

瘤の中から蛇が出る

12月4日(金)

御伽婢子・147

瘤の中から蛇が出る

河内の国、錦郡の農民の妻の首の辺りに瘤が出来た。はじめは蓮の実くらいだったが、だんだん大きくなり、鶏の卵くらいになった。その後もどんどん育ち、カボチャほどになり、大きな冬瓜ほどになった。重くて立つことも出来ない。どうしても立つときは、その瘤を人に抱えてもらわなくてはならなかった。

不思議に、痛みはなかった。その瘤の中から歌や音楽が聞こえたりして、慰めになることもあった。

その後瘤の外側に、針で突いたような細い穴が無数にあいて、これから雨が降ろうかというときなどは、その穴から細い煙が立ち昇った。

家中の者はみんな怖れて、このまま家に置いていたのでは、どんな災いが起きるか分かったものではない、どこか遠くの山の中にでも捨ててこようなどと話しあった。

妻は泣きながら亭主に訴えた。

「私の病気は誰が見ても気持ちが悪いでしょう。私が山の中に捨てられれば、必ず死ぬでしょう。この瘤を切り開いても多分死ぬでしょう。同じ死ぬのならこの瘤を切り開いて中を見て下さい」

夫はもっともだと思い、新しいカミソリを良く研いで、瘤の上から下へ、縦に割ってみた。しかし血は少しも出ないで、中から飛び出たものがある。60センチくらいの蛇が5匹も出てきた。蛇の色は黒、黄色、白、青などである。みな鱗を立て、光りがある。家の者たちは驚いて、打ち殺そうとしたが、夫が止めた。

その時、庭に穴が出来て、蛇たちはその穴に入って。穴は深くて、底が知れない。

夫は神子を呼んで占ってもらった。神子は梓弓を立てて占ったところ、神がかりになって口走った。

「この女はねたみ深くて、かって雇っていた召使いを夫が寵愛したのを恨み、その首に噛みついたことがある。おはぐろの歯で噛みついたため首に毒が回り、召使いは死んでしまった。その恨みが深くて、今、仇を討っているのだ。たとえ一時助かったとしても、最後には殺して恨みを晴らす」

夫がいう。

「それは昔のこと、心をなだめて下さい。必ず僧侶を呼んで跡を弔いますから」

「その時の恨みは、骨の髄まで達している。しかし跡を弔ってくれるというならば、許しましょう。許すについては条件がある。法華経を書写して回向して下さい。妻の傷には胡桐涙(コトウルイ)という薬を塗りなさい」

といって神子は正気に返った。

いわれた通り法華経を書写して回向をし、妻の首に胡桐涙を塗ったところ、傷は消えた。その後、妻のねたみ心は治まったという。

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狭山のうどん

12月4日(金)

水彩画の会。

Imgp2570

麺類の好みは、関西はうどん関東はソバ、と理解していた。

今気がついたが、うどんはひらがなの「うどん」がふさわしいような気がするし、ソバはカタカナの「ソバ」がふさわしいような気がする。その理由も考えられなくはないが、今日は言葉の詮索をするつもりはないので、ひとまず置く。

関東はソバ文化圏だと思うのだが、なぜか狭山市では、うどん文化だったようだ。人が集まったとき、最後にうどんを食べて打ち上げにする習慣があったらしい。関東なのになんでうどんなのだろうと、ずっと不思議に思っていた。

最近、奥村彪生(アヤオ)という料理研究家が『日本めん食文化1300年』という本を出したらしい(読売新聞)。そこで発表された新説によると、大阪と東京の水の違いに原因があるのだそうだ。

江戸時代、東京には神田浄水や玉川上水があり、安全な水を使うことが出来た。大阪は水の都ではあったものの、飲料水は悪かった。だから大阪のうどん屋のメニューは「うどん」であれ「ソバ」であれ「しっぽく」であれ、すべて熱いめんだったという。水が悪いのだから、沸騰させるしかなかったわけだ。江戸の方は、水が良かったので、冷たいソバが好まれたという。

なーるほど。それで納得がいった。狭山は水が悪かったですからね。真ん中に入間川が流れているのに、水不足の土地だった。井戸を掘っても満足な水のでないような土地が多かったのである。そのせいで、うどん文化の土地になったのかな?

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2009年12月 3日 (木)

幽霊が乳児に授乳する

12月3日(木)

御伽婢子・146

幽霊が乳児に授乳する

伊予の国風早郡のあ百姓、結核のため一族がみな死に絶えて、兄弟だけが残った。弟の妻も乳飲み子を残して亡くなった。

妻が亡くなって1ヶ月もしたころ、弟の家の戸を、夜中に叩くものがある。開けてみると、亡くなったはずの妻である。怪しみ怖れたけれども、追い返すことも出来ず家に上げると、乳児に乳をやって、朝には帰った。その後、毎晩やってくるようになった。

弟の家に毎晩女が忍んでくる、という噂を聞きつけて、兄がやってきた。

「おまえはまだ妻が死んで49日も過ぎないというのに、もう女を引っ張り込んでいると言うではないか。恥ずかしくないのか。そんなことでは世間に顔向けが出来ない。せめて1周忌が過ぎるまで、女に近づくのはやめなさい」

「兄さん、それは違う。毎晩来るのは妻の幽霊で、わが子かわいさに乳をやりに来ているのですよ」

弟の言葉を聞いて兄はなお疑問に思った。幽霊が乳を与えに来るはずがない。それは化け物ではないか? われわれ兄弟だけが生き残ったのだけれども、化け物はその弟まで殺そうとしているのではないだろうか?化け物でも妻に化けてきている以上、弟の方は疑問を持つまい。これは俺が何とかしよう。

そこで長刀を持って弟の家の門の脇に隠れていた。あんのじょう午後10時頃、門を開いて中に入ろうとするものがある。兄は物をも言わず、長刀を振り下ろした。そのものは、

「ああ、悲しい。悔しい」

といって逃げていった。

朝になって血の跡を追っていくと、妻の墓の前に屍が倒れていた。墓を掘ってみると、棺の中は空である。妻の屍を元のように埋めたが、赤子は死に、程なく兄弟も死んでしまった。

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なだ・いなだに寄せて

12月3日(木)

老人介護施設Kへ。

なだ・いなだの『心医者』を読んでいる。私はなだ・いなだの本が好きである。本が好きと言うより、物の考え方が好きといえる。

最初になだ・いなだを読んだのは、たしか『帽子を』という小説だった。彼の最初の本が出る前である。だからほとんどはじめからの読者といえる。最初にでた本が『パパの贈り物』だったと思うが、もちろんこれも読んだ。

その後も彼の本は良く読んだ。別に全部読んだわけではないのだけれど、何冊読んだか、と聞かれても答えられないくらいは読んでいる。

なだ・いなだの何処が私の気に入っているのか。彼の考え方の柔軟さだと思う。彼は物事を断定しない。それぞれの考えにそれぞれの理由があることを認める。これは、私の好きなモンテーニュと通ずる。

世の中のことは、人間も社会も、簡単には断定できないものである。それでもさまざまなことについて、自分の態度をはっきりさせなければならないことも多い。その時、ふらふらと判断がぶれるようではいけない訳だ。

頑固一徹で何があっても自分の考えを変えないのは、頭が固くなった証拠だけれど、柔軟に考えながらなおぶれない、ということも必要である。そこが難しい。

鳩山さん、近ごろぶれてませんか?・・・蛇足でした。

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2009年12月 2日 (水)

天狗が塔に棲みつく・3

12月2日(水)

御伽婢子・145

天狗が塔に棲みつく・3

前回までのあらすじ 寛正5年4月、京の糺す河原の猿楽能は大盛況だった。しかしある日、その桟敷から火の手が上あがり火事になった。その騒ぎで行方不明になった12歳の次郎が、20日後に見つけ出される。次郎の話しでは、50歳くらいの法師が楽屋の屋根に上がり、なにやら祈って火事をおこしたらしい。その後法師は、次郎を法勝寺の塔に連れて行く。次郎はその経験を話している。

塔の中には何もなくて、金剛杖とおそろしい様子の仏の絵があるだけだった。ある日法師は、私を塔の中に置いたままで外に出て、道行く人にさまざまな態度を取った。ある人には腰をかがめてお辞儀をし、他の人の頭を殴りつける。顔につばを吐きかける人もいれば、後ろから背中をこづいて倒してしまう人もいる。法師がそんなことをしても、誰も、何も気がつかない。今度は二人の人間の首根っこを捕まえて鉢合わせさせ、二人は刀を抜いて喧嘩を始め、血に染まった。

そのほかに、私を勢田の橋まで蛍見物に連れて行ったり、賀茂の祭りや松尾の祭りに連れて行ってもくれた。

私は法師に聞いた。

「往来に出て、お辞儀をしたり、頭を殴ったりするのはなぜですか?」

「うむ、そのことか。正直で礼儀正しく信心深い人に会えばお辞儀をするのだよ。金持ちだけれども、貧乏人を馬鹿にするような奴は頭を殴る。生半可な才覚があっても、人を見下すものも同じだ。背中を突き倒すのは、少し学問がある出家で、そのじつ信じる心も慈悲の心もない奴だ。少しの武勇を自慢して人を人とも思わぬものは喧嘩をさせる。顔につばをはきかけたのは、牛や馬を喰った人間だ」

「・・・」

「小僧、おまえもよく憶えて置きなさい。正直に慈悲心があり、信心深い人ほどおそろしいものはない。たとへ高位高官でも、欲張りで慢心があり非道なものは必ず良くないことが起きる。今後起きることも少し話しておこう。その通りになるかどうか、きちんと見ておきなさい」

その話しをしたあとで、法師は私を連れて往来に降りてきました。その後のことは分かりません。

次郎の話しはそれで終わった。その後の世の中は、法師が話したようになった。

そんなことがあって、法勝寺の塔に天狗が住むと噂されるようになったが、その塔は応仁の乱で焼け崩れた。

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師走の憂鬱・航空公園・平山郁夫

12月2日(水)

師走の憂鬱は、なんと言っても大掃除をしなければならないこと。無精な私でも、1年に1回くらいはしっかり掃除しなければという気持ちはあります。その気持ちがなければ憂鬱にはならないのだけれどね。そうかと言って、ゴミの山の中には住めないし。

全部を一度にしようとすると、ますます憂鬱になるので、毎年、少しずつやる。

今日から掃除はじめ。食器棚を掃除しました。次は冷蔵庫で、その次は一番問題の換気扇、という予定。

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午後、航空公園へ。公園内に日本庭園があり、これはその写真。

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私は水辺が好きで、足は自然に水辺に向かう。

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平山郁夫が亡くなった。

彼の絵が好きだった。風景画では川合玉堂の模写をしたが、人物画では平山郁夫のスケッチを幾つか模写したことがある。

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こんな模写をして、いくらかは腕が上がっただろうか。私が新聞の写真からスケッチしたものを載せてみます。

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この女の人、オードリー・ヘップバーンだってね。そうなの?

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2009年12月 1日 (火)

天狗が塔に棲みつく・2

12月1日(火)

御伽婢子・144

天狗が塔に棲みつく・2

前回のあらすじ 寛正5年4月、京の糺すの河原の猿能楽は、大変な人気であった。しかし桟敷から火の手が上がり、折からの風で燃え広がる。人々は逃げまどい、怪我人や死者までも出た。

その火事があった夜、14・5人も迷子が出た。しかし、大抵の者は親たちが探し当て、家に帰った。ところが上京の今出川あたりの町人の子供で、次郎という者が行方不明になった。年令は12歳である。親は悲しがり、人にも頼んで必死になって探したが、なんとしても見つからない。

20日ばかりたったころ、東山吉田の神楽岡に、その子が呆然と立っているのが見つかった。親は喜んで連れ帰ったが、どうしたわけか、4・5日の間は何も食わず、水を飲むばかりだった。おまけに、しゃべりもしないでただ座っている。

その後、やっと人心地が付いたのか、話し始めた。その話しは次のようなものである。

私が糺す河原に立っていると、50歳くらいの法師が来て言った。

「小僧、猿楽能をみたいか」

「はい。見たいです」

「それなら儂の袖に掴まれ」

私が法師の袖を掴むと、法師はふわりと飛び上がり、垣を越えた。

「小僧、声を出すなよ」

そう言うと私を大名の桟敷に連れて行った。法師と私が入ったのに、誰も見とがめる者がいない。法師は酒、さかな、菓子に至るまで、なんでも勝手に取って食べ、私にもくれた。それなのに、誰も気がつきもしない。

その桟敷の者たちは、奢りたかぶっているように見えた。

「なんと憎らしい奴らだ。大した者でもないのに、口ひげを跳ね上げ、高慢ちきな顔で鼻を上に向けて笑っている」

と法師はつぶやき、

「今、おもしろいものを見せてやる。おまえもこいつらが慌てふためくさまを見たいだろう」

と言って私を抱いて舞台の屋根に上がった。そしてなにやら唱えると、東の桟敷から火の手が上がって、風に吹かれ、またたく間に燃え広がった。私を連れて河原に降りた法師は、人々の慌てふためくさまを見て、手を叩いて喜んだ。

それで気が済んだのか、法師は私を袖にすがらせて、法勝寺の九重の塔に入った。

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川岸散歩。

12月1日(火)

精障者授産施設リバーサイドへ。

帰途、いつものように霞川、入間川の土手を散歩。

Imgp2549

霞川の中に、こんな風にして何カ所も木の枝が立てられていました。どうやら翡翠の止まり木のようです。カメラマンも何人かたむろしていました。カメラマンの心中(シンチュウです。シンジュウではありません)は、翡翠がうまくこの木に止まってくれますように・・・ですね。

Imgp2554

これは入間川。仏子の近く。この写真を撮るため河原に降りたら、ズボンの裾に、びっしりと草ジラミが付いてしまった。

  ウオーキングなんでこんなに草ジラミ         ぼんくらカエル

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