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2009年11月30日 (月)

天狗が塔に棲みつく・1

11月31日(月)

御伽婢子 13巻

  原作    浅井了意

  現代語訳 ぼんくらカエル

御伽婢子 通算143回

天狗が塔に棲みつく・1

寛正5年(1794年)4月京都の東北、糺す(タダス)の河原で猿楽能をしていた。観世音阿彌、その子又三郎をはじめとし、多くの役者が出て、大変な評判だった。京中の人々が上下の隔てなく、蟻のごとく集まり、星のごとく集って見物した。足利将軍家まで3度も見物に来たほどである。大名、小名など競って見物し、役者に金銭、小袖などを与えた。

その日、将軍はおいでにならなかったが、大名達は大勢来ていた。若殿達は桟敷を並べ、自分の家の紋所を印した幕を張り、上下の人々は押し合いへし合いして席取りに夢中になった。

やっと幕が上がり、三番叟の面箱を持った者が花道にさしかかった。人々が静まりかえって見ていたとき、桟敷の東の端から火の手が上がり、折からの強風に煽られてまたたく間に燃え広がった。

桟敷に持ち込んだ屏風や御簾、重箱や料理などはそのままにして、人々は我先にと逃げまどった。見物席のまわりをしっかり囲っていたので、入り口の潜り戸ひとつをめがけて人々は殺到し、踏み倒し、打ち転び、女子供は手足を踏みつけられ、骨折する者も多かった。中には髪の毛や小袖に火が点き、焼け死ぬ者もいた。中に腕力の強い者がいて、四方の垣を押し倒し、切りくじいたので、みんながやっと逃げることが出来た。

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馬鹿が治ったら大変だ

11月30日(月)

精障者作業所Mへ。

たまには、Mでの作業内容を書きましょうか。Mはリサイクルショップで、精障者が社会生活に馴染むように。人と接し、軽作業をするような店です。私はあまりお店の仕事はしません。

今日私がしたことと言えば、Mで借りている畑へ、メンバーさん達と行ったこと。冬野菜の間引きなどをしました。間引きしたものはおひたしで食べます。私はおひたしを作っただけで、昼食は外に食べに出てしまいましたけれどもね。

午後はNさんに、木の枝などを利用して作ったテープカッターに塗装してもらう。やはり木の枝の鉛筆立て作り。振り子時計の手直し。木の枝と画鋲で作るメモ用紙留めなど。

夕食に2種類のおでんを作りました。

ひとつはおでんの具とスープがセットになっているもの。もう一つは、おでんの汁の種(顆粒状)を使って作るもの。2種類作って、どっちが旨いか比べてみたくなったのです。

結果は。まあなんとも言えませんね。種を使ってやる方が、少ししょっぱかったかな。具と水の量が少なかったせいもあります。それに、味の違いなどと言ったところで、同じ具を使ったわけではないのだから、本当のところは分かりません。

でも、馬鹿ですねえ。独り者なのに、おでんをこんなに作ってしまって。明日も明後日もおでんだぞ、これでは。

もっとも、私は多少馬鹿だから、一人でも暢気にやっていられるのです。まともになって、生活の心配をするようになったら、きっと鬱になってしまいます。そんなわけですから、馬鹿が治ったりしたら大変です。何時までも馬鹿でいられますように。

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2009年11月29日 (日)

加治丘陵

11月29日(日)

西武線仏子駅近くのギャラリーに、知人などが出品している水彩画展を見に行く。みんないい絵ばかり。知人の絵も、静かな雰囲気を持つ非常にいい絵でした。

帰り、加治丘陵の散策。

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この建物加治丘陵に立っている国民宿舎です。ごらんの通り、使われている気配は全くありません。こんなたぐいの国民宿舎は、至るところにありますね。私だって、幾つも知っています。利用されるかされないかは問題外、とにかく作ることが目的だった? 文句も言いたくなるよ。

その国民宿舎の裏から山に入る。

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こんな紅葉を身ながら登ったり降りたり。時には

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体重制限のありそうな、こんな橋を渡ったりして、落ち葉の道を歩きました。

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厚く敷き詰められた落ち葉をさくさくと踏んでいくのは、気持ちの良いものです。

所沢の次女の家に寄る。次女は1月に出産予定。仕事は明日までで、あとは長期休暇だそうだ。

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2009年11月28日 (土)

武蔵嵐山

11月28日(土)

歩く会。嵐山渓谷へ。東武線武蔵嵐山下車。史跡博物館に立ち寄って、桜堤に向かう。

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右の流れは槻川。左は都幾川。嵐山渓谷は槻川上流。都幾川の岸は桜堤。桜堤を歩いて鎌形八幡神社へ。

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奥にあるのが本殿で、その右に見える屋根の下にあるのが木曽義仲が産湯を使った清水なんだってサ。源義仲は木曽で育ったから木曽義仲で、生まれは埼玉と言うことになる。

源義家の昔から八幡神社は源氏の守り神。義家は、前9年の役、後3年の役などで奥州を平らげ、東国源氏の基礎を築いた。八幡太郎義家とも言う。のちに頼朝が鎌倉幕府を開くことができたのも、義家が東国に源氏の勢力を築いていたからだと言われる。

で、鎌形八幡神社。広い境内を持っていますが、それほど手入れをされていない様子。それがまた良いのですね。むやみに手入れされた神社仏閣より自然な感じがあります。

歴史の里公園を経て班渓寺へ。ここも木曽殿ゆかりの地で、義仲の子義高の霊を慰める寺。

義高は頼朝の娘大姫と許嫁だったが、義仲が頼朝に討たれてのち、鎌倉から逃げたが、私が住む狭山市の入間河原で追っ手に討たれたとされている。

嵐山渓谷のハイキングで、こんなことは言わないのが普通でしょうが、ぼんくらカエルは頭が軽いので、たまに知っていることがあると、ここぞとばかり言いたくなるのです。

そして嵐山渓谷。良かったですねえ、ここは。

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紅葉、幾分か盛りを過ぎ気味ではありますが。

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観光客相手の店などがないところも良い。

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この渓谷、おすすめです。

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最後に、大平山(179メートル)に登って帰る。低くて静かな山。見晴らしはあまりない。

今日のウオーキング、天気にも恵まれ、嵐山渓谷は美しいし、のんびりと田園風景の中を歩くなど、なかなか結構なものでした。                                                                                                          

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2009年11月27日 (金)

焚き火

11月27日(金)

水彩画の会。今日の絵は焚き火。

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焚き火を描くなんて、半分は郷愁です。半分じゃなくて、全部かな?

まわりをどうするか考えたのですが、考えつかず、いっそのこと夜にしてしまえ、と言うのがこの絵です。

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2009年11月26日 (木)

香山園・武相荘

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ボラグループ、年1回のお楽しみ、息抜き研修。

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小田急線鶴川駅近くに「香山園(カゴヤマエン)」という庭園・美術館があります。その庭園の写真です。香山園の庭園を守ってきたのは神蔵龍蔵宗家だそうで、もらったパンフレットの由来を読むと、神代の時代に遡る。

たしかなのは1525年前後北條氏綱の家来になり、この地に城を築いたと言うことらしい。現在の美術館(瑞香殿)は明治時代に立てられたものという。展示されていたのは、古墳から出土した曲玉や須恵器、鉄剣。神蔵家に伝わったものと思われる漆塗りの家具、什器。それに屏風などです。

次に訪れたのが「武相荘(ブアイソウ)」。

白須次郎・正子の住んでいた茅葺きの家です。

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ピンぼけ写真になりました。

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室内を撮影できないのは残念です。臼を新聞受けにしているなど、おもしろいと思いました。

最後に、小田急線や武相荘でのラフスケッチ。

Photo

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2009年11月25日 (水)

大石が戦う

11月25日(水)

御伽婢子・142

大石が戦う

越後の春日山は上杉謙信の居城である。

あるとき、城の中の大きな石が二つ、躍り上がったりぶつかったりして、もみ合っている。まるで喧嘩をしているようである。人々は大いに怪しみ、いぶかったけれど、大きな石が勝手にやっていることなので、手の出しようがない。

二つの石は夜半過ぎまで戦って、お互いに砕けて、小さくなって飛び散った。夜が明けて辺りを見ると、まるで血を流したように赤くなっている。

それから間もなく、信玄は病につき、虚しくなった。その後、兄弟が跡目をねらい、相争った。そのしるしだったのだろうと、後の人は思った。

              御伽婢子12巻 終わり

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大雅と蕪村

11月25日(水)

特養老人ホームSへ。

このような施設も、利用者を楽しませるために、ミニイベントをときどき行う。今日はその一つ、昼食に鮨バイキング。私はその手伝い。もちろん鮨を握るわけではないけどサ。

ところで、今日の本題、池大雅と与謝蕪村。

今日のタイトルを見て訪問した人はお気の毒です。二人の絵をどうだとか言うことは書きません。第一、そんなこと、私に分かるはずがない。

蕪村は俳句でも有名ですが、大雅も俳句を書いているんですね。

  いくつじゃととはれて片手あけの春

  葛粉さらす水まで花のしづくかな

の2句が『続俳家奇人談』に載っています。1句目は、いまなら川柳と言うところですけどね。妻は玉欄と言いやはり絵が上手で、和歌も巧みだったとか。

大雅は貧しくて、ひとつしかない着物を、妻と二人で外出する方が着ていたと言います。あるとき大雅が酒を買ってきて、2人で飲み交わし、妻は裸で琴を弾いたというエピソードが書かれています。裸と言ったって、腰巻きくらいはしていたんでしょうけれどね。着物は1枚でも琴はあったんだ! 大雅と言うくらいだから優雅なんだ!

四十七士でも俳句をやっていた人は何人かいるようだし、江戸時代は文を読み書きするくらいの人、和歌や俳句を一つや二つ書いてみることはあったのでしょう。大雅も、『続俳家奇人談』に書かれるくらいですから、俳人でもあったんですね。

蕪村については、江戸時代に比して、現在は大きく評価されている俳人であること、知らぬ人はいないくらいです。

蕪村も貧乏だったらしいですよ。水辺に住んで、金が無くなると魚をとって、それを売って妻子を養っていたんだってサ。そう言えば、「さみだれや大河を前に家二軒」とか、「秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者」などという句は、漁で生計を立てていたことと関係あるのかな。

大雅や蕪村と言えば、江戸時代の代表的な画家なのに、貧しかったというのは事実らしい。当時は、狩野派のようなお抱え絵師でなければ、たいへんですね。

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2009年11月24日 (火)

盲女を憐れんだ寡婦

11月24日(火)

御伽婢子・141

盲女を憐れんだ寡婦

武田信玄は駿河の国を襲い、今川氏元を追い落とし、民家を焼き討ちし、駿府を奪い取った。

城下の民はあわてふためき、我先にと逃げまどった。武田の軍勢は大勢で押し寄せ、家々に上がり込み、財物を奪い、落人を打ち伏せて身ぐるみ剥ぎ取り、切り倒し、追い落とし、男女の泣き叫ぶ声は鬨の声と合わさって、天地もくずれるばかりであった。

氏家は行方が分からず、信玄は勝利を得、城下は焼け静まって、人々は帰ってきた。

そんなとき、焼け跡の溝の中に、7-8歳の女の子が泣き叫んでいた。見ると、目の見えない子である。この子の父は氏家の家来三浦右衛門に憎まれて牢獄で死に、そのショックで母も死んだ。姉がこの子を育てていたが、その姉も、今度の戦で流れ矢にあたって死んだ。

隣の寡婦がこの子を見つけ、気の毒に思って自らの菰張りの貧しい小屋に背負ってきた。自分自身の食さへも満足に採れないのに、見捨てることは出来ず、なんとか育てようと思ったのである。

だが女の子は、姉も死んでしまったことを知り、悲しみのあまり、食事もとらず、死んでしまった。寡婦はやむを得ず、火葬に付した。すると女の子の帯の間から2両の金が出てきた。万一のためにと思って、親が帯に縫いつけていたものであろう。寡婦はその金を使って僧を呼び、仏事を営み、自分のためには少しも使わなかった。

武田信玄はこれを伝え聞き、感心して、家を建ててやった。おかげで、とにもこうにも、穏やかに生きていけるようになった。

人間豊かなる時は、義理人情をわきまえ、正直にも見える。貧しくなると、義理を捨て、礼儀もわきまえず、金銭にどん欲になるものである。この寡婦のように貧しくとも正直で、慈悲の心を忘れぬ者は珍しい。

義理を忘れ、よこしまな心を持つ者は、この寡婦の前では、恥ずかしい罪人ではないだろうか。

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マイケル・ジャクソンの手袋

11月24日(火)

ちょっと旧聞かな?

マイクロ・ジャクソンの手袋が、オークションで、3500万円で売れたんだってね。すごいもんだなあ。

マニアとか、こういうものを買う人の心理とか、私には全然分からない。

マイクロ・ジャクソンの手袋、私の手に合うなら100円くらいで買ってもいいや、と言うのが私の気分。100円出せば、軍手が幾つも買えるから、ちょっともったいないかな。

宝石を高い値段で買う人の気持ちも、私は分からない。確かに宝石はきれいだけれど、ヘルマン・ヘッセの言葉を思い出す。

「宝石より花のほうが美しい」

その通りだと思っている。

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2009年11月23日 (月)

陣馬山

11月23日(月)

陣馬山へ。参加者7名。

Sさんの企画。Sさんは元は雨男と言われていた。でも今はSさんの企画の時は案外良く晴れる。今日も天気が悪いはずだったが、予報がはずれて晴れ。

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山頂からの風景です。

首都圏に住む山好きならば、陣馬山へは、誰でも何回かは登ったことがあるでしょう。今日は藤野駅下車、バスで陣馬山登山口へ行き、直接陣馬山へ登り、明王院を経て相模湖に降りてくるコース。

天気は良いのですが、山頂から見えるはずの富士は、はっきりしませんでした。頂上到着時は雲の上にわずかに見えたのですが、間もなくそれも消えてしまいました。360度の眺望なのに、残念です。

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相模湖の岸近くにある与瀬神社の社殿。大きな神社です。境内に幾つもの神の祠もあります。少し大きい神社は、大抵1神ではないんですよね。八百万の国だもの。

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神社の階段を下りてくると、隣に慈眼寺。神仏混淆だったころは、同じ境内にあったのでしょうが、今は分けられています。

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相模湖。

写真ではもう暗くなっていますが、実際はそれほどでもありません。午後4時過ぎくらいです。

狭山市駅近くの中華蕎麦屋で反省会? 

今日はいつものメンバーSさん、Mさん、Aさん、Kさんぼんくらカエル。それ以外に、Sさんの奥さん、それにMIさんも参加しての山行でした。

本日御伽婢子は休みます。

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2009年11月22日 (日)

邪淫の罪立身せず

11月22日(日)

御伽婢子・140

邪淫の罪立身せず

白石掃部正(シライシカモンノカミ)は鎌倉の上杉家に仕えて、足軽大将である。その子右衛門尉(ウエモンノジョウ)は23歳で、父に従って上杉家に仕えようとした。父を通じてお目見えの日も決まっていた。

右衛門尉が借りていた家には17.8の美しい娘がいて、右衛門尉は何とかして口説こうと思っていた。しかし家主が厳しくてみだりなことが出来ない。なんとかその隙を狙っていた。

そんな中で、明日は上杉家にお目見えという日の夜、家主は急用で出かけてしまい、一晩帰らなかった。右衛門尉はしめたとばかりに娘の部屋に夜這いして、思いを遂げてしまった。

右衛門尉は満足して自分の部屋に帰り、寝てしまった。すると青い服を着て烏帽子を被った男が現れ衛門尉に、

「明日必ず1千石の俸禄があるだろう」

と言った。そこへ赤い服を着た立烏帽子の男が来て、怒りを体に表し、「右衛門尉は邪なことをしたので天帝が怒っている。俸禄は得られない」

と言う。そこで右衛門尉は夢から覚めた。

つぎの日、親と右衛門尉は正装して、伺候した。そこへ上杉管領が出てきたら、なんとしたことか、右衛門尉は深く眠りこけている。

「こんな不覚な者ではとても召し抱えることは出来ない」

と断られる始末だった。父の掃部は落胆して出家してしまった。右衛門尉は、放浪の身となり、その後はどうなったのか分からない。

そのようなしだいで、何事も思うように行かないのは、自分に何か落ち度があるためなので、人をうらんではいけない。してはならないことをしたものは、官位俸禄などはかなわぬものだ。

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童謡 焚き火・故郷

11月22日(日)

寒いですね。

寒いときに「寒いですね」なんて言うほど平凡なことはないけれど、私などが少し気の利いたことを言おうとすれば、すぐ陳腐になってしまいます。だから平凡なことを言っている方が無難です。

寒くなると、昔はあちこちで焚き火をしていたものだけれど、近ごろは街角の焚き火なんてものは見られなくなりました。

  垣根の垣根の曲がり角

  焚き火田だき火だ落ち葉焚き

  あたろうかあたろうよ

  しもやけおててがもう痒い

などという童謡も、今の子どもたちにとっては想像の世界になってしまったのかな。

今下手に焚き火をすれば、消防署に注意されます。植木屋がよその庭で刈り取った枝を、自宅の庭などで燃やしていれば、近所の人に通報されて、植木屋さんが駆けつけてきます。今どき焚き火の出来るところといったら、畑で不要になったものを、ささやかに燃やす程度でしょう。畑の中だもの、誰も寄ってきませんね。

  うさぎ追いしかの山

  小鮒釣りしかの川

  夢は今もめぐりて

  忘れ難き故郷

「焚き火」も「故郷」の歌詞と同じ、想像の世界になってしまったんです。今の歳寄りでも、小鮒は釣った経験があっても、うさぎを追った経験はない方が普通でしょう。ちなみに私、山でうさぎを追いかけた経験があります。捕まえられなかったけれど。

  所在なき一人の焚き火雨の粒  ぼんくらカエル

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2009年11月21日 (土)

因果応報

11月21日(金)

御伽婢子・139

因果応報(厚狭應報)

陶尾張守晴賢は大内義隆の家老だったが、謀反をして主君義隆を追い出し。山口の城を乗っ取った。その勢力は強大で、周防長門の諸将は、みな陶に従った。

長門の国の住人厚狭弾正という者も陶に降伏した。しかし「厚狭は義隆に恩を受けている者だから、降伏は本心ではなく、陶を討つ機会をうかがうためだ」と讒言をする者がいた。

陶はなるほどと思い、厚狭を絡め取り、鎖で柱に縛り付け、火あぶりの刑にした。厚狭大声でさけんだ。

「私はすでに降参している。なんでこんなことをするのだ。たとえ死んでも、この恨み晴らさでおくものか」

陶はせせら笑って焼けただれた屍を荒野に捨てた。

半年ばかりして、陶の目の前に厚狭の亡霊が現れた。そして安芸の国宮島の毛利の軍が、陶の軍を破った。その時厚狭が鎧かぶとを付け、栗毛の馬に乗って真っ先に突進し、陶を馬から突き落としたという。そして陶の軍は敗滅したという。

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楽しむ者は貧にして楽しむ

11月21日(土)

晴耕雨読と言うけれど、私などは「晴遊雨勤」が良いですね。「晴遊」の「遊」は文字通り遊ぶことだけれども、「雨勤」の「勤」は適当な言葉が見つからなかったので、取りあえず使っただけです。要するに天気の日には遊びほうけて、雨の日にボランティアとか、雨でもやれる趣味などをするのが理想と言うことです。

今日は全く好天で、出来れば外に遊びに行きたかったなあ。

それなのに、部屋の中で俳句の会。

 貧にして楽しむ酒や桂郎忌 大熊虚阿

という句がでた。実はこの「貧にして楽しむ」というのは、私の口癖になっているほどの言葉である。「悩む者は富貴にして悩み、楽しむ者は貧にして楽しむ」というアラブの諺は、私のもっとも好きな諺である。

虚阿さんの俳句、「貧にして楽しむ酒」ですからねえ、私の大好きな酒までできちゃった。本当ならば絶対選をするところなのに、それでも私は選をしなかった。迷うところはあるのだけれど、○○忌で季語とするのには少し抵抗がある。でも、無季の句としてなら、採れるなあ。採らなかったけれど、やっぱり、良い句だなあ。採るべきでした。(われわれの会は、相互選です。私のように訳の分からぬ者も、先生方と同じ1票を持っています)。

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2009年11月20日 (金)

幽霊からの手紙・6

11月20日(金)

御伽婢子・138

幽霊からの手紙・6

前回までのあらすじ 芦崎数馬と妻の竜子は、戦のとばっちりで別れ別れになった。竜子は信長の家臣佐久間の武盛に連れ去られ、数馬は竜子を探して佐久間の陣に行く。竜子は佐久間の寵愛を受けており夫婦と名乗ることが出来ない。数馬は焦がれ死にをし、竜子も後を追うように亡くなる。もと竜子の家の使用人弥五郎が天王寺を通りかかると呼び止めたのが数馬夫婦で、竜子の両親に手紙を託す。

《お懐かしき両親様。

このたびたまたま弥五郎に会うことが出来て、手紙を言付けることが出来ました。朝となく夕となく常にふるさとのことを思い、涙も尽き果てるほどです。元より、父母に受けた恩を忘れたわけではありません。

その昔、信長公に延暦寺が灼かれたとき、家族はバラバラになりました。私は佐久間という武士にさらわれて、あちこちの戦に転々と連れて行かれました。たいそうおそろしい思いをし、自由にならぬ身を恨み、寝られぬ夜を過ごすことも多くありました。

そうしていく年か過ぎて、夫の再会することが出来ました。再び一緒に暮らせるようになって、今日に至っています。音信不通だった不幸は恩を忘れたように思えるでしょうが、曲げてお許しください。

  田鶴のゐるあしべの潮のいや増に

     袖ほすひまもなくなくぞふる

                      かしこ》

両親はこの手紙を見て、死んでしまったのかもしれないと思っていた竜子が生きていることを知り、うれし涙を流した。日ごろ神仏に祈ってきた甲斐があるというものである。

父はなんとしても2人を故郷に迎えようと、弥五郎に案内させ、天王寺へ尋ねてきた。しかし数馬夫婦の家があった辺りは、草ぼうぼうの原っぱで、塚が2つ並んでいるだけだった。

100メートルほど離れたところに寺があったので、事情を聞いてみると、その塚は芦崎数馬と竜子きょうだいの墓で、佐久間の陣から葬儀を出したのだという。

父は驚いて娘の手紙をとりだしてみると、そこには墨跡もなく、なんの文字も書かれていない只の白紙だった。父は悲しさのあまり、人目もはばからず泣き崩れた。

その夜はとうとう、その場で夜を過ごした。夜中に数馬夫婦が現れて、父にそれまでの経緯を語った。

「私がここに来たのは、お前たちを迎えるためだ。たとへ死んだとしても、屍でも持ち帰りたい」

「それはいけないわ。一度埋めた塚を掘り返してはいけないの。あの世の定めなのよ。このままここで弔って下さい」

竜子は父の袖を取り、さめざめと泣いたと思ったら、目が覚めた。やむを得ず、その塚に僧を呼び、供物を供え、経をよんで弔った。

故郷に帰った父の話を聞いて、人々は気の毒がった。竜子の両親はよほど落胆したのだろう、間もなく亡くなったと言うことだ。

                     終わり

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鰯雲 耳相

11月20日

特養浪人ホームMへ。

M平気ながら空を見ると、いちめんに鰯雲が広がっている。これはこれできれいなものですね。どういう加減で、空一面に餃子を並べたような雲が出来るのだろうか。ひとつひとつの餃子、じゃない、の大きさはどんな加減で決まるのだろう。

昨日訪問した老人介護施設Kの利用者さんに、

「あなたの耳は鋭い人の耳だ」

と言われました。これだけでは何のことだか分かりません。耳相を見るのだそうです。

「耳相を見るくらいなら、人相も見るのですか?」

というと、

「耳相だけ」

だってさ。

いろいろあるんですね。もっとも、「鼻毛を読む」というのだってあるからナア。足の裏の相を見るのだと言って、女性を下から覗きたがる人もいましたな。

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2009年11月19日 (木)

幽霊からの手紙

11月19日(木)

御伽婢子・137

幽霊からの手紙・5

これまでのあらすじ 芦崎数馬は戦のために別れ別れになった妻を捜して信長の家来佐久間信盛の陣で妻竜子に逢う。しかし妻と共に暮らすことは出来ず、憔悴して死ぬ。竜子も後を追うように死んでしまう。

竜子が亡くなって間もなく、大阪城は明け渡され、佐久間は陣を解いた。天王寺あたりも戦が止んでいくらか静かになった。昔竜子の家で使われていた弥五郎が、今では商人になって、天王寺を通った。

「そこを行くのは弥五郎ではないか」

名を呼ばれて振り向くと、数馬と竜子が立っていた。ぜひにと言われ弥五郎は数馬達の家に立ち寄った。弥五郎の話。

「数馬様のご両親は亡くなられました。竜子様のご両親は健在です。只、お二人の行方が分からないので、泣いて暮らしておられます。なぜ国に帰らないのですか」

「私たちは訳があって、自由に帰ることが出来ないのです」

「それならば手紙を書いて下さい、私が持っていきましょう」

その夜は夜もすがらふるさとの話で夜を明かした。次の朝、弥五郎は旅立ち、国に帰って竜子の親に手紙を渡した。正木夫婦は娘の無事を知って、喜びに溢れた。手紙の文字は、紛れもなく娘のものだ。

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本の話

11月19日(木)

食堂の日替わりメニューみたいに、コロコロと天気が変わる。昨日は晴れで、今日は雨。明日は晴れるそうだ。

老人介護施設Kへ。

最近読んだ本。『日本語の美』ドナルド・キーン著、中公文庫。

ドナルド・キーンのエッセイ集です。私にはエッセイなどが良いんです。本格的な学術書なんか読んだら、消化不良で下痢をしちゃう。

今読んでいるのが『外国人による日本論の名著』中公新書。

ここで紹介されているのは42冊で、私が読んだのはたった4冊。読みたいものは沢山あるけれども、死ぬまでに何冊読めますかね。2-3冊読めたらいい方でしょう。何しろ、立派な本だけ読みたいわけではなくて、どうでもいい本を読むのが好きなんです。読みたい本が沢山あって、残り時間は少ないし。

次に読もうとしているのが萩原朔太郎著『与謝蕪村』岩波文庫。

与謝蕪村に直接当たろうとするのではなく、萩原朔太郎を通して当たるのですから、手抜きと言えば手抜きですな。でも、直接当たったら腹痛でも起こしかねません。私の胃腸は消化能力が劣るから、他人が料理してくれた方が食べやすいのです。

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2009年11月18日 (水)

幽霊からの手紙・4

11月18日(水)

御伽婢子・136

幽霊からの手紙・4

前回までのあらすじ 芦崎数馬は信長の延暦寺焼き討ちのとばっちりで、妻と別れ別れになった。妻を捜して信長の家臣佐久間信盛の陣に来たが妻は佐久間の寵愛を受けており、兄弟と偽り、夫婦の名乗りを上げることが出来ない。

更衣の時期になったとき。数馬は冬の小袖を脱いで、妹にやってくれるように人に頼み、歌一首を書いて襟の裏に包んで持たせた。

   色見えぬこれや忍のすり衣

      思いみだるる袖のしら露

貴女を偲んで泣いていますという歌に、妻の竜子も涙にくれた。小袖のお返しに帷子を上げると言うことにして、歌1首を衣の裏に縫いつけた。

  いかにして行て乱れむ陸奥の

    思いしのぶの衣へにけり

竜子も同じ気持ちであることを知り、数馬は胸が塞がり、思い乱れて嘆いた。そのためか重い病になった。竜子は数馬が病になったと聞き、佐久間に頼んだ。

「兄の病が重いと聞いています。私は兄を見舞いたいと思います。どうかこの世の名残に、今一度兄に逢わせてください」

佐久間の許可を得て、竜子は数馬の小屋を見舞った。数馬はうなされて、竜子の名前をうわごとのように言っている。竜子が、

「私はここにいますよ」

と言うと、数馬はむっくりと起き上がった。そして竜子の手を取り、大粒の涙を流し、ものも言わず、口ばかり動かして、そのまま息を引き取った。

佐久間は哀れがり、天王寺の後の山に亡骸を埋め、僧を雇って弔った。その後、竜子も悲しみのあまり体調を崩し、薬も受けつけなかった。そして佐久間に頼んだ。

「私はあなた様に従い、家を離れて他国を巡りました。身内は兄だけでしたが、その兄が尋ねてきてくれたのに、亡くなってしまいました。私の命も間もなく終わります。死んだら、せめて兄の側に埋めてください。あの世で話しなどいたします」

そして次の日に亡くなった。

佐久間は竜子の臨み通り、数馬の墓に並べて竜子を埋めた。

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食事とブログ

11月18日(水)

天気の良い日に1日家にいると、何だか損をしたような気分になる。今日は損をした日。

寒くなってきたのでコタツを出すことにした。わが家の暖房の主役はコタツである。エアコンは一冬に数えるくらいしか付けないし、ストーブは使わない。

今日の洗濯は、普段のものの他に、こたつ掛けなどもやった。おかげで洗濯機を4回動かし、洗濯にほとんど半日かかってしまった。洗濯以外の主婦業などもあり、1日家にいるはめになった。

そして今パソコンの前にいるけれども、本当は今日も書くことがないんです。それでもパソコンの目に座ると、何かしら書きます。今日のように下らないことをね。

妻が死んで11年。当座は、朝飯を食えば昼飯の心配、昼飯を食えば晩飯の心配、と言う毎日でした。妻の位牌に向かって、生きている人間は毎食の食い物の心配をしなくちゃならないんだよ、などと話しかけたりしたものです。それが今では、前もって考えるときもあるけれども、大方は冷蔵庫の中を見て、あるもので作ってしまいます。

ブログも同じですね。はじめのうちは、何か特別のことを書かなければいけないような気がして、その日の晩に書くブログについて、朝から悩んだりしたものです。今は、書くことを前から決めている日もありますが、大抵はパソコン前に座ってから考えます。

本当なら、そ状態で書かなくても良いのですが、私の場合、ブログが娘たちへ「無事でいるよ」というメッセージになっているので、休めないのです。だから、こんなとりとめのないことを書きます。

読んでくださる皆様、目が毒されるといけませんので、目薬でも点してお休みください。このブログには頭の悪くなるばい菌が附いていますから、感染しないようにしてください。はい、さようなら。

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2009年11月17日 (火)

幽霊の手紙・3

11月17日(火)

御伽婢子・135

幽霊の手紙・3

前回までのあらすじ 芦崎数馬は織田信長の延暦寺焼き討ちのとばっちりで、最愛の妻竜子と別れ別れになってしまった。その行方を尋ねて佐久間右衛門の陣に辿り着き、中を覗いていると捉えられ、佐久間の取り調べを受けた。数馬は、妹を探しに来たのだと答える。

佐久間が女房達に尋ねると、確かに数馬が言うような女がいる。佐久間が寵愛している女である。数馬を兄と信じて佐久間は竜子と逢わせる。

2人は逢っても、夫婦であると言うことが出来ず、泣くより他にない。

佐久間は数馬の疲れをとるために小屋の中で1晩休ませ、次の日に尋ねた。

「おまえの妹は双紙を読み、歌も綴る。おまえもそちらの能力があるのではないか」

「私はおで修行をし、仏典の勉強をしました。歌も下手ですが作ります。字も上手とは言いませんが人に劣るようなことはありません」

「それは良い。儂は幼いころから武芸ばかりで学問手跡は出来ない。そのため、書状が来たり歌が送られたりしても、返事を出すことが出来ない。我が郎党の中にも満足に出来る者がいない。我が陣中に残り、その職に就かぬか」

「はい。仰せに従います」

さっそく数馬は、佐久間の陣中で仕事をすることになり、何事も佐久間の思う通りに行った。そのため佐久間の家来達も、みな数馬に一目置いた。

しかし数馬は、何も嬉しくなかった。妻に逢いたさに苦労を重ねてやっと辿り着いたのに、妻を一目見ただけで、同じ陣中にいると言いながら、それ以上逢うこともかなわない。やるせない気持ちで日を過ごしていた。

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キリスト教は排他的?

1月17日(月)

精障者作業所Mへ。昨日やり残したことがあって、ほんの30分くらい。

寒いですね。本当はそれ以外にかくことがないんです。時事問題に絡めたことでも書きましょうか。

小沢幹事長が高野山真言宗の館長との会談で、キリスト教は排他的だといったんですってね。ああいう立場の人が公の席で言う言葉ではなかったでしょうね。

世間の反応は、仏教徒へのリップサービスという意見が多いみたい。そうかなあ。

小沢さんの意見は、当たっているという人もいる。実は私もそう思う。しかし、だからといって仏教の方がすぐれているとも思わないし、キリスト教のおかげで西洋社会が行き詰まっているなんて思わない。行き詰まっているという意味だったら、日本の方がひどいんじゃないの?

キリスト教やマホメット教は1神教なので、どうしたって自分の神が1番正しいわけです。だから時には、善意で押しつけがましかったりする。相手の間違いを正そうとするわけだ。

二者択一という言葉は、1信教にふさわしい言葉ですね。私などは、様々な現象や意見にたいして、正しくもあり正しくも無しなんて判断をしがちですが、二者択一の思想ではそうは行かない。どっちかが正しいんです。両方有り、なんてとんでもないんだね。いつぞやテレビの若い人達の公開討論会で、どこぞやの国の人が「日本人には二者択一がないからいけない」と言っていました。

確かに二者択一という言葉は、日本人にはなじみのある言葉ではありません。仏教には、二者択一なんてないと思います。何しろ、空即是色、色即是空ですからね。

なんでも二者択一ですむとは思いませんが、二者択一の思想がなければ、科学や技術は現在のように発展しなかったと思います。発展して、発展して、その先端のところで、ファジーとか揺れとか、曖昧さを認めるようになってきたんですね。おもしろいものだ。・・・と、知った風に書いたって、科学の中味なんて、わたしゃ何ーんも知らネエけどさ。

私はなんの宗教も信じていませんが、仏教の方に親しみを感じています。しかし、真にすぐれたキリスト者の中には、偉大な人がいるナアーと思もいます。1信教は、最後になったら神対自分だからね。たとえ世間に反対されても、神に向かって疚しいところがなければ、神と共に耐えることが出来る。その強さ、仏教徒が持つのは、なかなか難しい。仏と共になんて言ったら、諦観を持っているみたいで、戦う姿勢にはならないよね。そんなとき、仏教徒は神抜きで行くしかないんだ。

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2009年11月16日 (月)

幽霊の手紙・2

11月16日(月)

御伽婢子・134

幽霊からの手紙・2

前回のあらすじ 正木竜子は金持ちの娘、芦崎数馬は貧しい家の息子、二人は幼なじみであったが、長じてからは相思相愛の仲になった。貧しいからと遠慮する数馬の親を、竜子の親が説き伏せて、二人は結婚することになる。

晴れて夫婦になった2人には、なんの障害もない。ただただ嬉しく、毎日を過ごすのだった。

  ひとり寝のまどにさし入月かげを

    諸ともに見る夜半ぞうれしき

と竜子。

  夜な夜なはかこちて過し窓のもとに

    ともにながむるありあけの月

と数馬。互いに、一緒に成れた幸せを歌にする。比翼連理のうちに半年ばかりが過ぎた。

元亀2年(1571年)織田信長は延暦寺を焼き討ちにした。その時まわりの民家まで被害を受け、みなちりじりになって逃げた。竜子はその美しさが目にとまり、信長の家臣、佐久間右衛門尉信盛に捉えられ、その手のものとなった。

やがて、浅井、朝倉は滅び、近江地方はまた静かになった。竜子の行方が分からないため、数馬家を離れて尋ね歩いて何年か過ぎたころ、人ずてに、佐久間右衛門に捉えられたらしいと聞いた。佐久間は大阪天王寺に陣を敷いているという。そこで数馬は大阪へ行った。さんざん尋ね歩いたあとなので、衣は破れ、顔は日焼けし、やせ細ってしまった。

そんな姿で佐久間に陣の前に行き、中を覗おうとしたものだから、門を守る足軽達が怪しがり、数馬を捕まえて縛り上げ、佐久間に報告した。佐久間の前に引き出された数馬に、佐久間が問いただす。

「おまえは大阪城に籠城するものか。どんな理由で我が陣を覗いていたのか。ありのままに白状せよ。嘘などつくと為にならぬぞ」

「はい。私は怪しい物ではありません。近江の坂本の土民でございます。名前は芦崎数馬と申します。叡山が焼き討ちになったとき家族はちりじりになりました。その後戦が止んで静かになり、土民達は帰ってきましたが、私の妹の竜子は帰ってきません。あちこちたづね歩いているうち、佐久間様の陣中にいるという噂を聞きました。それで陣中を覗いていたのです。ぜひ妹に逢わせてください。ひと目逢わせてくだされば、私は殺されても恨みはいたしません」

「おまえの妹は幾つになるか」

「別れたときは17歳でした。それから9年経つので、現在は26歳です」

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福祉会役員会

11月16日(月)

精障者作業所Mへ。主として畑仕事など。

こぶし福祉会役員会。出席者諸氏の顔のスケッチ。

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皆さんごめんなさい

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渡された資料の余白に、こんな似顔絵を描いて遊んじゃった。でもこれからの福祉会のあり方について話しあったときには、結構発言もしているんですよ。遊んでだけいたのではないことを蛙の体面にかけて申し上げておきます。いつもの役員会とは違って、思っていることを、みな真剣に話しあいました。その意味で充実した会でした。

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2009年11月15日 (日)

幽霊の手紙・1

11月15日(日)

御伽婢子・113

幽霊の手紙・1

近江の坂本というところに、正木という金持ちが住んでいた。娘は竜子といい器量よしで、頭も良かった。そのため両親はことのほか可愛がり、物語の本などを買い与え、歌の道も教えていた。

隣に芦崎という家があり、数馬という、竜子と同じ歳の子供がいた。幼いうちは良く一緒に遊び、「大きくなったら結婚しようね」などといったりしていた。

さすがに年頃になると、遊ぶようなことはない。数馬は寺院の稚児となり、竜子は家に引きこもり、静かに暮らしていた。

数馬が帰宅したとき、竜子に2首の歌を書いた文を送った。

  人しれず結びかわせし若草の

     花は見ながら盛りすぐらむ

  しるらめや宿の梢を吹かはす

     風にかけつつかよふこころを

今でも貴女を思っていますという手紙を見て、竜子は嬉しくもあり、思うようにならないこころのうちを、歌に託した。

  月日のみ流れゆくゆく淀川の

     よどみ果てたる中の逢瀬に

  今はかく絶えにしままの浦におふる

     みるめをさへに波ぞただよふ

竜子が17歳になったので、親はよい婿を取ろうとしていろいろと話しをすすめるのだけれど、竜子はどれも断ってしまう。誰か好きな人でもいるのかと下女にそれとなく尋ねさせると、どうしても数馬と一緒になりたいという。

竜子が思い詰めているようなので、親は隣に申し込んだ。しかし数馬の親たちは、

「確かに数馬はいい男で才知もあるけれども、わが家は貧乏で、とても釣り合いが取れない」

といって辞退した。竜子の親は、

「いやいや、結婚は財産でするものではない。数馬さんの人柄を見込んでお願いするんのす。婚姻の費用などはすべて当方で負担します」

といって、2人の結婚を納得させた。

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紅葉狩りと山の散歩

11月15日(日)

良い天気である。家にじっとしてはいられない。

紅葉狩りに出かける。目的地。まずは飯能の能仁寺。この寺の紅葉は見応えがある。

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能仁寺は飯能戦争の舞台になったところである。明治維新の時、官軍と上野で戦ったのが彰義隊。飯能で戦ったのが振武軍(だったかな?)。その本陣が能仁寺だったらしい。由緒のあるなかなか立派な寺である。

歴史はともかく、紅葉が見事なので、何人もの人が写真を撮りに来ていた。天覧山登山道の脇にあるので、この寺の紅葉を知っている人は、登山前に寄りたくなる。

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さて、天覧山へ登る。天覧山から多峰之主山へ。登山というのは恥ずかしいくらいで、山の散歩といったところである。

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天覧山山頂の見晴らし。

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こちらは多峰之主山の山頂の見晴らし。

変なことがありました。この写真の方向を見ながら昼食を食べていると、隣に座っていたおばさんがわざわざ近寄ってきて、私の手許やリュックをのぞき込むのです。何だか物欲しそうなので、食べますか、といって納豆巻きを差し出すと、受け取って食べました。何だか気の毒になって、ジャムパンも上げてしまいました。おかげで私は、納豆巻きをひとつ食べただけ。ビールを飲みましたけどね。

天覧山から多峰之主、あるいは多峰之主から御岳神社へ、私が何時も通る道は工事中の看板が立っていて、少し回り道をするようでした。

そこで、御嶽神社はやめにして、高麗駅に向かって下山。たまには違う道も良いでしょう。しかし、高麗駅に着いたもまだ12時10分。帰るには早すぎるので、その足で巾着田へ。

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巾着田の脇、高麗川の河川敷で遊ぶ子どもたち。

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2009年11月14日 (土)

早咲き梅の精

11月14日(土)

御伽婢子

   原作     浅井了意

   現代語訳  ぼんくらカエル

御伽婢子 第12巻  

御伽婢子 通算132回

早咲き梅の妖精

信州伊奈の開善寺の梅は、早咲きの梅として有名である。冬至の前後から咲き始めて清々しい香りを4方に漂わせ、近郷の人々を楽しませる。

もとより信州は山国で、寒気激しく、冬は降り積もった雪の上にまた雪が降るような国である。風は激しく、草木の萌え出るのは遅い。そんな中にあって、この寺の梅は、時を違えず、毎年寒さに耐えて咲き出すのである。なんで鑑賞せずにいることが出来るだろうか。

その昔、この地を支配していた村上家の家臣に、埴科文治というもの、風流を解し、和歌の教養もあった。戦の間にも、風景の美しいところでは、和歌を作って思いを述べ、人々を楽しませた。武をないがしろにするわけではないが、気持ちの優しい男子だった。

その頃甲州の武田と信州の村上の間に戦があり、互いに陣をはっていた。埴科文治は開善寺の梅が今を盛りに咲いていると聞き、ある晩陣を抜け出して、家来を1人連れ、その寺に行った見た。花を見、香りを尋ね、

  南枝向暖北枝寒一種春風有両般

南の枝は暖かく北の枝は寒いが、春風は両方に吹く、と古詩を口ずさんだ。月はすでに山の端にのぼり、花を美しく照らしている。

  ひびき行鐘の声さへ匂ふらむ

      梅さく寺の入りあひの空

響いて行く鐘の音さえ匂うようだ。梅が咲く寺の夕方の空は・・・。詠んでいるところに、見慣れぬ女性が一人、女の子の使用人を連れてやってきた。年の頃は20歳ばかりである。美しい衣装に香を焚きこめて、この世のものとも思えない。

  ながむればしらぬ昔のにほひまで

     おもかげ残る庭の梅がえ

こうして眺めていると知らない昔のことまで面影が残るような梅の枝だこと、と詠み、少女と共に休んでいる。

文治は不思議に思いながらも女の美しさに心を惹かれ、側に近づいて袖を引いた。

「今夜、月の光に美しさを競うのは、梅ばかりではありません。あなたの姿も梅以上の美しさです」

女はさほど驚いた様子もなく、

「梅の香りに誘われて月を見ているこのような夜に、あなたのようにやさしい人に会えるなんて、本当に嬉しいわ」

などと気を持たせる。文治は家来に言いつけて酒屋から酒を取り寄せ、御堂の軒に座って、互いに酒を酌み交わした。少し酔って語り合い、

  袖のうへに落ちて匂へる梅の花

     枕に消ゆるゆめかとぞ思ふ

私の袖の上に落ちて匂っている梅の花のような貴女は、目が覚めたら消えてしまうような気がします。貴女とこうしていることが夢でなければいいのに、と詠えば、女の返し、

  しきたへの手枕の野の梅ならば

    ねての朝けの袖ににほはむ

布団のように敷いて寝た梅の花ですもの朝目が覚めても、袖に匂いが残りますわ、と詠む。

その夜二人は契りを交わし、更に数杯杯を交わして酔って寝入った。

朝になって文治が目が覚めると、梅の根本に只一人いて、女も、召し使っていた少女もいなかった。月は落ち、ただカラスが群がり鳴くばかりである。しかし、女の香りは、文治の袖に残っていた。

昔中国の崔護という人が、美しい桃の花を見ているときに、2人の女が来て、共に酒を飲み、唄い、また来年もここであおうと約束して別れた。しかし次の年、女は現れなかった。そこで、門の扉に次のような詩を書き付けた。

  去年今日此門中

  人面桃花相映紅

  人面不知何処去

  桃花仍旧笑春風

(去年の今日、此の門の中で人も花も紅に映えていた。しかし今は人はどこかに去ってしまい、花だけが昔のように春風に笑っている)

しかしこれは中国の例である。今度のことは、我が国のことだ。この後逢う出来るだろうか。相手が人ならば、どこかで巡り会うと言うこともあるだろう。しかし昨夜の女は、確かに梅の精に違いない。袂に残る女の香りは、梅の香りそのものだ。

陣に帰っても女の面影がちらつき、夕方になれば女が恋しくて、涙の絶える暇がない。何もかもあじきなくて、文治は間もなく討ち死にしたという。

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ブログと写真

11月14日(土)

午前中からブログを書いています。通常は晩酌をして、寝る前に書いています。早めに書き始めることはあっても、午前中から書くのは、おそらく今日が初めてです。

Imgp2375

昨日この絵を載せて、あとは普通に文章を書いて保存しようとしたら、拒否されました。今日は果たしてどうでしょうか。まだ途中ですが、ここで1度、保存できるかどうか試してみます。

無事に保存できているようですので、書き進めます。

何処が悪かったのでしょうか?ひとつだけ思い当たることがあります。昨日は日付の下に1行も書かず、いきなり絵を載せました。そのせいではないか?

私はブログに、文を書いたり写真を載せたりして書いているわけですが、自分のブログを印刷するうち、あることに気づきました。たとえばある写真が、1ページの途中で切れてしまった場合、2ページ目にその写真の切れた残りが印刷されると言うことはなくて、消えてしまうと言うことです。そればかりではなく、2ページ目のはじめから写真がはじまる場合、その写真は印刷されず、飛ばされます。写真の前に1行でも文章が入っていれば、普通に印刷されます。

今回、ブログの文章を書く前、日付の下にいきなり写真を載せようとすると、印刷ばかりではなく、保存を拒否される、公開できないと言うことが分かりました。

無料でやっているブログだからそんなものなのか、それとも私の使い方が悪いのか、どうなんでしょう? 

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2009年11月13日 (金)

無題

11月13日(金)

少し頭に来ています。

今家を載せて、少し長いブログを書いて、それも久しぶりに自分の思うところを真面目に書いたブログが、保存できないというのだ。フォーマットが不正か指示が複雑すぎるかだそうだ。何時もと何も変わらないのに、何がいけないのだろうか。理解できない。

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今日の絵 1神教と多神教

11月13日(金)

Imgp2374

水彩画の会。懲りもせずに下手な絵を載せます。

 動かない犬引っ張って猫じゃらし 前田美智子

俳画というのは、俳句と附きすぎてはいけないのだそうですが、私のは俳画ではなく、この俳句を描いてみようと思ったもの。子供が猫じゃらしで犬の背を撫でるおまけまで付けて。まあ、漫画ですね。

今日は13日の金曜日。キリスト教国では縁起の悪い日だそうです

別にそのせいで書くのではないが、近ごろ、小沢一郎が「キリスト教やイスラム教は排他的」と言ったそうで、あちこちで取り上げられているようだ。小沢一郎のような人が、公の席で言ってはいけないことだろう。

仏教徒相手に言ったものだから「リップサービス」と捉える意見が多いようだ。私はリップサービスではなく、本心だったのではないかと思っている。私もそのように考えるからだ。但し、だから西洋が行き詰まっているなどとは思わない。行き詰まっているのは、日本は西洋以上だろう。

キリスト教もイスラム教も1神教であり、我が神が正しいから、どうしても排他的になりやすい。1神教においては、世の中のあらゆることに、絶対正しいものがおり、それに反するものは間違っているのである。だから宣教師にとって、キリスト教を広めることは正義であり、信じないものは誤った人々である。少し前までは、まだキリスト教国になっていない国は、未開の国だと考えられていた。

二者択一という言葉があるが、1神教の世界で生まれた言葉であろう。あってもなくても良いものは、ない方が良いと考えるのが1神教の世界、あってもなくても良いものは、文字通りあってもなくても良い、つまりあってもかまわない、などと柔な考えを持つのが多神教の世界。

二者択一的な思想がなければ、多分、科学はここまで進歩しなかっただろう。

私自身は仏教に親しみを感じているが、無神論者である。キリスト教と仏教の、どちらかがすぐれている、などと言うことはないと思っている。一長一短であろう。

真にすぐれたキリスト者は、われわれ多神教のものとは違う強さを持つことがある。自分が正しいと信じても、われわれだと、まわりの様子を見て、大勢に流されていく。キリスト教国でも同じだと思うけれども、真にすぐれたキリスト者は、大勢に流されず、自分の意見を持ち続けられるようにようだ。何しろ、最後は只一人の神対自分なのだ。神に向かって疚しいところがなければ、神を信じ、神と共に自分を信じることが出来る。これが、われわれだとなかなか難しい。神無しで、世間に逆らって、自分を信じなければならないのだ。

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2009年11月12日 (木)

遅れの七五三

11月12日(木)

ボラグループ定例会。

老人介護施設Kへ。

七五三が近づいてきた。

この時期になると、思い出す場面がある。

もう40年以上も前になると思う。私は東京、本郷の和楽器屋で琴作りの職人として働いていた。そして、埼玉県の大宮で所帯を持っていた。通勤は大宮駅から御徒町駅まで、京浜東北線で通い、御徒町から本郷の会社までは歩いた。その際、湯島天神の境内を抜けるのが近道だった。

11月15日が過ぎて何日かしたころ、いつものように私は湯島天神の境内を通って、御徒町へと急いだ。そこで湯島天神にお参りをしている、父と娘を見た。遅れの七五三を祝っているのだ。娘の様子を見るならば、七歳のお祝いだろうと思われた。

娘は着物を着ている。その着付けは、誰がしたのだろうか。父は背広姿で、曲がったネクタイが生活の疲れを感じさせた。街灯の弱い光りの中で、ほかに誰もいない境内で、二人は社殿に向かって歩いていた。

娘の母は病気なのか、亡くなったのか、あるいは離婚しているのか、それは分からない。いずれにしても、父と二人で住んでいるのだろう。おそらくは娘にねだられて、サラリーマンの父が仕事を終わってから娘を連れてきたに違いない。

娘は、この七五三を一生忘れないだろうと私は思った。しかし、考えてみると、私の方も忘れていないのである。あのときの娘は、もう50歳前後になっているはずである。今は幸せなのだろうか、と、ふと思う。

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2009年11月11日 (水)

魂がさまよう 膾の精

11月11日(火)

御伽婢子・130

魂がさまよう

河内の国、弓削というところに友勝という鍛冶屋がいた。用があって大和に行った帰り、あまりに疲れたので、山の側で休んでいた。するとそこに、自分は馬に乗りながら、もう1匹の馬を追いながらやってきた人がいる。もう1匹の馬にも鞍が置いてある。

「私はとても疲れています。その馬が空いているのでしたら、私を乗せてくれませんか」

「それはお気の毒に。良いですよ。お乗りください。だけど、川の向こうまでです。そこで降りてくださいね」

友勝は喜んで馬に乗り、川を渡ったところで馬を下りた。

友勝が家に着いたのは、もう日暮れ時だった。家では、家族の他兄弟など一族のものが集まって、宴会をやっていた。

友勝が帰ったのに誰も見向きもしない。妻の名を呼び、子供に声をかけ、兄弟を呼んでも、振り向きもしないのである。あまりのことに腹を立て、友勝は妻を殴ったのに、妻は表情ひとつ変えず、「家の人がいたら、もっと楽しいのにねえ」などといっている。

なんとしたことだ「知らないうちにおれは死んでしまったらしい」と思うと力も抜け、ふらふらと村の外れに行き、ぼんやりと立っていた。するとそこに、見るからに高貴な感じの人が馬に乗り、家来を連れて近づいてきた。そして友勝を指さして、

「あの者はなぜあそこにいるのだ。あの魂はまだ死ぬには早いではないか」

「はい。あの者はまだまだ残された生があるのですが、水神の馬を借りたので、水神がいたずらをして魂を抜きました」

「水神がまたいたずらをしたか。叱っておかなければならないな。あの者を定まった姿に戻してやれ」

供の者は友勝のもとにより、

「あのお方は聖徳太子です。こうやって国中をまわっているのです。あなたをもとの姿に帰すので、ちょっと目をふさいでいなさい」

というと友勝の後ろに回り、背中を押した。友勝は目が覚めたような心地がして、気がつくと、大和川のほとりに立っていた。

                      終

御伽婢子・131

膾の精

大島藤五郎というものが、能登の国で浪人生活を送っていた。ことのほか膾が好きで、「山海の珍味あるとも、膾に勝もの無し」というのが口癖だった。

あるとき、友人5-6人と浜に行き、漁師から膾にする魚を籠に5つも買った。そして砂浜にむしろを敷き、膾を沢山作り、友達共々飯を食った。

大島が大きなどんぶりで膾を食っていると、喉につかえるようなものがある。咳をした吐き出したところ、大豆くらいの骨だった。その骨を茶碗に入れ、皿で蓋をし、大島はまた膾を食い始めた。まだ食事も終わらないとき、骨を入れた茶碗が勝手に倒れて、さっきの骨が、30センチくらいの大きさになって出てきた。そして、人の形に変わり、どんどん大きくなって、大の男になった。

みんなが驚きあきれていると、その男は大島に飛びかかった。それからは、組んずほぐれつの大げんかである。男の身は軽く、時にはトンボのように飛び回り、大島も刀を抜いて相手をした。

にわかに濃い霧が立ちこめ、喧嘩の音は聞こえるものの、友人達には、大島の姿も、男の姿も見えなくなった。ややあって、大島は男の腕に切りつけると、男はかき消すように消えて、霧も晴れた。大島が男の腕を切り落としたと思ったものは、大きな鰭であった。その鰭を友人達に見せたあと、大島は気絶した。

大島はやがて正気には返ったが、男と戦ったことは全く思い出せないという。きっと肴の精が出てきたのであろう。

                      終

これで、御伽婢子11巻は終わりです。あと12巻、13巻を残していますが、2-3日休みます。

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ものいえば唇寒し

11月11日(火)

  古池や蛙とびこむ水の音

といえば、芭蕉の句であることは誰でも知っている。では、誰でも知っている句で、

  ものいえば唇寒し秋の風

ならばどうだろうか。これも芭蕉の句なのである。あんがい知らない人も多いと思う。俳句を始めるまで、私も知らなかった。「ものいえば」の方は、俳句というより、諺とか、格言といったものとして記憶していたのである。「あまりぺらぺら喋るもんじゃないよ」といった理解の仕方で、芭蕉のつもりとは離れて、俗っぽくして理解していたわけだ。

  手にとるなやはり野におけ蓮華草

というのは、瓢水居士という人の俳句だそうである。私などは「手にとるな」の方は知らずに、「やはり野におけ蓮華草」というフレーズだけを覚えていた。「野生の花は野生でこそ美しい。だからむやみに管理するな」というような、格言っぽい理解をしていた。但し「手にとるな」は俳句として拙いね・・・と思います。

  夕涼みよくぞ男に生まれける

というのは其角の句だそうです。誰の句とも知らずに、子供のころから覚えていました(俳句だったんですね!)。

  行水の捨て所なし虫の声

この句の作者は鬼貫(オニツラ)。誰の句か知らずに、気の利いた言葉として覚えていた句って、沢山あるんですねえ。

きっと次のようなのも、俳句だったんでしょうね。私はそうと思ったことはなかったのだけれど・・・。

  酒無くてなんで己が桜かな

  いうまいと思えど今日の暑さかな

二つとも、季語はあるし、575になっているもんね。誰の句なんだろう。知りたいところだ。俳句としては、低俗でしょうけれど。

そのほか、『俳人奇人談』『俳句・俳人物語』から、おもしろい句を2句。

  長松が親の名でくる御慶かな  野坡

  いねいねと人にいわれて年の暮 路通

1句目。子供の長松が、親の名前で新年の挨拶回りをしているわけです。

2句目。路通というのは乞食坊主だったが、芭蕉に拾われて俳人になりました。乞食だったころ、「あっちへ行け!」なんていわれていたんですね。

そのほか。

  木枯らしの果てはありけり海の音  言水

あれ? なーんだ。

  海に出て木枯帰るところなし  山口誓子

もとは言水にあり、だったのか。

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2009年11月10日 (火)

七歩の蛇

11月10日(火)

御伽婢子・129

七歩の蛇

京都の西の麓、昔、岡崎中納言の山庄があったところは、その後は荒れ果てて、住む人がなかった。

浦井という者がその土地を買い、家を建てた。

「あそこは蛇の化け物が出るぞ」

という人がいたが、

「そんな馬鹿なことがあるものか」

と、浦井はかまわず家を建てて移り住んだ。

住んでみると、夜中に1メートルあまりの蛇が5-6匹出てきて、天井などをはい回った。使用人に蛇を取り除かせようとしたが、鎌首を持ち上げて睨み付けるので、使用人は怖がって出来ない。やむを得ず、浦井自身が杖で蛇を打ち落とし、桶に入れて加茂川に流した。

次の日は、蛇が15匹も出た。同じように桶に入れて加茂川に流した。するとその次の日は30匹出る。取り捨てるたびに蛇の数が増える。終いには300匹あまりになった。

幾ら取ってもきりがない。浦井は自ら地鎮祭を行った。浦井が祝詞をあげた夜、地下ですさまじく騒がしい音がした。

夜が明けると、その辺りの草むらがことごとく枯れていた。枯れたところと青草が生えているところの境目の辺りの大きな石を取り除いてみると、15センチくらいの小さな蛇が逃げて行く。追いかけて打ち殺してみると、驚いたことに、4本の足があり、耳もある。その形はまるで龍のようである。

誰もその生き物を見たことのある者はいなかった。南禅寺の僧によると、それは七歩の蛇で、それに噛まれると、7歩くらい歩くだけで死んでしまうという。

その後、浦井の家に蛇は出なくなった。夜中に沢山出た蛇は、おそらく七歩の蛇の精だったのだろう。

                         終

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マンションの掃除当番

11月10日(火)

我がマンションは管理組合を作って、自主管理している。そのため、たとえば1年に2-3回マンションまわりや中庭、玄関などの掃除当番がある。私は今日がその日。

洗濯と家の掃除をしてから、当番の掃除をはじめる。玄関、管理人室(管理人はいない)、ゴミ置き場、中庭、マンション側道路などの掃除をする。

午前中に終わるはずだったけれど、落ち葉の季節でゴミが多く、気がついたら午後1時半。なにより参ったのは腰が痛くなったこと。こんなことをしたくらいで腰が痛くなったりする体ではなかったはずなのだが、72歳と11ヶ月、やっぱり歳なのかなあ。

市内の温泉に行って、散髪をして温泉に入って、でもまだ腰が重い。沈痛用の湿布などをしています。

頭は、坊主刈りにしました。たいして毛がないんですからね、今さら7・3に分けるような頭ではありません。

『俳家奇人談・続俳家奇人談』と池田弥三郎の『俳句、俳人物語』を読み終わったので、その感想でも書こうと思っていたのですが、またの機会にします。

何日か休んでいましたが、今日から『御伽婢子』の現代語訳、再開。

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2009年11月 9日 (月)

最敬礼

11月9日(月)

精障者作業所Mへ。

畑。つまみ菜の間引き。

自主作品作り。振り子時計。鉛筆立て。

山友Sさんの家で夕食会。奥さんの水彩画はいい絵だなあ。静かで清潔で、精神性を感じる。

義理で入った老人会の、7日は誕生会でした。その日、福祉法人の旅行で私は不参加。Sさんが記念品を持って7日、8日、尋ねてきてくれていたらしい。今日も日中何度か電話をしたという。今日の夕方、Sさん宅へ行く前の短い時間に、その記念品を持ってきてくれる。記念品と言ったって、たんなる洗剤なんですけどね。何回も足を運んでくれたSさんに申し訳なくて、最敬礼。

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2009年11月 8日 (日)

足和田山・三湖台・紅葉台

11月8日(日)

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山の会、山行。

東海自然遊歩道の「足和田山(五湖台)」

バス停1本木から登山道に入り、足和田山(五湖台)、三湖台、紅葉台、氷穴、風穴のコース。紅葉台を下りてから、氷穴、風穴へ向かうときは、樹海を通る。

五湖台(足和田山山頂)、紅葉台の富士もそれぞれ見事ですが、なんと言っても三湖台の富士。大きく、美しく、迫力があります。逆光のため、写真はちょいと残念というところ。

1枚目は五湖台、2枚目が三湖台、3枚目は紅葉台です。

紅葉は麓に移っています。

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紅葉は麓の方に移っていました。

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樹海です。

車でくる人は紅葉台に登って、展望台で富士を見て帰る人が多い。でも、それではもったいない。紅葉台からは3-4歳の子供でも行ける距離に三湖台があり、そこからの景色を見なくては・・・。富士も樹海も、その他の山々も、三湖台からの眺望が圧巻です。

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2009年11月 7日 (土)

清里

11月7日(土)

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こぶし福祉会親の会の日帰り旅行に参加。清里へ行きました。

最初の写真は萌木の村オルゴ-ル館の前。

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萌木の村は、案外広くて、中にはさまざまな家や小屋があり、食堂や売店がありました。

私が興味を持ったのは、木の枝で作った動物などを展示販売している小屋でした。それにしても、結構いい値段で売ってますなあ。

村は。落葉松が取り囲み、その落葉松は紅葉しています。

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但し光りの加減か、特別美しいというほどの紅葉ではありませんでした。落葉松の写真はありません。

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美し森に登る。標高は1500メートルを超えていたけれど、正確には覚えていない。頂上まで、バス駐車場から、標高差100メートルくらい有るのかな。

清里を巡っていると、所々で八ヶ岳が見事な姿を現します。

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富士も肉眼ではかすかに見えるのですが、私のカメラでは写らないと思いました。天気がよいのはなによりでしたが、暖かすぎて、空は水蒸気を含み、まるで春のようです。

本当は、今日、立冬なんですよね。この陽気で冬だといわれてもネエ。

旅行は天気が1番大切。富士がくっきり見えなかったくらいは仕方がないでしょう。

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2009年11月 6日 (金)

レインコート

11月6日(金)

狭山台胃腸科外科へ。血圧の定期検診。

特養Sへ。今日は3F訪問。

以前使っていた山用のレインコートは、水が漏るようになったので、今年、新しいものに買い換えた。その新しいレインコートに穴があいちゃった。洗濯するときに、どこかに引っかけたらしい。幸い足首に近い方で、スパッツで隠れる位置である。取りあえず、幅の広いビニールテープを貼り付ける。これで暫く様子を見る。

前のレインコートは10年以上使っていると思うけれども、破れはしなかったなあ。

明日は精障者の家族会主催のバス旅行で清里へ。

明後日は山の会の仕立てたバスで大和田山の予定。

ブログは書くつもりでいるけれど、ひょっとすると休むかも。

2日間、天気は良いらしい。何処へ行くのも、天気が1番。

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2009年11月 5日 (木)

生まれ変わって契る・5

11月五日(木)

御伽婢子・128

生まれ変わって契る・5

前回までのあらすじ 豊田孫吉と懇ろになった女は、幽霊で、二人は前世で打ち首になった間柄だった。女は豊田が恋しくて、あの世から現れ、豊田と結ばれた。女は豊田に前世の出来事を語り、人の運命を語る。

女は続けて言う。

「私の冥土の暇はあと1年で終わります。天の定めには逆らえません」

その1年が過ぎた。女は気分が悪くなって床に伏せていた。豊田は医者よ薬よと手を尽くしたが、女は薬も受け付けない。

女は豊田の手を取り、

「昔共に打ち首になって100年以上過ぎました。このたびあなたと夫婦になりましたが、私はもう冥土に帰らなければなりません。思いは尽くしたのだから、悲しまないでください」

「もう少しここに残ることは出来ないのか?」

   名ごりをも惜しまでいそぐ心こそ

      別れにまさるつらさ成りけれ

と詠んで、女は壁に向かって伏せ、息絶えた。豊田は泣き叫んだが、その甲斐もない。豊田は、

   残り香になにしみにけん小夜衣

     忘れぬ妻と思いしものを

と詠み、野辺の送りをした。その棺があまりに軽いので開けてみると、衣だけ有って、屍はなかった。

豊田は出家して、四国、九州を回巡ったのち、中国に渡る。その後のことは誰も知らない。

                          終わり

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なじみの俳句

11月5日(木)

精障者授産施設リバーサイドへ。

今読んでいる本のせいで、

「え、あれは俳句だったの?」

と言うのが幾つかある。たとえば、

  夕涼みよくぞ男に生まれける   榎本其角

そういえば五七五ですね。季語もあるし。

  化け物の正体見たり枯れ尾花  横井也有

なるほどねえ。これも俳句だわ。

  この塀に小便するな管理人   ぼんくらカエル

さすがにこれは俳句ではない。でも、五七五というのは調子が良いから、格言やスローガンなどになりやすいんだろうねこんな看板、無意識のうちに作りそうだ。

次は、俳句と知ってはいたが、誰の作か知らなかったもの。

  行水の捨て所なし虫の声   鬼貫

  雪の朝二の字二の字の下駄のあと  田捨女

  これはこれはとばかり花の吉野山   貞室

  梅一輪一輪ほどの暖かさ   其角

  鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春   其角

  我がものと思えば軽し笠の上(雪)   其角

さすが其角、芭蕉の高弟だけあって、「夕涼み」の句を含め、俳句に興味のない人でも知っているような句を、幾つも作ってますね。

以上は、良いか悪いかは別にして、なじみの俳句です。

おもしろいのは路通。乞食坊主だっだのを芭蕉に拾われて弟子になり、やがて還俗する。

  いねいねと人にいはれて年の暮   路通

乞食のころ、「あっちへ行け」「あっちへ行け」なんて言われていたんですね。

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2009年11月 4日 (水)

生まれ変わって契る・4

11月4日(水)

御伽婢子・127

生まれ変わって契る・4

前回までのあらすじ豊田孫吉が契った女は、実は幽霊であった。2人は前世で、共に打ち首にあった中で、まだあの世にいる女は孫吉が恋しくて、幽霊になって出てきたのであった。女は前世の主人大友左衛門佐について、いろいろ語っている。

あるとき左衛門佐は塩焼きの浦に命令して、塩は全部自分で買い取り、他に売ることを禁じた。

   さなぎだに辛きおきめを左衛門が

       国の塩やきにがりはてけり

左衛門の掟が厳しくて塩焼き達が困っていると落書きがあった。左衛門佐は怒って、塩焼き司3人を砂浜で磔にした。

百姓に対しては、銭米を貸し付けて、高い利子を取った。かりる必要のない者にも、無理に貸し付けて、領民を苦しめ、利子を付けて返せない者には、妻子を売ってでも返させた。

誰かが落首を詠んだ。

    無理にかす利銭の米の数よりも

        こぼす涙はいとどおほとも

名字の大友にかけての落首に、左右衛門は大いに怒った。百姓にこんな歌が出来るはずがない、金持ちの仕業に違いない、と、勝手に決めて、城下の金持ち10数人を国から追い出した。そしてその財宝を自分の者にした。

左衛門佐が父の法事を行った際、国中の僧が集められたが、1人の僧が遅れてきた。ぼろをまとい、いかにも貧しげな僧だったので、人々は門の中にも入れず、余り物の食を与えた。

食事ののち、その僧は自分の鉢を膳の上に伏せたまま立ち去った。その鉢をどけようとしたが、誰がやっても、重くてびくともしない。不思議なので左衛門佐に知らせると、左右衛門自身がやってきてその鉢を持ち上げると、今度は軽く持ち上がった。そして中から2首の歌が出てきた。

   花ちりて梢につけるくだ物の

        今幾つかありて落ちんとすらむ

   我人につらき恨みをおほ友の

        家の風こそ吹きよわりかれ

花が散って梢についた果物も、もう落ちるばかりですよ。人々を辛い目に遭わせた大友家の風も、もういくらもふきませんよ、こんなことをしていたら、大友家は滅びますという歌なのだが、左衛門佐は気にもとめなかった。それまで通り欲深く、人を殺すことをくり返した。しかしそれから2年もしないうちに大友家は滅び、自身は死んでしまった。

何事も天の定めとはいいながら、人の道に背けば、報いは必ずくるものである。

                      続く

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秩父ミューズパーク

10月4日(水)

いちょうという木は神社や寺院などに大木が多い。黄葉の季節には、1本で見事な美しさを見せる。

秩父ミューズパークに行ってきました。全長4キロくらいの遊歩道のいちょうが見頃という情報があったからです。ここのいちょうはまだ樹齢が若いので、神社や寺院などの見事さはない。その代わり、長い道筋に見頃ないちょう並木が続いているのが魅力。

Tati0009

臆面もなく、まず下手なスケッチから生きましょう。

Imgp2266

どういう訳か(と言うより、あまり考えずに写真を撮ったため)両側の並木が見えるように撮った写真は、全部逆光でした。

Imgp2250

これは、もう少しましでしょうか

Imgp2260

これは冬桜。何本も咲いていますが、いちょうに負けています。こんな花も咲いていました。Imgp2264               

そして紅葉も。

Imgp2281

最後に、お笑い。車中スケッチ。

Tati0010                                                           

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2009年11月 3日 (火)

生まれ変わって契る・3

11月3日(火)

御伽婢子・126

生まれ変わって契る・3

前回までのあらすじ 豊田孫吉は家の前を通った女とわりない仲になったが、女の話に依れば、孫吉は前世で、その女と共に打ち首になったのだという。女は孫吉が恋しくて、幽霊になって出てきたのだという。

前世からの縁だと知って孫吉は、ますます女が可愛くなった。

「誰にはばかることもないではないか、あんたも夜に来て朝に帰るということはやめにして、おおっぴらに、夫婦としてすごそう」

孫吉は相手が幽霊だと知っても、少しも怖いとは思わなかった。前世の縁が愛しくて、ひたすら女を愛した。

女は孫吉に碁を教え、孫吉は近辺では誰もかなうものがないほどの碁打ちになった。

女はまた、良く前世の話しをした。まるで目の前にそのありさまを見るように話すのである。

二人を打ち首にした主人の左衛門佐は、血も涙もない男で、こんなこともあった。

あるとき、左衛門佐がお付きの女房達を連れた、川の畔で遊んでいた。すると川向こうをで、美男子が二人で遊んでいる。

「あら、素敵な殿方ねえ」

などと女達は噂した。

「お前たちの中に、あのような男を夫にしたい者はいるか」

と左衛門佐が聞いたところ、一人の女が顔を赤くして、もじもじしていた。

その少し後、女房達が集まっているところに左衛門佐が来て、

「この前の男に贈り物がある。これを見なさい」

と言って蓋をした新しい桶を持ってこさせた。女房達が蓋を開けてみると、この前顔を赤くしてもじもじしていた女が、首を切られて入れられていた。

                        続く

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俳家奇人談・続俳家奇人談

11月3日(火)

文化祭に出品した絵の撤収。

Imgp2233

これが今回の私の絵です。これは日光白根山ですが頂上ではありません。上の方にぼんやり浮かんでいるのは男体山。

65歳で俳句を始めて、しばらくの間気になったのは、俳句と川柳の違いでした。いろんな説があるんです。切れのあるなしで決めるとか季語のあるなしだとか、人事が川柳で自然詠が俳句だとか、穿ちのあるのが川柳でないのが俳句だとかね。

現実の作品を見ると、川柳のような俳句もあるし、俳句のような川柳もある。だから私は、大変乱暴な結論に達した。つまり、作者が川柳と思って詠んだら川柳で、俳句と思って詠んだら俳句だ、と言うものだ。これでは客観的な違いはないことになってしまうけれど、私にはその違いが発見できなかったということである。

なんでそれが気になったかと言えば、私は誘われて俳句の会に入ったけれど、性格は川柳向きかもしれないと思っていたからである。

こんなことは、以前もブログに書いた。なぜまた書いたのかと言えば、今読んでいる本のせいである。

今、2冊の本を平行して読んでいる。1冊は、竹内玄玄坊著『俳家奇人談・俗俳家奇人談』(岩波文庫)、もう1冊は、池田弥三郎著『俳句。俳人物語』(古典文学全集・ポプラ社)である。

竹内玄玄坊というのは詳しいことは分からないようだが、盲目の出家で、1800年頃亡くなった人らしい。『俳家奇人談・続俳家奇人談』は、俳句の始まりごろの宗祇(1421-1502)から江戸中期(1740年ころ)までの俳人について書いたものである。同書は、俳人の奇行や情報については間違いもあるようで、私は当時の俳人がどんな俳句を書いたのかに興味があって読んでいる。

江戸時代の俳人については、私は芭蕉の句集を読んだ程度である。蕪村や一茶の句を幾つか知ってはいるが、その句集は読んでいない。俳句をやっている以上は、いつかは読まなくてはいけないだろうと思っている。それに、『柳多留』の選集みたいなのも読みたいな。『俳家奇行談・続俳家奇行談』は、江戸時代の俳句を知る、手軽な1冊とでも言うような意味で読んでいるのである。

池田弥三郎の『俳句。俳人物語』は、少年少女向きに書かれたものである。少年少女向きと言っても、池田弥三郎のことだもの、ごまかしなんか無いわけで、俳句の歴史を通観できるようになっている。

本というのも、種類によって、早く読めるものと、なかなか進まないものとがあるが、今読んでいるのは、後者の方。読み始めて10日ぐらい経つが・まだ半分にも達しない。小説1冊くらいなら、1日で読み上げることくらいはあるのだが、こっちの方は、少し時間がかかりそう。

江戸時代の俳人は、談林派に限らず、川柳みたいな俳句を沢山詠んでいますね。底が浅いと言われようが、私はそっちの方だから、これからもおとぼけ俳句で行きたいものです。

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2009年11月 2日 (月)

生まれ変わって契る・2

11月2日(月)

御伽婢子・125

生まれ変わって契る・2

前回のあらすじ 肥前の国の豊田孫吉は、行きずりの女性と親しくなり、夜ごとに逢う瀬を重ねているが、女は身分を明かさない。ある夜、女は自分が異界のものであることを知らせ、孫吉とは深い因縁があるのだという。

以下は女の語りである。

昔、この松浦に、大友左衛門佐と言う大名がいた。私は歌が上手くて、碁が強かった。そのため左衛門佐に召されて、側に仕えたが、やがて寵愛されるようになったの。

その頃あなたは大友の小姓だったわ。とてもいい男で、私は心を奪われてしまったのよ。それでね、ある日の夕方、

   よそながら目には懸かれど雨雲の

        へだつる中にふるなみだかな

と書いて、あなたの袂に入れたの。そしたらあなたは、次の晩、

   よそにのみ嶺の白雪きえかへり

        たえずこころにふるなみだ哉

と書いて、私の袂に入れてくれたわ。

私たちは歳も同じだっだし、同じ所に住んで、思い思われていたのに、まわりの目が厳しくて、抱いてもらうことも出来なかったわ。そのうち仲間達に、私たちが思い思われていることが知られて、左衛門佐に言いつけられてしまったの。私たちは縛られて、松浦川のところに引きずられて、打ち首になってしまったんだわ。

あなたはまた人間に生まれてきたけれども、私はまだあの世にいるの。だけどあなたが恋しくて、幽霊になってあなたと結ばれたの。

昔のことを思うと、私は今でも、悲しくて涙が止まらなくなるわ。

女の話を聞いて、孫吉もまた悲しくなり、涙が出た。

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再び、ビンボー人のゴウカな朝食

11月2日(月)

精障者作業所Mへ。

Imgp2230_2

今日の朝食は、おじやと野菜サラダ。 

おじや

 ご飯       1膳

 たまご      1個

 シラス干し

 大根の皮

 大根の茎

 にんじんの皮

 紫蘇の葉(みじん切りにして干したもの)

 梅干し      1個 

野菜サラダ

 レタス

 キュウリ

 ツナ(缶)

 ミックスビーンズ(缶)

インスタントコーヒー

何時も野菜の皮ばかり食べているようですが、中味を食べたから皮が残っているのです。でも、皮って随分残りますね。

夕方、Mからかえってくると、マンションのドアノブに紙袋がぶら下がっている。中には、Tさんからの書類。そしてカボチャの3倍くらいある大きな梨、というのは嘘だけれど、とにかく大きな梨が入っている。

Imgp2231

そこで、わが家にある果物を写してみる。

柿ももらい物。知人の庭の柿である。大小6個の柚子は、柚子味噌でも作ろうと思った買ったもの。

梨と柿からは、また皮が出ますねえ。今度はどうやって食べようか。

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2009年11月 1日 (日)

生まれ変わって契る・1

11月1日(日)

御伽婢子・124

生まれ変わって契る・1

肥後の国に豊田孫吉という若者がいた。早く親に死なれ、独りで住んでいる。家は豊かである。孫吉は一人っ子だったので、親は大事に育て、学問などもさせ、諸先生の教えを受けていた。

ある夕方、孫吉が門の外に出ていると、上品な16-7歳の女が家の前を通る。べつだん派手な衣装を身に着ているわけではないが、姿形が美しい。

孫吉は女の傍により、袖を掴んで口説いた。女もすぐその気になって、二人は夜もすがら語らい、肌を重ねた。明け方には名残を惜しみながら女は帰った。

次の夜も、女はやってきた。孫吉は名前を尋ねたけれども、女は言を左右して答えない。親のこと、住んでいる家のことなども、教えようとしない。

「私が着ている小袖は色が褐色だし、蔦の唐草模様になっているでしょう。だから私のことは『褐子』とか『蔦子』と呼んでくださって結構よ」

と女は言う。何か子細があるのだろうと思って、孫吉はそのままにして置いた。それでも、女は毎晩やってきた。

しかしある夜、孫吉は酔った紛れに、

「私がこんなに思っているのに、あなたはまだ自分のことを秘密にしておくなんて、まだ心からうち解けてはくれないんだね」

   手まくらのうえにみだるる朝寝髪

      下には人のこころとけずも

と詠んだ。女恨めしげな顔色で、まだ分かってくれないのね、と言うように、

   手まくらをかわすちぎりの下紐の

       とけずと君がむすぼぼれつつ

と返した。

「もう隠さないわ。あなたと私は、ずうっと昔から知っている中なのよ。実は私、この世の人ではないの。でも、あなたをたぶらかそうとしているのじゃないわ。あなたとは深い縁があるのよ。そのわけを聞いてね」

と、女は前世の話しをはじめた。

                      続く

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ナンセンス落語

11月1日(日)

今日、北海道では雪が積もったところもあるとか。関東地方は、まだ暖かです。北海道は、やはり北国なんだなあ。

今は何処にでも気楽に旅行できるが(私は金欠病で旅行できない)、昔は関東の人が北海道に行くというのは、大変な旅行だった。

その頃の落語。

「北海道に行ってきたんだってねえ。あっちはどうだい、寒いんだろうねえ」

「寒いの何のって、北海道の人は冬になると、みんな小槌を腰にぶら下げている」

「なんでだい」

「オシッコをしながら凍るから、凍ったオシッコを小槌で叩くんだ」

「そんなに寒いのかい」

「ああ、そんなもんじゃないよ。火事が燃えながら凍るんだ。だから消防の人はノコギリを持って火事場に駆けつける」

「それで?」

「燃えている炎をノコギリできるのさ。それを橇に積んで、川に捨てに行く」

「そりゃあすごいねえ」

「そればかりじゃない。声だって凍る」

「声が凍る?」

「そうだよ。朝道で知り合いがすれ違うだろう。その時両方の人がお早うと言うんだ」

「そりゃあそうだろう」

「すると、その、お早うが凍るんだ」

「なんだと?」

「お早うの声が凍るんだよ。お早う棒と言ってな、冬の間は、道ばたに幾らでも落ちている。それが春先になると融けるもんだから、あっちからもこっちからも、お早う、お早うって声が聞こえて、うるさいの何のって」

などというナンセンスなのがありました。

もっとも北海道では、今でも冬になると、犬や猫が毛皮を着てふるえているそうです。

車椅子と仲間の会。定例会。

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