« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月31日 (土)

土佐の国の犬神と金蚕

10月31日(土)

御伽婢子・123

土佐の国の犬神と金蚕

土佐の国の畑というところには、数代にわたって、犬神持ちがいた。

もし犬神持ちが他所の土地を尋ねて、なんであれ、何か他人の持ち物を欲しいと思った場合、面倒なことが起きる。そのものを持っていた人は、熱病にかかり、体中が錐でつかれるように痛み、刀で切られるような感じになる。犬神持ちに欲しがる物を与えれば病は癒えるが、与えなければ、長く苦しんだのちに死んでしまう。

昔、国の守が犬神持ちを憎く思い、この土地の者を皆殺しにした。おかげで犬神持ちは絶えたと思われたが、一部が生き残り、現在まで伝わるという。

犬神持ちが死ぬときは、犬神は家を継ぐ者に移るということだ。犬神は米粒ほどの大きさで、白黒、斑のある犬である。犬神などに移ってもらいたくないと思っても、持病なので仕方がないのだそうだ。

異国にも虫の呪いによる病気があるらしい。

ベトナムの辺りには金蚕と言う病気がある。これは蚕の形で、黄金色に輝く虫である。これにとりつかれると、はじめは2-3匹だった虫が、どんどん増えて、家が塞がってしまう。打ち殺してもかえって増えてしまう。助かる方法は、金銀などの櫛やかんざしを道に捨て置き、誰かに拾ってもらうと、今度は拾った人の家に金蚕が移るという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ビンボウ人のゴウカな朝食

10月31日(土)

はばかりながら私は、子供のころから一貫して貧乏であります。私くらいの貧乏になりますと、貧乏を楽しむことが出来るようになるのであります。今朝の豪華な食事をお目にかけましょう。

Imgp2229

ご飯の器とみそ汁の器の並べ方が違うなどと言ってはいけません。 スプーンも箸もない、などと言ってもいけません。写真を撮ることに夢中になって、そんなことには気が回らないのだな、と思うのが正しい態度です。

今朝はチャ-ハンでした。余り物で作るチャーハンです。

材料は

 ご飯           1杯

 たまご          1個

 ささみ          1本

 ミックスベジタブル   1握り

 小エビ干し       1つまみ

 大根の皮

 サツマイモの皮

 柿の皮

みそ汁の具

 水菜

 みかんの皮

みかんの皮だろうが大根の皮だろうが、私はすべて食べるのです。今日のチャーハンなんか、結構美味しくできました。もちろんみそ汁だって美味しいですよ。

幸いにして私は、大概のものを美味しいと感じる、健全な舌を持っています。好き嫌いの多いあなたに、貸してあげられないのが残念です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月30日 (金)

紅葉狩り、中津峡

10月30日(金)

埼玉県の最奥、中津峡へ行く。紅葉の名所である。

                                                                                                                 Imgp2175

Imgp2179

中津峡へ行くのは2回目です。何年前だったでしょうか、前回はバスの終点中津川に行って、バス停を幾つか歩いて戻りました。今回は逆に、相原橋バス停で降り、終点の中津川バス停に向かって歩きました。終点付近で、充分に時間を取りたかったからです。

相原橋から1時間半か2時間くらいでバス停の中津川に着きます。その時点で、バスの待ち時間が2時間ほどありました。

まず昼食をして、新林科学館を見学しました。日帰り温泉もあって、かなり気持ちが動きましたが、温泉には入らず、歩くことにしました。

中津川には吊り橋を渡る遊歩道があって、そこを歩いてみました。バスは中津川に沿って走っているし、相原橋から歩くコースはバスの道路だし、何処もみんな中津川なので、説明がヤヤッコシクなるところがあります。たとえば中津川キャンプ場というのは、終点の中津川とは違うところにあります。川沿いには幾つか遊歩道があると思いますが、私が歩いた遊歩道は、バス停中津川の遊歩道です。

Imgp2196

Imgp2187

かなりの紅葉ですが、本当の盛りは、あと1週間くらいしたときかなあ、と思います。

Imgp2183

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年10月29日 (木)

隠れ里・3

10月29日(木)

御伽婢子・122

隠れ里・3

前回までのあらすじ 内海又五郎が野中の荒れた堂で野宿していたら妖怪が堂の中に入ってきた。又五郎は身を隠して矢を放ったところ、その矢が妖怪の大将を傷つけた。朝、妖怪が逃げた血の跡をたどっていき、誤って大きな穴に落ちる。そこは妖怪の世界だった。又五郎は妖怪達を斬り殺す。美女二人が残ったが、彼女らは人間で、逃げられずにいたのだという。

妖怪を退治したのはよいが、人間世界にかえる術が分からない。どうしたものかと迷っていると、どこからとも無く白装束に烏帽子を付けた老人が10人ばかり、やってきた。

「われわれは久しくこの地に住んでいるのだけれども、近ごろは猿たちに住み家を奪われ、片隅に追いやられていました。妻子や孫も辛い思いをしていました。あなたはその猿たちを退治してくれた大恩人です。私たちは昔のようにここに住むことが出来ます」

と、手に手に、又五郎の前に黄金の包みを置いた。しかし今度現れた者たちも人間ではない。目は丸く、口は尖り、ひげと眉毛はいたって長い。

「お前たちは何者だ。神通力を持っているように見えるけれども、なんで猿なんかに住み家を奪われたのだ」

「私たちは500歳を超えて神通力を得ました。しかしあの猿たちは800歳を超えています。そのためにかなわないのです」

「なるほど」

「私たちは大黒天の使いです。ここはネズミの住所で、隠れ里と言います。私たちは人間に害を加えません。功徳を積んで天上に行き、仙人になるのを楽しみにしているのです」

「それなのにあの猿たちは、悪いことばかりして人間の娘をかどわかして自分たちの慰みとし、ものを壊して災いをなしました。あなたが彼らを殺すことが出来たのも、天のご加護があったからです」

「さあ、これからあなた方を人間世界にお返ししましょう。私たちの背中に乗って、目をつむってください」

大きな白ネズミと、豚ほどもあるネズミたちが出てきて、又五郎と娘たちを背中に乗せた。又五郎達が目をつむると、大した時間もかけずに地上に出た。

又五郎は2人の娘を親元に送っていくと、両方の親は大いに喜んで、それぞれ又五郎を婿に迎えた。又五郎は武門を離れ、裕福に暮らしたが、子供はなかった。その後の又五郎が、何処でどうしたかは分からない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文化祭はじまる

11月29日(木)

狭山市の公民館では、ブンカブンカドンドンと文化祭が始まる。その準備でいつもの公民館に行き、パネルを運んだり立てたり。大騒ぎして絵を飾る。会場が狭いので、各人1点ずつ。

毎年一つずつ歳をとるので、毎年少しずつ疲れるようになる(はずなのだ)。でも、元気です。

終わって、堀兼から青柳の辺りを散歩。狭山市の郊外です。

Tati0009

青柳の村社、氷川神社境内からメモ用紙にスケッチ。

   あてもなく歩き続けて落ち葉かな

                 ぼんくらカエル

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月28日 (水)

隠れ里・3

10月28日(水)

御伽婢子・121

隠れ里・3

前回までのあらすじ 内海又五郎は京から宇治へ行く途中で、おんぼろな堂で夜を過ごし、妖怪にであう。妖怪めがけて矢を放ち、矢は妖怪の大将に肘に当たる。朝、血の跡をたどっていくと、大きな穴に落ちてしまう。そこで、例の妖怪達に会う。又五郎は「医者」と言うと、それなら城主の傷の手当てをしてくれと頼まれる。

又五郎が城内の通されると、主は奥の部屋で寝ていた。

「私が城の外に出たら、肘に流れ矢が当たって、痛くて溜まらない。もう死にそうだ。病気を治す薬が欲しい」

と言う。その顔を見れば、歳を経た大きな猿である。苦しさに、うんうんとうなっている。枕元に、この上なく美しい2人の女が座っている。

又五郎は近くによって脈を取り、傷を撫でまわした。

「私にはよい薬があります。これを飲めば、傷が治るばかりでなく、天や地と同じくらいく生きることが出来ます」

「それはありがたい、ぜひその薬のみたい」

「不老長寿の薬ならば、私たちもその薬が欲しい」

又五郎は火打ち袋から丸薬を取りだし、みんなにその薬を与えた。大勢の猿どもが、争ってその薬を飲み込んだ。

実はこの薬、獣を撃つときに鏃に塗る毒薬だった。だから、暫くするとみんな、倒れ苦しんだ。又五郎は大猿の枕元に立てかけてあった刀を抜き、猿をかったっぱしからきりまくった。2人の女も同類だろうと思い、切ろうとしたが、女達は、

「私たちは正真正銘の人間です」

という。聞いてみると、1人は醍醐と言うところの波浦なにがしの娘、他の1人は伏見の平田なにがしの娘だという。

「私たちはここにさらわれてきて60日くらいになります。妖怪達の慰み者として一生ここにいなければならないのかと思っておりました。幸いにして、今日あなたが妖怪達を討ってくれました。ぜひ私たちをここから出して、父母の元に返らせてください」

涙ながらの訴えを聞いたが、又五郎は、妖怪達を討ちはしたが、穴から外へ出る方法を知らない。どうしたものかと思案した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

施設の運動会

10月28日(水)

特養老人ホームMの運動会。ボランティアとして行っているのだが、ボランティアをしているのか、一緒になって遊んでいるのか、よく分からない。職員主体の綱引きなんか、私は本気になって引っ張った。私は白で、白が2勝。みんなでハイタッチしたりして、これが本当に嬉しいんだよね。一緒に行っていた相棒のボランティアが紅組で、

「この勝負はぼんくらカエルと私の差が現れた」

と言っていた。褒められたけれど、それは腕力のことなんだよね。頭とか、能力とかを褒めてくれればいいのに、残念だなあ。

小さな原稿を二つ書いて、山の会の12月山行の案内を書いて(年2回担当する)、プリントアウトする。昨日は溜まっていた家事を片付けたし、これで当面、やらなければならないことはなくなった。現役を離れて10年も経つと、気楽なもんですな。だから酒が旨いんだよ。アル中・・・肝臓・・・まあいいや。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年10月27日 (火)

隠れ里・2

10月27日(火)

御伽婢子・20 第11巻

     原  作   浅井了意

     現代語訳  ぼんくらカエル

隠れ里・2

前回のあらすじ 内海又五郎は京から宇治へ行こうとして、栗栖野というころに出た。日が暮れたが人家はないので、古い、壊れかけた堂で休むことにした。夜の10時頃、その堂に向かって大勢の人間が歩いてきた。こんな夜中にこんな淋しいところにくるなんて、化け物か盗賊に違いないと考えた又五郎は、天井に隠れた。

又五郎が天井に潜んでいると、20人ばかりが堂に入ってきて、灯を付けた。その中に大将のような者が居て、上座に座り、その他の者も、それぞれの座についた。槍、長刀、弓などを持ち、まわりを警戒しているようだ。その顔は猿のたぐいで、人間ではない。

なるほど化け物だわいと思った又五郎は、弓を取り、大将めがけて矢を放った。その矢は、大将の肘に当たった。

「これは、何事だ!」

大将は悲鳴を上げて叫んだ。 

慌てて灯をけし、みなちりじりに逃げていった。

又五郎は夜が明けるのを待ち、辺りを見れば、血の跡が点々と続いている。その後を辿っていくと、やがて大きな穴に着いた。変な穴があるもんだと思って覗いていたが、誤って足を滑らし、穴に落ちてしまった。

穴は深くて、上に這い出せそうもない。中は暗くて、まわりの様子もよく見えない。こんなところで死ぬのかと思ってあちこち手探りをしていたら、横穴があることが分かった。何はともあれ、その横穴を辿って、おそるおそる進んだ。100メートルばかり進むと、急に明るいところに出た。まるで地上と同じである。

大きな岩があり、石の門があった。数十人の者がその門を守っている。その者たちの顔つきは、昨夜堂に来た者たちと同じ顔つきである。又五郎を見て、門番が言った。

「おまえは何者だ。どうしてここに来た」

「はい。私は播州から都に来た者です。医師を職業としております。薬草を探して山には入りましたが道に迷い、穴に落ちてしまいました。どうか都に帰る道を教えてください」

「医師か。それは良いところに来た。じつは、われらの主人が昨日城の外に出たところ、流れ矢に当たってけがをした。ぜひ、手当をしてもらいたい」

「分かりました。おやすいご用です」

                         続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

天気が良いのに家事雑事

10月27日(火)

昨日に引き替え、今日はよい天気。普段ならこんな日は、外へ出たくなる。ところが日頃の無精が溜まって、洗濯やら掃除やら、ボタン付けやら、やり出すと、やるべきことが沢山あります。その合間に手紙も書かなければならなかったり、夕方は人に会わなければならない用事もあったりで、1日過ぎてしまいました。

いつも書いていますが、私の洗濯は、かなり溜めてから行うので、大洗濯といいたくなります。ちなみに、今日は9日ぶりの洗濯でした。

普通のおじさんたちは、どれくらいの下着を持っているのでしょうか? 女の人がおしゃれで持っているのならともかく、しゃれっ気のないおじさんの下着は、10枚もあれば充分ではないでしょうか。私は20枚はあります。つまり、毎日取り替えても、20日間くらいは、洗濯をしなくても大丈夫なのです。

シャツもタオルもその他の衣類も、下着に準じます。そのせいでめったに洗濯をしないというわけでもないのですが・・・。

掃除も似たようなものですね。大掃除というわけでもないから、中掃除と言うところですかね。そんな言葉はないけれど・・・。さまざまな物をその辺に置いておくので、掃除機をかけられる状態にするのが大変なんです。そのつど片付けておけばいいのだが、それが出来ないのです。

そんなわけで今日は、この好天にもかかわらず、散歩にも出ませんでした。ちょっと欲求不満です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月26日 (月)

隠れ里・1

10月26日(月)

御伽婢子・119

隠れ里・1

播州に内海又五郎という者が住んでいた。武芸を好み、弓馬にたけていた。正確も大胆不敵で。おそれを知らない者だった。

ある時、こんな田舎に住んでいたところで、名を挙げることは出来ない。都に上り、播州の守護の赤松満祐に仕えて出世しようと、又五郎は京都に上った。しかし赤松は死んでいた。それならば後藤掃部に仕えようと、今度は宇治に向かった。

足にまかせて歩き、日が暮れにかかるころ、栗栖野というところに出た。雲は低く、雨まで降り出した。人影はおろか人家も見えず、猿の叫ぶ声が不気味に聞こえる。狐火もあちこちに見える。

古い堂が一つあった。柱は朽ち、塀は傾き、木の葉で埋まっているような堂である。太元帥の堂で、昔はここで太元帥(インド国家鎮護の神)の祭りをしていたらしい。随分古びて怖いようだけれども、他に行く当てもないので、その堂の縁に上がって夜を明かそうとした。

夜の10時頃、東の方から松明を灯して、大勢の人がこの堂に向かって歩いてくる。こんなtころに夜中にくるような者は、化け物か、さもなければ盗賊のたぐいに違いない。様子を見ようと思って、又五郎は天上に隠れた。

                        続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雨なのに 巨人ファンではないけれど

10月26日(月)

精障者作業所Mへ。

雨なのに、カッパを着て畑へ行きました。つまみ菜にする野菜の種蒔きです。メンバーさん達を連れて行くわけにもいかないので、今日は1人。この前、種をまける状態にしていたので、30分もかからなかったけれど。

あとは通常の作業。

私は60年くらい前から野球ファンで、大下の青バット、川上の赤バットなど、ラジオの放送を聞いて覚えました。ズーッと巨人ファンでした。

南海から別所投手を引き抜いたときは、それをどうこう考える能力が、まだ私にはありませんでした。江川が巨人に入団したときは、巨人のやり方を汚いと思いました。それでも巨人ファンを続けました。

その後も巨人は、私の美学に反することばかりやりました。とにかく強引なやり方で、よそのチームのスター選手を引き抜いたりしていました。他のチームなら出番があると思われる若手も、巨人で飼い殺しにされました。それでも我慢して、巨人ファンで居ました。一度惚れてしまったらなかなか離れられないのです。

私が巨人ファンをやめたのは、駒田が巨人を出て行ったときです。駒田は随分巨人のために尽くしたと思いますが、他チームから入った選手に押し出されかねない状態になり、巨人を出たと思います。

巨人の嫌いになる理由としては、駒田の問題などは小さい問題ですが、前から不満が昂じていたところに、あと一押しが加わったという感じです。

それからはアンチ巨人でしたが、いつの間にか、野球そのものに興味を持てなくなりました。

でも、今度の、巨人、中日戦は、少しだけ気になりました。

私は中日の落合監督が嫌いです。原が選手会長で、プロ野球選手の地位向上のために努力していたとき、落合は協力しませんでした。それなのに原たちが勝ち取った選手の移籍の権利を使って、巨人に移籍し、原の地位を脅かしたのです。これは私の美学に反します。

そんなわけで、巨人ファンではないけれど、巨人が勝って良かったと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月25日 (日)

御伽婢子下読み

10月25日(日)

マンションの庭の清掃日で、芝生や植木を苅ったりする予定でしたが、雨で中止。

いろいろと家事をしたり、寝ころんだり、鼻毛を抜いたりしたあとで、『御伽婢子11巻』の下読み。10巻まで終わりましたが、11巻、12巻、13巻が残っているのです。今年中に終わるのは無理かな。

Imgp2167

上は私の種本。昭和2年、日本名著全集刊行会発行の『怪談名作集』(非売本)。左は広辞苑。両方ともひどいオンボロです。

『御伽婢子』を現代語にする犀、もっともご厄介になるのが「広辞苑」です。そのほか、漢和辞典、古語辞典、歴史事典、百科事典など必要に応じて使っています。

私のブログで、以前に『犬張り子』を現代語に訳し、今また『御伽婢子』を訳しています。両方とも作者は浅井了意。『犬張り子』の時は、随分誤訳もしました。『御伽婢子』は犬張り子より誤訳は少ないと思いますが、なあに、古文の知識のない義務教育終了程度の人間がやっていることです、まだまだいい加減な訳はあるさ。それでも続けているのは、やりかけてしまったのだから最後までやろうという押しの太さと図々しさ、それにわずかとは言え、読んでくださる方が居るからです。私自身の勉強にもなっています。

暫く、浅井了意に係わっているわけですが、浅井了意の人となりもいろいろと感じたりします。そのことはいずれ書くこともあるでしょう。

明日から『御伽婢子』11巻の現代語訳、はじめます。

昨日のおかしな話し・・・申し訳ない話しです。

歩く会の集合場所に行くためにバスに乗りました。私が座っていると、妊娠していると思われる女性が前に立っていることに気がついて、席を譲ろうとしました。

「どうぞ」

「いいえ、座りません。私は違います」

白髪の爺さんに妊娠していると思われてしまった女性、むかついたんじゃないかな。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月24日 (土)

奥多摩むかし道

10月24日(土)

歩く会で、奥多摩むかし道を歩く。

参加者7名。奥多摩駅から奥多摩湖まで、約10キロ。4時間弱かけて歩く。奥多摩むかし道というのは、旧青梅街道で、甲州裏街道とも言うらしい。

Imgp2152

Imgp2156

昔の人は、山の斜面に細い道を通して、生活道路を造ったものらしい。こんな道でも、街道と言うからには、生活道路以上の役目があったのだろう。

Imgp2153

道筋には、こんな家を幾つも見かけた。険しい斜面に家を作るため、玄関を道路と同じ高さにすることが出来ないのだ。

Imgp2159

コースの途中に吊り橋が二つ。二つとも、渡って戻ってくると言うだけの橋で、むかし道自体は渡らずに進むのである。

でも、吊り橋などがあると渡ってみたくなるのが人情。最初の橋、しだくら吊り橋のある辺りは、惣岳渓谷というのだけれども、道と渓谷の高低差がありすぎて、渓谷の様子がよく分からない。しだくら橋を渡って、その脇から河原におりる径があり、河原に降りてはじめて渓谷を実感できるのである。

しかし、渓谷へ降りる径は一般の人にお勧めは出来ません。われわれは山の会なので、少々の悪路でも行ってみます。この河原で昼食。

コース中、昼食に適している場所といえば、河原に降りる降りないにかかわらず、しだくら橋を渡った辺りと、中山集落を過ぎた辺りの草地(草原と言うほど広くない)くらいかと思います。あとは奥多摩湖畔かな。

惣岳渓谷、河原からの写真をもう少し載せてみましょう。

Imgp2157

Imgp2160

Imgp1888

今年の紅葉は早いと言うことですが、さすがにこれからはじまるという雰囲気。紅葉を愛でると言うには、まだ早すぎました。

Imgp2165

今日一日、快晴といえないのが残念。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月23日 (金)

了仙の貧窮 天狗道・3

10月23日(金)

御伽婢子・118

了仙の貧窮 天狗道・3

前回までのあらすじ 了仙は学識深く弁舌爽やかな僧であったが、生前は報われることなく、貧しい僧として終わった。行いは正しかったが、自分はすぐれているのに報われないという不遜な思いがあったので、死して天狗道に落ちた。了仙はあたかも出世したごとく輿に乗って、修業時代の学友栄俊に会う。そこで天狗道の話しをする。

仙の話しは続く。

「人間世界では、賄賂が有効で、媚びへつらうような者が出世する。公家でも武士でも同じである。そのため、誰にもへつらわず、正しく努力する者は世に出ることが出来ない。真に正しき者は、人に侮られ、公家も武家も出家も賢者も、痩せ衰えて、死んだところで人の知るところではない。こころざし邪な者やなんの取り柄のない者が、世の中でもてはやされる。そのため、世の中は何時も乱れている」

「私の落ちた天狗道では、すべてその人の器量によって職が定まる。世の貴賤はどうであれ、慢心のあった者はすべて魔道に落ちる。私は徳もなかったし、功もない。弁舌で人を打ち負かしたりしたが、虚しいものだ。今私は、自らの慢心の報いを受けるのだ。まあ、見ていなさい」

という。

了仙は栄俊の前で、見る見る翼が生え、鼻が高くなり、目から光を発して、すさまじい姿になった。空から鉄の釜がふらふらと降りてきて、その中に鉄の湯が沸き返っている。法師が一人現れて、熱湯を杯に入れて了仙に渡した。了仙はおそるおそるそれを飲み干した。すると了仙の内蔵は灼き爛れ、地に伏して消えてしまった。了仙の付き人たちも、すべて消え失せた。

夜はほのぼのと明け、気がつくと栄俊一人、江ノ島の砂浜に座っていた。

その後栄俊は、仏事を営み、後世を怖れ、道心深く諸国を行脚し、修行をしたということだ。

              御伽婢子 第10巻 終わり       

| | コメント (0) | トラックバック (0)

悪いところが一つある

10月23日(金)

水彩画の会。

Imgp2150

私はスケッチは実物を見て描きますが、絵は勝手に作ります。この絵はまさしく草野球。男の子がバットか球を打ち、女の子がそれを捕ろうとしている。絵の中の犬はボールを見ています。その辺、芸は細かいのですよ。絵は下手だけど。

先日久しぶりに市内の温泉に行ったら、以前のボラ仲間Hさんに会いました。雑談してるうちに、

「かえるさんは何処も悪いところはないの?」

と聞かれました。

「一ヵ所だけある」

と答えました。

「え、そうなの。どこ?」

「頭」

頭が良ければ、毎日のブログの種に困らないでしょう。書きたいことが沢山あって、その中から何を書こうかと迷うでしょう。私なんか、パソコンの前に座ってから、何か書くことがないか探すのが大変です。今日などは「絵」があったので、気楽でした。

だから「頭」と答えたのです。頭以外は悪くないと思ったのですが、本当は違いますね。冷静に考えれば、「顔」も悪いのです。

あ、もう一つあった。「根性」も悪い。

こんな私のブログを読んでくださる方、ご苦労さん。ご同情申し上げます。この辺で、自分で淹れたお茶などを飲んでください。なんなら、タバコやアルコールでもかまいませんよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月22日 (木)

了仙の貧窮 天狗道

10月22日(木)

御伽婢子・117

了仙の貧窮 天狗道・2

前回のあらすじ 僧、了仙は、学識は優れ、弁舌も爽やかで行いは正しいのに、名利に恵まれず、貧窮の生活を送っていた。それは前世の因縁によるものと自分を納得させていたが、名利を求める気持ちは捨てきれなかった。

了仙は自分がすぐれているという慢心を捨てきれなかった。従って、世間に評価されないことを憤る気持ちがあった。その気持ちを持ったまま、鎌倉で病死してしまった。了仙の遺体は光明寺に埋められた。

学友に伴頭栄俊という者が居て、了仙とは親密な関係だった。その栄俊が藤沢あたりに出かけたとき、死んだはずの了仙にであった。

了仙は漆塗りの高価な輿に乗り、無冠のもの数人にそれを担がせ、高僧用の椅子や朱色の傘を随員に持たせている。そして露払いが先頭に立って、道を払っている。まるで大僧正の儀式のようだ。了仙は高価な袈裟を身にまとい、檜の扇をはためかせている。

了仙は栄俊を見つけて輿から降り、手を取って懐かしがった。栄俊が言う。

「あなたと別れてまだ半年くらいしか経っていない。よくもまあ出世したものですね。学力も知力も優れていたのだから、このように出世したのでしょう。羨ましいことです」

了仙は答えた。

「あの世で私は一つの職を授けられた。隠すこともないので、そのありさまをお見せしましょうまずはこちらへおいでなさい」

といって、栄俊を光明寺に連れて行った。時刻はもう、夜半を過ぎていた。

了仙は言う。

「私には慢心があった。決して非道はしなかったが、生活は貧しく、世に受け入れられないことを腹立たしく思っていた。それを前世の因果と納得してはいたが、なんとしても、慢心を抑えることが出来なかった。そのため死んでから、天狗道に落ちた」

一呼吸置いて、了仙は話を続ける。

「天狗道で、私は学問所の長に任命された。そこで私は文をつづり、書物の真理をあきらかにした。天狗道というのは魔道だけれども、鬼神に横道無しというように、良いにつけ悪いに付け、人を正しく評価する。その点、人間とは大いに違いがある」

了仙の話しは更に続く。

                       続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

書作品展

10月22日(木)

ボラグループ定例会。出席者少なく、会議自体は早めの終わる。のち、雑談。

Tati0009

雑談になってから、前の席のHさんのスケッチをしちゃった。Hさんごめんなさい。私がこんなスケッチをしていたことは、隣の席の人も気づいていなかったはず。気づかれないようにあちこち気を使うことが多くて、ちょっと似てないな。雰囲気はあるけど。

Hさん3兄弟の書作品展をKさんと共に見に行く。会場は新狭山駅近くの画廊「麦」。書の良し悪しはよく分からないが、私としては、勢いのある字が良いと思いました。

画廊のオーナーKさん、一緒に行ったKさんとぼんくらカエルの3人、暫く雑談。絵や俳句、農業などについて・・・。

3兄弟にも会う。末弟は福祉関係の仕事をしていて、よく会う。長兄には何度か会ったことがある。この人も福祉関係の仕事をしている。次兄は初めてで、会社員。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月21日 (水)

了仙の貧窮 天狗道

10月21日(水)

御伽婢子・116

了仙の貧窮・1

了仙法師は播州の出身である。幼くして父母を亡くし、草堂に籠もって出家した。17歳の時関東に出て、足利学校で30年以上も勉学に励んだ。仏典や仏教以外の書籍も多く読み、神についても歌の道についても詳しく、博学の者として、あちこちの学問所に在籍した。弁舌は鋭く、了仙にかなうものは居なかった。だからなのか、生まれながらの変わり者でもあった。

しかしながら、世間にはほとんど名を知られることがなく、貧しかった。身にまとうものさへ満足になくて、墨染めの衣の袖は破れていた。その日の食にさえ不足するほどだった。

学問は深くなったのに、僧としての位は低いままであったが、名利を得たいという気持ちは捨てられずにいた。

了仙は自問自答した。

「了仙や、了仙や、おまえは学問をよく修め、才知がある。こころざしも正しいのに、自分を養うのにさえ苦しんでいる。それほど修行したのに、1寺の主にさへ成れないのはなぜだ」

「安然は堂の軒に飢えて、桓舜は神として祭られた。これは道義の違いによるのだろうか? 役の小角は伊豆に流された。これは行徳がおろそかだったからだろうか? 教因は禄にありつき、安海は僧の位を得られなかった。これは智と愚の違いによるだろうか? 沙彌は暖かな衣を着て、主恩は飢餓に苦しんだ。これは才能の違いによるのだろうか? いやそうではない。過去生の因縁に依るのだ。儒教ではそれを天命という。自分の修行を頼んで、名利を求めてはいけない」

了仙は、自ら問答をして、自分を慰めていた。

                        続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゴンチャ-ロフの日本渡航記

10月21日(水)

江戸から明治にかけて、日本に来た外国人が日本をどう見たか、逆に、外国へ行った日本人が何を感じたか、ということになぜか興味がある。

その興味のせいで、今『ゴンチャ-ロフ日本渡航記』を読んでいる。ゴンチャーロフとは1860年ころのロシアに人気作家で『オブローモフ』は傑作とされる。セルバンテスの『ドン。キホーテ』が一つの人物像を作り上げたように、『オブローモフ』もまた、一つの人物を作り上げたと言われるそうだ。「オブローモフ気質」とは、「無為徒食する人」という意味に使われるらしい。

そのゴンチャロフ、日本開国を迫るロシアの艦隊の提督の秘書官として、来航したときの手記である。そんな関係で一般庶民との接触はなく、役人とか通訳などの観察などを書いている。そのことが少し物足りない。当時の幕府が、開港したくなくて、渋々交渉に臨み、引き延ばし策ばかり取っていることはよく分かる。

あとは食事に招待したり招待されたり、おくりものをしたりされたり、当時の日本の習慣や、両国の文化の違いみたいなものはあるが、たいしておもしろいとも思わない。

文化の違いにとまどいながら、その中で生活したり、旅行したりする物の方が、私は好きだ。ゴンチャロフの場合、「上から目線」で書いているので、それも少し気になります。当時とすればやむを得ないかとも思うけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月20日 (火)

ミニ放浪?

10月20日(火)

気が向いて、行くあても決めずに自転車でふらりと出かけた。で、まあ、結論だけ言えば、稲荷山公園から電車に乗り、西武秩父からバスで、小鹿野町まで行ってしまった。電車に乗ったのも、西武秩父からバスに乗ったのも、単なる気まぐれ、その場で決めたことである。

私はこういう事をよくやる。出来ることなら、山下清や山頭火なみに放浪したいところだ。何時もぽかぽか陽気ならばいいけれど、雨風の日や、暑い日寒い日があることを知っているから、本気で放浪しようとは思いませんけれどね。憧れる気分みたいなものはあるわけです。

ふらりと小鹿野町まで行ってしまったが、実はこの町、好きなんです。町のたたずまい、風景画美しいですね。毎年2回くらいは訪れます。

西武秩父からバスで行くのですが、途中の田村と言うところがまた素敵な土地です。低い山に囲まれた、秩父盆地の中のミニ盆地で、小さな集落があります。いつぞやこの集落を訪れたとき、土地の老婆と親しくなり、いろいろな話しをしました。「私が嫁に来てから、ここは何も変わらない。家が2軒増えただけだ」なんて行っていたなあ。よほど田村で下車しようかと思ったけれど、昼食を取れるような食堂もなさそうなので、結局小鹿野まで行きました。

小鹿野町役場で下車。近くの食堂で昼食。小鹿野での昼食は大抵ここで食べる。

その後、正永寺、辻が丘天満宮、小鹿野神社を経て四季の道を歩く。

Tati0009

近ごろはカメラを忘れてでることが多い。ちょっとした外出には、やはりカメラが欲しい。スケッチだけではもの足りません。

Tati0010

正永寺から小鹿野神社へは、自動車1車線のの細い道で繋がっています。

Tati0011

通りがかりの農夫と絵を描きながら雑談。

「この道路はみんな、自分たちで造ったんだよ」

「へえ、そうなの?」

「みんな自分たちの土地を、只で出してさ。俺はこの電信柱のところから向こうの電信柱まで出したんだ。それに、道作るために1ヶ月くらいただ働きしてさ」

「それでこの道が出来たんだ」

「うん。今年は出来が悪くてナア」

「え?」

「今年はなんにも満足に出来ねえだよ。サツマイモだけだな、平年並みに出来たのは・・・」

「ああ、そうですか」

「夏の天気がおかしかったでな・・・これから芋掘りに行くだ」

下は西武秩父駅の電車から見た車窓風景。

Tati0012

そして車内スケッチ。

Tati0013

Tati0015

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月19日 (月)

かまイタチ・だいば風

10月19日(月)

御伽婢子・115

かまイタチ・だいば風

関東地方には、かまイタチというものがある。

つむじ風が起きて、道行く人の股の辺りにカミソリで切ったような傷を付ける。血は出ないし、痛みもたいしたことはない。薬を付ければ一晩のうちに治るそうだ。なんでそんなことが起きるのかは分からない。どういう訳か、由緒正しい身分のある者には起こらない。たとえ金持ちでも、身分の低い者には起こるという。

東海地方には、台場風というものがある。

人が馬に乗り、あるいは馬を引いているときに、つむじ風が起こり、馬の前で砂を巻き上げる。その様子はまるで車輪が回るように見える。その輪が大きくなって馬に上に至れば、馬のたてがみは総毛立ち、細い赤い光がそのたてがみに差し込む。すると馬はいなないて竿立ちになり、ばったりと倒れて息絶える。そして風は収まる。つむじ風が馬の上にあるとき、刀を抜いて切り開き、光明真言を唱えれば、何事もないという。

これをだいば風と言うそうだ。

                           終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

かまイタチ・だいば風

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ナラ枯れ

10月19日(月)

精障者作業所「みちくさ」へ。

今あちらこちらの山で楢の木が枯れているのだそうです。気がつかなかったなあ。私は山歩きといっても、関東地方の山が中心だし、関東地方はまだ被害が少ないのだそうだから、そのせいで気がつかなかったのだろう。

松枯れは随分前から問題になっています。山歩きをしていると、手入れのされていない森林を多く目にします。杉だって、勢いの無い木が多くなっています。天然林の楢までですか。

楢は家具材として人気のある材質でした。しかし現在ではあまり使われなくなったと聞きます。また、楢は高給炭の材料でもあります。しかしこれも、使われる量は減っていますよね。

使われなくなった楢は、当然大木になるわけです。人間などは、大男を見ても、「あいつはデッカイや」と思うだけですが、木は、大木を見ただけで、畏敬の念に駆られます。でも、楢は大木になるのが問題なんですってね。楢の害虫「ナキノナガキクイムシ」とか言う奴は、楢の大木を好むんだって。とにかくこの「ナキノナガキクイムシ」(長い名前だねえ、もう一度書いたらきっと間違うよ)という奴に寄生されると、楢菌というのが繁殖して、導管がふさがり、木は水を吸い上げられなくなるのだそうです。

八ン場ダムについては、私ごときが軽々しくものを言うことが出来ません。しかし、他にも計画中のダムが、何百もあるんだそうですね。江戸時代から、洪水対策は、山の手入れをすることでした。戦後は、山の手入れを怠って、ダムで解決しようとしたのです。その報いで、今、山は荒れているのでしょう。ダムにそそぐ金の何割かを、山の整備に使っていたら、松枯れも楢枯れも防げたのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月18日 (日)

忍びの術

10月18日(日)

御伽婢子・114

忍びの術・2

前回のあらすじ 武田信玄の寝所から「古今和歌集」が盗まれたが、犯人は分からず終いだった。その信玄が信州割峠に出陣したとき、飯富兵部が第2陣を努めることになった。しかるに飯富は旗竿を忘れてしまった。飯富の下人熊若が自ら申し出て、考えられない早さで取りに行ってかえってきた。

「どうやって取ってきたのだ」

と聞くと、

「とにかく早くしなくてはいけないと思ったので、甲府まで走っていきました。しかし門が閉められて、人が通ると咎められるので、塀を伝い、垣を越えて、屋敷の戸を密かに開けました。誰にも気づかれずに忍び入って、旗竿を持ち帰りました」

という。

「よくもまあ、往復100里の道のりを、4時間くらいの間に行ってきたものだ。ましてや、用心の厳しいところを人に知られずかえってくるとは・・・。信玄公の『古今和歌集』を盗んだのはおまえか」

「とんでもありません。私はただ早く移動することが出来るだけです。幼いころからお仕えし、裏切ることなど考えたこともありません。今は田舎の父母のことが心配です。願わくば私にお暇をください。そうすればその盗人を捕まえてさしあげましょう」

「暇をやるのは簡単だが、その盗人を捕まえてからだ」

その後熊若は、犯人を捕まえようと人々の様子を見ていた。あるとき、馬鹿に動きの速い者が居たので、話しをするような振りをして、熊若は後ろからその者を取り押さえた。そして飯富の前に連れてきた。

その男は言う。

「熊若ごときに捉えられたのは残念だ。確かに『古今和歌集』を盗んだのは私だ。それは信玄の寝所を見るためだった。あと20日ほどしたら、信玄公を殺す手はずになっていた。私は上州箕輪の城主、水野の家臣である。もとは小田原の風間の弟子だ。ここで捕まったのは残念だが、このうえは早く私の首を討て」

その通り男は首を討たれ、熊若は故郷に帰ったと言うことだ。

                        

| | コメント (0) | トラックバック (0)

俳句モード

10月18日(日)

めったにないことだが、智光山公園に散歩の行っている間に、頭が俳句モードになっちゃった。何を見ても575になっちゃう。本当はスケッチをしようと思っていたのに、そっちの方はとんと駄目。

Tati0009 Tati0010              

それでも、この2枚だけ書きました。俳句の方は20句くらい。どうせ禄でもない俳句だけれど。

   逆光の蜘蛛にかかりて黄葉一つ  ぼんくらカエル

なんてね。

智光山公園では、バラ園の薔薇が見事でした。傍にあった薔薇ごよみで見ると、智光山の薔薇は、5.6.7月と10月が薔薇の見頃のようです。

カメラを持っていかなかったのが残念。

公園はいつになく賑やかでした。家族連れ、二人連れ、犬の散歩、それに翡翠を狙うカメラマン、など。私のように一人で来るのは、はぐれ者。トホホ。

帰り、市で経営するゴミ焼却場の風呂(サンパーク奥富)で汗を流す。なんと俳句の会のKさんに会う。Kさんの第3句集を球体』を昨日頂いたばかりである。こういうのは、Kさんなどと書かずに、横坂けんじさんと書いても良いんでしょうね。「犀」(桑原三郎代表)、「つばさ」(今坂柳二代表)、「都庁俳句」、「夢」(前田吐実男主宰)などで発表した俳句集である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月17日 (土)

忍びの術

10月17日(土)

御伽婢子・113

忍びの術

武田信玄は今川義元の婿として暮らしていたことがあるので、両家の関係は浅からぬものがあった。しかし義元が信長に討たれてからは、その子、今川氏実を侮って、無礼なことが多かった。

藤原定家の『古今和歌集』を今川家では家宝としていたが、信玄は無理やり借り受けて、返そうとしなかった。そして、信玄の寝室に置いていた。

ところがその『古今和歌集』を、夜の間に盗まれてしまった。信玄の寝室に入れる者は、心を許したごく少数しか居ない。名のある刀や脇差し、金銀などは手も付けられた様子もないのに、『古今和歌集』だけが無くなるというのも、不思議な話である。

信玄は驚いて、甲州、信州に、盗まれた『古今和歌集』がありはしないかと探させた。しかしどこからも出てこない。寝室に入れる者はわずかしかいないのに、その中に泥棒が居るとはゆゆしきことだ、と大いに怒った。まわりの者たちは、怖れて震え上がった。

さて、信玄の家来の飯富兵部が使っている下人に、熊若という者がいた。19歳で、機転が利き、者に動じない不敵なところのある若者である。

武田信玄が信州の割り峠の戦に出たとき、飯富兵部もついて行った。ところが旗竿を忘れてしまった。明日卯の刻(午前5時ー7時)には、飯富は第2陣と定められていたのに、もう日が暮れてしまった。どうしたものかと悩んでいたら、熊若が進み出て、

「私が取りに行ってきます」

というやいなや、走り出した。今から取ってくるなどとは不可能だと、誰も思っていたのに、二時(4時間)くらいしたら、本当に旗竿を持って帰ってきた。

                        続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月17日(土)

また今日もドジをしましたが、毎度のことなので、書きません。

   秋の夜ときどき嘘を書くブログ  ぼんくらカエル

今日句会があって、この句に何点か入りました。このブログのことですが、意識して嘘を書いているわけではありません。結果として嘘になっている場合があるのです。それに、かなり正直に書いているようでも、自分をよく見せようなんて気持ちはどうしたって、零にはなりません。おまけに私はうかつだから、本当は知りもしないことを、知っているつもりで書いたりします。まさに「知るをもって知るとなし、知らざるをもって知らざるとなす。これ知るなり」だなあ。

   居直ってしまえば正直秋の暮れ   ぼんくらカエル

こんな句をさっき作ってみました。嘘をついて、つき通せないと思ったら、居直るのが1番。そんなときは洗いざらい正直になって、あとはどうなとしてくれ、と投げ出してしまうのです。これは投げやりな私の処世術。粘りなんて、さらさら無い。

今日書いたブログの中にも、少し嘘があります。クイズ、どこでしょう?

「洗いざらい」というところです。居直ったって言えないこともありますよ。言えないことというのは、実はささいなことが多い。ささいなことでも、恥ずかしくて言えないことというのはあるものです。それに比べると、重大なことは案外言えるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月16日 (金)

幽霊と契る・2

10月16日(金)

御伽婢子・112

幽霊と契る・2

前回のあらすじ 上野の国、平井の城は上杉憲政の居城だったが、北條氏康に落とされた。そして北條新六郎が新城主となった。憲政には若くして死んだ美しい娘弥子がいた。語り継がれる美しさに、新六郎はたとえ幽霊でもよいから逢いたいものだと思慕をつのらせた。その願いが叶って新六郎は幽霊の弥子に会い、契りを交わした。弥子は、決して他人に言うなと念を押して帰っていった。

次の日の夕方、弥子はまた来た。夕方に来て朝に帰る日々が60日も続いた。

ある日、家の子郎党との世間話のうちに、新六郎はうっかり弥子のことを話してしまった。家の者たちは好奇心に駆られ、壁に穴を開けてのぞき見たが、女の声はするけれども姿は見えなかった。女は新六郎に恨み言を言った。

「あれほど人に言うなと言ったのに、なんで漏らしてしまったの? もう逢うことはできないわ」

    しばしこそ人め忍びの通い路は

       あらはれそめて絶え果てにけり

新六郎返し、

    さしもわがたえず忍びし中にしも

       わたしてくやしくめの岩はし

暫く人目をしのんで逢っていたのに、人に知られてはもう逢えません。忍び逢っていたのに、川の浅瀬の岩伝いに向こうに行ってしまうのですね。

女は泣きながら金の香合を取りだしていった。

「もしもこの先、私のことを思ってくださるなら、これを形見と思ってください」

新六郎は金銀珊瑚琥珀を交えて作った数珠を取りだして女に渡した。

「それにしても、この世の生を終えてから何時あなたと逢えるのですか?」

「甲子という年まで待ってね」

女は涙でそう言うと、霜が消えるように消え失せた。

                        終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

無題

10月16日(金)

特養さくらへ。

書くことがないので、車椅子と仲間の会で話題になったこと、ボラグループで話題になったことから1つだけ書きます。

一人暮らしの障害者や高齢者が、地震や火事、その他非常の際に支援を求めるにはどうしたらよいか、ということが話題になることがあります。支援組織をしっかりと作るというのもあるのですが、災害の時には誰でも、まず第1に自分が助かりたいと思います。自分が助かったのち、他の人に目がいくわけです。そんなとき、思い出して貰えるようにしておくことが大切、近所付き合いとかをしておくことが大切、というような平凡な結論になりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月15日 (木)

幽霊と契る

10月15日(木)

御伽婢子・111

幽霊と契る・1

上野の国、平井の城は上杉憲政の居城だった。

北條氏康がこれを破り、北條新六郎に城をまかせた。

城中にはひときわ美しい一間があった。壁には金銀をちりばめ、屏風や襖は花鳥草木の絵で飾っていた。庭には築山を施し、さまざまな石を集めて泉水を現し、春夏秋冬花の絶えることがない。

部屋は憲政の娘、弥子(いやこ)の為に作られたものである。見目かたち美しく、心たおやかに、情け深く、優しい娘で、彼女を見て心を動かされぬ者はなかった。

憲政は弥子を深く愛し、どのような高家に嫁がせて家門を上げようかと考えていた。しかるに、召し使っていた小姓、白石半内が弥子に懸想し、付け文をした。これが明るみに出て、半内は密かに首をはねられてしまった。

それから100日ばかりして、弥子がにわかにおびえだし、夜にはついに亡くなってしまった。定めて半内の亡霊によるものだろうと、人々は噂した。

新六郎はこの噂を聞き、そんな娘だったらぜひ会いたいものだ、たとへ幽霊だとて、逢って話しがしたい。今生の思い出になる、と思い詰めた。朝な夕な、香を焚き、花を手向け、恋慕の情をつのらせ祈った。

ある日の暮れ方、どこから来たのか女の子が来て、

「私のご主人はここに住んで居られましたが、あなたのお志に惹かれて、間もなくここに参ります」

といって消え失せた

暫くすると、馥郁とした香りがして、さっきの少女に手を引かれ、一人のたおやかな美女が築山の影から現れた。その美しさは、この世の人とも思えない。まるで天女が天下ったようだ。

これが聞き及んでいた弥子の幽霊かと思うと、新六郎は嬉しくてかなわない。たとへ幽霊だろうと、情に代わりはあるものか。契りを交わして思いを遂げよう、と、女の手を取って引き入れた。そして、夜を通して語り合い、抱き合った。

時の移るのは早い。また明日来るわ。暮れになるのを待ってね。女は帰ろうとして、一首詠んだ。

   底深き池におふてふみくりなは

       くるとは人に語りばしすな

そこの深い池に生える水草のように隠れて逢うのよ。私がここに来ることを、けして人に話さないでね。

そして女は庭に出たが、そのまま形は消え失せた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

酔わずにいられるか

10月15日(木)

老人介護施設、狭山ケアセンターへ。

「100万人あるとも我行かん」という言葉を父から教わりました。世の中全部が反対しても、自分の信ずる道を行く、という意味ですが、その通り出来たら、たいそう威勢が良いですね。なかなか人間は、そんなことが出来るものではありません。

そんなことを言う父は、別段人と衝突する人間ではありませんでしたが、組織に属することの出来ない人で、紙芝居屋をしたり、際物を売ったりして生活していました。ここで際物といったのは、別段怪しげな物という意味ではなく、アイスボンボンが流行ればアイスボンボン、ヨーヨーが流行ればヨーヨーを売るといった意味です。たとえば戦争中は、荷札とメガホンを売りました。

ちょっと説明がいるようですね。

当時、疎開をする人が家財道具を送るのに、荷札が必要でした。戦時中のことですから荷物は乱暴に扱われ、荷札も紙ではなくベニヤ板で、荷物を梱包した枠に、しっかり打ち付けられるようになっていました。

メガホンは、今の拡声器のように立派な物ではなく、ボール紙をラッパ型に丸めただけの物ですが、当時の生活では必需品でした。「空襲警報発令」とか「食糧の配給があります」とかを知らせる為に使ったのです。

そんな状態ですから、父は別段「100万人あるとも我行かん」などという生活をしていたわけではありません。「そうありたい」という気持ちがあったのでしょう。

なんでこんなことを書くかと言えば、最近インターネットのサイトで「戦争と文学」というのを読んだためです。ダウンロードしたら61ページ分あり、さまざまな情報がありました。与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の詩で、反戦詩人と言うことになっているが、第2次大戦中は戦争協力者だったことなども書かれていました。また菊池寛の反戦の思想が、次第に戦意高揚の思想に変わっていく様を、彼の発表した文章によって証明しているものなどもありました。

与謝野晶子については、まんざら知らなかったわけではありませんが、菊池寛の変化など、当時の知識人の意識の変わり方のサンプルとして読みました。

今の若い人達が、当時の知識人の変化を、時代に迎合するため本心を隠していたのだ、と判断したりします。でも、違うんですよね。与謝野晶子も菊池寛も、本心から戦争に賛成するようになっていくのです。時代に迎合するつもりなど全くないのに、結果として迎合しているのです。

与謝野晶子も、菊池寛も、「100万人あるとも我行かん」という気概を持っていた人だと思います。それなのに、時代の熱狂というものに酔って行くのです。インテリであろうとなかろうと、状況によって私たちはそうなってしまうかも知れないのです。自分は決してそうならないなどと自信を持っている人の方が、むしろ危ないような気が、私はします。時代が一つの熱狂に流されるとき、自分は酔わずにいられるか、それが問題なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

狭山市立博物館収蔵美術品展 斧と手斧 

10月14日(水)

精障者授産施設「リバーサイド」へ行った後では、裏の霞川と、すぐ下で合流する入間川の土手を散歩して帰るのを楽しみにしている。いつも霞川の下流の方へ歩くわけだが、今日は上流へ行ってみようと思った。

でも、これは間もなく行き止まりになってしまいました。リバーサイドから1キロ歩くかどうかと言うあたりに、霞橋があり、その先は川岸も個人所有になっているようです。

帰ってから地図を見ると、もっと上流へ行けば、また川岸を歩けるとろがあるようですが、そこは車道になっています。そのうちいつか行ってみるかどうか、車道ではね、という気持ちもあります。

帰りに稲荷山公園の博物館に寄りました。収蔵美術品展をやっていたからです。

横山大観の富士、藤田嗣治の風景画2点、河鍋暁斎が板に描いた絵2点、などがありました。その他、いくつかありましたが、不勉強で他は名前を知らない人でした。

常設展示もあり、そこの石器の斧が目にとまりました。

Tati0009_3

まあこんなような物ですが、これを見て今から35年くらい前に行ったタイの貯木場の労務者が持っていた道具を思い出しました。これとそっくりだったのです。但し、刃は石器ではなくて、鉄でしたけれどね。矢印の方向に刃をねじると、刃の向きは斧のようにもなるし、手斧 のようにもなるし、その中間にもなるという物でした。原始的といえば原始的ですが、融通無碍の便利さはあると思いました。

斧は知っていると思いますが、手斧という道具についてはどうでしょうか?Tati0011

Tati0010

左が斧、右が手斧です。手斧 は斧の刃を90度ねじった形、鍬の向きに刃がついています。絵の導入、ちょっと失敗しました。手斧にも種類は沢山あります。上の手斧は特殊な物で刃に重みを付けるため、刃の上に樫の台が付いています。普通の手斧は、次のような物です。

Tati0012_2 昔、今のような鉋(台鉋といいます)がなかったころ、槍鉋という物を使って、板の表面を削りました。まだ縦挽きのノコギリがなくて木を裂いて板を作っていた時代です。その板を手斧でほぼ平らにし、その後で槍鉋を使って仕上げていたのです。

槍鉋についても説明しなくてはいけないのですが、刃に反りを持たせた、なぎなた状の物で板を削ったのだと思ってください。

Tati0014 私のイラストは、実物を見ながら書くのではなく、イメージで書いていますから、正確ではありません。槍鉋も立って使う物から座って使う物まで、いろいろな種類があります。三味線職人が使っている「なまずり」なども槍鉋の一種といわれますが、小刀ほどの大きさです。

昔の大工は誰でも手斧を使ったのだろうと思いますが、今では使う人はほとんどいません。そのためか、手斧を非常に危険な道具のように思うようです。手斧を使った人も、そう言って人を驚かすのです。しかし、正しい使い方をすれば、特に他の刃物より危険と言うことはありません。刃物はみんな、危険といえば危険で、庖丁だって、指を切ることがあります。私は長年手斧を使ってきましたが、手斧でけがをしたことはありません。

テレビの時代劇などを見ていると、よく薪を割るシーンなどがあります。その場合、必ず薪を台の上に立てています。太くて、下が平らで台の上に載せられる木ばかりならばいいのですが、実際はそうは行きません。

Tati0013 そんなときは図のように薪を寝かせて足で押さえて割ったものです。私の絵が下手なので斧を勢いよく振り下ろしたようには見えませんが、割るのですから、実際にはもちろん勢いよく振り下ろすのです。自分に向かって斧を振り下ろすのですから、随分危険そうです。しかし、振り下ろしそこねて薪をはずれても、斧は薪の下の横の木に当たります。正しい使い方をしている限り、けがはしないのです。でも、危険そうなので、テレビではこんな薪割りはしないのでしょうね。

なお、手斧で木を削ることを「はつる」と言います。「はつる」を漢字で書くと「削る」に成ります。はつるとは叩き削ることであって、鉋や小刀でなめらかに削るのとでは、意味あいが違います。それなのに同じ漢字を使うのは、漢字を扱う人達、インテリの注意を惹かなかったからだろうと思います。

漢字を扱う人達の注意を惹けば、煙が上る、山に登る、噂に上る、日が昇る、などと同じように、違う漢字を当てたはずです。まして、「削る」と「はつる」音が違うのですからね。

                    

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月13日 (火)

ねたみ女水神となる・2

10月13日(火)

御伽婢子・110

ねたみ女水神となる・2

前回のあらすじ 宇治橋の近くに、橋姫の社がある。橋姫はブスで、橋を渡って婚姻する者は必ず不幸になるという。その昔、岡谷式部という者の妻は、ことのほか嫉妬深かった。式部の言ったちょっとした言葉に腹を立て、「生を変えて恨んでやる」と家を飛び出し、宇治川に飛び込んだ。

式部は驚いて、水練の上手に頼んで捜索したが、死体が上がることはなかった。やむを得ず、平等院で手厚く仏事を営んだ。

7日目の夜、夢に女房が現れて、

「私は死んで、この川の神になった。橋を渡って縁を結ぶ者には、必ず祟りをなす」

と式部に言った。

その後、橋を渡って婚姻する者は、必ず離婚するようになった。また船で川を渡っても、ブスの女にはなんと言うこともない。美人が船に乗っていれば、必ず風は荒くなり、波が立ち、船は転覆のおそれがあるという。

だから嫁を迎えて川を渡るとき、波風が立たなければ、その嫁はブスであることが分かると、人々の噂である。

                      終わり

| | コメント (0) | トラックバック (2)

サツマイモの日

10月13日(火)

今日はサツマイモの日なんだそうです。知ったいましたか? 私は初耳です。サツマイモの日などというのがあるのだとすると、ジャガイモの日とか、カボチャの日なんて言うのも、きっとあるんでしょうね。

10月13日がなんでサツマイモの日なのか、語呂合わせを考えてみたけれど、どうも上手く行かない。いろいろ考えているうちに思い当たったのが「栗より旨い13里」という言葉だ。これはサツマイモのことを言うのだけれど、栗(9里)より(4里)旨い、9里と4里をたした13里というわけです。

ほくほくしたサツマイモは栗以上に旨いと言うのですが、本当はやはり、栗の方が旨いと私は思っています。

戦争中、甘いものが食べたくて、サツマイモが恋しかったことがあります。ところが、サツマイモが米の代わりに配給になったら、来る日も来る日もサツマイモで、たちまち飽きてしまいました。ジャガイモなどと違って、毎日食べると飽きやすいのがサツマイモです。

戦後も良くサツマイモを食べました。それからカボチャですね。だから食糧事情が安定してからしばらくは、サツマイモとカボチャは、食べたくありませんでした。この二つの食品は「戦中戦後に1生分食べた」などと言って、今でも毛嫌いする人がいます。その気持、わかります。

そういう私は、いつの間にかサツマイモを食べるようになりました。カボチャは長い間嫌いでしたが、今ではそうでもありません。食べてみると、今のカボチャやサツマイモは、結構旨いんです。戦争中のような味ではありません。

あのころ食べたサツマイモは、水っぽくて、ぺちゃぺちゃしていました。たしか「農林1号」と言う種類と思います。味なんか度外視して、量がたくさん採れると言うだけのイモだったのでしょう。

サツマイモの日に義理を立てたわけではありませんが、今日の昼、サツマイモを食べました。美味しかったです。13里ほどではありませんが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

ねたみ女水神となる

10月12日(火)

御伽婢子・109

ねたみ女水神となる

山城の国宇治橋の北の外れに、橋姫の社がある。橋姫は大変なブスで、ついに夫となる人はなかった。

橋姫は自分が結婚できないものだから、人の幸せを妬んでいた。そのため橋の対岸のものが結婚するときは、橋姫の社の前を通らないようにして船で川を渡る必要があった。うっかり橋姫の社の前を通り橋を渡ったりすれば、必ず離縁になるということである。

話は変わるが、その昔、宇治郡に岡谷式部という裕福な者がいた。その妻は小椋の里の領主、村瀬兵衛という人の娘である。

この妻はきわめて嫉妬深く、召し使う女は、たとえ子供でも、見にくい者のみを選び、少しまともな者がいると、追い出した。よそに幸せな者がいると聞くと、腹を立て、怒って飯を食わなかったりする。ましてや自分の夫などは、やきもちを焼いて家から出そうともしない。岡谷も扱いかねて離縁しようとすると「そんなことをしたら鬼になってとり殺してやる」とすごむ。

「源氏物語の六条御息所は死んでから鬼になって、後の世まで不名誉な名を残した。それはねたみ深かったためだ。おまえも器量は良いのだから、そんなにやきもちを焼くことはないだろう」

といえば、女房は、

「私の器量が悪いからそのように言って、他の女を作るのでしょう。このうえは生まれ変わって、浮気男を苦しめてやる」

と髪を逆立て、口を真っ赤にして広げ、目を大きく見開いた。血の色になった目から、涙をハラハラとこぼし、裸足で家から走り出し、宇治川に飛び込んだ。

                              続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どうでもいいこと

10月12日(火)

老夫婦が散歩していたり、いたわり合って歩いているのを見るのは、ほほえましくて、こちらの気持ちもほのぼのとしてくる。若い恋人同士が仲良く山登りなどしているのも、良いなあと思う。

先日の白毛門登山で、恋人同士と思われる二人連れがいて、難所では男性が手をさしのべたりしている。、羨ましく思った。断ったおくが、羨ましくあっても、妬ましかったのではない。

福沢諭吉かなんかの言葉で、人を羨ましく思うのは心が貧しいからだ、といった意味のことがあったような気がする。幾ら福沢諭吉でも、私は納得できない。羨ましいと思うのは素直な気持ちだ。恋人同士が仲良くしてるなどは、羨ましくほほえましいのである。自然にこちらの表情も和む。

で、白毛門の恋人の話だが、一緒に登った仲間によると、あの二人は年齢が離れすぎていた、というのである。私は気がつかなかったなあ。してみると、あの二人、ほほえましいなどと思うような関係ではなかったのかな。

どうでもいいことを書きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月11日 (日)

イモリの化け物・3

10月11日(月)

御伽婢子・108

イモリの化け物・3

前回までのあらすじ 塵外首座という僧が越前の山の中に住んでいた。ある夜、勉学中の首座のもとに、身の丈15-6センチの人間が現れ、机の上に飛び乗った。首座はそれを扇で払いのけたところ、その仕返しとして、大勢の小人が首座を襲い、逃げ出した首座は捕まってしまい、危うく手足を切られるところだった。首座は謝ってなんとか許してもらった。

首座は這々の体で庵に戻った。

不思議な事件だったので、翌日、昨日逃げたあたりを調べてみた。すると東の方に、多くのイモリが出入りする穴を見つけた。

首座は大勢の人をやとって、その穴を掘り返してみた。3メートルばかり掘り進むと、2万匹ものイモリがいた。中には30センチくらいの大きなイモリもいた。これが大将なのだろう。

村の年寄りが語るところに依ると、「昔、瓜生判官(新田義貞に味方し、戦死した・・・ぼんくらカエル註)と言うものがここに城を構えていた。弟の義鑑坊というものが新田義治(新田義貞の甥)に思いを寄せ(つまり男色です)共に戦い戦死した。その義鑑坊の亡霊がイモリになった」という。

それ以来いろいろ悪さをするらしい。そこで首座は一文を書いてイモリに向かって読み上げた。理非善悪の道理を知りなさい。義鑑坊と言う仏に仕える身になりながら、イモリとなって人々をたぶらかすのはなんとしたことであるか、早く正道に立ち帰れ。

首座が一文を読み上げると、数万のイモリがみな死んでしまった。人々は不思議に思ったが、そのままにもできず、イモリの死骸に柴を積み上げ、みな焼いて灰にした。その灰を集めてイモリの墓を作った。

以後、怪しいことは起こらない。

                         終わり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

白毛門登頂せざるの記

10月11日(日)

山の会山行。谷川岳の眺望が特にすばらしいという白毛門へ。

狭山市からマイクロバスでの土合橋登山口へ。

9時少し前に登山開始。

Imgp2140

登りはじめは、こんな具合。良い天気です。ところが、

Imgp2144_2

間もなく雨が降り出しました。朝のうちも雨が降っていたようで、道はどろんこ。登山口からすぐ小さな橋を渡り、あとは急登につぐ急登。

もう紅葉がはじまっています。

何処の山にもあることですが、巨木が多く、根の張り方など、おもしろい樹が沢山ありました。

Imgp2145

雨が激しくなってくる。この先で、下山するグループとなおも上をめざすグループに分かれる。私は上をめざす方。だが、雨はますます激しくなって、標高1300メートルくらいで登頂を諦め、下山することに。

Imgp2147

これは下山中の写真。

Imgp2148

ときどき滝が見えました。これはハナゲの滝かと思うのですが、はっきりしません。

Imgp2143

登山口の沢で、靴やレインコートの泥を落として、無事、バスに帰着。この写真は登りに撮ったものなので、まだ日が差しています。もっとも、下りでも、下の方はそんなに降っていませんでしたけれどもね。

バスの中で昼食という山行でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月10日 (土)

イモリの化け物・2

10月10日(土)

御伽婢子・107

イモリの化け物・2

前回のあらすじ 越前の国湯尾というところに城跡があった。人の訪れない寂れたところで、塵外首座(ジンガイシュソ)と言う僧が、庵を結んでいた。ある夜、身長15-6センチの人間が現れ机に飛び乗ったが、塵外首座が扇ではらったら下に落ち、狼藉の報いを与えると叫んで、出て行った。

暫くするとやはり15-6センチの女が5人ばかり出てきた。その中の老婆が言う。

「われらの主君が申された。『沙門が一人、灯の下で学業に励んでいる。誰かが行って慰めてやりなさい。そして仏法の話しなどをしてきなさい』そこで、智弁兼ね備えた学士がここへ来たのに、あなたは乱暴にも机から落としてしまった。われらの主君が敵を討つだろう」

老婆の話が終わるやいなや、1万人もの小人がやってきて、腕をまくり肩を怒らせ、杖を持って、首座を打ち付ける。まるで蟻のようである。痛くてたまらない。

みんなの後ろの方で、号令をかけている者がいる。大将なのだろう。赤い装束で烏帽子を付けている。

「坊主、ここから出て行け。さもなければおまえの目をつぶし、耳や鼻をそいでしまうぞ」

7-8人が首座の肩に登り、耳や鼻に食らいついた。首座はこれを払い落として、門の外に逃げた。首座が南の方にある岡に登ったところ、見慣れに門があった。やれやれ、今晩はここに泊めてもらおうと門に近づくと、追っ手がもう首座の後ろまで来て、首座を突き倒し、門の中に引き入れた。

門のうちにも、同じような人が7-8千人もいる。その中の大将らしいものが言う。

「儂はおまえを憐れんで話し相手を送ったのに、かえってその者を打ち付けた。その罪の償いとして、おまえの手足を切り落とす」

数百人が刀を抜いて、首座にうちかかろうとする。首座は怖れて詫びた。

「私はまことに愚かなことをいたしました。あなた様のお心も知らず、誤りを犯しました。今さら後悔してもはじまりませんが、なにとぞ罪をお許しください」

「悔やむ心があるならば、これ以上責めるのは止そう。その者を追い返せ」

首座は門の外へ突き出された。

                          続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こぶし祭り 強制疎開(銃後の生活)

10月10日(土)

こぶし祭り

第3回こぶし祭り。精障者授産施設リバーサイドと、生活支援センタースペースきずなの庭(車庫)で、こぶし祭り。市長やら国会議員やらお偉方が来賓出来ていた。

今年は大概職員がセットしたので、私などはやることがない。売り場を少し手伝ったが、そんなに売れるわけではないのに売り子は沢山いる。やることがなくてボーとしているのも嫌なので、そうそうにトンズラ。

職人出の私は、たいしてやることもないのに、世間話などをしながら時間をつぶすというのは大の苦手である。仕事があるならやる、なければ帰るというのが、私のやり方。仕事をしているような雰囲気で無駄話しているだけというのは辛い。

その場から消えようとしたら理事長に会っちゃった。だから「私は消えます」と言ったら、「楽しんでいけば・・・」という。楽しめないのだから、ヤナコッタ。

強制疎開

戦時中の疎開の話は、よく語られる。子どもたちには学童疎開があった。これもよく話される。しかし、強制疎開というのがあったことが話題になることは少ない。ご存じだろうか。

ある施設などを守るために、そのまわりの家を強制的に立ち退かせる、強制疎開というものがあった。

私の住んでいた市ヶ谷には、陸軍の練兵場があった。その練兵場を守るために、まわりの家々がかなり広い範囲で強制疎開させられることになった。

B29は住宅地に焼夷弾を落とした。当時の日本の家屋はほとんど全部と言っていいほど木造建築だったので、爆弾を落とすより、焼夷弾で火を付けて焼いてしまう方が、効率的だったのである。おそらく、その類焼を免れるため、重要な施設のまわりを強制疎開させたものと思う。

私の住んでいた家は無事だったが、狭い道路を挟んだ向かい側までが強制疎開になった。強制疎開地域と指定されると、引っ越す先があろうとなかろうと、一定の期日までに引っ越さなくてはならない。そして人々は、引っ越した家を壊すのである。

Tati0009

当時のことである。壊すのも人海戦術だ。向かいの家の場合、梁に縄をかけて、大勢の人がよってたかって、ひき倒した。家がギシギシ言っていました。子供心にも、もったいないなあと思ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 9日 (金)

イモリの化け物・1

10月9日(金)

御伽婢子  

  原作     浅井了意

  現代語訳  ぼんくらカエル

御伽婢子 第10巻

イモリの化け物・1 (御伽婢子 通算106回)

越前の国、湯尾と言うところに城跡がある。藪や薔薇が生い茂り、松は倒れ、からすの声、谷の水音などが聞こえる。

そこに、曹洞宗の僧で、塵外首座(ジンガイシュソ)とか言う者が庵を結んでいる。塵外首座とは、俗世間を離れて第1位の僧という意味である。

春は山菜を採って飢えをしのぎ、秋は木の葉を集めて薪とする。近くの村里から信者がきて、その日を送る程度の食料を置いていくこともあるが、普段は人影も稀である。

しかしながら書典を開いているときは、故人と語り合っている心地がするし、座禅を組めば、自然と一体になるようで、少しも淋しいことはない。

ある夜、禅宗の先達者たちの伝記集『伝灯録』をよんでいたとき、身長が15-6センチの人が出てきた。黒い帽子を被り、細い杖をつき、蚊の鳴くような声で、

「儂がここに出てきたというのに、まるで人がいないかのように、声もかけない。淋しいことだ」

と言う。塵外首座は修行が進んでいて、そんなことには驚きもしないで声もかけずにいると、化け物の方が怒ってしまった。

「儂が客人としてきたのに、物も言わないとは失礼ではないか」

と、机の上に飛び乗った。塵外首座は扇を取って払ったところ、小人は下に落ち、

「無礼者!狼藉の結果を思い知らせてやる」

と言って、外へ出て行った。

                           続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

雑炊(銃後の生活・2)

10月9日(金)

水彩画の会。

雑炊

雑炊と言っても、いま食堂で食べるようなものではなく、戦時中の雑炊です

太平洋戦争で、日本が敗色濃厚になったころ、食傷事情は逼迫してきました。さまざまな物が不足し、人々は自由にものが買えなくなりました。とくに困ったのが食料で、米、その他が配給制でした。米の配給は戦後も長く残りましたが、戦争中野戦後しばらくは、その米も満足に配給されない状態でした。

Tati0009 またも幼稚園児なみのイラストですが、説明しやすくするために書いてみました。

これは戦争中、雑炊の配給を受けるために人々が並んでいるところです。食糧の配給を受けるため食券が配られました。その食券を持って、雑炊を買いに行くのです。もう国には1ヶ月分の食料を各戸に渡す力はなくて、配給を受ける国民は、その日の雑炊を決められた米屋なり食堂なりに、ナベを持って受け取りに行くのです。子供の私も、その行列に何度も並びました。

配給の時間は、メガホンで知らされました。各戸から一人ずつナベを持った人が集まります。すると米屋のおじさんが、大きな釜で焚いた雑炊を、ひしゃくで酌んで、その家の人数分だけナベに入れてくれるのです。

雑炊は、菜っ葉やら芋の切れ端やらが、どろりとした汁の中に入っていて、米が少し泳いでいました。子供心にも不味いと思った物です。疎開先で豚の餌を見たとき、雑炊を思い出しました。似ていたのです。

この絵の中の腰に下げているのは防空頭巾で、もし警戒警報のサイレンが鳴ったら、頭に被るのです。空襲のための用心です。

こんな話しも今では知っている人が少なくなったので、昨日の「伏せ!」に続いて、書いておこうかと思いました。

戦争中の銃後の生活について、あと2-3書いておきたいことがあります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月 8日 (木)

振り子時計 伏せ

10月8日(木)

台風一過です。

狭山市にいると、大した台風ではないような気がしていました。ベランダの鉢などは昨夜室内に入れていたのですが、そのほかには、これと言って問題はありませんでした。でも全国では、いろいろな被害があって、亡くなられた方もいたようです。お悔やみ申し上げます。

文化財の被害も結構あるようです。石清水八幡宮、法隆寺、大徳寺、唐招提寺、上賀茂神社、彦根城、高松塚古墳などにも被害があったそうです。かって訪れたことのあるところもないところもありますが、大した被害ではないことを祈ります。

ボラグループたけのこ定例会。

精障者作業所みちくさへ。

Imgp2139       

こんな時計を作りました。12時、3時、6時、9時の文字はコルクをくりぬい手作った物、その他の時刻にはってあるのは木の枝を切った物、振り子は木材です。

私などが戦争中の話しをするのは、もはや郷愁のようになってしまいましたが、たまにそんな話しをすると、熱心に聞く人もいます。少しは話す価値があるのかなあ。

「伏せ!」の話しをします。

と言ってもなんのことか分からないでしょう。小学校低学年のころ、授業中に、先生がときどき「伏せ!」と言うことがありました。

Photo

絵が下手なのはしょうがないとして、このイラストを見てください。先生に「伏せ!」と言われると、私たちは急いで座っている椅子を机の上に置き、目と耳たぶを塞いで頭を机の下に潜り込ませて伏せるのです。

目と耳たぶを塞ぐのは、空襲による爆風で、目がとびだしたり鼓膜が破れたりするのを防ぐためです。頭を机の下に入れるのは、いくらかでも頭を保護しようと言うことでしょう。

いつ何があるか分からない時代ですから、先生は授業中でも、いきなり「伏せ!」と言って、練習させるのです。机の上に椅子を置き、目と耳を塞ぎ、机の下に伏せるまでの時間は、3秒でやることを求められました。

でも、この姿勢、練習でやったことはあっても、実際にしたことはありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 7日 (水)

台風

10月7日(水)

台風が近づいているときに、「台風」なんて言う題を付けるなんて、おもしろくもなんともないや。

まあ、とにかく台風が近づいている。メンバーの○○さんはそれが気になるようで、すっかりふさぎ込んでいる。

誰だって、台風が近づくのはありがたくないけれども、(いや、ありがたい人もいるかな、たとえば屋根やさんとか)その心配で沈み込むというのは、やはり精神の病気の現れなのか。

御伽婢子第10巻の下読み。意味の取りにくいところがあったりして、私などの実力では、結構大変です。登場人物も、歴史上の人の場合は、一応は調べなくてはならないし、辞書やら百科事典やら、インターネットやら、それなりにいろいろ調べます。私の場合、調べたことをメモしておかなければ、次の日には忘れます。忘れたいことは何時までも覚えているくせに・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 6日 (火)

耶律楚材 今坂柳二

10月6日(火)

日記なのだから、今日したことを順に書いてみましょうか。

朝起きて顔を洗って仏壇に線香をあげて・・・、これじゃあしょうがないよね。飯食って、数独をやって本を読んで、精障者授産施設リバーサイドのかすみがわ食堂へ。月1回の包丁研ぎボランティア。

かすみがわ食堂には、ボランティアのMさんが配食手伝いに来ていた。Mさんは仕事を持っているのだが、忙しい合間を縫って、月に1回くらい手伝いに来てくれる。

ボランティアのMさん、こぶし福祉会理事長のMさん、それにぼんくらカエルで、しばし歓談。

リバーサイドへ行った帰りは、霞川や入間川の散策をするのが楽しみなのだけれど、今日は雨でなので、バスで帰る。

家に帰れば帰ったで、やらなければならないことは沢山あるんだ。贈られてきた文芸小冊子に感想を書いて送らなくてはならない。これは早いほうが良いに決まっている。書かなければならない原稿もある。俳句会の会計をやっているが、夏季大会の会計報告に間違いがあったので、訂正の収支表も書かなくてはならない。10月の歩く会の紹介も書いておかなくては・・・。

その他諸々、生活上のことなど・・・、全部後回しにして読書。

陳舜臣の『耶律楚材』読了。実はこの本、買いたくて買ったと言うよりは、古本屋に立ち寄った際、『耶律楚材』という題名に惹かれてふらふらと買ったものである。私は知らなかったけれど、発売当時ベストセラーになったんですってね。

私はかろうじて、チンギスカンに仕えた「耶律楚材(ヤリツソザイ)」という名前だけを知っていた。その名前に惹かれて買った本である。

耶律楚材については、「たいした者だ」という説と「どうって事ないよ」という説があるようだが、陳舜臣は「たいした者だ」という立場で書いている。被征服者の生活などにまるで関心のない支配者に対し、いかにして人民の生活を守るかに苦心した高潔の士、としての耶律楚材である。

御伽婢子第10巻の下読みをしている。第13巻まで、今年中に終わるのは無理かなあ・・・。まあ、急ぐ必要はないんだけどね。

つばさ俳句会代表、今坂柳二さんが去年出版した『棒球譚』で関口比良男賞を受賞したと言うことです。

おなじ今坂さんが、秋田で行われた100キロマラソンで最高齢チャレンジ賞(78歳)の表彰を受けたようです。

つばさ俳句会は小さな会だが、桑原三郎などと言う全国区の俳人もいたりして、私などが平気な顔をして、桑原さん、今坂さん、などと言ったりするのは不遜なのだけれど、みんな偉ぶらない人達だから、コッチもいい気になっちゃうんだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 5日 (月)

無駄について

10月5日(月)

精障者作業所「みちくさ」へ。

鳩山政権は、国の無駄を省こうとして躍起になっています。

どんな政府でも、どんな国家でも、無駄はあります。世の中はなんだって、無駄だらけです。私なんか「おまえなんぞが生きているのは無駄だ」と言われたら、「ごもっとも」と言うしかありませんけれどね。

我が国は、多分無駄の多い国なのでしょう。私は他国と比較する力はないから断言は出来ませんが、かなり無駄なことをしていますね。

無駄にもいろいろありますが、今日は経済的な意味だけに使います。私のように何も考えず、ボーッと過ごしているような人間にも、それと分かる無駄に良くであいます。自治体や公益法人が建てたと思われる施設で、ほとんど使われていない物など、あちこちで目にします。マスコミにも随分取り上げられたことですから、別に目新しくはないけれど。

北八ヶ岳に行ったときだったかなあ・・・。林道が落石で通行不能になっているのを見ました。地形から言って、落石の多いところだったようです。その日の宿で、地元の人に、

「あの道が本当に必要な道なんですかねえ。落石で歩けない状態になってるし」

と聞いてみると、

「あそこは良く通れなくなるんだよ。でも、それでいいのさ。道が壊れれば治す仕事が増えるから」

だって。

林道を造るより林を作る方が大切なはず。林の手入れに金を回せばいいのに・・・。地方に仕事を与えると言っても、土建屋さんばかりじゃネ。

せっかく政権を交代させたんだから、取りあえず新政権に頑張ってもらいましょう。

平凡なことを書きました。「今日は」ではありません。「いつものように」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 4日 (日)

人鬼

10月4日(日)

御伽婢子・105

人鬼

丹波の国の興次という者の祖母は、160歳にもなるが元気である。髪が真っ白で、剃髪して尼になった。

興次自身も80歳を過ぎており、子供はもちろん、孫も多い。祖母は若いときからふしだらで、わがままな人だった。剃髪して尼になったからと言って、その生格が治まるはずもなく、興次を捕まえては、ああでもない、こうでもないとなんくせをつけて、叱りとばした。

興次の祖母は、耳さとく、ひそひそ話も聞きつけるので、悪口も言えない。目も、針に糸を通すことが出来るほどだ。歯は90歳くらいの時に抜け落ちたが、100歳を過ぎて生え替わった。

この祖母、昼の間は、麻の着物を縫ったりして、ごく普通なのだが、夜になると、どこかへいくようである。ある夜、何事かと跡を付けてみたのだが、この祖母は怒り狂い、、追跡は諦めた。あるとき、興次の子供が酒によって、その勢いで祖母の部屋の戸をひらいた。するとそこに観たものは、猿の骨や、鹿の骨、あるいは犬の頭、鶏の首であった。

そこへ祖母が帰ってきて、自分の部屋が開けられたことを知った。祖母は大いに怒り、目は光り、口は裂けてわななき、どこかへ走り去ってしまった。その後、大江山で薪を取っていた者が、鬼にあったという。あの姥のことであろう。行きながら鬼になった者の話しである。

                      第9巻 終わり

                       

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ボランティアは遊びだ

10月4日(日)

車椅子と仲間の会、定例会。

たとえば「特養さくら」に行ったとか、「狭山ケアセンター」に行ったとかいうときに、私はその内容を書く気がしない。それなのに、買い物に行ったとか、洗濯をしたとかを書きたがる。買い物というのは、高級品を買いに行くと言うことではなくて、秋刀魚や大根を買うこと指している。こちらもその内容を書きはしないけれども、私の中では、ボランティアも買い物のも等価である。

洗濯や買い物は、生活のために必要なこと。ボランティアはその余力でやるようなもの。

ウーン、参ったぞ。何を書くか考えつかないままに書きだしてしまったから、この先を書き進めても、上手いことまとめることが出来そうもない。

何はともあれ、人間は太古から、生きるために必要なことだけをやってきたのではない。遊び心があるんですね。何か自分が生きていくのに必要なこと以外に、余分なことをやらないと、生きているような気がしないいんです。

  遊びせんとや生まれけむ

  戯れせんとや生まれけむ

  遊ぶ子供の声聞けば

  我が身さへこそ揺すぶられ

だったかなあ。ちょっと違うかも知れないけれど、そんな古遥がある。

生きていくために必要なことは、どうしたってやらなければならない。私が買い物をしたり洗濯をしたりすることがこれに当たる。太古ならば、狩猟採集をすることなどがまさにこれだろう。

狩猟採集の生活から、牧畜や農業を始める時代になると、生活にゆとりが出てくるから、芸術みたいなものも生まれるし、自分で生産をしないで食っていくような者も出る。王様になったりしてね。こんなのが文化なんだろうね。

私はいま、自分で分かりもしないことを書いているんです。文章って変ですね、勝手に進んでいく。・・待てよ、こんな挿入を入れると、思考の流れが中断される。この先をどう書けば良いのだろう。

王様とか、学問や芸術の担い手は、自分が生産に与らなくても喰っていくのだから、それを正当化しなくてはならないわけです。人の労働の対価を奪って喰うわけだから、何のかんの言ったって、心苦しいわけですよ。だから自分たちには当然その権利があると、人々に納得させなければならないのです。その理論を考えて、自分でも信じ、人々にも信じさせるのですね。マルクス主義の言葉を使うならば「搾取」する理論です。

風呂敷を広げすぎてしまって、もう私の力ではまとめようがないや。はじめに帰りましょう。普段の生活に必要なことと、ボランティアがどうとか言うことだったと思います。

王様とか、学問などをする人は、一般の人より立派なことをしているような理論が作られるのですが、本当はそんなことではないのです。生活に必要なことをするのと等価です。ボランティアも同じだと思っています。

やれやれ、やっとまとめたぞ。筋が通っているかどうかは、ともかくとして・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年10月 3日 (土)

人面瘡

10月3日(土)

御伽婢子・104

人面瘡

山城の国の百姓が久しく神心気の病いに悩んでいた。あるときは悪寒、発熱に襲われ、またあるときは、体中ギリギリと痛むのだった。いろいろと治療をしてみたのだが、一向に治る気配がない。

そうこうするうちに、左足の付け根にでき物が出来て、そのでき物の形が、まるで人間の顔のようであった。その形、目と口はあるが、耳と鼻はなかった。

試みにその口に酒を流し込むと、顔が赤くなった。餅を与えると、口をもぐもぐさせて呑み込む。酒や食物を与えているときは良いが、与えていないときは、しきりに痛むのである。これには百姓も参ってしまい、痩せ衰えて骨と皮ばかりになった。

その病気をどの医者も治すことが出来なかったが、たまたま諸国行脚の修行者が来て、その傷を見て言った。

「これは珍しい病気だ。この病気の人は必ず死ぬが、まんざら直す方法がないわけでもない」

「それならば、ぜひ治してください。病気さえ治るならば、田畑なんか要りません」

百姓は田畑を売って、その金を修行者に渡した。修行者は諸々の薬を買い集め、それを傷の口に呑ませたら、みんな呑み込んだ。更に修行者は、貝母という百合の根で作った薬を飲み込ませようとしたら、傷は口を閉じ、眉根を寄せて受け付けない。その貝母を粉にして、芦の筒をストローにして、傷の口に無理に押し込み、その粉を口の中に吹き込んだところ、半月ばかりで、傷はすっかり癒えた。

この傷のことを、人面瘡というのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

みちくさバザー

10月3日(土)

社協で「みちくさバザー」

ボランテイアグループや、障害者団体が活動資金を得るために毎年行っているバザーです。いつも行っている精障者作業所の「みちくさ」とは無関係。私たちは、ボランティアグループ「たけのこの会」として参加。

会場は、天気が良ければ社協の駐車場、悪ければ社協の建物内と決まっています。天気予報は芳しくなかったので、社協内を覚悟していたのに、バザーの準備する段階では、好天でした。だからどのグループも外に店を開き「天気で良かった」などと言っていたのです。

ところが10時のスタート前に雨が降り出しました。そのうち止むのではないかと商品にシートをかけたりしてぐずぐずしていたのですが、結局駄目で、慌てて建物内に商品を運び、狭い室内で陳列し直す騒ぎ。私たちは、3階の一番奥の部屋になりました。階段を何回も上がったり下りたりして汗をかき、おまけに私は、駐車場の後かたづけで、背中も靴下も雨に濡れました。昼になっても背中や足は少し濡れていました。幸いその程度のことでは風邪を引かない体ですけれどね。

癪なのは、バザー終わって外に出たころには、もう晴れていたことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 2日 (金)

金閣寺の幽霊と契る・5

10月2日(金)

御伽婢子・103

金閣寺の幽霊と契る・5

前回までのあらすじ 中原主水は26歳、独身のイケメン、色好み。ある春の宵、金閣寺で出会った女性が幽霊であることを承知で、懇ろになる。そして3年一緒に暮らす。3年目に女は冥界に帰っていく。

主水の悲しみは限りがない。僧を呼び、法華経をよんで弔い、花と、悲しみを書きつづった一文を手向けた。その最後に次の歌を添えた。

   ともす火やたむくる水や香花を

       魂のありかにうけて知れ君

主水はこののち官職を辞し、田舎に引き籠もり、新しく妻を求めることもなく、嘆き悲しんですごした。その終わるところは、誰も知らない。

                       終わり

| | コメント (0) | トラックバック (1)

出句

10月2日(金)

狭山台胃腸科外科へ。血圧の定期検診。

特養老人ホーム「さくら」へ。

10月の「つばさ句会」への出句。

   木漏れ日に声を落としてつくつくし

   あのころはドングリだけが宝物

   言い訳は1ダースもあり秋刀魚喰う

   石投げて届くあたりは山の霧

   秋の夜やときどき嘘を書くブログ

「つばさ句会」は毎月あるのだけれど、出句をブログに載せるのははじめて。なぜ今日はそれをするかと言えば、他にこれと言った話題がないから。

「胃腸科外科」で出た血圧の上下を書いたり、「咲く」での活動の内容を書いたりしても良いのだが、取り立てて変わったこともないので、なんとなく書く気がしない。

私の気分としては、朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、それから昼ご飯を食べて、夜は酒を飲んで、眠くなって寝ました、なんて書くのが嫌なように、いつものことを書くというのは気が進まないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年10月 1日 (木)

金閣寺の幽霊と契る・4

10月1日(木)

御伽婢子・102

金閣寺の幽霊と契る・4

前回までのあらすじ 中原主水は26歳で独身。色好みである。主水はある春の宵、金閣寺で桜と月を愛でていた。そこへ美しい女性が現れて、自ら足利義満に仕えていた幽霊だと名乗る。二人は、誘い、誘われて一夜を共にする。次の日の夜も、主水は金閣寺のほとりに立っていると、また女が現れた。

二人は手を取り合い、涙ぐみながら語り合った。

「昨夜はあなたの愛情に感じて、夜を共にしたわ。なんで昼は嫌なの?」

「嫌じゃないさ。けれども、夜でなければ抱き合うことなんか出来ないでしょう」

「毎日夜を待っているのは切ないわ」

「それはそうだけれど、人目もあるからねえ」

それからは毎日、金閣寺のあたりで二人は逢い引きをした。20日くらいたってからは、昼も逢って語り合った。

主水は宮仕えの身である。毎日都に帰って、毎日金閣寺に通う。とうとうある雨の日に、女を連れて京の家に帰った。それからは、女はずっと京の家で過ごした。

女は、つつましく、分別があり、主水の親族にも気に入られ、召使いや出入りする者にまで優しく接した。隣の家の老婆まで、女を褒めそやした。針仕事は上手だし、書も文も人にすぐれ、何時も控えめで、主水はよい妻を得たと人々はうらやんだ。

こうして3年が過ぎた。7月15日、女が言う。

「召使いに私が住んでいた家の留守をさせています。あんまり長い間帰らないので、きっと待ちかねているわ。今日は金閣寺に行って、その後の様子を聞きたいの。あなたも一緒に行ってくださる?」

酒肴を調えて、主水と女は連れだって金閣寺へ出かけた。

すでに日は暮れ、月はさやかに東の峰から昇り、蓮は開き、柳は枝をたれて露を含み、竹は風にそよいでいる。

召使いが出てきて言う。

「あなたは人間世界に帰って、もう3年になります。あまりの楽しさに、ご自分の本当のお住まいをお忘れになったのですか?」

女は涙ながらに主水に告げた。

「あなたの深い愛情に甘えて、3年が過ぎてしまいました。月日のたつのは早いわね。何時まででも一緒にいたいのに、もうお別れしなくてはならないの。私はあの世の人間なのに、あなたと3年も過ごすことになったのは、前世でよほど深い縁があったんだわ。いまはもう、別れの時です。強いてこの世にとどまれば、あの世ではどんな罪が待っているか分かりません。それは、あなたをも苦しめることになるの。お別れしましょうね」

すでに鶏は朝を告げている。鐘の音も響いている。女は立ち上がり、蒔絵の箱に香炉を入れて主水に渡した。

「これは私の形見です」

女は泣きながら墓の方へ歩いていき、名残惜しそうに振り返ったように見えたが、そこで煙のように消え失せた。

                          続く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ときどき嘘も書く日記

10月1日(木)

また例によって、パソコンの前で何を書こうか考えている。書くことなんて無いんです。それを無理にひねり出している毎日。

   秋の夜やときどき嘘を書くブログ  ぼんくらカエル

本当は、そんなに嘘は書いていません。逆に、公開しない日記なら書くであろう事も、ときどきは書かずにすませるという意味です。書かないことが嘘なんだな。それでも嘘をついたことになるのかな。

前の段を注意深く読んでください。「そんなに嘘を書いていません」と書いたのです。「全く嘘をついていません」なんて書いてないよ。

ブログはともかくとして、私も随分嘘をついてきましたね。閻魔様の前で裁きを受けるとき、なんと言えばいいでしょうかね。正直に言わないと舌を抜かれるそうですからねえ。

「ハイ私は嘘をついたことがあります。生きている間に、3回嘘をつきました」

などと答えたら、閻魔様に、

「これがおまえの、死んでからの最初の嘘だ」

なんて言われて、舌を抜かれちゃうなあ。

老人介護施設「狭山ケアセンター」へ。Kさん、Yさん、私の3名。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »