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2009年9月30日 (水)

金閣寺の幽霊と契る.3

9月30日(水)

御伽婢子・101

金閣寺の幽霊と契る・3

前回までのあらすじ 中原主水は26歳に色好み。桜がまだ残るころの宵、金閣寺までやってきた。そこで出会った20歳の女は、金閣寺を建てた義満に仕えていた女の幽霊だった。二人は金閣寺の庇の下で酒を酌み交わす。

数杯の盃をかさねた後、女はしなだれかかって、

   明行かば恋いしかるべき名残かな

      花のかげもるあたら夜の月

主水も心引かれて

   いづれをか花は嬉しと思ふらむ

      さそうあらしとおしむこころを

誘う心に誘われる心、女が言う。

「あなたの歌は私の心を掴むのね。死んでから百年以上もたって引き返した私。あなたに抱いて貰えたら死んでも本望よ」

二人はむつまじく語り合い、月は西の山に隠れ、星が北の空に集まるころ、西の庇の方へ移った。女は切なく、やるせない風情で、二人は抱き合った。

春の世の習い、間もなく夜が明けて、鶏が朝を告げ、白い雲が峰にたなびくころ、互いに涙を拭いて別れた。

すっかり夜が明けてから、主水は金閣寺のまわりを見めぐって見ると、院のそばに古い卒塔婆が立っていた。こけむした墓の隣に、小さい墓も並んでいる。これは主が死んだのち、召使いも嘆き悲しんで死んでしまったので、人々が哀れに思い、傍に埋めてやったものらしい。

主水は、悲しくも哀れにも思い、家に帰ることも忘れ、その夕暮れもまた、闇の中に立っていた。すると、女もまた現れた。

                      続く 

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田辺聖子『古典の森へ』

9月30日(水)

精障者作業所「みちくさ」へ。

文字盤や振り子を木材にして時計を作ろうとしている。試作品のに取りかかる。

ユーモアのある随筆を読むのが好きである。だから、たとえば、田辺聖子、佐藤愛子、遠藤周作、北杜夫、などの随筆は好んで読む。

田辺聖子の『古典の森へ』を読み終わったところだ。正確には随筆ではなくて、田辺聖子が毎日の編集者山崎れいみ、児童文学者の工藤直子に話したものを、工藤直子が書き留めたものである。話はあちらへ飛んだり、こちらへ飛んだりしながら、自由な語り口になっているので、肩が凝らない。

私は何事も広く浅くのほうだから、古典も少しは読んでいるけれど、注釈を見ながら読んでも、満足に分かりはしないのである。『古典の森』を読んで、読みたくなった古典がある。それは『落窪物語』だ。日本版シンデレラだそうである。『源氏物語』のような深い感動はないけれども『落窪物語』の方はゲラゲラ笑って楽しめるのだそうだ。私にはそういうのが良いね。

もう一つは『俳風柳多留』。これは前から読みたいと思っていたものだけれども、

   死に水を嫁に取られる残念さ

   抱いた子にたたかせてみる惚れた人

   もてぬやつかんらかんらとうちわらい

なんて。1句目、それは残念でしょう。世の中皮肉なものだ。2句目、本当は自分がたたきたいのにね。抱いた子というのは、もちろん自分の子ではない。3句目、超然としている振りをして、本当は悲しい。高笑いする自分の声が虚しく響く。

やはり読んでみたいなあ。

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2009年9月29日 (火)

金閣寺の幽霊と契る・2

9月29日(火)

御伽婢子・100

金閣寺の幽霊と契る・2

前回のあらすじ 中原主水(ナカハラモンド)は美男で風流を解する男だった。26歳になるが妻はなかった。ある宵、花や月を求めて金閣寺までやってきた。いまは荒れてしまった金閣寺の欄干に寄りかかり、昔を偲んでいた。

そこへ召使いを連れた17.8歳の女性がやってきた。緑の黒髪に美しい眉、たおやかな姿、まことにあでやかで形容する言葉もない。一体何事だろうとこっそり見ていると、女は何かつぶやいている。

「金閣寺ばかりは昔と変わらないし、庭の風景も同じだ。しかし、時は移り、世は変わってしまった。昔のことばかりなつかしく思い続けているのが悲しい」

そして、僧正遍照の古歌を口ずさんだ。

   あるじなき住かに残る桜ばな

      あはれむかしの春や恋しき

主水はこの歌に心を打たれ、

   さく花にむかしを思ふ君はたぞ

      今宵は我ぞあるじなるもの

咲く花に昔を偲んでいるあなたはどなたですか、今宵は私があるじなんですよ、と返歌した。

女は驚く様子もなく、

「あなたがここにおいでなのを知って、私はやってきたのです」

という。これはなんとしたことだろうかと思って聞いてみた。

「お名前は、なんと言われますか?」

「私は人間をやめて久しいのです。これを言えば、あなたはきっと、驚き怖れることでしょう」

主水は、それなら樹の木霊の精か、狐か、それとも幽霊かと思ったが、女があまりに美しいので、怖れる気持ちは起こらなかった。

「いいえ、怖くはありません。ですから、本当のことを教えてください」

「私は畑山氏の出です。昔足利義満公が金閣寺を建ててここに引きこもったとき、宮仕えをした者です。私は20歳で死んでしまい、義満公は憐れんで、この近くに私を埋めてくれました。今夜は追善供養のため、義満公の御母君のもとへ行って参りました」

そう言うと女は召使いに命じて、むしろと敷物を敷かせ、金閣寺の庇に向かって座る。今夜の花や月を愛でましょう、と酒や菓子を取り出し、主水と共に数杯を傾けた。

                          続く

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昨日の訂正

9月29日(火)

昨日の記事の訂正です。

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アケビコノハ?

昨日この写真を載せ「コノハチョウ」と書きましたが、間違いです。これは「蛾」のようです。コノハチョウとは形も止まり方も違うそうです。

そう言えば、私の知る範囲では、蝶は羽根を背中で合わせて止まり、蛾は開いて止まります。しかしそれも大方そう言えるだけで、実際にはその逆もあるようです。写真の蛾の実物は、羽を広げたときに12-3センチの大きさがあったと思います。はじめは枯葉だと思いました。この「蛾」の種類は図鑑で調べましたが、はっきりしません。「アケビコノハ」に似ていると思いましたが、図鑑では、後ろ羽根に紋があります。この「蛾」も、よく見ると後ろ羽根に紋があって、上の羽根でそれを隠しているように見えます。はたしてどうでしょうか。

「蝶」や「蛾」には木の葉に似ているものが何種類もあると言うことです。うかつに「コノハチョウ」なんて言ってはいけなかったのです。

このブログの格言

ぼんくらカエルの言うことは、あまり信用するな!

今日から、「ぼんくら日記」と「御伽婢子」を分けて書きます。今日これから、「御伽婢子」(100回目)を更新します。

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2009年9月28日 (月)

旅でござんす

9月28日(月)

25日から家を離れていました。

25日

精障者小規模作業所「みちくさ」の一泊旅行に付き添い。旅行先は那須高原。牧場へ行ったり、木工品の展示を見たり。牧場では、メンバさん達が馬に乗ったり、私は甘すぎるアイスクリームを食べたりしました。宿泊は大きなホテル。広い敷地の中に何棟ものビルが建ち、敷地内をシャトルバスがまわっているホテルです。風呂だけでも44種類あるのだそうです。スゲエ。

広いことには驚いたけれど、私の記憶に残るのは、コノハチョウらしいチョウを始めて見たことです。

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露天風呂へ行くドアの外側にはりついているコノハチョウを見つけ、チョウが逃げないことを願いながら、急いで部屋へカメラを取りに帰りました。でも、カメラを持ってきたときにはその場所にいなくてガッカリ。しかし、目の前の露天風呂の縁にいたのです。これが枯葉の中にいたら、見つけるのは難しいよネ。

コノハチョウと思ったのは間違いで、蛾のようです。

26日

信夫山

途中で私だけ皆さんと別れ、福島へ。娘たちはいま福島に住んでいますが、娘の連れ合いは東京に転勤になりました。来年3月孫が小学校を卒業すれば、娘たちも東京に移転するので、福島に行くのはいまのうちです。

娘たちのマンションからは、歌枕で有名な信夫山の全容が見える。百何十メートルの低い山にもかかわらず、幾つも峰の連なる大きな山塊を作っています。この山を囲むようにして町があるのですから、福島というのも変わっています。

27日

娘のご主人(婿殿・・・仮にそう呼びます。実際は娘が嫁に行ったのです)は金曜の夜新幹線で帰り、月曜の早朝東京に行きます。それで会社に間に合うそうです。

浄土平

その婿殿に運転してもらって、浄土平に行きました。もともと天気は怪しかったのですが、途中まで行くとたいへんな霧。山で霧に巻かれると自分の前を歩く人くらいは見えますが、そのまた前を歩く人が見えなくなるようなことがあります。声は聞こえるので話は出来る、しかしその相手は霧の中という状態です。ちょうどそのような状態で、蛇行する山道を、緊張しながら、そろりそろりと登りました。Uターンして返ろうにも、Uターンできる場所なんて無いんですね。

  石投げて届くあたりは山の霧  ぼんくらカエル

そんな状態でなんとか浄土平に辿り着きました。浄土平にはビジターセンターや売店、食堂などもあり、ここで昼食。

幸いなことに、食事中にいくらか霧が晴れて、草紅葉などが見られました。

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霧の晴れ間を縫って、吾妻小富士に登ることができました。

浄土平が標高1580メートル、吾妻小富士が1707メートルだったと思います。わずかの標高差で、道もしっかりしているので、子供でも楽に登れます。

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28日

急ぐ旅では無し、鈍行で帰宅。途中下車でどこかに寄るつもりでしたが、宇都宮で餃子を食べただけ。幾つか寄るところも考えたのだけれども、天気がパッとしなかったので、すべて取りやめです。 

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2009年9月24日 (木)

酒井法子 八ッ場ダム

9月24日(木)

ボラグループの定例会なのだが、個人的理由で欠席。

午後、老人介護施設狭山ケアセンターへ。

近ごろマスコミをにぎわしているのは、八ッ場ダムと酒井法子。

酒井法子については、もういい加減に放っておいたら・・・と言う気がする。仮釈放されて記者会見したとき、あらかじめ用意された原稿があることまで問題にしているんですね。馬鹿じゃないんだもの、記者会見する前には、どう言ったら自分に有利だろうか位のことは、誰だって考えるよ。捕まったばかりで、気が動転しているときならともかく、拘留されて20日以上も立てば、これからどうしようくらいのことは考えるさ。本当に反省しているかどうかとは、別問題でしょう。

私なんか意志が弱いから、自分が芸能人だったとしたら、何かの加減で薬物に手を付けるかもしれないと思う。もちろん薬物に手を染めた人は非難されるべきだけれど、何時までも責め続けるのはどんなもんかね。自分は何があっても酒井法子にはならないという自信があるのかなあ。偉いものです。

私は酒井法子のファンでもなんでもないけれど、誘惑に負けた弱い人間を、高飛車になって責めるのは嫌だな。あとは酒井法子が更正できるかどうか、本人の問題だ。

八ッ場ダムについては、今さら工事中止と言われても、と言う地元の声が大きく取り上げられている。中止されては困るという人達も、はじめは工事反対だったという人が多いという感じの報道だ。おかげで前原大臣に風当たりが強い。

この問題の元凶は、私は自民党と官僚の癒着にあると思っている。一度計画を立てたら、何がなんでもその通り押し通すのが、これまでの公共事業のあり方だった。その公共事業が本当に有益かどうかは2の次で、とにかく計画を完遂すべく、何十年も頑張っていれば、反対派だって息切れするよ。計画を立てて50年も60年もたって、7割は出来ているというけれど、本当かね。予算の7割を使ったという事じゃないのかい。怪しいなあ。

私には工事中止が良いのか続行が良いのか判断できないけれど、確かに地元で踊らされた人は気の毒だ。その元凶は、無理な計画を推し進めてきた側にあるだろうというのが、私の考えだ。

明日から28日あたりまで、ブログを休みます。

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2009年9月23日 (水)

川越狭山自転車道 

9月23日(水)

川越狭山自転車道

まずドジ話からはじめます。川越狭山自転車道に行こうとして、まず自転車の空気を入れるべく、空気入れを持って階下の自転車置き場へ行きました。ところが私の自転車がないのです。どこかに置き忘れたようです。いろいろ考えた結果、何時も買い物に行くマルエツだろうという結論。空気入れはマンションの自室へ持ち帰り、マルエツからそのまま出かけられる用意をして家を出ました。

我がマンションの隣は大きめの本屋ですが、その本屋の駐輪場を見ると、私の自転車がありました。そう言えば先日マルエツの帰りに取り寄せてもらった本を取りに行ったのでした。

何はともあれ、自転車があったので、そのまま川越の八瀬橋(と言ったと思う)あたりから自転車道にはいることにしたのです。タイヤの空気が少し甘いなと気にはしたのですが、まあいいや、とそのまま進みました。これがいけなかったんですね、パンクしてしまいました。困りましたね、何処に自転車屋があるか分からないし・・・。何度も人に聞きながら、南大塚駅の近くのバイク屋さんに修理をしてもらうはめに。

バイク屋さんに注意されました。このパンクの仕方は、尖った異物が刺さったためのパンクではない。空気を入れずに走ったから、タイヤが潰れて出来たパンクです。もっと空気を入れなければ・・・。

家の前でもう一度空気を入れ直せば良かったのです。面倒くさがったのがいけないのだ。

何はともあれ、自転車道へ。

今日は川越狭山自転車道の終点、入間川と荒川の合流点にまで行ってみました。

私の属する山の会で、歩く会もつくって、月に1度出かけています。先日JR指扇駅で降り、荒川まで行ってみたことは、ブログに書きました。それは歩く会のコースとしてどうだろうか、と思ったからでした。結果はあまり芳しくありませんでしたけれどね。今日行ってみて、あらためて、駅からのアクセスが大変であることを確認しました。

それにしても川越狭山自転車道の、川越側の道は思いやりがないですね。狭山の方は、基本的には土手の上を走り、見晴らしの良い道です。川越の方は、土手の下を通るようになっています。土手の上は自動車用の道ですが、幅員は自転車道とさほど変わらず、砂利道が多い。車は工事でもするときに通る程度でしょう。せっかく自転車道を造るのだから、これを逆にしてくれればいいのに。

自転車道も、時々は土手の反対側に誘導しなければならない場合がありますが、川越側では、そんなとき、ヘヤーピンカーブが多くなります。自転車のスピードを極端に下げないと曲がれません。しかもきつい登りで、脚力の弱い人では自転車を降りて押さなければならないでしょう。

もう一つ、狭山側だと、橋の下をくぐるとき、その橋の名前が分かるようになっていますが、川越の方には、そんな標識もない。

自転車道を造るときの師の係の人や施工業者は、車のことは頭にあっても、自転車の人が楽しめるようになんて思いはなかったんでしょうね。

もう1つドジ話。

家にココナッツサブレがあったので、腹が減ったらこれを食おう、と思って出かけました。帰路、自転車道の途中でスケッチをしている時、食べようと思ったのです。ところがないのです。家に忘れてきました。そうなると無性に腹が減る。帰心矢のごとしで、急いで返ってきました。

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安比奈公園の花壇です。もう1枚。

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私の下手なスケッチも。

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2009年9月22日 (火)

スケッチをし損なう 金閣寺の幽霊と契る・1

9月21日(月)

スケッチをし損なったこと

昨日、竜門峡へは、スケッチの用意をして出かけた。しかし歩道は狭く、落ち着いてスケッチの出来るような所はあんまりありませんでした。

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途中、休憩舎が1ヶ所あり、そこで昼食のパンを食べながら書いたのがこれ。この出来の悪い1枚だけが竜門峡でのスケッチです。

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見てお分かりのように車内スケッチ。左側の女性はかなり美人だったのですが、画家の腕が「いかがなものか」。こんな風に描かれたなんて知ったら、きっと真っ赤になって怒るよ。美人に色っぽく怒られてみたいな。

デジカメ写真のプリント

先日、車椅子の会のバス旅行で、写真を撮るように頼まれて、何枚かの写真を撮った。バカチョンカメラしか扱えない人間だから、いずれ大した写真は撮れない。その写真を組み合わせて印刷しようとしたら、なんとしても印刷できなかった。「原因不明で印刷が中止されました」なんて言うメッセージが出てくるのである。アッチをいじったりコッチをいじったり、パソコンを再起動させたりしたが、どうしても駄目だった。

暫く悩んだあとで、「ははあ」と自得するところがあった。実は前にも、ブログで似た経験をしている。写真を組み合わせるとき、すんなりと挿入すればいいのだけれど、挿入したあとで、順序を変えたり、大きくしたり小さくしたり、別の絵と入れ替えたりをくり返すと、パソコンの方が混乱するらしい。

「ほんとにこのパソコンは頭が悪いんだから」などと独り言を言いながら作業をしたのだが、なあに、はじめからすんなりと組み合わせられないこちらの方が、頭が悪いのサ。

よく考えて、すんなりと写真を組み合わせたら、すんなりとプリントできました。苦労した私は、ぐったりしました。なんてね。

御伽婢子・99

金閣寺の幽霊と契る・1

中原主水正(ナカハラモンドノカミ)は美男と評判が高く、色好みで、26歳になるのに結婚もしていなかった。春には花に浮かれて風を恨み、秋には月を愛でながら雲に心を痛めた。官職は得ていたが、もっぱら風流を友としていた。

天永乙酉(キノトトリ・1522年)3月(旧暦です)、思い立って北の京に遊び、暮れゆく春の名残を惜しんだ。その辺り一帯をさすらって、最後に金閣寺に近くまで来た。征夷大将軍源義光(足利義満)この地に家を建て移り住んだのだが、崩御されて後、寺にしたのである。庭の築山泉水の立石、たぐい無き絶景の地である。

中原がここまで浮かれ来たときは、すでに日が暮れて、朧月が東の方に上がっていた。春宵一刻値千金とか、花に移ろう月の影、木の元も立ち去りがたい。近くの家に1夜の宿を借りたが、寝られもせず、敷石をめぐり、こけむした道を踏んで、金閣寺まで来た。

義満公が崩御されて、すでに118年。その昔はさしも賑やかだったが、今は住む人も稀になり、いしづえは傾き、柱は朽ち、わずかに金閣ばかり昔の面影を残している。

主水は軒に立ち寄り、欄干に寄りかかって、時の移ろいを感じ、月に思いを寄せ、桜のこぼくに花が少し残っているのを見て、1首。

   桜花いざこと問わん春の夜の

       月はむかしも朧なりきや

桜の花よ、あなたに聞きます。春の夜の月は昔もこのように朧でしたか?

                          続く

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竜門峡

6月21日(月)

1度行ってみたいと思っていた竜門峡へ行く。紅葉の名所らしいので、本当はもう少し時期をずらす方が良いのだけれど、シルバーウイークでボラも趣味の会も休みで、暇をもてあまして出かけたしだいです。

中央線甲斐大和駅下車。竜門峡入り口までバスがあるのだけれど、本数が少なくて、往復とも全部歩いた。11時15分ころ甲斐大和駅着。次のバスは13時30分とか言うのだから、待ってはいられない。途中、武田勝頼の霊廟がある景徳院には帰りに寄ることにして素通り。竜門峡入り口についたのがちょうど12時。

                                                                                     Imgp2021  

はじめはこんな立派なな遊歩道。奥にいる二人ずれは老夫婦。老夫婦がいたわり合いながらこんな所を歩いているのを見ると、ほのぼのする。私にはもはや縁のないことだけれども。

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けれどもすぐに、こんな道になります。一人で通るのがやっとで、すれ違うのも場所を選ばなければなりません。コース案内では、竜門の滝、落合3つの滝、など書かれていますが、滝をどうこう言うより、売りは渓谷美ですね。

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気まぐれに渓流ばかり載せてみたけれど、こんなに並べてしまうと、返って迫力がないね。小さな滝が幾つもあって、白く泡を立てる急流との組み合わせ良いと思いました。

樹木の様子を見ると、紅葉は、間違いなく美しいだろうと思います。

竜門峡を上り詰めると栖雲寺があり、そこからは一般道を下る。途中天目山温泉で入浴。3時間で500円(1日800円)。露天風呂もある、アルカリ温泉。

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景徳院です。武田勝頼と一緒に自刃した奥方は19歳なんですね。嫌だネエ戦争は、今も昔も。

                      

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2009年9月20日 (日)

清潔と不潔 下界の仙境

9月0日(日)

清潔と不潔

 私の中に、清潔と不潔が同居している。

 若い頃から、髪をとかすのが面倒くっさかた。「髪の毛の個性を大切にする」などと負け惜しみを言って、ぼさぼさの髪で平気だった。ひげは時々しか剃らないし、靴を磨くのも嫌だった。よほど靴が汚れてくると、蛇口の下に持って行き、たわしと石けんでざぶさぶと洗った。着る物についても、暑さ寒さを防げる物で良い、と言う考えしかなかった。

 随分不潔そうだけれども、風呂は毎晩は入らないと気が済まなかった。同じ下着を2日続けて身につけるなどと言うことは、もっとも嫌うところだ。

 このような性格は、今でも続いている。髪の毛は半分以上なくなってしまったし、若い頃のような剛毛直髪ではない。梳かそうが梳かすまいが、さほどの変わりはない。信じようと信じまいと、櫛やブラシを、私は何年も使ったことがない。ブラシはどこかにあったような気がするけれど、多分わが家には櫛がない。「多分」と書くのは、櫛を探したことがないからである。

 そんな私でも、今でも風呂は毎日入る。下着は毎日取り替える。洗濯物を取り込んで、その山の中から着る物を探すようなことはしない。洗濯物は必ず畳んで、一度はタンスの中に入れる。妻に死なれて10年を超えるが、この習慣だけは変わらない。

 もう一つ付け加えれば、万年床にはしない、と言うのがある。一人で生きているのだから、布団を敷いたままにしたところで、誰も文句は言わないけれど、これだけはしてはいけないと心に言い聞かせている。しかし、布団のまわりは惨憺たるものだ。寝ていて手の届く範囲に、辞書やら本やら、筆記用具やら、その他あらゆる物が散乱している。

総合的に言うならば、私はあまり清潔好きの方ではないと思っている。その証拠は掃除で、これは家事の中でも一番苦手です。部屋の中に綿埃が目についても、一度くらいは見なかったことにします。そうかと言って、ゴミの山の中で暮らすというのは、やっぱり嫌ですね。最低限の掃除はしています。

御伽婢子・98

下界の仙境・2

前回のあらすじ 太田道灌が江戸城を造ったころ、江戸は水に不自由していた。ある金持ちの町民が抗夫を雇って井戸を掘らせた。何百メートルも掘ったがやはり水は出ない。その穴の底で、抗夫は地下の別天地を見つけ、その宮殿に行き着く。

抗夫の世話を命じられた者は、抗夫を清い滝の元に連れて行き、体を洗わせた。次に、乳白色の滝の元に連れて行き、口をそそがせた。その水は甘く、密のようである。抗夫は心ゆくまでその水を飲んだ。まるで酒に酔ったような心地がして、暫くすると、身も心も爽やかになった。

抗夫は係の者に案内されて、半日ばかり、宮殿楼閣を見て回った。それは谷ごとにそそり立っているのだが、抗夫は中に入ることは許されず、外から眺めて中の様子をうかがうだけである。おそらく中は、美をつくし、善を尽くした豪勢なものだろうと想像するばかりである。

「一体ここは、どんな所なのですか」

と抗夫は案内の者に聞いた

「修行をして仙人になった者が、まずやってくるのがここです。ここで70万日修行をし、悟りを得て、終わったら天上に行き、それぞれの役割につくのです」

「仙人の世界ならば、天上にありそうなものなのに、地下にあるとは不思議です」

「ここは下界仙人の国なのだ。人間世界の上に、上界仙人の国がある・・・だけど、おまえはもう人間世界に帰りなさい」

案内のものは抗夫を乳白色の滝の元に連れて行き、またその水を飲ませた。そして抗夫が入ってきた岩穴の所まで連れて行った。

「おまえは今日の出来事を、半日くらいのことと思っているだろうけれども、人間世界では何十年も過ぎている。とにかく、もう帰りなさい」

抗夫が穴を出ると、そこは富士の裾野の洞穴だった。まわりの人に聞いてみると、太田道灌が江戸城を造ったのは100年以上前だという。

江戸では、昔、深い井戸を掘らせた者がいるなどと言うことを知る人もなく、抗夫を知る人も無かった。

その後抗夫は五穀を断ち、木の実を喰らい、山の水を飲み、足にまかせて修行した。富士の裾野で逢ったという人もいたけれど、何処のどう消えたか知る人はいない。

                            終わり

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2009年9月19日 (土)

会食

9月19日(土)

午前。壊れた扇風機やガスレンジ、その他の物を環境センターに捨てに行く。私は車を運転できないので、次女夫婦に来てもらう。

午後、つばさ俳句会。

夜。池袋で、長女夫婦と孫たち、次女夫婦と池袋で会食。

今日のブログはこれだけです。

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2009年9月18日 (金)

白寿の人 下界の仙境

8月18日(金)

特養さくらへ。Kさんと二人。施設長のTさんと、最近のボランティア事情について話す。

2Fへ。昨日の老人介護施設狭山ケアセンターも、この特養さくらも、1Fはデイケアーの人、2Fが普通の高齢者、3Fがいくらか認知症の進んだ人、と言う分け方になっている。

しかしこの分類も微妙で、かなりしっかりしているのに3Fの人もいれば、その逆もある。

今日は2F。もっともしっかりしていると思うのが、今年99歳の人である。新聞なども読んでいる。今度政権が代わったことについても興味を持っているのだ。「○○さんは昨日の新聞なんか読んでいる。昨日も今日も分からないらしい。まだ若いのに」なんて言うのである。

99歳に比べたら、大抵の人は若いヤ。私などはまだら惚けがはじまっている。昨日の新聞を読むことだってある。すごい人だなあ。

市長から、白寿のお祝いの花束が届いていた。

御伽婢子・97

下界の仙境・1

昔、太田道灌は江戸に城を築いた。江戸は水が乏しい土地で、多くの人が苦労した。

そのころ舟木甚七という金持ちの町人がいた。掘り抜きの井戸を作ろうとして、抗夫を雇い、人足を入れて何百メートルも掘らせたが、ついに水は出なかった。

抗夫はその穴の底に座って暫く考えていたが、地面のそこから犬の声が聞こえる。鶏の鳴き声もする。不思議に思って、もう1-2メートル掘ってみたら、切り通しの石の門が出てきた。入ってみると、両側は壁になっている。通路らしい。暗い中を手探りで100メートルほど進むと、切り通しの出口で、にわかに明るくなった。

上を見ると、青天白日の空である。下を見ると、大きな山の峰が続いている。どうやら別世界のようだ。

抗夫は峰におり、山を登り、谷を下り、約4キロほど進むと、山の中に立派な宮殿があった。玉や金銀、瑪瑙、瑠璃などをふんだんに使った宮殿である。庭には大木が生い茂り、不思議なことにどの木にも竹のような節がある。葉っぱは芭蕉のようで、紫の花が咲いている。花の大きさは、荷車の車輪ほどもある。

花の間を五色の蝶が飛び回り、その羽根の大きさは、団扇ほどもある。大形の鳥が梢を飛び回り、木も草も見慣れぬ実を付けている。

岩の間から二筋の滝が流れている。一つは澄んだきれいな水、他の一方は乳白色の水が流れ落ちている。

抗夫は楼門の前に行った。門の上に「天桂山宮」という額がかけられていた。

抗夫に気づいて、二人の門番がとがめ立てをする。

「おまえは何者だ。どうやってここに来たんだ」

「私は井戸掘りの抗夫です。深くまで掘ったら犬や鶏の声が聞こえたので不思議に思って、ここまで来ました」

門のうちから20人ばかりの小ぎれいな者たちが出てきて、

「汚らわしい匂いがする。どうしたのだ」

と門番を責める。門番は恐縮して答える。

「人間世界の井戸掘り抗夫が、迷ってきました」

その時また奥からきらびやかな衣装をまとい、金の冠を被った者が来て、

「この抗夫を案内してやりなさい」

と命じた。

                           続く

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2009年9月17日 (木)

盛衰がある 狐に騙される・3

9月17日(木)

老人介護施設狭山ケアセンターへ。今日はYさんと二人なので、3Fに行く。われわれ、たけのこの会も、会員の高齢化や身内に介護者を抱える人がでてくるなどの理由で、4-5年前の活力はない。夫婦共働きの孫の面倒を見なければならない、と言う人もいる。いずれにしても、前にはケアセンターへ行ける人が4-5人はいたのに、今は二人だけだったりする。これでは、2Fと3Fの両方を訪問することは出来ない。われわれのボラグループも最盛期は過ぎました。ボラグループにも盛衰があります。

御伽婢子・96

狐に騙される・3

前回までのあらすじ 安達喜平次は京から岐阜へ帰る途中、道に迷っている美しい娘に出会う。自分の馬の乗せて娘を送っていくと、娘の連れの者たちに逢う。その誘いで、娘の家に一晩泊めてもらうことになる。そこで酒宴が行われた。

安達はすでにかなりの酒を飲み干した。主の女房は安達に、姥と双六をしなさいと勧める。姥と言っても25-6歳のきわめて美しい女性である。双六の盤は紫檀や黒檀などを使った高級なもの、水牛や象牙で作った筒から取りだした蒔絵のあるさいころで、二人は勝負を争った。時には手が触れたりして、なんとなくなまめかしい雰囲気である。安達が勝ったときには、沈香が与えられた。負けたときには、特別持っていたものもないので、頭に刺してあった、髪をとかすときに使うコウガイを与えた。

すでに明け方近くなったころ、家の中がにわかにザワザワとして、「盗賊だ」という声が聞こえた。女房は慌てて安達を裏門から外に出した。姥もどこかに隠れて姿を消した。安達が外に出ると、そこは大きな穴で、まわりには荒野が広がっていた。松に風が渡り、谷川の音が遠くに聞こえる。

双六で勝ったときにもらった沈香はただの木片で、与えたコウガイはなかった。安達の供をしていた者たちが来て、道に迷った女性を馬に乗せたら急に姿が見えなくなり、みんなで探していたという。どうやら狐に騙されたものらしい。

                          終わり

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飛行船 狐に騙される・2

9月16日(水)

荒川と入間川の合流点に行ってみたくて、指扇駅から荒川に行ってみたのだけれど、駅から荒川までは、ずいぶん歩かなければならない。「随分歩く」というのも曖昧な言い方だが、時間は計らなかったし、距離も分からない。分かっているのは、疲れるほど歩くと言うことだ。

Imgp2008

  秋の陽の影を水面に飛行船  ぼんくらカエル

荒川の上に、暢気そうに飛行船が浮いていました。入間川とは違って、岸の土手に立っても、川の流れはなかなか見えない。河川敷が広く、木や草が生い茂っていて、見えるのは緑ばかり。

それはそれで美しいのですが、土手を歩いている以上は水も見たいのです。河川敷の、丈の高い草の中に所々川面が見えそうな踏み跡があります。その一つを行くと、とんだ藪こぎで、ズボンはおろかシャツにまで草じらみ(ヌスビトハギ)がびっしりと附いてしまった。

それでも、土手の上から見て、「ここなら」と思ったところで、水の淵に出ることが出来ました。ところがそこでは、若い女性が一人、フルートの練習をしていました。

「私はここで少し休みたいと思います。私にかまわず練習をしてください」

と断って、女性からはすぐ近くですが、草に隠れて見えない位置に座り、衣類に付いた草じらみむしりに専念しました。そしてスケッチ。

Tati0009

私のブログを読む人は、こんな下手くそなスケッチも見なければならない羽目に陥ります。スケッチと言うよりは。クロッキーですけれどね。女性のフルートを聞きながら描いていたわけです。

さて次のスケッチをしようとすると、後ろに人の気配を感じました。くだんの女性が立っていたのです。おやおや、あとは話でもするしか仕方ありません。女性はなかなかの美形で、福岡の人だそうです。北九州市の大学で中国語を学んでいるとか。夏休みの間に運転免許を取るため、合宿に来ているのだそうです。

話しをしながら描いたのが、次のスケッチ。

Tati0010

女性は描き上げる「早さ」に感心していました。クロッキーですから、早いのは当たり前。「上手さ」にではないところが問題ですよね。

御伽婢子・95

狐に騙される・2

前回のあらすじ安達喜平次は京から岐阜へ帰る途中で、道に迷った美しい娘に会う。その娘を自分の馬に乗せて送っていくと、娘の供の者たちに逢い、今晩は泊まっていくようにすすめられる。

さてそれから300メートルほど進むと、木々の茂っている屋敷があった。梅、桜、桃、スモモの花が咲き、藤の花や山吹も咲いている。池には、アヤメやカキツバタも咲き競い、名のある人のお屋敷と思われた。

案内されて入った住居は部屋数がことのほか多い。安達は廊下の先の、部屋に通された。そこは、唐や日本の絵画が飾ってある部屋だった。

その家の主の妻は40歳くらいで、立ち居振る舞いが上品で、気高く見えた。

「よくぞ娘を送ってくださいました。野遊びの娘が酒に酔い、座を逃げて道に迷ったとき、あなたが助けてくださいました。あなたに助けられなければ、狼に襲われたかも知れないし、盗賊にあったかも知れません。今夜は、心ゆくまで楽しんでください」

それからは酒宴である。姫の乳母なる者がまかり出て、安達の相手をする。乳母といえどもまだ若く、稀なる美人である。安達は仙境にいるような心地がした。たとへ雲の上にいるとしても、今夜のこの楽しみ以上ではあるまいと思われた。

                             続く

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2009年9月15日 (火)

下読みなど 狐に騙される・1

9月15日(火)

先週は肉体を使う趣味やらボラやらが多くて、それをやり終えた今、我ながら72という歳の割りにはタフなものだと思っています。

先週月曜日、ボラ先の畑おこし、火曜日、車椅子の会の日帰り旅行付き添い、水、木は南アルプス仙丈ヶ岳登山、金曜日は水彩画の会、これだけは肉体労働系ではありませんが、土曜日は精障者ソフトバレー大会の線審、日曜日はまた山行で男山天狗山へ、そして昨日の月曜日、精障者の理解を求めるビラ配り・・・、多少は疲れたけれど、明日山行があっても、まだ行けますね。

元気自慢の日記ですね、これは。そういう奴に限って、ころっと逝っちゃうのかな。それも良いね。どうせ逝くなら、ピンピンコロリが良い。

今日は自重して、買い物以外に体を使うようなことはしていません。やったことと言えば、御伽婢子第9巻の下読みです。

私のブログの読者は、ごく少ないことを知っています。その中で、「御伽婢子」の現代語訳は、更に読者が少なくなります。でも、その「御伽婢子」を読んでくれている人もいることを知っています。「御伽婢子」は全13巻、今日やっと9巻目に辿り着きました。ここまでやったのだから、自分のためにも終わりまでやります。

御伽婢子 第9巻

  原作      浅井了意

  現代語訳   ぼんくらカエル

御伽婢子・94

狐に騙される・1

安達喜平次は岐阜の人である。室町幕府の公方に参候しての帰り、美しい女性にあった。

安達が召使い二人に馬の口をとらせ、手下の武士二人を連れ、山の中にさしかかった時である。すでに暮れ方であった。年の頃17-8歳の美しい女性が、華やかな衣装の裾をつまみ上げながら、草むらを右往左往して、道に迷っているように見えた。見るからに高貴な人の娘のようだ。疲れているのか、足元はふらつき、石に躓いて転びそうになったりする。

「何処のお方ですか? こんな日暮れに供も連れずに、どうなさいましたか?」

と声をかけたが、女は返事をしない。なおも重ねて、

「いかにも気の毒に思えます。私の馬をお召しください。何処なりとも、あなたのお屋敷までお送りいたしましょう」

それを聞いて娘は嬉しげなそぶりを見せた。安達は娘を抱き上げて馬に乗せてやった。まるで着物だけのように軽い。

娘は見れば見るほど美しく、気高い雰囲気があり、たおやかである。そこはかとなく芳しい香りがして、まるでこの世の人とも思えない。安達はすっかり心を奪われ、この人のためならば命さへ惜しくはないと思うほどだった。

馬は京の方へ戻っていく。安達は馬の後ろに付き従い100メートルくらい進むと、田中の方から5-6人の少女が走り出してきた。

「なんとしたことでしょうか。暮れ方になって姫様を見失い、胸がふさがる思いでした。あちこち探していたのですよ」

更に200メートルばかり進むと、60歳くらいの男が、息を弾ませながら言った。

「姫様。心配していたのですが、ホッとしました」

安達に向かって、

「あなたが馬をお貸しくださったのですね。まことにありがとうございます。今日はみんなで田中に遊びに来たのですが、酒を飲み、興に乗じて、姫君は一人で近くに出ているうちに、道に迷われたようです」

「このお方が道に迷っておいででしたので、お気の毒に思い、馬をお貸ししました。お供の方にあえて、安心いたしました。私はこれにて失礼し、家に向かいます」

「いやいや、もはや日も暮れました。これからお帰りになるのは大変です。今夜は私どものところにお泊まりください」

「それはまことにかたじけない」

安達はその申し出を、ありがたく受けることにした。

                             続く

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2009年9月14日 (月)

ビラ配り 木の時計

9月14日(月)

精障者作業所、みちくさへ。

午前中、新狭山駅前で街頭募金。と言うより、精神障害者の理解を求めるためのビラ配り。募金自体が主目的ではない。

午後、木の時計作りの準備。針や機械は既製のものを買うのですが、文字盤や枠を板などで作ろうというもの。枠を木の枝で作るのがおもしろいのですが、思うような木の枝が、案外手に入りにくいので、今回は板だけで作ることにしました。振り子も付ける予定。

かって、木の枝で作った椅子などを、植木鉢などを置くために愛用してくれている人が何人もいることを、今日知りました。もう作らなくなったのかと言われましたが、私としにみれば、売れなくなったので作らない、と言うところです。「みちくさ」だけで売るのでは、客が限られているのです。

木の枝の時計、木の枝の椅子やベンチ、板と輪切りの丸太で作ったテープカッター、蔓などを使った木の枝の植木鉢飾り、障子紙と竹籤で作った巻き上げ式のスクリーン(カーテン)など、幾つかそれなりに人気のあるものも作りましたが、何を作っても、客が限られるため、すぐに売れなくなります。その他いろいろ作りましたが、すぐに頭打ちになります。そうかと言って、新しい物を無限に作り続ける能力は、私にはありません。みちくさの自主作品を作ると言っても、販売網を広げられるか、と言うことが課題になります。

                           

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天狗山・男山

9月13日(日)

山の会、山行で、天狗山、男山に行ってきました。昭文社の地図では西上州のはじっこにありますが、奥秩父、八ヶ岳、西上州の間にあるような山。

快晴。絶好の登山日和。大深山登山口から登ったのですが、登山口にはなんの標識もありません。と言うより、入山禁止ののぼりが立っていました。Imgp1980

それでも一般道のようなのでそのまま天狗山に向かって進む。

やがて舗装道路から登山道らしい道にはいると、間もなく鉄線で道を遮られる。しかしその道しかなさそうなので、あえて進む。暫く直進し、右に曲がり左に曲がり、やっと小さな標識に出会う。そこから急登。林の中に、道があるようなないような、ルートを探しながら登ります。

尾根まで出ると馬越峠からの道に合流。私たちの登ってきた道にはさほど太くはない丸太が横に置かれ、下山できないと思わせているようです。

どうやら土地の所有者は、その登山道を通らせたくないようです。昭文社の地図には登山道として記されていますが、廃道と言っても良いでしょう。

登山と言っても地主にとっては迷惑なばかり、と言う訳なのでしょう。天狗山への入山は、馬越峠からをおすすめします。

Imgp1987

天狗山からは360度の絶景。これから向かう男山(奥の方)です。たまたま今日だけのことと思いますが、頂上は羽虫が多くて、それを避け、少し下がったところで昼食。

天狗山から男山へは、尾根道を、かなり下って登り返します。樹林や岩の道が時々開け、すばらしい景色を見せてくれます。

Imgp1990

前方に男山、

Imgp2003

振り返れば天狗山。

Imgp2001

うっすらと富士山も見えます。 富士山の左は瑞がき山。

変化の多い良い山行でした。標識は極端に少なく、ルートの見極めもしなくてはなりません。昭文社の地図では一般ルートというようですが、初心者は避けるべき山と思いました。

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2009年9月13日 (日)

天狗山・男山

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2009年9月12日 (土)

ソフトバレー大会

9月12日(土)

精障者によるソフトバレー埼玉西部地区大会に、ボランティアで参加。優勝チームと2位チームは県大会に行くことになる。

会場は所沢アリーナ。私は審判の手伝いで、線審を3試合。そして大会前後の設営、撤去など。1日の仕事。

私が応援する狭山市のチーム「強健美茶」は3位。去年まで3年連続優勝でしたが、4連覇ならず「強健美茶」を破った「シリウス」が優勝でした。

それにしても、水、木の山行で足に疲れの残るなか、1日中立っていたので、筋肉が固くなっています。明日の山行、大丈夫とは思いますけれどね。今週は肉体労働系ばかり多かったなあ。

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2009年9月11日 (金)

何もなし

9月11日(金)

書きたいことは何もありません。

水彩画の会。絵は完成せず。

ゆっくり起きて、洗濯。昨日と一昨日の日付でぼんくら日記を書き、昼食もとらずに水彩画の会へ。リュックが重かったせいか、ちょっと肩が痛いですな。

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仙丈ヶ岳

9月9日、10日(水、木)

いつものメンバー6名で、南アルプス、仙丈ヶ岳(3032.7m)に行ってきました。

9日

甲府から広河原、広河原から北沢峠へとバスを乗り継ぎ、登山開始。

Imgp1924                      

しばらくはシラビソの好ましい樹林帯を歩く。

やがて道は急坂に。                         

Imgp1932

そして沢に沿って登るようになる。

Imgp1936

Imgp1939

時にはこんな滝を見ながら沢を登り詰め、今日の宿、馬の背ヒュッテへ。

10日

夜中に窓から見える星空がきれいで、翌日の好天が約束されているようだった。

爽やかな朝を迎える。登りはじめは寒いくらいで、私は薄手のシャツ2枚を着ていたのだが、途中で薄手のジャンパーとレインコートを重ね着する。

Imgp1945

Imgp1950

ダケカンバなどの樹林帯を抜けるころになると、甲斐駒ヶ岳など、ことのほか見事な山容を見せる。逆光気味なのが残念。私の腕ではこの程度にしか写せない。

恥ずかし気も無く休憩時に描いたラフスケッチを載せます。

Tati0009

Imgp1964

Imgp1961

Imgp1969

頂上。そして小仙丈ヶ岳を経て北沢峠に下山。

馬の背ヒュッテのオーナーに、よほど天気が良ければ富士が見えると言われていた。その、よほど天気がよい日に当たり、頂上からは360度見事な展望です。

富士は北岳の大きな山容に沿うようにして、下山道からたびたび見えました。

快晴に恵まれたすばらしい山行でした。山行中、何度かホシガラスを見かけました。これでライチョウに会えたら、と思ったのは欲が深過ぎるというものでしょう。

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2009年9月 8日 (火)

車椅子の会日帰り旅行

9月8日(火)

車椅子と仲間の会、日帰り旅行で奥日光へ。障害者用のバスで狭山市役所を7時45分出発。金精峠越えで湯の湖がわから入る。中禅寺湖畔の食堂で昼食。湖畔散策。いろは坂を通って狭山市に向かう。景色を見ながらのドライブという感じの1日。

実は明日、仙丈ヶ岳に行きます。これから山の用意をしなければならないので、ブログはこれで終わります。

Tati0009 中禅寺湖のスケッチです。

そんなわけで、明日、明後日のブログは休みます。

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2009年9月 7日 (月)

昨日の続き 屏風の絵が踊る

9月7日(月)

まず、昨日の続きから。「木下航志」は「キシタコウシ」と言うのだそうです。「木下」と書いたら、普通は「キノシタ」と読むのですが「キシタ」なのだそうです。地名とか人名とか、固有名詞は漢字を見ただけでは読めなくてもしょうがないと思うことが良くあります。私の知人で「藤木」という人は「フジノキ」と言わないと機嫌が悪いのです。「フジキ」ではないのだそうです。いろいろあるんですね。間違って呼ばれることを気にする人と、あんまり気にしない人がいますね。どちらがどうとは言えませんが。

以上は余談です。余談から書き出すというのは文章の常道に反しますよね。まあ私の文章は、「アッチよろよろ」、「コッチよろよろ」ですから、数少ない読者は、つきあってください。

「子守唄」というか、「子守り」の話です。三木露風はよほどませた子で、子守りに背負われて見た「赤とんぼ」を覚えていたわけです。何かの文章で、三島由紀夫は縁側でおしめを取り替えられたのを記憶していたと読んだことがありますが、ほんとかネエ。

私は何十年も昔、暗い闇のなか、狭い空洞を泳ぐようにしながら、明るいところに出てきた夢を見たことがあります。私は勝手に、くらい産道を通って誕生したときの無意識の記憶が夢に現れたのだと思いました。しかし、あくまでも夢です。

現実に帰ります。

「竹田の子守唄」も「五木の子守歌」も子守りをする子どもたちは、現実の辛さをうたっています。昨日も書きましたが、私はそのような少女たちがいたことを、知識として知っています。私が育ったほんの少し前まで、それは現実にあったことです。

三木露風のようにませた子は、子守りを懐かしがったりするわけですが、大抵はそのもう少し後、女中に可愛がられた子供が、「女中っ子」として育ちます。女中を懐かしがる文学作品と言ったら、これはもうきりがありません。夏目漱石の「坊ちゃん」も、太宰治の「津軽」も女中が大きな位置を占めています。誰だったかなあ、女流作家だと思いますが、文字通り「女中っ子」という作品もありました。

子守りが長じて女中になった場合もあるでしょうし、子守りとは別に、女中に可愛がわれて育つという場合もあるでしょう。女中と言っても、はじめはまだ少女です。

昔は、子供が子供の面倒を見るというのが、当たり前のことでした。現にこの私が、小学2年の時、生まれて間もない弟を背負って遊んでいたのです。信じられますか? 小学2年生が赤ん坊を背負って、友達と遊ぶのですよ。鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたりするのです。他でもない、この私がしていたのです。

これは今まで誰にもいったことがない、はじめて明かすのですが、あるとき私は、上級生に知恵を付けられて、赤ん坊を電信柱にくくりつけて遊んだことがあります。これで、背負うのと同じだというのですね。そのせいなのかなあ、あの子が1歳のうちに死んじゃったのは。

今私は72歳。これ、一生忘れないんですね。

そのほか、私のまわりには、いくつもの悲運な死があります。そのいくつかは、私に関係があるような気がしてなりません。すぐ下の弟の死。妻の死。共に自殺。

   罪幾つ重ねて死ぬやつくつくし  ぼんくらカエル

もちろん、私と同じ環境にあって、他の人ならどうできたのだ、と言う、居直った気持ちもあるのです。でもなあ・・・。

御伽婢子・93

屏風の絵が踊る

細川右京太夫政元は足利義高公を取り立て、将軍に祭り上げ、自らは権威をほしいままにした。

あるとき、大酒を呑んで家に帰り、バタン、キュウで寝てしまったが、夜中に物音で目が覚めた。

枕元の屏風に、誰が描いたのか分からない古い絵があり、女房と少年が遊んでいる。その絵の中の女房と少年が絵から出て、手を打ち、足踏みをして、唄い、踊っている。身長は15センチばかりだ。

その歌を聴いてみると、

《世の中に、恨みは残る有明の、月に群雲春の暮れ、花に嵐は物憂きに、あらいはしすな玉水に、映る影さへ消えて行く》

月には群雲、花には嵐がある。あまり乱暴すると水に映る影も消えてしまう、とくり返して唄う。

政元は声を荒げて叱ったら、女房も少年も、元の屏風に帰った。

しかし気になって、陰陽師を呼んで占わせた。

屏風にある女の風流踊りは風に関係がある。花に嵐というのも風に関係がある。風の字にに注意しなさいと言うのが陰陽師の占いであった。

永正4年(1507年)6月、政元は精進潔斎して愛宕山に参籠し武運長久を祈った。

23日、愛宕山から下りるとき、馬が倒れて死んだ。

24日、政元は自宅で風呂に入ったところを、暴漢に襲われて死んだ。政元の事務官が敵に内通したのだという。陰陽師が風の字に関係があると言ったのは風呂のことだったのだ。

                      終わり

これで第8巻が終わりです。御伽婢子は全13巻、まだ3分の1以上が残っています。長いなあ。

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2009年9月 6日 (日)

木下航志のライブと子守唄 修行僧幽霊に逢う・3

9月6日(日)

木下航志と言う盲目の歌手がいる。ピアノの弾き語りをする。狭山市の市民会館で、そのチャリティーライブがあった。

目を閉じて聞いていると、山の彼方から雲がもくもくと湧いてくるような感じを受けたり、広い池の岸に波が静かに寄せているように感じたりする。声量があり、澄んだ響きがある。

アンコールで、最後の1曲だけアカペラで歌ったのが「竹田の子守唄」。歌詞は悲しい。なんで日本の子守唄は悲しいのだろう。ライブのはじめの方で、「赤とんぼ」を唄ったが、その歌詞の違いについて、いろいろ考えた。

「赤とんぼ」は子守唄ではなくて、子守をしてくれた姐やを懐かしんでいる詩である。

1) 夕焼け小焼けの赤とんぼ

   負われて見たのはいつの日か

2) 山の畑の桑の実を

   小籠に積んだは幻か

3) 十五で姐やは嫁に行き

   お里の便りも絶え果てた

4) 夕焼け小焼けの赤とんぼ

   止まっているよ竿の先

三木露風作詞である。三木露風が「子守の背中で赤とんぼを見た、あれはいつだったのか」、と言うのが1番の歌詞。「背負われている」のであって、「追われている」のではない。

「子守り」という者の存在は、私の世代でも話しで知っているだけである。貧しい家の少女が、金持ちの家の子守りに雇われて、赤ちゃんを背負いながら1日を過ごすのである。三木露風は、その子守りの「姐や」を懐かしんでいるのである。「子守り」の存在をしらない人が「負われて見た」を「追われて見た」と思ってしまうのは、やむを得ないのかも知れない。

「子守り」なのだから、3番は「姉や」ではなく「姐や」なのである。

ブログというのは私程度の生半可な知識しかない者でも。自由に書き込める。そのせいで、この「赤とんぼ」の解釈なんか、随分傑作があるんだそうですね。「負われて」の間違いは良くはないけれど、しょうがないな、とは思う。でもたとえば、「赤とんぼ」は戦後の歌で、「戦闘機の零戦」のことだとか、「姐や」は「従軍看護婦に行って生死が分からず、便りが来なくなった」だとか言う解釈もあるんだってサ。

「赤とんぼ」を「零戦」と解釈したのは、ひょっとしたら「あれかな?」というのはある。

Tati0009

左のイラストは幼いころに見た記憶をもとにして描いてみた。戦争中の航空兵の練習用の飛行機である。私は市ヶ谷の陸軍練兵場の近くに住んでいたが、まだ戦局が悪化しないうちは、上空を、よくこの練習機が飛んでいた。主翼が上下2枚ある複葉で、航空兵の顔が見えるほど低空で飛んでいることもあった。人々は、この飛行機のことを、「赤とんぼ」と呼んでいた。胴体の色が赤かったように思っているけれど、幼少時の記憶である。確信は持てない。さっきも書いたが、ブログというのは、私程度の人間でも、自由に書くのである。援用しようとするならば、自分でしっかり調べなくてはいけない。

脱線ばかりしているので、だいぶ長くなった。

「竹田の子守唄」だが、悲しい歌ですね。赤ん坊のための歌と言うよりは、子守りをしている子供の、嘆きの歌です。「五木の子守歌」と同じ系統ですね。

1) 守もいやがる盆から先にゃ

   雪もちらつくし子も泣くし

2) 盆が来たとてなにうれしかろ

   かたびらはなし帯はなし

3) この子よう泣く守をばいじる

   守も1日痩せるやら

4) 早よも行きたやこの在所越えて

   向こうに見えるは親の家

この歌は京都の部落民に歌い継がれた歌だそうです。この在所を越えて親の家に帰ったところで、貧しい生活が待っているだけです。それでも帰りたいのが親のところ。しかしそれも出来ないことを、子供ながらも知っているのです。

これはもう、恨み節ですね。本歌には、自分たちが食べるのは「もんぱ飯」というような歌詞もあったようです。「もんぱ飯」とは「オカラ」のことだそうです。  

御伽婢子.92

修行僧幽霊に逢う・3

前回までのあらすじ 河内の国を旅していた修行僧が、日暮れて泊めてくれるところを探していたとき、14-5歳の少年に逢う。少年は自宅に案内し、過去帳に自分の名前を書かせ、消えてしまう。修行僧はその家の持仏堂の前で夜を明かす。

夜が明けて、その家の家族が持仏堂の前に集まると、痩せこけた僧が一人、仏前に座っているのを発見した。

これはまた、盗賊か、それとも古狸が化けて出たのか、と、問いつめると、修行僧は昨日の出来事をありのままに語った。仏前の供物を見ると、修行僧が食べたという半分はなくなっていたが、少年が食べたという半分は、そのまま残っている。

「さては藤四郎の亡霊が現れたか、なんで修行僧の前には現れて、母である私には現れないのだ」

とは母嘆き悲しんだ。

聞けば、ちょうど100日前に、流れ矢に当たって亡くなったのだという。

無情を感じた母は、修行僧に髪を切ってもらい、尼となって菩提を弔ったと言うことだ。

                              終わり

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2009年9月 5日 (土)

家でごろごろ 修行僧幽霊に逢う・2

9月5日(土)

 思いっきり寝坊をして・・・目は覚めていたけれど布団の上でごろごろしていた・・・11時頃朝食件昼食。ブランチというのかな。その後、とうとう家から一歩も出ず。昨日洗濯をしてベランダに干したままだったのを、取り入れて畳んだくらいが仕事かな。漫然とテレビを見て、数独を2-3問解いて、本を少し読んで、ボーとして1日を過ごしました。

 鳩山由紀夫のホームページで、アメリカで問題になっているとか言う論文を読んでみました。割とまともなことを書いていると思いました。アメリカの市場至上主義を多少批判したところがあったけれど、それがアメリカの気に入らないんだね。日本の政治家のするとは、1から10までアメリカの言う成りでなければ批判されるのかな。

御伽婢子・91

修行僧幽霊に逢う・2

 前回のあらすじ 修行僧が河内の国を旅して、止めてくれる宿を探しているとき、14-5歳の美しい少年に会う。その少年の家に1夜の宿を借りることにする。

 「もう少し早ければ家の者に命じて食事を作らせるのですが、もう夜更けです。霊前に供えている供物を差し上げますので、食べてください」

 少年は仏前の供物を下げ、半分を僧に捧げ、残りは自分が食した。

 「今夜の宿を貸してくれてありがとう。あなたはどんな方なのか教えてください」

「私の父は隅屋藤九郎と言う武士で、武勇の誉れが高かったのですが、討ち死にをしました。私たち兄弟二人であとを継いだのですが、弟はまだ幼児です。私もまだ子供なので母に育てられています。私の名前は藤四郎です。今夜貴僧に宿を貸したのも他生の縁と言うことでしょう。私がもし亡くなるようなことがあったら、どうぞ跡を弔ってください」

 「なんでそのようなことを言われますか。あなたはお若い。これから花も咲こうというものです。私はこのように歳をとっていて、いつ死んでもおかしくない者ですよ」

 「いたいや、武士の家に生まれた者は命よりも名を惜しみます。戦があれば、夕べまで持つ命でもありません。だからお願いするのです。ここに過去帳がありますから、私の名前を書き入れてください」

 「これはまた妙なことを言われます。過去帳には死んだ人の名前を書くものです。しかし宿を貸してくれた方の望みに背くのもどうかと思いますので、逆修と言うことにして書き入れ、武運長久を祈りましょう」

 少年は打ち笑い、

 「それはお心のままに」

 と言って席を立ち、立てかけてあった太刀をとり、障子を開けて出て行った。そしてそのまま姿が消えた。聖は不思議に思い外を見たが、何も見えず、物音一つ聞こえない。やむを得ず、持仏堂の前に座って夜を明かした。

                         続く

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元気です

9月4日(金)

本当はもうすぐ、9月5日の午前1時になります。もう遅くなったので、長いブログは書きません。

このブログの第1の目的は、私が元気でいることの、子どもたちへのメッセージですから、理由無く休むことが出来ません。

とにかく元気です。健康です。多少惚けていることを除けば、問題はありません。しかし、今日のブログはこれでおしまいです。

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2009年9月 3日 (木)

無題 修行僧幽霊に逢う・1

9月3日(木)

Tati0009

荒川。上江橋(大宮)付近からのスケッチ。対岸の川岸に男が1人いるのですが、分かるでしょうか。川合玉堂の絵やスケッチには、画面の目立たないところに生活感のある人物が小さく入っていたりします。私はあれが大好き。

御伽婢子・90 

修行僧幽霊に逢う・1

隅屋藤九郎は楠の一族で、畠山義就(ハタケヤマヨシナリ)の部下であった。戦では数々の手柄を立てたが、最後に討ち死にをした。

その子、藤四郎は同じく義就に仕え、応仁の乱で死亡した。親子二代にわたって忠義をつくしたので、義就は藤四郎の弟藤次に河内の国門間の庄を知行地として与えた。知行地を与えられたといっても、まだ5歳である。母と二人で住んでいた。

あるとき、巡礼の聖がその近くにやってきた。日はすでに暮れようとしている。どこかに宿はないものかと門間の辺りで佇んでいると、幽かに横笛の音が聞こえる。振り向くと、笛を吹きながら歩いてくる者がいる。

近づいてみると14・5歳の少年である。見目美しく薄化粧をし、髪は頭の上に二つの輪を作って結っている。ただ一人田の畔を歩きながら、僧の近くまで来た。

「坊様はなんでこんなところに立っておられますか?」

「私は諸国修行の者ですが、日が暮れたので、どこかに宿はないものかと周りを見ているのです」

少年は少し笑って、

「いまは物騒な世の中です。なかなか宿を貸してくれるところもないでしょう。たとえお坊様だとしても、人を騙そうとしているのではないかと疑われます。うろうろしていれば、怪しい奴だと思われて、命を落とすようなことにもなりかねません。もう夜が更けました。私の家においでなさい」

「それはありがたい。ぜひお願いします」

少年は修行僧を自分の家に案内した。

「もう家の者は寝ているだろうから、こちらからどうぞ」

少年は裏口から内にはいる。中には持仏堂があり、阿弥陀三尊を祭り、机の上には三部経が置いてある。又、先祖の位牌には供物があり花などを供えている。感心して聖は読経し念仏を唱えた。

                       続く

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民主主義の基本 

9月3日(水)

精障者授産施設のかすみがわ食堂へ。Tati0009

帰りに稲荷山公園により、樹のスケッチ。

民主主義の基本だなどと、大層なタイトルを付けてしまいました。

昔は、王様が権力を持っていました。今でも王様はいますね。呼び方が違うだけで、たとえば北朝鮮のキム・ジョンイル様とかね。

専制君主の権力を国民の側にもたらしたのが、たとえばフランス革命。

民主主義というのは、出来る限り富や権力を個人個人に持たせるものだと私は思っている。現在では、国民の権力の行使が選挙だろう。選挙でなんでも変えられるのだけれど、国民というのは、私程度の馬鹿が多いから、誤った選択をしてしまうことも多い。

共産国や軍事国家は、専制主義になる。資本主義国家は一見違うようだが、本当に庶民に権力があるかというとそうでもなくて、金持ちに権力が集中する。ホームレスやワーキングプアーに権力があるかと言ったら、ないよね。

権力と富が一部の人に集中してしまうのは、民主主義を崩壊させるものだと思う。ここ数年、日本では格差が拡大してきたが、そのことに関する危機感が、自民党の政治家にどれほどあったんだろうか。

落ちこぼれるのは努力不足で自己責任だなどと言うのも、たまたま巡り合わせで豊かになった人の傲慢さだと思う。もちろん、本人の責任はあるさ。けれどもそればかりではあるまい。そもそも現在の日本は、落ちこぼれを作る社会だと私は思う。

いっぽうでせっせと落ちこぼれを作りながら、福祉はなおざりにしてきたのが、今の日本。民主党が政権を取ったからといって、上手く救えますかね。企業よりも家計という考えは、正しいと思うけれども、その政策で景気が良くなるまでは、どれくらいの時間がかかるのだろう。そう急には出来そうもない。

もっとも、つい2年くらい前までは景気が良いなんて言っていたけれど、その恩恵は一般庶民には届かなかった。庶民に届かない景気なんて、ほんとの景気じゃないよ。景気が良いときでも庶民は苦しい。悪くなればさっそくリストラ、なんていうのでは民主主義とは言えない。大企業が専制君主になっただけだ。

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2009年9月 1日 (火)

奥多摩むかしみち 歌の仲立ち・6

9月1日(火)

「奥多摩むかしみち」を歩いてきました。

ちょっと散歩のつもりだったのですが、軽い山登り程度の体力は必要でした。

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スケッチをしながらのハイキング。左はハイキングコースの途中。右は終点の奥多摩湖。

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圧巻は惣岳渓谷。むかしみちは惣岳渓谷のわきを通るのだが、高低差が大きすぎ、斜面の樹木がじゃまをしてよく見えない。吊り橋で対岸に渡り、怪しげな踏み跡をたどって河原に降りると、その一部を見ることが出来る。但し舗装道路や林の中の道を歩くだけの人には、危険なのでお勧めできない。街中を歩くような革靴の人は無理ですから近づかないこと。危険な目にあったとしても自己責任です。

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これは昔トロッコが走っていたという橋。 完全に廃道ですね。この先にトンネルもあります。「むかしみち」というのだから、こういうところも通れるようにしてくれればいいのに、なんて、勝手なことを思います。

とは言え、トロッコ道というのはダム建設のための道だそうで、「むかしみち」ほど古くないんです。「むかしみち」は「甲州裏街道」とも言われた道だそうだ。道の途中には、「耳の神様」やら「牛頭観音」やらさまざまな「地蔵様」など、民間信仰にまつわる遺跡などがあって、いかにも古い道だなあ、と思わせる。

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こんな細い道が続き、時々集落に出る。

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惣岳渓谷。

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もうこれ以上は画像を載せられないようです。全長10キロで、最後の3キロくらいは長い登りになります。これがきつい。

しかし、全体に風情のある山道で、なかなかのコースです。

実は精障者授産施設のボラの予定だったのに、すっかり忘れていました。別に今日でなくても良いボラなので、明日、行くことにしました。

御伽婢子・89

歌の仲立ち・6

前回までのあらすじ 永谷兵部は山名一族に連なる娘牧子とわりない仲になったが、親に認められ正式な夫婦になった。しかるに、応仁の乱が起こり、牧子とその両親は殺された。難を逃れていた兵部は、京都に帰ってそれを知り、悲しみに沈む。

ある夜、兵部のもとに、夢のように牧子が現れた。

「私はあなたと別れてから、田舎武士の手にかかって殺されました。けれども貞節を守ったことを天帝が憐れみ、今日あなたの前に現れました」

兵部は牧子が亡くなった悲しさと、会えた嬉しさで、涙が雨のように降った。夜もすがら語り合って朝になった。

   思はずよまためぐりあふ月かげに

       かはるちぎりをなげくべしとは

牧子返し、

   行末をちぎりしよりぞ恨みまし

       かかるべしともかねて知りせば

こんな嘆きを言うようになるとは思わなかった。こうなるとは分かりませんでしたものね。と互いに涙を流し、牧子は別れて立ち去った。牧子の後ろ姿は、影のようになって、薄れて消えた。

兵部は剃髪して寺に籠もったが、間もなく病によって虚しくなった。

                    終わり

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