敗戦日 菅谷九右衛門・2
8月15日(土)
敗戦の日
今日、普通には終戦記念日と言うようです。でも私は、敗戦の日、あるいは敗戦記念日と書きます。確かに終戦記念日に違いないのですが、日本が負けて終戦になったわけです。その負けたことを曖昧にするように終戦記念日といいだしたのではないか、と私は疑っています。言葉を代えることによって「事実を直視するのを避けようとする」、そんな気がするんです。嫌なことでも何でも、事実をきちんと直視することが、人間には必要だと私は思っています。
「おまえにそれが出来ているのか」と言われたら「ごめんなさい」とでも言うしかないのですけれども、言葉のあやで直視を避けようとするのには、抵抗感があります。辛いことでも知られたくないことでも、事実は事実で、しょうがないんだナ。
例年通り、T寺の和尚さんがお経を上げに来てくれる。
その後でどこかに散歩と考えていたのだけれど、テレビで、戦争関連の特集が次から次にあり、結局、家から1歩も出ずにを1日終わる
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御伽婢子・77
菅谷九右衛門・2
前回のあらすじ 伊勢の国の柘植三郎左衛門と滝川三郎兵衛は国司の悪政に愛想を尽かし、信長に内通し、国司を滅ぼし、伊勢を信長の国とした。これによって地位を得たが、伊賀の国の反乱で戦死する。1年後、信長の家来、菅谷九右衛門は思わぬところで2人に会う。死んだはずなのにと不審に思って声をかけ、道ばたにござを敷き3人で酒盛りを始める。
酔いが回ったところで、滝川が言う。
「人間は貧しいときは豊かになることを願い、地位が低いときは高くなることを望む。しかし、富貴になると必ず危ない目に遭う。そうかと言って元の地位に帰ろうとしても、なかなか思うにはまかせない。富貴のまま天国に行くなどは、ちょっとやそっとで出来るものではない。後の世に名前を伝えられるほどの手柄のある者ならばともかく、大概は恥を残すことになる。織田家だけを考えてみたって、織田掃部はたいそう勲功のある者なのに、誅せられた。佐久間右衛門は信長公草業の時からの忠臣なのに、追放されて恥にあった。ましてわれらごとき途中からの家来では、その先は知れたものではない」
さらに滝川は言葉を継ぐ。
「下間筑後守(シモヅマチクゴノカミ)は越前の朝倉に味方をしたけれども、朝倉が敗れてからは、平泉寺に隠れて跡をくらまし、仏法に帰依して道人になった。こんな歌を作っている。
梓弓ひくとはなしにのがれずば
今宵の月をいかでまちみむ
戦に明け暮れていたら月の出を待つようなことは出来なかったと、名を捨て道を究めた。荒木摂津守の家来、小寺官兵衛は主君の乱心を諫めきれずに、髪を落として僧になった。こんな詩を残している。
四十年来謀戦功
鉄冑着尽折良弓
緇衣編衫靡人識
独誦妙経殉梵風
(ヨンジュウネンライセンコウヲハカリ、テッチュウヲツクシテリョウキュウヲオル、シエヘンサントナビキヒトノシルコトナシ、ヒトリアキラメテミョウキョウヲヨミボンフウニシタガウ)
戦を捨てて仏法に従ったこれら2人、逆心の君に仕えながらもよく災いを逃れた。思慮の深いではないか」
柘植は笑っていった。
「伊賀の反乱などは、大した事件ではなかった。そんな例を挙げては、われわれの方が恥ずかしい」
滝川が答える。
「いや、今はそれを言うときではない。とにかく呑みましょうや」
更に3人は盃を重ねた。菅谷は2人に向かって、「今の気持ちを歌にしてくれ」頼んだ。と
柘植の歌。
霜露ときえての後はそれかとも
くさ場より他しる人もなし
滝川三郎兵衛の歌。
うずもれぬ名は有明の月影に
身はくちながらとふ人もなし
いずれも死んでからは思い出してもくれない、と嘆く歌である。
やがて酒がつきたので、2人は別れを告げた。50メートルくらい歩いただろうか、二人の姿は、跡形もなく消え失せた。そこでやっと、菅谷は二人が討ち死にした者であることを思い出した。菅谷は帰宅してから、僧を招いて、2人の霊を懇ろに弔ったということだ。
終わり
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