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2009年8月31日 (月)

やっと代わります 歌の仲立ち・5

8月31日(月)

8月は今日で終わり。自民党は今日で終わりかな? それとも再生はあるか? ひょっとしたら分裂かな?

民主党は支持されたと言うより、相手があまりにひどかったのでやむを得ず選ばれた、と言うことだと思う。

昨日、今日のブログは、選挙を取り上げた人が多いだろう。私も時流に乗って平凡なことを書いているわけです。もうよしましょう。

関東地方、今日は寒かったね。朝から雨が降ってサ。台風が今夜、千葉の沖を通るんだって。

精障者作業所Mへ。行きも帰りもズボンの裾は雨でびっしょり。

明日は快晴といきたいねえ。そしたら私は遊びに行ける。「奥多摩むかしみち」なんか、行ってみたいなあ。

御伽婢子・88

歌の仲立ち・5

前回のまでのあらすじ 永谷兵部は外出中に知り合った娘と良い仲になり、夜な夜な会いに行く。しかし父に外出を禁じられる。娘(牧子)は兵部と会えないことで恋煩いになり、痩せ衰える。両親は召使いに聞いて病の原因を知る。

娘がそこまで思い詰めているのなら、その思いを叶えてやろうとして、牧子の親は仲人を立てて兵部の父に申し入れた。

兵部の父は、

「わが子には学問の才能があります。やがて公に仕えて我が家のあとを継がせる者です。妻を持つのはまだ早いでしょう」

牧子の父は、

「兵部さんのことは噂に聞いています。きっと出世なさる方です。私の娘と結婚してくれたら、何もわが家を継げとは申しません。財産もみな差し上げましょう」

こうして話はまとまり、吉日を選び、兵部は婿になった。

    命あれば又も逢瀬にめぐりきて

        ふたたびかはす君が手まくら

娘返し、

    三日月のわれて見し夜の面かげを

        有明までになりにけるかな

又あなたの手まくらで寝ることが出来ると歌にすれば、今は明るいところで逢えるようになったのね、と返す。以後は誰はばかることなく幸せに暮らしていたが、やがて応仁の乱が起こった。

京都の町は戦火に見舞われ、家々は焼かれ、田舎侍の乱暴狼藉はとどまることを知らない。牧子は狼藉者に掴まり汚されようとした。

「私は死んだって、あんたみたいな田舎者の思い通りにはならないわ!」

「なんだと! それなら殺してやろう」

軍兵は怒って、牧子を串刺しにした。

それとも知らず兵部は、難を逃れて田舎に隠れ住んだ。その年の冬、やっと戦が収まったので京都に帰ってみると、妻の家は焼かれて跡形もない。父も母も殺されたという。兵部は1人、牧子の部屋の辺りに佇み、涙に暮れていた。

                        続く 

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2009年8月30日 (日)

一匹芋虫 歌の仲立ち・4

8月30日(日)

ゆっくり起きて投票に行き、午後、傘を持って散歩に出る。

Tati0009

いつも変わり映えしない入間川のスケッチ。書き終える寸前に雨が降り出し、今日はこれだけ。傘を差して帰る。

選挙の結果はどうなるか、まあ民主党が圧勝という勢いなのだそうですが・・・。

今回の選挙はそうでもないのですが、だいたい私は、少数派に属しています。政治的なことばかりではなく、なにごとでも少数派に属する傾向があります。物の見方、考え方が、人と違うのかも知れません。若いときからそんなふうだったので、今では自分が多数派に属しているときは、何だか不安に感じます。少数派に属している方が、精神的にも落ち着くのです。少数派の方が安心、と感じるのも少数派なんでしょうね。

「1万人あるとも我行かん」などという威勢の良い言葉もある。自分の味方は誰もいなくても、1人でも向かっていくというわけです。私にはとてもそんな勇気はありません。そんな場合、私は信念を曲げるわけではありませんが、信念を隠します。でもこれ、信念を曲げないつもりでいても、隠していると、いつの間にか曲がるんです。相手に迎合したい気持ち、世間と歩調を合わせたい気持ちは、きっと誰にでもあるのです。毅然として1人立つ、なんていうのは難しいなあ。

はぐれ者が、自分のことを「一匹狼」などと言います。それはそれなりに格好が良いですけれど、私は1人で世間に向かっていくなどと言うことは出来ません。私は自分を「一匹芋虫」だと思っています。誰でもつぶすことが出来ます。

御伽婢子・87

歌の仲立ち・4

前回までのあらすじ 永谷兵部は外出先で美しい娘牧子を見かけ、たちまち恋をする。牧子も兵部に一目惚れし、塀の内と外で歌を取り交わし、その夜兵部は夜這いをする。そして朝、衣ぎぬの別れをする。

さてそれからというもの、兵部は心もそぞろで、学問にも身が入らない。夜になると牧子のもとに夜這いに行く。そんな兵部にたまりかね、父が怒っていった。

「おまえは学問のために通っていたはずだ。朝家を出て夕方に帰るのが当たり前だろう。それなのに近ごろは、夕方家を出て朝に帰るとは何事だ。定めし、女のもとにでも通っているのであろう。そんなことをしていては、悪い噂が立つばかりだ。もしも相手の女が身分の高い者だったら、家門をけがされたと言って大騒ぎになるだろう。そんなことがあっては、わが家にとっても大問題だ。今日から暫く、家を出ることを禁ずる」

と、兵部を一間に押し込めてしまった。

夜、庭で待っていても兵部はぷっつりと来なくなったものだから、牧子は思い悩んだ。飛鳥川の昨日の淵は今日の瀬となるように、人の心も変わりやすい。私は捨てられたのかしら・・・。それとも兵部さんは病気になったのかしら。心配でじっとしていられない。召使いに様子を調べさせたところ、兵部は父親に閉じこめられているらしいと分かった。

それを知って牧子は嘆き悲しみ、食事も喉を通らず、思い乱れてうわごとを言うありさま。やせ衰え、肌の色つやも落ちた。両親はびっくりして、医者よ薬よと手を尽くしたが、一向に良くならない。何か思い詰めていることでもあるのかと聞いてみても、牧子ははっきりとは答えない。

両親は牧子の枕元の箱を見て、中をあらためたところ、兵部の歌が出てきた。召使いに問いただし、娘の病は恋煩いであることを知った。

                        続く

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2009年8月29日 (土)

今日も雑談 歌の仲立ち・3

8月29日(土)

暑い1日。出かけたいところがあったけれど、あんまり暑いのでやめました。

麻薬で話題の酒井法子は小学生のころ狭山市にいたようです。ボラ仲間のHさんの子供が酒井法子と同級生だったと言うことで、マスコミからの電話がいくつかあったそうです。

さて、明日は選挙。今けたたましい音を立てて選挙カーが窓の外を通りました。どうやら政権交代がありそうですが、長かったなあ、自民党政権。自民党は長かったけれど、首相はころころ変わったね。今の自民党、麻生さんのせいも大きいだろうけれど、小泉さんが本当に自民党をぶっつぶしたのだと思います。

今日は何だか西瓜が食べたくなって、行きつけのスーパーへ行ったら、もう置いてないんです。今日は暑かったけれど、ここのところ涼しかったからかなあ。

そう言えば、俳句では西瓜は秋の季語なんだ。おかしいね。西瓜と言ったらどうしたって夏のイメージなのに。西瓜を秋の季語と主張する人は、俳人は季節を先取りするのだ、なんていうよ。先取りするのは良いけれど、実感とあまりに離れてはいけないだろう。秋に西瓜を食ったって、夏ほど美味いとは感じないサ。

御伽婢子・86

歌の仲立ち・3

前回までのあらすじ 永谷兵部は外出中に立ち休みをした塀の外から屋敷内を覗いたところ、美しい娘(牧子)が目に入った。たちまち一目惚れをしたが、牧子も兵部に気がついて、これまた一目惚れをした。塀の内と外で歌を読み交わし、その夜、夜這いに行くことに決まった。

その夜が来た。兵部が外の塀へ来ると、塀の外にまで伸びている桜の枝に、縄のような細帯が吊してあるのが見えた。兵部がその帯を掴んで塀を越え屋敷内に降り立つと、女は樹の下で待ちわびていた。

   うつつにもおもひ定めぬあふ事を

       夢にまがへて人にかたるな

兵部の返歌。

   また後の契りはしらず新まくら

       ただ今宵こそかぎりなるらめ

私たちが会うことを、人には言わないでね、と牧子。あなたが私と夜を共にするのは今夜だけなんでしょうね、と兵部。

牧子は恨んで、あなたに抱かれるのは千年の後まで同じ想いからなのに、なんでそんなに薄情なことを言うの。あなたのためなら死んでも良いと思っているのに。

   たのまずばしかまのかちの色を見よ

       あひそめてこそふかくなるなれ

という藤原俊成の歌の心よ。あの桜に垂らした帯の「しかまのかちの色」(濃い紺、または褐色)を見たでしょう。あいそめてますます深い色になるの。

牧子は兵部を部屋に導き。下女に酒のよういをさせた。

牧子の親は山名氏の一族だが、武門を離れて久しい。一族の中には大名などもいるが、お互いに付き合いはない。家は豊かで親は牧子のために花園を作り、そこに家を建てた。それがこの家で、親は近くに住んでいる、と牧子は話す。

    世にもれむ後の浮き名を嘆くこそ

        逢世も絶えぬおもひなりけれ

女返し、

    ながれてはひとのためうき名取川

        よしや我身はしづみはつとも

やがて世間に知られたらあなたに悪い噂が立ち、逢えなくなったら辛い、と言えば、どんな噂が立ってもあなたを愛するわ、と体をぶつけてくる。

その夜二人は愛し合った。愛し合う二人に夜明けは早い。

    ちぎりおくのちを待つべき命かは

         つらき限りの今朝のわかれぢ

女返し、

    くらべては我身の方や勝るべき

         おなじわかれの袖のなみだは

別れは辛いね、私の方がもっと辛いのよ、と歌を交わし、兵部は桜の枝を伝って外に出る。

                          続く    

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2009年8月28日 (金)

水遊び(水彩) 歌の仲立ち・2  

8月28日(金)

Imgp1855                   

水彩画の会。航空公園の水場で遊ぶ子どもたちです。私の絵ですから、バックは意識的に変えています。現場の写真も撮りましたが、子どもたちは入れ替えました。乱暴で早いのが私の絵です。

御伽婢子・85

歌の仲立ち・2

前回のあらすじ 永谷兵部少輔色男で学問を好む。いっぽう牧子という美女が万里小路のあたりに住んでいた。あるとき兵部は牧子の家の塀の外で休んでいた。中に人の気配がするので、塀の崩れから覗いてみると、美しい娘が針仕事の手を休めて、桜の花を愛で、小鳥のさえずりを聞いている。そして歌などを詠んでいる。

兵部はその美しい姿を見て、目が離せなくなった。牧子はそんなことも知らずに、庭に降りたが、ふと、兵部と目があった。これまたポーとしてしまい、「この人に抱かれたいわ」と思った。そして、

   我門のそとにもさける卯の花を

       かざしのために折るよしもがな

と、歌を詠む。

外に立っている人を私のもとに引き寄せる方法はないかしら、との歌を聴いて、兵部の心も高ぶり、あり合わせの紙に2首の歌を書いて、塀の中に投げ入れた。

   いのちさへ身の終にやなりぬらむ

       けふくらすべき心地こそせね

   入りそむる恋路はすゑやとほからむ

       かねてくるしき我こころかな

あなたを思う苦しさに、今日にも命が終わりそうだ、という歌である。牧子は短冊に歌を書き投げ返す。

   あじきなし誰もはかなき命もて

       たのめばけふの暮れをたのめよ

今晩来てね、と返した。兵部はその短冊を持ち帰る。夜が待ち遠しいったらありゃしない。

                         続く

何しろこの先が良いところだから、今日はここでおしまい。プラトニックラブなんテエのはないんだね。

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暑気払い 

8月27日(木)

実は今、28日早朝です。ですから、昨日の日記になります。簡単にすませます。

日記を書き出す前に、今日はじめにしたことは、ブログに附いたエッチさいとのトラックバックを消すことでした。トラックバックを全部確かめるなんてことはしていませんが、エッチサイト気がついたものは消すようにしています。この頃量は減りましたが、毎日のように附いてくるんですよね。誰か、私が助平だということを世間に言いふらしている人がいるんじゃないでしょうか?

午後、老人介護施設Kへ。新型インフルエンザのに神経を尖らせなければならないのが、このような施設。来訪者は手洗い消毒をして、使い捨てマスクをする仕組みになっていた。

夕方から、ボラグループの暑気払い。食事と飲み会です。

本当は昨日のうちにブログを書くつもりだったのですが、普段になく眠くなって、寝てしまいました。酒を飲むと、無性に眠くなることがあります。昨日がそうでした。それほど深酒をしたわけではないのですが、弱くなっているんだナア。

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2009年8月27日 (木)

棒ノ嶺

8月26日(水)

現在8月26日午後11時57分。いろいろあって書き出しが遅れました。今58分。書き終わるのは明日になります。

山行、棒ノ嶺。

白矢沢コースを登り、仙岳尾根を経て落合に下山。狭山市からSさんの車で登山口へ。同行Hさん、Tさん、Kさん。

白矢沢コースは奥武蔵の登山道で、もっとも好きなコース。

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両側から岩が迫る間の沢を登る。ゴルジュというらしい。

初心者を山好きにするにはもっとも良いコースだと私は思っている。とは言え、久しぶりの白矢沢、思っていたよりはきつかった。

下山は仙岳尾根から落合へ。昭文社の地図では波線になっている。急勾配が多く、棒ノ嶺を巡る他のコースと比べたら、楽とは言えない。道も、判断を強いられるところもある。

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こんな危険なところも。

落合の観光釣り場に下山。

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Sさんの車のバッテリーが上がってしまうトラブルがあり、帰りはバスと電車。Sさんは明日もう一度ここまで来ることに。車に関する知識のない私は、申し訳ない、ご苦労さん、と言うしかない。

狭山市で反省会。車のことを話したわけではありません。

御伽婢子は休みです。実況放送のように言うならば、現在、12時25分。

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2009年8月25日 (火)

憧れは半分実現する? 歌の仲立ち

8月25日(火)

子供のころ、大人になったら何になりたいと思っていただろうか。長年生きてきたので、大方忘れてしまった。

透明人間なんかにはあこがれたネエ。あのころ透明人間になって何処に行きたいと思っていたのかナア。子供だから、まさか女風呂じゃああるまいし・・・。

少し長じては、詩人とか画家とかにはなりたかったね。但しこれは貧乏と結びついていました。芸術家なのに金持ちなんて言うのは、偽物のような気がしていました。芸術家になれるなら、貧乏でも良いと思っていたのです。

但し、何かになるために努力したことはありません。だいたい努力することが嫌いです。ただ漫然と憧れるわけですナ。

でもその憧れ、半分は実現しましたょ。憧れは、努力しなくたって、半分くらいは実現するのです。その証拠に、私は芸術家には成れませんでしたが、貧乏には成れました。                     

御伽婢子・84

歌の仲立ち・1

浅井了意の物語の主人公は、なんで美男美女ばかりなのでしょうか。これもまた、美男美女の話です。

永谷兵部少輔と言う者が、1條戻り橋付近に住んでいた。21歳になるイケメンで、風流人と言われていた。学問を好み、北畠昌雪法印のようにすぐれた学者のもとに通い、儒学を勉強した。

一方、神祇官の家の近くに裕福な家があった。もとは山名氏1族だったが、今は武門を捨て平和に暮らしている。その家に娘が1人いて、「牧子」という名前である。これがまた美女で、絵が上手で生け花が上手。歌の道も心得、風流を解した。

あるとき、兵部は書を持って、万里小路に詣でた。帰りに牧子の家の辺りを通る。塀の外で休んでいると、中に人の気配がする。塀の少し崩れたところから覗いてみると、ことのほか美しい娘が、縫い物の針を止めて、庭の花を眺め、小鳥の声に耳を傾けている。そして歌を作り、つぶやいた。

   ほころびて咲く花ちらば青柳の

      糸よりかけてつなぎとどめよ

やっと咲いた花が散ったらば、青柳の糸でつなぎ止めなさいと言う歌である。

                      続く

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2009年8月24日 (月)

意識の流れ 邪神を責め殺す・3

8月24日(月)

若い頃は、いつも何かを考えていた。何かを考えていたといえば偉そうだけれども、あの娘の気を惹くためにはどうしたらいいか、などと考えるいる時間が多かった。深い思索にふけっていたわけではない。ただ、気がつくと何かを考えているのだ。人間は、起きているときに何も考えていない時間なんてあるのだろうか、と疑問に思ったほどである。

それがいまはどうだろう。気がつくと、何も考えていないのだ。時々、少しは考えるけれど、あんまりまとまったことは考えませんね。何かを考えているときだって、常に雑念が入ってくる。

今ブログを書いていますが、意識は書くことに集中しているわけでもないのです。そう言えば冷蔵庫の野菜がもう無かったな、明日買いに行かなくちゃ、なんて思いが、ふとよぎります。それからあらためて、さっきまで書いていたことの続きを考えるのです。「考えるのです」と書いた尻から、何だか耳が痒いナアだとか、家の前の99円ショップは模様替えして明るくなったなあ、ァ、いま客が入った、テナ調子で、意識はあっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりします。

今日のブログは、意識がちゃらんぽらんに動くことを主題にしているけれど、何か一つのテーマで書くときだって、頭の中には関係のないことも浮かびます。そのようにいろいろと頭に浮かぶことの中からテーマにあったことを拾い上げて、何とかまとめるのが私のブログかな・・・いつだって、まとまった文章になんかなっていないぞ、テナ声が聞こえそうだ。だから今日も、まとめを書かずに、これで終わり。

御伽婢子・83

邪神を責め殺す・3

前回までのあらすじ 常陸の国、筑波山の麓に小さな社があって、そこの神は散米や御神酒を上げないで通りすぎる者には災いを与える。旅の僧、性海がお経を上げただけで通りすぎると、妖怪が後を追いかけてきて、とり殺そうとした。性海は何とか逃げ切って、鹿島明神に辿り着き、自分がなぜ追われたのか理由を知りたいと祈った。その世の夢に、明神が現れて、家来に言いつけて白髪の老人を連れてこさせる。明神はその老人を責める。「おまえも神の1人だ。なんで国人を苦しめるか。その罪は重いぞ」

老人は平伏して答える。

「確かに私は末社の神だけれども、大蛇に社を乗っ取られました。やむを得ず、傍らの木の根元を住みかにしています。災いを起こしているのはこの大蛇の仕業です。私はとてもこの大蛇を抑える力がありません」

「ならば、なぜそのことを訴えてこないのか?」

「この大蛇は妖術が巧みで、鬼神や悪霊を家来にし、私が訴えに出ようとすると取り押さえられ、住みかに閉じこめられます。今日は明神のお召しなので出てくることが出来ました」

話を聞いて明神はその社に軍勢を差し向けた。数時間後、軍勢は大木に大蛇の首をくくりつけて持ち帰った。その首は5トントラックにやっと積めるほどの大きさである。角は尖り、耳は大きなベニヤ板のようである。口は耳まで裂け、目は焼けただれた鉄板のようである。その目をふさがないで死んでいる。

「訴えはこれで解決」という声が聞こえて、性海は夢から覚めた。

性海が昨日の神社へ行ってみると、社も鳥居も焼き払われて、木も草も折れ、砕けて、300メートルもありそうな首のない蛇が横たわっていた。正夢だったのである。

                          終わり

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2009年8月23日 (日)

甘利山・千頭星山

8月23日(日)

山の会、山行。

登った山は甘利山と千頭星山。

甘利山1731メートル。千頭星山2138.5メートル。

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山梨県韮崎の広河原まで、マイクロバスで入る。売店のわきから入山。すぐにお花畑が広がる。

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広々とした高原状の道を爽やかな空気の中で歩く。足元に花、遠くに富士、落葉松の林の間に南アルプスや八ヶ岳の見える道。楽しい1日になりました。

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林の中では、もう秋がはじまっている。

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帰りの中央高速は大渋滞。1000円効果かな。山を降りたのは2時。狭山市着は7時過ぎでした。

N市から参加のTさんが新潟土産の純米吟醸酒(越後与板衆)をわれわれ飲んべえに差し入れてくれました。渋滞の中、呑んだり喋ったり。

    

                                                                                           

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2009年8月22日 (土)

俳句大会 邪神を責め殺す・2

8月22日(土)

つばさ俳句会夏季俳句大会。会場は社会福祉協議会館。私は裏方。

小規模な大会ではあるが、狭山市、入間市、飯能市など、近隣の地で指導的な役割を果たしている人が参加してくれる。選句、披講、選評などを行い、午後2時頃から近くの蕎麦屋「溝呂木」に場所を変えて有志による懇談会。「春風」や「秋の風」も良いが、「8月くらいは『戦争の句』を」という意見も出る。

 兄いまも東支那海泳ぎをり  青野三重子

などという句は良い句だと思いました。

御伽婢子・82

邪神を責め殺す・2

前回のあらすじ 性海という僧が筑波山の麓の小社を、お経を上げただけで通りすぎた。ところがその性海を妖怪が追いかけてきて取り殺そうとする。やっと逃げおおせた性海が鹿島神宮に「なぜ自分が追われたのか、そのわけが知りたい」と祈って、軒下に寝る。

その夜、夢を見た。神殿の内陣が開き明神が現れる。

「汝が観音普門経を奉じたのは、しっかりと受け止めた。汝が真相を知りたいと願ったことは、間もなくあきらかになるであろう」

間もなく数十人の人々が空を駈けていくのが見えた。やがて、白髪の老人を連れてくる。

明神は言う。

「おまえも神の端くれだろう。なんで国家の人民を惑わすのだ。神を信じる者にむやみにわざわいをおよぼすなど、もってのほかだ。ましてやうやまいながら通る人にまで難儀させる。ここにいる旅人もお経を奉納したではないか。それなのに妖怪に追いかけさせるとはなんたることか? その罪は軽くないゾ」

                     続く

明日山行なので、準備があります。そのため、今日はこれでおしまい。

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2009年8月21日 (金)

何だっけナア 邪神を責め殺す・1

8月21日(金)

何だっけナア。

近ごろこれが多いんです。さっきやろうと思ったのは何だっけ? 今朝の食事のおかずは何だっけ? あれ?俺が探しているのは何だっけ? テナもんですね。

その一つに、ブログで書く内容があります。さっきまであることを書こうと思っていたのに、今は思い出せません。何だっけナア。

近ごろは「俺も惚けがまわってきた」と口にします。半分は本気ですが、内心は、まだ本当の惚けではないという気持ちもあるわけです。でも、あやしいんだよねこれが・・・。人間は必ず死ぬ。私くらいの歳になれば、いつ死んでもおかしくはない。でも、明日死ぬと思わぬところが甘いのです。惚けも同じ。まだまだと思っているうちに、敵は後ろから近づいてくる・・・のかな?

今日のボラは特養老人ホームS。痴呆症の進んでいる人が相手だった。いつも行っているので顔見知りの人が多い。ああ、この人は前よりも進んでいるなあ、と感じることもしばしば。

認知症の人には、そんな言葉は知らないとしても、自分が認知症になった悲しみがあると思います。惚けたから何も分からないというのは間違いでしょう。

知的障害でも同じです。自分が充分に知的に発達できなかったという悲しみが、本人が意識するしないにかかわらず、あると思います。不治の病にかかった人が持つ悲しみと、それは同じです。認知症の人も、知的障害の人も、それを言葉で表せないだけだと私は思います。

話はまるっきり変わりますが、炎天下の道路工事で地べたを叩いている人と、冷房の効いた部屋でマネーゲームをやっている人とを比べると、本当に社会に役立っているのは、地べたを叩いている人の方だと思うのです。しかし、地べたを叩いている人は、人に馬鹿にされる存在です。辛い仕事に堪えて、食うや食わずの生活を送るのです。安楽椅子に座る人々は、落ちこぼれは本人のせいだと言います。少し環境が違ったら、自分が地べたを叩く方にまわっていただろうなどとは、考えがおよばないのです。

話しが横滑りしちゃったけれど、いつものことです。

御伽婢子・81

邪神を攻め殺す・1

常陸の国(茨城県)笠間郡の荒野に小さな祠がある。後ろには筑波山が迫って社はいつも日陰である。前には沢があり、水は深く、藻が覆っている。その辺りは常に雲が覆い、小雨が降っている。

人々はこの社の神を畏れて、傍を通るときには、必ず散米をし、御神酒を供える。さもなければ、必ず祟りに会う。

明徳年中(1390-1394年)岐阜の僧、性海という者がこの地を通った。元より修行で諸国行脚をしている身なので、袋の中には何の蓄えもない。ただ礼拝しいて、お経を唱えて通りすぎた。

ところが1キロばかり行くと、道が不明になり、あちこち探し歩いているうちに、急に大風が吹き出した。砂を巻き上げ、石を飛ばし、黒雲は空を覆い、霧が立ちこめる。何か怪しげな声を上げて、後ろから追いかけてくる者がある。振り返れば、見たこともないような妖怪が大勢でこちらに迫ってくる。

性海は必死に逃げた。化け物のために命を落とすかも知れないという恐怖に駆られ、お経を唱えながら、ただひたすらに逃げた。どうにかこうにか鹿島明神の社まで逃げると、化け物は去り、雲は切れて晴間が現れた。

性海は鹿島明神に祈りを捧げ、先の社でお経を唱えたのに、なぜ自分を殺そうとして妖怪が追いかけてきたのか、その理由を教えて欲しいと祈った。先の社は邪神を祭っているのか、それとも自分に誤りがあったためなのか、その理由が知りたかった。

その夜は疲れ果てて、他に行く当てもなかったので、、鹿島明神の軒下に寝た。

                            続く

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2009年8月20日 (木)

蝉を釣る ひげ長の国・3 

8月20日(木)

一口に釣りと言えば相手は魚だけれど、トンボ釣りなんて言葉もある。鯉釣りもあって、「出てこい出てこい陸の恋」などと言う。と、まあ、これは冗談だけれど、蝉釣りなんて、人は言いません。

でも私は子供のころ、蝉釣りをやりました。親の蝉を釣るのではなく、今夜脱皮しようとする蝉を釣るのです。

誰でも知っていることですが、蝉は6年か7年土の中で生活し、陸上に出てくると1週間くらいで死ぬんですってね。鳴くのは雄で、親になって4日目くらから鳴き出すのだそうです。雄だけ、死ぬ少し前だけ鳴くんです。それにしてはうるさいね。

  頓(ヤガテ)死ぬけしきは見えず蝉の声  

言わずと知れた芭蕉の句。

  蝉時雨命の限り声限り  

言わなきゃ知らない、ぼんくらカエルの句。

蝉の命が果てるとき、ジジと鳴いて落ちてきます。鳴かないのもいるんだろうけれど、とにかく落ちてきます。落ちたときに完全に死んでいるかと思うと、そうではなくて、触ると羽ばたいたり、鳴き声を上げたりします。まだ命のあるうちに落ちるのです。

蝉が親になる日、地上に出て脱皮しますが、その時の抜け殻は、すでに命はないのに、木の幹などにしっかり爪を立て、まるで意志があるように掴まっています。落ちる蝉とは対照的です。

地下で過ごして7年、今日地上に出ようとする蝉は、地表に向けて穴を掘ります。ありの穴くらいの大きさに、地上に穴を開けます。夜になったらそれを広げて、自分が出られるくらいの穴にして、のこのこと這い出して、樹の幹などにとりつくのです。

蝉が這い出す季節になると、大きな木のまわりにいくつもの穴があきます。直径が1センチくらいの丸い穴が沢山ある樹を探しましょう。但しその穴は、すでに蝉が這い出してしまった穴です。そんな穴の多い樹のまわりに、直径が3ミリくらいのを見つけたらしめたもの。それが今夜蝉が這い出す穴です。夕方、蝉の出る樹の傍で、その小さな穴を見つけるのです。見つけたらその穴を少し広げて木の枝を差し込んでやると、今夜脱皮しようとしている蝉が釣れるのです。

釣った蝉を枝ごと持ち帰って観察すれば、脱皮が見られるでしょう。脱皮する前の蝉に触ってはいけません。上手く脱皮できなくなったり、脱皮しても羽根が縮んだままで伸びなかったりします。経験したので知っています。脱皮した蝉ははじめは白いのですが、朝日に当たると、成虫の蝉の色になります。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・80

ひげ長の国・3

前回までのあらすじ 越前と北海道の間を行き来して商売をしていた商人が、難破してひげの長い人達が住んでいる国に流れ着いた。国主に気に入られ、そこお姫様と結婚し、幸せに暮らしていた。しかしある日、国主が竜王に召されて、生きて帰れぬと言う。商人は国主を助けるために竜宮に行く。そして龍神に国主の釈放を願い出る。

商人は、

「東海第3の海域、第7の島の国主を帰したまえ」

と願う。龍神は役人に調べさせて答える。

「そのような島はないぞ」

「いいえ、長ひげの国があります」

龍神は役人にもう1度調べさせた。役人は言う。

「その海域は、エビの住んでいるところです。昨日、食料にするためにエビを釣り上げました」

竜王は笑い出した。

「おまえは人間なのに、エビに騙されたのか。われわれはむやみに食料をとっているわけではない。天帝から許された物しか獲りはしない。だからそのままにしても良いのだけれど、わざわざ命乞いに来たのだから、おまえの顔も立ててやろう。料理番のと一緒に台所へ行って、見つけたらそれを放してやりなさい」

商人が料理番と共に台所に行くと、さまざまな食材の中に、ひときは立派なエビがあった。商人を見ると、跳ね、踊って、涙を流し、まるで助けてくれと言っているようであった。

商人の願いで、龍神はそのエビを放してやり、商人を龍の背中に乗せて日本に送り返した。

                         終わり

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2009年8月19日 (水)

飯能まで入間川の散歩

8月19日(水)

Tati0013_2

Tati0011

Tati0012 先日、仏子から狭山市まで、入間川の岸を散歩しました。今日は仏子から先、飯能までの散歩です。ちょうど12時頃家を出ました。

昼食は、途中でパンでも買って食べるつもり。昼食よりも大切なのはアルコールで、これも一緒に買うつもり。

市街図を見ながらの散歩ですが、川の土手の道なんて手持ちの地図には描いててないんだよね。川越狭山自転車道のような道があればいいのだけれど、入間市から先は土手の道は寸断され、歩けないところも多い。地図を見ながら右岸を歩いたり左岸を歩いたり、時には川から離れて一般道を歩いたりしながら、何とか飯能の加治まで行く。

仏子駅を出て中橋というのを渡り、元加治近くで上橋というのを渡る。そして最後が加治橋である。上橋付近の風景はなかなかでした。1枚目のスケッチに3本の橋がありますが、1番下の橋が上橋。そのほかのところも、それなりに、まあまあの景色です。

Tati0010

今日は、描いたスケッチを全部載せちゃった。

こんな下手なスケッチ、しょうがないんだけれど、載せたくなるのは自己愛だね。もちろんアルコールも、ちびりちびりやりながら描いているのです。

ついでに言えば加治橋から飯能駅に向かう途中に五十嵐酒造があり、寄ってみると「天覧山」という酒の製造元がそうです。さっそく1本買いました。

上橋のあったところは、大山街道(鎌倉裏街道)で、昔は船の渡しがあったのだそうです。明治45年に橋を造ったのですが、その経費捻出のために料金を取ったそうです。その額。

徒歩    1人   5厘

       但し3歳以上10歳未満は半額

牛馬    1匹   1餞

荷牛馬車 1輌    1餞5厘

人力車   1輌   1餞

御伽婢子は休みます。

 

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2009年8月18日 (火)

景気って何? ひげ長の国・2

8月18日(火)

精障者作業所Mへ。

景気が良いとか悪いとかの決め方って、私などの理解を絶する方法で決めるんですね。

江戸時代、明治時代、あるいは戦後まもなくのころまで、景気が良いというのは、庶民に金回りが良いと言うことだったと思います。経済的に庶民が楽になることを、景気が良いと言ったのではないでしょうか?

それが近ごろは違うんですよね。驚いたことに、現在は景気が上向きなんだってサ。給料は下がっている。雇用状況は悪化を続けている。暫く回復しそうもない。それでも景気は良くなっているんだって。

現在の景気という奴は、庶民とは関係のないところにあるんだね。せめて雇用状況だけでも改善されているならまだしも、それすら悪化しているんだもん。その上、働いたって、ワーキングプアーが増えている。格差は拡大し、この日本で、にっちもさっちもいかなくて自殺する人が増えている。それでも景気は回復しているんだって。一体これは何? 資本主義は袋小路に入っちゃったの?

御伽婢子・79

ひげ長の国・2

前回のあらすじ 北海道と越前を往復して商売をしていた商人とその船が、嵐で漂流し、ひげの長い人の住む島に着いた。島の国主は商人を歓待し、娘と結婚してくれと頼み、商人は快諾する。

国主は言う。

「今夜は満月だ。酒宴遊興の時だ。唄え、踊れ」

姫君が女房20人あまりを連れて出てきた。皆美しいのだけれども、女なのにひげがある。商人は1首を詠む。

   さくとても蘂なき花はあしからめ

       妹がひげあるかほのうるはし

しべのない花が咲いてもつまらない、ひげのある女の顔が美しい。国主が笑ったので、満座の者もどよめいた。姫と女房は恥ずかしげにしていた。

この夜、商人は役所の長を任命された。

3年が過ぎた。その後の商人は栄華を極め、人々の尊敬も集まり、ひげのある妻にもなじみ、1男2女を儲けた。

ある日、家中の者がこぞって嘆き悲しみ、妻も悲しみに沈んでいる。一体どうしたことだろうか。家中がひっそりとして音もない。商人が妻に理由を聞くと、

「昨日、海竜王の召しによって、私の父は竜宮に行きました。もう2度と生きて帰ってくることはないでしょう。だからみんな悲しんでいるのです」

商人はびっくりして言う。

「何とか手だてを尽くせば助かる方法があるんじゃないか。そのためには私は命がけでやるよ」

「この難儀はあなた以外に救える人はいません。お願いです。竜宮に行ったくださいな。そして、竜神に次のように言ってください。『東海の第3の海、第7の島、ひげ長の国が滅びようとしています。哀れみを持って国主を帰してください』。竜神は邪悪な者ではありません。ぜひ竜神にお願いして、この嘆きを喜びに代えてください。どうか、一刻も早く竜宮に行ってください」

商人は数人の家来と道案内を連れ、竜宮に赴いた。

竜宮のある島の砂浜は、みな金銀である。人々は体も大きく、着ている物も立派である。竜宮は聞きしにまさる立派な御殿で、玉のきざはしに進むと、龍神が迎えてくれた。

「役所の長というのはおまえか。何の用があってここへ来たのだ」

商人は、第3の海、第7の島の危機について述べ、国司の解放を願いでた。

                          続く

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2009年8月17日 (月)

雑感 ひげ長の国・1

8月17日(月)

精障者作業所Mへ。

昨日の昼、何気なくテレビを付けたら、2人乗りの自転車で旅をする番組をやっていた。そして今流行の「布ぞうり」のことを「わらじ」と言っている。テレビに登場する人物が「わらじ」と言い、ナレーターが「わらじ」という。それをテレビで流すのだから、その番組制作の関係者が、「ぞうり」と「わらじ」の区別がつかないと言うことだ。

言葉は生き物。時代によって代わっていくのだから、仕方がないんでしょう。

このところ芸能人が亡くなったり、麻薬でつかまったりと、話題が多い。最も多く取り上げられているのが酒井法子の麻薬問題。でも、私にとって一番大きな問題は、大原麗子が亡くなったこと。白馬童子(芸名は何だったっけ)もなくなったけれど、やはり大原麗子だな。ファンでした。女優が亡くなって淋しい感じがするのは、夏目雅子以来です。

いつも選挙の時期になると、某宗教団体の人が、投票を頼みに来る。これまで1度も入れたことはないけれど、「ああそうですか。はい、はい」ってなことをいっていた。しかし、もう歳なので、愛想のいい顔をするのもいやになった。今回初めて「いやです、入れません」とお断りする。

それにしても、今度の総選挙、民主党のひとり勝ちになるのだろうか。今度は政権交代をしてもらわなければ困ると思っているけれど、右でも左でも、人々が一定の方向に、わーっと流れていくのは心配だな。われわれ日本人は、集団ヒステリーにかかりやすいような気がしている。

戦争中はみんな熱狂して「鬼畜米英」などと叫び、「大和魂」という精神力で戦争に勝つと信じ、戦後はアメリカ崇拝になった。やがて今度は安保反対で熱狂し、郵政改革では何が何でも小泉だった。みんな集団ヒステリーだ。

そのうち、どこかの国を「討つべし」なんて言うんじゃないだろうね。

御伽婢子・78

ひげ長の国・1(御伽婢子第8巻)

    原作   浅井了意

    現代語訳  ぼんくらカエル

越前の国、北の庄に1人の商人が住んでいた。毎年木綿、麻布を持って松前(北海道)に渡り、昆布や干しアワビと交換して持ち帰った。

ある年、松前に向かう船が嵐に遭い、帆柱は折れて漂流を始めた。幸いにも一つの島に流れ着き、上陸することが出来た。人家はないかと思いながら岸から500メートルも歩いただろうか、多くの人が立ち働く人里を見つけた。

その人たちは、みんな髪が短くてひげが長い。どうやら日本語が通ずるようである。

「ここは何という国ですか」

「長ひげ国」

「国主は何処にいますか」

「1里ばかり先」

住民に教えられていって見ると、なるほど立派な城郭がある。商人が惣門に近づいたら、門番たちが商人に向かって丁重にお辞儀をする。そして見慣れない装束ではあるが正装した者が出てきて、商人を奥に招き入れた。

宮殿の様子は、天上から床まで、金銀をちりばめ、宝石を飾り、紫檀、黒檀、白檀などの香木をふんだんに使い、きらびやかなこと、このうえもない。

「大日本国より、珍客が来られた」

国主の知らせで、一族の者がぞくぞくと集まってきた。いずれも、背が低く、髪は短くひげが長い。幾分か腰が曲がっているように見える。

黄色の栗、紫の菱をはじめとし、山の珍味がうずたかく積まれた。まことに美味で、人間界の食べ物ではない。ただ不思議なことに、海のものがなにもない。

国主は水晶の盃に銘酒を酌み、菊の花を浮かべて商人にすすめて言う

「私には娘が1人ある。あなたはここにとどまって、婿になってくれませんか。栄華は欲しいままですよ」

「仰せに従います」

商人は国主の婿になることが嬉しくてしょうがない。盃を数杯傾けた。

                            続く

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2009年8月16日 (日)

いつものようにドジ話 雪白明神

8月16日(日)

Tati0010

彩の森公園のスケッチです。

暑い1日でした。何処にも出かけたくなかったのに、なぜ彩の森公園のスケッチがあるのか? それは私がドジだからです。

先週の木曜日だったと思うけれど、自転車で稲荷山公園駅に行き、そこから電車で仏子駅に向かいました。そして仏子から入間川の岸を、狭山市に向かって歩き出しました。狭山市駅にほど近い新富士見橋まで歩き、そのまま自転車のことは忘れて家に帰ってきました。

それを今日の午後思い出して、自転車を取りに行ってきました。帰りに彩の森公園にまわり、スケッチをしてきたというわけです。

御伽婢子・77

雪白明神

長亨元年(1487年)9月、将軍足利義輝は自ら軍を率いて佐々木六角判官高頼を攻めた。高頼は防ぎかねて、城は落ち、甲賀の山中に隠れた。

高頼の郎党に堅田又五郎という者がいた。武勇、力量人にすぐれていたが、一方では仏神を敬う人でもあった。毎朝欠かさずお経を誦んでいた。

すでに大将の高頼が城を逃れた後で、又五郎は寄せ来る敵を切り開き、安養寺山の奥に逃れた。逃れはしたけれど、その先の道は分からず、谷の傍に無人の藁屋があったので、取りあえずその中に逃れた。

追っ手は20騎ばかり、

「伊賀の方に逃げた」

と言いながら。藁屋の前を通りすぎて行く。やれやれ、無事にやり過ごしたと思って窓から外を覗くと、40歳くらいに見える女が、

「堅田又五郎さんはここに居られるか」

と声をかける。又五郎は、なにも答えず、息を殺していた。女は少し笑って、

「なにも怖れることはない。私はこの国の雪白明神の使いで、やってきたのですよ。あなたは常々神仏を敬い、道心が深いので、雪白明神が守ってくれます。まず、これを食べなさい」

と焼いた餅を出してくれた。更に酒も勧めた。人心地ついた又五郎に、女が言った。

「私はこの庭に線を引きます。誰もその線を越えることは出来ません。今晩怪しい者が来て、あなたを脅かすでしょう。でも、いたずらに騒がず、じっとしていなさい。そうすれば何事もなく終わるでしょう。それがすめば、後はなにも起きません」

女はそう言うと家のまわりの土に、棒で線を引き、帰った。

その夜、妖しげな光を放ちながら小屋に近づく者がいた。鬼である。身長は3メートルくらい、髪は赤く、白い牙は食い違い、燃える火のような角を持ち、口は耳まで裂けている。目は光を放ち、爪はかぎ爪で、豹の毛皮を腰に巻いている。

その鬼が家に入ろうとするが、どうしても女が引いた線から中には入れない。鬼は土に引かれた線を見て、大いに怒り、口からは火を吐き、足を大地に打ち付けて吼え、狂う。又五郎は身の毛がよだつようであった。

そこへ又五郎の追っ手たちが、「どうもあの小屋が怪しい」と帰ってきた。それを見て鬼は馬上の兵を掴み、むしゃむしゃと食べた。他の者は驚いて逃げ失せた。

やがて夜が明け、鬼も消え失せた。又五郎が出てみると、バラバラになった手足、馬の首、兜、刀などが散乱していた。

その後何事もなく又五郎は落ちのびたと言うことである。

                御伽婢子 第7巻 終わり

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2009年8月15日 (土)

敗戦日 菅谷九右衛門・2 

8月15日(土)

敗戦の日

今日、普通には終戦記念日と言うようです。でも私は、敗戦の日、あるいは敗戦記念日と書きます。確かに終戦記念日に違いないのですが、日本が負けて終戦になったわけです。その負けたことを曖昧にするように終戦記念日といいだしたのではないか、と私は疑っています。言葉を代えることによって「事実を直視するのを避けようとする」、そんな気がするんです。嫌なことでも何でも、事実をきちんと直視することが、人間には必要だと私は思っています。

「おまえにそれが出来ているのか」と言われたら「ごめんなさい」とでも言うしかないのですけれども、言葉のあやで直視を避けようとするのには、抵抗感があります。辛いことでも知られたくないことでも、事実は事実で、しょうがないんだナ。

例年通り、T寺の和尚さんがお経を上げに来てくれる。

その後でどこかに散歩と考えていたのだけれど、テレビで、戦争関連の特集が次から次にあり、結局、家から1歩も出ずにを1日終わる

御伽婢子・77

菅谷九右衛門・2

前回のあらすじ 伊勢の国の柘植三郎左衛門と滝川三郎兵衛は国司の悪政に愛想を尽かし、信長に内通し、国司を滅ぼし、伊勢を信長の国とした。これによって地位を得たが、伊賀の国の反乱で戦死する。1年後、信長の家来、菅谷九右衛門は思わぬところで2人に会う。死んだはずなのにと不審に思って声をかけ、道ばたにござを敷き3人で酒盛りを始める。

酔いが回ったところで、滝川が言う。

「人間は貧しいときは豊かになることを願い、地位が低いときは高くなることを望む。しかし、富貴になると必ず危ない目に遭う。そうかと言って元の地位に帰ろうとしても、なかなか思うにはまかせない。富貴のまま天国に行くなどは、ちょっとやそっとで出来るものではない。後の世に名前を伝えられるほどの手柄のある者ならばともかく、大概は恥を残すことになる。織田家だけを考えてみたって、織田掃部はたいそう勲功のある者なのに、誅せられた。佐久間右衛門は信長公草業の時からの忠臣なのに、追放されて恥にあった。ましてわれらごとき途中からの家来では、その先は知れたものではない」

さらに滝川は言葉を継ぐ。

「下間筑後守(シモヅマチクゴノカミ)は越前の朝倉に味方をしたけれども、朝倉が敗れてからは、平泉寺に隠れて跡をくらまし、仏法に帰依して道人になった。こんな歌を作っている。

    梓弓ひくとはなしにのがれずば

        今宵の月をいかでまちみむ

戦に明け暮れていたら月の出を待つようなことは出来なかったと、名を捨て道を究めた。荒木摂津守の家来、小寺官兵衛は主君の乱心を諫めきれずに、髪を落として僧になった。こんな詩を残している。

    四十年来謀戦功

    鉄冑着尽折良弓

    緇衣編衫靡人識

    独誦妙経殉梵風

(ヨンジュウネンライセンコウヲハカリ、テッチュウヲツクシテリョウキュウヲオル、シエヘンサントナビキヒトノシルコトナシ、ヒトリアキラメテミョウキョウヲヨミボンフウニシタガウ)

戦を捨てて仏法に従ったこれら2人、逆心の君に仕えながらもよく災いを逃れた。思慮の深いではないか」

柘植は笑っていった。

「伊賀の反乱などは、大した事件ではなかった。そんな例を挙げては、われわれの方が恥ずかしい」

滝川が答える。

「いや、今はそれを言うときではない。とにかく呑みましょうや」

更に3人は盃を重ねた。菅谷は2人に向かって、「今の気持ちを歌にしてくれ」頼んだ。と

柘植の歌。

    霜露ときえての後はそれかとも

       くさ場より他しる人もなし

滝川三郎兵衛の歌。

    うずもれぬ名は有明の月影に

       身はくちながらとふ人もなし

いずれも死んでからは思い出してもくれない、と嘆く歌である。

やがて酒がつきたので、2人は別れを告げた。50メートルくらい歩いただろうか、二人の姿は、跡形もなく消え失せた。そこでやっと、菅谷は二人が討ち死にした者であることを思い出した。菅谷は帰宅してから、僧を招いて、2人の霊を懇ろに弔ったということだ。

                        終わり

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2009年8月14日 (金)

私も夏休みです 菅谷九右衛門

8月14日(金)

私は仕事をしていないわけですから、毎日が日曜日みたいなものです。それでも、ボランティアをしたり、趣味の会へ行ったりで、何かしらやることがあります。ところが今週はそれらもなくて、私も夏休みです。

昨日、お墓参り。明日、お坊さんがお経を上げに我が家に来ます。それだけが用事で、後は家事くらいのものです。

Tati0009

毎度おなじみの入間川のスケッチです。

少し暑かったのですが、西武電車で仏子駅まで行き、そこからなるべく入間川沿いに歩くようにして、狭山川越自転車道まで、何とか繋いでみました。残念ながら川の土手ばかりで歩き通すというわけにはいかないようです。

御伽婢子・75

菅谷九右衛門

天正年中(1573-1592年)のことである。

伊勢の国の国司は具教(トモノリ)公でその御所を武井の御所と言った。国司の甥は民部少輔具時(トモトキ)と言い、南伊勢の木作りと云うところに住んでいた。

具時の郎党に、柘植三郎左衛門および滝川三郎兵衛という者がいた。二人とも、武勇、知謀にすぐれていた。

国司具教、甥の具時共におごりがあり、百姓を苦しめ、おべんちゃら言うものを可愛がり、国の行く末も危なく思われた。そこで二人は、信長に内通し、国司を滅ぼし、信長に認められて、高い地位を得た。

隣国伊賀に反乱が起こり、武井の残党や近郷のあぶれものなどが集まり、要害に立てこもった。信長はこれを討とうとしたが、敵もなかなか強くて、柘植と滝川は討たれてしまった。その後、反乱者と信長の和議が成立し、伊賀は信長のものとなった。

それから1年ほどたったとき、信長の家来、菅谷九右衛門が所用で山田郡に行ったとき、柘植、滝川の2人にばったりと出会った。2人は死んだはずなのに、夢でも見ているのかと声をかけた。

「柘植さんと滝川さんではありませんか?」

「やあ菅谷さん。こんなところで会いましたか。久しぶりですねえ。酒でも飲みましょうや」

柘植はそう言うと、小僧に小袖を持たせて、酒を買ってこさせた(つまり、物々交換です・ぼんくらカエル註)。3人は酒屋に借りたむしろを道ばたの草の上に敷き、酒盛りを始めた。

                             続く

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2009年8月13日 (木)

早朝散歩 墓参 死んでからも愛し合う・3

8月13日(木)

早朝散歩

朝5時過ぎ、ゴミ出しをした。空気は爽やかで、急に散歩を思い立った。

5時45分、半袖、半ズボンで家を出る。目的地は智光山公園。家の横の道をまっすぐ進むと、智光山公園の裏に出る。いつもの散歩コースである。

西武線を横切り、国道16号を横切り、入間川の橋を渡る。ここで気が変わって、入間川沿いに歩くことにした。但し朝食前に帰るのだから、遠くまでは行けない。Tati0009   

散歩コースの変更には、別段理由はない。気分の問題です。

遠くの空で陰のような者がふわっと動いたような気がしたがすぐに消えた。こんな時私は、アル中で幻覚が見えたるようになってしまったのかと、一瞬心配になる。しかし事実は、多数の鳥が空を旋回しているだけでした。こちらの目が悪くなっているせいもあるのでしょうが、角度によって鳥の集団が、見えたり消えたりするのです。

鳥と言えば、入間川の流れの中の石の上に、羽根を広げて動かない鳥がいました。誰かが模型でも置いたのかと思いましたが、じっと見ていると、たまに首を動かしたり、体の向きを少し変えたりします。どうやら風の方向に向かって羽を広げているようです。羽根を広げるのは飛び立つときだと思っていたのですが、違う場合もあるのですね。

それにしても、この鳥は何でしょうか。クロサギにしては、首や足が短いと思いました。家に帰ってから図鑑で調べてみると、カワウという鳥が、羽根を乾かすためにこんな格好をするんだそうです。この鳥を見たのが、今朝の早朝散歩の第1の収穫かな。

7時10分帰宅。1時間25分の散歩でした。

墓参

お彼岸の墓参。わが家の墓は高尾なので半日はかかります。他の季節だと、墓参の後、高尾山に昇ってみたり、なんやかやその辺の散歩をしたりするのですが、何しろ暑いので散歩はカット。

代わりに国分寺で「殿ヶ谷戸公園」に寄りました。駅からすぐで、湧水池と樹木が多いのがよい。

Tati0011

 

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御伽婢子・74

死んでからも愛し合う・3

前回までのあらすじ 奈良の桜田源吾は猿沢の池で見かけた娘に恋をし、相思相愛になった。源吾の伯父はその娘を息子彦八の嫁にと、仲人を立てて申込み、親の承諾を得た。源吾と娘は駆け落ちしたが、役所の裁定で、娘は彦八の嫁となる。落胆のあまり娘は死んでしまうが、源吾はそれを知らず、もう娘は俺のことなど忘れただろうと嘆いている。

ある日の夕方、源吾の家の戸を叩く者がある。開けてみると、娘とその乳母である。娘の姿は、昔と少しも変わらない。娘は言う。

「彦八さんの家にいても、あなたのことばかり思い出されて、辛くてしょうがなかったの。だから逃げてきました。またこの家に置いてくださいね」

源吾は嬉しくて嬉しくて、娘と手を取り合って泣いた。

暫くして、彦八の家の者が郡山に来たとき、源吾の家の前で、乳母を見かけた。それを彦八に告げたが、にわかには信じがたい。乳母も娘と前後して死んだのに、源吾の家にいるはずがない。半信半疑で源吾の家を覗いてみたら、確かに、かっての妻とその乳母がいる。

彦八は家に入り、源吾にいった。

「妻と乳母はとうに死んで、墓の中にいる。それがここにいるとは怪しいことだ」

彦八はなにを言うのだと思って、源吾が部屋の方を見ると、妻と乳母は、跡形もなく消えていた。

それまで一緒に暮らしていたのは、幽霊だったのである。

その後、源吾と彦八は高野山に籠もり、再び山を出ることはなかった。

                       終わり

ぼんくらカエルの一言

テレビで言っていたが、どこかでアンケート音ったら、幽霊を信じる人の方が、信じない人より多いんですってね。ほんとかなあ。幽霊を信じるなんて、1割にも満たない少数派だと思っていたのに。

私は御伽婢子の現代語訳をやっていても、お話として書いているだけで、全く信じません。見たら信じますけどね。それでも、幻覚と思うかもしれません。                                          

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2009年8月12日 (水)

盗むこと 死んでからも愛し合う・2

8月12日(水)

盗むと言っても、泥棒のことではありません。

昔、職人の技術は盗むのが基本でした。芸人の世界でも同じだったでしょう。

昔、親がその子を職人にしようと思えば、10代のうちに親方のもとに送り込みました。その子は見習いとして、使い走りをしたり、子守をしたり、さまざまな雑用をしながら、親方や兄弟子たちの仕事ぶりを見ました。まだ仕事を与えられなくても、見習いは内心の欲求によって、頭の中で親方や兄弟子たちと、一緒に仕事をしているのです。ですから見習いが、始めて単純な仕事を任されたとき、すでに素人ではないのです。

近ごろは、住み込みで雑用をしながら仕事を覚えるなどと言うことは無くなりました。職種によっては、学校で教えるなどというのも多くなりました。良いか悪いか分からないけれど、時代による変化ですね。

特殊な技術になると、父子相伝とか一子相伝、などと言うこともありました。他の弟子には教えず、自分の子供だけに教えるのが父子相伝。さらには、子供のうちのひとりにしか教えないというのが一子相伝。

そうして家業を守ったりしたんですね。今そんなことをしたら、技術自体が滅びます。一子相伝の技術などは、それこそ盗まなければならなかったわけですけどね。

御伽婢子・73

死んでからも愛し合う・2

前回のあらすじ 奈良の桜田源吾は、猿沢の池で見かけた娘を見初め、娘の方でも源吾を好きになった。伯父の津田長兵衛はその同じ娘をわが子彦八の嫁にしたいと考えた。仲人を立て、正式に申込、娘の親もそれを受け入れた。しかし娘が病気になったことから源吾のことを知り、娘のために2人を駆け落ちさせる。

さて、仲人が縁談を進めようとすると、、母は、娘が乳母と共に誰かにさらわれたという。その話を聞いて津田は、源吾が娘に懸想していたことに気づいていたので、さては源吾だなと思った。

そうこうしているうちに、娘の母は病でなくなった。その弟が後を取り仕切ったが、源吾夫婦も陰ながら野辺の送りに出た。それを見つけた津田が二人の後をついて行き、郡山に棲んででいることを見届ける。

津田は奈良の役所に訴えて、源吾と対決した。津田の方が正式な仲人を立てているので、源吾に勝ち味はなかった。娘は彦八の妻にされてしまった。

娘と乳母は深く悲しみ、病気になり、2人とも間もなく死んでしまった。彦八も大いに悲しみ、2人の墓を同じ寺に作り、懇ろに弔った。

そんなことを知らない源吾は、今頃娘は、私のことも忘れて、彦八と仲良くやっているだろうと考え、ひたすらに恨めしかった。

    なびくかと見えしもしほの煙だに

         今はあとなき浦かぜぞふく

私に靡くと見えた塩焼きの煙は跡形もなく消えて、今は風が吹くばかり、などと嘆いていた。

                           続く   

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2009年8月11日 (火)

無駄は無駄ではない 死んでからも愛し合う・1

8月11日(火)

いつも書くことだけれど、私は、やらなければならないことはやりたくないし、やらなくても良いことはやりたくなる。小学生のころからそんな性格でした。勉強は嫌いではなかったと思いたいのですが、学校の勉強はしたくありませんでした。

いつかも書いたと思うけれど、中学3年の夏休み、岩波文庫の「哲学史」上下2巻を買ってきて、ノートをとりながら読みました。今読んだって分かりっこないものを、当時の私に分かるはずがないのです。そんなことをしたって、別段学校の成績が上がるわけではないし、無駄と言えば無駄なんです。

でも、「哲学史」を読んだことは、その後なにかと役に立つことがありました。読んだことが財産になったんです。たとえば読んでいる本の中で、「スコラ哲学」なんて言葉が出てきても、ははあ、なんて思うわけです。「弁証法」なんて言葉を見ると、ソクラテスやヘーゲルやマルクスを思うわけです。どの弁証法だ、なんてね。

なーに、今だって分かりゃあしないよ。感じるわけだ、なんとなく。

と、まあ、大層なことを書いたけれど、何のことはない、今日は掃除をしたのです。家事の中で、一番したくないのは掃除で、1日のばしにしていて、埃が目立ってきて、どうにもならなくなって掃除をするのです。

そして、やらなければならないことはやりたくなくて、やらなくても良いことはやりたがる自分の性格を、再確認したわけです。

掃除は、やらなければならないことでした。やらなくても良いこととは、たとえば今日これから書く「御伽婢子」の現代語訳です。こんなもの誰に頼まれたわけでもないし、誤訳、珍訳何でもありの現代語訳なんて、わざわざ下調べまでしてやるなんて、時間も労力も、無駄のようなものです。

まあ、しかし、ここで私は居直るのです。人生は、無駄も含めて人生である。無駄のない人生なんて、山葵の効かない刺身みたいなものだ。どんな無駄をしているかと言うことで、その人の人間性が分かる場合だってある。それに、大きな意味で言えば、無駄というのは、本当は無駄ではないのだ。なんてね。

御伽婢子・72

死んでからも愛し合う・1

奈良に桜田源吾という者がいた。25歳になるが独身で、父母は既に亡く、独りで住んでいた。源吾には津田長兵衛という伯父がいて、伯父もまた源吾と同じ歳の子供を持っていた。彦八である。源吾と彦八は仲がよかった。

あるとき、源吾は東大寺に詣で、帰りに猿沢の池にさしかかった。見ると美しい籠が池の縁に泊めてあり、中から白い手を伸ばし、幾分赤みを帯びた指で鯉に餌をやっている。

源吾が立ち止まると、女は乗り物の戸を開いて源吾を見た。なかなかの美人である。やがて女はお付きの者に籠を担がせて立ち去った。源吾はそれとなく後を附いていくと、3条通りの筒井という者の家に入った。

源吾は娘のことが気になって、いろいろと手ずるを求め、その様子を調べると、幸いなことに、娘の乳母は源吾の知っている人だった。娘の父は河内の戦で討ち死にし、母ひとり、子ひとりであるという。

源吾は乳母に、二人の仲を取り持ってくれるように頼んだ。源吾は美男子であるし、金持ちでもある。それを知っている乳母は、快く引き受けてくれた。

源吾は、

   いさり火のほのみてしより衣手に

         磯辺のなみのよせぬ日ぞなき

「一目見てから忘れられません」といった意味の歌を書いて、乳母に持たせた。娘はその書き付けを乳母から受け取ると、顔を赤らめて、袂に入れた。

ところで、その娘のことを、伯父の津田長兵衛が聞き知り、彦八の嫁にしたいと、正式に仲人を立てて申し込んだ。津田も武門の末で、立派な人なので、娘の母は、彦八と結婚させることとした。

娘は鬱々として楽しまず、乳母には、

「源吾さんのところに行きたいわ。それが出来ないなら死んだ方がまし」

と言ったきり食事もとらず、薬も飲まない。乳母に聞いて、始めて事情を知った母は、何とか娘を助けたいと考えた。そこで乳母と心を合わせ、源吾と娘を駆け落ちさせることに決めた。

源吾は大いに喜び、娘と乳母を連れて、郡山と言うところに隠れ住んだ。

         

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2009年8月10日 (月)

日記について 

8月10日(月)

私はいつ頃から日記を書き出したのだろうか。

小学校のころ、夏休みの日記を提出させられた。休みの終わりごろになって、慌てて夏休み中の日記を書いたものだ。先生は、私たちがそのようなずるをすることを承知しているから、日付の次には天気も書くように指示していた。夏の間はおおよそ晴れだが(今年は違うね)時々雨の日もあるわけで、そんなの、覚えてはいない。気象台に聞くなんて知恵もないし、だいたい大抵の家には電話も無い時代だ。適当に雨や曇りの日をちりばめて提出したが、どのみち先生にはバレバレだ。

自分の意志で書いた日記はいつ頃からか。

はっきりした記憶はないが、10代から始めていたことは確かだ。但し、三日坊主とと言うのを何年もくり返すわけだ。別に元旦から書き始めるわけではない。思い立ったときから始めて、すぐに終わるというものだ。

大学ノートに自由日記を書き出したのはいつだったか。書きたいときに書くという形式で、これは暫く続いたような気がするが、今は調べようがない。

とにかく、時々日記を書き始めて止めるということを長年やってきた。ただ、書くのは書くのだけれど、書いた日記帳をとっておこうという気持ちが全くなかった。書きっぱなしである。良いのか悪いのか知らないが、記憶に残ることは残ればいいし、残らないものは消えてもしょうがない、と言う気持ちが私にはある。だから日記帳なども、とっておこうという気がなかった。

本当は、私のやることなんて、私にしか興味がないのです。そんなことにしがみついたって、どうせ死ぬのです。そう言う虚無的な気持ちは、若いときからありました。だから、たとえば私は記念写真というものに冷淡です。付き合いで写真を撮ったりするけれど、何処で撮った写真だろうと、どこかのお偉いさんと撮った写真だろうと、どうでもいいんです。水彩画の趣味がありますから、その参考になる写真ならば興味がありますが、記念の方はどうでもいいんです。写真に脱線してしまったのでついでに言いますが、絵を描くとき写真の通り描くというのは、私はしたくありません。あくまでも参考です。

今手許には1997年2月2日からの日記帳があります。この日からは、ほぼ毎日書いています。3年連続の日記帳で3冊ばかり残っています。ずっと書き続けていて、途中妻の死があって、同じ日記帳で書き続ける気がしなくなりました。何日か休んで、その後はパソコンに日記を書きました。

このころパソコンに書いた日記は、どうなったか分かりません。パソコンも買い換えたし、、たしかフロッピーデスクに移し替えたような気がするけれど、現在のパソコンはフロッピーデスクが使えません。まあ、どうでもいいけれどね。

とにかく、非公開の日記をパソコンに書いていたわけです。そして、日記とは別に、このブログ「蛙のたわごと」を始めました。しばらくして、「蛙のたわごと」に「ぼんくら日記」をのせるようになり、今日に至りました。

なぜ公開したかとか、公開して書く場合と非公開の場合の書き方の違いなどについては、これまでブログに書いたことがあると思います。あらためて書いても良いのですが、もう、長くなりすぎました。

御伽婢子は休みます。

江戸時代には、肉体関係を持たない愛というのはなかったんでしょうか。御伽婢子では、簡単に契っちゃうんですね。現代語訳をやりながらの、平凡な感想です。

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2009年8月 9日 (日)

横瀬町散歩とカタカナ語 霊魂と契る・3

8月9日(日)

Tati0009

秩父の横瀬町の散歩。散歩と言っても、たいして歩いたわけではなくて、ウオーター・パークでスケッチをして、武甲の湯に入って帰ってきただけ。それにしても、「水遊び公園」とか「親水公園」とでもすればいいのに、「ウオーター・パーク」なんて名前を付けるのは、どういう神経なのかねえ。

何の意味もなく、カタカナを言いたくなるのが、時代の雰囲気なのですね。白状しますが上の段で「なんて名前を付ける」と書いたとき、私の頭には、「ネーミング」という言葉が最初に浮かびました。私もカタカナ語に毒されていると、時々思います。

漢字は日本語を豊かにしました。大和言葉だけではわれわれは自分の考えや経験を表現できないでしょう。理論的な文章も書けないでしょう。

カタカナ語は、日本語を豊かにしていると言えるのだろうか。学術論文などでは、どうしてもカタカナ語が必要なこともあるのでしょう。しかしそれだって、日本人相手に書く場合には、何とかして日本語に訳す努力をすべきではないかと私は思います。

今の人は、カタカナで表現する方が格好良いと思っているんだよね。戦前の人が、庶民には分からないような難しい言葉や漢字を使うことが、格好良いと思ったようにね。

文章でも講演でも、わかりやすさより、なんだかよく分からないけれどもなんとなく良さそうだ、と感じさせるのが良いんだね。受け取るわれわれの方も、理解して動くよりは、なんとなく、感じで動くことの方が多いからね。

スケッチは、ウオーターパーク。

御伽婢子・71

霊魂と契る・3

前回までのあらすじ 小山田記内は家の前を通る美人と懇ろになる。やがて女が記内の家に来て忍び会う仲になった。半年ばかりする内に、女は昼間も公然と記内の家にいるようになった。

ある夜、いつものように女は来たが、どうにも浮かない顔をして、涙ぐんだりしている。

「どうしたの?」

記内が聞けば、

「もう、別れなければならなくなりました」

と答える。

「何だって! いついつまでも心変わりしないと誓った仲なのに、なんでそんなことを言うんだ」

「今はもう隠しておけません。本当のことを言います。実は私、3年前、17歳で死んでいるの。霊魂がこの世に残っていられるのは、3年間に限るの。明日はその3年目。もう会えないわ」

と泣き伏した。記内は相手が幽霊だったと知っても、何の恐ろしさも感じず、ただ別れの悲しさのみがつのる。

女は白銀の盃を形見として渡し、

    面影のかわはらぬ月に思ひでよ

        契りは雲のよそになるとも

二人が愛し合ったことは雲の彼方になってしまっても、月を見たら思いだしてね、と詠えば、記内はかたみに小袖を与えて、

    待ちいづる月の夜な夜な其のままに

       ちぎり絶やすなわがのちの世に

月が決まって出てくるように、私のことも忘れないでくれよと、泣き明かした。

記内が女の墓のありかを聞くと、甚目寺と答えて、女はかき消えた。

後日、記内は甚目寺へ行ってみたが、それらしい墓はついに分からなかった。

    たのめこしその塚野辺は夏ふかし

        いづこなるらむもずのくさぐさ

当てにしてきたのに夏草はぼうぼうとして、何処が墓なのかさっぱり分からない。記内は泣く泣く家に帰った。それからは、女のことばかり思って、病に伏し、薬も食事もとらず、ただ女のところに行きたいと言うのみだったが、間もなく亡くなった。

                           終わり  

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2009年8月 8日 (土)

ベランダの野菜 霊魂と契る・2

8月8日(土)

ベランダに、ナス、キュウリ、ピーマンの苗をそれぞれ1本ずつ植えたが、その内のナスとキュウリの苗を、切りました。

植えた時期が遅かったせいもあるのかどうか、茄子の出来は最低で、実が3個成っただけです。キュウリは茄子よりましとは言うものの、収穫は5個くらいかな。ピーマンだけはまだ成り続けている。この先も10個以上は穫れそうです。

先月末プランターに分葱を植えましたが、芽が出てきました。ニラや葱は、1度植えたらいつまででも収穫できます。根を引き抜かず、地上部だけをハサミで切って収穫すれば、そこからまた伸びてきます。何回もそれを続けると、葉が細くなってきますが、根分けして植え直せば、また元のようになります。その意味では、ベランダ向きの野菜かも知れません。

パセリなどは、1株植えて、時々必要分だけ枝を欠いて収穫していれば、1年じゅう収穫できます。琴屋時代に30坪ほど農園を借りて野菜作りをしていたので、多少の知識があります。紫蘇なども楽に出来そうな気がします。これからは、そんな野菜を作ってみようかと思います。

御伽婢子・70

霊魂と契る・2

前回のあらすじ尾州の人、小山田記内はなかなかのイケメン。家の前を通る美人を家に連れ込んで、わりない仲になった。明け方に女は帰る。

4・5日して、また女がやってきた。今度ははじめからうち解けている。そんなことを続けている内、女は毎晩通ってくるようになった。

「こんなに深い仲になったのだから、今度は私があなたの家に行きましょう、家を教えてください」

と記内が言えば、

「私の家は貧しくて狭の。兄の家なのよ。でも、その兄は亡くなり、今は兄嫁がやもめ暮らしなの。そんなところに来てもらえないわ」

と答える。なるほどと記内は思い、二人の関係はそのまま続いた。

この女は針仕事が上手で、記内の身につける物をよく作ってくれた。記内はまわりの者に、衣類を褒められるようになった。女は可愛らしい少女を連れてくるようになったが、この少女も、針仕事が得意だった。

半年ばかり過ぎると、女は家に帰らず、昼も居続けるようになった。

「夜来るのさえ人目を忍ぶ中なのに、昼も帰らないのでは、兄嫁が変に思うんじゃないかなあ」

と記内が言えば、女は、

「そんなに人の家のことを気にしないで。あなただって心変わりするかも知れないし、先のことは分からないわ。私はあなたを愛しているから、こうやって通ってくるのよ」

と言う。記内は嬉しくてしょうがない。

                         続く

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2009年8月 7日 (金)

今日の失敗 霊魂と契る

8月7日(金)

水彩画の会。

今日、重大な失敗を二つしました。そのうちの一つを書きます。

朝、天気がよかったので、ベランダの植物に水をやり、布団を干しました。

午後は水彩画の会。帰りは雨が降り出しましたが、Yさんの車で送ってもらったので、私は濡れずに済みました。代わりに濡れたのが、ベランダの布団です。干したときには、昼には取り込まなければと思っていたのに、忘れたんです。

飯能市では1時間に百何十ミリとかの雨で、記録的だったとニュースで言っていました。我が狭山市は飯能の隣です。一時は本当に激しく降りました。おかげで布団はびしょ濡れ。

びしょ濡れになった布団は、それでお釈迦と思われがちですが、天気の良い日に数時間干すと、完全に乾きます。なぜ知っているかと言えば、過去にも布団をびしょ濡れにしたことがあるからです。

ドジのトホホ人間は、ドジをしても慌てないのです。でも、やっぱりトホホ。

御伽婢子・69

霊魂と契る・1

尾州清洲と言うところに、小山田記内という者が住んでいた。

ある夕方、門に立ってぼんやりと外を見ていたら、17.8歳のイケメンの女が西から東の方に歩いて行く。次の日もまた、その女が西から東に通っていった。

記内も、いささか評判のイケメンである。女は記内をチラと見て、ポット顔を赤くして通りすぎた。

次の日も、その次の日も、記内は門に立ち、女は通りすぎた。4.5日たって、記内は意を決して女に近づき、手を握ってみたら、女も軽く握り返した。

「あなたは毎晩ここを通りますが、何処にお住まいですか? そして、何処へ行かれるのですか?」

「私に家は西の方にあります。用事があって、東の村に参ります」

記内は「うちへ寄っていきませんか」などと言って誘ってみたら、女は「嫌」とも言わず着いてくる。二人は、その夜の内に出来てしまった。

明け方、女が帰るとき、

「今度は、いつ来てくれるのですか?」

「人目を忍ぶ身です、決まった日に必ず来るとは言えません」

   なほざりに契りおきてや中なかに

         人の心のまことをも見む

と歌を詠んだ。記内は、歌までもと思っていなかったので、ますます心を惹かれ、その返歌。

   言いひそめて心かはらば中なかに

         契らぬさきぞ恋いしかるべし

                          続く

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2009年8月 6日 (木)

平凡だけれど 飛び加藤

8月6日(木)

広島原爆忌。誰でも日記に書いているだろうから、私は書かないのが良いのかも知れない。でもやはり、忘れてはならない日。

戦争は絶対悪。核兵器は廃絶すべきもの。庶民の多くは、そう思っているのではないか。頭の良いひねくれ者が、核兵器の戦争抑止力なんて言っているうちは駄目。知性を持っているなどとうぬぼれている人類が、いかに地球の生命を脅かしているか。人類が核兵器を廃絶できなければ、核兵器が人類を殺すだろう。

核兵器と公害が、人類を滅ぼしかねない2大要素。

平凡だけれど、私の意思表示をするとしたら、このように言うしかない。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・68

飛び加藤

越後の上杉謙信のところに、常陸の国から忍者がやってきた。もっとも得意とするのは手品である。たとえば、広場に曳きだした牛を、この忍者はのみこんで見せた。見物人が驚いていると、松の木に登って見ていた者が言った。

「牛なんか呑んでいない。牛の背中に乗ってるだけだ」

忍者は腹を立て、その場に夕顔の種を蒔いた。その種はまたたく間に芽を出し、蔓を伸ばし、花が咲き、実が成る。忍者は刀を抜いて、夕顔の蔕(ヘタ)を切り落とした。すると、松の木に昇っていた男の首が落ち、見物人は眉をひそめた。

謙信はその忍者を呼び、なにが出来るかを尋ねた。忍者は「飛び加藤」と名乗り、「忍術の奥義を究めた」という。

謙信は言った。

「ならば、今夜直江山城守の屋敷に忍び込んで、奥に立てかけている長刀をとってきてみろ」

山城守は四方八方に隙間無く見張りを置き、イノシシにも向かっていく犬を門の中に放って、用心していた。

飛び加藤は持っていった餅で犬を毒殺し、誰にも気づかれず長刀を盗んだばかりでなく、召使いの11歳になる女の子まで眠らせて、背負って帰ってきた。

謙信は、敵を攻めるときは重宝だけれども、内通されたらやっかいなことになる。信用できる男ではないと感じて、直江山城守に殺させようとした。飛び加藤はそれを察して、逃げてしまった。

その後、甲府の武田信玄のところへ行って奉公したが、素性が悪くて、打ち殺されたと言うことだ。

                         終わり

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2009年8月 5日 (水)

俳人にとっての季節 あの世で官職に就く・3

8月5日(水)

夏とは言っても、からっと晴れることはなく、梅雨を引きずっているようなじめじめした日が続いている。

こんな中で、明日は立秋。暦の上では明日から秋。だから俳句を作る人達にとっては、明日から秋と言うことらしい。信じられないよね。

私は高齢になってから俳句を始めたので、どうしても俳句を外から見たがる。変だと思うところはいろいろあるけれど、その最たるものは、もっとも暑い盛りを秋と言うことだ。

明日から秋だなんて言うのは、一般の感覚から大きく離れていると思う。暑いから夏、寒いから冬、と単純に考えてはいけないんだってサ。暑さの中で秋を探る、それが季節に敏感な俳人のあるべき姿だそうだ。

デモね、暦通りに四季を分ける俳人の考え方も、硬直しているように思うよ。それで無理やり、秋を探ったりするわけだ。温暖化がもっと進んでも、俳人たちは立秋が過ぎたら、大汗をかきながら秋を探るんでしょうね。たとえば朝晩のちょっとした風とかにね。時には熱中症で倒れたりしながら秋を探るんです。それが季節に敏感な俳人のあるべき姿らしいです。変だねえ。

御伽婢子・67

あの世で官職に就く・3

前回までのあらすじ 芦沼次郎右衛門は廉直な代官だったが、死んでからはあの世で官職に就いた。その甥庄八が代官職をついだが、悪代官だった。天帝は庄八を討ち果たそうとしたが、芦沼の願いで思いとどまり、庄八の髪を剃って坊主にした。信心もなしに、にわか坊主になった庄八は、命乞いをしてくれた芦沼の恩も忘れ、墓参りもしない。空念仏を唱える庄八のもとに芦沼が現れて説教をする。

芦沼の説教に庄八は返す言葉もない。芦沼はあの世で「修文郎」という役職に就いている。この世で不義不全を行ったものを調べる役割だらしい。

「だからあの世に庄八が来ても、贔屓するわけにはいかない。今のままなら地獄へ送るしかない」

と言う。その他、あの世の様子などを語り、道心堅固にして不全を行ってはならないこと、地獄に堕ちるな、と説教して姿を消した。

これにより庄八は目を覚まし、心を込めて念仏を唱え、極楽往生を遂げたという。

(最後はだいぶ端折りました)

                         終わり

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2009年8月 4日 (火)

入間川のスケッチ あの世で官職に就く・2 

8月4日(火)

Tati0009

Tati0010

精障者授産施設リバーサイドへ。ここへ来たあとは、入間川河川敷を散歩して帰るのが楽しみ。先月に続き、今日も川上に向かって歩きました。

途中、何度か買ったことのある酒屋でビールを買おうとしたら、今日は休みでした。それから見る景色は何処もいまいちで、スケッチする気にもなりません。仏子の近くまで行ったらスーパーがあって、ビールを買うことが出来ました。二つのスケッチは、ビールを飲みながらのスケッチです。

「酒無くてなんで己が桜かな」の心境。

藤村に「千曲川のスケッチ」という作品があります。「入間川のスケッチ」と響きは似ていますが、中味は・・・まあいいでしょう。私は私なのだから。

御伽婢子・66

あの世で官職に就く・2

前回のあらすじ 芦沼次郎右衛門はさほど学問があったわけではないが、正直一筋に代官を務めた。芦沼が病死すると、その甥庄八が代官になった。庄八は欲深く、民百姓を苦しめた。ある夜、昭八の夢の中に10数人の手勢を連れた大将が現れ、庄八の首を取ろうとする。そこへ芦沼が現れて命乞いをし、大将は許して、代わりに庄八の頭を剃る。目が覚めて頭に手をやると、髪はきれいに剃られていた。庄八は心ならずも坊主になり、光明寺に籠もって念仏を唱える。

庄八が念仏を唱えているところに芦沼が現れた。

「おまえは仏教に帰依したのに、まだ私の墓にも参っていない。明日必ず参りなさい。おまえは欲が深く、民百姓を苦しめたので、天帝はおまえの首を討ち、地獄に落とそうとした。それを私が助けてやったのに、その恩を忘れ、墓参りもしないとは何事か」

庄八は一言もなく、ただうなだれるばかり。ややあって、庄八は聞いた。

「あなたはあの世の役人のように見える。どんなことをしているのですか?」

「この世で1芸1徳のあったもの、正直で慈悲深かったものは、死んでからそれぞれの役職に就く。たとえ優れた能力があっても、、心の邪なものは地獄に堕ちる。また、仏を信じても、自分の流派だけが正しいと考え、他をそしるものも同じである。

私はあの世で、修文郎と言う官職にある。人間の善悪を記録する係だ」

                          続く

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2009年8月 3日 (月)

古橋選手、橋詰選手 あの世で官職に就く・1 

8月3日(月)

気がつくと、今日は母の命日でした。死後55年もたつのに、母のことは、いまだに思い出します。母は永遠に母です。

私は、とうの昔に、父の年齢を超えました。母に至っては、倍以上の年月を生きています。それでも、いまだに親は親ですね。

水泳の古橋選手がなくなった。私たちにとっては、戦後すぐの英雄でした。水泳の記録なんて、ほかにはなにも知らないのに、1500メートルで出した古橋選手の驚異的(当時としては)世界記録18分19秒0というのを、いまだにそらんじています。

古橋選手の出場する水泳大会の実況放送やら録音放送やらを、ラジオのかじりつくようにして聞いたものです。

その古橋と、いつも争って、いつも2位になる選手がいて、橋詰選手と言いました。仮に橋詰選手と書きましたが、「橋詰」なのか「橋爪」なのか、それとも他の字なのか分かりませんが、あの「はしづめ選手は」今どうしているのでしょうか。お元気なのか、亡くなられたのか、陰の英雄についても知りたいと思います。

精障者作業所Mへ。

御伽婢子・65

あの世で官職に就く・1

芦沼次郎右衛門重辰(アシヌマジロウエモンシゲトキ)は、鎌倉の管領が上杉憲政のときに、神奈川県藤沢の代官をしていた。

芦沼は、無欲で公正で、身辺はいつも潔白だった。妻子はなく、まして妾などもなかった。

さほど学問があるわけではなかったし、後世のためにどうこうしようなどと考えてもいなかった。ただ、生まれつき正直で、百姓を憐れみ、自分だけよい思いをしようなどとは、少しも思っていなかった。

その芦沼が亡くなって、甥の三保庄八があとを継いだ。庄八は芹沼とは反対に、百姓を虐げ、自分の利益になることばかりを考えていた。

ある夜、庄八の夢の中に、大将が現れ、「庄八は人の世の道に外れている。よって、このものの首をはねよ」と手勢のものにいう。そこへおじの芦沼がやってきて、大将にむかっていった。「庄八の罪は重いけれども、もう一度立ち直る機会を与えてください。そのため、この者の髪を刷らせます」

「おまえの甥ならば、今は許してやろう。けれどもこれから心を入れ替えるのでなければ、また来ることになる。私の目の前で頭を剃れ」

大将は少し笑ってそう言った。そして、自らカミソリを持ち、庄八の頭を剃った。

庄八が夢から覚めて頭に手をやってみると、丸坊主になっていた。気持ちはまるで道心とは遠いのに、形ばかりは修行者で、光明寺に入って念仏を唱えるようになった。

                        続く 

   

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棒道 絵馬のねたみ

Imgp1750 8月2日(日)

山梨県に棒道というものがある。長野県との堺を通っている。

武田家(信玄、晴信)が軍事用に作ったのだと言われている。元は3本あったのだそうだけれども、今は上道1本だけが残されているのだそうだ。

随分昔、この道を通ったことがある。残雪のころだった。水彩画をはじめたとき、その時撮った写真から絵を描いた。

Imgp1750

その頃から、絵の腕が少しも進歩していないのは困ったものだ。

私は山に登るのも好きだが、別段高いところに登らなくても、自然の中を歩き回るのが好きだ。棒道を歩いたのは、水彩画の会や山の会に入るよりもずっと前のことだ。

最近、もう1度棒道を歩いてみたいと思うようになった。でも、インターネットで調べてみると、これは意外に大変なんです。最寄りの駅から棒道の起点になる甲斐小泉駅まで、3時間50分もかかるのです。最寄りの駅へ行くまでの時間を考えるならば、片道で4時間を超えるのです。朝早く出て、夜遅く帰るつもりにならなければいけません。

もう一つの問題は費用で、最寄りの駅から片道5300円もかかるんです。それだけの費用があれば、奥日光、戦場河原に行けちゃうんですよね。かかる時間だって、似たようなものです。それに、1万円、2万円かかるところに、そうちょこちょこ行ける身分ではないし・・・。

こんな時、貧乏人は思うような行動が出来ません。でも、ワーキングプアと言われる人達に比べたら、贅沢すぎる悩みです。

御伽婢子・64

第7巻 絵馬のねたみ・1

    原 作   浅野了意

    現代語訳 ぼんくらカエル

伏見の香の宮は神宮皇后の廟である。願い事のある者たちは絵馬を奉納して祈る。霊験あらたかだと言われ、ありとあらゆる絵馬が神前にかけられている。

文亀年中(1501-1504年)京の七条の商人で、奈良と京の間を往復して商いをしている者があった。

9月の終わりごろ、商人は奈良を出て京都に帰ろうとしたけれど、秋の日は釣瓶おとし、伏見の辺りで日が暮れてしまった。狐火が山際に輝き、狼の声が聞こえる。商人はおそろしくて、香の宮で夜を明かそうとして立ち入った。拝殿に横になり、肘枕をし、涼しい松風を友とし、ほの明るい灯明の中で、しばらくはまどろんだ。

商人は人の気配を感じて目を覚ました。貴人の装束を身につけた者が枕元に立っている。起き上がると、貴人が、

「これから、やんごとないお方がここに見える。少し傍らに控えて休むように」

と言う。商人は不承不承わきに下がっていると、美女がひとり、若い女の子を連れて拝殿に昇った。むしろの上に布団を敷き、灯を掲げ、酒さかなをとりだした。

美女は辺りを見まわし、商人に気づくと、ほのかに頬笑んで、

「そこに居られるのは旅の方ですか? 旅の途中で日が暮れて、そんなところで夜を明かすのは侘びしいものです。遠慮はいりません、ここへ来て私たちと一緒に楽しみませんか?」

商人は嬉しくなり、畏れながらも這い出して、傍らにかしこまっていた。

「そんなにかしこまらないで、まあ一杯おあがりなさい」

と、少女に酒ゐつがせた。

その姿の美しいことといったら、見たことはないけれど、楊貴妃や李夫人もかくやと思われるほどだ。この方は一体どんな高貴な人なのだろうか。どんな縁があって私はここにいるのだろう、と、商人はまるで夢を見ているような気分だった。

その女に従っている少女は17.8歳で、これも並以上に美しい。女は商人に手ずから酒をつぎ、商人はしたたか飲んだ。

女は東琴を奏で、少女はくご(竪琴)を弾いた。商人も酔っぱらって、その頃はやっていた「波枕」という歌を唄った。

商人は酔った勢いで、女に白銀の小箱を奉り、少女には亀の甲で作った琴爪を与えた。その際少女の手を握ると、少女もにっこり笑ってにぎり返した。女はこれを見とがめて、

   あやにくにさのみなふきそ松の風

         我しめゆひし菊のまがきを

折悪しく、私が作った菊の垣根に松の風が吹いた(でいいのかな?・・・訳者)

と詠い、傍にあった盃の台を、少女に向けて投げた。それが顔に当たって、襟も袖も、赤く染まった。

商人は驚いて立ち上がったら、夢から覚めた。

朝になって、奉納された絵馬を見ると、美しい女が琴を弾き、少女がくごを弾く絵馬があった。少女の顔には怪我の跡があった。昨日の夢に現れたのは、まさにこの絵馬の人達である。この絵馬を描いた者については、誰も知らない。

                            終わり

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2009年8月 1日 (土)

豊かさの中にある貧しさ 死の前兆

8月1日(土)

マニフェストというものも、読んでみると、そうできたらいいねと思うけれども、ほんとに出来るのかなと思う約束が多い。

中でも、「それ、違うんじゃないの」と思うのが、10年後に国民の所得を月10万円上げて、世界最高水準の高所得の国にする、と言う約束だ。

それが理想だろうか?国民の多くがそれを望んでいるのだろうか? それやあ、収入は多い方が良いサ。だけど、日本の問題は、豊かさの中にある貧しさではないのか。アメリカは、もっとも所得の高い国だが、貧困大国でもある。日本もそうなってしまった。豊かさの中にある貧しさこそ問題なのだと思う。

豊かと言われる日本には、ホームレスが沢山にて、ワーキングプアをよぎなくされている人も多い。昔は日本にだって、「稼ぎに追いつく貧乏無し」なんて言う諺もあった。「働けど、なおはたらけど我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」なんていう、身につまされる啄木の歌もあるけれど、健康でよく働く人は、他の貧しい人と同じ程度に生きていくことは出来た。

今の世の中、怠け者が貧しくなるのではないんです。普通の人が、何かの弾みで、ワーキングプアになるのです。そして、それを自己責任だなんて言ってるんです。犬に高額なチョッキを着せて自慢しているような人がね。昔ならそんな人を、罰当たりと言ったんです。

今は、一度ワーキングプアになってしまうと、めったなことで、這い上がることが出来ないんですからね。豊かと言われる国のこのような実状は、恥だと思います。ワーキングプアの問題を解決できないようでは、資本主義はもう駄目だとまで思います。

ちなみに、啄木の場合は、一般労働者の何倍もの給料をもらいながら、派手な遊びで金を使っていたんですけどね。

老人介護施設Kの夏祭り。太鼓や踊りがあり、誘導、その他の手伝い。

御伽婢子・63

死の前兆

享徳年中(1452-1455年)細川勝元の家来磯谷甚七という者が昼寝をしていた。その妻は外出先で、見たこともない人が右手に太刀を持ち、左手に磯谷甚七の首を提げて走っていくのを見た。

妻が驚いて家に帰ってみると、磯谷は前後不覚に眠っていた。妻は思わず、枕元にへたり込んだ。

すると磯谷が目を覚まし、誰とも知らぬものが俺の首を切って持ち去る夢を見たという。

二人は気味悪くなり、祈祷師を頼んで、正夢にならないように、夢違えの祈祷をしてもらった。

その同じ月の末、細川勝元は足利将軍に叱責されることがあった。勝元は、それを家来のせいにして、磯谷の首を切らせて差しだし、自分の罪を逃れた。

                       第6巻 終わり

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