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2009年7月31日 (金)

何か嘘くさい 白骨の妖怪

7月31日(金)

政治家の公約って、なにか嘘くさいんだよね。あんまり守られないからだね。近ごろはマニフェスト、マニフェストとうるさいけれど、これは政党の公約と言うことだろう。どうしても請けの良いところを書く結果になるだろうし、投票してもらうのだから、ある程度はやむを得ないとも言える。

今日、自民党もマニフェストを発表したはずで、まだ私は読んでいないけれど、これで主な政党のマニフェストが出そろったことになる。

今の日本の政治は、一方で落ちこぼれを作るような仕組みにしながら、他方の手で福祉にも力を入れているような振りをしている。なんか嘘くさいのだ。

企業や団体に対する援助を捨てても、この辺でベーシックインカムを考えてみるべき時期に来ているのではないだろうか。

特養さくらへ。

今日は3F。痴呆の進んだ人達相手。歌を唄ったり、私はグウを出しますから皆さんはそれに勝つのを出してくださいね、と言ってじゃんけんをしたり。何とかして皆さんと遊ぶ算段。

御伽婢子・63

白骨の妖怪

長間佐太は岐阜の人である。文亀丙寅の年(1506年?)幕府の軍役にかり出され、京に上った。その軍役が終わっても、国には帰らず

  わすれてもまた手にとらじあずさ弓

       もとの家路をひきはなれては

と詠んで道心を起こし、都の北に庵を結んだ。

さすがに乞食も出来ないので、北山の薪を買い受けて都に運び、わずかばかりの利益を上げ、餅を食い、酒を飲んだ。酒に酔うと、自分の尻を叩き、歌を唄いながら庵に帰った。

時には寺に行き、庭を掃除し、仏前のちりを払い、その軒先で夜を過ごすこともあった。

粗末な着物を身につけ、肩や裾が破けても、一向に気にする風もなかった。

ある人が同じ郷土と言うことで同情し、小袖一つと、銭300文を与えた。しかし4・5日すると、佐太はこれを返しに来て、こう言った。

「ものを蓄えるというのは妻子のある者にとって必要だろう。私は独り者だ。食事は、食えれば喰い、食えなければそれまでで、行く先何処にでも寝泊まりする。それが自由気ままでなによりだ。ところが小袖や銭を家に置いていると、泥棒が来やしないかと気になって、戸締まりをして出かけるし、出れば出たで、早く帰らなくてはと思う。これでは私の楽しみが無くなってしまう」

ある日、北山に行って帰りが遅くなった。道の傍らに崩れた墓があって、中から松明を灯すような光が見えた。佐太はもともと肝っ玉の太い男なので、中を覗いてみた。

そこに見たのはひとそろいの骨で、人間が寝たような形で白骨になっていて。その白骨がむっくりと起き上がって、佐太の首に抱きついてきた。佐太が思いっきり突き放したら、骨はバラバラに砕けて、再び動かなかった。

その後の佐太については、何処でどうしたのか、誰も知らない。

                        終わり

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2009年7月30日 (木)

スケッチ風に 蜘蛛の鏡

7月30日(木)

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昨日スケッチをするつもりで出かけたのに、満足にスケッチをすることが出来ずに、欲求不満になりました。そのため、デジカメで写した写真から、スケッチ風に描いてみました。

残念なのは、写真を見て描く方が、実物を見て描くより上手そうに見えてしまうことです。本当は、逆じゃなくてはいけないよね。ものの見方も描く腕も、まだまだ駄目だと言うことです。

家で描いている分には、ヤブ蚊に刺されなくて良いけどね。今でも腕のあちこちが痒いんです。

自然は大切。害虫だからと言って、むやみに退治すべきではありません。そう言いながら、ヤブ蚊ごときにいらつくこの矛盾。私はわがまま者です。

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御伽婢子・62

蜘蛛の鏡

永正年中(1504-1521)のことだったろうか、越中の砺波辺りに住む人は、柴を刈り、山畑を作り、蚕を飼って生活していた。その糸を買い集め、他の土地に売りに出し、わずかな利を稼いでいる人もいた。生活のために奥山に分け入り、富士ずるを便りに谷を渡ったり、かなり危険なこともしなければならなかった。

ある商人が、深山の危険な谷の対岸に、直径1メートルもあるような大きな鏡があるのを見つけた。

これほどの鏡、一体誰が作ったのだろうか。天上の鏡がここに落ちてきたのだろうか。何とかあの鏡を手に入れて一儲けしたいものだと、その商人は思った。今日はひとまず帰り、準備を調えて、明日にも取りに来ようと心に決めて、その場所をよくのみこんで、家に帰ってきた。

妻は「そんな山奥にそれほどの鏡があるとはおかしい。もしあったとしても、危険なところへ行くべきではない。鏡を求めて命を失っては意味がない、やめなさい」と言ったが、男は聞かない。次の朝、夜が明けるのも待ち遠しいというありさまで、男は出かけてしまった。

妻はなんとも心許なく感じ、倅と使用人を連れ、3人で男の後を追った。

男はその鏡に近づこうとして岩角を伝って曲がったところで大声を上げて叫んだ。しかし一声だけで、後は静かになった。

妻たちは急いで谷におり、現場に近づいてみた。すると男は、まるで繭のように、糸でぐるぐる巻きにされ、大きな黒い蜘蛛がとりついている。妻たちは、持ってきた槍や鉞を振りかざし、突いたり切ったりしてその蜘蛛を離したが、男は蜘蛛に頭を割られ、脳味噌を食べられていた。

昔から大きな蜘蛛が鏡に化けて、時々人をたぶらかすと言うことである。

                             終わり

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歩け歩け寄居 

7月29日(水)

実はこの日記、30日に書いています。昨日書かなかった理由は、言えばいいわけになります。要するにさぼりました。

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秩父線波久礼駅から、少林寺の羅漢山、円良田湖、玉淀湖を歩いてきました。

実は、野仏のスケッチがしたくて羅漢山に来たと言うのが真相です。だからスケッチブックと水彩絵の具を用意していたのです。ところが山道は濡れていて、ザックの置き場所もないし、シートを用意してあるとは言うものの、座れる場所もない。それくらいなら立ったままでもスケッチは出来ますが、それよりなにより、立ち止まると、蚊がわんさかわんさかやってくるんです。参りました。かろうじてメモ用紙にスケッチしたのが、上の絵です。あちこち蚊に喰われました。

五百羅漢は川越の喜多院、秩父の金昌寺などにもありますが、、金昌寺と少林寺は、自然の中に配置されています。中でも少林寺は、本当に野仏という感じ。スケッチを出来なかったのは残念だけれど、写真は撮りました。

羅漢山を降りて円良田湖へ。湖を1周して時間が余ったので玉淀湖にも行きました。

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上右は円良田湖、左は玉淀湖のすぐ下流。

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2009年7月28日 (火)

『武士の娘』 遊女宮木野・4

7月28日(火)

私は専門もなく、雑然と本を読むので、これと言って得意な分野はない。ただ、義務教育終了程度の人間としては、興味の範囲が割合広いのではないかと思っている。残念ながら深くはない。義務教育終了程度だって、深い知識や大変な経験をしている人はいるからねえ。こちらの頭が自然に下がるような生き方をしている人って、学歴に関係なく、結構多いんだ。

読み終わった本について書こうとしたのだが、ここまで書いただけで、すでに脱線がはじまっている。ブログを読んでいる人には分からないけれど、書いている私は、はじめに書こうとしたことと違う方向に文章が進んでいることに気づいている。

はじめの方向に戻るか、このまま続けるか、面倒だからここでやめちゃうか。・・・本の紹介だけはしましょう。

その本は杉本鉞子著、大岩美代訳『武士の娘』。日本人の著書なのになんで訳者がいるのかと言えば、原作は英語で書かれたものだからです。

著者・杉本鉞子(スギモトエツコ)は明治6年、新潟長岡藩の家老の娘として生まれた。昔の家老の娘としての教養を身につけ、アメリカで貿易商をしていた杉本松雄と結婚し、日米の文化や習慣の違いにとまどいながら思索を深めていく。コロンビア大学で日本文化史を講義するなど、アメリカでも活躍した人のようである。

『武士の娘』は長岡で生まれ、アメリカで結婚し、夫に先立たれ、日本に帰り、娘の教育のため再びアメリカに渡るるまでが書かれている。7ヶ国語に訳されているという。日本という国が外国人には珍しかった時代、国粋主義でもなく、排外主義でもない立場の女性が、良識を持って書いた著書が、アメリカやヨーロッパでは人気になったのでしょう。この本、その割に日本では知られていませんね。現代ではなく、明治という時代に読まれるべき本だったのだと思います。

当時の最高の教養を身につけている著者にして、八丈島を女護ヶ島と認識している辺り、ふーんてなもんです。八丈島では女が実権を握っていて男は家事や育児をしていると思っていたようです。へんぴな地方の情報は、中央にはなかなか正確には伝わらないものなのでしょう。

御伽婢子・61

遊女宮木野・4

前回までのあらすじ 駿府の藤井静六は遊女宮木野を身請けし妻とする。京の叔父に会いに行き、戦乱にあってなかなか帰国できないでいるうち、母が亡くなり、宮木野は暴徒化した兵の魔の手から逃れるため、自殺した。その後、やっと帰ってきた静六は、宮木野の墓の前で、どうかもう一度会いたいと祈る。

こうして20日ばかり、自分の家と墓を往復して暮らした。

月はなく、星の夜、静六が灯を掲げて座っていると、宮木野が影のごとくにやってきた。

「あなたが私のことを心から念じてくれたので、あの世の役人の許可を得てやってきました」

と宮木野は、静六が京に去ってからの出来事を語った。静六は宮木野が我が母を熱心に看取ったこと、貞節を守るために自殺までしたことを知り、涙ぐんだ。

「私はもとより貧しい家のでです。遊女に身をやつし、昨日の客を送って今日の客を迎え、夜に会って明け方には別れ、名残も留めない月日を送っていました。それをあなたに迎えられ、正しい道に入ることが出来たのです。しかし、とんだ災難で死ぬようなことになりました。けれども、貞節孝行の徳により、男の子に生まれ変わることになりました。鎌倉の高座某という家に、明日男の子が生まれます。その子は誰を見ても笑いませんが、あなたを見ると笑います。それがしるしです」

それだけ言うと、宮木野は煙のように消えた。それから7日後、静六は高座某の家を訪ねた。そして赤ん坊のことを尋ねた。確かに7日前男の子が生まれたが、泣くばかりで誰を見ても笑わないという。だが静六が顔を見せると、にっこりと笑って泣きやんだ。

静六は訳を話し、その家と親戚付き合いをすることとなった。

                        終わり

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2009年7月27日 (月)

日焼け 遊女宮木野・3

7月27日(月)

25日の磐梯山は、山頂でも気温は30°ありました。おかげで、首から肩にかけて日焼けでヒリヒリしています。日焼け止めのクリームを勧めてくれた人もいたのですが、塗ったことはないと言って断りました。馬鹿だなあ。もっとも、クリームを使わせてもらったところで、顔にぬるくらいで、首や肩にぬるなんて思いつかなかったでしょう。結果は同じだね。

麻生さんって、気の利いたことを言うつもりになると、失言をするねえ。今度は、今の高齢者は働くしか能がないんだって。

多少は当たってるんだよ。貧し時代に青春を送っているからね。射撃をやるほど余裕のある人は少なかったサ。だけど65歳や80歳になってなにかをやろうとしてももう遅い、テナことを言われたら、なに言ってやがる、と思うよ。働くしか能がないんだから働かせろ、だなんて、若い人でさえ失業で苦しんでいるんだよ。歳寄りに働き口を与えられる世の中だと思っているのかい?

精障者作業所Mへ。

パーキンソン病の奥さんのケアをしているKAさんがMへが尋ね来る。やはりパーキンソン病のI・Mさんへの伝言を頼まれる。

御伽婢子・60

遊女宮木野・3

前回までのあらすじ 静岡の長者・藤井静六は、遊女・宮木野を身請けして結婚した。京に住む叔父の頼みで、静六は京に上ったが、叔父が亡くなっても、戦争のため帰ることが出来なくなった。

静岡の母は、清六の帰りがいつになるか分からず、便りもないことを悲しみ、病に伏した。宮木野は心を込めて看病したが、病はいよいよ篤く、半年ばかりして帰らぬ人となった。

姑は臨終に際して宮木野に言った。

「おまえは嫁として、本当の子でさえ出来ないほどよく仕えてくれた。あなた方の子を見ないで死ぬことは残念だ。その子は必ず親孝行な子になるだろう」

永禄11年(1568年)武田信玄は静岡に攻め入り、民家に火をかけた。武田方の軍兵は家々に押し入り、乱暴狼藉を働いた。宮木野は美しく魅力的な女性だったので、その餌食になりそうだったが、逃げて、首をくくって亡くなった。

程なく、駿府は武田の手に落ち、戦は止み、藤井静六は、やっと家に帰ることが出来た。しかし、母も妻もこの世の人ではなかった。静六は宮木野の墓の前で祈る。

「君は賢く才知があり、情をわきまえていた。私が帰れなかったのは戦のせいだ。世の中は思うようにいかないものです。ぜひもう1度、私の前に現れてください」

                             続く

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2009年7月26日 (日)

山の会、1泊山行(磐梯山など)

7月26日(日)

24日・25日、山の会の1泊山行。

24日。予定では猫魔岳登山でしたが、悪天候で断念。マイクロバスで雄国沼までは行ってもらい、池周辺の散策と、五色沼めぐり。

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雄国沼です。ごらんの通り、山の上はすべて雲の中。

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五色沼の色は少しずつ違うけれども、ベースになっているのは、コバルトブルーと思います。沼と沼を繋ぐ散策路の脇には、こんな渓流も。

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一行15名。五色沼は過去に行ったことのある人ばかり。それでもみんな久しぶりで、それなりに風景を楽しみました。それにしても、林間学校なのか何なのか、小中学生の団体がわんさといましたね。何十人なんて規模ではないんですよ。翌日の磐梯山を含めて、昼食を取る場所に不便を来すほどでした。

25日

天気が回復したので磐梯山へ。

夜中の12時頃、豪雨があったらしいです。民宿に泊まったのですが、多くの人が目覚めて、明日も駄目かと思ったらしい。その頃私は白河夜船。

雨が止んだ午前1時頃目が覚めました。それから少しまどろんだのですが、午前3時、もうこれ以上寝られないと覚悟して、布団を抜けだしました。自動販売機などを置いている廊下の片隅のソファーに座って、読みかけの本を読む。場合によったらスケッチをしたいと思っていたのだが、3時では窓の外は真っ暗。結局1枚のスケッチも描かず。

八方台登山口から中ノ湯(?)、御花畑、弘法清水を経て磐梯山頂へ。

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ここは温泉だったんでしょうね。廃屋になっています。硫黄の匂いがしてそこここの湿地から水(湯)があぶくになって出てきます。

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登りも降りも、岩の多いコースでした。中にはこんな岩も。今にも落ちそうじゃないですか。

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山頂付近はまるでわき出たように、赤とんぼの大群。写真には撮れないと思ったけれど、試してみました。

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トンボだけの写真では、おもしろくも何ともない。ガスの間から猪苗代湖が見えますが、何だか空中に浮いている湖のようです。

2日間を通じて花の写真を何枚かとりましたが、写真を沢山載せたので、終わりにします。

26日(日)

山の投稿も、26日に書いています。今日の私は、主婦業ですね。その最後にこのブログを書いているのですが、御伽婢子は休みます。 

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2009年7月23日 (木)

早めに書くブログ 遊女宮木野・2

7月23日(木)

明日のブログ、そして多分明後日のブログを休みます。

明日から猫魔岳、磐梯山に登る予定です。問題は天気。ノー天気な私も、天気は心配・・・なんて、だじゃれを言ってもしょうがないか。とにかく、注意して行ってきましょう。

われわれ一行、チャーターしたマイクロバスで出かけます。朝5時半の集合です。それに間に合うように食事をして、お腹の調子も整えて、と言うことになると、3時頃起きなくてはなりません。

いつもなら1日の最後の仕事としてブログを書き、書き終わるのは12時を過ぎることもあります。今日は現在午後3時半。窓の雨を見ながら書いています。自動車が雨をはじく音、さっきより激しくなりました。傘を差した母親と娘でしょうか、親子連れが通っているのが見えます・・・何だか実況中継みたいになってきたぞ。

だじゃれはそれくらいにして、早く書き上げてしまいましょう。

ボラグループ定例会。

御伽婢子・59

遊女宮木野・2

前回のあらすじ 静岡に宮木野という遊女がいて、美人で気だてがよく風流を解し歌をよく詠んで、人気があった。藤井静六という富裕の者が、その宮木野を身請けして妻とした。宮木野は姑にもよく仕え、家庭内は円満だった。

静六の母方の叔父が京都に住んでいた。その叔父が病を得て、先が長くないと感じたのか、「静六に言い残すことがある。京に来て欲しい」という便りがあった。母はすぐに出かけろと言うが、静六は老いた母のことも心配で、迷うところがあった。

宮木野は、京に上ることをすすめ、その代わり少しでも早く帰ることを願った。門出の水杯を取り交わし、涙を浮かべて、

   うたてなどしばしばかりの旅の道

       わかるといえば悲しかるらむ

と詠めば、静六も、

   つねよりは人も別れを慕うかな

       これやかぎりの契りなるらむ

と返して涙ぐんだ。

そのやりとりを見て母は、どうせ帰ってくるのだからそんなに名残惜しがっているとは女々しいことよ、と静六を追い立てた。

静六が京へ着くと間もなく、叔父は虚しくなった。子どもたちがまだ幼かったので、静六は妻の一族に叔父の財産を与え、その子どもたちを育ててくれるように手はずを整えた。

さて帰ろうと言うことになったが、戦が始まって、安全な道が無くなってしまった。それで帰りそびれているうちに1年ほど過ごす。諸国何処も乱れていたので、便りを出すことも出来ず、お互いに音信不通であった。

                                                 続く

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2009年7月22日 (水)

日食 遊女宮木野・1

7月22日(水)

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入間川のスケッチ。西武線仏子駅の近くです。自転車で、あちこち寄りながら辿り着いたので、もう1度同じ所へ行けと言われても、果たしてたどり着けるかどうか疑問です。例によって、出たとこ勝負方式なのです。

今日はとから列島や硫黄島などで皆既日食。とから列島は、曇りや雨で見えなかったようですね。東京や埼玉でも、曇りで、部分日食が見られませんでした。

まだ小学生だったか、あるいは中学生になっていたのか、疎開先の秋田で、部分日食を見た経験があります。昭和20年代で、それも前半の方でした。たしか、北海道の礼文島で金環食があったはずです。礼文島の名をその時覚えました。

今では、そんな見方をしてはいけないと言われているようですが、ガラスのかけらをすすで曇らせて太陽を見た記憶があります。貧しい時代です。ガラスをすすで汚した以外の器具を持っている人なんて、私のまわりには誰もいませんでした。ガラスをすすで黒くして見るという方法は、多分、学校の先生に教えてもらったと思います。危険な方法だったんですね。目が潰れた人はいなかったけど・・・。

御伽婢子・58

遊女宮木野・1

宮木野は静岡の遊女であった。美人で字が上手く、和歌の心得があり、情が深かった。そのため風流人の間では人気があり、もてはやされた。

8月15日の夜、風流人が宮木野の宿に集まって、十五夜の歌を詠んだ。宮木野の歌二首。

   眺むればそれとはなしに恋しきを

        くもらばくもれ秋の夜の月

   いく夜われおしあけがたの月影に

        それと定めぬ人にわかるる

この歌は、もし自分が宮木野の立場だったら、きっとそう思うだろうと、一座の者たちは感じ入った。

その一座の中に、藤井静六という者がいた。先祖は役人であったが、野に下り、この地に住みつていた。田畑を多く持って、豊かに暮らしている。

静六は情が深く風流を好んだ。この一座にあって、宮木野に一目惚れしてしまい、大金をはたいて身請けしてしまった。

富裕な生活をしているのだから、どのような娘だって娶ることが出来るのに、遊女を娶るとはなんとしたことかと、母は不満であった。しかしせがれが気に入ったのであれば、なんともしがたいと思って、心ならずも二人の結婚を認めたのである。

ところが、一緒に暮らしてみると美人と言うだけではなくて、こころざしがすぐれて優しい。たとえ大名の娘でも、人の道に外れるような者ではしょうがない。出自はどうであれ、この娘は人の道をわきまえていると母は思った。わが子が好きになったのももっともだと思い、母は嬉しかった。

宮木野の方も、よく姑に仕え、孝行の限りを尽くした。

                         続く

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2009年7月21日 (火)

暢気な話(蚊柱) 長生きの仙人・2

7月21日(火)

精障者作業所Mへ。

いろいろなことがありますね。今日、衆議院解散。明日、皆既日食。先日、北海道の大雪山系の山の縦走で大勢の遭難者。今日、山口県で土砂崩れによる死者の出る被害。

山仲間のSさん。遭難者の出た同じコースを、その4日前に縦走をしたンだって。やはり天候不順で大変だったそうです。今度の事故は、ガイドの責任が大きいと思うけれど、山には危険がつきものであることをあらためて認識。

この4-5日、大きなニュースが幾つも伝えられたけれど、ぼんくらカエルらしく、暢気な話をします。

あれは6月だったか7月だったか、梅雨の合間に大菩薩嶺に行きました。長い雨の後でやっと晴れた日だったためなのか、ものすごい量の蚊が発生していました。登る人、降りる人、登山者の誰の頭の上にも、蚊柱が付いていました。顔と言わず、首と言わず、手と言わず、いたるところに蚊が襲いかかります。血を吸うわけではないのだけれど、煩わしいことこのうえもありません。登山者がすれ違うときには、蚊柱同士のすれ違いでもありました。すれ違う人は口々に、

「私の蚊柱を持っていってください」

「こちらこそ蚊柱を差し上げます」

などと、挨拶代わりに言いながらの登山でした。自分の頭の上に蚊柱を背負うなどと言うことは、田舎で育った少年時代にも、何度も経験しています。しかし、あれほどの蚊柱というのは、後にも先にも、あのときだけです。

その後しばらくは、山行のさい必ず虫除けスプレーを持ち歩きました。

御伽婢子・57

長生きの仙人・2

前回のあらすじ 阿波の国の城主里見義広に会いに来た岩田刀自という老人は、数百年を生きているらしい。山中で修行していた岩田に仙人がきて薬を与え、「鶴や亀はいつも静かに呼吸しているから長生きだ」などと、仙人になる道を教える。

「人間には気持ちの乱れがあり、気候は一定しない。色情にふけり、食い意地をはる。そのために諸病が起こり、悲しみが生まれる。だから100歳まで生きる者はほとんどいない。人間のすることは、飛んで火にいる夏の虫のようだ。小さい胸の内に妄執を抱き、怒り、悲しみ、妬む。そんな気持ちをはなれれば、本当の自由を得られる」

仙人の教えはそのようなものだった。以来仙人の教えを守り、山に籠もり、松の葉を食べ、石をこねて塗り薬を作り、霜を煮て飴を作った。穀物は長く食べたことがないが、飢えたりはしない。松風や月、滝やせせらぎを慰めとして、欲を去り怒りを去った。

義広は感心して尋ねた。

「私も仙術に努めればあなたのようになれますか?」

「心を静かに保ち、色情をはなれ、欲を去り、悲しいことにも楽しいことにも心を動かされず、徳を施していれば、天地の恵みにかなって長生きするようになるでしょう。声をみだりに出さず、あまりものを見ないで、むやみに聞こうとしないで、体もあまり使わないこと。行くことも立つことも寝ることも、みだりに行ってはいけない」

「それでは、人間のすることはみんな害があるみたいじゃないですか。そんなことをして長生きしても意味がないでしょう。ここに用意した料理をどうぞ食べてください」

と義広がすすめたが、岩田刀自はなにも食べない。ただ、酒だけはよく飲んだ。それなのに、少しも酔った景色がない。刀自の格好がおかしいと言って女房たちが笑ったが、刀自が指を差したところ、皆おばあさんになってしまった。女房たちは驚いて、涙を流して詫びたところ、刀自はまた指を差して、もとの姿に戻した。

義広は怒って、刀自を殺そうとしたが、刀自はすぐそれを悟って、座を立ち、かき消えてしまった。

義広は間もなく北條氏康に滅ぼされてしまった。

                        終わり

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2009年7月20日 (月)

秩父の御輿洗い 長生きの仙人・1

7月20日(月)

11時頃、やるべきことは終わり、他にすることもなかったので、どこかにスケッチに行こうと思った。鉛筆やスケッチブックを持って、サンダルのまま家を出て、取りあえず狭山市駅に出る。そして、駅前のバスで、最初に来たのに乗ることにする。そのバスが入間市行きだった。

入間市周辺の何処でスケッチをしようかと考えたが、思いつかなかった。そこで、エイ、面倒、とばかりに秩父行きの電車に乗ってしまった。

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こんなことを私はよくやります。出たとこ勝負、行き当たりばったり方式です。

秩父について、荒川まで歩き、河原でスケッチ。この2枚を描いて、帰るつもりでした。そして川下の方に歩いて行きました。すると川を見つめて、黒山の人だかりです。何だろうこれは、と思って聞いた見ると、御輿の水洗いがあるのだという。何だか知らないけれど、こんなに大勢の人が見物にきているのだから、きっと有名なお祭りなのでしょう。カメラを持ってこなかったのが悔やまれます。

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となれば、スケッチしか術がありません。大勢の中で、立ったままスケッチするなんて初めての経験です。河川敷も土手も、二つの橋の上も、人で一杯です。私は土手の上でスケッチしています。

帰ってからテレビを見ていたら、NHKのニュースで、秩父の御輿の水洗いを取り上げていました。さすがに絶妙の位置でカメラに納めていますね。

Tati0012 河川敷では、こんな光景も見られました。神主がなにかお祈りをしているみたいです。祝詞でもあげているんでしょうかね。

行き当たりばったり方式でも、時にはこんな、計算外の出来事にぶつかります。ァ、行き当たりばったりだから、全部計算外か。

御伽婢子・56

長生きの仙人・1

阿波の国(千葉県)の里見義広は武勇を持って国を治めていた。その頃1人の老人が城中に連れてこられた。年を聞くと、数百歳になるが覚えていないという。髭や髪は白いと言うよりも黄金色に近く、目は青く耳は長い。顔色は50歳くらいにしか見えない。座れば、髪は床を払う。名は岩田刀自という。

老人は後鳥羽院(1180-1239)のころの出来事を、昨日のことのように話す。三浦大輔の供をして狩りに行き、九尾の狐を殺し、殺生石を砕いた祟りで、多くの者が死んだという。その時、彼の父母兄弟も皆亡くなってしまったらしい。

18歳の時だった。無情を感じて山に籠もり、修行をはじめた。

いつのことだったか、仙人らしい人がきて、青い薬をくれた。それを飲むと、身の心も軽くなり、その仙人に連れられて空を飛んだ。そしてどこかの大きな山の上に行った。立派な屋代があって、宝石の床に座り、霞で醸した酒を飲んだら酔い倒れた。仙人は天の甘露を飲ませ、酔いを醒ました。そして、仙人が言った。

「おまえは鶴や亀を見たことがあるだろう。彼らは静かに息をしている。けしって荒い息づかいはしない。だから長生きなのだ。

おまえの目はこれから90年後、青光りするようになる。それで良く闇の中を見なさい。そうすれば1千年後骨が替わり、2千年後皮が替わる。それ以後は永遠の命を得て歳をとることはない」

仙人の話しは更に続く。

                            続く

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2009年7月19日 (日)

汗をかく 伊勢兵庫仙境に至る・2

7月19日(日)

私は汗かきである。私はほとんどエアコンを使わず、扇風機で過ごしているから、わが家にいるだけで汗をかく。わが家のエアコンは、付けても効きが悪い。買い換えたくても金がないというのが実状。別に、エアコン買ったら破産する、と言うほどではないけれど。まあとにかく、扇風機で過ごしているのです。だから毎日汗をかいています。

なぜか知りませんが、汗かきなのに、私は昔から、掌や足の裏に汗をかきません。木工関係の職人(琴作り)ですからノコギリやカンナやノミを使って仕事をしていました。私が使う道具は、使い込めば使い込むほど、ぴかぴか光ってきます。掌に汗を多くかく人は反対で、ノコギリでもノミでも、指や手の当たるところが錆びてきます。

掌に汗をかく人は、手が汚れても洗うときれいになりますが、汗をかかない人は、幾ら洗っても汚れが取れません。だから私は、汚れが取れずに苦労しました。

足の裏に汗をかく人の靴や靴下は、すぐに臭くなりますが、かかない人は、靴が匂ったりしません。だから私は、自分の靴の匂いを嗅いで、鼻を摘んだりはしません。

汗のかきかたでも、いろいろあるんですよね。

汗をかく位置は、歳をとるにしたがって、体の上の方に移動するそうです。ホームで電車を待っているおじさんが、ハンカチやタオルで、しきりに頭を拭いているのを目にしませんか。あれは頭に汗をかく年齢になっているからです。

実はかくいう私も、頭に汗をかきます。胸や背中にもかきますが、タオルで拭きたくなるのは頭です。タオルで何回も頭を拭いていると、頭の天辺の辺りの汗が粘ってくるんだなあ。まるで脳味噌がにじみ出てくるようだ。

大丈夫だろうかねえ、私の脳味噌は・・・。

頭を左右に振ってみてください。なにか音がしますか。しなければ安心です。頭骸骨の中に脳味噌が一杯詰まっているからです。私も音がしません。頭蓋骨の中が空っぽだからです。味噌が頭からにじみ出てしまったのです。きっと・・・。

御伽婢子・55

伊勢兵庫仙境に至る・2

前回のあらすじ北條氏康の家臣伊勢兵庫は、北條氏康の命を受けて八丈島の探索に出かける。しかし悪天候のため、遙か南の島に流れ着く。どうやら観音浄土に近い仙境らしい。親切な島人の家を訪れ、珍しい酒を振る舞われ、爽やかな気分になる。

主は、大昔の保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)について、まるで目の前に見ているように話す。

(ぼんくらカエル独り言。家の調度は、金銀宝石で出来ていて、花でも木でも箱でも、この世のものとは思われない色、形、香りがしているんだってさ。見慣れない鳥が美しい声で啼き、池の水は強くて石を投げても沈まず、島の人は全部若くて歳をとらず、美男美女ばかり、なんてことを、延々と書いてます。全部カット)。

伊勢兵庫はここに住みつきたいと思ったが、主君の命で来たことでもあり、やはり帰らなければと思い、主に相談した。主は、ここまで来た証拠として馬とオオムを船に積み、兵庫を送り出してくれた。そして順風を吹かしてくれたので、1日で伊豆に着いた。

まず氏康に報告しようとして城に行ったら、兵庫が船出してからもう何年もたっていて、氏康は既に亡くなっていた。兵庫は嘆き悲しみ、子の氏政に仙境の報告をした。

その昔、垂仁天皇が田島守に命じて、常世の国から香実(カグノミ)を求めさせた。田島守がその実を手に入れて帰り着いたとき、すでに垂仁天皇は亡くなっていた。田島守は嘆き悲しんで死んでしまった。その実とは、今の橘である。

兵庫もまた、腹を切って死んでしまった。その前に物語を書き残していたので、いまの世に知られたのである。

                         終わり

ぼんくらカエル独り言

なにも死ぬことはないだろう。腹を切ったなどと、生々しい。

田島守については、戦時中の学校で習いました。こんな歌があります。

   香りも高い橘を

   積んだお船が今帰る

   君の仰せをかしこみて

   万里の海をまっしぐら

   今帰る田島守

   田島守

2番もあるのですが、歌詞を忘れてしまいました。

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2009年7月18日 (土)

無題 伊勢兵庫仙境に至る・1

7月18日(土)

つばさ俳句会例会。来月の俳句大会の相談なども。

夜、ベランダから、川越の花火を見る。入間川縁の市場で挙げているらしい。

御伽婢子・54

第6巻 伊勢兵庫仙境に至る・1

      原作  浅井了意

      現代語訳  ぼんくらカエル

伊豆の国、北條氏康は関8州を手に入れ、武勇の誉れ高く、大いに勢いがあった。氏康はあるとき浜辺でつぶやいた。

「昔、鎮西八郎源為朝(チンゼイハチロウミナモトノタメトモ)が伊豆に流されたとき、沖に飛んでいく鳥を見て、この先にきっと島があるに違いないと思った。そこで舟を出して行ってみたら、鬼が住むという島にたどりついた。これは今でいう八丈島だ。その後、誰も八丈島に行ったという話を聞かない」

そして言った。

「誰か八丈島に行って、島の様子を見てくるものはいないか」

坂見岡紅雪と伊勢兵庫頭の2人が進み出て、

「われわれが行ってきましょう」

と、簡単に引き受けた。両名にはそれぞれ大船が与えられた。両名は漕ぎ手を付けてもらい、吉日を選んで、沖に向けてこぎ出した。伊豆の沖には7つの島があるという。どの島かは知らないが、一つの島に近づいたとき、風が変わって波が高くなり、船の自由が利かなくなった。

紅雪の方は、どうやら島にたどりつき、運良くそこが八丈島だったので、島の様子を見聞して帰った。

兵庫頭の方は更に南に流されて、10日ばかりたったところで、風も弱まり、ある島に流れ着いた。島の様子を見ると、宝石のような岩石がそばだち、奇岩、奇石など日本では見ることの出来ないような物ばかりだ。草木も見慣れないもので、たわわに実を結んでいる。

20歳ばかりの色の白い若者が磯に出ていた。頭に羅の帽子を被り、草木で作った着物を着て、花の靴を履いている。姿は中国人に似ているが、言葉は日本語である。

兵庫頭をみて、

「どこから来たのか」

と聞く。兵庫頭はありのままに答えた。

「ここは滄浪の国です。日本からは3000里ほどはなれています。観音浄土、補陀落世界も近いのです。淳和天皇の時代、橘三千代皇后の仰せで恵萼僧都がこの島に来たと伝えられています。わざわざ日本からここまでこられたのでは、さぞかし疲れたでしょう。わが家で休んで行きなさい」

兵庫頭は言われるままにその家に行った。主は、菖蒲の酒や花のしべで造った酒などを勧め、兵庫頭は玉の盃で数杯を重ねたところ、神気はまことに爽やかになった。

                     続く

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2009年7月17日 (金)

空想の世界

7月17日(金)

御伽婢子第6巻を書きだしても良いのだけれど、もう1日、下読みにあてます。6巻の第1話、第2話は極楽の様子を美辞麗句で飾るような話しで、私の趣味からいくと、あまり気乗りがしません。適当にはしょって訳すことになるでしょう。

私は死ねばそれまで、と思っている人間ですから、あの世の話しなんか、どうでもいいわけです。しかし月に住むかぐや姫の話に幻想の楽しさがあるように、浅井了意の怪談物にも、幻想の楽しさを求めます。と言って、地獄や極楽の話を幾ら詳しく書かれても、幻想の楽しさは感じないのです。

現実は現実、空想は空想と分けて考えています。現実はいろいろですが、空想の世界では、この私が女性に持てたりするんですよ。現実の世界でも、そんなことがあったらいいなあ・・・これはすでに空想です。御伽婢子は、空想の世界として読んでいます。

特養老人ホ-ムSへ。

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2009年7月16日 (木)

昨日と同じ

7月16日(木)

昨日も、暑いねえ、と書いた。今日も暑いねえ、と書く。

昨日も自民党のごたごたを書いた。今日も書きます。あいかわらずやってますねえ。総選挙では、惨敗しないように、せめて「惜敗を期して」ください。

老人介護施設Kへ。

NHKの体操で、「みんなの体操」というのがあります。ラジオ体操より体が動かしやすく、椅子で座ったままの人にも出来るように工夫されています。老人施設用に録画されているビデオもあるんですね。今日はそれを初めて見なした。

御伽婢子第6巻の下読みをしています。従って、今日はお休み。

学校へ行く途中の子供が、路に落ちている炭を拾い、「おやすみだ」と言って学校を休んだ、なんていうおもしろくも何ともない漫画を、遠い昔に読んだような気がする。なんでこんな漫画、今でも覚えているのだろう。大切なことは大概忘れているのに・・・。無駄な記憶です。

記憶もそうだけれど、私が普段やっていることも、大切なことはやりたくありませんね。やるとしても後回しだ。無駄なことだけやりたいのです。明日は、どうしても掃除をしなくてはナア。

藤村の詩の一部

  昨日またかくてありけり

  今日もまたかくてありなむ

  この命なにをあくせく

  明日をのみ思い煩う

まあ、なるようになるさ。ケ、セラセラ。

だけど明日は、やはり掃除をしよう。

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2009年7月15日 (水)

ノウゼンカズラ 原隼人佐

7月15日(水)

私のようになんと言うこともなしに、日記形式でブログを書いている人、今日の1行目は「暑いですね」なんて言うたぐいの言葉ではじまるのではないでしょうか。

それにしても暑いですね。ハハ。

2行目は自民党のごたごたかな? 総裁選前倒しだとか何だとか。どうでもいいよ。自民党そのものに愛想を尽かしているのだから、表紙を替えたところでどうにもなりゃあしないさ。総選挙では、「惜敗を期する」じゃなくて、惨敗でしょうけれどね。

こんなことだけ書いているならブログの維持は楽なんです。なにを書こうかなんて考える必要がないものね。

ちょっとだけ、独自なことを書きます。

私の本職は琴作りの職人でしたが、それだけでは食えなくて、さまざまなアルバイトをしました。

今考えてみて、もっとも辛かったのは、型枠大工の仕事でした。型枠大工というのは、建築物のコンクリートを流し込むための型を組む仕事です。コンパネというベニヤ板に組んだ型の中にコンクリートを流し込んで、ビルの壁などが出来ていくわけです。

今日みたいに暑い日は、その辛さたるや、並大抵ではない。よく熱射病で倒れる人もいました。炎天下のガードマンを大変だろうという人がいますが、ガードマンの何倍も辛いですね・・・私はガードマンのアルバイトもしたことがあるんです・・・。

そんな暑い日の現場への行き帰りに見かける花が、ノウゼンカズラでした。暑い盛りに、赤やオレンジの花を咲かせているのですから、暑苦しいように思うけれども、実際には、むしろ爽やかでした。その花を見て。少しばかり仕事の苦労を忘れたものです。

以来、ノウゼンカズラは好きな花になりました。街では、今を盛りに咲いています。

    冷酒旨し凌霄花咲けばなお  ぼんくらカエル

   

御伽婢子(おとぎぼうこ)・53

原隼人佐(はらはやとのすけ)・1

武田信玄の家臣、原隼人佐昌勝(はらはやとのすけまさかつ)は、加賀守昌俊の子である。父はたびたび手柄を立てた武将だったが、隼人佐に次のような言葉を遺を残した。

鳥や獣、虫のたぐいまで、みんな得意なことがある。人に生まれ、まして侍という身分まであるものは、戦に関することで、何か優れたものが無くてはいけない。その得意の技を持って主君の恩に報いなくてはならない。いたずらに禄を喰み、1芸1能もないものは、虫けらにも劣る。良くそのことを考え、忠節に励みなさい。

隼人は父の死後、信玄に仕え、私心なく忠節に励み、軍功があった。中でも、隼人はいつも敵陣深く入り込み、味方の陣を立てるに適する場所や合戦の場所を考えるに優れていた。山、川、谷、峰、など、始めてのところでも、案内人無しでもその様子を知り、小道や裏道まで道筋を悟り、味方を率いて先登しても、誤った試しがない。まるで神に通じているようである。

実は、隼人の出生には秘密があった。その昔、加賀守の妻は妊娠の苦しみの中、死亡してしまった。加賀守は嘆き悲しんだが、なんともできず、法成寺の裏に墓を作ってそこに埋めた。

死後100日目の夜中、80歳にもなろうかという老僧が訪ねてきて(70歳まで生きるのさへ稀だった時代です・・・ぼんくらカエル註)、玄関の戸を叩いた。戸を開けると、死んだ妻がよみがえり、老僧に連れられて帰ってきた。

「私は法成寺のものである。よみがえった妻を良く保養しなさい」

と言って、老僧は消えた。妻は、はじめはうとうとしていたが、7日くらい過ぎると、もとのようになった。ただ、明るいところを嫌うようだった。

次の年に、妻は男の子を産んだ。その子が3歳の時、、妻は涙ながらに告げた。

「私は本当の人間ではありません。あなたとの縁が深かったために、地蔵菩薩が閻魔様にお願いして、魂を3年ばかりこの世に帰してくれました。今はもう、帰るべき時です」

そういって妻の姿は消えてしまった。

その妻の子が原隼人である。18歳で初陣し、神に通じているように見えたのも、故のないことではない。

                 御伽婢子 第5巻 終わり    

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2009年7月14日 (火)

健康診断今年もセーフ 火事の定め

7月14日(火)

狭山台胃腸科外科で健康診断。肺のレントゲン、胃ガンの検診も。

機械が故障したとかで、今日はバリュームではなく、胃カメラを飲む。この医院の良さは、その日のうちに結果が分かること。肺、胃共に異常なしだった。検診が終わったのが12時で、ちょっと待ち時間が長かったなあ。

午後、精障者作業所Mへ。

御伽婢子・52

火事の定め

西の京に富田久内という者が住んでいた。こころざし優しく、情け深い者である。

ある日、北野天神に詣で、その帰り道、茶屋で休んでいると、12・3歳くらいの小坊主がやってきた。痩せて青ざめた表情に疲れが見えている。久内が話しかけてみると、東山のあたりに住んでいるらしい。

「朝からあちこちに使いにやらされて、まだ何も食べていません。師の坊さんの命令に従うばかりで、きつくてしょうがない」

と言う。

久内は気の毒に思って、餅を注文して小坊主に与えた。小坊主が餅を食べ終わったので、そろって店を出たところ、小坊主が口を開いた。

「実は私は人間ではないのです。火の神の使いで、火事を起こす役割です。あなたは優しい方ですからお教えします。明日、西の京は火事になり、ことごとく焼失します。あなたの家は焼きたくないけれども、もうそういうわけにはいかないのです。すでに、焼失する範囲に入っています。ですから、財宝や家財道具は今日のうちに運び出してください」

そういって、小坊主は消え失せた。

久内は急いで家に帰り、財宝や家財道具をすべて運び出した。特に何も言わなかったけれども、強いて理由を聞く人には、北野で会った小坊主のことを話した。人々は、狐にでも化かされたのだろうと言って、あざ笑った。

実はその年の3月ごろ、西の京と東の京の酒・麹を売る業者で組合を作った。ところが西の京の業者は、組合の座を破って商売をしたのである。東の京の業者が怒って、時の管領、畠山徳本に訴え出た。畠山の裁定は、東の京の主張を入れるものであった。

西の京の業者はそれを不服とし、北野の社に立てこもり、管領の言うことを聞かず、東の京の業者を打ち殺すと息巻いていた。やむを得ず、管領は侍たちに命じて、立てこもる者たちを捕まえて獄舎に繋ごうとした。立てこもる者たちはこれに抵抗し、最後は社に火を放って自害した。火はたちまち燃え広がり、西の京は火の海と化したのである。

時に1444年4月12日。久内が小坊主にあった次の日であった。

                        終わり

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2009年7月13日 (月)

飲みながら書いてます 幽霊が武将の評をする・5

7月13日(月)

精障者作業所Sへ。

作業所の畑で収穫したナスやキュウリを薄く刻んでポリ袋に入れ、塩を入れて袋もみにする即席漬け物が好評。みんなにおだてられて、今日も作る。

Sの旅行は那須に決まったそうで、「ぼんくらカエルさん、今年は行くの?」と聞かれる。去年旅行に参加しなかったので、その後何度も、同じ質問を受ける。去年はスッタフ以外にこぶし福祉会の理事長が参加した。メンバーさん達は、私が行かなかったから理事長が参加したと思っている。理事長では気詰まりらしいのだ。今年は行きますけどね。まだ先の話しです。

明日、近くの狭山台胃腸科外科で、健康診断を受けます。胃ガンの検診も受けるので、今日の夜9時以降飲み食いを禁じられています。いつもならブログが終わってからも一杯やるのですが、今日は出来ません。だからいま、飲みながら書いています。

実は、いま、丁度9時です。もういけないのですけれど、私の予約時間は10時。9時から診察を受ける人も、前日の夜9時まで飲食できるのですから、私は10時まで良いのだと勝手に判断して、後1時間飲み続けます。

私の場合の「飲む」というのは、アルコールの意味ですが、お茶も飲んじゃいけないというのは、この暑い時期に辛いよね。先生によっては、お茶はかまわないという人もいるんだけどなあ。私の先生はそれも駄目なんです。「熱射病だってあるんですよ、先生」というのは、ないしょの独り言。

御伽婢子・51

幽霊が武将を評する・5

前回までのあらすじ 武田の武将鶴瀬安左衛門は恵林寺の庭で、既に亡くなった北條左衛門、山本勘助、直江山城守、多田淡路守、などが信玄、謙信、氏康、信長を評をするのを聞く。そこへ長野信濃守が来て、山本勘助の評をした。

ひとしきりそれぞれの思いを述べた後で、多田淡路守が進みでた。

「いまは敵も味方もない。死んでしまったのだから、すべては夢のようなものだ。酒でも飲んで楽しみましょう」

参会者は、したたか酒を飲んだ。

やがて、長野信濃守が詩を吟じた。

  義重命軽如鴻毛

  肌骨今鎖没艾蒿

  山宣平重淵宣塞

  残魂尚誓節操高

    義は重く命は鴻毛のように軽い

    身体は今荒れた草原に埋もれる

    山は平らにして淵は埋めるべく

    残った魂はなお節操が高い

北條左衛門佐も吟じる。

   泉路茫々隔死生

   落魂何索貽武名

   古往今来几是夢

   黄泉峙耳聞風声

     あの世のへは草ぼうぼうとして死生をへだつ

     死せっる魂にとって武名とは何か

     昔から今まで、すべては夢だ

     黄泉では耳をそばだてて風の音を聞くのみ

直江山城守の詩

   物換星移幾度秋

   鳥啼花落水空流

   人間何事堪憫悵

   貴賤同帰土一丘

    時代は移りまた秋が来る 

    鳥はなき花は落ち、水は虚しく流れる

    何事ぞ人間は悲しみに堪えている

    尊きも卑しきも一塊の土となるものを

山本勘助は文盲であるが思うところをいはなければと、次のように詠う。

   平生知略胸中満

   剣払秋霜気吐虹

   身後何謾興廃

   可憐怨恨深叢

    生きているうちは胸中は知略に満ちて

    剣は秋霜を払い、気宇壮大だった

    死後はそれも虚しい

    今さら怨恨を言うのは哀れむべきだ

多田淡路守の詩

   魂帰冥漠魄帰泉

   却恨人世名聞権

   三尺孤墳苔累々

   暫会幽客恵林辺

    魂魄は冥土にあって

    いまだに生前のことをあげつらう

    三尺の墓は苔に覆われているというのに

    恵林寺で幽客に会えて良かった

鶴瀬安左衛門は、はなはだ怪しい気分になった。これは夢かまことか。話しをしているのは、すべて故人だ。ひょっとして、私自身が死んでしまったのか? と思っているところに、ホラ貝や太鼓の音がして、座中の人は押っ取り刀で立ち上がったが、ふっと消え失せた。

夜は白々と明けている。あまりの不思議さに、鶴瀬は甲府に立ち帰り、信玄公に話した。信玄に、「おまえ、狐に化かされたか」と言われたので、他人には語らず、筆に記して、箱の中にしまっておいたと言うことだ。

                        終わり      

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2009年7月12日 (日)

廻り目平・カモシカコース

7月12日(日)

山の会の定例会。

金峰山荘より、カモシカコース・屋根岩パノラマコースを経て金峰山荘に戻る。

6時に狭山市駅前を出発して、10時少し前に金峰山荘に着く。時計を見ていなかったので正確に書けません。

高速道路を佐久平でおり、長野県川上村へ向かう。高原野菜の産地である。広い土地にも狭い土地にも畑が広がっている。原野を切り開いて土地をならし、畑にしてきた人々の努力を思う。いまはどの畑にも、白いビニールシートが敷かれている。所々に畑仕事の人を見かける。傍に軽トラックなどがあるのが現代風。

マイクロバスが標高を上げるにしたがって、緑が柔らかくなる。

金峰山荘着。

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こんな岩の間を縫うようにして上がっていく。

私のような胴長短足属には一歩の上下差が厳しいところもある。私の足では次の一歩が踏み出せないようなところは、膝で登りお尻で降りて進む。なるほど、カモシカコースだ。コースの入り口に上級コースと書いてあった。

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唐沢の滝。

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誰かが右側の岩を、ソクラテスに似ているという。なるほど。岩の哲学者だ。

その岩の高度を変えて撮った写真。

Imgp1604Imgp1607_2

御伽婢子は休みます。

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2009年7月11日 (土)

社会福祉大会 幽霊が武将を評する・5

7月11日(土)

狭山市の社会福祉協議会が創立30周年だそうで、狭山市市民会館でそのセレモニー。と言って、例年とそう大きく変わるわけではない。表彰式があって祝辞があって、講演と、ちょっとしたアトラクション。

講演は「中越地震の報告」で、講師は柏崎市社協の人。被災の状況と、救援活動の実際を話す。

もう一つの講演があって、「災害直後の連携体制」と言う題。狭山市の防災課の人が講師。こちらはまあ、うん、終わり。

御伽婢子・50

幽霊が諸将を評す・5

前回までのあらすじ 武田信玄の家臣鶴瀬安左衛門は恵林寺の境内で、いまは亡き武将たちが、武田信玄、上杉謙信、北條氏康、織田信長を評しているのを聞く。そこへ上杉憲政の家臣長野信濃守がやってきて、上席にいる山本勘助を非難する。勘助の第1の罪は、信玄を諫めず、敵の娘を妾にし勝頼を生ませ、武田家に内紛のもとを作ったこと、と言う。信濃の守の非難は続く。

「信玄の父信虎は剛毅不敵の人だったが、偏屈で自分勝手なところがあった。信玄がまだ晴信と言っていたころ、晴信を追放して弟の次郎信繁に跡を継がせようとした。信玄はこれを知って、妻の実家、今川義元と組んで、信虎を追い出し、家督を奪った。信虎は流浪して北條氏康に助けを求め、どうにか養われている。

後に信玄は自分の不幸を思い、信虎を甲府に呼び戻そうとしたとき、おまえはそれを諫めて、信虎を呼び戻したらまた内紛が起こる。そのままにしておけ、と言ったではないか。これでは信玄は、後々までも不幸者と言われてしまう。これがおまえの罪の第2である。

次は川中島合戦の時だ。山本勘助、おまえは軍配を任されたのに、西条山の上杉軍にばかり気を取られて、上杉軍が夜の間に川を渡ることに全く気がつかなかった。川を渡られてから慌てて陣を立てたが、このときも、武田軍の右側は上杉にとって攻めやすいところだったのに、ここを義信望月などと言う脆弱な大将に守らせた。案の定簡単に破られてしまった。

謙信は一気に押しつぶそうとして自ら先頭をきり、武田の本陣を切り崩した。西条山の軍が引き返してきたから良かったものの、信玄は危うく敵に討たれるところだった。この戦で、大勢の有力な大将が討たれ、おまえも恥じて討ち死にをした。これも前もって備えるべきを備えなかったためである。何を持って軍師などと言えるのか。これがおまえの罪の第3である。

おまえは武道の修行と称して諸国を渡り、四国では尾方という武将に軍法を伝授し、城の設計をし位置取りを決めたという。だいたいおまえが設計して建てた城などと言うものは何処にあるのだ。

今川家に嫌われ、信玄に拾われたらこれをひけらかし、人に笑われているのを知らないか。武田家の軍師になったからと言って、その後信玄には大した勝ち戦がない。おまえの功績など何もないではないか。

もともとおまえはわれわれの敵方だ。それを目の前にして、親しく語り合うなど、私の大将が許さないだろう」

山本勘助は一言もなく、黙って座を退き、信濃守に上座を譲った。

信濃守は重ねて発言した。

「皆様はそれぞれ立派な家臣ですが、私は1城をまかせられていたものです。そのために上座を占めます。はしたないことを言ったけれど、どうか許されよ」

                      続く

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2009年7月10日 (金)

今日の水彩画 幽霊が武将を評する・4

7月10日(金)

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水彩画の会。例によって子供のいる絵です。

御伽婢子・49

幽霊が武将を評する・4

前回までのあらすじ 武田信玄の家臣鶴瀬安左衛門は恵林寺の境内で、いまは亡き武将たちが、大将の批評をしているのを聞いている。北條氏安の家臣、北條左衛門は武田信玄の批評をする。武田の軍師山本勘助は、上杉謙信の批評をする。上杉の家臣直江山城守は北條氏康の評、武田の家臣多田淡路守は織田信長の評をする。

そこへ群馬の箕輪の城主だった長野信濃守がやってきた。これは関東の上杉憲政の家臣で、知謀無双の者だった。武田信玄と7年にわたって戦いをくり返してきたが、最後は病気でなくなってしまった。その子右京進は城を守る器量がなくて、間もなく武田信玄に城を落とされてしまった。

信濃守は辺りを見まわし、山本勘助が上座にいるのを見て、会釈もせずに、ずかずかと勘助の上座に座った。そして刀の柄に手を掛けながら、勘助をののしった。

「勘助が上座にいるとは何事であるか。おまえはどんな手柄があって上座にいるのだ。おまえには3つの罪がある。それを知らずに世間の人は、軍師だなどとあがめている。いまそれを暴いてやる」

山本勘助は顔色も変えずに、

「ならばそれを言いなさい。ちゃんと聞いてやるぞ」

と言う。

「ああ、言うとも。若いとき、信玄は領国のことを忘れて色に溺れたことがある。その時板垣信方が良くいさめて、信玄は心を入れ替えた。そして戦に明け暮れた。信州諏訪の祝部頼重が降参して、甲府にやってきたときだ。おまえは信玄に、頼重をだまし討ちにして信州を自分のものにしなさいとすすめた。そしてあえなく降参してきたものを殺した。昔から窮鳥懐に入れば、猟師もこれを殺さずと言う。従う気持ちを示した頼重を討つとは、無慈悲な心だ。これを、戦の習いというならば、獣の心と同じと言わなければならない。

そればかりではない。頼重の娘が美人だったので、信玄は色香に迷い、その娘を妾にしたいとおまえに相談した。おまえは賛成して妾にさせた。目の前で父を殺された者を、殺した者の妾にするなどと言うことは、人の道に外れている。おまえは諫めなければならかった。

その妾の腹に、勝頼が誕生した。そして太郎義信の継母となった。利口で口先の上手な女だったので、いろいろと讒言をした。信玄は知恵のある人間であるが、色に溺れ、妾の言葉を信じて義信を殺し、義信を支持した家臣飯富兵部、その他80人あまりの侍を咎なく殺した。これも元はといえば、おまえが諫めるべき時に諫めなかったためである。

これがまず、おまえの罪の第一のものだ」

信濃守はなおも言いつのる。

                    続く

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2009年7月 9日 (木)

次女妊娠 カナブン土に潜る 幽霊による武将の評価・3 

7月9日(木)

ボラグループ定例会。

午後、家のベランダに大型の昆虫が飛んできて、勢いよくベランダの植物のまわりを飛び回っていたが、すっと植木鉢の上に下りた。その大きさから。クマンバチ(スズメバチ)かと思ったのだが、そのまま鉢から飛び上がらない。

不思議に思ってベランダに出て、その鉢を見た。ピーマンの鉢である。カナブンと思われる昆虫が頭を土の中に潜らせて、もぞもぞと動いている。そして、2-3分のうちに完全に体を土の中に潜らせてしまった。こんなのを見るのは初めてである。中で卵でも産むのだろうか。幼虫が樹液でも吸おうというのか。掘り返そうかと思ったが、やめておいた。私はたまたま見てしまったけれど、見なければそのままにしておくはずだ。だから、見なかったことにする。

夜、ブログを開こうとしたら、私にとってはビッグニュースが飛び込んできた。次女が妊娠したというメール。高齢出産だ。ウーン。

何だか知らないけれど、カナブンを土から掘り返さないで良かった。関係ないんだけれど、関係づけてしまう。ピーマンの苗は、枯らさないようにしなくては・・・。もしカナブンが卵を産むのだったら、成虫になるまで、実が採れなくなってからでも、枯らさないようにしなくては。

本当は関係ないのだけれど、そんなことを考えてしまう。

御伽婢子・48

幽霊による武将の評価・3

前回までのあらすじ 武田の家臣鶴瀬安左衛門は恵林寺の庭で、いまは無き武将たちが、大将たちの評価をしているのを聞いている。まず北條氏康の家臣北條左衛門が信玄を評する。信玄は知謀武勇とも優れているが奇策はなく、和をを求めない。いつも戦ってばかりで大勝することなく、結局自国を守るだけに終わる。次に信玄の軍師山本勘助が上杉謙信を評する。謙信は戦上手で戦えば勝つ。しかしうちを固めないので、大業はなしがたい。今度は謙信の家臣直江山城守が北條氏康を評する。氏康は人格者で、いたずらに戦を好まない。実力はありながらそれを現さない。しかし現在のような乱世では、やみくもに戦うような武将の方が頭角を現す。

今度は信玄の家臣多田淡路守が話し出す。

皆さんの付けた評価はそれぞれ一理はあるが、、われわれごときがどうして名将の奥の心を知るだろうか。きっとわれわれに計り知れない深慮があるのだろう。信玄、謙信、氏康は、戦国のいまの世で、最も優れた武将であることは確かだ。しかし諸国の中には、それぞれわれこそはと思っている者は多い。名将と思われている人も、たいしたこともない人に倒されることがある。何が起こるか分からないのがいまの世の中である。信玄、謙信、氏康は確かに際だった名将だけれども、近隣の小身の大将でも侮ることは出来ない。

近ごろ、尾張の織田信長は大志があって、すでに近隣諸国を従えている。1556年、猛将の誉れ高かった今川義元を1朝のうちに倒した。

信長は深慮があって、武田信玄には縁を求め、伯母を秋山伯耆守の妻となし、姪を武田勝頼の室とした。常に甲府に人を使わし、まるで臣従の礼を取っているようだ。これはひとえに、信玄をなだめて後ろを安らかにし、足利義昭を将軍にもり立て、近隣の弱兵を攻め、強敵をなだめておいていずれ討とうとしているためだ。西方の弱敵をうち強敵をなだめているうち、すでに強力になり、、京都を自分の影響下にした。

信玄、謙信、氏康は自国のために戦って疲弊している。おそらく信長が大業をなすのではないか。

                              続く

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2009年7月 8日 (水)

新宿末広亭へ

7月8日(水)

山仲間のAさん、Kさん、Hさんと新宿末広亭へ行く。私にとっては、何十年ぶりかの寄席である。今日の出演は、落語芸術協会であった。

今でも昔と同じ分類だとするならば、東京の落語家は、落語協会と、落語芸術協会に別れているはず。その二つが末広と鈴本に、10日交替で交互に出演しているものと思う。

そのほかに談志1門と円楽一派がある(はず)。

寄席は、基本的には昔と同じだが、落語家は話の途中で脱いだ羽織を楽屋口に投げてやることはなくなっていた。羽織は後ろに脱いで、自分で持ち帰る。昔は、楽屋口の羽織がそのままになっているか、内側に引かれているかで、次の出演者が来ているかどうか、話を続けるかどうかを判断していたと思う。いまは時計を見て話を進めているようです。

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話を聞きながら、桟敷席の人をスケッチ。右側の人、若い外人さんでした。

若い出演者は声が大きく勢いがあり、耳の遠くなった私には聞きやすい。高齢の出演者は良く聞いているとおもしろいのだが、聴き取るのが大変。とは言え、久しぶりに大いに笑いました。東京太、東ゆめ子の漫才なども、おもしろかった。

昼の部、トリは関西の鶴光。

御伽婢子、休みます。

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トホホ2題 幽霊による武将の評価・2

7月7日(金)

こぶし福祉会授産施設へ。

作業を終えて、入間川の散策。霞川と入間川の合流点から少し上流、入間市側からのスケッチ。

Tati0009

Tati0010

下手でも何でも、スケッチが楽しみになりました。スケッチを趣味にすると、散歩の楽しさが、何倍にもなります。

妻が亡くなって10年。ひとりになって、水彩画のグループに入り、その仲間にボランティアグループを紹介してもらい、ボランティアをしているうちに車椅子の会の会長と友達になった。その会長に俳句の会に引きずり込まれ、俳句の会の人に山のグループを紹介してもらった。

藷づる式に付き合いが広がって、ほどほどの忙しさの中で毎日を過ごしている。碁もやりたいし、歴史にも興味があるし、まだやりたいことがあるけれども、とても全部は出来ない。心ならずもセーブしなくてはならないのだ。私はなんでこんなに気が多いんだろう。きっと、専門がないからだね。何でもほどほどに、ちゃらんぽらんにやっていればいいから、気が多いんだ。

妻の死は、いまでも残念だと思っているけれども、私がいまやっていることは、すべて妻の死後はじめたことである。そういえば、このパソコンもそうだ。妻には悪いが、結構毎日が楽しい。

さて、ドジの話。

私はドジ話だけで、このブログを維持できそうな気がする。ドジを全部書いていたらきりがない。

でも、今日は二つ書きます。

その1。夕食を作るべく、ゴーヤ、ナス、タマネギ、挽肉を炒めました。ゴーヤが大きかったので、3回位に分けて食べるようだと思っていました。味付けをすませて、なかなか良い味だと自分では思いました。出来たものを皿に移すため、ひとまずフライパンをガスレンジの上におきました・・・と思ったのです。ところが実際には、ガスレンジにきちんと乗せないまま皿を取りに行こうとしたようで、フライパンは、ガスレンジの前の床に、さかさに落ちました。

哀れおかずはすべてパア。掃除機で吸い込むことは出来ないので、ベランダ用の箒とちりとりで掃除をし、レンジ前に敷いていたカーペットは洗濯に。

それからあらためておかず作り。トホホ。

パソコン用印刷機のインクが切れました。そのつもりで買ったわけではないのですが、詰め替え用のインクがあります。

。普段はカセットを取り替えるだけですが、インクがあるので詰め替えようとしたわけです。先日他の色の詰め替えをしたので、今回は満足に解説書も読まずにやったら間違えて、手がインクだらけになりました。石けんで洗ってもたわしで洗っても、爪の間に染み込んだインクは落ちません。

後何日かは、いかにも不潔そうな手で過ごさなければなりません。トホホ。

御伽婢子・47

幽霊による武将の評価・2

前回のあらすじ 武田信玄の家臣鶴瀬安左衛門は、恵林寺で武将たちによる大将の評を聞いている。その武将たちは、皆、既に亡くなっている者たちである。はじめに、北條左衛門が、武田信玄を評した。信玄は武勇も知略も優れているが、正攻法だけで奇略がないので大勝は出来ない。結局自分の領地を守るだけに終わってしまう、と評した。

次に山本勘助が話し出した。

いずれの諸将も優れたところがある。だだ自分の方法だけを守っているので、それ以上に伸びない。

たとえば上杉謙信である。北陸第1の猛将で、その強さは肩を並べる者がない。戦法などは変幻自在で、敵と戦えば必ず勝つ。大軍を使うこと巧みで。大敵を前にしても畏れることがない。向かう者はすべて蹴散らしてしまう。謙信とまともに戦える者などはいない。越後にありながら、その名を北陸東海に輝かしている。

しかしながら、武勇はたくましいけれど、たいしたこともない小軍にも大げさな戦法で望み、良く敵に向かうが自分の足元を固めきれない。勇気もあり、義にも厚いが、大業はなしがたい。

今度は、直江山城守が話す。

いずれの大将も褒めようと思えば晴天にも上がる。けなそうと思えば、深い淵の底にも沈む。褒めるのもけなすのも、同じようなものだ。みな一時は覇を唱えるが、天命に依らなければ大業はなしがたい。

北條氏康は、生まれつき穏やかな性格で、人格者であり、家来もよく従った。敵に勝のにむやみに戦をせず、危ないことはしない。そのため、勝ち味は遅いが、勝つことは勝つ。権威はあると言っても謙虚である。

しかしながら現在のような乱世では、喧嘩早いほうが有利である。氏康は和を好んで戦をしたがらない。そのため、謙信、信玄に後れを取っている。

                        続く

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2009年7月 6日 (月)

金原亭馬生の俳句 幽霊による武将の評価・1

7月6日8(月)

金原亭馬生という落語家がいた。志ん生の子供で志ん朝の兄である。志ん生や志ん朝に挟まれているせいか、落語好き以外にはあまり知られていないかも知れない。でも、良い落語家だった。矢野誠一が今日の読売新聞夕刊に、その馬生の俳句を紹介している。

   チンドン屋日だまりにゐる余寒かな

   陽炎やこまかく動く猫の耳

   晩秋やひとり寝好む身の弱り

3句目は癌の告知を受けてからの俳句だそうです。どれも良い俳句ですね。

知人が俳句初心者の添削をしている。そこに提出された句。

   落ち葉踏み祖母の歩幅となりにっけり 奥富利幸

良い句ですね。さすがに添削は無しだ。

秀句などというものは、有名俳人だけが作っているわけではない。どこかで生まれ、人に知られずに消えていく秀句など、掃いて捨てるほどあるだろう。もっとも、私が作るような駄句ならば、バキュームカーで吸い込むほどあるだろうけれどね。

御伽婢子・46

幽霊による武将の評価・1

甲州に鶴瀬安左衛門というものがあった。元々は恵林寺の行者だったが、才覚があり、武田信玄に認められて、その家来となった。

1566年7月15日、盂蘭盆の供養をした。暮れ方になって、快川和尚に会うため恵林寺に行った。どうしたわけか連れてきた従者たちと、はぐれてしまい、鶴瀬ひとりで恵林寺に向かった。すると、恵林寺の門の外で、多田淡路守に出会った。淡路守は信玄秘蔵の足軽大将で、武勇に優れ、その名を知られていた。しかしながら数年前に病気で死んだはずである。夢でも見ているのだろうかといぶかりながら、鶴瀬は門の中に入った。

寺の庭には、むしろが敷かれていて、従者たちが人を待っているようだった。しばらくすると、越後の上杉謙信の家臣直江山城守、北條氏康の家臣北條左衛門佐、武田信玄軍法の師山本勘助、がやってきた。

まず山本勘助が上座に座り、次が直江、そして北條左衛門佐の順に座った。

北條左衛門佐が発言する。

武田信玄は知恵も武勇も優れている。思慮深く、戦の仕方もかっちりとしていて勢いがある。敵に向かって流水のごとく戦い、勝ち戦などは、燦然とした星、気性の潔いことは、輝く月のようである。

しかしながら、自らの武勇を誇り、和を求めない。戦国の世とはいえ、一生を戦いの中に過ごしている。その戦いぶりは堂々としているとはいえ、思い切った策がない。小さく勝が大勝はしない。大敗もない。その名は全国に響いているけれども、自分の領土を守るばかりで、それ以上になれない。

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2009年7月 5日 (日)

車椅子と仲間の会 和銅の銭

7月5日(日)

車椅子と仲間の会。

本職は畳屋のYさんが、そば打ちを趣味にして、いつの間にかその権威になって、弟子を取り、店を持つようになった。そのYさん、前会長と幼なじみだったらしく、お弟子さんと共に、ここ数年、車椅子と仲間の会のために、そばを打ってくれる。今日はその日。美味しくいただきました。

精神障害者のための福祉法人、こぶし福祉会の理事にSさんという方がいて、今年理事を辞めました。その時、関係者にそばを打ってくれたのですが、このSさんはYさんの弟子です。

今年から車椅子の会の会長になったのがKさんで、これはいつかこのブログにも書きましたが、両手両足を失った人です。そのKさん、義足義手と車椅子で、1人で函館に行き、先祖の墓参りなどしてきたようです。

西武線新狭山駅から電車に乗り、羽田から飛行機での往復。函館の墓参では車椅子の介助を頼んだそうですが、後は1人でやったのです。Kさんの行動力には心底感心します。自信がついたので、今度は帯広の友人に会いに行くそうです。

函館で泊まったホテル、バリアフリーの部屋があるのはそこだけだったそうですが、素泊まりで1泊3万円だって。やむを得ないのかも知れないけれど、高いなあ。バリアフリーの宿はそこしか無いのだそうだ。床はふかふかの絨毯だったそうで、実は車椅子にとって、これは大変だ。固い床の方が良いのです。車椅子は、芝生だの砂浜だのふかふかの絨毯だのは、大の苦手です。バリアフリーをうたうなら、その点にも考慮が欲しいところです。

御伽婢子・45

和銅の銭・3

前回までのあらすじ 京都の西院に隠棲する僧都昌快のところへ、秩父和通と名乗る老人が訪ねてきて、僧都と1日を語り合う。帰る老人を見送ると20メートルほど先の竹藪の前で、忽然と姿が消えた。翌日里人に頼んでその辺りを掘らせると、100文の和銅通報が出てきた。

「なるほど」と僧都は思った。

昔、43代目の天皇、元明天皇の御代、秩父から我が国の銅が産出された。そのため年号を和銅元年(708年)とあらためた。

その銅で和銅通報が作られた。ここ訪ねてきた老人が、外は丸く、内は四角の帽子を被っていたのは、和銅通報の形に違いない。青い衣を着ていたが、それは銅の錆だろう。5銖の重さは銭の重さであろう。

秩父和通と名乗ったのは、姓は秩父に産したこと、名は和銅通宝の略であることを表す。

銭ならば足が無くても諸国を渡り歩く。人相の悪いものも、銭を見れば口元をほころばす。無口な人も、銭を見れば口を開く。人にはさまざまな好みがあるが、銭を好まぬ人はない。屈強の兵士だって銭で動く。欲が深いものは銭を見れば何とかしてそれを手に入れようと思う。貪るものは、銭を見れば病人が医師に遇うようだと思う。まことに銭はくせ者・・・。

僧都は100文の銭を里人に分かち与え、自らは信仰を深くした。

後に山名の乱があって、里人は逃げ、僧都もどこにいるのか分からなくなった。

                         終わり

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2009年7月 4日 (土)

日本語では分からないパソコン解説書 和銅の銭・2

7月4日(土)

ブログを書く人達は、普通は相当パソコンが出来るのだろうと思います。ところが私は、何もできませんね。出来るのはワープロ位のものです。だからブログなんて、やっと書いているのです。

パソコンのことやインターネットのことがさっぱり分からないのは、第1に私の頭が悪いせいですが、解説の文章が分かりにくいと言うこともあります。

私は日本語は分かるんですけどね。日本語が分かるだけの人には、パソコンの解説書は分かりません。とにかく、カタカナが多いですなあ。私など、出てくるカタカナの8割位が、何のことだか分かりません。だから1ページ読むのにも、大変骨が折れるのです。パソコンの解説書を読む位なら、デカルトの『方法論序説』でも読む方がまだ分かりやすい。昔『方法論序説』を読んだときあんまり分からなかったけれど、パソコンの解説書よりは良いな。ほんとだよ。

カタカナ語を攻撃すると、何がなんでも日本式が良いと主張する国粋主義者に思われそうだが、そんなつもりはありません。カタカナ語が困ること、しかしながら国粋主義はカタカナ語よりも嫌いであることを、かなり前にこのブログに書きました。いまもその気持ちは同じです。

そんなわけで、何が何だか分からないままに、とにかくブログの書き方だけ覚えて、何とか書いているわけです。

先日、私のブログに、相互にリンクを張ってくれ、と言うコメントがありました。ところがリンクの張り方なんて、私は知りません。第1「リンクって何のこと?」って言うのが私の感想です。

それでも、リンクとやらの張り方を書いていないかと思って、手持ちの解説書をめくってみました。あんまりばかばかしい悩みのためか、それにもまして私の理解力が低すぎて書いてあるのにその場所を見つけられないのか、どちらかのせいで、まだその方法が分かりません。

御伽婢子・44

和銅の銭・2

京都の西院に世俗を離れて、昌快という僧都が住んでいた。そこへ秩父和通と名乗る50歳位の男が訪ねてきた。話してみると、古今に通じ、仏法に深い知識がある。あまり見かけない服装なので、僧都は、そのわけを聞く。

「あなたの帽子は見かけない形をしています。外が丸くて、内側が四角なのはなぜですか」

「天地には様々な形があるけれど、詰まるところ丸と四角です。天の形は丸く、地の形は四角です。丸は偏りのないことを現し、四角は正しいことを現す。私は何者にも偏らず、しかも正しくてゆがみがないことを現して、帽子にしています」

「あなたのお召し物は薄くていかにも軽そうです。どこで織られた衣を使っているのですか」

「これは5銖(ゴシュ)の衣です。天上界の衣は3銖ですが、人間界のものはもっと重いのです」

やはりこの方はただの人ではないと僧都は感じた。

「あなたは秩父和通と名乗られましたが、どのような方なのですか。真実を教えてください」

「私は僧都が道心深いものと知って訪ねてきたのです。名乗る必要はないでしょう。名乗らなくても、いずれ分かります。しばらく話しているうちに、もう日が暮れそうです。これでお暇をしましょう」

僧都が見送ると、草庵から20メートルばかり先の竹藪の前で、ふっと姿が消えた。

翌日里の人を頼んでその消えた辺りを掘らせてみると、1メートルばかり掘り下げたところから一つの箱が出てきた。開けてみると、中に100文の銭が入っていた。それは和銅通報であった。

昨日の男は、この銭の精だったのだと僧都は思った。

                     続く

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2009年7月 3日 (金)

98歳の弁 和銅の銭・1 

7月3日(金)

近ごろは100歳前後の人に会うことが珍しくなくなった。昨日訪問した老人介護施設では、102歳の人がいる。私は時々しか行かないのに、会うと「久しぶりねえ」などと言う。ぼけていないのである。

今日特養Sで私が相手をした人は、明治43年生まれ、98歳の人が2人と、大正7年生まれ89歳の人の3人。これが全然ぼけてないんですね。98歳の人2人は車椅子に乗っているけれど、平らなところならば誰にも押してもらわずに、自分で移動する。89歳の人は杖をついて歩く。

その、98歳の1人が言う。

「いまの政府は駄目ねえ。テレビで見てると、全然統制が取れてない」

ウーン、恐れ入りました。

○ 

御伽婢子・43(第6巻)

和銅の銭・1

   原作    浅井了意

   現代語訳 ぼんくらカエル

昔、京都四条の北大宮の西に、淳和天皇の離宮があった。後に橘の美千代大后住まわれたという。ここを西院という。時は移り、宮殿は消えてしまったが、名前だけは残っている。その辺り、いまは農民の住みかになっている。

文明年間(1469-1487)に長柄の僧昌快と言って、学、行共にに優れた者が世を厭い、西院に草庵を結んで引き籠もっていた。

ある日、見慣れない者が尋ねてきた。歳は50歳位。姿形が普通ではない。天辺は丸くて、下は4角の帽子を被り、着ているものは薄くて、蝉の羽根のようだ。秩父和通(チチブイズミチ)と名乗り、昌快の前に座って、さまざまな話しをした。

「私は武蔵の国秩父の生まれだが、長じて京に上り、以後、日本中を巡り歩いた。およそ、行かないところはない」

和通の知識は深くて、真言3部の秘経、両界の曼荼羅、印明、陀羅尼、灌頂に至るまで、その理を述べるのだが、僧都の未だ知らないことが多かった。昔から今までの世の中の移りゆく様を、まるで見ているように話す。

                      続く

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たまには政治の話 幽霊が夫にあって語る・2

7月2日(木)

毎日書く日記だから、たまには変わり映えすることを書きたいと思うのだけれど、出来ないねえ。いつも似たような話だ。多分私の頭の血管の中を流れているのは、血液ではなくて、オカラかオガクズです。脳みそがパサパサと乾いて、柔軟な思考なんて出来やしない。

老人介護施設Kへ。手品をしたり似顔絵を描いたり、話し相手をしたり。ボランティアと言ったって、気楽なものです。

たまには政治の話も書きましょうか。麻生さん、いろいろ言っていたけれど、大臣を2人作りました。どうせすぐ終わるのですが、2人には、元大臣の肩書きがつくわけです。おめでとうございますと言っていいのかな。

小泉さんは「自民党をぶっ壊す」と言って、人気を得ましたが、本当に自民党をぶっ壊しましたね。小泉さんの功績です。

麻生さん。今さら人事をいじったって、人気が出るわけ無いじゃないですか。たとえ宮崎県知事を引っ張ってきたって、急に自民党の人気が上がったりしないと思いますよ。いくらかは軽率な人の人気を得られるかも知れないけれど。大した変化にはならないでしょう。

自民党は、民主党を「政権担当能力がない」と言いますが、自民党だって、政権担当能力があるとは思えません。天下り先の法人をつぶすことも出来ないし、天下りもそのままです。選挙目当てのばらまきをして、それが政権担当能力のある党のすることでしょうか。自民党は、とうの昔に、政権担当能力を失っています。今はもう、末期症状ですね。自民党は壊れちゃったよ。

民主党も、いろいろ問題はあるけれどね。

御伽婢子・42

幽霊が夫にあって語る・2

前回のあらすじ 近江の野路忠太は仕事の関係で3年ばかり鎌倉に来ていた。妻が死んだという知らせで、慌てて近江に帰る。すると妻の幽霊が、昔使っていた余志子という少女を連れて、ぼんやりとした形で現れる。

「余志子はどうしてそこにいるのだ?」

「私は3年前に死んだけれども、今はなくなった奥様に仕えているのです」

「年老いた女もいるようだけれども、あれは誰だ」

妻が答える。

「あれは私の乳母です。私についてきました・・・閻魔大王は、あなたが嘆き悲しむのを知って、私に少しの暇をくれました。そのため、いま会いに来ているのです」

「あの世では一体何を食べているんだね」

「生臭いものは食べません、いつも食べているものは粥です」

忠太は粥を作って3人にすすめた。妻は言う。

「私たちには娘が1人ありましたね。その娘に会いたくありませんか?」

「それは会いたいさ。あのときはまだ生まれて半年だった」

「娘は7歳になりました」

「あの世でも歳をとるのか」

「それはこの世と同じです」

娘が出てきて、膝をついて父親に挨拶をした。7歳だけれどもなかなか美しく、賢そうに見える。この世にあれば妻の形見と思って可愛がるものを、と思い、かき抱こうとしたら、煙のように消えてしまった。

「あの世では、どんなところに住んでいるのかネ」

「あなたのご先祖と一緒です」

いろいろと話しているうちに、はやくも夜は明けようとしていた。

「いまは住む世界が違っているが、われわれはいつかまた一緒になれるのか?」

忠太の問いに妻は答える。

「40年ほど先になります。そうしたらまた一緒になりましょう」

もう、鳥の声が聞こえる。妻は泣きながら小袖の襟を解き、歌を書いて忠太の渡した。

   わかれてのかたみなりけりふじ衣

      まりにつつみしたまのなみだは

忠太は白銀の香炉を取り出し、

   なき霊よことなる道にかへるとも

      おもひわするな袖のうつり香

と書いて渡した。名残を惜しみながら妻は出て行き、朝靄の中に消えた。先ほど妻たちが食べた粥の椀を見ると、中味はそっくり、冷えて残っていた。忠太は何もかもあじきなく、髪を剃り、諸国を修行し、最後は高野山に登って、妻の菩提を弔ったのであった。

                    第4巻 終わり

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2009年7月 1日 (水)

歯磨き 幽霊が夫にあって語る・1

7月1日(水)

夕方歯ブラシを買いに近くの薬局へ出かけた他は、1日中家に籠もっていた。家にいてもたいしてやることはない。数独をしたり、本を読んだり、鼻毛を抜いたりしていた。

私の知人で、1日5回歯をみがく人がいる。3度の食事の後とおやつを食べたとき、寝る前で5回。すごいねえ。真面目だなあ。歯がすり減らないのかなあ。

私は朝晩の2回位ですね。今日などは1日中家に居たのだから、5回でも6回でもみがけるんだけれど、面倒です。本当は毎食後5分以内にみがくと良いんだそうです。私はやる気はないけれど・・・。

福島にいる娘は、実務経験はないけれど、栄養士の資格を持っています。その娘がまだわが家にいて、栄養士の資格を取り立てのころ、「お父さんは栄養指導を1番しにくいタイプ」と言いました。理由は、「こっちの言うことは理解するのに、守る気がまるでない」からだそうです。

それはまあ、そうですね。そんなに健康に良いことばかりやっていられません。酒だって、休肝日を作るつもりはないし、好きなように飲んでいます。いつの日かその障害が出て、「しまった!」なんて思うのが落ちかも知れないけれど、それまでは飲むのです。

  こんな日は飲む定めです冷やし酒  ぼんくらカエル

「こんな日」に限らず、どんな日でも飲むのです。

あれ? 話しが飲む方へ行っちゃった。歯磨きの話しでした。

私は1日2回歯をみがきます。しかし、朝の磨きは形ばかりの磨き方。「みがきましたよ」という言い訳のために歯ブラシを歯にあてる程度です。この間まで、夜も同じだったんですが、最近、夜だけは丁寧にみがくように心がけています。

歯や歯茎の保護のほか、気になるのは加齢による口臭です。私に口臭があるのかなあ。自分では分からないんですよね。1日5回も歯磨きをしたら、口臭が無くなるんですかね。口臭は口だけのせいではないんでしょうけれど・・・。

御伽婢子・41

幽霊が夫に語る・1

近江に野路忠太という者が住んでいた。妻がいて、娘を1人儲けたが、生まれて半年位で死んでしまった。永禄(1558-1570)の末ごろ、仕事の都合で鎌倉に行ったが、国中が戦乱になり、帰るに帰れず、3年ほどたった。

ある夜、忠太は妻の夢を見た。妻はさくらの木の下に立って、花が散るのを見て涙を流したかと思うと、井戸の淵へ行って、中を覗いて笑った。易者に占ってもらうと、「花は風で散るもの、井戸はあの世につながるもの」という。

3日後、妻は風邪をこじらせて死んだという便りが来た。

忠太の悲しみは限りなかった。戦にかまけて帰らなかったことが悔やまれる。なんとしてでも帰るべきだった。遅きに失したが、忠太は近江に帰った。家に帰って、妻の手慣れた調度を見ても、今さらのように悲しみに襲われる。

  思い寝の夢のうき橋とだえして

      さむる枕にきゆるおもかげ

秋も半ばで、月は清く草むらでは虫がすだく。私がこんなに恋い慕っているのだから、せめて夢にでも出てきてくれと願って寝ても、涙ばかりでなかなか寝付けない。

夜中になって、女のすすり泣く声がかすかに聞こえた。注意深く聞いていると、何だか妻の声に似ている。もし妻が幽霊になって出てきているのなら、夫の私の前に、なんで姿を現さないのだ。この世とあの世の違いはあるけれど、仲のよかった夫婦ではないか。妻だったら、ぜひ出てきてくれ、と願った。

女の声が窓の外から聞こえた。

「確かに私はあなたの妻です。あなたがあまり嘆き悲しむので、今夜ここへ来たのです」

「心に思うことを書き連ねたり、歌にすることは出来るけれど、言い尽くせるものではない。そこにいるのなら、どうか姿を現してくれ」

「この世とあの夜では、相まみえることは出来ないのです」

と、妻の声。しかし、3年前になくなった余志子を連れて、妻の面影がぼんやりと浮かんだ。余志子とは、昔忠太に仕えていた少女である。

                      続く

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