地獄を見てよみがえる
6月23日(火)
御伽婢子・33
地獄を見てよみがえる・1
原作 浅井了意
現代語訳 ぼんくらカエル
鎌倉に浅原新之丞という者が住んでいた。才知があって、弁舌が巧みであった。儒学を尊び仏法を馬鹿にしていた。あの世だとか輪廻転生だとか因果応報などと言われても、とんと気にせず、自説を述べるのである。僧、法師と言えども尊敬するどころか、なんのかんのと口にまかせてののしり、言い負かしてしまう。
その隣に孫平という者がいた。金持ちで欲が深く、でたらめな生活をして後世のことなど考えず、いたずらに魚を獲って殺生することを好んだ。
その孫平が、あるとき病についたが、あっさり死んでしまった。妻子は悲しんで、大金を使って、祈祷したり坊主に経を読ませたりしていたら、3日目には生き返った。
孫平は死んでいる間の出来事をかたった。
「俺が死んで冥土へ行ったけれど、その道は明かりが無くて暗かった。道を聞くにも、教えてくれる人もない。そろりそろりと歩いてしばらく行くと、門があった。中に入ってみると役所である。役人が俺を呼んだのでそばに行くと、こう言う。『おまえは死んだのだけれども、家族が悲しんで、大金をはたいて、僧を呼び、祈祷をした。その功徳で、再び娑婆に返してや』やれ嬉しやと思って門を出たら、生き返った」
孫平は「まことに仏事の効力はたいしたものだ」と喜んだ。
浅原はこれを聞いて大いに笑った。
「欲の深い地頭や代官は、賄賂をもらっては邪なものの肩を持ち、賄賂を送らないものに罪をなすりつける。金持ちは裁判にも勝つが、貧乏人は正しくても負ける。そんなことはこの世ばかりと思ったのに、あの世でも同じなのか。冥土の役人も金を積めば死んでも生き返らせる。それでは、貧乏人はあの世でも浮かばれない。地獄の沙汰も金次第というわけだ。閻魔大王も、金で罪を許すのか」
そういって、次の歌を詠んだ。
おそろしき地獄の沙汰も銭ぞかし
念仏の代によくをふかかれ
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