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2009年6月30日 (火)

狭山市に前方後円墳? 棺から死人がよみがえること

6月31日(火)

精障者作業所Mへ。今日は臨時。営繕の仕事などがあった。

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狭山市奥富地区で撮った写真です。この丘、何かに似ていると思いませんか? 私は前方後円墳に似ていると思うのです。規模は小さいけれど、形は似ています。狭山に前方後円墳があるなんて聞いたことはないけれど・・・。だいぶ前から気になっています。

御伽婢子・40

棺の屍がよみがえること

気持ちの悪い内容なので、この章をそっくりカットします。

死んだと思った者がよみがえることがあるけれども、昔からそのようなときは打ち殺したものだった。可哀想に思って生かしてしまうとろくなことはない。だから打ち殺すべきだという内容です。

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2009年6月29日 (月)

エロサイト、いい加減にしろ! 一睡30年の夢

6月29日(月)

ブログを開いて、まず最初にすることは、エロサイトの削除。なんでこんなに沢山、エロサイトのトラックバックが付くんだろう。それにもう一つ煩わしいのが、芸能人の裏情報みたいなもの。誰が誰と寝ようと別れようと、どうでもいいことだ。それと、何かを売りたい話。そんなもの全部入らないけれど、削除しそこなっているのも沢山ある。いい加減にしろ! って感じだ。

精障者作業所Mへ。野菜が収穫期。インゲン、ナス、など。

御伽婢子・39

一睡30年の夢

1531年、細川高国と細川晴元の戦があり、高国は敗れて自害した。高国の家来遊佐七郎は浪人になって、ひなびた田舎に隠れ住んでいた。

世の中が落ち着いてきたので、京に上って、仕官の口を探そうと思い、召使いを1人連れて、都に向かった。山崎の宝寺と言うところに詣でて一休みしていたら、まぶたが重くなってきた。

寺の門前に出てみたら、男が籠に山桃を入れて休んでいた。遊佐が誰の家来か聞いてみると、「交野治左衛門」に使われるものだという。

「交野は将軍家の家来で、ある戦いで討ち死にをしました。一人娘が石尾源吾という人の妻になったのですが、その石尾も三好に討たれてしまいました。まだ21歳の若さです。その母は才覚のある人で、娘に婿を取りたいと考えています。由緒のある家なので、家督を譲りたいと考えているのです」

交野の妻は、遊佐の伯母である。しばらく音信不通だったけれども、山崎に住んでいることが分かり、訪ねていくことにした。

その家に着くと、伯母は大いに喜び、こもごも積もる話しをした。交野の家は大方討ち死にをして、残されたのは一人娘だけどと言う。

「おまえは私の甥だ。何も京へ上るまでもあるまい。私の娘と結婚しなさい」

という。娘を見ると、これがなかなかの美人である。遊佐七郎は嬉しくなって、その申し出を受けた。

二人が結婚してしばらくすると、京都から使いがあり、七郎を仕官させるという。河内守に任じられた。七郎は将軍にことのほか気に入られ、トントン拍子に出世した。山崎に立派な家を作り、召し使う侍、出入りする者はきわめて多く、門外には使者として尋ねてくる者の馬がいつも繋がれていた。

結婚してすでに30年もたち、7男3女を儲けた。男子はそれぞれ出世し、女子は名門に嫁いだ。内孫、外孫、あわせて孫は8人。一家の繁盛はこのうえもなかった。

そこへ思いがけず3000騎あまりの敵が攻めてきて、四方より火を放ち、ときの声を上げて攻めてくる。妻子は泣き叫び、家人は落ちのびた。もはやこれまでと切腹しようとしたが、すでに敵は目の前に来て、うちかかってくる。一太刀二太刀、相手の刃を交わし、汗みどろになったところで、目が覚めた。夢だったのである。

傍らに召使いがいる。およそ2時間ばかり寝ていたらしい。その間に30年の夢を見たのだ。思えばこれは邯鄲の夢である。良くも悪くもこの世は夢と悟って、七郎は出家し、高野山に籠もって修行者となった。

                      終わり

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2009年6月28日 (日)

メンタムは乾燥肌の友 夢のちぎり・3

6月28日(日)

私は乾燥肌です。乾燥肌が問題になるのは、普通は冬です。夏は汗をかくので、肌が乾燥するなんてことはないんです。ところが私の場合、夏に問題があります。夏になると、決まって顔が痒くなります。湿疹が出来るわけではないし、原因はよく分かりません。とにかく顔が痒くなるのです。おかげで、両手で顔をなでる回数が多くなります。

原因は分からないのだけれど、私の勘では、なんとなく汗腺に関係がありそうだと思っています。顔からも汗は出るのですが、何かこう、汗の出方がストレートではないのではないかと言う気がするのです。出たい汗がスムーズに出ないためのかゆさではないのかと思うのです。痒いのはおでこと頬、あごの下くらいまでで、首は何でもありません。

毎年のことなので、たいして気にはしませんが、メンソレータムなどを顔に塗るといくらか違います。今年も、メンタムを友とする季節がやってきました。

御伽婢子・38

夢のちぎり・3

前回までのあらすじ 舟田左右は酒屋の川床で見かけた娘に恋してしまい、夢の中で、毎晩娘に会いに行く。夢の中でちぎり、夢の中で語らい、、思いは募るばかりである。

あまりの恋しさに、舟田はまた舟を出して、酒屋に出かけた。主は舟田を見てことのほか喜び、家に呼び入れて話しをはじめた。

「私には二十歳少し前の娘がいます。去年の秋、あなたがここでお酒を飲んだとき、娘はあなたを見かけたようです。それ以来恋煩いで、半分寝ているような状態です。医者にも診せたし、祈祷師にお払いもさせましたが、病は重くなるばかりです。時々寝言で、あなたのお名前を口にします。その娘が、あなたが明日見えると言いました。もとより常軌を逸している病人の言うことですから信じませんでしたけれど、本当に来てくれたのですね。嬉しい限りです」

主はなおも語る。

「娘は私にとっては一人娘。何物にも代えがたい宝です。その娘があなたに恋いこがれているのです。幾らもない財産ですが、私の遺すものはすべてあなたに差し上げます。ぜひ娘と結婚してください」

もとより願ってもないことである。舟田は承知して娘の部屋に入った。部屋のようすも、部屋の前の庭も、皆夢に見た通りである。娘の姿形も、夢の通りであった。娘は起き上がり、舟田に訴える。

「去年の秋あなたを見てからと言うもの、恋しくて胸がふさがる思いでした。そのためか、毎晩あなたと契る夢を見ました」

その夢の内容を聞くと、舟田の見たものと同じである。まことに魂は通っていたのである。世の中にはこんなこともあるものだと、人々は噂した。

                      終わり

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2009年6月27日 (土)

行田市内散歩 憂楽帳 夢のちぎり・2

6月27日(土)

行田市内散歩

歩く会、参加6人。行田市郷土博物館~水城公園~さきたま古墳群(風土記の丘)

梅雨時なので雨の心配をしていたが、現実には暑さの心配をしなければならない気候だった。予報では、35°位にもなろうかと言うことだったが、どうしようもなく汗が噴き出るほどではなかった。それでも暑いには暑い。みんなバテました。

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  • Tati0011

私がリーダーなので、例によってドジなことをくり返し、笑い話を後世に残そうかという位なのですが、それについては触れません。行き帰りの車内でのスケッチです。仲間が2人、無関係な人が1人。どれが誰かは、まあいいでしょう。肖像権の侵害と言われるほどは似ていません。

憂楽帳

毎日新聞のコラムに「憂楽帳」というのがある。新聞記者の新人時代の哀感を綴ったものが多く、愛読している。教のコラムは大平翔也という人の『恩人』という記事。記者が駆けだし時代、行きつけの小料理屋の「おばちゃん」と、他人には親子かと疑われるほど仲がよかったこと。その「おばちゃん」が店をたたみ、ひとり暮らしをはじめたこと。親類の世話になろうとしないこと。体調と生活の不安を感じながら生きていること。などが書かれている。

判るなあ。1人で気丈に生きてきた人間が、親戚の世話にはなりたくないというその気持ち。「独居老人が安心して暮らせる社会にはなっていないなとあらためて思う」と記者は言う。そうだよなあ。思わず涙した。

こう書くと、何だか私が自分の身に引き比べて書いているように思われそうだが、そんなわけではない。歳をとれば。ある種の覚悟は必要なものだ。ただ、「独居老人が安心して暮らせる社会なっていない」というのは、その通りだと思う。

御伽婢子・37

夢のちぎり・2

前回のあらすじ 舟田左右は若く、裕福で、イケメンである。秋の稲刈りのころ、舟で自分の田の見回りに来て、ある酒屋の川床で酒を飲む。酒屋の主人の心くばりのあるもてなしで、気持ちよく酔っている。

酒屋には年頃の娘がいて、川床に続く部屋に住んでいた。川床で声がするので覗いてみると、なんとまあ、たいしたイケメンの男が飲んでいるではないか。ぼうとして恥ずかしさも忘れ、間仕切りの垂れ幕から顔を出して見とれていた。すると舟田も気がついて、二人は目と目があった。娘は慌てて顔を引っ込めた。

娘の方も美人である。親は歌草紙などを多く与えて育てたため、教養もあり、文字なども流れるように書く。それが知性となって顔のも表れている。舟田も心を奪われたが、声を掛けることも出来ずに酒屋を辞した。

さてそれからというもの、舟田の心は酒屋の娘のことばかり。とうとう夢にまで見るありさまだ。夢の中で酒屋に行き、川床から娘の部屋に入る。娘の部屋の前には小さな庭があって、山や谷、川や海、山から砂浜までの道のようすなど、実によく現されている。池の水は清く、水際の草、魚、虫の声、窓に飛び交う蛍、何もかも風情がある。

軒には小鳥の籠が下げられ、部屋には焚き込められた香の匂いが籠もる。美しい花瓶に菊が生けられ、机の上には硯箱。床に源氏物語や伊勢物語その他の双紙類。壁には東琴(6弦の琴)が立てかけてある。

舟田が入ってゆくと、娘は嬉しげに近づき、手を取って閨に導いた。互いに思いを語り、ちぎりを交わし、朝に帰った。それからは、夜ごと夜ごとやってきて、ちぎりを交わさぬ夜はない。

ある夜、娘は東琴を引き寄せて、想夫恋の曲を弾いた。またある夜は、娘が縫う小袖を、舟田は不用意に火鉢の火で焦がしてしまった。更にある夜は、娘は舟田に白金の香合を贈り、舟田は娘に水晶の玉を与えた。

目が覚めると、舟田の枕元に香合があり、水晶の玉はなくなっていた。あまりの不思議さに、

  君にかく逢夜あまたのかたらひを

      夢としりつつさめずあらなむ

(大意 あなたと会って毎夜の語らいを、夢とは知っているが醒めなければいいのに)

と詠んだ。

                        続く

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2009年6月26日 (金)

目が霞む、耳が遠い 夢のちぎり・1

6月26日(金)

眼鏡は、幾つ持っているのか自分でもよく分からない。よく使うのは3個である。一番高いのは4万円くらいで、こんな高いもの、本当は買いたくなかったけれど、眼科にきちんと調べてもらい、これはと言う眼鏡を掛けて30分くらい新聞を読んだ上で決めたものなので、やはり1番調子がよい。しかしこの眼鏡、老眼専用で、本を読んだりパソコンにむかったりするには調子が良いのだが、目を上げて遠くを見るのは不便である。遠近両用ではないのだ。

眼鏡屋で調べてもらって買ったのが1万5千円くらいで、これは遠近両用である。これと、ロジャースで1500円くらいで買った老眼鏡が、主に使っている3個である。

そのほか、トイレの中とか、電話の前とか風呂場とかにも眼鏡がある。それぞれ、たまには使う。

問題は、もっともあう眼鏡を使っていても、目が霞んだりすることだ。歳をとると、誰でも白内障になるんだってね。今は手術で治るようだ。そのうちお世話になるようかな。

本当は、耳の遠いんです。ボラグループの会合や、ボランティア中には、なるべく聞き返すけれど、俳句の会などでは困るんです。先生方の話がよく聞こえない。私の句の評をしてくれているときなんか、何度も聞き返すわけにはいかないんだもの。他の人の句についても、意見を求められたりする。言うことは言えても、ピント外れのことだって言いかねない。相手の言うことがよく分からないのだから、困っちゃうな。想像を巡らすだけでは限度がある。

補聴器も、ちゃんと調べてもらって、それなりのお店で買ったら、高いんだよね。私はビンボーだから、4万も5万もしたら、本当に考えてしまう。別段それで破産するわけではないけどさ。

水彩画の会。

早めに切り上げて、前回ロビーに展示した絵を取り外し、パネルなどを片付ける。今回の展示、何事もなく終わって、少しホッとする。1年交替で代わる役員を、今年はしているものですからね。

展示された作品は、全部で46点でした。

今日描いた絵を載せましょう。今回は珍しく、子供を登場させない絵です。谷内六郎っぽい絵を描きたい私としては、少々脱線です。先日奥多摩の日原鍾乳洞に行ったとき、東日原と言うところを通りました。その東日原の絵です。斜面にへばりつくようにして集落がありました。

Imgp1558

私は細密画は不得意で、こんな荒っぽい絵になります。

御伽婢子・36

夢のちぎり・1

前書き この章は大変な美文調で書かれています。現代語訳ならば、それを写すのが本当と思います。しかし、私は原文の味をそこねるでしょうが、意味を取れればよいとして訳します。

京都の淀に、船田左右という者が住んでいた。元々は武士だったのだが、武門をはなれて平民として生きていた。気は優しくてイケメンで、家も豊かだった。歳は22歳、悪く言う人はいなかったが、女好きという評判はあった。

橋本と言うところに田を持っていて、使用人に耕させていた。あるとき、稲刈りの様子を見ようとして、舟に乗って行った。行ってみると橋本に北に酒屋があって、人の出入りが多く清潔な家のように見える。船田は酒屋の後ろの岸に船をつけ、酒を買った。そして舟で飲もうとすると、主が、

「どうぞ上がってください」

という。家から川の岸に柱を渡して板を張り、その上が川床になっている。誘われるままに上がると、柳は垂れ、すでにはじまった紅葉も美しい。虫の声はすすきのもとで弱々しく、菊も咲き誇っている。川は遠くまで見渡せて、カモメも声を上げて遊んでいる。

主は盃を出し、淀で捕れた鯉のなますを出して、酒の肴とした。また近くの沢で取れた野芹などもすすめた。船田は主の心意気に感じて、盃をかさね、心地よく酔った。

                           続く

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2009年6月25日 (木)

ご苦労さん 地獄を見てよみがえる・3

6月25日(木)

私のブログで、1番多い記事は「言い訳」でしょう。今日だって言い訳ではじまるんだよ。ハハ。

何を書こうか考えても思いつかなかったけれど、取りあえずデスクトップのパソコンの前に座っています。そうすれば、言い訳でも何でも、とにかく書き始めることが出来ます。

書くことがないなら休めばいいだろうというのはもっともな考えだけれど、私の場合は、元気でいるよという娘たちへのメッセージになっているので、うかつに休めません。休めば、何かあったかと思われるわけです。

あー、あーあー、ただいまマイクの試験中。本日は晴天なり、本日は晴天なり。ぼんくら、ぼんくら、ぼんくら、ただいまパソコンに入力中、キーボードを叩いています。ただいま指の運動中、ぼんくら、ぼんくら。

ハイ、読んでくれた方はご苦労さん。

ボラグループ定例会。

老人介護施設Kへ。

御伽婢子・35

地獄を見てよみがえる・3

前回までのあらすじ 浅原新之丞は仏道を馬鹿にして「おそろしき地獄の沙汰も銭ぞかし念仏の代に欲をふかかれ(大意・地獄の沙汰も金次第だから、念仏を唱えるよりもお金を稼ぎなさい)」という歌を作り、閻魔に呼び出された。隣の孫平はどん欲で、川魚の殺生ばかりしていたのに、大金をはたいて仏事をしたので、地獄から帰された。新之丞は閻魔にその矛盾を述べる。新之丞は許され、孫平は再び呼び出されることになる。

すぐに孫平は手枷足枷をされて閻魔の前に引き出された。

新之丞は帰されることになったが、冥官に向かって願い事をした。

「私は儒教を勉強したが、仏教は信じていなかった。今ここへ来て地獄があることは分かったが、ふかく仏教に帰依するために、地獄のようすを見せて欲しい」

(中略。この後、新之丞は地獄を見て歩くのだが、私はこれ以上訳す気がしない。牛頭馬頭がどうしたとか、皮を剥かれる者だとか火に焼かれる者だとか、いろいろ出てくるわけです)。

(地獄を見終わって)新之丞は冥官に連れられて門を出ると、たちまちわが家にあってよみがえり、孫平のようすを聞けば、昨夜再び亡くなったという。

この後新之丞は鎌倉の建長寺で仏道を学び、研鑽を積んで、深い道理を理解したそうだ。

                        終わり

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2009年6月24日 (水)

科学は信仰? 地獄を見てよみがえる・2

6月24日(水)

われわれにとって、科学は信仰なの?

私は何の宗教も信じていない。だから、残念ながら死語は灰になるだけだと思っている。魂も、思想も、私の経験も、死んでしまえばすべてはパアだ。私程度のものはそれで良いのだけれど、アインシュタインも、ゲーテも、その意識自体を残すわけにはいかなかった。発表されたものから、彼らの知識や思想をある程度は受け取れるけれど、彼らの思想や意識その物を受け取っているわけではない。

たとえば私は、アインシュタインの「相対性原理」なんて、何にも分からない。それどころか、地球が太陽を回っていると言うことだって、証明しろと言われたら、証明することが出来ないのだ。それなのに、アインシュタインの言ったことは正しいのだろうし、地球が太陽のまわりをまわっているというのも正しいのだろうと思っている。

これって、信じているだけなんですね、自分で証明できないのだから。私は天国も地獄も、最後の審判も信じないのに、地球が太陽のまわりをまわると言うことは信じています。なんでだろう。宗教の信じ方と同じような気がします。私は科学と言う宗教を信じているかな。

科学と宗教の違いなんて、私にはよく分かりません。多分、検証可能なのが科学だと思います。たとえば地球が太陽のまわりをまわっていると言うことは、私での天文学の勉強をしてきちんと観察をすれば、同じ結論を得られるのだろうと思います。だけど、「相対性原理」とか「ビッグ・バン」などについては、私の能力で、果たして理解できるかどうか怪しいものです。ただ、優れた頭脳を持つ人達が、検証をして、その通りだと言っているのだから、正しいのだろうと思っています。

宗教の場合だと、最後の審判と言われても、検証可能な方法がありません。あの世から帰ってきた人もいないし、検証を抜きにして、信じるとか信じないとか言うしかないんです。

時々、名声を得たいためなのか、何か新しい発見をしたと論文を書いて、他の人が検証しようとしても出来ずに、偽論文だった、なんていうことがおきますね。そういう人は、科学の分野でやったからいけないのです。宗教の分野だったら、やみくもに信じる人が出て、新興宗教の教祖になれたかも知れません。

御伽婢子・34

地獄を見てよみがえる・2

前回のあらすじ 鎌倉に浅原新之丞という者が住んでいた。儒学の心得があり仏法を馬鹿にしていた。その隣に孫平という者がいて信心もなく無駄な殺生をするような男だった。その孫平が死んで、妻子は大金をはたいて仏事を行った。その功徳で孫平は生き返った。その話を聞いて新之丞は、この世ばかりでなく、あの世も金次第だと笑った。

さて、新之丞は家に帰り、灯りをつけて座っていた。そこへ2人の鬼が来て「閻魔の使いだ。こちらへ来い」と、新之丞の両手を掴んで外へ引きずり出した。

歩くでもなく、飛ぶでもなくしばらく行くと、役所の前に来た。閻魔大王の裁きの場らしい。奥の中央に大王が座っており、冥官達もその脇に侍っている。2人の鬼は新之丞をその屋敷の前の庭に引きずり出した。

大王は、怒って言った。

「おまえは儒学を修めたが、深い道理も知らずに仏法をおとしめた。その舌を抜かなければならない」

新之丞は平伏しながら言った。

「私は何も悪いことはしていません。儒教の教えを守って、君臣父子夫妻兄弟朋友の道を守ってきました。仏道は習いませんでしたが、だからといって地獄におとされる理由はないと思います」

「われわれにも感情はある。おまえは、地獄の沙汰も金次第、などという歌を詠んだではないか。言いたいことがあれば、申してみよ」

「畏れながら申し上げます。太古には中国に仏法は知られていませんでした。後漢の時代仏法が伝わり、天国や地獄と言うようになりました。それより万物に霊が認められ、奇跡も起こります。人々はこれに溺れ、ものの道理を失いました。罪を犯しても悪いとも思わず、強いものは弱い者をいじめ、金持ちは貧乏人を侮ります。親を親とも思わず、君を君とも思わない。義を知らず、恩を忘れ、どん欲に財宝を求め、仏事ばかりは金を掛けて盛大に行う。仏事さえ盛大に行えば、罪を許され天国に行けるというのであれば、貧乏人には立つ瀬がありません。そのため、あの狂歌を詠んだのです。その気持ちを察して下さい」

「なるほど、おまえの言うことももっともだ。おまえにそんなことを言われるのも、孫平を娑婆に帰したからだ」

大王は冥官の方に向き直り、

「孫平をもう一度ここへ連れてこい。新之丞は娑婆に帰してやれ」

と言った。

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2009年6月23日 (火)

あれこれ描いてみるけれど

6月23日(火)

午前中、別に今日でなくてもよかった用事を済ませ、さて午後から散歩に出ようと思ったが、あまりの暑さに中止した。散歩が好きと言っても、それは季節のよいときだけの話しで、暑くても寒くても止めてしまうという軟弱派です。

家でスケッチの練習をしました。新聞や折り込み広告の写真を見て、いくつか描きました。

Tati0009 Tati0010 右の絵は首無しで、テーブルの下から覗いているようです。

Tati0012 Tati0011

最近西武電車の車内でしたスケッチものせましょう。写真からとは違うし、相手が動かないうちに書こうと思うので、殴り書きになります。

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地獄を見てよみがえる

6月23日(火)

御伽婢子・33

地獄を見てよみがえる・1

原作  浅井了意

現代語訳  ぼんくらカエル

鎌倉に浅原新之丞という者が住んでいた。才知があって、弁舌が巧みであった。儒学を尊び仏法を馬鹿にしていた。あの世だとか輪廻転生だとか因果応報などと言われても、とんと気にせず、自説を述べるのである。僧、法師と言えども尊敬するどころか、なんのかんのと口にまかせてののしり、言い負かしてしまう。

その隣に孫平という者がいた。金持ちで欲が深く、でたらめな生活をして後世のことなど考えず、いたずらに魚を獲って殺生することを好んだ。

その孫平が、あるとき病についたが、あっさり死んでしまった。妻子は悲しんで、大金を使って、祈祷したり坊主に経を読ませたりしていたら、3日目には生き返った。

孫平は死んでいる間の出来事をかたった。

「俺が死んで冥土へ行ったけれど、その道は明かりが無くて暗かった。道を聞くにも、教えてくれる人もない。そろりそろりと歩いてしばらく行くと、門があった。中に入ってみると役所である。役人が俺を呼んだのでそばに行くと、こう言う。『おまえは死んだのだけれども、家族が悲しんで、大金をはたいて、僧を呼び、祈祷をした。その功徳で、再び娑婆に返してや』やれ嬉しやと思って門を出たら、生き返った」

孫平は「まことに仏事の効力はたいしたものだ」と喜んだ。

浅原はこれを聞いて大いに笑った。

「欲の深い地頭や代官は、賄賂をもらっては邪なものの肩を持ち、賄賂を送らないものに罪をなすりつける。金持ちは裁判にも勝つが、貧乏人は正しくても負ける。そんなことはこの世ばかりと思ったのに、あの世でも同じなのか。冥土の役人も金を積めば死んでも生き返らせる。それでは、貧乏人はあの世でも浮かばれない。地獄の沙汰も金次第というわけだ。閻魔大王も、金で罪を許すのか」

そういって、次の歌を詠んだ。

   おそろしき地獄の沙汰も銭ぞかし

        念仏の代によくをふかかれ

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2009年6月22日 (月)

ネズミに曳かれる

6月22日(月)

精障者作業所Mへ。

私が精障者作業所Mから帰るとき、メンバーは帰ったあとで、男性スタッフが1人だけ残っていた。帰りぎわ、私はその彼に、

「ネズミに曳かれないでよ」

と言い、続けて、

「前にいた人にも同じことを言ったけれど、その時は『意味が分かりません』と言われたよ」

と付け加えた。すると、

「私も分かりません」

だとさ。おやおや「ネズミに曳かれる」なんていう言葉はもう死語なのか。昔は、1人で居残りするような人によく使った言葉だと思うのだけれども・・・。

この言葉の解説を書いておかなければいけないのかな。昔の一般家庭には、今よりネズミが多かったと思います。夜など電気を消して寝ていると、天井裏でネズミの走る音がよく聞こえたものです。壁の下の隅に穴などがあいていて、そこからネズミが出入りするなんてことも、実際にありました。そんなネズミも、明るいうちや、賑やかなときには出てきません。人がいなくなって静かになると、ちょろちょろと姿を現すわけです。だから、夕方1人しかいないようなときには、ネズミが出やすくなるわけです。「ネズミに曳かれるな」というのは、獲物(餌)としてネズミに銜えられ、ネズミ穴に引きずり込まれるな、と言うことなのです。

言葉とか諺とかは、その人の環境によって使う頻度が違ったでしょう。「ネズミに曳かれるな」なんていうのは、私は普通の言葉と思っているけれども、二人の人が知らなかったということで、そんなに一般的な言葉ではなかったのかなと、とも思います。どっちですかね。時代が代わって死語になったのか、もともと一般的な言葉ではなかったのか。

言葉も諺も、時代による変化はあります。私が昔使っていた言葉や諺でも、今では死語か死語に近くなっているものはあります。その代わり、新しく生まれ、私などは理解できない言葉も沢山あります。昔からある言葉や諺も、意味が違ってきたものもあります。これなど、困るんですよね。歳寄りは、一度覚えたものを、覚え直すなんて、特に難しいのです。歳寄りが若者言葉を批判する何分の1かは、頭が固くなって新しい言葉を理解できなくなっている、と言うこともあるんだろうなあ。

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2009年6月21日 (日)

遅ればせの苗植え

6月21日(日)

ベランダの鉢に、今頃になって、キュウリ、ピーマン、ナスの苗を植えました。近くのホームセンターで、苗と鉢と土と肥料を買って、ベランダ農園開始。普通はもう収穫期にはいるのだけれども、私はこれからスタート。

本当は私、こんなことが好きなのです。琴作りの現役だったころ、仕事場のそばに30坪の畑を借りていました。そして仕事に飽きたときや、ふっと気分転換したくなったときなど、息抜きに畑に出かけました。その点は上も下もない、1人で仕事をしていた人間の気楽さです。

30坪もあると、自分の家だけでは食べきれないくらいの野菜が出来ます。時々知人にお裾分けをしたりして、楽しんでいました。ただねえ、草取りが大変でした。農家の人が除草剤を使いたくなる気持ちはわかります。それにアブラムシをはじめとするさまざまな虫やら病気やら、農薬だって使いたくなります。農家の工夫や苦労無しで、無農薬野菜は出来ません。私たちがやる素人菜園ならば、野菜の出来がよかろうが悪かろうが、笑い話で済みますが、農家はそうは行きませんからね。

30坪の農園では、さまざまな野菜を作りましたが、いつの間にか、得意なものと、うまく作れないものが出来ました。ナスやキュウリは得意でしたね。特にナス科の野菜は連作を嫌うので、毎年植える位置を変えました。わが家は4人家族でしたから、ナスやキュウリは5-6本も植えればあまるほど採れました。ジャガイモやトマトもナス科ですが、これらを含めても、30坪あれば、4-5年は位置を変え続けることが出来ます。

その後畑をやめましたが、ボランティアを始めて、施設の畑作りなど手伝うようになりました。こちらは週1回しか行けないし、そう丁寧に手入れもできません。正直なところ、琴を作りながら畑をやっていたときとは比べものになりません。それでも明日は、精障者作業所Mの畑で、ナス、キュウリ、カブの収穫が出来るでしょう。たとえ出来が悪くても、収穫は楽しみです。

さてベランダ農園、果たしてどんなことになりますか。いずれブログに書くこともあるでしょう。

今日は父の日なんですね。次女が父の日用に作られたビールを送ってくれました。もちろん、そのうちの1本を、すでに飲んでいます。

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2009年6月20日 (土)

インプット、アウトプット

6月20日(土)

「明日に道を聞けば夕べに死すとも可なり」といったのは孔子様。

確かに、知ることは尊いに違いありません。しかし、知識を得たら、あとは死んでも良いというのはどうですかね。

実際の孔子は、自分の知恵や知識で政治がしたかった人。インプットするだけで満足する人ではありませんでした。アウトプットしたくて、弟子を連れ、諸国を歩いたのですから。

生涯学習などといわれ、歳をとっても何かを学ぼうという人は多い。まことに結構なことです。常に学ぼうという姿勢は、謙虚であり、誰にも文句を付けられる筋合いはありません。しかし、知識でも生活技術でも、学ぶだけではなく、外にも少しは出したいものだと思います。

高齢者は、多少の経験を積んでいますから、世の中からさまざまなものを戴きました。だから自分の得たものを、少しは社会に返していきたいと思うのです。自分の得たものがどんなに貧しくても、少しはお返しをするのが、健康な高齢者の役割だと思うのです。

と、まあ、抽象的な書き方でしたが、多少は学び、多少はお返しをしながら、この先健康で生きられたらと思っています。

午後、つばさ俳句会へ。

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2009年6月19日 (金)

死後は自分の死を悲しめない 梅花屏風・5

6月19日(金)

自分が死んでしまったら、その死を悲しむことが出来ない、テナ意味のことを、モンテーニュは「エセー」のどこかで言っている。

死というものは科学の問題でもあるけれど、自分自身の問題としては、科学で考えても仕方がない。哲学か宗教の問題になる。「死ぬるは一定」で、「定め無き世の定め」である。だから人類は、意識などというものを持ち始めてから、この問題を考えざるをえなくなった。

哲学者も宗教家も、死について考え、さまざまなことを言っているけれど、「だから安心して死ねる」なんてことを、万人に納得させることが出来ているとは思えない。納得できないから、みんな自分で考えてみるしかないわけです。

しかしながら、偉大な哲学者や宗教家以上の結論なんて、平凡なわれわれに出せるわけがない。宗教家ならば、霊魂の不滅を信じたり、あの世を考えたりするのでしょうが、科学に毒された私などは、死後は何もなくなると思っているわけで、諦める以外に手がない。そしていつの日か、自分の死を悲しめない時期を迎えるわけです。

  昨日まで人のことかと思いしが

      俺が死ぬのかこれはたまらん

テナ日が来るわけです。この狂歌、私のブログのどこかに書いたと思います。最後はふざけちゃった。なんと言っても、

「太陽と死は、直接見つめることは出来ない」のですから・・・。これも「エセー」にある言葉です。

特養Sへ。

御伽婢子・32

梅花の屏風・5

前回までのあらすじ 中納言藤原基頼は京の戦乱を逃れ、大友義隆を頼って山口に来ていた。しかし山口でも反乱があり、義隆は敗れた。京に帰ろうとした中納言と北の方は、海賊に襲われ、中納言は海に投げ出され、北の方は捕らわれた。ある夜、北の方は逃げだし、たどりついた寺で剃髪する。そこへ盗まれた梅花の絵を持ってきた者がいる。品治九兵衛というものがその絵を寺から譲り受ける。

さて中納言の方だが、海賊によって海に投げ出されたが、もとより水泳が得意だったので、1000メートルばかり泳ぎ切って、岸にたどりついた。そこから広島の国鞆の浦に辿り着き、山名玄蕃頭の屋敷に行き、奉公させてくれと頼んだ。玄蕃頭は中納言の様子を見て、これはただごとではないと思い、訳を聞いた。

中納言は、京に戻るつもりだけれど、海賊に襲われ、家来の妻子も財宝もなくなったことを、はありのままに語った。玄蕃頭は、

「それは気の毒に。京都もまだ戦乱のさなかです。上っても住むところが見つからないでしょう。しばらく私の家に住んで、様子を見たらどうでしょう」

といってくれた。

ところで、尼寺から梅花の絵を譲り受けた品治九兵衛は、玄蕃頭の使用人であった。そこで、何か由緒がありげなその絵を持ってきて、玄蕃頭に見せた。

それをわき出見ていた中納言は、思わず涙した。

「この絵は私が海賊に盗まれた絵です。絵の上に書かれた歌は、紛れもなく私の妻の筆跡。家来も妻も死んだものと思っていたのに、生きていたのですね」

事情を聞いて玄蕃頭は寺から北の方を呼び寄せた。中納言と北の方は、お互いに変わり果てた姿だったが、無事を喜び合った。

しばらくするうちに京都の戦乱は収まり、三好も松永も死んだ。中納言は都に上がろうとしたが、にわかに病気になり、虚しくなった。北の方は、もう一度尼になったが、20日ばかりして、中納言の後を追うように亡くなってしまった。

玄蕃頭は2人を同じ墓に埋めた。49日目、その墓から白雲が二つ立ち上り、えもいわれぬ香りが山々を満たした。不思議なことがあるものだと、人々は噂した。

               御伽婢子第3巻終わり

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2009年6月18日 (木)

ちゃらんぽらんのすすめ 梅花屏風・4

6月18日(木)

うつ病の人でもない限り、自分で自分を評価するときは、大甘になるものです。私だって、自分の評価は高いからね、人が見るよりは・・・。自分自身を客観的に評価しようと思ったって、なかなかそうは行かないのです。本当は鬱の人だって、自分の評価は高かったのだと思います。にもかかわらず、自分の思う通りに出来ないので自分を責めるのでしょう。はじめから諦めきっている人なんか、鬱にはならないと思います。

私は失敗した時や上手く行かなかったときは、いつでも言い訳を言います。言わなくても考えます。やることは駄目でも、言い訳なんか上手いんだから・・・。

自分で言うのも何ですが、私は、まあまあ真面目です。でも暢気です。ちゃらんぽらんな真面目さです。真剣になって、脇目もふらずに何事かをやる真面目さではありません。だから思うように行かなくても、ショックが少ないのです。

肉体の病も精神の病も、数え上げたらキリもないほど沢山あります。本当は精神の方は少しいかれているかも知れないけれど、少なくとも外見的には、私は正常な部類に入ります。・・・と思っているけれど、これは自己評価が高いせいの逆上せかな? まあとにかく、自分では正常だと思っている。八〇八病だとか四万四病だか知らないけれど、数ある病気の間をくぐって正常でいられるというのは、多分、ちゃらんぽらんだからですね。

御伽婢子・31

梅花屏風・4

前回までのあらすじ 中納言藤原基頼は京の戦乱を避けて大内義隆を頼り、山口に来ていた。しかるに山口にも戦乱があり、大内義隆は自害した。その騒ぎで中納言は舟に財宝を積んで、京に帰ろうとした。ところが船人が悪心をおこし、中納言たちは海に放り出され、北の方は船人の家に囚われのみになった。ある夜、北の方は裸足で逃げ出し、寂れた寺に逃げ込み、尼になる決心をする。剃髪し、法名を梨春とした。

梨春はもとより教養があり、読み書きの良くできる人だったので、教典の理解は早く、出家して間もなく、深い理を悟った。院主の尼公さえ、梨春に聞いて文義を悟るほどだった。その頃の梨春の歌。

  中なかにうきにしずまぬ身なりせば

       みのりの海のそこをしらめや

常に奥に引きこもり、中なか人に会うこともない生活が続いた。

あるとき市井の人が来て、院主の尼公に経を読んでもらい、お布施として布地を捧げ、供養のために一副の梅の絵を仏前に置いた。尼公はこれを屏風に掛けた。梨春がこれを見ると、まさに自分たちが舟に積んだ絵である。

「この絵をどなたが持ってこられたのですか」

「この寺の檀家の船乗りです。噂では人を殺して財宝をかすめているとも言います。本当のところは分かりません」

間違いなくあの男だと思いながらも顔には出さず、梨春はその絵の上に歌を書いた。

  わがやどのうめの立枝を見るからに

         思いの外に君や来まさむ

尼公は梨春がなぜそのような歌を書いたのか分からず、ただその筆跡の美しさを褒めただけである。

広島の品治九兵衛という者がこの寺に来たとき、絵と歌を見て、何か曰くがありそうだと思った。そこで尼公に頼んでその絵を譲り受けた。

                          続く

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2009年6月17日 (水)

入間川のスケッチ 梅花屏風・3

6月17日(水)

入間川のスケッチ

Photo

Photo_2

「千曲川のスケッチ」なら藤村だけれど、私のは入間川。入間川は我が狭山市を流れる川で、荒川の支流である。入間川の河川敷と智光山公園は、ちょっと暇のあるときに向かう、私のお気に入りの散歩コースである。

近ごろは散歩の時、大抵スケッチ用具を持っていく。絵の趣味があって良かったなあと思っている。あいかわらず下手ですけれどもネ。

子供のころから絵は好きだったけれど、成績は悪かったなあ。体育と音楽と、図工の成績は、いつも芳しくありませんでした。ですから好きと言ってもタダそれだけのことで、よい絵を描けたというわけではありません。

公民館で絵を描き出してから、間もなく10年になります。その割に進歩しないのは、センスがないためでしょう。今は外でスケッチをしますが、2-3年前は、スケッチをするぞ、するぞと思って家を出るのに、なんとなく気後れがした、スケッチブックを開けませんでした。その後何とかスケッチブックを開けるようになりましたが、鉛筆で描くだけでした。水彩絵の具を持ち出すようになったのは、今年になってからです。スケッチで、水彩の色を付けて描いたものは、まだ10枚くらいのものでしょう。

でも今後は、描きますわヨー。ハハ。

御伽婢子・30

梅花の屏風・3

前回までのあらすじ 16世紀、京都では兵乱が相次ぎ、公家や殿上人の中には山口の大内義隆を頼って、難を逃れる者がいた。中納言藤原基頼もその1人である。ところが大内家に反乱があり、義隆は自害した。その内乱を逃れて、中納言は京へ帰ることになり、財宝を舟に積んで、広島沖まで来た。ところが船人が悪心をおこし、中納言やその家来を海に投げ込み、財宝を横取りした。そして中納言の北の方を自宅に連れ帰り、せがれの嫁にしようとした。ある夜、北の方は1人逃れて、夜通し走り、林の中の尼のいる家にたどりついた。

尼は北の方に声を掛けた。

「これはまた、見慣れぬ方ですね。こんなに朝早く、しかも裸足で。一体何があったのですか?」

北の方は、とっさに作り話をした。

「私は、さほど遠くないところに住むものです。夫は去年都に行って討ち死にし、今は姑に仕えています。姑は嫁いびりが激しく、小姑も辛く当たります。あまつさえ、さまざまな濡れ衣を着せられ、辛いことこのうえもありません。昨夜、9月の13夜に舟に乗って月見をしました。みんな酒を飲んで、私は酌を致しました。ところが誤って、盃を海に落としてしまいました。どんな恐ろしい仕打ちが待っているかも知れません。夜陰に乗じて逃げてきたのです」

「そうですか。なるべくならお帰りになるのが良いと思いますよ。何ならお送りしましょう。姑には私どもが詫びて差し上げます。それともここにいて、誰か良い人と結婚しますか? 仲人を頼んであげますよ」

「いいえ、どちらも気が進みません。ぜひ尼にして下さい」

「あなたの決心が固いなら、それも良いでしょう。昔淳和天皇の后が六甲山に籠もり、如意比丘尼と申されました。その方がこの寺へ来て浦島太郎の玉手箱を納め、空海和尚に供養させました。由緒ある寺ですが、時が移り、今はこのように寂れた寺になりました。今この寺に住むものは、50歳ばかりの尼が3人、もう1人若い尼があれこれと雑用をこなしています。皆、心を清め、修行をしています。若く美しいあなたが髪を切り、墨染めの衣を着て尼になるのはいたわしいけれど、まぼろしのごとき命なのですから、誠の道に入り、愛着執心をはなれることもよいでしょう」

尼は続けて言う。

「ここは人影はまばらで、雑草や藪が茂り、人影はまばらです。友とするのは、浜から聞こえる波の音、松を吹く風、浜の千鳥の啼く声、後ろの山の猿の声、これより他に聞こえるものはありません。かゆを食し、妄執を払い、恨みもなくねたみもない胸中に至にはよい環境です。世にいてあれこれと思い煩うより、世を捨てて仏の道に生きなさい」

尼は北の方を仏前に導き、剃髪をし、法名を梨春と名付けた。

                       続く

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2009年6月16日 (火)

歳寄りはあちこち痛い 梅花屏風・2

6月16日(火)

さてこれからブログと言うことで、デスクトップのパソコンの前に座る直前、今日書くことをチラと考えた。そしてパソコンのスイッチを入れて立ち上げ、いざ書こうとしたら、さっき考えたことがもう思い出せない。何を考えていたんだっけ、テナものである。やっぱり惚けは忍び寄っているんだろうねえ。

思い出せないので方向転換。自分の体について考えてみた。今、尾てい骨の近くが痛い。尾てい骨の一つか二つ上の骨のようでもあり、そのまわりの筋肉のようでもある。触ってみても、はっきりした位置は、自分で特定できない。

実は先日の山行で、足を滑らし、はっきり転んだと言えるほどではないのだけれど、バランスを崩して手をついた。その時、足の筋をひねったかなにかで、足首やらふくらはぎやらに痛みが走った。痛さは感じても普通に歩くことが出来たので、たいして気にしなかった。

その影響で、昨日は少し足が痛かった。今日はどうも、それが腰に来た感じである。神経の痛みなんでしょうね。

ものすごくいたいのであれば、日記にはそのことを書こうと思うのだが、今日は、はじめはそれを書くつもりはなかった。書こうとしたことを思い出せなかったので、足だの腰だのの痛みについて書いたのである。

だいたい歳寄りというのは、あちこち痛い人が多いですな。どうしようもないほど痛む人もいるだろうし、私みたいに気にすれば痛い、と言う程度の人もいるでしょう。でもまあ、若い頃には考えられなかったですね、年中あちこちが痛むなんて。

  歳寄りはあちこち痛む梅雨の入り  ぼんくらカエル

こんなの、俳句としては駄目かなあ。

御伽婢子・30

梅花屏風・2

前回のあらすじ 16世紀、京都に兵乱が続き、一部の公家や殿上人が、山口の大内義隆を頼って、下向していた。ところが山口で陶晴賢の謀反があり、義隆は自害、義隆を頼っていた人々は、あるいは討たれ、あるいは城を逃れ出た。中納言藤原基頼も、山口に下向していた1人である。

陶晴賢の謀反があったので、中納言は妻や家来と共に山口から逃げて、貴重な財宝を舟に積み、京をめざした。広島あたりまで来たら、風向きが悪くなり、船を泊めて潮時を待つことになった。

その時の北の方の歌。

  だだの海いかにうきたる舟のうへ

    さのみにあらきなみまくらかな

中納言は北の方を相手に酒を飲み、寝入ってしまった。

船人は舟に積んである財宝に目がくらみ、盗むことにした。こんなに乱れた世の中だから、それを咎める人はいないだろうと思ったのである。そこで夜中に、家来3人を海に投げ入れた。騒ぎで目を覚ました中納言を、後ろから抱きついて海に入れた。北の方が驚いて身をすくめていると、

「安心しなさい。おまえは殺さない。私のせがれの嫁になれ」

と言う。やむなく承知したが、気分が優れないので、嫁になるのは気分が治るまで待って欲しいと頼んだ。

9月の13夜、船人とせがれ、姑、北の方たちは、舟にのって月を愛でた。夜更けて、皆酒によい、前後も知らず眠り込んだとき、北の方はこっそりと岸に上がり、足にまかせて、夜通し逃げた。追っ手が来るのではないかと気はせいて、石にぶつかり、茨に引っかかれ、足は血に染まった。

明け方、林の中に家を見つけたので、門の中に入ってみれば、読経の声が聞こえる。物音に気づいたのか、その声がはたと止んで、尼が出てきた。

                       続く

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2009年6月15日 (月)

この頃ちょっとナポレオン 梅花屏風

6月15日(月)

「ナポレオンはなぜ赤いズボン吊りをしていたか?」というなぞなぞがある。答えは「ズボン吊りをしなければズボンが落ちるから」です。いわゆる「引っかけ問題」ですね。わざわざ「赤いズボン吊り」と断られれば、普通は「なぜ赤かったのか」と考える。

今日の話しは、ズボン吊りは関係ないのです。いつものように、ちょっと寄り道です。

ナポレオンの辞書には「不可能」という言葉はないんですってね。私なんかは、何をやっても満足に出来ないから、「それは不可能」と言って投げ出すことを得意としています。・・・でも、これも今日の話題に関係ありません。酔っぱらいの足取りのように、あっちへよろけ、こっちへよろけながら書いています。

この1週間ばかり、なぜか睡眠時間が短くて、4時間も眠れば目が覚めてしまいます。昨日は山へ行って疲れたので、今朝くらいはゆっくり起きるかと思ったら、やはり4時間くらいで目が覚めてしまいました。幾ら歳よりと言ったって、どうしたんでしょうかね。

ナポレオンは4時間眠れば十分だったそうです(やっと出た!)。やっと出たけれど、話しはこれだけです。

精障者作業時Mへ。キュウリの収穫がはじまる。

御伽婢子・29

梅花屏風・1

16世紀ごろ、京都では三好と細川の戦が続き、室町幕府の足利義輝将軍がこれを鎮めようとしたが、力不足で、命令を聞く者もなく、手が付けられなかった。

その頃山口の大内義隆は、西海の大名とした権威高く、実力を備えていた。そのため、京都の公暁や殿上人の多くが義隆を便り、戦乱の京都を逃れて、山口の城に身を隠した。

ところが義隆は、武道を忘れ、風流の道に遊び、取り巻きおもねる人を大切にし、国政をないがしろにした。つまらない芸でも上手な者を多く集め、昼夜、好き勝手なことをしていた。

大内義隆の家老、陶尾張守晴賢が謀反をおこし、ついに義隆を自害させた。晴賢は大分県の大名大友入道宗麟の弟、三郎義長を山口の城に迎えて主君とし、政道を行った。

この内乱で、前関白藤原尹房、同じく前左大臣藤原公頼は山口の城から逃げる際、流れ矢に当たって亡くなられた。

従2位藤原親世は、髪を剃って変装し、上手く逃れた。

そのような人の中に、中納言藤原基頼という者がいた。絵、書、歌など諸芸に通じ、武道も心に掛けていた。馬の手綱さばきも見事だし、水練も得意だった。カッパのようによく泳ぎ、魚のように水に潜った。半日くらい潜っていても平気だった。義隆が京都にいたときは、ことさら親切にし、便宜を図ったので、京都の戦乱のおりに、わざわざ義隆が呼び寄せた者である。基頼は永住するつもりで、妻子や召使いも連れて山口に下り、城の外に家を構えた。そしてしばらくは安穏に暮らしていた。

                       続く

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峰の茶屋~沼原湿原

6月14日(日)

那須茶臼岳の峰の茶屋から沼原湿原へ。山の会の山行。

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峠の茶屋から峰の茶屋へ。右側は朝日岳。

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噴煙を上げる茶臼岳。地球は生きている、なんていうのは大げさかな。でも、そんな感じを受けます。

Imgp1544

あいにく、午後から崩れるという天気予報。

山の会の山行。何はともあれ、峠の茶屋から峰の茶屋に向かう。右に見えるのが朝日岳。本来はそちらに行ってからの予定だったが、カットして沼原湿原に向かうことにする。

降ったり止んだりから、やがて本降りに。

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沼原湿原に着くころは土砂降り。良いのか悪いのかの山行でした。

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2009年6月13日 (土)

早く寝なくちゃ 牡丹灯籠・4

6月13日(土)

雨こそ降らないが、むしむしして、湿気が多い。梅雨なんですねえ。

明日、山へ行く予定があります。蒸していても雨がなければいいのですが、予報では、午後、崩れるそうだ。それも雷があるとか。それは困るんだなあ、雷の怖い山に行く予定だもの。なるべく早く下山することを考えましょう。

明日、狭山市駅前6時集合です。その前の食事をして、トイレなどもすませなくてはなりません。そのためには4時起きです。早く寝なくちゃ。

「ネエあなた、もう寝ましょうよ」

なんていわれて寝るのではないところが残念だなあ。

御伽婢子・28

牡丹灯籠・4

前回までのあらすじ 荻原新之丞は妻に先立たれ、浮かぬ日々を送っていた。盆の15日夜更け、ぼんやりと門のところに立っていたが、外を通る美しい女に心を奪われ、2人はわりない仲になる。女は夜な夜な通ってくるが、隣の老人が壁の隙間から覗いてみると、それは骸骨であった。そうと知って荻原は女の住所を尋ねると、古びた霊廟が立っていた。

近寄ってみると、棺の表に「二階堂左衛門尉が息女弥子吟松院冷月禅定尼」と書いてある。その傍に古い子守人形があり、浅茅という名が背中に書いてあった。棺の前には、牡丹の花の古い灯籠が掛けてある。

間違いなくこれである。荻原は恐ろしくて身の毛もよだち、後をも見ずに逃げ帰った。これで恋も冷め、わが家にいるのさえ恐ろしく、隣の老人の家で夜を明かした。

さてこれからどうしたものかと悩んでいると、老人が東寺へ行くことをすすめた。東寺の卿公は学問も行いも兼ね備えた名僧だという。しかも霊験あらたかであるらしい。是非そこへ行って頼みなさい、と教えてくれた。

荻原は東寺へ行き、卿公に会うと、卿公は言った。

「あなたは化け物に精気を抜かれている。後10日もすれば命を失うところだった」

卿公は荻原に、護符を与えた。その護符を門に貼っておいたら、女はぴたりと来なくなった。

50日ほど過ぎて、荻原は供を連れて東寺に参り、卿公に感謝した。その後酒を飲んで、気が大きくなり、万寿寺の門の前に立って中を覗いてみた。すると例の女が出てきて、荻原に恨みごとを言った。

「あなたが私に約束してくれた数々の言葉は、嘘、偽りだったのですか。そんな薄情けとも知らずに、私は身をまかせ、いつまでも仲むつまじくいたいと思っていたのです。卿公とかのお節介であなたが心変わりしたのが情けない。しかし今日ここに来てくれたのは嬉しいことです。どうぞ中に入って下さい」

女は荻原の手を取り、門の中に連れ帰った。供の者は、肝をつぶして逃げ帰った。そして老人をはじめ、荻原を知るものたちにそのことを知らせた。人々は驚いて万寿寺に行ってみたら、荻原はすでに女の墓に引き込まれ、白骨となっていた。

寺僧たちは大いにいぶかって、女と荻原の白骨を鳥部山に埋葬した。

その後、雨が降る夜は、荻原と女が手をつない出で歩くのが見られた。供について歩く少女は牡丹灯籠を持っている。この者たちに会うと必ず病気になるので、人々は大いに怖れた。

荻原の縁者はこれを悲しみ、千部の経を読み、写経をして墓に納めた。その後は再び現れることはないという。

                         終わり

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2009年6月12日 (金)

絵の展示で大騒ぎ 牡丹灯籠・3

6月12日(金)

公民館のロビーに、私たちの水彩画を展示することになり、みんなでわいわい言いながら、倉庫からパネルと柱を運ぶ。年寄りばかりが大騒ぎしてパネルを組み立てました。17名の仲間が、それぞれ2点か3点ずつ展示します。

みんな展示で疲れてしまって、今日は絵を描く人なし。お茶を飲みながら、雑談でおしまい。

車椅子のTさんが来る。石和へ行ったおみやげに、

「あんたの大嫌いなものを買ってきた」

という。

「笹一」という日本酒である。ありがたく頂戴する。もちろん大嫌いだから、そのままにしておくことは出来ない。さっそく征服しなくてはならないのだ。このブログを書く前に、まずコップで1杯、戦いを挑んで、やっつけてやった。敵ながら、なかなか天晴れな奴である。

御伽婢子・27

牡丹灯籠・3

前回までのあらすじ 荻原新之丞は妻を亡くし、鬱々と過ごしていた。お盆の15日、夜遅く、家の前を通りすぎる女性の美しさに心を奪われ、女もまんざらではなかったため、自宅で一夜を共にし、睦言を交わしているうちに朝になる。

「あなたの住まいはどこですか」

訪ねる荻原に、女は答える。

「私は藤原氏の流れを汲む二階堂政行の子孫です。その頃は名を馳せたものですが、時代が代わり、、今は貧しくくらしています。父の名は政宣。京都の戦で討ち死にしました。兄弟も死に絶えて、私1人が生き延びて、使用人だった女の子と暮らしています。住んでいるのは万寿寺のほとり、恥ずかしくも悲しくもある生活です」

そう語る言葉も優しく、物腰にも風情がある。夜も明けたので、名残は尽きないが、女は帰っていった。

それからは、夜ごと夜ごと、女はやってくる。荻原はすっかり心を奪われ、その女のことを思う以外は、何もわきまえないほどである。あまりの嬉しさに、ただぼうっとして、昼も外へ出ることがない。

このようにして、20日くらい過ぎた。荻原の隣に、訳知りの老人がいた。夜ごとに荻原の家から女の声がして、歌をうたったり遊んだりしているようだ。どうにも訝しい。壁の隙間から覗いてみると、ひとそろいの白骨が荻原の前に座っている。荻原が何かを言えば、白骨は手足を動かし、骸骨が頷き、口の辺りから声が出て話しをする。

老人は大いに驚き、夜の明けるのを待って、荻原を呼び寄せ、ことの次第を語った。

「そんなことをしていたら、精気を吸われてしまう。すぐに死んでしまうよ」

荻原は大いに驚いて、聞いた。

「どうしたらいいだろうか」

「万寿寺の傍に住んでいるというなら、そこへ訪ねていってみなさい。何か分かるでしょう」

そこで荻原は京都五条の辺りを、あちこち訪ね歩いた。日が暮れるころになって、やっと万寿寺の近くに、古びた霊廟を見つけた。

                          続く

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2009年6月11日 (木)

朝は忙しい 牡丹灯籠・2

6月11日(木)

Tati0009_3 「朝は忙しい」とタイトルを付けたが、現役のサラリーマンやその奥様には、怒られそうなことを書きます。

山に行くような日は別ですが、普段の私は8時半ごろ布団を抜け出し、9時頃朝食を取ります。

8時半ごろ布団を抜け出すと書きましたが、年寄りなので目が覚めるのは早いのです。だいたい5時頃でしょうかね。

目が覚めると、まず、トイレに行きます。それからコップ1杯の水を飲みます。その後、カップに水とインスタントコーヒーを入れ、電子レンジでチンをして、寝床に持ち帰ります。

Tati0010_2

お盆にのせたコーヒーカップを寝床の脇に置き、最近はまず最初に、平山郁夫のスケッチの模写をします(『平山郁夫・私のスケッチ技法』)。それが1番上のスケッチです。

今日はその後で、毎日新聞の写真から上のスケッチを描きました。平山郁夫のスケッチを模写するのは、簡略化したスケッチを描きたいからです。なかなか出来ませんね。上の絵では、陰などが気になって、線をいかすことが出来ません。それに、新聞お写真を見て描いているのだから、本当のスケッチとは言えません。私程度の腕では、実物を見て描くよりも、写真を見て描く方が楽なのです。腕が半端な証拠です。

ここでついでに、最近描いたオリジナルのスケッチをお目に掛けましょう。

Tati0011_3

場末の食堂の親父です。 カウンター越しに客席を見ていました。

この絵は今朝描いたわけではありません。今朝やったことと言えば、スケッチをしたあとで、『数独』をやりました。今これにはまっているのです。

次に新聞を読みました。

このほかに時間があれば本も読みます。以上を、布団から抜け出す前にやるのです。ですから、朝が忙しいのです。

御伽婢子・27

牡丹灯籠・2

前回のあらすじ 荻原新之丞は妻に先立たれ、鬱々とした日を送っていた。お盆の15日、夜更けに門に立ちぼんやり外を見ていると、妻に似た美人が前を通りすぎた。思わず跡を付けていくと、女は「夜道が怖いので、送って下さい」という。

荻原は、

あなたが帰るところは遠いのでしょう。こんな夜更けです。大変ですよ。私の家は見苦しいあばら屋ですが、よければ泊まっていきませんか?」

といった。親切心もあるが、いくらか下心もあった。

女はほほえみながら言った。

「それは嬉しいこと。1人で窓の月を眺め、歌を詠みながら夜を明かすのは、侘びしいのです。人は情けに弱いものです。喜んで泊めていただきますわ」

荻原は嬉しくなって、女の手を取って、自分の家に連れてきた。そして女の連れていた少女に酌をさせ、少しばかり酒を飲んだ。そこで、自分のやるせない気持ちを歌に詠んだ。

  また後のちぎりまでやは新枕

    ただ今宵こそかぎりなるらめ

あなたは今日だけしか泊まってくれないのでしょう。ただ今夜だけですよね。といえば、女は歌を返した。

  ゆふなゆふなまつとしいはばこざらめや

    かこちがほなるかねごとはなぞ

毎晩待って下さるならば、なんで来ないことがありましょうか。それなのになんでそんなに恨めしそうな顔をなさるのですか。

その夜、二人はちぎりを結んだ。そして睦言を交わしているうちに朝になってしまった。

                            続く

                                          

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2009年6月10日 (水)

片付けられない人 牡丹灯籠

6月10日(水)

少し前、部屋の中がゴミの山になっている人達を、テレビでよく放送していた。私はあれほどではないけれど、片付けられない方の人間です。

家の中がきちんと片づいている人は、他のことでも、きちんと整理の出来ている人だろうと思う。ものを考えるのでも、理路整然としているのだろう。家を訪ねても気持ちがいい。しかし、あまりきれいだと、「潔癖性」じゃないかな、などと考えて、つきあうのも肩が凝りそうで、近づきがたい。

私の家の床の上にはさまざまな物が置いてある。読みかけの本、カセットラジオ、調べ物をしたときの辞書類。靴下、筆入れと鉛筆、ティッシュペーパー、タオル、新聞、買い物袋、メモ用紙、etc。なんでそうなるのか、原因は分かっている。床に、ちょいと置いてしまう。あとで片付けるつもりだが、取りあえず床に置く。この「取りあえず」がいけないのである。

居間には、食事用の座卓が置いてある。この座卓の上がまた、物置場になっている。眼鏡、爪切り、耳かき、メンソレータム、ボールペン。それに、本やら辞書やら、床に置いているものとさほど変わらない。はじめから座卓の上においたものもあるが、床から座卓の上に「取りあえず」移動させたものも多い。

だから食事をするときは、食器を置くスペースを作るために、さまざまな物を押しやらなければならない。

そんなことでどうにもならなくなってくると、意を決して掃除をする。今日はその、掃除をする日でした。こまめに掃除をしている人と違って、掃除には時間がかかります。

そしてまた明日から「取りあえず」がはじまる。

御伽婢子・26

牡丹灯籠

毎年7月(旧暦)の15日から24日までは、精霊のために棚を飾り、灯明を灯す。また、いろいろな灯籠を作って、祭りの棚に飾ったり、町では軒に吊したりする。都では、それを見ずに道を通ることなど出来ない。また、踊り子が出て、美しい歌声に合わせ、しなよく踊る。都は、どこもかしこもそんなもだ。

1548年、五條京極に萩原新之丞という者が住んでいた。最近妻を亡くし、ふぬけのようになって、涙に暮れている。精霊の祭りも今年はとりわけ悲しく、経を読み、回向して、家の中に引きこもっていた。何とか元気づけようとして友達が誘いに来ても、一向に外出しようとしない。家の門の辺りにぼーうと立って、力のない目で外を見ているだけである。

  いかなれば立ちもはなれず面影の

     身にそひながらかなしかるらむ

いつまでも妻の面影を求め、悲しみの涙を拭っていた。

十五日の夜更け、浮かれ遊ぶ人達も稀になったころ、二十歳ばかりの美人が十四,五歳の女の子を連れ、牡丹の花の灯籠を持たせ、ゆっくりと歩いて通りすぎた。心なしか、亡き妻の面影がある。

蓮のような目、楊のようにたおやかな姿、眉も髪もこの上なくあでやかである。月の光の下でその姿を見て新之丞は心を奪われた。これは天女ではないか、あるいは竜宮城の乙姫か、とても普通の人ではない。新之丞は憑かれたようにその後についていった。

1〇〇メートルほど跡を付けると、女は、やさしくしっとりと上品なようすで振り返った。少し笑顔を見せている。

「私は主人がいる身ではありませんのよ。今宵月に誘われて外出しましたが、こんな夜更けに帰るのは、恐ろしゅうございます。送っていただきたいわ」

                           続く

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2009年6月 9日 (火)

日原鍾乳洞 鬼谷に落ちて鬼となる・4

6月9日(火)

日原鍾乳洞とその周辺の散歩。

日原鍾乳洞には、独身時代に言ったことがある。待てよ、今も女房に死なれて独身だ。言い直します。日原鍾乳洞には前期独身時代に行ったことがあります。今は後期独身時代かな?それとも晩期かな?ひょっとすると終末期だったりして・・・。

だじゃれから入ってしまいました。とにかく、50年ぶりくらいに日原鍾乳洞へ行き、周辺を散歩してきました。日原への道は昭和40年ころに山崩れで不通になったんだそうですね。昭和50年代にトンネルが完成して、今の道になったのだそうです。

Imgp1495 Imgp1498

鍾乳洞の入り口と、入ってすぐのところです。通路は狭かったり天井が低かったり、急な階段があったりで、うっかり歩いていると、私のように頭を天上にぶつけたりします。私は2階ほどぶつけました。頭に手を当てると、血が出た後の瘡蓋が2カ所あります。ドジですねえ。帽子を被っていてもこのありさまですから。大した怪我ではありません。血が出たらしいことは、家に帰ってから知りました。

Imgp1505 鍾乳洞のすぐ傍に梵天岩というのがあります。その上流に小川の大滝があって、鍾乳洞で一緒になった人が、「川の砂利をさかのぼってもいける」と教えてくれました。「私は上の道を行ったけれど下で写真を撮っている人がいた」というのです。

それならばと思って川を遡っていったところ、何回も川を徒渉しなければなりませんでした。最初の徒渉は裸足になって、ズボンを膝までまくり上げて渡りました。子ども時代は何でもなかったのに、裸足で石の上を歩くというのは、足が痛いですなあ。それに懲りて、2回目からは靴下だけを脱ぎ、登山靴のままざぶざぶと渡りました。

滝の近くまで行くと、沢歩き用の完全武装した写真家が、3脚を立てて写真を撮っていました。その写真家が、最後の徒渉の浅瀬を教えてくれました。

Imgp1511

Imgp1515 下の写真は同じ滝を横から見たところですが、上の方が岩に隠れて見えません。水量の豊かさを感じて貰えるでしょうか。

Tati0009

最後はまたしても、下手なスケッチ。

御伽婢子・25

鬼谷に落ちて鬼となる・4

前回までのあらすじ 蜂谷孫太郎は敦賀への旅の途中で日が暮れてしまい、妖怪や夜叉、仏像のお化けに会い、何とか逃げ出した。野原に何人もが座っているのが見えたので、ホッとして近づくと、それもまた首のない妖怪で、こんどは逃げるとき、穴に落ちた。落ちた先は鬼の国だった。

孫太郎は手かせ、首かせをされ鬼の大王の前に引きずり出された。大王は怒っていった。

「おまえは少しの学問を鼻に掛け、鬼も幽霊もいないなどと、舌先3ずんでいい加減なことを言いふらした罪は重い。この者を打て」

家来の鬼たちは、棒きれなどを持って孫太郎を打ち据えた。

「よし、今度は伸ばせ」

鬼たちが孫太郎の体を引っ張ると、孫太郎は竹のように細くなった。

「押しつぶしてみよ」

孫太郎は団子のようにこねられて、カニのように平なった。

「まあそれぐらいにしておこう。しかしこのまま返したんではおもしろくない。お前たち思い思いに何か付け足してやれ」

あるものは孫太郎に角を付けた。他のものは嘴を付けた。赤い髪を付けるもの、青光りする目を付けるものなどもいた。こうして孫太郎は人間世界に送り返された。

家に帰ったところ、妻も使用人も、皆逃げていく。自分が孫太郎であることを説明して、何とか分かって貰えたが、妻は孫太郎の顔や頭に布をかぶせて隠した。子どもたちは絶対に孫太郎には近づかない。

孫太郎は悲しむより他はない。戸を閉め、外に出ず、食事も取らずに死んだ。その後、もとの孫太郎の姿で現れて、家の中を歩くことがあったが、仏事を営んだら、2度と現れなくなった。

                       終わり

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日原鍾乳洞

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2009年6月 8日 (月)

酔っています

6月8日(月)

午前。こぶし福祉会宣伝活動。といってもビラ配りで、私は新狭山駅へ。

午後、精障者作業所Mへ。

夕食後。所沢社会保険事務所へ手紙。土曜日、私宛の手紙があり、それに対する私の反論を書く。最悪の場合、裁判を覚悟している。

夜。珍しくテレビドラマを見る。それが3時間番組で、見終わってたら、「御伽婢子」を書く気力を失っていた。あんなもの、どうせ誰も読んではいない。それは知っているけれども、日記だけでは飽きてしまうんです。だからあれこれやってみたくなる。やってみるけれど、勝手に休みたくなる。

ですから今日は「御伽婢子」は休み。

間もなく12時ですから、これ以上書くのは苦しみです。誰ですか、「書くのは勝手だけれど、読む方が苦しみだ」なんて言うのは。「読みの苦しみ」ですかね。あれ、どこかに似たような言葉があったなあ。

ウーン。私は確かに酔っぱらっている。ドラマを見ながら飲んでいたからだ。

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2009年6月 7日 (日)

マンションの外回り清掃 鬼谷に落ちて鬼となる・3

6月7日(日)

マンション、外回りの清掃。芝生、生け垣、植木の手入れ。私は主に、電動バリカンで生け垣の剪定。器具を持つだけでも重いし、震動はあるし・・・でも、一生懸命やっちゃう方なんですね、私は。幸い丈夫で、まだ持久力もあるから良いけれど。

車椅子と仲間の会。

市役所の障害福祉課の職員に、今後3年間の「狭山市障害者福祉プラン」を聞く。内容はどれもこれも結構なことばかりで、プラン自体にはケチの付けようがない。問題はそれをどう実現するかなのだ。賛成も反対も「すったもんだ」も、それからのこと。

御伽婢子・22

鬼谷に落ちて鬼となる・3

前回までのあらすじ 仏法をおろそかにする蜂谷孫太郎は、あるとき旅に出て、途中で日が暮れてしまった。人家のない野原や松林で、さまざまな妖怪に会い、命からがら逃げてきたら、前方に灯がともり、何人もの人間が座っているのが見えた。

孫太郎はホッとして、そちらに走っていった。しかしなんとしたことか、座っている人達は、首がないくて丸裸である。あまりのことに、そちらを見ないようにして走り抜けようとした。

「俺たちが酒盛りをしているのに、あいつはじゃまをした。捕まえて食ってしまおう」

化け物たちは孫太郎を追いかけた。目の前に川があったので、どうにもこうにもしょうがなくて、孫太郎は川に飛び込んだ。浅いところは歩いてわたり、深いところは流されたり泳いだりしながら、どうにか対岸にたどりついた。

化け物たちも、どうやらそこまでは追ってこなかった。しかし耳元には、化け物たちのののしる声がなおも聞こえ、身の毛がよだつ思いだ。

人心地もなく2キロくらい歩いただろうか。月はすでに西に傾き、足元も暗く、草は背丈ほども生い茂っていた。孫太郎は、ふらつく足で石に躓き、そこにあった穴に落ちてしまった。

300メートル位も落ちたと思われる。生臭い風が吹いている。暗さに目が慣れてくると、そこは鬼の住む世界だった。赤鬼や青鬼、牛の首をしたもの、鳥の翼や嘴をもぬものなど、皆角を持って、眼光は稲光のようであり、口からは火を噴いている。

孫太郎を見つけると、

「こいつはこの国の者ではない」

と、みんなで取り押さえて。そして首かせをし、鬼の大王の前に引きずり出した。

                            続く

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2009年6月 6日 (土)

命の悲しさ 鬼谷に落ちて鬼となる・2

6月6日(土)

いわば、これは昨日の日記です。昨日はブログの保存に失敗して、書き直しています。

昨日、特養老人ホームSにいきました。Sでは、2Fに通常の年配者、3Fに認知症の人が入居しています。昨日のボランティア先は3Fでした。昨日私が接した人のことを、少し書いてみようかと思います。

認知症の人も、程度はいろいろで、何とか話の通ずる人もいれば、ほとんど通じない人もいます。話が通ずると言っても、たとへば昨日の場合「私の夫は死んでいるのか生きているのか忘れた」といっていました。そのように、どこかおかしいのです。

話しかけても無反応な人や、何かしきりに話しかけてくる人もいます。何を言っているのか、こちらもいろいろと想像力を働かせるのだが、意味の取れない人も多い。そのような人でも、握手をすると、その手をなかなか離してくれなかったりする。

幼いころN権現に預けられ、そこから学校に通わせてもらい、そこからお嫁に行った、という人もいました。N権現のことを感謝しながら話していました。N権現というのは、私などがハイキングで訪れたことのある権現様です。

「歳をとるとみんなこうなるのか。若い人も歳をとったら、今の私の苦しみが分かる」と言った人もいます。自分の認知症が進んでいくことを意識しているのかも知れない。

命の悲しさである。

御伽婢子・21

鬼谷に落ちて鬼となる・2

前回のあらすじ 蜂谷孫太郎という者が、今の福井県の辺りに住んでいた。儒学を少しばかり学んでいたが、半端な知識で、仏法のことは馬鹿にしていた。まして鬼神や幽霊などは信じていなかった。あるとき敦賀に出かけ、途中で日が暮れてしまった。辺りに人家もないので、松の根方で休んでいると、戦乱の後なので、まわりには白骨死体もあった。梟が啼き、狐火が光り、なんとも心細い。

周りを見れば、人の死骸が7つ8つ西を枕にして倒れている。渺々と風が吹き、雨が降り出した。稲妻が光り、雷鳴がとどろく。すると倒れていた屍がむっくりと起き上がり、よろけながら孫太郎の方に歩いてくる。逃げ場は無し、孫太郎は松の木にしがみつき、必死になって登った。屍たちは松の木の下に集まり、「今晩こいつを引っ捕らえよう」と喚いている。

孫太郎がふるえていると、程なく雨が止み、月が輝きだした。すると、どこからか夜叉がやってきた。全身は青く、角が生え、口は耳まで裂けている。髪は乱れに乱れている。

夜叉は松の下にいる屍を掴み、首を引き抜き、手足を折り、むしゃむしゃと食べ出した。まるで芋か瓜を食うように無造作に食っている。そして屍を食い尽くすと、大地を揺るがすようないびきを立てて、松の根方に寝てしまった。

松太郎は生きた心地がしない。今のうちに逃げようとして静かに松を下り、早く逃げたくて、慌てて走り出した。それがいけなかった。走る音に目が醒めて、夜叉は孫太郎に気がつき、追いかけてきた。

一目散に逃げるうち、荒れ果てて住職もいないような寺が目に入った。孫太郎は寺に逃げ込み、中にあった大きな仏像の陰に隠れた。見ると仏像の背中に、大きな穴があいている。孫太郎は、その穴から仏像の体内に入った。

夜叉はすぐに追いつき寺に入ってきた。そして寺の中を隈無く探したが、仏像の体内までは気づかず、出て行ったしまった。

やれやれ、助かったと思ったのもつかの間、こんどは仏像が足踏みをし、腹を叩き、独り言を言った。

「夜叉は人間を追い求めて取り逃がした。私は何もしないのに、向こうから勝手に飛び込んできた。これで今夜の夜食が出来た」

と高笑いをし、足を鳴らして堂を出た。しかし、すぐに石に躓き、どうと倒れた。その拍子に仏像の手足は砕け、バラバラになった。

孫太郎は仏像から這い出して、

「人を助けるのが仏なのに、私を食おうとしてこのありさまだ。ザマアミロ」

と捨てぜりふを残して、寺を出て、東の方に歩いていった。すると、野原の向こうに灯を輝かせ、何人もの人が座っているのが見えた。

                        続く

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2009年6月 5日 (金)

ブログ失敗

6月5日(金)

ぼんくら日記と御伽婢子を書いたのですがのですが、保存しようとしたら、

「リッチテキスト」モードに変更できません。HTMLが複雑すぎるかフォーマットが不正です。

というメッセージがでて記事の保存が出来ません。これまでのも経験がありますが、文章をほんの少し訂正するのは良いのですが、何行かを入れ替えたり、載せようと思う写真を入れ替えたりすると、このメッセージが出ます。

今日は長い文章を書いたので、あらためて書き直す気がしません。

それでもこのことわりを入れるのは、このブログはまず第1に、私が無事でいると言うことの、娘たちへのメッセージだからです。私が無断でブログを休んだ場合は、何かが起きたのだと思え、と普段から言ってあります。ですから、予告なしに休むわけにはいかないのです。

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2009年6月 4日 (木)

年金問題 

6月4日(木)

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航空公園のスケッチです。

年金について、所沢の社会保険事務所から電話があった。以前から問題があったことだ。

私が琴を作るための独立したとき、年金受給の権利を得るためには払い込みがまだ不足だというので、川越の社会保険事務所の指導で、個人で23ヶ月分払い込んだ。権利が出来たということで、そこで払い込みは終わり、62歳から年金を受給している。これはすべて、川越の社会保険事務所の指導によるものである。

ところが去年辺り、所沢の社会保険事務所の人に言われたことがある。実は川越社会保険事務所の指導は間違っていて、私が独立したときは、他に32ヶ月分払い込んだものがあって、23ヶ月分は払う必要がなかったのだというのである。それに気づかず払い込ませたのだそうだ。

実際の年金受給は、私が払い込んだ23ヶ月分と、その前に払っていたとされる32ヶ月分も含めた額をもらっている。

そのほかに、私には消えた年金が数ヶ月分あって、そのうち2ヶ月分が見つかったので、手続きに来いと言われ、先月その手続きを済ませた。

今日、その時私の相手をした人から電話があって、その23ヶ月分のことに気がついた、という。私は前に消えた年金について調べてもらいに行ったとき、他の人にそのことをしらされている。その時、私が払い込んだ23ヶ月分は返すから、その受給分を返せと言われた。私は、「これは裁判ものだ」と言ったところ、「ならば消えた年金については請求するな」という意味のことをいわれた。

それなのに先月2ヶ月分出てきたと呼び出しがあったので、手続きに行ったのである。

それでまた、その問題を持ち出すのだ。社会保険事務所の方でも、私に落ち度がなかったことは認めている。それでも受給したものを返せと言うならば、裁判ですね。

法律では年金受給資格があるものに、追加の年金を払い込ませることは出来ないことになっているのだとか。しかし現実には払い込ませたわけだ。だから、私が払い込んだ分は戻して、私から受給分を返させればよいと言うことになるのだろう。

しかし、私にも言い分がある。その1,法律の運用に、具体的妥当性があるか? その2、私は当然の権利として10年以上にわたり、23ヶ月分も含めて年金を受給してきた。その権利は取得時効にならないか?善意ならば10年、悪意ならば20年で取得時効のはずである。

法律用語の「善意」「悪意」というのは、それを「しっていたか」「しらなかったか」という意味である。私の場合で言えば、法律に反して23ヶ月分払い込んだと言うことをしっていたか、ということになり、私はしらなかったのだから、善意と言うことになる。

そのほかにも私の言い分はあるが、上の二つが大きい。

近く、所沢の社会保険事務所から手紙が来るそうだ。どんなことになるやら。

年金問題が長くなってしまったので御伽婢子は休みます。

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2009年6月 3日 (水)

家事の日 鬼谷に落ちて鬼となる

6月3日(水)

私は男だが、一人者なので主婦でもある。水曜日は、家事をする日と決めている。

現役を離れて10年もたつから、ゆとりを持って毎日を送りたいと考えている。家事は毎日しなければならないわけだけれども、1週のうち、1日か2日は、家事だけしていればよい日を作っておきたいのである。実際には、水曜日でも用事が出来たり、遊びに行ったりするわけだけれど・・・。

近所の本屋さんに取り寄せてもらった本を受け取りに行き、その足でセキチューに買い物に行った。セキチューへ行く途中、春紫苑というミニギャラリーに寄る。山の知り合いがパソコンのオートシェイブ展をやっていたためだ。行ってみると、狭い会場に女性ばかり沢山いるので、なんとなくそわそわしちゃって、さっと眺めただけで出てきてしまった。オートシェイブって、なかなか洗練された絵になるんですね。

マルエツでも買い物。銀行へ行ったり、宝くじを買ったり、作り置きのおかずを作ったりして、のんびりした1日でした。

御伽婢子・20

鬼谷に落ちて鬼となる

福井県若狭の国に、蜂谷孫太郎という者が住んでいた。家は豊かで、仕事もしないで遊んで暮らせる身分だった。儒学を好み、それほど深く理解しているわけでもないのに、文字を読めないような人のことは軽蔑し、学問のある人を見ても「俺ほどではないサ」と思って慢心していた。

あまつさへ仏教を馬鹿にし、天国や地獄などがあるとは認めず、鬼神、幽霊などを信じてはいなかった。

彼の主張は次のようなものだ。仏とは、旨いものを食って暖かな衣類を着、妻子に楽をさせること。餓鬼道とは食うものも食えずに、薄汚れたぼろを着て、妻子を売り払うような生活をすることだ。畜生道とは、他人の門にたって食を乞い、捨てられたものを食って汚いとも思わず、野宿をし、雪が降るときでも裸でいるようなことだ。地獄道とは、罪を犯して牢に入れられ、縄を掛けられたり首をはねられたり、拷問を受けたりすること。そしてそれを扱うものが獄卒である。このほかには何もない。来世だとか幽霊だとか、坊主や神子の言うことを信じるものは愚か者だ。

たまにいさめる人があっても、弁舌にまかせて言い負かし、勝手にやりたいことをやっている。そのためまわりの人は、鬼孫太郎と呼んで、あまり取り合わなかった。

あるとき用事があって、敦賀に1人で出かけた。家を出るのが遅かったため、目的地に着く前に日が暮れてしまった。

琵琶湖の北は兵乱の後だったので、まだ物騒で、人の行き来も少ない。宿を貸してくれるような家もない。河原に出て見渡したら、戦で倒れた人の白骨がここかしこに散らばっている。4方の山は雲に閉ざされている。どうしたものかと心細く、北の方に松の林が見えたので、そこに分け入り、その根に座って休んでいると、梟の声はすさまじく、狐火が光り、風の音も身に凍みて、なんとも心細い。

                        続く

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2009年6月 2日 (火)

散歩が好き 妻が見ている夢を夫が現実に見る・2

6月2日(火)

こぶし福祉会の授産施設リバーサイドへ。私のやるべき事は2時頃終わったので、帰りはリバーサイドの裏の霞川沿いを歩く。霞川から入間川の合流地点へ歩き、そこから入間川沿いを下る。天気さえ良ければ、いつでもリバーサイドの帰りは、このコースを歩く。ボランティアに行っても、帰りの散歩が楽しみなのである。

川の左岸、右岸というのはどっちを向いて言うのだろうか。入間川の川下に向かって左岸には川越狭山自転車道がある。私は自転車道を歩くときもあれば、右岸の荒れた土手を歩くこともある。今回は、始め右岸を歩き、途中で橋を渡り左岸を歩いた。

Tati0009 これは右岸で描いたスケッチ。座るところが無くて、たったまま描きました。今日は色を付けるつもりで絵の具を持っていったのだが、この絵はそんな理由で、鉛筆だけです。

Tati0010

これは左岸にわたってからのスケッチ。雨のあとで水量が多く、普段は河原のところも、水が被っていました。水面から、草がちょこちょこ出ていたりして。

散歩の途中、幼稚園くらいの子供を2人連れたお母さんが、桑の実を採っているのに会う。

「ジャムにするんですか」

「ええ、作ってみようかと思って」

「良いですね。私も集めて作ってみたいような気がします」

そういって通りすぎると、男の子が追いかけてきて、私に桑の実を一つさしだす。食べないわけに行きませんよね。でも、美味しかった。

御伽婢子・19

妻が見ている夢を夫が現実に見る・2

前回のあらすじ 周防山口の城主大内康隆の家来に、浜田与兵衛という者がいた。浜田の妻は才女で情け深い。夫婦仲はいったて良かったが、浜田は主人の供をして京に上り、しばらく留守をした。15夜の夜帰ってくると、野原に幕を張り、妻を含めた10人ばかりが宴会をしている。浜田が物陰から覗いていると、まわりのものは、妻に、歌を詠め、歌をうたえなどと、次々に要求している。

こんどは、妻は今様をうたった。

《あなたのいない閨に1人で寝ていると、風の音さえ身に沁みる。何の便りもないあなたを恨むのではないが、空を飛ぶ雁に、せめて便りを持たせてやりたいものだ》

すると儒学者と思われる男が、涙ぐんで吟詠した。

 蛍火穿白楊 非風入荒草

 疑是夢中遊 愁斟一盃酒

(蛍火は楊を穿ち、悲しみの風は荒れた草に入る。是は夢の中の遊びではないのか、憂えて一杯の酒を酌む)

浜田の妻は、

「今宵ばかりが夢ではない、この世はすべて夢なのだ」

と涙を流す。宴会の中心人物は大いに怒った。

「みんなで楽しんでいるときに涙を流すとは忌々しい」

と浜田の妻に向かって盃を投げた。それが額にあったった。妻も怒って、石を投げ返したところ、頭に当たって、血が滝のように流れた。一座のものは大いに驚いて騒ぎ出したら、灯は消えて、辺りは何もないただの草むら。虫の声だけが聞こえる。

「さては我妻、亡くなってしまったのだろうか?今のは幽霊なのか」

と浜田は心配になり、急いで家に帰ったら、妻は寝ていた。妻をおこしたところ、夢を見たという。その内容は、浜田が見たものと同じだった。

浜田は、妻の夢の中を見たのである。

                       終わり

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2009年6月 1日 (月)

わらしべ長者 妻の見ている夢を夫が現実に見る

6月1日(月)

精障者作業所Mへ。畑仕事など。

わらしべ長者の「わらしべ」

わらしべ長者というのは、長野の民話だそうだ。1本のわらしべを手に入れた者が、それを順々に交換していくうちに、長者になっちゃたという話しだ。そんなこと、あったらいいけどね。私には、買ってもいない宝くじが当たるとか、絶世の美女に惚れられるとか、そんなことはないんだもんな。ァ~ァ。

ま、それはともかくとして、この「わらしべ」に少しこだわっている。私の田舎では(秋田県の南部)「わらしべ」というのは、藁の葉っぱの部分を言った。藁の束を穂のところで掴み、他の手で藁の間に指を差し込み、下に引き下げると、握った手に藁の幹が残り、引き下ろした方に藁の葉っぱが集まる。この葉っぱをわらしべといった。

私が田舎にいたころは子供用の長靴などはなかったから、子供が履く長靴は、みんなぶかぶかで大きかった。そのぶかぶか解消と保温のため、長靴の底に藁を折り曲げて敷いたものだが、これを藁ではなくわらしべを敷くと、当たりが柔らかく、暖かかった。

私たちは、藁とわらしべを分けて使っていたから、「わらしべ長者」は「わらしべ」の意味を間違えていると思っていた。ところが「広辞苑」で「わらしべ」調べると、「①稲の穂の芯、藁ミゴ、②打藁の屑」とある。

してみると、「わらしべ長者」の「わらしべ」は正しいんだね。私の理解するわらしべは、広辞苑の②の部分に近い。それにこんどは、広辞苑の「藁ミゴ」が気になる。広辞苑では、「藁の幹」が「藁ミゴ」になるようだけれども、私の理解する「藁ミゴ」は、藁の穂を掴んで引き抜いたとき、最初の節から上だけが抜けてくる、その部分である。穂のついている幹、だけがミゴなのだ。最初の節から下の部分は、たとえ幹であってもミゴではない。広辞苑の分類は荒っぽい、というのが私の感想です。

御伽婢子第3巻・通算18

妻の見ている夢を夫が現実に見る

  原作 浅井了意

  現代語訳 ぼんくらカエル

山口の城主大内義隆の家来、浜田与兵衛は港町の遊女を妻として迎えた。姿形が美しく、書も巧みで歌の道に優れ、情け深く風流を解する女性である。浜田は深く妻を愛し、妻もまたそれに答えた。

主君大内義隆は将軍の招きで京に上り、正3位を授けられ、しばらく京にとどまった。浜田もこれに供をした。浜田の妻は、首を長くして浜田の帰りを待ちわびていた。

8月15日の夜、あいにくの曇りで月が見えなかったので、妻は、

  おもひやる都の空の月かげを

     いくへの雲かたちへだつらむ

(都の空はどうなのだろう。幾重にも雲が立ちふさがっている。夫の様子も分からない)

と詠み、夫を思って眠られぬ夜を過ごすうち、いつしかうとうととした。

実はその日、大内義隆とその一行は国に帰ってきていた。しかし、あれやこれやと用事があり、浜田が城を出て自宅に向かったのは、夜もかなり更けていた。

浜田が帰宅するその道の途中で、幕を張り巡らし、灯を明々と掲げ、満月を見ようとして、男女10人ばかりが宴会を開いていた。浜田はいぶかって、柳の陰から覗いてみると、なんと自分の妻もその中にいる。浜田は少しむっとしてなおもその様子を見ていた。

座の中心にいる者が、

「月見の宴だというのに、心ない雲だ。この場を盛り上げるために何か一言言え。歌を詠め、と浜田の妻に言う。妻は断ったけれども、周りの人達も口を揃えてすすめるので、

  きりぎりす声もかれ野の草むらに

    月さへくらしこと更になけ

(枯れ野に啼いているきりぎりすよ、月も出ない今宵、もっと泣きなさい。私も夫と離れたままで泣きたい気持ちです)

座中は賑やかに宴会をしたが、17・8歳に見える少年は、盃を前に置いているが飲もうとしない。人々がすすめると、少年は浜田の妻に、

「あなたが歌を詠んでくれれば飲みましょう」

という。女房は、

「私は自分の思いに寄せて、1首は詠んだけれど、後は勘弁してください」

と断った。しかし人々は許さない。やむをえず、

  ゆく水のかえらぬけふをおしめただ 

    やかきも年はとまらぬものを

(ゆく水は流れ下るだけで帰ることはない。若くても年月は止まらないものです。今日を大切にしなさい)

と詠むと、また盃は巡った。しばらくすると、また浜田の妻に、こんどは歌をうたえと言う。

                       続く

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