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2009年5月24日 (日)

「エセー」について 真紅の帯

5月24日8(日)

「エセー」について

なんとなく今日の題名は、かっこいいね。

本当のことを言えば、私には「座右の書」なんてありません。でも、強いて挙げるならば、モンテーニュの「エセー」と言うことになります。これも、中卒程度の私が言うのだから、なんとなく格好付けているような気がします。結構大部な本ですが、若い頃、たぶん3度くらいは通して読んでいます。

モンテーニュの「エセー」を、若い頃読んだだけで分かるのかと言われたら、分からないと答える他はありません。でもこの本は、理解力が低い人には低いなりに、何かを感じさせる本でした。私の知能では、生涯にわたって、深く理解するなんて事は出来ないでしょう。それでも、もう1回通して読んでみたいと思っています。そう思いだしてから何年か経つのに、実行していません。根気がない、エネルギーがないんです。

「エセー」はモンテー二が考えたこと、感じたことを自由に書いている本で、取り立てて体系があるというものではない。だから読む方も、適当なところを開いて、そのページを読んでみる、というのでも良いのだ。

そんな読み方ならば、今でもたまにはする。今日は、第56章「祈りについて」を読んでみた。たとえば、こんなことが書いてある。

~われわれは習慣で祈っている。もっと正確に言えば、われわれのお祈りを読み、発音している。

~あまりに自分の考えに自信を持ちすぎて、これと反対の考え方はあり得ないなどと思いこむのは全く困った病気だ。

~神に祈る秘密の願いを平気で明るみに出せる人はほとんどいない。

ふーん、なるほどね。

御伽婢子 通算13回

真紅の帯

福井県の敦賀に浜田長八という裕福な人がいて、二人の娘がいた。

その隣に檜垣平太(ヒガキヘイタ)という者がいて、これは元来武士だったのだが、武士をやめて町人になり、成功して豊かに暮らしていた。平太にはひとり息子がいて、名前を平次といった。

平次は長八の娘たちと同じくらいの年頃で、幼なじみである。長じて年頃になったとき、平太は息子の平次と長八の姉娘を結婚させようとしたちころ、長八も賛成で婚約することになった。そのしるしとして、酒魚を調え、真紅の帯を娘に与えた。

ところが天正3年(1575年)朝倉と織田の戦いが始まり、朝倉の方の若林長門守(ワカバヤシナガトノカミ)も、城に立てこもった。実は、檜垣平太はこの長門守の家来だったのである。そのため平太たちは累が及ぶことを怖れて、5年ばかり京都の縁者のもとに避難していた。その間、敦賀の方には何の音沙汰もなかった。

長八の娘は19歳になり、美人だったので、あちこちから結婚の申込があった。しかし娘は。頑として聞き入れなかった。幼なじみの平次を思い、朝夕涙するばかりで、ついに病に倒れ、半年あまり病床にあって、亡くなってしまった。

両親は大いに悲しみ、平次に送られた真紅の帯と共に、小潮と言うところの寺に亡骸を埋めた。

                           続く

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