英草紙から その2
1月14日(水)
豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その2
兼秋が兵庫についてみると、帝のお迎えのために、諸国の武士や貴族が集まっていた。この日、鎌倉幕府が滅びたというので、そのことを帝に伝える喜びの声が、ちまたに溢れていた。
兼秋は天にも昇る心地がして、帝に付き従うもののうち、以前に親しくしていた上役に付き従って、ご尊顔を拝した。昔、御輿を担いだ者であることを帝もご承知で、ことのほか喜んでくれた。
そののち帝は京都に帰り、ふたたび公家の天下になった。それぞれ忠義の者には報償が行われ、兼秋も、もとの禄に戻された。
その年の秋、伊予の国(愛媛県)河野備後守通治(コウノビンゴノカミミチハル)が帝に申し上げたことがお心にかない、帝の返事を伝えることになった。その使いとして、兼秋が遣わされた。
兼秋が伊予まで下り、帰ることになったが、もとより帝のつかいで来たものであるから、通治は、それ馬よ、それ従者よと丁重に送り返そうとした。兼秋は持病の足の病が出て、馬や御輿は辛かったので、船で帰りたいと申し出た。
大事な使いだけれども、用事は済んだあとなので、それも良かろうと、調度なども良くととのった大きな船で帰ることになった。
船は順風と好天に恵まれ、波を越え、緑の山を遠くに眺め、讃岐の国(香川県)屏風ヶ浦に着いた。
おりしも8月15日(旧暦)である。その月を見ようと切り立った崖の下に船を泊め、日暮れを待った。するとどうしたことか、強風が吹き、豪雨が降り、波が大いに荒れた。しかしそれは一時で、すぐに波風はおさまり、雨も止み、雲の切れ間から月が煌々と輝き出た。雨後の月はことのほか美しく、山を照らし、海に映る。兼秋は琴を取り出し、調子を合わせて、秘伝とされる曲を奏でた。
続く
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