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2009年1月31日 (土)

顔の見える・・・

1月31日(土)

もう1月も終わり。平凡ですが、月日の流れは速いねえ。

一時「顔の見える○○」とよく言われました。本当にね、今は何事にも顔が見えなくなっています。抽象的にではなく、私が言うのは、文字通り顔が見えないと言うことです。

誰が作ったか分からない食品を食べ、誰が作ったか分からない衣類を着、隣の人も分からないような家に住んだりするのです。毎日毎日、道ですれ違う人や電車で乗り合わせる人の顔など、いちいち覚えていたりしません。みんなそんなことには無関心で過ごしています。繁華街で、すれ違う人すべてと挨拶を交わしていたら、1メートルもすすめませんよね。みんな他人には無関心なんです。そうしなければ日常生活が出来ないのですから、良いも悪いも言えません。

自分のすることを、何もかも見られているような社会も息苦しいけれども、何をしても無視される社会というのも虚しい。どの辺がちょうど良いのですかね。

なんだか、我々を取り巻く社会が大きく成りすぎましたね。村社会なら、自分のすることを、個性として認めて貰えたでしょう。そこで自分の絵を描いていれば、人は認めてくれました。(さっきの「顔」は具体的な顔ですが、ここでの「絵」は抽象的に使っています。)村社会が崩壊して、世界全体が自分の社会と言うことになってしまうと、よほどすごい絵でも描かない限り、存在を認めて貰えません。困りますね、私のような平凡な人間には。

顔の見えない社会では、人は残酷なこともするのです。戦争を考えてみてください。一人ひとりの顔を見て、その苦しむ様子を見ながら、棍棒などで人を殺すなら、作戦を立てる人だって、そう多くは殺せないでしょう。だいたいそのようなことをしたら、殺す方の精神が異常になります。しかし、一人ひとりの顔も見ないで、紙の上で作戦を立てる人には、人を殺すという実感がありません。紙の上では、何人でも殺せるのです。

命令を受けた方も、遠くから爆弾を落としたりするわけで、一人ひとりの苦しむ顔を見なくて済むようになっています。また兵士たちは、悩まずに人を殺せるような訓練も受けるのだそうですね。それでも前線の兵士は、精神に異常を来す人が多いそうです。

古代人を野蛮だなどと言いますが、戦争をするときは、顔を見ながらで、そう多くの人を殺したわけではありません。冷静に、紙の上で作戦を立てて多くの人を殺すような行為は、古代人以上に野蛮だと私は思います。

話は違いますが、企業なども大きく成りすぎました。なんでも競争に勝たなくてはならなくて、どんどん大きくして、会社が危なくなると、まず働く者の首を切るのです。最初にやるのが人件費の削減ですかね。

切られる人が路頭に迷おうとも、知ったことではないのです。何しろ、顔が見えないのですから・・・。

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2009年1月30日 (金)

遅い新年会

1月30日(金)

特養Sへ。

夕方、こぶし福祉会関係者の新年会。半分くらいは義理で出ているんじゃないかな。特に感想は無し。行き帰りの雨がいやでした。

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2009年1月29日 (木)

切り花 橇

1月29日(木)

Imgp0896 これは正月のために買った仏花です。さすがにもう終わりそうですが、まだ散っていません。買ってから1ヶ月たちます。自分で言っていれば世話はないけれど、私は切り花を長持ちさせるのが上手なような気がします。

と言って、別段これと言うほどのコツはありません。私がやっている切り花の扱い方を書いてみます。

買ってきたら、まず茎の水切りをします。水道の蛇口の下で、水を流しながら、茎の下の方を3センチくらい切りつめます。ハサミは、切れ味の良いものでなくてはいけません。切れないハサミで、水の吸い口をつぶしてはいけないのです。

次に、バケツに水をたっぷり入れ、切り花を新聞紙でくるんで一晩浸けます。

それからは、普通に、花瓶に入れます。この際大切なのは、水の量で、花瓶の底の方に、2-3センチ入れるだけにします。花は水がなくては生きていけませんが、水で茎や葉が痛むのです。本当は、1日で切り花が水を吸い上げる量だけ入っていればいいのです。しかし、水が切れてはいけないわけですから、少しだけ多く入れることになります。

水は毎日取り替えます。その際、必ず、切り花の茎と、花瓶の中を洗います。腐敗菌を取り去るためです。茎や花瓶の中がぬるぬるしている状態ではいけません。

何日かすると、花の茎の水に浸かっている部分が痛んできます。頃合いを見て、その部分を流水の下で切りつめます。ついでに、しおれた葉、咲きそうもない蕾なども切り落とします。

その結果が、1ヶ月たって、上の写真のような状態というわけです。

何日か前から、橇の写真、イラストを探しています。インターネットで探しても、なかなか思うようなものが見あたりません。私が特に探しているのは、箱橇です。

Tati0010

箱橇のイメージ図です。

車がなかった時代、箱橇は冬の乗用車でした。私の田舎では、たとえば急な病人が出たとき、若者が箱橇を走らせてお医者様を迎えに行きました。

そんな箱橇の絵や写真を探しているのですが、見つかりません。今では、橇は実用の道具ではなく、子供の遊び道具になっているようです。

昔、と言っても、たとえば60年前、橇は冬の荷車でした。私が疎開した先の伯父の家に、製材工場がありました。そのため、山から工場まで丸太を運ぶのですが、それは冬の仕事で、橇を使いました。

Photo

これももちろんイメージ図です。

木製の橇の下には鉄板がはられていました。深い雪は、小さな流れくらいは埋めてしまいます。雪の上ならば、山から工場まで、最短距離の道が造れるのです。他の季節の、道路沿いの道を走る必要はありません。

自分で描いた絵ですが、丸太が実際よりは短いようです。家を建てる柱の長さは必要ですからね。橇ももっと大きかったようです。そして人間と橇の距離も、もっと離れていたと思います。足には雪草鞋というものを履いていましたが、実物もないので、私の絵では表せません。

橇は農業の役にも立っていました。冬の間に堆肥を田んぼまで持っていくのです。田んぼ1枚1枚の必要な量を、橇でその場所まで運びました。

山でで柴を刈って、家まで運んでくるのも橇でしたね。

もう昔の話しです。

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2009年1月28日 (水)

武川岳

1月28日(水)

山行

男性・H、S、ぼんくらカエル。女性・K、A・Tの6人。

コース

名郷(バス停)~天狗岩~前武川岳~武川岳~前武川岳~山伏峠~伊豆ヶ岳~亀岩~正丸駅

午前中は曇り空で、ときおり小雪が舞う。

Imgp0877_2             

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木の根と雪のオブジェ。

Imgp0884

 

武川岳の頂上と動物の足跡(右)。これはウサギやテンなどではありません。大型の動物ですね。

Imgp0878 Imgp0881

             

天狗岩は、3点支持で登る。天狗岩の入り口(右)と出口。天狗岩コースは大きな岩が積み重なっている。3点支持で進みます。

武川岳頂上で昼食。

Imgp0886

午後からはときおり晴れて、遠くの山々が見える。

Imgp0891_4 

 

伊豆ヶ岳から亀岩に下りるコースは、昭文社の地図にはないようですが、伊豆ヶ岳から正丸方面に直接下りるよりはよいコースだと思います。道もしっかりしています。

地元まで帰り、反省することがあってもなくても反省会。つまり飲み会です。Tさんは事情あって参加せず。                                               

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2009年1月27日 (火)

いやなこと

1月27日(火)

ブログのタイトルは、考えて付けないといけませんねえ。少し油断すると、エッチタイトルのトラックバックが付いてくる。昨日は失敗でした。「どうでもいいことが好き」なんてタイトルにしたら、さっそく怪しげなのがつきました。

私はエッチが嫌いではないのですがね、見栄もあって隠しています。しかし隠すまでもなく、近ごろは、そちらの方の能力もなくなっているような気がします。それにでも、好きは好きなんです。ただね、自分のブログにエッチなトラックバックをぶら下げようとは思っていません。

格好をつけていると言われたら、そうだとしか言えません。でもね、前にも書きましたが、「せめて偽善者であれ」と言うのが私の考えです。なかなか聖人君子には成れるものではありません。私は俗な人間です。だから俗な人間らしく、格好をつけたがるのです。欲望をぎらぎらさせている人は嫌いです。金銭欲であれ、権力欲であれ、性欲であれ、生の形で出てくるのはいやですね。

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2009年1月26日 (月)

どうでもいいことが好き

1月26日(月)

精障者作業所Mへ。

どうでもいいことが好き

いつも書くことだが、私はやらなければならないことは、やりたくない。やらなくてもよいことは、やりたい。

学校の時、勉強はしたくなかった。国語や社会の教科書は、初めて手にしたとき、一通り読んだような気がする。しかし、一度読んでしまえば、もう読む気がしない。何しろ、「坊ちゃん」や「トムソーヤの冒険」や、「岩見重太郎のヒヒ退治」などを読まなければならなかったから、教科書など手にする暇がなかった。

そのほかにも、ラジオからは赤バットの川上や青バットの大下が活躍するプロ野球の実況中継が流れてくるし、「鐘の鳴る丘」だって聞かなければならなかったのである。そしてぼろ布を紐で丸めてボール状にしたものを、板きれのバットで打つ野球もどきもしなければならなかった。稲刈りがすんだ田んぼが私たちの野球場になった。

仕事はほぼ真面目にしたけれど、休日の方が嬉しかった。仕事が好きです気でしょうがない人もいるらしいけれど、私はそんなことはなかった。時にはずる休みもした。ずる休みをして寝床の中でぐずぐずしている、あれは楽しいねえ。

一人暮らしをはじめて10年くらいになる。年金暮らしだから、やらなければならないことの第一は、家事である。炊事洗濯はやらなければどうしようもないのでやるけれど、いつも書くように、掃除は先延ばしばかりしている。現在のわが家は、あまり人に覗かれたくない状況だ。掃除を1日のばしにしていると、いつの間にか2週間も3週間もたってしまう。もうどうしようもないので明日は掃除をするけれど、ウーン、気が重いなあ。

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2009年1月25日 (日)

長瀞ひとまわり

1月25日(日)

山の会の仲間5人で、長瀞一周。

上長瀞下車。長瀞まで岩畳を見ながら、あるいは岩畳の上を、歩く。

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Imgp0851_2

長瀞からは舗道歩きで川下の金石水管橋へ。水道管の上に懸けられた橋。細くて車はわたれない。この橋を渡って、対岸の蓬莱公園へ。

Imgp0860 Imgp0866               

ここで昼食。ここには日本1大きいという甌穴(オウケツ)がある。甌穴とは急流の岩床の窪みに石が入り、石が転がったりぶつかったりしながら、その窪みを大きな穴にしたもの。

下は甌穴のある岩と、甌穴が出来るイメージ図。

Imgp0863 Imgp0875

  

その後、長瀞対岸を親鼻駅まで歩く。所々で長瀞側の岩畳が見える、対岸の道。

Imgp0871_2 Imgp0873                                 

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2009年1月24日 (土)

新年句会 狭山に初雪

1月24日(土)

私の属する俳句の会と、その会と親類関係にある俳句の会の合同句会。何人かのゲストもお招きしてある。

私は司会などやっていたのだが、なんと私の出句に、得点は零。俳句を始めて間もなく7年目に入ろうとしているが、大会も例会も含めて、投句すべてに1点も入らないというのは、初めての経験である。ここまで無視されると、むしろさばさばしますね。披講の終わりごろには、1,2点入るよりは、むしろこのまま0点が良いと本気で思った。

午後は懇談会。今坂さんの句集「棒球譚」の上梓祝い。その途中、短い間だが、狭山に初雪。

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2009年1月23日 (金)

水彩画の会 英草紙から・その11

1月23日(金)

水彩画の会

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英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話・11

その塚が時陰の墓だった。兼秋は盛装し、花を献じて、泣き崩れた。兼秋は備えるべき供物を持ち合わせていない。そこで、琴を取り出し、涙と共に弾じた。その音はなんのおもしろみもないので、まわりに集まってきた野次馬たちは、さげすんで笑った。

「この辺の者は、真の音楽を知らない。ただ楽しみの具だと思っている。だからみんな立ち去ってしまった」

と、時陰の親が言った。兼秋が答える。

「この曲でさえ、人は理解しない。まして琴の秘曲など分かるはずもない。真の音楽が衰えるのももっともである。私が今弾いたのは、心に浮かんだことをあらわす曲です。大内家の箏の曲に似たものだ。その言葉は、次のようです」

  この秋を昔にして、会いたい人がいる

  その人は雲隠れ、塚に隠れて声もない

  便りも来ないこの山中に

  我を呼ぶかに聞こえしは郭公

「これは時陰を弔う言葉です」

と言うやいなや、兼秋は刀を取り出して琴を2つに割ってしまった。

老人は驚いて、

「これはなんとしたことを」

と言う。兼秋は答えた。

「琴の曲は唐土はもとより、我が国でも廃れた。わずかにわが家に伝わっていた。私がこれを捨て去れば、もはや後の世に伝わることはない。時陰が亡くなった今となっては、その音を聴き分ける人もいない」

「わが息子は、あなたともっともっと話しあいたかったに違いない。亡くなってしまったのは、惜しいことだ。悲しいことだ・・・。それはそれとして、これからわが家に寄ってください」

「私は1度都に帰ります。身のまわりを整理してふたたびここに戻り、時陰に代わってあなた方の世話をさせてもらいます。帝は位に復してから、音楽を好みますが、俗な曲ばかりを求めます。難しい世の中を治めるべき人ではありません。いずれまた都も一変するでしょう。私も2君に仕えるよりは、早く引退したいと思います」

兼秋は都に帰り、さほど日がたたぬうちに政変が起きた。兼秋は讃岐に下り、時陰の両親に孝養をつくし、二人をみおくった。そして子どもたちを百姓にし、自身は出家したと言うことだ。

                      終わり    

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2009年1月22日 (木)

ボラ関係 英草紙から・その10

1月22日(木)

午前、ボラ定例会。

午後、老人介護施設Kへ。

英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その10

前回までのあらすじ

豊原兼秋は後醍醐天皇の使いとして、伊予の国へ行き、その帰り、讃岐の国で不思議な樵に会う。今はほとんど知る人の無い琴の曲を、兼秋が奏したところ、彼はそれを聴き分けていた。兼秋は彼を自分の船に呼び入れ、音楽談義をする。彼(横尾時陰)の音楽に対する造詣の深さにうたれ、義兄弟となる。そして1年後の再会を約して別れた。その時期が近づいてきた。

兼秋は役所にしばらくの休暇を願い出て、船で四国に向かった。そして約束の8月15日(旧暦・中秋の名月の日)に屏風浦に着いた。兼秋は去年船を泊めたところで時陰を待つことにした。そして、自分が着いたことを知らせるために、琴を弾いた。

しかるに、どうしたことか、ある糸の音が、悲しく恨みを持つように響く。これは時陰に辛いことがあって、引きこもっていることをあらわしている。どうにも気になるので、翌朝早く、従者を5・6人引き連れて時陰に会いに出かけた。

1里(4キロ)ほど進むと大きな道に出た。どちらに向かえば山中村なのか土地の人に聞こうと思っていると、1人の老人が、杖をつきながら歩いてきた。訪ねてみると、

「ここが山中村です。左に行けば上山中村、右へ行けば下山中村。どなたを訪ねて行かれるのですか?」

と言う。

「横尾時陰という人を訪ねていきます」

その名前を聞くと、老人はハラハラと涙を流した。

「それは私の息子の名前です。去年の8月15日、樵に出て遅く帰った。聞けば、都の楽匠が珍しい琴の曲を弾き、互いに音楽について語り、意気投合して兄弟の約束をしたと言っていた。そしてその人に家を興すように誘われた。その後、生活のための仕事に加えて、音楽についてもいろいろ努力をしていた。あまりに一生懸命だったためか、せがれは神経を病み、数ヶ月前になくなりました」

それを聞いて、兼秋は悲しみのあまり、泣いて地に伏した。

「昨夜は会いに来ると言っていたのに現れなかったので、どうしたことかと思った。既に亡くなっていたとは・・・あまりのことに言葉もありません」

「あなたが豊原兼秋殿でしたか。せがれは臨終の時に言っていました。私が死んだら屏風浦のところに埋めてくれ、あなた様にそこで会うと約束をしているのだと。今日はせがれが死んで100日目です。これからお参りに行くところなのです」

「それならば、私も一緒に行きましょう」

兼秋が老人と連れだって、もと来た道を引き返した。すると、確かに新しい塚があった。

                         続く

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2009年1月21日 (水)

いろいろ 英草紙から・その9

1月21日(水)

オバマさん

オバマさんがアメリカ大統領に就任。アメリカは大変な熱気のようだ。人柄はかなり良いような気がします。実行力もあるから大統領になれたのでしょう。しかし、経済も、イラクも、アフガンも、ガザ地区も、何もかもオバマさんで解決できるなどとは考えられません。でも、静かにある程度は期待します。幾ら何でも、ブッシュさんよりはまともでしょうから。

朝食

Imgp0840 少し前に、朝食の写真を載せました。もう1度公開します。今日の朝食です。右側はうどんで、納豆、わかめ、もやし、レタス、みかんの皮が入っています。左はサラダで、うどんの具とダブりますがレタス、きゅうり、蕪です。デザートは甘夏。

実は私、麺類を摂るのは珍しい。その意味で、今日の朝食は例外的なもの。ご飯を炊くのを忘れていたのです。いざ食べようと思っても、炊き忘れていることがたびたびあるのです。そんなとき、大抵は我がマンションから走らなくても2分でいける99円ショップの行きます。白飯が99円で売っているからです。

今朝は寒いので、買いに行きませんでした。あり合わせのうどんを使ったというわけです。うどんやそばは、わが家で取っている酒屋から、時々サービスでもらいます。

英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その9

時陰の話に兼秋は感心して言った。

「なるほどそのような家で育ったのですか。しかしながら、楽器を演奏するだけならば、教えられれば覚えます。あなたのように演奏する者の心まで読む人を、私は知りません。これは天性のもので、教えられて覚えるようなものではありません」

時陰は言う。

「琴は古代の音楽なので、聖人君子を褒め称えるものとして聴くのが良いでしょう。今の音楽は、ただおもしろおかしく演奏しているので、国の存亡吉凶など聴き取ることは出来ません」

兼秋はますます感心した。

「あなたのように音楽の底の心を知る人がいてこそ、私が琴を演奏する甲斐もある。これ以後は義兄弟の契りを結ぼう。私はあなたに伝えられたことを学び、あなたには私が知ることを教えよう。そしてあなたの家をふたたび興そうではありませんか」

時陰は兼秋の申し出を受け、二人は義兄弟となった。兼秋は27歳、時陰は26歳だったので、兼秋を兄、時陰を弟とした。

時陰は言う。

「私の家はここから1里ばかりのところの山中村にある。兄上が公の使いでなかったならば、わが家に案内し、両親に紹介するのですが・・・。」

そうも行かないので、兼秋は酒を振る舞って、歓待した。やがて東の空が白みかけてきた。船頭が出発の用意をしている。時陰は別れの挨拶をした。兼秋は引き留めて、さらに一献をすすめた。

「会ったばかりだというのに、もう別れる時間になるとは、時のたつのは早いものだ。せめてこの船で高松まで行きませんか。そうしたら人をつけて送らせます」

「私もそうしたいけれども、親が心配しています。今日こうして話し込んでしまって帰りが遅れたのも、親には申し訳ないと思っているのです」

「そうですか。それならばやむを得ません。その代わり後で都に来てください」

「それも出来ません。とても親が許してくれないでしょう」

「あなたは孝行息子なんですね。それならば来年、私がここまで会いに来ましょう」

「それはありがたい。この辺りは道路事情が悪くて、手紙なども届きにくい。来る時を教えてください。ここまで私が迎えに出ます」

「分かりなした、昨日が中秋の15夜、今日は16日、ちょうど1年後に来ることにします」

いよいよ別れる際に、兼秋は金1封を時陰に与えて言った。

「兄弟になったからには、あなたの親は私の親だ。これを親のために使ってください」

時陰は遠慮無くそれを受け取り、船から岸に移り、帰っていった。

その後兼秋の船は順風に恵まれ、何事もなく都に帰った。後醍醐天皇はご機嫌も麗しく、兼秋はしばらく都で過ごした。

                     続く

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2009年1月20日 (火)

せめて偽善者であれ  英草紙から・その8

1月20日(火)

せめて偽善者であれ

「私は偽善者である」と告白するのは、まさに偽善者らしい行為である。「私は正直な偽善者ですよ」といっているようなものだ。正直な偽善者なんていますかね。

それでも私は、自分を偽善者だと言います。ついでに付け加えれば、大抵の人は、みな偽善者だと思って、居直っています。

今の世の中、欲望でもなんでも、思ったままあらわし、行動するのがよいと思っている人もいるようで、ちょっとやりきれませんね。自分の欲望をぎらぎらさせて行動して恥じない人、やっぱりいやだな。

本当の善人になんて、なかなか成れるものではありません。いれば神のような人、天使のような人です。大抵は私みたいな凡人です。せめて偽善者になって下さい。恥を知ろうよ。

英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その8

樵の話を聞いて、兼秋は思った。この男、よく知っている。しかし、単なる耳学問かも知れない。もう少し確かめてみよう。

「唐土でも音楽を理解する者は、音を聴いて、どんな気持ちで弾いたのかが分かるという。私が何事かを思って弾いたときに、その思いを聴き取ることが出来るか?」

「大人、試みに弾いてみてください。大抵分かると思います。もし言い当てられなくても咎めないでください」

兼秋は切れた弦を調え、しばらく沈思黙考し、心を高山に置いて、琴を弾いた。樵は賞賛した。

「琴の音が非常に美しい。洋々としている。大人の心は高山にあった」

兼秋は答えずに、心を凝らしてふたたび琴を鳴らした。樵は言う。

「美しい音です。水が溢れるようだ。大人の心は海にあります」

この二つを言い当てられて、兼秋は樵を上座に導いた。

「これはまた意外なことだ。砂の中に宝石がある。姿形で人を判断してはいけないというのはこのことか。是非お名前をお聞かせ下さい」

樵はむしろ小さくなって答えた。

「私の姓は横尾、名は時陰(トキカゲ)と言います。親は大和介(ヤマトノスケ)と言って、代々天王寺に住んでいました。わが祖先は、八幡太郎殿(源義家・頼朝の先祖)より、琵琶の曲を授かった家です。私の時陰という名前は、代々家に伝わる名前です。近ごろは世の中が騒々しくて、30年以上も前にこの土地に落ちのびました。今は、山や田畑の仕事をして世を過ごしています」

「しかしながら、音楽を忘れたことはなく、故実を勉強し、農具を使いながらも、親は笛の吹きかたを教えてくれた。今では音楽をつかさどる家でも、故実など知らない者が多いと聞く。親は私に心を込めて教えてくれたので、親と同じ程度のことは知っている」

「琴の曲はもう廃れたと聞いていた。しかし今日、珍しい音を聴き、耳をすまして聴いていた。私は琴の曲を知らないけれども、私が覚えた笛の曲にあわせて、その曲を聴き取ったのです」

                    続く

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2009年1月19日 (月)

英草紙から その7

1月19日(月)

精障者作業所Mへ。

英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その7

樵の話が続く。

「箏のことは秦の蒙恬(モウテン・始皇帝の部下の将軍)が作った(箏は、現在普通に、琴と言われている楽器。蒙恬が西域から伝えたという伝説もある)。箏は13弦の楽器である。甲が丸みを帯びているのは天の象(カタチ)、下が四角いのは地の象、中が空洞なのは天地と四方、つまり宇宙の象である。

13の琴柱は12月に閏月を加えたもの。柱の高さは昔は3寸だった。これは天地人をあらわす。長さが6尺なのは6つの音階をあらわしている。

雄略天皇の頃は秦の酒公(サケノキミ)これを弾いた。その頃は雅楽の調子を持っていた。欽明天皇のころ舞楽が伝わり、推古天皇のころ、俗曲などもすべて伝わった。隋や唐の音楽に合わせたので、雅趣を離れ俗曲の楽器になった。

近ごろ九州の大内家で雅楽の曲をまねて、日本語の詩を添えたものを作り、演奏している。雅楽の音は伝わるけれども言葉が絶えたので、このようなことが起きるのだろう」

「琵琶は唐土の始まるころ西域から伝わったもの。その形は満月をあらわす。長さは1尺5寸。四弦は四時である。日本では古代から弾かれていたことが、物語などにより明らかである。これも平家物語を弾くようになって、昔の曲は廃れた。

琵琶は演奏が難しかったために、魏、晋のころ竹林の7賢人のうち、阮咸(ゲンカン・竹林の7賢人の一人)という者が4弦にした。

その後どんどん形が変わって、近ごろ沖縄から伝わった3弦の提琴(三味線)というものも、琵琶の変形である。まだ日本では演奏の仕方が分からないが、清涼な音がする。しかし、弾き方によってはみだらな曲にもなる。

現在雅楽といっているものも、隋・唐の時代には俗な曲だった。酒宴の席や、閨で弾いたものだ。だから提琴も後世日本に広まるならば、優れた楽器になるだろう。」

「その他、新羅琴、百済琴などもあるが、語る必要もないだろう」

と話して、樵は口を閉じた。

                        続く

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2009年1月18日 (日)

英草紙から  その6

1月18日(日)

英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 

英草紙  原作   近路行者

      現代語訳 ぼんくらカエル

前回までのあらすじ 

後醍醐天皇に使える豊原兼秋は天皇の使いで四国、伊予の国へ行き、その帰り、船を讃岐に国停泊させた。船中で琴(キン、7弦のこと)の古曲を弾いたところ、岸の崖の上にその古曲を知る樵がいた。兼秋は不思議に思い、その樵を船中に招き入れて、樵に。楽器について質問をする。樵はそれに答え、「琴」についての蘊蓄を語っている。

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その6

「伏義は中の段の樹を削って楽器を作った。その長さは3尺6寸1分で361度を示す。これは月星が天を1周する角度。楽器の頭の幅は8寸で、8節すなわち、8つの季節、立春、春分、立夏などをあらわす。尻は4寸で、四時すなわち春夏秋冬をあらわす。厚さ2寸は陰陽、天地を示すもの。

徽(キ・琴を弾くためのしるし)が13あるのは12月と閏月(旧暦の閏月は2月が2回ある)をあらわす。

琴ははじめは5弦だった。それは5行、すなわち金木水火土をあらわすもの。それぞれの音を宮商角微羽とした。周の文王はこれに1弦を加えた。清く哀愁を帯びた音を出し、これを文弦という。後に武王が1弦を加え7弦とした。その音は強く激しい。それを武弦という。後生になって、唐の太宗が2弦を加え9弦となったが、日本に伝わったのは唐よりも前なので、7弦なのである。

この琴を奏するときは、香を焚き心を正しくして奏する。すると虎や狼も吠えるのをやめ、猿は啼くことを忘れる。堯舜(ギョウとシュン・古代伝説の聖王)の御代には5弦の琴を奏して穏やかな詩を謳い、世の中は良く治まった。これは琴という楽器の徳のあるところだ」

「次に和琴だが、これは大和琴とも言う。その昔天照大神が天の岩戸に隠れたとき、御琴神天香弓(オンコトノカミアマノカゴユミ)が6張りの弓の弦を鳴らし、神楽にあわせたのをはじめとしている。

したがって和琴は6弦で、甲は上に反っていて弓のような形をしている。楓の枝を琴柱とし、楽器に飾りを用いない。膝の上に置いて奏するのは古風である。

私がひそかに思うのは、和琴もまた唐土から伝わったのではないだろうか。琴にまだ武弦が加えられないうち、神世の頃に伝わったので、雅楽の楽器となった。昔からあるので大和琴というのではないだろうか。

あるいは、和琴や笛は本当に日本で生まれたものかも知れない。

日本の神道の舞楽は昔から伝わるものが、伊勢、出雲、熊野、三輪などにあったというが、今に伝わるとは知らない。

昔は天上の神を地上に降すとき、皆和琴を鳴らしたものである。和琴は今は神楽に用いられる。和琴を弾けば、神と人間が共に喜び、邪悪のものを遠ざける。これが和琴の良いところだ」

                     続く

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2009年1月17日 (土)

特養さくら新年会 英草紙から・その5

1月17日(土)

特養さくら新年会

さくらは利用者の多い特養で、新年会は午前と午後の2回に分けて行われた。私はその両方で、餅つきや利用者の移動などの手伝い。

新年会は2階のホールで行われ、午前は狭山茶摘み太鼓。下諏訪のひょっとこ踊りと獅子舞。餅つき。職員の踊り。午後は太鼓が無くて代わりに「め組」という踊りのグループが参加。

Imgp0831 Imgp0834

本当は午前中の太鼓がすばらしかったけれど、カメラを持っていかなかったので、午後の写真だけです。自由に移動するのも難しく、利用者さんの顔が映らないように気を使っての写真なので、こんなものになりました。(また言い訳だ!)。本当は職員の踊りも良かった。

英草紙から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その5

ものおじもせず平然と座る樵に、感情を害した兼秋は、

「がけの上で琴の音を聴いたのはお前か。お前は琴の由来を知っているか? 琴は誰が作ったか?  琴を弾いてなんの徳があるか?」

と聞く。

船頭が話しを遮った。

「良い風が吹いています。月も明るく昼のようです。船を出しましょう」

それを聞いて樵は席を立った。

「大人のおたずねに答えていたら、時間がかかります。良い風が吹いているというのであれば、時を移しては行けません」

「船が遅くなるのはかまわない。お前が本当に知っているのならば、私の問いに答えなさい」

と兼秋は言う。樵は座り直した。

「それではお答えいたしましょう。琴の種類はいくつかあります。琴、箏、琵琶、和琴を我が国ではすべて『こと』と言います。『こと』とは『おと』がなまったものです。引き鳴らせば音がするという意味です。

大人が弾いたのは『琴(キン)のこと』です。これは中国の伏義(フッキ・中国伝説上の帝王)作ったもの。鳳凰が棲んでいた梧桐の樹を切って作ったところ、樹の高さは3丈3尺あった。これは33天の数に見合う。天、地、人にならって、この樹を三つに切断した。上の一段を叩いてみると、音が澄みすぎて軽すぎる。下の一段を叩いてみると音が濁って重すぎた。中の段を叩いてみると清濁がちょうど良くて、軽さ重さもほどよい。

そこで中の段を流水に72日浸した。これは72候(1年を72分けて季節の変化を示す考え方)にあう」

樵の話はなおも続く。

                                             続く

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2009年1月16日 (金)

ボラ懇談会  英草紙・その4

1月16日(金)

精障者作業所Mでボランティアとスタッフの懇談会。

私の現在の酒量。500ミリリットルの缶ビール1本、日本酒2合。おかずを摘みながら飲んだ後で、パソコンにむかっています。これがだいたいパソコンにむかう前の標準です。終わってから、また1合か2合は飲みます。アルコール依存症でしょうね。

知人、Kさんの父上は、米寿を祝った今でも、朝から酒を飲み、夜中に目が覚めても飲み、畑仕事をし、インターネットで碁をやるそうです。いつかこのブログで、喜寿と書いたと思いますが、米寿の誤りでした。

現役時代は職人だったそうです。その点だけは私と同じです。ウーン、あこがれだなあ。私はその歳まで生きそうな気がしないけれど。

「英草紙」から

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その4

樵の話を聞いてなかなかの者だとは思ったけれど、兼秋は重ねて問いただした。

「私の曲を聴いて興味を覚えたのかも知れないが、この曲がどんな趣があるのかまでは分かるまい?」

「それが分からずに、なんで聞き惚れることがあろうか。詩と音楽とは、一体のものである。大人の弾いた曲は今に伝わる隋唐(古代中国の王朝)の曲ではない。それより古い東漢(紀元前210年前後)以上の曲である。今日弾かれたのは博雅四帖の曲である。

   秋月濾江白(しゅうげつろこうしろし)

   初驚冷露時(はじめておどろくれいろのとき)

   寒衣尚未了(かんいなおおわらず)

ここまで弾いて糸が切れた。第4句は、

   郎喚儂底為(ろうわれをよばばなにをかせん)

と続くはずである」

兼秋はこの答えを聞いて思った。この曲は昔は知っている人もいたが、今ではわが家にだけ伝わっている。他に知る者は居ないはずだ。彼はどうして知っているのだろう。わが家の他にも伝えられているのだろうか?

「答えを聞くに、確かにあなたは俗人ではない。陸と船で話しをするのは面倒だ。船にきてもらいたい」

樵は少しも物怖じする様子もなく、木の根を伝わって、船に乗り移った。その姿はまことに樵そのもので、蓑を着て草鞋を履き、腰にはマサカリをつけている。

船の中の家来たちは、彼の見識が分からず、何を言うのかとひそひそとささやき笑っていた。

樵はそんなことは気にもとめず、蓑を取り、草鞋を脱ぎ、マサカリなどを脇に置き、兼秋の前にあぐらをかいた。

兼秋は役人としては位が低いけれども、公の使いである。樵などを対等に扱っては官位を汚すものだとは思ったが、自分が呼び入れたのだから仕方がない、ただ手を上げて会釈とした。しかし兼秋の前にきても平然としていることが少し腹立たしく、わざと姓名を問わなかった。お茶も出さず、しばらく黙っていた。

                      続く

 

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2009年1月15日 (木)

お鷹の道  英草紙から・その3

1月15日(木)

少し前まで、今日は成人の日だった。その前は小正月だった。オット、これは今でも小正月でした。成人の日は、私が成人になる少し前に出来ました。1月15日だったので、小正月にあわせて祝日にしたのだと思ったものです。ですから成人の日が15日から移動するのは、何となく違和感があります。文化の日や勤労感謝の日は動かないのにね。文化の日は明治節、勤労感謝の日は新嘗祭でしたかね。

お鷹の道

午後、暇があったので、国分寺、お鷹の道を散歩しました。

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湧水群があって、蛍がいるという小川にそった遊歩道です。近くに旧国分寺跡などもあり、遊歩道の端には、現国分寺があります。

Imgp0813 50年も前のことです。私はこの国分寺に寄ったことがあります。当時の住職は話し好きだったのか、二十歳前後の私をつかまえて、ここに万葉植物園を作ると言っていました。その植物園は、この境内にあります。寺の関係者の方が庭仕事をされていたので、聞いてみると、90何歳かで亡くなられたと言うことです。

国分寺駅の近くに殿ヶ谷戸という庭園があります。そちらにも寄ってみました。

Imgp0827 デジカメの電池が切れたので、こちらはこれだけです。

                                      

英草紙より

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話 その3

兼秋の曲がまだ終わらないうちに琴の音に変調をきたし、鋭い音がして1本の弦が切れた。

兼秋は大いに驚いた。この秘曲を弾くとき、それと知って盗み聴く者があれば、琴の音色が変わるといわれていた。都ならばまだしも、こんな田舎で、この曲を知るものがあるとも思えない。四国の海の荒れ果てた山の下に、この曲を知るものなどいるはずがない。さては朝廷の使いと知って、謀反を働く者があるか、さもなければ盗賊が隠れているのかも知れない。兼秋は、

「者ども、岸に登ってその辺を探してみよ。何者かが潜んでいるかも知れない」

と命令した。従者たちが押っ取り刀で岸に躍り上がろうとしたとき、がけの上から人の声がした。

「皆さんお静かに。私は盗賊や刺客ではない」

現れたのは菅笠を被った樵(きこり)である。船の者が静かになって、なぜそんなところにいるのかと聞いた。

「私は柴苅りをして生活をしている者です。急な雨で岩陰に隠れ、雨が止んだので立ち去ろうとした。すると、珍しい曲が聞こえてきたので足を止め、聴き入っていました。なんで途中でやめてしまったんですか?」

兼秋は笑って答えた。

「山で柴を打つ者が、なんで私の曲が分かるものか。お前は本当の樵ではあるまい。おそらく盗賊の頭か何かだろう。まだ罪を犯したわけではないから許してやる。さっさと立ち去れ」

「これはまた、大人(たいじん)の言葉とも思えません。10軒しかないような小さな村にも忠臣はいる者です。門のうちにも君子はいるが、門の外にも君子はいます。大人はこの山の中に、その曲を分かって聴く人はいないと思ったかもしれませんが、ここにこうして居るではありませんか」

                     続く

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2009年1月14日 (水)

英草紙から  その2

1月14日(水)

豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話  その2

兼秋が兵庫についてみると、帝のお迎えのために、諸国の武士や貴族が集まっていた。この日、鎌倉幕府が滅びたというので、そのことを帝に伝える喜びの声が、ちまたに溢れていた。

兼秋は天にも昇る心地がして、帝に付き従うもののうち、以前に親しくしていた上役に付き従って、ご尊顔を拝した。昔、御輿を担いだ者であることを帝もご承知で、ことのほか喜んでくれた。

そののち帝は京都に帰り、ふたたび公家の天下になった。それぞれ忠義の者には報償が行われ、兼秋も、もとの禄に戻された。

その年の秋、伊予の国(愛媛県)河野備後守通治(コウノビンゴノカミミチハル)が帝に申し上げたことがお心にかない、帝の返事を伝えることになった。その使いとして、兼秋が遣わされた。

兼秋が伊予まで下り、帰ることになったが、もとより帝のつかいで来たものであるから、通治は、それ馬よ、それ従者よと丁重に送り返そうとした。兼秋は持病の足の病が出て、馬や御輿は辛かったので、船で帰りたいと申し出た。

大事な使いだけれども、用事は済んだあとなので、それも良かろうと、調度なども良くととのった大きな船で帰ることになった。

船は順風と好天に恵まれ、波を越え、緑の山を遠くに眺め、讃岐の国(香川県)屏風ヶ浦に着いた。

おりしも8月15日(旧暦)である。その月を見ようと切り立った崖の下に船を泊め、日暮れを待った。するとどうしたことか、強風が吹き、豪雨が降り、波が大いに荒れた。しかしそれは一時で、すぐに波風はおさまり、雨も止み、雲の切れ間から月が煌々と輝き出た。雨後の月はことのほか美しく、山を照らし、海に映る。兼秋は琴を取り出し、調子を合わせて、秘伝とされる曲を奏でた。

                        続く

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2009年1月13日 (火)

英草紙から その1

1月13日(火)

自分のブログを書く前に、いくつかのブログを読む。その中の一つを読んでいるうち、俳人土肥あき子氏が書いた「こぶた探訪記」というのを覗いてみる気になった。昭和22-23年頃小学校4年生の国語の教科書に載った、

  こがらしや小ぶたのはなもかわきけり

という俳句の作者を捜す話しである。興味がある話しだったのでプリントしたが、25枚にもなっている。私はその俳句について知るところはないもないけれども、読むうちにさまざまな感想を持ちました。それは、いずれこのブログで、何回かに分けて書くことになるでしょう。

昨日の前書きの続きです。

上野の国立博物館に「法隆寺宝物殿」があり、7弦の「琴」が展示されています。展示する曜日、気温や湿度などに制限があり、限られた日しか展示されません。「琴」は聖人君子の弾ずるものとされていましたから、聖徳太子が弾いたものかも知れません。興味のある方は、国立博物館に問い合わせた上で見学してください。

「英草紙」巻2

「豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話」 その1

    原作       近路行者  

    現代語訳    ぼんくらカエル

豊原兼秋(とよはらかねあき)は、元弘のはじめ(1331年)、後醍醐天皇が逆心を退けて、笠置(京都南部)に行幸されたとき、お供をし、御輿を担いだこともあった。そののち後醍醐天皇は追いやられ、兼秋も捉えられて、詮議を受けた。しかし、兼秋は、ただついていっただけで大した罪もないので、禄を取り上られ追放されただけですんだ。

兼秋は紀州に下って、知り合いのところに身を寄せ、鬱屈した日々を送っていた。

兼秋は音楽を伝える家の育ちで、楽器の奏者として優れていた。しかし、世の中は乱れているし、漂白の身でもあり、たまに楽器をいじっても、満足な音が出なかった。そんなわけで2年くらいは楽器に触ろうという意欲も湧かなかった。

元弘3年(1333年)の夏、清少納言が「月の頃はさらなり」といった頃、ふと思い出して、管楽器を取り出し「還城楽(げんじょうがく、雅楽の古曲)」を吹いてみた。昔の晴れがましい日々を思い出したりしながら吹いていると、いつになく良い音が出る。このところ満足な音が出なかったのに、今日このような音が出るのは、御門に何か良いことがあったのではないか、と思われた。

そこで、都に行けば何か分かるだろうと、いても立ってもいられなくなり、その日のうちに身支度を調えて、次の日の早朝には旅だった。

急いで大阪辺りまで来ると、人々があちこちにかたまって噂をしている。何事か聴いてみると、後醍醐天皇が流されていた隠岐の島を抜け出し、今日にも兵庫に来られるという。

人々が嬉しげに語るのを聴き、兼秋は、行き先を兵庫に変えた。

                                          続く

    

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2009年1月12日 (月)

英草紙現代語訳の予告

1月12日(月)

江戸時代の中期(18世紀)に、都賀庭鐘(ツガテイショウ)という読本作者がいました。近路行者(キンロギョウジャ)というペンネームで「英草紙(ハナブサソウシ)」、「繁野話(シゲシゲヤワ)」、「莠句冊(ヒツジグサ)」という3部作を書いています。上田秋成、山東京伝、曲亭馬琴などに多大な影響を与えたといわれています。

上田秋成は文筆の傍ら、医師を生業としていました。その上田秋成に医術を教えたのは、他ならぬ都賀庭鐘だそうです。

都賀庭鐘の読本のうち「英草紙」は5巻、9話から成っています。その中の第3話目「豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話」というのを、現代語訳にして、明日からこのブログに載せようと思います。

この作品は、和楽器の由来についていろいろと書かれています。私は和楽器、箏を作って生計を立ててきました。そのため、この作品に興味を持っていたからです。

私は通常、13弦の「こと」を「琴」とかきます。本当は「箏」と書くのが正しいのです。歴史的な意味あいでいうならば、「琴」とは弦楽器の総称でした。単に「13弦のこと」を指すものではなかったのです。知識としてそのようなことは知っているのですが、「13弦のこと」を「琴」と書くのが今では普通です。ですから通常は「琴」と書くことにしていました。「一生懸命」というのは、歴史的には「一所懸命」というのが正しい。だからといって、知ったかぶりをして「一所懸命」と書くのは嫌みです。同じ理由で「箏」を「琴」と書いています。

しかし今回の現代語訳では「箏」と「琴」を使い分けています。また、単に「琴」と書いてある場合は「7弦の琴」を指します。孔子様の使った「琴(キン)」です。

上に書いたように、「こと」とは弦楽器の総称でしたが、たとえばバイオリンが初めて日本に入ってきたとき、人々はそれを「提琴」といいました。実はこんど訳す「英草紙」の中では、近ごろ渡来した楽器として、三味線のことを「提琴」と書いてあります。取りあえず、弦楽器なので「琴」の字を当てたということですね。

こんど取り上げる物語は、元弘の乱前後の話になっています。鎌倉幕府が滅び、室町幕府が出来るのですが、その間に後醍醐天皇が権力を握るごく短い時期があります。その頃の話しです。

三味線が日本に渡来したのは織田信長の頃といわれていますから、後醍醐天皇の頃に「三味線」が出てくるのは、幾ら「提琴」と書いたからといって、話としてはつじつまが合いません。都賀庭鐘が「英草紙」を書いた江戸中期には、三味線はかなり広まっていたのではないかと思います。もう「三味線」という言葉もあったかと思います。それを「提琴」と書いているのは、昔の話しとして書いているからでしょう。

前書きばかり長くなりました。何はともあれ明日からはじめます。誰も期待はしていないでしょうけれど・・・。例によって、誤訳珍訳、なんでもありです。

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2009年1月11日 (日)

山の会の新年会

1月11日(日)

山の会、山行、新年会。

山行は新年会をやるための足慣らし。

コース

  東吾野駅~福徳寺~ユガテ~北向き地蔵~啓明荘

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ユガテは奥武蔵のハイカーなら誰でも知っている場所。山の中に人家があって、小さな畑があり、季節の花が咲いている。たしか去年、ここを通ったとき、イノシシを見た。今の季節、柚子も沢山成っている。

啓明荘で餅つき、宴会。私たちの会は3年連続啓明荘で新年会である。

西武線沿線には、啓明荘を知っている人が多い。武蔵横手駅から30分くらい歩いた山の中にあって、季節を問わず餅つきをさせる。小中学生や、施設の団体、自治会の人たち、など、さまざまな人が訪れる。私も、山の会以外では、精障者団体のボランティアとして、何回も訪れている。

飲食させるところでありながら、飲み物食べ物、持ち込み自由というのも珍しい。

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2009年1月10日 (土)

一人者の朝食

1月10日(土)

朝目が覚めるのは大抵5時頃で、トイレに行ったり新聞を取りに行ったりしてから、また布団に潜り込む。これといって用事のない日には、それから本当に起き上がるまでが長い。8時半か9時頃になることが多い。それまでにしていることといえば、新聞を読んで、テレビを見て、テレビを見ながら数独をして、時には寝床に座ったままインスタントコーヒーをすするといったありさまである。

起き上がる前には、朝食に何を作るかを考える。冷蔵庫にある材料を考え、大抵は、これと決めてから起きる。男やもめの今日の朝食を紹介しよう。

Imgp0785 何もこんなものをこれほど大きく掲載することはないのだけれど、今日はこの写真一つなので、大きくしてみた。

見ての通りご飯は混ぜご飯である。冷凍ご飯を電子レンジでチンしたものだ。沢庵を小さめのさいの目切りにしたものと、ツナ缶の100円くらいで売っている安いもの、それにシラス干しを混ぜて作った。

上にあるおかずは、にんじん、キャベツ、ホウレンソウ、ベーコンを蒸したものである。去年の暮れ大抵の鍋の大きさに合わせて開閉する蒸し器を見つけて、大変重宝している。たれは、めんつゆ、味噌、すりごま、砂糖、酢をあえて作った。

左下はみそ汁。木の椀は使わず、瀬戸物の椀である。その椀に水を入れ、だしと味噌を溶かし、具を入れる。今日の具はすべて冷凍してあるもので、小松菜の茎の部分、ブロッコリー、それにみかんの皮だ。これを電子レンジでチンすればいいのだ。みかんの皮は冷凍する前に干してある。これを少し入れると、香ばしくて美味い。

計ってはいないのだけれど、かかった時間は10分くらいかと思う。手際のいい人ならもう少し早くできるだろう。というのは、電子レンジが空いている時間が相当あったからだ。手が早い人なら、ご飯を解凍している間に、おかずの野菜くらいは切れるだろう。私の場合は沢庵を切るだけで終わってしまう。

食後はみかん2個とインスタントコーヒー。果物はなんでも好きだが、今はみかんが一番安いので、どうしてもみかんが多くなる。今日の皮は捨てました。みかんの皮を全部使うようなことは出来ません。コーヒーよりお茶の方が上手いと思うのですが、後先の処置が面倒なので、コーヒーになってしまいます。

私が満足な食事を取るのは朝だけである。昼は余り物とかリンゴ1ッ個とか、とにかくあるもので済ましてしまう。午前中にスーパーにでも行けば、コロッケや精進揚げを買ったりしてそれを食べる。ご飯、麺類、パンなどは、めったに食べない。ちなみに今日は、バナナ2本にインスタントコーヒーでした。

晩はおかずは作りますが、他のものは食べません。アルコールです。だから朝だけはきちんと食べなくてはならないのです。

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2009年1月 9日 (金)

素朴な考え、政治的な考え

1月9日(金)

私は物事を判断する際には、素朴な感情が大切なものだと思っている。

いつも書いているけれど、その判断の基準になるのは、「人を殺してはいけない」ということだ。幼稚園の生徒だって同じことを言うだろう。少し長じて中学生くらいになると、「なぜ人を殺してはいけないのだ?」などというようになる。なぜもヘチマもあるものか。「お前は人を殺すことに耐えられるのか」ということだ。「耐えられる」などと思ったり嘯いたりするのが、反抗期の人間の特性だけれど、だいたいは無理に自分の感情を理屈でコントロールしようとしているのである。

他の点では私の考えはぶれたりするけれど、人を殺してはいけないという点では、ぶれないつもりである。

だから、イスラエルがガサを攻撃するのは、とんでもないことである。ハマスもイスラエルを攻撃するけれど、時々イスラエルに、死者が1名出るという程度のものだ。それに対してイスラエルの攻撃では、すぐに何十人、何百人という人が亡くなる。これって、戦争ですか? 賭殺じゃないの?

イスラエルは建国以来、始終戦争をしている国だ。元はといえばイギリスが世界大戦でユダヤ人の協力を得たいため、シオニストに無茶な約束をし、第2次大戦後シオニストが今の地を武力で制圧して建国したのが、イスラエルの始まりだと理解している。パレスチナの反発は当然あるわけだけれども、もういい加減折り合わなければしょうがない。お互いに相手が地上から消えるまでなどといっていたら、不毛の戦いが永遠に続くことになる。

こんなことを日記に書いたところでどうなるものでもない。だからやめておけばいいのですが、つい、書いてしまいました。

普段の生活の中で、自分の考えなどはあまり主張しないものです。ボランティアや趣味の会で宗教や政治に触れることは、まあタブーのようなものです。誰にも見せない個人の日記などでは自由だけれど、公開しているブログなどではどうなのでしょうね。このブログに反発を感じる人だって、当然いるでしょう。

本当はイスラエルとガザについて書くつもりはなかったのです。それなのに書いてしまったのは、筆の勢い・・・というより、キーボードを叩く指の勢いです。

私は、素朴な感情で素朴に考える方が、難しい理論を組み立てて考えるより、安心できることを書きたかったのです。だいたい複雑な理論を組み立てて出た結論なんて言うのは、素朴な感情に適合しないことが多いんですね。1対1では人を殺せないような人間が、机の上で作戦を立てると、ここで核兵器を使うなんていう結論を導き出したりするのです。

1対1では人間を殺せないというのは、素朴かも知れないが、人間の感情としては正しいのです。ここでクラスター爆弾を使おうなんて考えるのは、卓上で作戦を考えるから出来るのです。そういう人は、本当は、棍棒で人を撲殺する人間よりもずっと野蛮なのです。

何に対してでも、理屈なんてなんとでもつきます。人は常識的に考えるか、あるいは政治的、哲学的に考えるかです。政治的、哲学的に考えるとき、人はとんでもない結論に達したりするのです。

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2009年1月 8日 (木)

猫好きの夫婦

1月8日(木)

ボラグループ定例会。新年会(昼食会)。狭山市内の中華料理店で。

次女夫婦の引っ越し。新年会の後、所沢の新居に行く。何か手伝うことでもあるかと思ったが、別段何もなさそうである。

私が狭山に引っ越してきたのは30年以上前になる。その頃はまだ引っ越しの専門業者などはなかったと思う。だから、ダンボールなどは自分で用意して、荷造りをし、運送業者に頼んで運んでもらった。業者は荷物を運ぶのが仕事で、トラックから荷物を下ろすときは、引っ越しをする当人やその手伝いの人がやった。運転手や助手も手伝ってはくれたけれど・・・。荷物は取りあえず手近な部屋に運んで、運送業者は帰り、引っ越しをする当人が中心になって、家具などは、あるべき部屋に運んだものだ。今はそこまで引っ越しの業者がやってくれる。

次女は、2匹の猫が環境の変化におびえて、コタツに入ったまま出てこないという。コタツの布団を開けて覗いて見ると、大きく目を見開き、じっと私を見ていたが、動こうとはしなかった。なんと猫のいる部屋が、日当たりの良い1番暖かな部屋だ。「猫は寒がりだから」という。夫婦とも、猫好きだナア。

ももの筋肉が痛い。昨日の仕事のせいだ。昔なんでもなくやった木工仕事なのに、ずっとやらずにいたものだから、筋肉痛なのである。大した仕事をしたわけではないのに、普段使わない筋肉は、どんどん衰えるのですね。歩く筋肉はまだ衰えていないと思うが、足の付け根の筋肉でも、歩くときとは別のものがあるらしい。

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2009年1月 7日 (水)

落ちこぼれる人

1月7日(水)

昨日のブログ、タイトル名「それでも政治家?」にたいして、無名氏から「マスコミに乗せられているのではないか」という意味のコメントがありました。

私はそうは思っていません。確かに、日比谷に集まった人の全部が、真剣に仕事を探している人とは限らないと思います。当然、自分の責任で受けるべき結果、としか言いようのない人もいると思います。しかし、本当にまじめにやって、職をなくして、住居を追い出された人も大勢いるのです。不真面目な人が一部交じっているからと言って、真面目な人を見捨てて良いわけがありません。

「契約社員はそれを承知して入った」という意味のことも書かれていました。その通りでしょう。しかし、契約社員としてしか採用して貰えない人、派遣社員としてしか雇って貰えない人も大勢います。無名氏さんにはそのような経験がないのですね。恵まれた人です。ご自分が恵まれているために、落ちこぼれる人を、すべて本人の責任と思えるのです。

Tati0010 4日、近くを散歩した折りのスケッチです。入間川の有料橋から見た富士。普段は鉛筆でスケッチするのですが、この日はボールペンとメモ用紙しか持っていませんでした。

Tati0009

もう1枚。これはいつもの智光山公園。画面にはありませんが、石の手前には沼があります。私はなぜか、水のある風景が好きです。それも海のような開けたものではなく、せせらぎや山の湖、沼などのように、いくらか閉じられた風景の方が良いのです。ちょっと湿った感じのね。

精神分析のお好きな方は、どうぞご自由に判断してください。

精障者作業所Mへ。

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2009年1月 6日 (火)

それでも政治家?

1月6日(火)

人の言葉の揚げ足を取るのは控えるべきだと思っているのですが、坂本哲志総務政務官殿、あなたは少しひどすぎます。

日比谷公園の「年越し派遣村」に来ている人たちを「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのか」といったそうですね。そして、集まった人たちの苦しい叫びを「学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした」んだそうですね(毎日新聞)。

驚きました。目の前で苦しんでいる人がいるのに、見ようとしない、聞こうとしない。

さすがにあちこちから突かれたらしく、夕方のテレビでは、前言を取り消し謝っていました。でも、本当にそう思っているから言ったんでしょう? 心から謝っているわけではないでしょう? 何を見て政治をしているのですか?

こんな人を選んだ我々が悪いんだけどね。

精障者作業所Mへ。

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2009年1月 5日 (月)

ボラはじめ

1月5日(月)

ボラはじめ。精障者作業所Mへ。

Mはリサイクルショップだが、開店は明日の午後からで、今日は朝から製品の整理など。

午後から、私は相談室作り。自主作品木工作業所の一部を区切って、利用者やその家族などの相談室を作る作業。といってもそんな大げさなものではなく、大きなパネルを二つ作って、コーナーを仕切るというもの。久しぶりに荒木を削る。荒木といってもタルキだが、削ったのは11本。最大は2メートル40センチ。鉋でするすると削ると、現役時代の感触を思い出す。2メートル40センチの木から、2メートル40センチの薄い鉋屑を出す。削っていても気持ちが良い。

そのタルキに、幅6ミリ、深さ5ミリの溝を彫る。ここまでが今日の仕事。明日の午後、この溝に半透明の板をはめ込んで、パネルを組み立てる予定。順調にいけば、明日仕上がるはずなんだけれど、どうなりますか。1日2時間しか仕事時間がないからね。

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2009年1月 4日 (日)

人道主義が行方不明です

1月4日(日)

サラリーマンのように、私も今日で正月休みが終わります。といって仕事にでるわけではなく、ボランティアなどが明日から始まると言うことです。

なんと言うこともない平凡な正月でした。しかし今の世の中、平凡な正月を送れたことを、感謝しなければならないでしょう。豊かだと言われる日本にあって、ホームレスや企業に首を宣告された派遣労働者など、なんともやりきれない正月だったでしょう。飢えや寒さと戦い、悲しみや怒りをぶつける相手もないのですから・・・。

去年、役人の天下りは、前年より増えているんですってね。あれだけ世間で問題視しても、特殊法人はなくならないし、天下りは増えるし、国民をなんと思っているのだろうか。

国家100年の計がないのが日本の政治家だと諦めています。だからせめて、今困っている人を救う手だてを考えてください。せっぱ詰まっている人のために、小指の先でも動かしてください。それが政治家の仕事でしょう。今すぐ行動して下さい。

去年の暮れ、私が購読している新聞の片隅に、韓国の盲人が日本に来て、鍼灸師の免許を取り、自活していること。アジアでは日本が、盲人の自立しやすいことを書いていました。

いかにも日本が進んでいるみたいですが、これ、日本の政治が良かったからではありません。盲人が針灸の道に進みやすいというのは、江戸時代の遺産です。

江戸時代はひどい階級社会で、人権も何もなかったように思われますが、そうとばかりは言えません。どんな人でも、生きていける社会だったと思います。隣の人が飢えて死んでも、何日も気がつかない、などと言うことはなかったようです。飢饉などで多くの人が亡くなるようなことはありましたが、自分たちはたらふく食って、隣の人を飢えさせるようなことはなかったと思います。

罪を犯したものを釈放するとき、非人などという身分に落とすことはあったようですが、非人は非人として、生きていける仕組みになっていました。盲人には、音曲の師匠、あるいは按摩になるという仕事がありました。琴の検校、按摩の検校は大変権威のあるものでしたが、盲人しかつけなかったはずです。盲人は盲人で、保護されていたのです。

昭和30年代くらいまでは、按摩は盲人専門の仕事だと、私などは思っていました。何時の頃からか、目明きの按摩が出てきたときには、私は少し驚きました。目くらとか目明きとかいう言葉を使ったり、「駄目は按摩の目」などと囃すことは、批判されます。しかしそんな言葉狩りがなかった時代、盲人の専門職はあったのです。

まだ江戸時代の名残が多く残っていた明治10年、イザベラ・バードというイギリス人が日本に来ました。東北から北海道まで旅をし、その紀行文を残しています。彼女の目には、日本ではどんな人でも自分の仕事を持っていると見えたようです。

人道主義などという言葉も知らなかった江戸時代の方が、誰にでも仕事を与えていたのです。今は、弱い者から切り捨てます。そのせいですかね、最近は人道主義なんて言う言葉を聞くこともなくなりました。強い者だけ勝てば良いんでしょうか?

そう言えばイザベラ・バードは、日本の役人は一人で出来ることを何人もでやる、という意味のことも書いています。天下りの役人は、本当に必要なことをやっているんでしょうかね。仕事はほとんどしないとか、必要もない仕事を見つけたり作ったりしながら、適当にやっているなんていうのも多いんじゃないですか?

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2009年1月 3日 (土)

1月3日(土)

正月気分もそろそろ終わりにしないといけないのだけれど、まだ、だらだらと続けたい気分。

正月の間に読もうと思っていた本も、少し開いただけ。今日などは、孫たちが泊まっていった後の布団カバーを洗濯したとは言うものの、後は酒を飲んで、ごろごろですね。コタツに入って、箱根駅伝を見たり、数独をしたり。

そうそう、一つやりましたよ。数独をするとき、問題をメモ用紙に書き写していたのですが、それを書き写すための9×9の表をパソコンで作りました。今日からはその表をプリントすればいいのです。取りあえず、30枚プリントしちゃった。これで10日くらいは大丈夫。

つまり、そんな下らないことしかやりませんでした。頼まれている原稿の1つも書けばいいものをネ。ハハ、のんきだね。でも、本音を言えば、下らないことの方が楽しいよ。それに、人生には下らないことが大切なんだ。ん? 矛盾してるけどほんとだよ。

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2009年1月 2日 (金)

継母

1月2日(金)

梅里の継母に年賀に行く。継母は91歳。10年くらい前、手術で胃や腸を半分以上取ってしまったが、今でも元気だ。惚けもない。

ビールを飲み、昼食をごちそうになり、とりとめもない話しをして数時間を過ごす。

長い間行方の分からなかった父が、私が預けられていた伯父の家にひょっこり迎えに来たのは、私が中学3年、弟が中学1年の時だ。私たちが父に連れられておずおずと高円寺のバラック長屋に到着すると、継母と継妹が待っていた。

その頃住んでいたバラックの位置は、今は環7の下である。環7というのは東京オリンピックに間に合わせるために急いで造った道路で、わが家は立ち退きにあったのだ。環7の脇に都営住宅が建ち、私たちはそこ住むことになった。継母と継妹は、今でもそこに住んでいる。

一緒に住んだのは中学3年からで、中学を出るとすぐ就職した。だから私はそんなに世話になってという意識はない。しかしこの母は、非常に出来た人だったと思う。美人で頭も良かったし、継子を差別するような人ではなかった。今も、私が行くと喜んでくれる。

私の生母もまわりの多くの人に愛された人で、なんで父のようなわがままな人に、生母や継母のような人が一緒になったのだろうかと思うことがある。まあ、父にも良いところがあったんでしょうね。さがせば!

帰り、西武新宿駅で、山仲間のHさんに会う。奥さんと一緒で、子供さんの家に行った帰りだという。狭山まで雑談。ほとんど二人で話していて、奥様、ごめんなさい。

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2009年1月 1日 (木)

失敗について

2002年1月1日(木)

Photo

明けましておめでとうございます。暗いニュースばかりだけれど、せめて今日だけはそんなことを忘れて・・・。

といいたいところだけれど、今日すでに、今年1号のへまをしました。ブログの住所録から、ついうっかり、古い友人の名前を15-6人分消してしまいました。復元できないのもあるかも知れません。復元できないのは、現在は付き合いがないということになるから、まあ、仕方がないか、なんて思ったりしています。

おっちょこちょいだから、何かやれば失敗するのです。私の場合は特に多いかも知れないけれど、人間は誰でも失敗すると思っています。仕事をする人が、絶対失敗しない方法が1つだけあります。それは仕事をやめることです。生きている人間は失敗します。死んだら失敗できないのです。

だからといって、今すぐ死ぬわけにはいきません。今年も山ほど失敗を積み重ねることになるでしょう。失敗は成功の元などといいますが、成功の元だけつくって、やがておさらばいたします。

孫たちや長女夫婦と天岑寺に初詣。途中、雪の富士がくっきりと大きく見えました。

その足でカルフールへ。昨日の墓参の帰り、長女の靴のかかとが落ちた。まだ買ったばかりでもったいないと言うことで、カルフールの修理屋さんに行く。昨夜長女がインターネットで調べて、カルフールに靴の修理やさんがいること、元旦から営業していることを突き止めた。ついでに、カルフールで少しばかり買い物。

長女たち、午後に帰る。これから婿殿の実家へ行くのである。両方に義理を立てるのだから、大変ではありますね。これも長女夫婦の公務かな?

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