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2008年11月27日 (木)

死について

11月27日(木)

死については、考えるのも読むのもいや、という人がいると思います。そんな人は、どうぞパスして下さい。といって、たいして深い話が出来るわけではありません。

昔から、多くの宗教者や哲学者、あるいは私よりいくらかましな無名の人などが、死について考えたり、発表したりしてきました。

死を考えるとき、ある人はそれを克服し、ある人はうちひしがれます。そしてどちらの人も、例外なく死を迎えることになります。過去において、多くの人が生や死について考えたにもかかわらず、まだ考えたりないかのように、私たちも考えるわけです。なあに、大した新しい考えなんて出やしないのです。

科学の問題ならば、過去の天才たちの成果の上に立ってその先を考えられるわけですが、生と死の場合は、哲人たちの成果の上に立って考えるのではなく、各人がその出発点から考えなければなりません。科学は万人のものですが、生と死の考えは、個人個人に属します。自分の理解する仕方で、能力に合わせて、理解するしかありません。

私は物事を、ちゃらんぽらんに考えます。生と死についてもそうです。ですが、個人的な事情もあり、子供のうちから生死について考えてきました。そのため、死については、観念上に過ぎないかも知れませんが、慣れ親しんでしまいました。死などというものは、すぐ隣にあるものだと思っています。老幼不定といいますが、歳をとった者の方が確率的には死に近いわけで、その意味でも、いつ死んでも不思議のない歳になりました。

  転んでも人は死ねます春の雪  ぼんくらカエル

過去の句です。前にもブログに書いたと思いますが、

  春の日やピンピンコロリこそよけれ ぼんくらカエル

こんな句を作ったこともあります。死がどうせ避けられないならば、ピンピンコロリは、多くの人の理想でしょう。

こんなのんきなことを書いていても、いざ自分が死ぬ番になると、「昨日まで人のことかと思いしが、おれが死ぬのか、これはたまらん」テナことになるかも知れません。その時どう思うかと言うことは、その時になってみないと分かりません。「おれは大丈夫」などという人の言いぐさを、私は信じません。想像力が乏しいか、単純なだけです。「おれは大丈夫」という人の覚悟程度なら、私だって持っていると思います。もっとも、これは、うぬぼれ、のぼせの類かも知れません。

「自分が死んでしまってから、その死を嘆くことは出来ない」という意味のことを、モンテーニュの「エセー」のどこかで読んだような気がします。そのモンテーニュも、死については、いろいろと書いています。生きて、やがて死ぬ者である以上、考えないわけにはいかないのですね。

ボラグループ定例会。精障者授産施設リバーサイドに寄る。その後、こぶし福祉会理事長と、友愛訪問T氏。

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