« 八国山緑地 狭山湖 | トップページ | 作業所の旅行に不参加 »

2008年10月16日 (木)

興福寺の阿修羅像

10月16日(木)

老人介護施設Kへ。午後、2時間のボランティア。

興福寺の阿修羅像

私がこれまでに見た仏像の中で、もっとも心を打たれたのは、興福寺の阿修羅像である。阿修羅といえば荒々しいはずだが、この阿修羅像の表情は、悲しくて穏やかである。そして、なんとも言えぬ優しさがある。初めてこの像を見たとき、私は体中から力が抜けていくのを感じた。一種の恍惚感といっても良い。彫刻を見てそんな感じを持ったのは、後にも先にも、このときだけである。

友人が言った。興福寺の阿修羅像は釈迦の教えを受けて自分の過去の所行を悲しんでいる表情なのだ、と。しかし、私はその解釈では不満である。あの表情は、自分だけに向けられているのではない。人間の愚かさを見ているのだ。人間の愚かさを見ながら、その人間を慈しまずにはいられない慈悲の心を現していると私は考える。

Photo 写真から絵を描く場合、私は自分の撮った写真に限っている。しかし、この絵は写真家入江泰吉氏の写真を見て描いたものである。一般の人には、撮影を禁止されているのだから、やむを得ないのである。

しかし、写真を見ても、何かが違うという気持ちは捨てきれない。私の見た阿修羅像は、もっと何かがあった。写真では顕せない何かなのだ。

私の絵に、その何かがあるかといえば、やはり無い。

来年3月から半年間、興福寺の阿修羅像が東京で展示されるという。私は、見に行くかどうか迷うことになる。見に行って、また同じ感動を味わうかどうか、はなはだ疑わしいのである。

たとえば、スケッチでもしようかと思って、どこかへ出かけたとしよう。日によって、ここも絵になる、あそこも絵になると思うときがある。逆にここもあそこも、ちょっとナア、と思うときもある。同じ風景でも、天候や季節の違えば、感じ方は違う。そればかりではなく、こちらの精神状態でも違って見えるのだ。

かって阿修羅像を見たときの私と今の私では、歳が違い、感受性が違う。たとえ同じものを見ても、同じ感動を受けるという補償はないのである。感動する心を失っているかも知れないのに、見に行くことが果たしていいのかどうか。   

|

« 八国山緑地 狭山湖 | トップページ | 作業所の旅行に不参加 »

コメント

ぼんくら様
私のお気にいり仏像は、
1番、広隆寺の弥勒菩薩
2番、興福寺の阿修羅像
 いまから40年前ですが、高校の修学旅行に行った時に
感激。写真を購入、いまも新潟の実家に額に入ってあります。
こちらに持ってくることも考えましたが、帰省したときの楽しみに
昔にまま、かけてあります。
来年是非見に行きましょう。ご一緒しますか?

投稿: 五十路 | 2008年10月17日 (金) 11時49分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/118203/24549770

この記事へのトラックバック一覧です: 興福寺の阿修羅像:

« 八国山緑地 狭山湖 | トップページ | 作業所の旅行に不参加 »