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2008年8月16日 (土)

悪人正機

8月16日(土)

悪人正機

妻が亡くなってから、毎年盆には徳正寺の僧がわが家へ来てくれる。浄土真宗の寺である。

じつは私、神仏を信じていない。無宗教である。しかし、私の知る(表面だけだが)宗教に中で、仏教にもっとも親しみを感じている。

釈迦の教えは、死んだら無になる、あらゆる物は無である、と言うことではないかと思っているのだけれど、確信はない。

古典仏教の教えなどを読んでいると、「あるのでも無くないのでもなく、あるのでも無いのでもないのでもなく」などと無限に否定を重ねていく言葉に出会う。我々になじみのある言葉に変えるならば「色即是空、空即是色」である。

だから、釈迦は葬式などをすすめなかったのではないか。盆だの彼岸だの墓参りだのは、仏教とは関係がないのではないか。釈迦はそんなことを教えていないのではないか。

しかしながら、、おそらく人類がが誕生してかなり早い時期から、人が死んだときには、何らかの儀式をやってきたようだ。私のように、死ねば無になるだけと思っている人間の立場から言えば、そのような儀式の目的は、生き残っている人間の心の整理のためにあると思うのだ。死者は、そのような儀式を、嬉しいとも悲しいとも思わないだろう。仏教の立場に立っても、死者は煩悩を離れているのである。

そんな考えの私が、なぜ墓参りをしたり、お盆をしたりするのか。それは生きている人間の心の整理のためである。つまり、私の心の整理と言うことだ。

じつは、わが家の宗派は、曹洞宗だった。妻が亡くなったとき、私は浄土真宗の寺に頼んだ。それは、個人として、親鸞の教えに親しみを感じていたことと、妻の生家が浄土真宗だったことによる。

私が親鸞に親しみを感じているのは「悪人正機」の教えがあるだ。あの世はないと思っているけれども、もしあるとしたら「悪人正機」でなくては困る。「善人なほ持て往生をとぐ、いわんや悪人をや」ですね。

「善人でさへ往生するのに、悪人が往生出来ないわけはない」というのだから、浅く考えれば正義に反するように思う。

我々は心底からの善人であることはなかなか出来ない。心底からの善人であれば自分の力で往生出来る。しかし善人になりきれない我々のような凡夫は、阿弥陀様にすがって、阿弥陀様の力で往生させてもらう、と言うのが「悪人正機」である、と私は理解している。人間が自力で往生出来るくらいだから、計り知れない力を持つ阿弥陀様にすがれば、悪人の我々も往生出来るということである。悪人の方が往生しやすいから、悪さをしろと言うことではない。

人間の多くは、ほどほどに善人で、ほどほどに悪人なのだと思う。心底からの善人もないとは言えないけれど、やましいことは何もない、などと思っている人間は、自分の心の闇に気がつかないのでしょう。まあ信用できませんな。

狗波利子第7巻の現代語訳は、18日頃からはじめる予定です。

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