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2008年8月 1日 (金)

塩田平九郎怪異を見る・4

8月1日(金)

塩田平九郎怪異を見る・4(狗波利子・通算51回)

(前回までのあらすじ・塩田平九郎は、織田信長によって落とされた城からただ1人逃げ出して、出家する。18年間の西国行脚の後、故郷に帰る。落城した城跡近くのあばら屋で、誰とも知らぬ3人の者が、武田家の滅びた理由などを話しあっているのを聞いている)

およそ戦というものは、天、地、人にかなうことが必要である。天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずという。このたびの武田勝頼の出陣は、大凶日であった。徳もなく、義もなく、思慮もたりない上に、血気にまかせて時日も選ばなかった。

父の信玄は、山本勘助や前原筑前守、あるいは小笠原源与斎に聞いて、攻防の吉日忌日などを軍配の裏に書いていたという。

5月は南の方角に勢いがあり、21日の午後2時は現在過去未来にわたって、北、あるいは北東に不吉がある。にもかかわらず勝頼は、南に向かって陣を敷き、こともあろうに午後2時に戦を始めた。これは、天の時に違うものである。未だ戦う前から、敗北の兆しがあった。天の時は失われていた。

信長方はわざと前を開けて置いて、切田、切り堀の片方が崩れてゆがんでいるところを選んで、三重の柵を立てた。勝頼をおびき出すためである。自分から仕掛けず、勝頼軍を待ち受けていたのだ。勝頼は、相手の作戦を探ろうともせず、無理に戦を仕掛けたのは、地の利の背いたことになる。

その上、去年東美濃に出陣したときから、家臣達の不和があった。旗本外様近習と諸浪人信濃衆とが不和になり、長坂釣閑と内藤修理の間もきくしゃくしていた。勝頼は、家老方を快く思っていなかった。そんなありさまだから、内部はバラバラだった。軍事評定にもしまりがなかった。

国の大きなこと、人数の多いことを誇り、むやみに戦を仕掛ける勝頼を、釣閑は無理にも支えようとした。家老達がいさめるのも聞こうとせず、それを勝頼に中傷して報告した。これこそ、家運の傾くしるしである。長篠の戦いでは、家老、諸将、みな討ち死にしてしまった。

その時の落首に、

    信玄の跡をやうやう四郎殿

           敵の勝頼名をばながしの

この後どんな世の中になるのだろうか、と語った。

                    続く

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