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2008年8月31日 (日)

大洗の水族館

8月31日(日)

S市の障害者連合会のバス旅行に参加。知的障害、身体障害、精神障害者と家族で作る会の旅行である。目的地は大洗の水族館。どのような障害でも、障害者団体の旅行は大抵そうだが、高速道走行中の休憩は、頻繁に取り、時間も長い。たとえば、車椅子で入れるトイレは少ないし、一人ひとりの利用時間も長いのである。これは、やむを得ないだろう。

今日の参加者の中に、耳が聞こえないのに、かなり上手に言葉を話す人がいた。昔、聾唖学校では手話を禁じていた。人の口の形を見て言葉を理解し、喉に手を当てたりしながら発音の練習をさせた。口の形を見て言葉を理解するのは、かなり難しいと思う。人は横を向いて話したり下を向いて話したりするのである。だからそれはほとんど無理だと思うけれども、聞き取れるように話す人は、たまにはいるものだ。相当に勘の良い人なのだろう。その人が、バスの乗り下りや移動のさい、車椅子の用意をしたり、押したりして手伝うのには感心した。

Photo Photo_2

大洗海岸の写真です。水族館の写真は、全部プライバシーに係わるような写真になってしまったので、カット。

イルカのショウ、アシカのショウなどを見る。こういうのを見るのは、何10年ぶりかだナァ。見ているようで、見ていない。

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死後の烈女・2

8月31日(日)

死後の烈女・2(狗波利子・通算76回)

(前回のあらすじ・福島角左衛門は豊臣秀吉に仕官をすべく、姫路から都に向かっていた。摂津の国(一部大阪、一部兵庫)高槻で、貧しく美しい女に会う。一緒に都に上ろうと誘うが、夫がある身だとと言って、激しく断られる。)

角左衛門は、その夜、山崎に宿を取った。次の日、その女のところに書類を忘れてきたのに気がつき、引き返した。その道中で葬儀の列にあった。

「誰の葬儀ですか」

「布商人の籐内の葬儀です」

なんと、昨日の女の夫の名前である。角左衛門は驚いて、その葬列に加わり、行き着いたところは昨日女にあったところだ。しかし、昨日は見えた家はなくて、草ぼうぼうの野原である。籐内の遺体を埋める穴を掘ると、隣の女房の棺があった。そこに、昨日女が縫っていた足袋と、角左衛門が与えた餅、菓子があった。

その傍に塚が二つあり、誰の塚かと聞けば、舅、姑の塚で、10年ほど前のものだという。

角左衛門は感激し、葬儀の者たちに昨日の出来事を話し、金子を与え、跡の弔いも懇ろに行った。

この女房は、死すとも二夫にまみえず、舅、姑に孝養をつくし、女の道を全うした。夫を忘れて再婚したり、ふしだらな生活に走るものは、この女房の話を聞けば、少しは反省の気持ちが湧くのではないか。

                 狗波利子全巻終わり

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2008年8月30日 (土)

日本紀行

8月30日(土)

変な天気である。降ったり止んだりと言うことなのだが、どうも、散歩に出にくい。いつ降り出すか判らないし、降り出すと傘では間に合わないような激しい降りになる。晴れている時間も結構あるのだから、気持ちはうずうずする。しかし、突然降り出す激しい雨が心配である。

結局1日家にいて、大方はイザベラ・バードの『日本紀行』を読んで過ごす。家事をしたり、数独をしたり、テレビを見たりしながらですけどネ。

今日は、函館に辿り着くまでを読んだ。かなり公平にものを見ることの出来る人で、当時の風俗がよく分かる。たびたび触れられるのが、日本人の体格の貧弱さ、大衆の貧しさ、宿屋の蚤や蚊の多さ、好奇心で外人を見る野次馬の多さである。

一方では、日本人の礼儀正しさ、親切、旅の安全、浮浪者がいないこと、たかりがいないこと、ぼられることがないこと、勤勉さ、貧しくても自立していることなどが語られる。

大衆の不潔さ、中流以上の清潔さ、風景の美しさ、道の悪さ、民衆には正しい情報が伝わっていないこと、数キロ先の道の状況を誰に聞いても判らないこと、男はふんどしだけの裸で働いていることがおおいなど、言われてみればそうかなと思う。

日本人の体格は、江戸時代に1番貧弱だったと言われる。明治の初めでは、江戸時代と同じようなものだ。現在でも欧米人に見劣りはするが、明治時代に比べれば、20センチくらい身長が伸びている。イザベラ・バードに「小人」と言われなくてもすむだろう。

秋田(久保田)では、当時の国民病、脚気の話が出てくる。当時はまだ、脚気の原因が分かっていなかった。脚気は、江戸時代、比較的裕福なところから多発した。玄米では無く、白米を食べるようになったからである。秋田も米所だから、白米中心の食生活だったんですナ。

キリスト教改宗しなければ本当の解放はないみたいな考えが随所に出てくるが、こればかりはヨーロッパ人に今でも残る偏見の一つ。

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死後の烈女・1

8月30日(金)

死後の烈女・1(狗波利子・通算75回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

福島角左衛門は、姫路の人間である。長いあいだ主を持たずにいた。豊臣秀吉に仕える福島左衛門太夫が知り合いなので、その口利きで秀吉に取り立ててもらおうと思い、故郷をでて都に向かった。

明石、兵庫の浦を過ぎ、尼崎に出て、ようやく津の国、高槻のあたりに来た。すると、しきりに喉が渇く。見ると道ばたに小さな家があり、女が1人、道に向けて開けられた窓の明かりを頼りに、せっせと足袋を縫っている。こんな田舎には珍しい美人である。

角左衛門が湯水を求めると、女は隣の家からお茶をもらってきて、角左衛門に与えた。角左衛門が家の中を見まわしたところ、台所や竈がない。

「この家では火を使わないのですか?」

「うちは貧しくて、ご飯を炊くことが出来ない。近くの人に雇われてその日その日を送っている。まことに情けない暮らしです」

と言いながら、女は手を休めることなく足袋を縫っている。美しく、優しさに溢れた姿に角左衛門は心を動かされ、女の手を取り、

「あなたのような方が、こんな田舎で貧しく暮らしているのは気の毒です。私と一緒に都に行きませんか。悪いようにはしませんよ」

女は汚らわしいというように手を振り払って、返事もしない。しばらくして、

「私には籐内という夫があります。布を商う人で、今は商売のため遠くに行っていますが、私はここにとどまり、舅や姑に孝養をしている。貧しいながら仕事をし、舅姑が飢えや寒さを感じないように心を尽くしているのです。明日は久しぶりに夫が帰ってきます。あなたは早く立ち去ってください」

角左衛門はその女の貞節を感じ、大いに恥じ入った。そして従僕に持たせた食料入れの箱を開き、餅と果物を女に与えて立ち去った。

                        続く

 

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2008年8月29日 (金)

不公平

8月29日(金)

知人のSさんは、世の中は不公平だという。

「ぼんくらカエルは好きなだけ酒を飲んで、気ままに暮らしているのに、健康だ。私は酒も控え、健康に気を配りながら生きているのに、心臓の病気になった」

と言うのである。まあ本当のところは、私だって隠れた病気はあるかも知れない。それでも、表面的には元気である。しかし、Sさんと私で、どっちが先に死ぬかとなると、これは判らない。健康そうな者の方が、先にポックリ逝くなんてことは、けっこう多いのだ。

どのみち死は免れないのだから好きな酒をやめて1年や2年長生きしてもしょうがない、と言う気持ちが私にはある。いざその場に臨んだら「しまった」なんて思うかもしれないけれど、今はそう思っている。

「おれは覚悟は出来ている」などと力む人を、私は信じない。そんな人でも、ちょっとしたことで慌てたりするのである。私は、自分も信じない。今の気持ちを言うならば「私だって覚悟は出来ている」のである。しかし、それが本物かどうかなどと言うことは、その場にならなければ判らない。

Sさんに言わせれば、「世の中は不公平で、自分は損をしている」と言うことになる。しかし他の面では、私よりかなり幸運である。義務教育を終わってすぐ働かなければならなかった私と違って、Sさんは大学まで卒業している。一流企業に勤めて、別荘まで持っている。私などは年金で、やっとどうにか食っている状態だから、私の方こそ「世の中は不公平だ」と言いたくなる。

まあ、どっちから光を当てるかですナ。何事も、光のあて方、見る角度によって違うのである。ある人の正義が、他の人の正義だとは限らない。自分の正義だけが正しいのではない。受け身で、自分は不公平な立場に立たされているなどと思ううちは無難だけれど、自分の正義を人に押しつけようとすると、物騒なことになる。

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鼠の妖怪・2

8月29日(金)

鼠の妖怪・2(狗波利子・通算74回)

(前回のあらすじ・徳田という商人が応仁の乱で荒廃する京都を避けて、賀茂の方に隠棲することにした。新居のお祝いをしていたら、その家の以前の住人が、一晩だけこの家で婚礼をさせてくれと言って大勢を引き連れてやってくる。どんちゃん騒ぎの跡、ふいに人がいなくなる。)

夜が明けてみると、婚礼用具として持ち込んだものは何もなくて、この家の主人徳田の家具、道具類、秘蔵していた茶の湯の道具まで、ことごとく引き散らされていた。割られたり破かれたり、まともな物はなかった。ただ、床の間にかけていた、牡丹の下に猫が眠っている絵の掛け軸だけが、無事であった。

「これは何かよくないことが起きるのではないか」

と、人々は眉をひそめてささやきあった。

ここに、村井澄玄という老儒がいた。博学博識の儒者が言った。

「怖れることはない。これは老いた鼠の妖怪の仕業だ。鼠は猫を怖れるから、猫の絵には近づかなかったのだ。このような霊は昔からよくある。『ものはその天を畏れる』という諺がある。二つ三つその例を挙げましょう」

と、次のような話しをした。

昔、ある村の子供が、かえるが数10匹、汚れた池の草陰に集まるのを見た。これを捕まえようと思って近づくと、大きな蛇が茨の下にいて、悠々と蛙を食べている。蛙は凝り固まって、逃げもせず食われるのを待っていた。

また、ある村の年寄りが、ムカデが蛇にあうのを見た。ムカデは急いで蛇に近づいていく。蛇は動かずに、口を開いて待っている。ムカデはその蛇の中に入り、しばらくして出てきた。その時すでに、蛇は死んでいた。年寄りはその蛇を山の中に捨てた。10日くらいしてそこへ行ってみると、無数の小さなムカデが、その蛇の肉を食っていた。ムカデは蛇の中に卵を産んだのである。

またある人が、蜘蛛がムカデを追いかけているのを見た。ムカデは切り倒された竹の中に逃げた。蜘蛛は中へは入らず、竹の上で腹を何回もゆらして去っていった。そのままムカデは出てこない。竹を割ってみたら、ムカデはすでに腐り爛れて、味噌のようであった。これは蜘蛛が排泄物をムカデにかけたためである。

「ものが天を畏れるというのはこういう事です。鼠が猫の絵を畏れるのも同じです。鼠の妖怪などに好き勝手をさせてはいけません。鼠穴をたどって、鼠狩りをしなさい」

そこで、鼠穴をたどっていくと、屋敷から100メートルほど離れたところに、石ころの重なった小高いところがあった。その下に大きな穴があって、年を経た鼠が沢山群がっていた。それを全部捕らえて殺して埋めた。

その後は何事も起こらない。

                      終わり

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ネズミの妖怪・1

8月28日(木)

鼠の妖怪・1(狗波利子・通算73回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

応仁(1467-1469年)年中、京の四条のほとりに、徳田という大商人がいた。家は富み栄え、財宝は倉庫に溢れるほどだった。

その頃、世の中は大いに乱れて(応仁の乱)、戦が止むことはなかった。特に、山名、細川の両家は、権を争い、野心満々で、たびたび戦っていた。そのため都は荒らされ、人々は怖れとまどい、深い淵の上で薄氷を踏むような生活をしていた。

徳田も都がいやになり、北山と賀茂のあたりに親戚があったので、引っ越していけるような家を探してもらった。賀茂の在所に古い御所があったのでそれを買い、山荘としてしばらくそこに住むことにした。

しかしながら、長く人が住んでいない古い屋敷なので、荒れ果てて、軒は傾き、垣は崩れている。さしあたって掃除をし、何はともあれ、引っ越しを済ませた。

京にいる親族たちは、お祝いに集まってきた。徳田は大いに喜び、客を家に入れ、終日酒宴を催した。詠い、踊り、夜には主客とも酔いつぶれて、前後も知らずに寝てしまった。

夜中に、急に大勢の足音がして、誰かが門を叩く。主人がいぶかりながら戸を開けると、盛装をして、立派な髭を蓄えた人が立っていた。

「私はこの屋敷のもとの持ち主です。私に息子がいて、今日結婚します。その婚礼の儀式をしたいのですが、私の今の家は狭くて汚いのです。今夜だけ、この屋敷を貸してください。朝になったらそうそうに立ち去ります」

そう言い終わりもしないうちに、大勢の者がどかどかと入ってきた。提灯が大小200あまり、2列になって、建ち並び、まず飾り立てた腰が入り、続いて、数々の乗り物が入る。その後ろに供の女たちが、おしゃべりをしながら入る。そして、60歳以上と思われる老人が、大小の刀を差して馬に乗り、歩行の侍6,70人を引き連れているのは、前後を守護しているものと見える。

漆塗りの立派な長持ち、はさみ箱、衣類懸け、屏風、貝あわせの貝を入れる桶など、次から次にと持ち込まれる。

さらには、身分あるものない者など2~300人、が家の中やら庭に入って、酒宴が始まった。山海の珍味を並べ、かつ唄い、かつ踊る。

めでたい席なのだからと、主人や客人も誘い、共に唄い興じる。

新嫁は、まだ14.5歳に見える。少し細めで、色白く、たぐいなき美人である。まわりの女たちもなかなかの顔立ちである。みんなで新婦の手を取り、今日はどうしても飲ませると迫るけれど、新婦は嫌がって、あちらこちらへと逃げる。それを捕まえようとして騒いでいる内に、強い風が吹き、明かりがすべて消えた。主人と客は驚いて、あらためて灯を付けてみると、誰もいなくなっていた。

                       続く     

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2008年8月28日 (木)

いろいろ

8月28日(木)

次女たちの家

次女夫婦がT市に家を建てている。暇があったので、午前、それを見に行く。路地に面して3棟が建設中で、その中の敷地が一番狭いのが次女たちの家である。悪口を言うならば、隣の家の内緒話が聞こえるのではないか、と言いたくなる。しかし、親がなんの援助も出来ない中で、家を建てるのは、大変なことだと思う。建坪率は6割だそうだから、もちろん、隣の家の話しは聞こえない。

建築中の家は、柱が組み終わった段階で、まだ屋根は葺いていなかった。柱は密に立っていて、ツーバイフォーという工法でないことは判った。そのほかは何も判らない。大工が1人、タッカー(玄翁を使わずに釘状の物を打つ工具)で作業をしていた。基本的な骨組みは出来ているようの見えたので、何か補助的な作業をしていたのだろう。

介護施設K

午後、老人介護施設Kへ。今日はYさんと3フロアーへ。Yさんがギターを弾く、私はその補助。

暑気払い

夕方、ボラグループの暑気払い。市内の小料理屋Sに集まる。こんなことをするのは、我々のグループでは、今年が初めて。本当は定例会の日なので、活動の報告と、次の定例会までの活動予定だけを簡単に話しあってから、乾杯。細かい話しはカット。

涼しい日が続いたので、暑気払いという感じはしないが、たまには良いでしょう。

日本紀行

イザベラ・バードの『日本紀行』がおもしろい。明治維新後間もなく日本に来て、まだ西洋人が足を踏み入れたことのない東北や北海道を旅した紀行文である。

本当は、他に読まなければならない本があるのに、こちらの方が先になる。著者があったヘップバーン氏は、ヘボン式ローマ字を作った人だ。日本式との違いは、たとえば「し」を「chi」と書くこと。日本式だと「si」ですよね。その他いくつかの違いがあるけれど、今学校ではどちらを教えるのだろうか。

日光では、金谷氏の家に泊まる。のちに金谷ホテルを造った人である。金谷氏とその妹の人となりは、イザベラに大変な好感を与えているようだ。

日光を出てからのイザベラは、どこの宿でも、ノミと不潔さに悩まされる。

日本人の印象も、外見を言えば、不細工で痩せこけていて、小さくて、黄色くて、不潔である。その日本人が、親切で、礼儀正しくて、正直で、決してぼったりはしなくて、勤勉であることが書かれている。親切で礼儀正しいのに、誠実でないという評は、キリスト教を信じていないからと言うことのようで、この点はやはりヨーロッパ人だなという感じ。日本では女の一人旅でも安全なことに感心もしている。

日本人は勤勉で、田畑も肥えているのに、人々は貧しいことなどもきちんと見ているようだ。

日本の山や川の美しさ、平野の緑ばかりの単調さ、などにも触れている。

著者は今、新潟に着いたところである。日光に対する最大級の賛辞と、その他の宿で蚤や蚊にへきえきする著者。次を読むのが楽しみである。

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2008年8月27日 (水)

堀兼の散歩

8月27日(水)

久しぶりの晴れ。午後、堀兼あたりの路地を散歩。

初めて通る道が多かったけれど、車がすれ違えないほどの細い路地が、まだ多く残っているんですね。時には林の中に入り、舗装されていない泥道を歩く。ミンミン蝉とヒグラシの合唱。アブラゼミの勢いがないので、蝉時雨というには少し淋しい。秋の蝉だ。

散歩途中、お屋敷の塀から外に枝を伸ばしている栗の木があって、いがが幾つか墜ちていた。足で踏みつけていがを開き、大粒の栗を6個拾う。

狭山市は、都市と田舎が混在している。堀兼地区は農村の面影を濃く残っている。しかし、路地というのは、住宅地にふさわしい名前だ。今日歩いたところは、大通りから一本内側に入った道で、おそらく村の旧道なのだろう。昔から、多少の集落はあったものと思われる。

おそらく全国で同じだと思うが、今は畑や田んぼのいくのにも、軽トラックを使う。だから畑の中の道も、軽トラック1台は通れる広さがある。今日歩いた路地は、その畑の中の道ほどの広さしかないところが多かった。

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五条の天神・3

8月27日(水)

五条の天神・3(狗波利子・通算72回)

(前回までのあらすじ・医師、寿玄斎は深く帰依する五条の天神に、不遇を嘆いた。夢に五条の天神が現れ、嘆くには当たらないこと、浮き草が疫病を治す効能のあることを教えた。)

夢から覚めた玄斎は、手を洗い、口を注ぎ、盛装をして五条の天神に詣でた。五条の天神の社には、夢の面影がありありと残り、扉が少し開き、馥郁たる香りが漂っていた。

その後、玄斎が世の中の移り変わりを見ていると、夢のお告げの通りであった。永享(1429~1440年)と時代が代わり、京都と鎌倉に確執が起こり、鎌倉の持氏は京都に謀反を起こした。京都は大軍でたびたび持氏を攻め、持氏親子は敗れて自害した。

こののちあちこちに戦が起こり、国家は衰退し、疫病が流行、死亡する人民は数知れない。

寿玄斎は天神の教えを思い出し、浮き草を調合して与えたところ、みな快癒した。人々はその薬効に感心し、医学の王、善逝の生まれ変わりだと言って、畏れ慎んだ。

その後、今川上総守の父の疫病を治したので、上総守は大変喜んだ。そして。過分の俸禄を与えて自分の国に招き、死ぬまで尊敬し続けたと言うことである。

                                                  終わり

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2008年8月26日 (火)

日本紀行

8月26日(火)

昨日の天気予報では、午後から雨と言うことだったが、朝から雨である。それにしても、よく降りますなァ。

川越の紀伊国屋へ行く。月に一度いくのだが、いつも買う月刊誌の出版日の関係で、毎月25日以降になる。

新聞の書評欄で気になっていた本は見つからず、代わりに『イザベラ・バードの日本紀行』上下(講談社学術文庫)を買う。文庫本なのに2冊で3000円に近い。しかし、前から読みたかった本である。

明治維新後10年ほどして日本を旅行し、北海道まで足をのばした書き上げた旅行記である。前書きと序章、それに第1信(本は妹への手紙の形になっている)だけを取りあえず読んでみた。先入観にとらわれず、見たこと、感じたこと、考えたことを率直に書いているように思う。

たとえば、横浜の町のつまらなさ、小さく痩せて貧弱な日本人のこと、しかし、親切で礼儀正しく、女1人で奥地を旅行しても、身の危険を感じないこと、ぼられることが丸でないこと、などが書かれていた。

他に読むべき本も多く、これを読み終わるのはしばらく先になると思うけれども、楽しみな本である。

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五条の天神・2

8月26日(火)

五条の天神・2(狗波利子・通算71回)

(前回のあらすじ・医師・寿玄斎は5条の天神に深く帰依していた。ある夜、不遇を託つ玄斎の夢に、五条の天神が現れて、玄斎に諭して話す。その話しが続く)

今の世になって、人道はますます乱れ、子は親を殺し、臣は君の隙を狙う。上の者は政道を考えることなく、下の者は忠誠心を失う。

君主たる者は仁義に暗く慈悲の心を持たず、税と課役を重くする。国民をむさぼり、家臣を苦しめる。そして自分だけが愉しむ。

こうして得た富を誇り、順序を越えて位階の進むことをのぞむ。能もなく知恵もなく、やることはわがままかってで、善悪、邪正もわきまえない。へつらう者を可愛がり、忠孝心のある者に罪をかぶせる。

たまたま武芸学問に志を持つ人も、禄を得て名声を求めるためで、人のために尽くす気持ちは少しもない。

およそ学問武芸というものは、聖人賢者の求めたところを求め、探るもの。出世を求めるものではない。

切磋琢磨して自分を磨きもせず、目新しい小さな利益に走り、先人の堂々たる道を捨て、奇襲を行う。正攻法の奥深さを知らない。熱心に聖賢の書を読んでも、やることは邪だ。仁義の心なく、学問を持って利欲に代える。君にへつらい、友を妬む。もともと誠がないのだから、利がありと思えば義を忘れる。欲のために道義を忘れ、遊興を好み、富貴栄花の者をうらやみ、美しく着飾ることを好む。

このように、君主は下の者をむさぼり、栄花を極める。臣は上にへつらい、贅沢をする。

そこに必要とする富は、天から降るわけではないし、地から湧くわけでもない。これはみな人民の汗の結晶を搾り取ったものである。

こんなことをしていれば、天下は再び乱れて、人民は苦しむ。賊どもは互いに国を争い、大なるものは少なるものを呑み込み、強い者は弱い者をくじく。争いは至るところに起こり、飢饉疫病が流行る。天下に身を置く場所もない。

寿玄斎よ。お前はこんな世の中に生まれたのだ。自分の不運を嘆いて、少しばかりの禄にありつこうと願っても、無駄なことだ。そんな禄はいつふいになるか判らないし、かえって災いになることもある。

しかし、お前に一つの霊法を教えておこう。水上の浮き草に疫病をいやす効能のあるものがある。沢山集めておいて、時を待ちなさい。

・・・・・

今の世のありさま、将来の事変、あきらかに教えてくれたと思えば、玄斎は夢から覚めた。夜はほのぼのと明けようとしている。

                    続く

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2008年8月25日 (月)

無題

8月25日(月)

今日も雨。10月上旬の気候だそうナ。

精障者作業所Mへ。9月から10月にかけてバザーがいくつかあるので、そのための製品作り。

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五条の天神・1

8月25日(月)

五条の天神・1(狗波利子・通算60回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

京都五条西洞院の西に、五条の天神がある。

ここには大国主命が祭られている。命はその昔、少彦名命と共に国を治めた。また命は人民の疫病の苦しみを救おうとして、その対処の仕方を教えた。後の世に偉大な仁恵を施したこと、神皇、黄帝(共に中国の伝説上の皇帝)勝とも劣るものではない。従って、代々の執権、奉行職の人は、命を敬ってきた。

応永(1394-1411年)の頃、寿玄斎と言う医者がいた。若い頃より学問に熱心で、黄帝岐伯の教えを探り、秦、越人の深意を極めようとしたが、いまだにその奥義に達することが出来ない。しかも、身は不遇である。

玄斎は日頃より五条の天神に帰依している。信仰心が深く、ことあるごとに天神を敬って、長年過ごした。

玄斎はある晩、夢を見た。

・・・・・

朝早く家を出て、天神の社の前で深く頭をたれていたとき、かたじけなくも天神が社殿の扉を開き、玄斎の前に現れた。

お前は誠を尽くして私を敬っている。その心は私に通じている。お前は身の不遇を嘆いているが、それはむしろ、お前の幸いなのだ。

日本は神の国である。天子は、天照大神の子孫で、その系統を代えたことがない。だから、神道を大切にし、王の道を興隆させ、朝廷の権威を全うすべきである。昔、王の道が守られ、神道に合う世の中の時は、民は素直で豊かに、国家は安泰だった。雨風も季節に応じて穏やかに吹き、飢饉飢餓の憂いもなかった。ましてや、謀反を起こすことなど無かった。

後の世になって、元暦には安徳天皇、承久には後鳥羽院、元弘には後醍醐天皇などに災いがあった。これはみな、君徳がなかった。

天下を敵に奪われ、朝廷は安らかではなかった。落花が海の風にさまよい、悲しみの月が雲に隠れる。王道の徳を忘れず治めていれば、このようなことはなかった。神道のもとを忘れ、政道に人望がなかったためである。王道は衰え、神道も廃れた。悲しいことである。

                       続く

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2008年8月24日 (日)

新聞の書評

8月24日(日)

終日、雨が降り続く。今の時期には考えられないくらいの冷たい雨である。

べつだん用もなく、1日、家からでなかった。さっき気がついたが、私は今日、誰とも、一言も話していない。いつかテレビで、定年退職した一人者の男性が、1週間誰とも話していない、と言うのを聞いたことがある。なるほど、何もしていなければ、そんなこともあり得ると思った。

新聞の書評

私は新聞を、後ろのページから読む場合が多い。

私が好んで読むのはコラムである。ニュースよりコラムという感じだ。大きなニュースなどは、見出しと、初めの数行を読んですますことが大半だ。

習慣として毎日新聞を読むけれども、熱心な読者とも言い難い。書いてから気がついたけれども、私は「毎日」新聞を読むと言うつもりだった。しかし「毎日新聞」を読むともとれる文になってしまった。まあ、どちらに取られても良いんですけれどね。私は「毎日新聞」を「毎日」読んでいるのだから。

私がもっとも熱心に読むのは、日曜日の書評欄である。ここで気になる本は、メモ用紙に書き取るか、書評を切り抜く。ちなみに今日は『不許可写真』草森進一著と、『山の人生』市川善吉・談を切り抜いた。

『不許可写真』は戦争中の検閲で「不許可」の印を押された写真を紹介し、戦争と報道、情報宣伝の様子を綴ったエッセーだそうだ。『山の人生』は白神山地のガイドが、土地の言葉で語った本、聞き書きである。

気になった本が他にもあったのだけれども、そんなに切り抜いたところで、私の読書量が追いつかない。

私の家の隣が本屋だから、時々いくが、思う本がない場合が多い。月に一度、川越の紀伊国屋に行く。欲しい本はたいがいここで見つける。見つからないのは買わない。わざわざ取り寄せたりはしない。どのみち、読みたいと思った本を全部読めるわけではないのである。

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飯森が陰徳の報い・3

8月24日(日)

飯森が陰徳の報い・3(狗波利子・通算69回)

(前回までのあらすじ・豊臣秀頼の侍大将、鈴木田隼人介の家臣飯森兵助は、人望のある盗賊奉行だった。しかし徳川方に攻められ鈴木田の城は落ち、以来浪々の身であった。播州で昔命を助けた土井孫四郎に会い、歓待を受けるが、孫四郎は兵助を殺そうとする。兵助は命からがら逃げ出す)

兵助は播州堺の宿にたどりついたが、いかにもあわただしい逃亡である。従僕が、なぜそんなに慌てて逃げたのかと聞いたので、兵助は、孫四郎が昔の恩を忘れて自分を討とうとしたことの次第をかったった。

すると、床の下から、痩せた男が抜刀して現れた。

兵助は肝をひやして驚いた。その男が言った。

「私は忍びの者だ。しかし仁義を重んずる侍でもある。孫四郎があなたの首を取れと命じたのでやってきたが、今の話を床下で聞いて、非は孫四郎にあると知った。危うくあなたを殺すところだった。私は義に感ずる人間である。しばらく寝ないで起きていてください。孫四郎の首を取ってきます」

「分かった。よろしく頼む」

その男は刀をひっさげて門を出ると、屋根を伝い、塀を跳び越え、飛ぶように走っていった。そして、夜半には、首を持って帰ってきた。灯を点してみると、確かに孫四郎である。

その男はすぐに立ち去って、再び兵助の前に現れることはなかった。

兵助はその後諸国を回り、のちには都に上って、後方守備の師範として、一生を終えたと言うことである。

                        終わり

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2008年8月23日 (土)

北京オリンピック  芭蕉忍者説

8月23日(土)

北京オリンピック

北京オリンピックが、もうすぐ終わる。私はそう熱心にテレビを見たわけではないが、興味を持ったのは、女子レスリングとソフトボールである。

女子レスリング、日本は強いですね。金メダル2人、銀1,銅1。アテネと同じ人が同じメタルでしたかね。銀の伊調千春、銅の浜口京子が共に、心から喜んでいるように見えたのがよかった。アテネの時は、金でなかったことを残念がっていたのに、今回の方が、見ていて気持ちがよい。

ソフトボールは本当によくやった。上野選手というのはすごいね。草野球じゃないのに、2日で3連投だなんて。体も精神力も、すごいとしか言いようがない。陰の選手、坂井と言ったかな、新聞にあまり出てこないから名前がはっきりしないけれど、控えの投手も立派だったようだ。控えに甘んじ、自らバッティング投手を買って出たりしたらしい。

私はどうも、ヒーローもさることながら、その陰で黙々と努力する人に目がいく癖があるます。

野球には、全く興味が持てないのだと、こんどのオリンピックで、あらためて知りました。選手がどうとか、監督がどうとか言うことではなくて、野球自体に興味が持てなくなっているのです。

私は、ジャイアンツファンを辞めたとき、野球ファンも辞めてしまいました。川上の赤バット、大下の青バットと言った頃からジャイアンツファンでした。しかし、ジャイアンツは金にあかせて無理押しをし、よそのスター選手を引き抜いていました。それでも、我慢して、我慢して、ジャイアンツファンを続けていましたが、ある時、ほとほとと愛想が尽きました。

駒田選手がジャイアンツを去ったとき、私はジャイアンツファンを辞めました。自分では気がつかなかったのですが、その時、野球ファンも辞めたようです。駒田の問題はそれまでのジャイアンツのしてきたことに比べれば、むしろ小さな問題です。しかし、私の中の不満がぱんぱんの風船のようにふくれあがっていたので、その風船に針を刺されたような感じでした。

ジャイアンツは、さまざまな横車を押してきましたが、私が一番気に入らないのは、多くの選手の才能をつぶしてきたと言うことです。他のチームに入っていたら、一流選手として開花できたであろう人たちが、飼い殺しにされてきました。他のチームからスター選手を引き入れ、自軍の選手を飼い殺しにしました。ソフトボールのところで書きましたが、私は下積みの選手に目がいってしまう方ですから、これはたまりません。

芭蕉忍者説

芭蕉忍者説というのがありますね。伊賀の出であること、忍者の家系だったこと、あれほど旅をしたのは、情報収集のためではないか、など、さまざまな理由があげられています。

その理由の一つに、道の悪い当時、芭蕉ほどの距離を歩くのは無理だ、と言うのがあります。

奥の細道で歩いた距離は、およそ2400キロ。これを150日で歩きました。毎日歩いたわけではありませんが、1日平均16キロです。なんだ、それくらいなら、山道でも歩けます。

今から60年くらい前、私の田舎の大人たちは、1時間で6キロくらい歩くのが普通でした。今だって、それくらいの早さで歩く人はいます。71歳になった今では分かりませんが、少し前までは、私もそれくらいの早さで歩きました。1時間4キロなどというのは、軟弱な歩きです。

昔の旅人は、1日40キロくらい歩くのが普通だったと言います。私はこれを、特に驚くほどの距離だとは思いません。車にばかり乗って、長距離を歩かない現代人の軟弱な足で考えるから、芭蕉は忍者だなどと思うのでしょう。

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飯森が陰徳の報い・2

8月23日(土)

飯森が陰徳の報い・2(狗波利子・通算68回)

(前回のあらすじ・豊臣秀頼の侍大将鈴木田隼人介の家臣、飯森兵助は、慈悲深い盗賊奉行だった。ある時、土井孫四郎という者を牢から逃がしてやる。鈴木田の城は徳川方に破られ、兵助は浪々に身となり、播磨に至る。聞けば、その土地の代官が土井孫四郎だという。)

兵助は不思議に思い、その屋敷を訪ねてみた。顔を合わせてみれば、まごうことなく、昔助けた囚人の孫四郎である。孫四郎は驚き、自宅と隣り合わせの座敷を清め、招き、まことの命の親として昼夜酒宴を催し、10日ばかり一緒に過ごして、その後ようやく家に帰った。

孫四郎の家のトイレは、兵助の座敷と壁一つ隔てた隣である。兵助は、孫四郎がトイレで妻と話している声を聞いた。

「あなたはこの10日ばかり、客人をもてなしているが、あれはどなたですか」

「昔大恩を受けた人だ。命を救ってもらった。今こうしていられるのも、あの人のおかげだ。だから、厚くもてなしている」

「あなたは、つまらないことをおっしゃいますね。人の一生に、盛衰浮沈があること、別に珍しくはありません。時を得れば人の上に立ち、運が窮まれば人に屈します。今さら昔のことなどにとらわれる必要はありますまい。大恩には報ぜず、と言う諺もあります。あなたが昔、囚われの身となったことを今は知る人もいません。それなのに今のようなことをしていては、いずれ人に知られてしまい、恥をかくことになります。今の時勢に従って判断してください」

孫四郎はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「なるほど。お前の言うのももっともだ。何とかしよう。しかし、このことは他の者に悟られるなよ」

これを聞いて兵助は大いに驚き、衣服や荷物を置いたまま、馬を走らせて逃げた。午後8時頃までに、40キロほど離れた播州、堺にたどりつき、宿を借りた。

                        続く

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2008年8月22日 (金)

水彩画の会

8月22日(金)

今日はすっかり秋の陽気。

福島の娘から、来月13,14日にわが家へ来ると電話あり。ン?山の会の山行日と重なる。来月も山行は休みかな。孫には会いたいしね。

水彩画の会。前もって鉛筆で輪郭だけ描いて用意していたが、2時間で2枚の絵を完成させる。乱暴な描き方と言われても反論のしようがない。事実その通りなのだから。

Photo Photo_2

縄跳びと蛍狩りの絵である。想像で描くわけだから、その点が難しいと言えば難しいし、いい加減だと言えばいい加減だ。

絵を描かない人が、他人の絵を褒めるとき、「写真のようだ」というのがある。そういわれて喜ぶ人もいるだろうが、がっかりする人もいるだろう。私の絵を写真のようだという人はいないだろうけれど。

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飯森が陰徳の報い・1

8月22日(金)

飯森が陰徳の報い・1(狗波利子・通算67回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

豊臣秀頼の侍大将、鈴木田隼人佐は水上からの敵の侵入を防ぐため、番船という仕事を仰せつかり、えた城に居住していた。

その家臣、飯森兵助というもの、盗賊奉行として、二心無く鈴木田に仕えていた。生まれつき心が素直で、慈悲深く、貧しい者を哀れみ、富おごれる者をいさめた。そのため人々はその裁断に従い、服して、反抗する者はなかった。

ある時、土肥孫四郎という囚人があった。罪状は紛れもなかったので、両手を後ろ手に縛って白状させようとした。孫四郎は兵助に、

「私は何もしていない。名のある武士である。知恵も勇気も人に負けることはない。どうか私の言うことを信じて、故郷に帰してください。そうすれば必ずあなたのために力を尽くし、その恩に報います」

と言った。

兵助がつくずくと彼の顔を見ると、憶する様子もなく、まことに豪傑のようだ。兵助はこれを助けようと思ったが、その場ではわざと聞こえないふりをして、牢獄に入れた。

夜中に牢役人を呼んで、孫四郎を逃がし、その牢役人も逃亡させた。

翌朝、囚人が1人、牢役人と共に逃げたと届け出た。鈴木田は大いに驚き、兵助に落ち度があったとして、しばらく蟄居させた。

その頃、徳川家の勢力が大阪に在陣し、蜂須賀阿波守にえた城を攻めさせた。平助は馬に乗り、士卒を下智して、命を惜しまず戦ったが、城は落ちた。鈴木田はようやく一方を切り抜け、万死に一生を得て、秀頼の城に帰参した。

兵助は浪々の身となり、あちこちを漂白したが、食料も金子も尽き果て、困窮して播州の地に至った。そこで代官職の姓名を聞いたところ、代官は土肥孫四郎だという。

                      続く

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2008年8月21日 (木)

スコール

8月21日(木)

今日の夕方も、スコールのような雨が降る。日本も、夏の間は、すっかり熱帯性の気候になってしまった。

オリンピックのソフトボール、日本がたった今優勝したようだ。

テレビを見ます。

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蜘蛛塚

8月21日(木)

蜘蛛塚(狗波利子・通算66回)

   原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

昔、諸国行脚の山伏、覚円という者がいた。

紀州熊野で修行をしたのち、都に上って清水寺に参詣しようとした。五条烏丸あたりで日が暮れたので、そこにあった大善院という大きな寺で宿に請うたところ、大善院の僧は、本堂の傍らの、汚い、小さな小屋を貸した。覚円は腹を立て、

「僧の身でありながら、修行者にこんな汚い小屋を貸すとは何事だ」

と噛みついた。

「修行者を侮っているのではない。この本堂には、長年妖怪が住みついている。泊まった者はみな行方不明になり、死体さえ残されていない。この30年間に30人にもなる。だから本堂は貸せない」

「私にそんなことがあってたまるものか。妖怪は人を見て出るものだ」

と、覚円は言う。僧は再三止めたけれども覚円が聞かないので、本堂の戸を開いて覚円を入れた。覚円は静かに仏に礼拝し、念仏を唱え、心を澄まして座っていた。

しかしながら、寺の僧の言葉も気になって、腰の刀を半分抜いた状態で、柄を手ににぎりながら眠った。

夜の10時頃、ぞくぞっくっと寒くなり、堂内がしきりに震動した。そして、天井から、大きな、毛の生えた手が出てきて、覚円の額をなでた。覚円は刀を振り上げて払ったところ、手応えがあって、何かが仏壇の左に墜ちた。午前2時頃、また同じようなことがあって、覚円はやはり刀で払った。

夜が明けて、寺の僧が不安げに様子をうかがいに来た。覚円は、昨夜の出来事を話した。寺の僧は急いで仏壇の傍らを見ると、大きな蜘蛛が死んでいた。80センチあまりもある蜘蛛である。目は大きくて、爪は銀色であった。寺僧はますます驚き、この蜘蛛を本堂のわきに埋葬した。

また、覚円の徳が高いことを感じて、しばらく寺に留め、祭文を書かせて、その墓を祭った。

その墓を蜘蛛塚と言って、今でも大善院に存在する。

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2008年8月20日 (水)

花火

8月20日(水)

特養老人ホームSで花火大会。

2Fの利用者さんが、玄関前に集まり、線香花火をしたり、スタッフがけっこう大げさな花火をしたりして、一時を過ごす。

今日のボラは、Sさんと私の2人。搬送、移動の手伝い、花火の火を付けたり消したり。いつものボラは日中なのだが、今日は花火なので、夕方からである。

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細工の唐船・3

8月20日(水)

細工の唐船・3(狗波利子・通算65回)

(前回までのあらすじ・足利義教将軍が駿河の国行幸するというので、今川範政は家臣に細工物を作らせる。細工物は精巧に出来た唐船で、多くの人形が乗っており、それぞれの仕事をしている。)

目をつむっている人形は、出航の日取りを占うつもりらしい。

7,80歳に見える人形は、これから中国の港まで、海路の無事を祈っている。

管弦が始まった。美しく着飾った麗人の人形が、それぞれ楽器を持ち、笛を吹き、鉦を鳴らし、太鼓を叩く。音程をととのへ、リズムを合わせ、太平楽を奏した。美人の人形が5,60人、美しい衣装を着て、音楽に合わせて舞い踊り、すだれの内側に退いた。

こんどは100人ばかりの人形が出てきて、インドの音楽を奏し、踊った。玉のような首飾りは風に靡き、きらきらと光る。その美しさは言葉に表すことが出来ない。

およそ5,60人ほどの人形がみなそれぞれの働きをし、芸を見せた。

最後に小さい人形が1人現れ、火打ち石のようなもを取り出し、帆柱のもとで2,3度打ち付けたところ、鉄砲が破裂するような音がして、数多くの人形はみな、唐船もろともに消えてしまった。ただ、池の白波が残るのみである。

満座は大いに驚き、呆然としているばかりである。将軍は興を醒まし、その細工人を呼んだところ、彼はすでに姿をくらましていた。

これは天下に兵乱が起き、人民が滅ぶ前兆ではないか、と人々は噂した。将軍も駿河の守も眉をひそめて、外に漏らさぬように注意したので、しばらくの間は知る人もなかった。

                       終わり

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2008年8月19日 (火)

名栗湖散歩

8月19日(火)

名栗湖は、1日暇があるときなどによく出かける、私の散歩コースだ。たいてい名栗湖を1周する。今日もいつもと同じだが、違うのは名栗湖の水が少ないこと。上の写真2枚はPhoto 水の多いところ。Photo_2

Photo_4 Photo_5 

左の写真、湖底が見えています。右の写真は湖底の浚渫工事。

工事している人の話では、毎年夏には水を抜くのだそうです。土砂がたまる場所はいつも同じでどということでした。

湖の底まで草が生えています。水が無くなれば、草はすぐに生えるらしい。その草は、真夏だけれど、若草の色だ。

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細工の唐船・2

8月19日(火)

(前回のあらすじ・足利将軍が駿河の国に来るので、迎える今川範政は、もてなすための細工物を作らせる)

さて、9月になって、いよいよ将軍がやってきた。範政は丁重にもてなし、抜かりはなかった。珍しい膳、新鮮な魚、美食の限りを尽くし、夜は舞楽の宴を催した。

将軍は大いに喜び、高亭に登って、富士山をごらんになった。

    みずばいかに思いしるべきことの葉も

            およばぬ富士と兼ねて聞きしも

駿河守の返歌

    君がみむ今日のためにやむかしより

            つもりは初めし富士のしらゆき

このようにして将軍のご機嫌を伺い、頃合いを見て、細工物を持ってくるように命じた。細工人は、なにやら大きな箱を献上した。将軍が開かせてみると、長さ5-6メートル、幅1メートル半くらいの、精巧にこしらえた唐船の模型である。

昔、隋の煬帝が数千の大船を作り多くの官女と共に舞楽を愉しみ、舟歌を歌わせた。そして西国の銘木、貴花を求めさせたのは、この船のようだったろうか。龍の舳先、瑞鳥の彫り物。玉楼、金殿があざやかに浮かび上がっている。その船を、主殿の前の池に浮かべて見た。

すると、多くの人形がでて船の仕事をしながら歌をうたう。桂の櫂を蒼海にさして歌をうたう。しばらくして、日焼けした人形たちが、倒してある帆柱を、そろりそろりとくみ上げた。

                        続く

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2008年8月18日 (月)

竹トンボもどき

8月18日(月)

精障者作業所Mへ。

朝、まず畑へ行く。サツマイモの蔓がよく伸びて、よその畑にまで入っているのを、Mの畑まで引き戻す。紫蘇の葉を収穫。これは、とるつもりになればもっと撮れるのだが、サツマイモの蔓が伸びて、足の踏み入れようがない。

その後、竹トンボもどきを作る。竹で作れば竹トンボだけれど、荷造りの紙テープで作るから、竹トンボもどきである。

竹トンボもどきの作り方。

Imgp0084 Imgp0083

1,

荷造り用のテープを用意します・ビニールテープではなく紙を寄り合わせて平らになっている物、業務用で、荷造りの時には金具で止める物。左側の写真参照。買いに行ったところに、たまたまこのテープしかなかったので、間に合わせに買いました。幅1.5センチですが、出来れば2センチくらいの物の方がよいかと思います。今回は1.5センチの物を使いましたので、それで説明します。

用意する物は、テープと竹籤。

テープを16センチの長さに切ります。そしてちょうど真ん中に竹籤を差し込む穴を開けます。細いドリルを使うのがよいでしょう。

2,

竹トンボのねじれをだすために、適当な木を見つけて型を作ります。右の写真で、切ったテープを乗せている台がそれです。じつは、これが1番難しい。実際に竹トンボを作って、それに合わせて、小刀などで木を削っていくのが良いと思います。この台作りが、もっとも大切なところです。

台が出来たらその上にテープを置き、熱したアイロンで型に沿ってテープを押しつけます。丁寧にアイロンをかけてください。すると、テープが型と同じようにねじれます。そっと剥がして、冷ましてください。テープがその形にかたまります。

Imgp0082 Imgp0081

後は簡単です。ボンドをつけて、あらかじめ開けている穴に竹籤を差し込んでください。このとき注意することは、羽根(テープ)にたいして竹籤がバランスよく差し込まれていることです。右や左に偏らないように。ボンドが乾いてからでは修正できませんから、差し込んだらすぐに、バランスを見ましょう。

すぐに飛ばしたくなりますが、ボンドが乾くまで、我慢しましょう。ボンドが乾かないうちに飛ばすと、羽根と竹籤が離れます。

上手く飛んだでしょうか。飛ばないときは、型の出来が悪いと考えられます。もう一度点検してください。よく飛ぶ竹トンボのソリと合っているかどうかが大切です。

型さえきちんと出来ていれば、1時間に10コ以上は作れるでしょう。

量産は今日初めてやってみましたが、私は2時間で50コ以上作りました。

紙ですから、竹トンボのように丈夫ではありません。華奢で壊れやすいのですが、簡単に沢山作れるのが取り柄です。

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細工の唐船・1

8月18日(月)

「狗波利子」第7巻を今日から始めます。「狗波利子」の最後の巻です。

細工の唐船・1(狗波利子・通算63回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

永享4年(1430年)9月、足利将軍義教卿、富士山を見るため東国、駿河国に行幸した。

このことは前の年に思い立たれて、兼ねてから駿河国守今川範政殿に仰せつけられていた。しかし、執権の斯波、細川、畠山などが、

「今は大乱の後で、国力は衰え民は疲れている。しかも南方の敵は未だ滅びたわけではない。こんな時にはめでたい行事もなさらない方がよい。思いとどまってください」

と、たびたび諌言していた。

そのため延び延びになっていたが、長年の希望なので、やはり義教は、駿河国を尋ねることになった。

駿河守は将軍義教の希望を兼ねてから承知していたので、どのようにおもてなしをするか家臣たちに相談した。家臣たちを呼び集め、来年9月、将軍が来臨されること、お迎えする御主殿の前の大きな池があること、その池の上で何か珍しい趣向を凝らすことは出来ないか、と下問した。

末席に連なる者が申し出た。

「私は細工が得意です、もし1年の休暇をいただけるなら、国元へ帰り、何か将軍の慰みになる物を工夫いたします」

「それはよい。国に帰り、細工物を作ってこい」

駿河守は彼の申し出を受けた。細工人は喜んで国帰り、家に引きこもって細工物を仕上げた。

                                                  続く

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2008年8月17日 (日)

俳句大会

8月17日(日)

T俳句会、俳句大会。会場は狭山市社協大会議室。

9時から準備、10時開会。

披講、得点合計。

講演(原雅子「風土と俳句」)。

懇談会。私は雑用と懇談会の司会。

4時、終了。私たちは、後かたづけをして、4時半解散。

山は?

山の会の様子はどうだったか気になったので、Hさんに電話。南月山から沼原湿原へのコース。狭山市はずっと雨だったが、山では降られなかったみたい。沼原へ着いてから雨が降ったそうだ。

Tさんが、帰りにわが家の下まで寄ってくれる。ビールとお酒をいただく。参加者は13名だったとか。

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2008年8月16日 (土)

悪人正機

8月16日(土)

悪人正機

妻が亡くなってから、毎年盆には徳正寺の僧がわが家へ来てくれる。浄土真宗の寺である。

じつは私、神仏を信じていない。無宗教である。しかし、私の知る(表面だけだが)宗教に中で、仏教にもっとも親しみを感じている。

釈迦の教えは、死んだら無になる、あらゆる物は無である、と言うことではないかと思っているのだけれど、確信はない。

古典仏教の教えなどを読んでいると、「あるのでも無くないのでもなく、あるのでも無いのでもないのでもなく」などと無限に否定を重ねていく言葉に出会う。我々になじみのある言葉に変えるならば「色即是空、空即是色」である。

だから、釈迦は葬式などをすすめなかったのではないか。盆だの彼岸だの墓参りだのは、仏教とは関係がないのではないか。釈迦はそんなことを教えていないのではないか。

しかしながら、、おそらく人類がが誕生してかなり早い時期から、人が死んだときには、何らかの儀式をやってきたようだ。私のように、死ねば無になるだけと思っている人間の立場から言えば、そのような儀式の目的は、生き残っている人間の心の整理のためにあると思うのだ。死者は、そのような儀式を、嬉しいとも悲しいとも思わないだろう。仏教の立場に立っても、死者は煩悩を離れているのである。

そんな考えの私が、なぜ墓参りをしたり、お盆をしたりするのか。それは生きている人間の心の整理のためである。つまり、私の心の整理と言うことだ。

じつは、わが家の宗派は、曹洞宗だった。妻が亡くなったとき、私は浄土真宗の寺に頼んだ。それは、個人として、親鸞の教えに親しみを感じていたことと、妻の生家が浄土真宗だったことによる。

私が親鸞に親しみを感じているのは「悪人正機」の教えがあるだ。あの世はないと思っているけれども、もしあるとしたら「悪人正機」でなくては困る。「善人なほ持て往生をとぐ、いわんや悪人をや」ですね。

「善人でさへ往生するのに、悪人が往生出来ないわけはない」というのだから、浅く考えれば正義に反するように思う。

我々は心底からの善人であることはなかなか出来ない。心底からの善人であれば自分の力で往生出来る。しかし善人になりきれない我々のような凡夫は、阿弥陀様にすがって、阿弥陀様の力で往生させてもらう、と言うのが「悪人正機」である、と私は理解している。人間が自力で往生出来るくらいだから、計り知れない力を持つ阿弥陀様にすがれば、悪人の我々も往生出来るということである。悪人の方が往生しやすいから、悪さをしろと言うことではない。

人間の多くは、ほどほどに善人で、ほどほどに悪人なのだと思う。心底からの善人もないとは言えないけれど、やましいことは何もない、などと思っている人間は、自分の心の闇に気がつかないのでしょう。まあ信用できませんな。

狗波利子第7巻の現代語訳は、18日頃からはじめる予定です。

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2008年8月15日 (金)

俳句大会準備 敗戦日雑感

8月15日(金)

俳句大会最後の準備。投句は約300句。

17日が大会。

当日、山の会は那須の南月山から沼原湿原に行く。私の好きなコースだ。

しかし、俳句大会の実行委員の1人である。こちらの方にでなくてはならない。

   あなたは勝つものとおもっていましたかと

          おいたる妻のさびしげにいふ

                        土岐善麿

毎日覗く出版社のブログに、この歌が紹介されていた。有名な歌である。

「インテリは戦争が負けることを知っていたのに時代に逆らえないので賛成するような顔をしていたのだろう」などと、若くて頭のいい人は言う。

違うんだなあ。インテリの内のかなりの人たちが、本気で戦争に賛成したし、本気で勝と思っていたんだ。庶民に至ってはなおさらだ。

そのような人たちは、酔う人だ。でも、インテリであると庶民であるとを問わず、大抵の人は酔うんだよ。醒めてから後悔するわけだ。実際には酔っていたのに、「おれは酔ってなかった」なんていう人も出てくる。あなたも私も、危ないんだ。酔う人かも知れない。

インテリというのは、酔うと旗を振るんだよね。スローガンを掲げてさ。

酔うな。スローガンに騙されるな。旗を振るな。自戒を込めて。

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2008年8月14日 (木)

明日、敗戦記念日

8月14日(木)

私は、あまり「絶対」というものを認めない方だ。

科学的なことならば、絶対というものはあるようだ。たとえば地球は太陽のまわりをまわっている。私に証明する力はないけれど、これは絶対に正しいのだろう。人間は必ず死ぬ。これも正しい。絶対である。

これに反して、人間の行為、判断、などには、絶対というものを認めにくい。

たとえば「あの男は大きい」とAさんが言っても、Bさんは「いや小さい」と思うかも知れない。小柄なAさんがその男を大きいと思っても、大柄なBさんには小さく見えるというわけだ。身長2メートルの男を見れば、誰でも彼を、大きいと思うだろう。けれども、1メートル70センチとなると、人によって、大きいと思ったり思わなかったりするだろう。世の中には、大男も小男もいる。しかし、その境界線を引くわけにはいかない。見る人によって違うのだ。

ある人を見て、私は美人だと思ったとしても、他の人もそう思うとは限らない。こんなものは感覚の問題で、人によって違うのだ。

思い出したことがある。ゼルバンテスの『ドン・キホーテ』確か続編の冒頭あたりだったと思うが、美女が登場する場面がある。

小説の中に、この世に二人とはいないような絶世の美女が登場する。仮にA嬢としよう。ところが、やはりこの世に二人といないような絶世の美女B嬢が登場する。この二人がばったりと出会う。読んでいる私はどうなるかと思ったが、A嬢はB嬢を見て「これまでにこんな美しい人にあったことがない」と思う。同じようにB嬢はA嬢を見て「これまでこんな美しい人にあったことはない」と思うのである。

なるほど、これで解決と思った。

ところがセルバンテスは、さらに絶世の美女C嬢を登場させて、A嬢、B嬢たちに逢わせてしまう。これをどう解決するのかと思ったら、さすがにセルバンテスですね。C嬢は「これまで見たこともないような美しい人が二人もいるなんて」と驚く。A嬢は「なんと美しい人だろうか。B嬢よりも美しいくらいだ」と思い、B嬢は「なんて美しい人だろうか。A嬢よりも美しいくらいだ」と思う。

上手いねえ、この解決の仕方。でも、これは脱線です。

私は人間のやることや考えることに、絶対という言葉をあまり使いたくないのだけれど、命ある人間として生まれてきた以上、訳もなく人を殺すのは、絶対に悪いと思っている。その最たるものが、戦争である。戦争の英雄などは糞食らえだ。悲壮に散っていく英雄、なんてものもある。そんなもの、どこが格好良いんだ。戦争こそは絶対悪である。

明日、敗戦記念日。終戦記念日とも言う。しかし私はこの言葉を使いたくない。終戦ではなく、敗戦である。負けたんだろう。ごまかすなよ。

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杉田彦左衛門天狗に殺される・2

8月14日(木)

杉田彦左衛門天狗に殺される・2(狗波利子・通算62回)

(前回のあらすじ・杉田彦左衛門は、月に3度、日光の今市の市が立つ日に必ず出かけていた。そして帰りには山賊となり追いはぎを働いた。日光の天狗孫太郎が、お前を4月15日に殺すと言い、その言葉通り、4月15日に彦左衛門は狂い死にした。)

国西寺の国道和尚によって葬儀は行われた。雨風が強く、葬儀の列に降り続けた。棺が墓の近くまで来たら、稲光がしきりにして、空から雷神の声があった。

「その亡骸をここに置いていけ」

和尚は答える。

「たとえ何があったにしろ、私が葬儀を引き受けた以上は、死体を渡すことは出来ない」

と言って脇差しを抜いた。雷神は墜ちてきて、脇差しをひん曲げて去った。死体は無事で、空は晴れた。その脇差しは、今も寺に保管されている。

和尚は静かに引導を渡し、霊を弔った。

のちの和尚は語った。

杉田彦左衛門は力が強くふてぶてしかった。人を人とも思わず、神仏、天の教えに背き、やりたい放題の悪行をした。人を殺し、財物を奪い、人を苦しめた。だからこのような怪しげなことに逢うのだ。

怪しげなことは怪しげな行為から起こる。邪気が勝と正気が失われる。心にやましいことがあれば、実際には無いものが見える。煩悩に心を奪われ、常に迷って苦しみを受ける。その心を取り戻すところにこそ、正見正智が現れる。この正念を環境に奪われ、蝉の抜け殻のようになれば、怪しげなことがが現れるものだ。鍵をかけていない家に、泥棒が入るようなものである。

世の中には怪奇現象というものもある。人には魂がある。その魂が正気ならば、非道はない。妖邪は出ない。

自分から正しい行いをして正心正念を求められない凡人は、神仏に頼り、敬い尊べば、神仏の神通力によって、正念にいたるものだ。

昔は人が死ぬと、鬼婆が来て、死体を奪い取り、引き裂いて大木の枝にぶら下げたりした。今は神仏に頼る者が多くなり、鬼婆の出番は減った。

ただ、恐るべきは、我々の悪行、妄念である。地獄の鬼畜も、どこかから来るのではない。自分の内から出てしまう罪科だ。生きている間にそんな過ちをしては、死んでから取り返すことが出来ない。仏道、菩薩の道こそ、願い求めるべきものである。

                    第6巻・終わり

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2008年8月13日 (水)

介護施設K・ずぼら

8月13日(水)

老人介護施設Kへ。各階ごとの誕生会。Yさんと私が3F、SさんとHさんが2F。たいして手伝うことは多くなかった。職員がハンドベルの演奏をし、カラオケの歌をうたう。私たちは利用者のお菓子を配ったり、話し相手をしたり。ちょっと手品もしたけれど。

このような施設の高齢の人たちは、自分の誕生日、生まれた日は覚えていても、自分は今何歳であるかを知らない人は多い。これは惚け初めかも知れないが、私もかなり怪しい。私は今71歳だが、この間まで、70歳だと言っていたような気がする。

私の場合は、ずぼらなのである。まだ20代の終わりごろ、自分の歳を間違えて覚えていたときがあった。その期間がおそらく半年くらいはあった。1歳多く覚えていた。26歳なのに、27歳だと思っていたのである。その間違いを自分では気づかず、友人に注意されて気がついた。

若いときからそんな状態だから、私の場合、何か抜けたようなことがあっても、惚けたせいなのか、物事を気にしないずぼらな性格が出たためなのか、判別しがたい。人の名前が思い出せないことなどが多くなったから、惚けてはいるのだと思いますけどね。

ついでながら、手持ちの本によれば、若い頃から身だしなみなどに気をつけない人は、ずぼらな性格なのだそうだ。ピンポーン。当たってます。私は若いときから、しゃれっ気がなかった。結婚するときヘヤーシャンプーを買った。5,6年たってから、妻の鏡台にそのヘヤーシャンプーが使われずに残っているのに気がついた。それを捨てて以来、調髪料を買ったことがない。ハンドクリームは使うが、顔に塗るクリームなどは買ったことがない。顔がかさかさすれば、ハンドクリームを顔に塗る。要するに、そんなことは気にならないのだ。

私の血液型はA型である。A型は几帳面だなんて、私に関しては、全くのはずれです。

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杉田彦左衛門天狗に殺される・1

8月13日(水)

杉田彦左衛門天狗に殺される・1(狗波利子・通算61回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

武蔵の国榛沢の郡に杉田彦左衛門という者がいた。気が強く、ものに動じない性格だった。

20歳の頃から月に3度、日光の今市の市日には必ず出かけていた。そして帰りには、山賊になって、道行く人を追い倒し、財物を剥ぎ取ったり、打ち殺したりしていた。そのため、家は豊かで、家族、使用人など17・8人はゆるゆると暮らし、不足することはなかった。

ある年の9月、今市から馬に乗って帰る途中、日光山の孫太郎という天狗にあった。孫太郎は背の丈3メートル近い山伏に化け、彦左衛門の行く手を塞いだ。馬は身震いをして立ちすくんだ。

彦左衛門は刀を抜く構えをして束に手をかけて言った。

「お前は日光の孫太郎だな。その道を開けろ。馬を通せ!」

山伏は退いたが、

「今は退く。しかし、来年の4月15日に、必ずお前の命をいただく」

と言って、たちまち姿を消した。

彦左衛門は元来がものに動じない性格だから、そのまま馬にむち打って宿に帰った。

しかしながら、何となく怖れをなして、日光へは、それっきり行かなかった。

次の年の2月の末ごろから、彦左衛門の気分は優れず、病に伏した。そうこうするうちに4月になり、病は重くなった。

15日になると甚だしく苦しみ、高熱になり、狂乱のうちに彦左衛門は死んだ。

                           続く

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2008年8月12日 (火)

自転車散歩

8月12日(火)

用事はないのに、こう暑くては散歩も億劫である。そこで、歩く代わりに、自転車で散歩した。

まず、智光山公園に行き、公園内を散歩。公園内は足で散歩である。スケッチを2枚くらい描く。Imgp0075_2

小学生並みのスケッチは、今回は遠慮して、写真を1枚。もっとも写真だって、バカチョンカメラでやっと撮れるだけの人間です。上手なわけはないさ。

今日はあまり見えないけれど、日曜祭日には、池の対岸のカワセミを狙って、大勢のカメラマンがいる場所です。

智光山公園の散歩の後は、安比奈親水公園に行く。Imgp0076

ここは芝生が広く、手入れもよくてよい公園なのだけれども、冬の風が吹くときには逃げ場が無く、雨が降っても隠れるところが無い。四阿家は言うに及ばず、大きな木もありません。写真に見える木は、公園の外です。だから、かんかん照りになっても日陰がない。入間川で水遊びをしている人たちはいたが、私たちのような散歩者は、長くいることが出来ない。上の写真は、入間川の分水に架けられた橋。Imgp0080_3 Imgp0077_2

右の写真の手前に見える柵が親水公園の堺で、写真は親水公園の外。ここはいつも釣り人がいる。今日は1人だけだけれど。

左は親水公園わきの狭山川越自転車道。

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亡霊を八幡に鎮め祭る

8月12日(火)

亡霊を八幡に鎮め祭る(狗波利子・通算61回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

寛永の初めのころ(1625年前後)吉川某の家来で松岡四郎左衛門という者がいた。正直で、武術が優れていた。

しかし、同僚の讒言によって打ち首になってしまった。四郎左衛門は、せめて切腹ならばまだしも、ありもしない讒言で打ち首になるとは、悔しい限りだ。死んでからあの世というものが無ければどうにも出来ないが、魂が残るものならば必ず仕返しをしてやる、と歯ぎしりをして首を討たれた。

死後7日、四郎左衛門の亡霊が現れた。讒言をした者は親子とも、続けざまに死んだ。そればかりではない、四郎左衛門の亡霊に逢う者は、老若男女を問わず、たちどころに死に、その数は千人を超えた。

僧を頼んで経を読み、弔ったけれども効果はなかった。陰陽師に祈ってもらったが、変わりはなかった。社を造り、八幡神社として祭ったら、やっと静かになった。

                      終わり           

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2008年8月11日 (月)

言うまいと思えど

8月11日(月)

言うまいと思えど今日の暑さかな。

今、午後10時過ぎ。雨が降っている。その割に涼しくならない。また熱帯夜だろうか。

日中に暑いのはなんとか過ごせるけれど、夜の暑さには参る。効きの悪いクーラーも、ときにはつける。

今日は1日中家で過ごす。狗波利子の下読みをして、読みかけの本を読んで、数独をして、こんど描く絵の構想を考えて、テレビを見て、インスタントコーヒーを飲んで、ごろごろして・・・まあ、そんな1日でした。そのほかに、鼻毛を抜いたかな。

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板垣信形天狗にあう・3

8月11日(月)

板垣信形天狗にあう・3(狗波利子・通算60回)

(前回までのあらすじ・勇敢だが思慮に欠けたところのある武田家の武将板垣信形が、羽黒山の山伏たちを酒宴でもてなす。山伏たちが見せた奇跡に感じ、息子弥二郎のために、戦の秘術の教えを請い、山伏と信形のいる部屋から竹刀の音などが聞こえてくる。)

夜も明けてきた。信形に仕える中間、若党たちが障子の隙間から覗いてみると、山伏と思ったのは人ではなかった。あるいは鼻の先が高くそばだち、あるいは口が鳥の嘴のようで、背中には翼がある。異類異形の者たちである。

これはなんとしたことだと、中間、若党たちは太刀や長刀を持って障子を開け中へはいると、10人の山伏たちはどこかに消え失せてしまった。信形は前後も知らず倒れ伏している。

せっかくの料理は少しも食わずにまわりに散らかし、酒はこぼし放題。畳の上には鳥の足跡のようなものが付いている。これは間違いなく天狗の仕業だ、と家中の者は思った。

信形はその日の夕方になってやっと目が覚めたが、しばらくはぼうっとしているばかりだった。

信形は元来気丈な者なので、こんなことは武家にはあることだ、といって平然としていた。しかし、他人には知らせず秘密にしていたが、いつの間にか漏れてしまった。

信形は勇者として名高く、戦ではいつでも手柄を上げていたため、慢心をおこし、敵を侮る気配があった。そのためにこのような妖怪にあったと思われる。

このころより信形は浮ついた気持ちになり、無分別で、軍備を怠り、怪我をしたこともある。しまいには信州上田原の戦で討ち死にをした。これも、慢心のためだという。

                          終わり

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2008年8月10日 (日)

もう1人の選手・長瀞

8月10日(日)

もう1人の選手

オリンピックに熱狂は出来ないけれど、ほどほどの興味はあって、テレビで時々見ている。柔道の谷選手が敗れましたね。それでも4大会だか5大会だか連続メタルだと言うから、確かにすごい。

でも、私は少し、ひっかかるところがある。オリンピック代表選手選考の大会で、谷選手、負けたんですよね。相手の選手の名前は覚えていないけれど、谷選手を破ったのに、オリンピック代表になれなかった。過去の実績とか、安定した力とか、外人選手に強いとか、いろいろあったのでしょう。谷選手が代表になったと聞いたとき、私は相手の選手が気の毒になってしまった。

谷選手は偉いと思う。立派だと思う。しかし、やはり選考会で勝った選手が代表になるべきだと私は考える。相手の選手は、たまたま勝っただけかも知れない、実力は下なのかも知れない。それでも選考会の結果は結果で、尊重すべきなのである。

相手の選手は、谷選手の試合を、どんな気持ちで見たのだろうか、あるいは、見なかったのだろうか。

長瀞

Mizutani10012 Mizutani10010

このスケッチは上長瀞から長瀞の間の、もっとも流れがきついところです。左は上流から、右は下流から、ほぼ同じ所を見て描きました。

上長瀞と長瀞の間は、川沿いの石畳の上を歩いてもよいし、道路よりの、砂や草の上を歩いてもよい。道路よりの方を歩くと、まるで池塘のような水たまりが、幾つか見られる。下は、そのスケッチです。

画像が少し大きすぎたようです。次回から注意します。

Mizutani10011

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板垣信形天狗にあう・2

8月10日(日)

板垣信形天狗にあう・2(狗波利子・通算59回)

(前回のあらすじ、板垣信形は羽黒山の山伏たちをもてなし、酒宴を行う。僧たちの先達は大変感謝して、信形に奇跡をお見せするように、と、他の山伏達に命ずる。)

山伏たちは、膳の上に置いてあった箸を集め、なにやら唱えながら印を結んだ。そしてその箸を、座の傍らの暗いところに放り投げた。

しばらくすると、身長が30センチくらいの鎧武者が100人ばかり出てきた。信形とその子、弥二郎は、目をこらしてみた。座敷の真ん中に、陣形を建てている。

先達の山伏は、戦の様子をお目にかけなさい、という。

次席の山伏は座を立って、ムカゴを掴み、後ろの方に投げた。すると今後は小さな鎧武者が200人ばかり、戦の陣形をして現れた。

両軍は互いに挑み戦う。

「えいえい、おう!」

などとときの声を上げ、うめき、叫び、突き合い切り合う。人間の戦と少しも違わない。首を取ったり差し違えたり、しばらく戦ったのちさっとひいたように見えたが、箸の先にムカゴを突き刺していた。

信形は先達に言った。

「私は武田家譜代の家来だけれども、戦いではいつも先陣を切り、強敵を倒してきた。敵がどのように防ぐとも、破らなければ帰らないという気持ちで、後れをとったことがない。向かうところ、必ず討ってきた。

世の中には勇気のある者はまれで、卑怯者が多い。軍法には、日取りも方角も入らない。勇気さえあれば、小勢でも大勢の臆病者をやっつけるに手間暇はいらない。

わが子、弥二郎は少し気が弱いので、私のようにはいかないだろう。何か戦に勝つよい方法があったら教えてくれませんか」

「よい方法は、あるにはあるが、大勢の中では言えない。あなた1人に教えましょう。他の者たちを遠ざけてください」

信形は、弥二郎はじめ、家に仕える者たちをみな下がらせた。

しばらくは、先達が何事か指導をし、下座の山伏が竹刀で受けている音が、部屋の外に聞こえていた。

                         続く

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2008年8月 9日 (土)

無題

8月9日(土)

長崎の原爆忌。

今日は1日曇り空で、35℃以上というばかげた気温にはならなかったようだ。暑いのは苦手で、用事がないときは、どうしても家に籠もってしまう。今日は、焼け付くような暑さではなかった。数独ばかりやっていてもしょうがないので、入間川河川敷の散歩。でも、スケッチをする気にはならないなあ。

来週は、こぶし福祉会関連も休みで、私は暇だけれど、特に出かけたいところもない。涼しいところへいくには金がかかるしね。扇風機にあたりながら、家でごろごろしているというのも、ちょっとさえないなあ。13日、15日、16日には、ちょっとした用事があるにはあるけれど、全体としては暇だ。昼間から酒を飲まないようにしよう。自戒。

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板垣信形天狗にあう・1

8月9日(土)

板垣信形天狗にあう・1(狗波利子・通算58回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

板垣信形は、甲斐の信玄がまだ武田大膳晴信といっていた頃から武勇の名が高く、戦では数々の手柄を立てた者である。晴信の秘蔵の勇者なので、ことのほか重要な家来と思われていた。しかしながら、忠節はあるが思慮がたりず、勇気はあるが頭が固く粗忽なところもあった。

ある時信形が家の前にいると、50歳くらいの山伏が来て、食事を求めた。その格好は、普通の人とは思えない。目は鋭く、色黒で、背が高い。筋肉が発達し骨張っていて、苦行を修した者のように見える。

信形は山伏を家に入れて聞いた。

「お坊はどこのかたでしょうか?」

「私は、出羽の羽黒山の行者です。去年は葛城の山で修行をし、熊野で年を越しました。これより羽黒山に帰り、一夏を過ごすつもりです」

「お坊はお一人でしょうか? それとも仲間がおありですか?」

「仲間は10人です。今、それぞれに食事を求めて、近くの家をまわっています」

「それならば、見苦しいところではあるが、ここへお泊まり下さい。お仲間の山伏たちもご一緒にどうぞ」

「それはありがたいこと。さっそく呼び寄せましょう」

山伏は門を出て、腰に付けたホラ貝をとり、寄せ貝と思われるほらを吹いた。たちまち9人の山伏が集まってきた。どうやら信形の家に来た山伏が先達らしく、9人はまだ若い。そして信形の家に来た山伏を敬っているように見えた。

日が暮れてきたので、灯火をともし、食事を作り、山伏たちをさまざまにもてなした。

信形はどう思ったのだろうか、いつもは倹約家なのに、山伏をもてなす酒宴を開くのだといって、子息の弥二郎を呼び出した。また、家に使われる者たちをも集め、その人数は50人を超えた。

さっそく酒宴である。信形も客僧たちも、数杯を重ねた。客僧の先達が言った。

「今日は思いがけないご芳志で、身も心もゆったりと出来ました。旅の疲れもいやされます。我々は名山霊地をまわって修行をし、さまざまな奇跡を起こすことが出来ます。普段はそのようなことは隠して表には出さないのだけれど、今日は特別です。何かお見せしましょう」

そして下座の山伏たちに言った。

「お前たち、ご主人に、何かお見せしなさい」

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2008年8月 8日 (金)

水彩画の会

8月8日(金)

今、テレビでは、北京オリンピックの開会式の様子を放映しているはず。私のパソコンはデスクトップで、テレビのない部屋に置いている。だから、テレビを見ながらパソコンに向かう、ということは出来ない。

水彩画の会。Photo

こんな絵を描きました。子供が二人、母親と犬が上の方を向いています。その視線の先で鳩の雛が巣立とうとしています。こんな絵はもちろん想像で描くわけで、なかなか上手くはいきません。谷内六郎など、研究しなくては駄目だな。

絶対に事実と違うところがあります。巣立つ雛を見ている親は、もっと離れたところの木の枝などにとまっています。私は同じ絵の中に収めるために、左上に飛ばせてしまいました。

さて、今日はこれだけにして、オリンピックでも見ましょうか。

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天狗にとられた子の物語・6

8月8日(金)

天狗にとられた子の物語・6(狗波利子・通算57回)

(前回までのあらすじ・愚直な社家の子、次郎が天狗の僧につれられ、諸国で不思議な体験をする。伯耆の国大山で出会った僧に、人間が地獄に堕ちる性を聞き、多くの僧が生きながら焼き尽くされる様を見た。次に天狗の僧は、次郎を都の能見物に連れて行く)

能はすでに始まっていて、名人上手が入れ替わり演じている。見るものは心を空にして、すべてを忘れている。天狗の僧は、「このものたちはあまりに心を見失っている。みんなの目を覚まさせる」といって、舞台に上がり、なにやら唱えた。

たちまち三条の西から黒煙が上がり、いちめんに広がって燃え上がる。風は荒く吹き、炎は飛び散って、ここでもあそこでも燃え上がる。火事だ火事だと叫んで、見物の者たちは、上を下への大騒ぎ。桟敷から転げ落ち、木戸に向かって、われ先にと押し合いへし合うありさま。女子供の泣き叫ぶ声、転び、踏みつけて、何がなんだか分からない。

やがて火が治まると、天狗の僧は、さらに次郎を連れだした。歩くともなく飛ぶともなく、都をでて、近江を越え、越前の敦賀に出た。

僧は次郎を、あらゆるところに連れて行った。どこもかしこも隈無く見て、その間、飢えも知らず寒さも知らなかった。あまねく東国をまわり、富士の高嶺、浅間山、田子の浦、清美が関、箱根の山から駿河の国、鎌倉山の昔の跡、聞き伝えた名所はめぐり残したところがない。

次郎は僧に連れられて、春もたち、夏も過ぎ、秋の空、冬の時も、心に苦しむこともない。しばらくもじっとしている時はなく、天の下をうちめぐり、山川海の上、空を駈けた。折々、恐ろしいこと、不思議なことを経験し、年月のたつのも忘れていた。それから5年たったけれども、そんなに長かった気がしない。

そういって次郎は話し終えた。

それから20日ばかり、次郎は社家にいて、さまざまな不思議をまわりの人に見せたが、また行方不明になった。その形見と言うことなのか、次郎は、檜の笠、檜の杖、着古した鈴掛の衣を残していった。

次郎の父彦八も老衰して、間もなく亡くなった。

鈴掛の衣は、熱病にかかった人の枕元に置けば病気が治ったので、方々で借りていたが、しまいにはどこへ行ったか分からなくなった。

笠と杖は、朽ち果ててしまった。

                        終わり

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2008年8月 7日 (木)

暦の秋

8月7日(木)

ボランティアグループ定例会。

K福祉会祭り実行委員会。

今日、暦の上では秋になる。

今日は立秋。まず、俳人長谷川櫂が、週刊「日本の歳時記」17号に書いた文を紹介する。

「8月7日は24節気の立秋。この日から秋に入ります。よく『暦の上では秋です』と言いますが、裏を返せば『実感ではまだ夏』という意味です。もし、このように実感によって季節を分けるなら、暑い時期が夏、寒い時期が冬、その間の過ごしやすい時期が春と秋になります。

しかし、これは暑さを夏、寒さを冬と言い換えただけのこと。もし、これが日本人の季節感であるとというなら、なんとも貧困な季節感といわなければなりません。これでは『日本人は季節に敏感な国民である』などと人前で話すのも恥ずかしい。

では、日本人が古くから培ってきた季節感とはどんなものだったか。それは一言でいうと『季節を探る』ことでした。まだ暑いうちに秋を探る、寒いうちに春を探る。このさぐるというこころのうごきは、立春、立夏、立秋、立冬という24節気による季節の区分けに基づいていました。」

さすがは長谷川櫂氏。納得させることを言いますね。「季節を探る」ですか。なるほど。

でも、疑問が残ります。季節を探って、実感を少し先取りするのは良いのですが、実感をまるっきり通り越しても、「探る」ことになるんでしょうかね。極端なことを言えば、冬に夏を探ったり、夏に冬を探ったりすることだって、強引に結びつければ出来るでしょう。

今日の関東地方は、この夏1番の暑さでした。今夜から明日に懸けての最低気温の予想は、熊谷28度です。この夏最高の熱帯夜になります。明日の熊谷の最高気温は38度です。どこに秋の気配を感じたらいいのでしょう。これからは、これまでよりも暑い日が続くでしょう。これからもっと暑くなりそうなときに、「秋を探れ」と言われても、ちょっと無理があります。

だいたい、高浜虚子の時代と現在では、夏の気温が違います。虚子が感じた初秋の気配は、今では9月初めくらいになるのではありませんか。「夜の秋」というのは、夏の終わりごろ、日中は暑くても、夕方には風の吹きかたに秋を感じたりすることをさし、晩夏の季語となります。しかし、今はまだ、「夜の秋」だって、無理ではありませんか。ましてや秋だなんて。

温暖化は、季節感も変えます。立夏とか立秋というのは、太陽と地球の位置によって機械的に決まるのです。季節をそれによって探ろうというのは、無理があるのではないでしょうか。機械的に季節を決めて、感覚の方をそれに合わせようと言うのでしょうか。

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天狗にさらわれた子の物語・5

8月7日(木)

天狗にさらわれた子の物語・5(狗波利子・通算57回)

(前回までのあらすじ・社家の子、次郎は天狗の僧につれられて、諸国を見、不思議な体験をする。伯耆の国大山では、大道を踏み外して魔道に入ってしまう人間の性を聞く)

この話を聞いて、多くの僧、法師達は怖れわなないた。しかし、体を柱に縛り付けられていて、動きがとれない。空から猛火が下りてきて、一同は宮殿もろとも燃え上がり、うめき声を上げ、泣き叫ぶ声と共に焼き尽くされた。次郎だけは繋がれていなかったので、遠くの谷に逃げ延びた。

しばらくすると、天狗の僧が来て、次郎をつれて山を出た。振り返ってみると、宮殿も楼閣も、すべて消え失せていた。

こののち次郎は、僧につれられ、西国をくまなく巡り歩いた。また京に帰ろうと言うことになり、播磨の港で船に乗せてくれと頼んだところ、船頭たちはにべもなく断った。

僧は腹を立てて、沖に向かって印を結んだ。

すると、にわかに黒雲が辺りを覆い、大風が吹いて、海は闇夜のように暗くなった。波は高く、雪の山、砂の山のごとく、沖の船はフライパンから放り出されるようだ。岸に帰ろうとしてもかなわず、船子たちは伊勢神宮の方に向かって拝み、観音経を読んだ。

夕方になってやっと風と波がおさまり、船は室の津や、兵庫の港に吹き寄せられて岸に着いた。それでも、命が助かったことを喜ぶ者が多かった。

僧は次郎をつれて山崎にいたり、、都に入った。

5条河原で「能」があるという。都の人々は貴賤上下を問わず、見物に集まっている。桟敷にはさまざまな幕を張りながら、お偉方が誰彼となく見物に来ていた。僧は次郎をつれて見巡ったけれども、誰も二人に気づく人はいない。

                     続く

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2008年8月 6日 (水)

原爆忌

8月6日(水)

今日は、ブログを書く人の何%が、広島の原爆に触れるだろうか。私は毎日、下らないことを考え、下らないことを書きつづっている。原爆の体験者の話を聞くとき、忸怩たる思いのあるのは確かである。しかし、原爆体験もまた、風化していくしかないのだ。風化させるなといっても、どんなに頑張っても、やはり風化していくのである。

この先、核兵器を使わないとは考えにくいが、もし使わなかったとしても、人間は、似たようなことをするに違いない。「のど元過ぎれば熱さを忘れる」で、何でも忘れるのが人間だ。忘れなければ生きていけないのも事実だろうが、忘れてはいけないことも、人間は忘れる。

いつの日にか、人間は自分の力で滅びるだろうと、私は思っている。その原因は、核兵器なのか、環境破壊なのか、はたまた、他の原因によるかは分からないけれど。

     蟻地獄核兵器こそ腐れ縁    ぼんくらカエル

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天狗にさらわれた子の物語・4

8月6日(水)

天狗にさらわれた子の物語・4(狗波利子・通算56回)

(前回までのあらすじ・シャケの子、次郎は天狗に連れられて、様々な経験をする。今は伯耆の国大山で、魔界の主の僧の話を聞いている)

主の僧は、話を続ける。

修善寺の恵山長老は、唯識法相の宗義を極め、華厳、涅槃の道理を知り、常に講義をし、数百人の弟子がいる。しかし、自分の流派を立てて他流をけなし、自己主張が強い。

上覚寺の行蓮上人は説法上手で名をあげ、諸方の男女を善導し、一切経を書き、仏像を多く作った。世間から仏のように思われている。しかし、ただ経論を集め、仏像を作り、他の財物を求めて、むさぼりのM心が起こった。功徳があるようだが、実際にはどん欲の煩悩にとりつかれた。

霊光寺の明寂法師は高名な武士だったが、武器を捨て、仏門に入った。しかし俗家にあるときは、道理を曲げ、百姓の財産を奪い、人を傷つけて得た金銀を寺に入れ、堂舎を建てた。

これらの輩はみな、我々が障害を作って導いたわけでもないのに、死んでからは魔道に入る。

彼らばかりではない。世の中には出家と言われるものが幾らでもいるが、なすべき行も行わず、仏法の道理も知らず、布施する人にはへつらい、欲の深さは俗にまさる者が多い。在家を惑わせて世を渡る法師も、死んで地獄に堕ちる者だ。地獄で、信者からもらった布施の償いをしなければならない。

儒道を学ぶ者もこれに似ている。物事から解放され、清く自由な境地になることなど思いも及ばず、詩を作り、文を作る。だから、心にもない偽りを筆にあらわし、やるべきことを行わず、人をたぶらかす。まるで手を出して盗みをせぬばかりの行いで録を汚す。天の理に背き神徳に違う。死んだからといって本道に帰る道はなく、餓鬼道、畜生道、地獄道に墜ちることは確かである。

在家の者は、世を渡り生活をしているうちに、後生のことを気にしたりはするが、愛欲にひかれて心底からの思いはなく、多くは地獄に堕ちるという。

これらの者、魔道に入って耐え難い苦しみを受けながら、慚愧し懺悔する心を興さず、帰って仏敵法敵になる浅ましさだ。

                        続く

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2008年8月 5日 (火)

包丁研ぎ・貧富の2極化

8月5日(火)

精障者授産施設Rへ。月に一度、授産施設の食堂Kの包丁を研ぎにいく。ついでに他の人の包丁も、持ってきたのは全部研ぐ。同じ包丁研ぎでも、こちらは無料。精障者作業所で研ぐ場合は、リサイクルショップなので店の収入として300円。私はどちらでも同じだ。

帰ろうとしたら。激しい雨。たまたま理事長のMさんが市役所に行く用事があるというので、ついでに家まで送ってもらう。

福田さんは改造内閣で、少しだけ支持率が上がったんだって。日本はいろいろな問題があるけれど、一番大きな問題は、金がありさえすれば良いという世の中になって、貧富の2極化が進んだことだと思っている。

ワーキングプアーや、金が無くて福祉から切り捨てられる人、満足に医療やリハビリが受けられない人がいること、これを解決できなかったら、日本に救いはないと思う。一方では、ペットに宝石を着けて自慢しているような馬鹿もいるのだ。

これ以上弱者を苦しめるような政策しか打ち出せないならば、この国は崩壊するだろう。

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天狗にとられた子の物語・3

8月5日(火)

天狗にとられた子の物語・3(狗波利子・通算55回)

(前回までのあらすじ・伏見の社家の子、次郎は5年間天狗に連れられて、不行方不明だった。天狗に出会った最初の日、空を飛ぶようにして京の如意ヶ岳という山に行き、7-8人の僧が銅の煮え湯を飲み、焼けこげてから復活するのを見る)

次の朝、天狗の僧につれられて空を飛んでいった。霧を開き、雲を分けて飛んだ。

「ここはどこですか」

と聞くと、

「播磨の国、姫路」

と言う。時間は6時頃である。

「腹が減っただろうから何か食わせてやろう」

と、大きな家の中に連れて行った。何か祝い事があるのか、人が大勢出入りしていた。それなのに、誰も僧や次郎に気付く者はいなかった。僧は次郎に、食べたいものは何でも食べさせた。

それからまた、空に昇り、雲の上を駈ける。下には青海原がみえる。浜には、所々に人家があり、貧しげな家の近くでは、海草をほしている者がいる。塩屋からは、塩を焼く煙が立ち上っている。西の方には松原があり、沖には帆をかけた船が行き交っている。漁り火が波に揺れているのが見え、もう太陽が海に沈みそうだと思う頃、大きな山の上に降り立った。

「ここはどこですか」

「伯耆の国の大山だ」

谷を越えて、大きな楼門があった。近づいて、案内してもらう。恐ろしげな法師が案内をしてくれた。御僧は次郎と共に中に入った。

主の僧が出てきて、座り直し、さまざまな物語をした。年の頃は50ばかりに見える。話しの間に、4,5人が集まってきた。みな上品で、徳が高そうに見える。

主の僧が話す。

生死というものは、位が高かろうが低かろうが、誰にでも訪れる。逃れようがない。正しい行いをして立派に見える人でも、妄執があったりすれば、死後、我々のところに来るようになる。だから、昔も今も、徳高く行いが正しいと思われている者も、多くは魔道の者となる。我々の昔の迷いも、みな似たようなものだ。

学問に優れ、徳高く行いが正しいと言っても、まことの大道をはずれやすい。知らないことを知っていると思い、持たないものを持っていると思う。自分は人に劣らないつもりで、優れた者をそしり、まさる者を憎む。増長慢は、山よりも高く、海よりも深い。

我々はここに来る者を求めて、探し歩く必要はない。魔道の網にかかる者は、まことに多い。何も障害があるわけではないのに、自ら大道をそれる者ばかりだ。

                       続く      

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2008年8月 4日 (月)

小規模作業所M、俳誌

8月4日(月)

小規模作業所・M

精障者小規模作業所Mへ。畑は草だらけで手もつけられないのではないかと心配していたが、サツマイモの蔓が雑草に負けずに生い茂っていた。毎年この畑、紫蘇は放っておいても生えてくる。その紫蘇の葉を摘んで帰る。

荷造り用の平らなテープ(幅1センチほどで、こよりのような紙紐を何本も並べ、接着剤で固めたもの。簡単な器具を使い金具できつく締める)を利用して、竹トンボ作りをしようとしているのだが、なかなか上手くいかない。竹トンボの羽根の型を作り、テープを型に当ててアイロンにかけ、急激に水で冷やす。そうすると、テープが竹トンボの羽根のかたちにかたまるのだけれども、本物の竹で作るようには、その形が上手くいかないのである。

まだ。研究の余地あり。

俳誌『俳句界』

それこそ、俳句界の動きや話題になっていることを知るために、俳誌を1誌だけ読むことにしている。今月は『俳句界』を買った。ふたつの特集が気になったからである。その一つが「鈴木しず子」、もう一つが「小国民の敗戦」。

鈴木しず子は、俳句界で、謎の俳人と言われている。終戦後、彗星のように現れて、彗星のように消えた。もし生きていれば、今88歳だそうだ。

     夏みかん酸っぱし今さら純潔など

     コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

などという俳句を知って、気になっていた。取り上げられた俳句を読んでいると、戦時中の製図工から始まって、やがてダンサーになり、黒人兵のオンリーになったようだ。オンリーというのは、今では死語になったが、ただ1人の米兵相手に囲われる娼婦で、日本人同士なら、妾というのに近いかも知れない。

     青葉の日朝の点呼の列に入る

     ダンサーになろか凍夜の駅間歩く

     墜ちてはいけない朽ち葉ばかりの鳳仙花

     娼婦またよきか熟れたる柿食らう

小国民の敗戦

小国民というのは、戦時中の小学生の呼び名である。軍国主義と結びついて生まれた言葉ではあるが、この言葉自体には軍事色がないので、戦後も2-3年は使っていた。私はお祭りの時、当時やっかいになっていた叔父に小遣いをもらって、「小国民の友」という薄っぺらな雑誌を買ったことを覚えている。まだ、「少年倶楽部」などは休刊中だった。

私よりも2-3年上の俳人による当時の記憶と、小国民新聞に掲載された小学生の俳句が取り上げられている。

     焼け跡に野菜まきする親子かな

     父戦死ことしの冬の寒さかな

     兄は今いずこで夏の月を見る

     夕立や鎌を片手に山を見る

     稲刈りやいなごを払う鎌の先

当時は、小学生だって、働かなくてはならなかった。

     家中でさつま味はう夕げかな

サツマイモがおいしいから食べているのではなく、米がないから食べているのです。

     母さんに俳句おそわるいろりばた

こういうのは良いね。救われる。

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天狗にとられた子の物語・2

8月4日(月)

天狗にとられた子の物語・2(狗波利子・通算54回)

(前回のあらすじ・伏見の藤の社の息子次郎は、知恵遅れだったが正直者だった。ある時、急に行方不明になり、5年後に帰ってきた。そして、5年間の経験を語り出す)

私は今年で22歳、よそを巡り歩いて5年になる。

私がこの土地を離れたのは8月(旧暦です。現在なら9月ごろ)の初めだった。ようやく風も涼しくなり、稲の穂が出かかっていた。どこから来たとも知れぬ、がっしりした僧が近づいてきた。紅初めの衣の上に紫の袈裟を懸け、手には水晶で出来た角張った数珠を持っている。その僧が私に話しかけた。

「次郎。私についてきなさい。悪いようにはしない」

言われた通りついていくと、まるで空を飛ぶようにして、京の東、如意ヶ岳という山に行き、岩に腰をかけて休んだ。すると、見かけぬ小法師達が出てきて、食べ物を持ってきた。何という食べ物かは知らないが、まことにおいしかった。

日の暮れ方になると、僧が言った。

「これから驚くようなことが起こる。しかし、お前は怖れる必要はない」

どんなことが起こるのかと思っていると、同じような格好の僧が7,8人出てきた。空から鉄の釜が下りてきて、岩の上にしっかりとすえられた。さらに、鼻が高く、目が大きい、両脇に翼がある法師が3人現れた。いずれも足は鳥のようで、柿色の衣を着け、腰には太刀を差している。たすきを掛け、衣の下をはしょり、働き者のかいがいしさを見せて、鉄の勺を釜に差し入れ、銀の茶碗に煮えたぎった銅の湯をもり、7,8人の並み居る僧に差し出した。

僧たちは恐れおののく表情を見せたが、その湯を飲み干した。僧たちは倒れ伏し、頭から黒い煙を上げ、焼け棒杭のようになった。空には、バクバクと鳴り響く音がした。

ややあって、僧たちは夢から覚めたように起き上がり、もとの姿に帰った。そして礼儀正しく挨拶をして別れていった。

初めの御僧は

「このありさまを、けして人に語るな。今日は疲れただろうからもう寝なさい。そして、明日は早く起きなさい」

と言って岩屋に入った。

                       続く

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2008年8月 3日 (日)

墓参

8月3日(日)

墓参

母の命日。母の死は63年も前である。私はまだ8歳だった。母というのは特別のものですね。そんな昔のことなのに、いまだに思い出す。

父の家系は美男美女が多い。それに反して母の家系は、ウーン、言いにくい。てなもので、美形であるとは言えない。中で、母などは良い方で、まあ、普通でした。私は顔も性格も母似というか、母系というか、母より少し落ちるくらいの母系似で、お世辞にも美形といえないのは残念。もう歳だし、この先どうのこうのという気はないから、まあいいけどね。

わが家の墓は高尾にあって、電車で行けば、小1日はかかる。他の季節ならば、ついでに高尾山に登って来るという手もあるのだけれど、こう暑くてはどうもならない。墓参をして、そのままとんぼ返りだ。

なぜか私は親兄弟の縁が薄くて、8歳で母を亡くし、30歳で父と別れ、4人兄弟のはずが、長男の私だけ生きている。おまけに妻まで先に死んでしまった。娘たちや孫たちが元気なのが救いかな。

     わが家系私で絶える盆迎え    ぼんくらカエル

今は私みたいな人が多いでしょうね。家を継ぐと言うことが絶対では無くなったから。

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天狗にとられた子の物語

8月3日(日)

天狗にとられた子の物語・1(狗波利子・通算53回)

慶長の末の年(1610年)伏見の木幡の人、彦七という者が藤の社に住んでいた。明神で、くがだち、神楽などをすれば、彦七は太鼓を叩き、守の御託宣を伝えたりした。

次郎という子供がいて、少し知恵遅れだったが、正直者で、掃除や落ち葉かきをしていた。暇があるときは近所の子供と遊んでいたが、ある時、不意に行方不明になった。

親は悲しがって、稲荷山の奥、霧が谷、霞みの谷まで探したけれど、ついに見つからなかった。

それから5年も過ぎて次郎が帰ってきて、大きな松の木に登っていた。彦七がそれを見つけて家に連れて帰ったが、そのありさまは、まるで山猿のようであった。頭髪は、荒れ野の草木のようにぼうぼうと生え、手足は汚れ、口もきかない。

母は次郎の頭や体をお湯で洗い、口に合いそうなものを食べさせ、面倒を見ていたら、10日ほどして、人心地がついたのか、次郎は物を言い出した。

近所の人も集まってきて、行方知れずになっていた間のことを、次郎にあれこれと聞いた。

以下は次郎の話しである。

                      続く

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2008年8月 2日 (土)

狭山市の七夕

8月2日(土)

今日と明日、狭山市の七夕祭りである。近ごろは何でもそうだけれども、狭山市の七夕も、土、日にやることになった。

狭山市は、旧入間川町を中心にして出来た市だ。その入間川町の七夕は、淵源を江戸時代に発するという。歴史は古いのである。

Photo Photo_2

                                世に3大何とかというのは多いのだが、狭山市の七夕を、3大七夕のひとつと宣伝しているのを見たことがある。一つめと二つめは仙台と平塚だろうが、三つめはおれのところだと主張する地域が、あちこちのあるのだろう。

狭山市の七夕は、旧中山道に沿った古い商店街が中心なのだが、今はシャッターを閉めた店も多く、何となく元気がない。七夕の飾りも商店の名前を冠した者より「七夕実行委員会」だとか「なんと科学園」だとか「本田技研」と言ったものが多い。

屋台は沢山出ていました。人出も結構あります。Imgp0065

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塩田平九郎怪異を見る・5

8月2日(土)

塩田平九郎怪異を見る・5(狗波利子・通算52回)

(前回までのあらすじ・落城する城から1人落ち延びた塩田平九郎は、髪を切って修行の旅をする。18年ぶりに帰った城跡近くのあばら屋で、不思議な者たちが話しあっているのを聞く)

やがて一人が言った。世の移り変わりや武田勝頼の愚かさなど、今さら話してみてもしょうがない。我々の心を述べて、自らを慰めようではないか。

そうだねと言って、色が白く丸顔の者が詩を吟じた。

     高く低く柄を持てば月ひとつ

     応えて動き涼風を興す

     愉しんだものは捨てられて土に埋められる

     皮は爛れ骨は腐り苦しんでいる

細身でえくぼのある者も詩を吟じた。

     その昔龍吟の調べを得意とす

     一曲の声は飛んで空を渡る

     今は庭の中の破れた竹

     林の騒ぐ音を聞くのみ

もう1人も吟詠する。その身は太って背は低い。髪や髭はたれて乱れている。

     しきりに埃を掃いてさらにいとまなし

     憂いを抱いて疲れ髪も髭も失う

     今は憔悴して荒れ果てた村の客のごとし

     短く朽ち衰えて垣に身を寄せる

平九郎はつくずくと聞いて、懐旧の心はあり、それなりの訳のある者たちだろうと思う。座り直して念仏を唱えたところ、一同は雪のように消え失せた。

夜が明けてからあばら屋を出て近くの家に立ち寄り、昨夜の出来事を話した。すると、

「あの家には人が住んでいない。時々話し声が聞こえ、笑っているような声が聞こえることはある。狐か狸の仕業と思うが、他の家に悪さをすることはない」

平九郎は昨夜の人々が、大して上手くはないが一首ずつ詩を作ったことなどを話した。

話を聞いた主は、何人かの若い者と共にそのあばら屋の中を探してみると、破れた団扇と、割れた笛、ちびた箒が出てきた。詩の心もこれだったのだろう。焼き捨てるわけにもいくまいと言うことで、離れた山際に、一緒に埋めた。

それ以後は、怪しげなことも起こらなくなったと言うことだ。

                           終わり

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2008年8月 1日 (金)

無題

8月1日(金)

取り立てて書くこともなし。

特養老人ホームSへ。話し相手をしただけ。

手紙を2通書く。共に、冊子を送っていただいた礼状で、本当は、もっと早く書かなければならなかった。ブログは書くけれども筆無精だから、いつも遅れ気味になる。

テレビでは、内閣改造人事の入閣者が、抱負やらなにやらを言っています。これからそれを見ます。たいしておもしろくはないけれど。

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塩田平九郎怪異を見る・4

8月1日(金)

塩田平九郎怪異を見る・4(狗波利子・通算51回)

(前回までのあらすじ・塩田平九郎は、織田信長によって落とされた城からただ1人逃げ出して、出家する。18年間の西国行脚の後、故郷に帰る。落城した城跡近くのあばら屋で、誰とも知らぬ3人の者が、武田家の滅びた理由などを話しあっているのを聞いている)

およそ戦というものは、天、地、人にかなうことが必要である。天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずという。このたびの武田勝頼の出陣は、大凶日であった。徳もなく、義もなく、思慮もたりない上に、血気にまかせて時日も選ばなかった。

父の信玄は、山本勘助や前原筑前守、あるいは小笠原源与斎に聞いて、攻防の吉日忌日などを軍配の裏に書いていたという。

5月は南の方角に勢いがあり、21日の午後2時は現在過去未来にわたって、北、あるいは北東に不吉がある。にもかかわらず勝頼は、南に向かって陣を敷き、こともあろうに午後2時に戦を始めた。これは、天の時に違うものである。未だ戦う前から、敗北の兆しがあった。天の時は失われていた。

信長方はわざと前を開けて置いて、切田、切り堀の片方が崩れてゆがんでいるところを選んで、三重の柵を立てた。勝頼をおびき出すためである。自分から仕掛けず、勝頼軍を待ち受けていたのだ。勝頼は、相手の作戦を探ろうともせず、無理に戦を仕掛けたのは、地の利の背いたことになる。

その上、去年東美濃に出陣したときから、家臣達の不和があった。旗本外様近習と諸浪人信濃衆とが不和になり、長坂釣閑と内藤修理の間もきくしゃくしていた。勝頼は、家老方を快く思っていなかった。そんなありさまだから、内部はバラバラだった。軍事評定にもしまりがなかった。

国の大きなこと、人数の多いことを誇り、むやみに戦を仕掛ける勝頼を、釣閑は無理にも支えようとした。家老達がいさめるのも聞こうとせず、それを勝頼に中傷して報告した。これこそ、家運の傾くしるしである。長篠の戦いでは、家老、諸将、みな討ち死にしてしまった。

その時の落首に、

    信玄の跡をやうやう四郎殿

           敵の勝頼名をばながしの

この後どんな世の中になるのだろうか、と語った。

                    続く

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