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2008年7月 8日 (火)

今川氏眞没落

7月8日(火)

今川氏眞没落・2(狗波利子・通算42回)

(前回のあらすじ・今川義元の子、今川氏眞は、佞臣、三浦衛門を偏愛し、武道をないがしろにして、酒宴遊興にふけり、財政は疲弊した)

氏眞は譜代の忠臣でも、少し気に入らぬことがあれば、所領を没収し、職を奪った。政は、みな三浦の思うがままで、家臣たちは、上も下もあきれ果て、三浦をもてあましていた。今川の老臣、朝比奈平太夫と三浦右衛門佐は仲違いをし、家臣はみな三浦を憎んだ。

今川氏眞は武田信玄の甥なのだが、今川のこの様子を見て、信玄は三万五千余騎をひいきいて、駿府に押し寄せた。

氏眞は庵原左馬頭を先手とし、岡部小倉七千余騎、氏眞は二万五千余騎を率いて迎え撃とうと出陣したが、朝比奈は心変わりして引き返してしまった。他の陣の者たちも、訳の分からぬまま引き返した。氏眞の家来たちは色を失い、逃げる支度をはじめたので、清見寺の本陣は崩れて、府中に帰った。

武将たちは心変わりをし、寄せてくる敵を防ぐ義務もないと思った。

氏眞は城に籠もって討ち死にしようとしたが、三浦が、

「ここはひとまず砥城の山家に引きこもり、時期を待って軍をおこし反撃を」

というのに従って、わずか五〇騎ばかりで城を抜け出し、小原備前守、朝比奈備中守、長谷川次郎左衛門などの計らいで、掛川の城に入った。城中には、七千余騎の兵がいた。

武田方は主のいなくなった駿府城に押しかけ、館に火を放った。おりから、大風が吹いて、激しく燃え上がり、さしもの大館も一時の内に灰になってしまった。次の日その焼け跡に、歌を書いた板が立てられていた。

    甲斐も無き大僧正の官賊が

           欲にすがるのおひたふすみよ

三浦右衛門は、一朝に威を失い、戦の恐ろしさに、手も足も震え、ものの心もわきまえず、氏眞と共に城を出たのだけれども、何とも行く末が心許なく、ことのほか偏愛を受けた氏眞の恩をうち捨てて、1人で駆け落ちしてしまった。

                        続く 

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