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2008年7月31日 (木)

七夕飾り ワーキングプアー

7月31日(木)

社協で七夕飾りを作る手伝い。大勢いて、昼前に終わる。

福田さんは、内閣を改造するんだってさ。なんだかよく分からないのだけれど、改造をすると、福田さんが総理のまま、国会解散、選挙、と言うことになるのだそうだ。

今の日本、問題はいろいろあるね。アメリカ発の不景気、石油高騰に始まる物価高、年金問題、等々。マスコミは、ワーキングプアーの問題をあまりいわないのはなぜだろう。これを放っておいたら、社会が崩れちゃうほどの問題だと思うのだけれど。

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塩田平九郎怪異を見る・3

7月31日(木)

塩田平九郎怪異を見る・3(狗波利子・通算50回)

(前回までのあらすじ・織田信長に攻め落とされた播州の城からただ1人落ちのびた塩田平九郎は、出家し、西国を行脚して18年ぶりに故郷に帰った。かっての城跡近くのあばら屋で、3人の者が、謙信、信玄、北條氏康は優れていたが、その跡取りは才能がない、などと語っているのを、こっそりと聞く)

中でも武田勝頼は、武勇は優れているけれども暗君で、才能が乏しい。自らの武勇に慢心し、敵を虫けらのように思う。これは必ず滅びのもととなる。初めのうちは武力によって敵に勝つこともあるだろうが、愚かで知恵がなく、あるいは敵の策略に載せられ、あるいは驕りたかぶって、人を評価することが出来ない。おべんちゃらを言う軽薄なものを侍らせ、知恵深い家臣を遠ざける。自分の武勇を頼み、深い考えも無しに戦を仕掛けていれば、やがて味方の頼りになる者が討ち滅ぼされ、国を失うことになる。昔からこのような者は多い。

天正年中(1573-1583)奥平美作守、同じくその子、九八郎は勝頼の才能を見限り、甲府に背き、長篠に立てこもる。武田勝頼は大いに怒って、1万8選余騎を率いて押し寄せた。美作守は信長に加勢を求めたところ、織田、徳川の兵7万6選余騎が長篠に赴いた。そして、三重の柵を作って武田軍を迎え撃った。

勝頼軍1万4選余騎、先陣の山県三郎兵衛を初めとし、三重の柵に防がれ、3千丁の鉄砲の的になって討たれた。死する者1万3千余騎。しかるに敵方は、名ある武将で討たれた者はない。勝頼はただ3騎のみで逃れ、甲府に帰った。

この後は、織田徳川の両家は日の出の勢いとなり、武田方は、あちこちの砦を攻め落としても、それを守る人数もととのわず、捨て殺されるありさまである。従って、武田はそんなに長くは持たないだろうと人々は思った。事実、天目山の麓で信長に攻められ、武田の一家はみな死に絶えたことこそ哀れである。

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2008年7月30日 (水)

川越へ

7月30日(水)

川越へ

川越の紀伊国屋に行く。月に1度くらい、川越に本を買いに行く。狭山市では間に合わないのである。月刊誌1冊、新書2冊。

しかしこのところ、本が読めない。時間はあるのだが、ないのは気力。狭山で買う本を加えたところで、何冊でもない。読もうと思ってはいても、延び延びになって、結局「積ん読」になってしまう。

絵の準備

大きな木の下で、子供が二人、上を見上げている絵を描きたいと思っている。そのため、適当な木を見つけてスケッチをするなり、写真に撮るなりしておきたい。

稲荷山公園に行ってみる。写真を何枚か撮る。暑くて、スケッチなどしていられない。

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塩田平九郎怪異を見る・2

7月30日(水)

塩田平九郎怪異を見る・2(狗波利子・通算49回)

(前回のあらすじ・播州、花隈の城が織田信長によって落とされ、ただ1人生き残った塩田平九郎は、頭を丸めて西国を行脚する。出家して18年後、故郷に帰ってくる)

18年の間に故郷の様子も変わり、知っている人もいない。花隈の城の焼け跡に行って、

    かへりこむ昔をおもふ袂には

            秋ともなしに露ぞおきける

と詠んだ。夕暮れになり、野寺の鐘の音がかすかに聞こえたので、また1首。

    見るままに過ぎにしかたは入逢の

            鐘や昔の跡に聞のゆる

このようにして花隈のあたりを歩いてみると、どこもかしこも荒れ果てて、茨や茅が生い茂り、すすきの根元から聞こえる虫の声も哀れである。話を聞けるようなところもない。

草原の中に人気のない家があったので、入ってみると、軒は傾き、板戸は割れ、雨漏りの跡も多い。平九郎はうずくまって、静かに経を読み、念仏を唱えた。

月がようやく東の空にでる頃、誰かは知らないが3人の者が入ってきた。その格好は、そこらの卑しい者ではない。平九郎は壁に隠れて息を凝らしていた。その者たちは話の内容も、高尚である。

その中の1人が口を開いた。大永にの頃(1520-1525)から諸国が自己主張を初め、強い者は弱い者を従え、大国は小国を合併し、天下はすでに4分5裂している。戦の絶えることがない。

甲斐に武田信玄、北越に上杉謙信。北條、織田の家々、人数を集め、謀をする。戦国の7雄、三国の乱と言えども、今よりひどいということはあるまい。いつになったら治まることか。

また一人が言う。天下の治乱は時運の変災、天地の妖怪である。飢饉が起きたり、疫病が流行ったりするのは、皆この類である。時がきて、徳が高く行いの良い人に依って、天下は統一されるだろう。

それまでは党を結び、血を争う人が出てきても天の理にかなわなければ、やがて滅びるだろう。まことに吉凶は天の理に依るのであって、人事に依るのではない。

だから信玄、謙信、北條氏康は、みな他界し、子供はあるがいずれも父に似ていない。

                             続く

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2008年7月29日 (火)

お疲れ様の日

7月29日(火)

お疲れ様の日

今日は何もしない日である。こんな日は、ブログの題名に困る。昨日山に行ったので、その疲れが残る。だからこんな題名にした。

山のあとは洗濯物が増えるので、やむを得ず洗濯。肉、野菜がほとんどなくなったので、やむを得ず買い物。

「狗波利子」をしばらく休んだので、やむを得ず再開。

現在、午後11時。寝る前に、もう1杯飲みます。これは、やむを得ずではない。

では、お疲れ様でした。

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塩田平九郎怪異をみる 1

7月29日

塩田平九郎怪異を見る・1(狗波利子・通算48回)

   原作・浅野了意  現代語訳・ぼんくらカエル

播州(兵庫県)花隅の城主、荒木摂津守は織田信長に楯突いたので、信長は滝川左近将監にその城を攻めさせた。その戦で、野村丹後守初め、雑賀衆なども皆討ち死にし、城には火が懸けられた。

雑賀衆の塩田平九郎という者が1人だけ生き延びて、故郷に帰り、しばらくは世の移り変わりを見ていたが、この先良いことがあるとも思えず、儚い命をいたずらに生きているより、後の世を大事にしようと思い定めた。

平九郎は髪を切り、墨染めの衣を着て、家を出た。

心の赴くまま、足の向くままに、野を越え、山を越え、村里を巡った。行く先々の風俗習慣、暮らしのありさまを見聞した。名所旧跡をたずね、霊地と聞けば、行って拝んだ。

豊かな土地があるかと思えば、侘びしい土地もある。薄情な人もいれば、情け深い人もいる。土地も人も同じではない。

ある時は地理も分からぬ山に紛れ込み、樵に麓への道を尋ね、またあり時はどことも分からぬ野辺をさまよい、草を刈る者に里のありかを聞いた。行けども行けども人家のないところや、宿を貸してくれる人のいないところでは、木の下や墓地をねぐらとして夜を明かした。

九州肥後の国(熊本県)阿蘇の深谷では、地獄のありさまを目の当たりに見た。燃え昇る炎は天を焦がし、雷鳴は山をも崩すようだ。罪人の呼び叫ぶ声が谷底から聞こえる。

このありさまを見れば、悔い改めずにいることはできない。すでに世を捨てている身であるから、深く感じるのである。ますます志を深くして、鹿児島に至り、俊寛が流された硫黄島に渡った。俊寛の哀れな物語を、いま目の前に見るように思われた。

浦では海女が日暮れまで千尋の海に漂い、釣り船は棹をさす。塩田では海水を運び、柴を焚き、塩を焼く煙が心細い。磯では、海草を拾い藻を掻き集める。どこにいても生きていくのは楽ではない。

その後四国をめぐり、ようやく播磨の姫路を経て、故郷に帰った。平九郎が家を出てから、18年にたっていた。

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会津駒ヶ岳

7月27日・28日

会津駒ヶ岳に登ってきました。

同行7名。7名では少し贅沢なマイクロバス利用。

27日

檜枝岐温泉の民宿泊まり。どうやら、料理自慢の民宿のようでした。夕食には、食べきれないほどの料理が並べられました。中でも多かったのはイワナ。イワナの塩焼き、イワナの刺身などがあり、朝食にはイワナの甘露煮が出ました。Photo

民宿に入る前に、ミニ尾瀬公園に寄りました。尾瀬の高山植物を見られるということでしたが、入場してすぐに雨が降り出し、慌てて帰る始末でした。高山植物ではないけれど、アジサイが美しいと思いました。

宿に着いてからは、激しい雨に足止めされて、公衆浴場には行けませんでした。

28日

6時、朝食。すぐ出発。昨日の雨は夜中に止み、快晴とは言えないが、まあまあの天気。マイクロバスで、登山口まで送ってもらう。

コース

会津駒ヶ岳登山口~水場~駒の小屋~中門岳~駒ヶ岳山頂~水場~登山口

先導はHさん。

登山口からいきなり急登。先が長いので、ゆっくり登る。小刻みに休みながら進む。水戸からきたという10名くらいのグループとあとになったり先になったりしながら登る。

水場を過ぎると傾斜はいくらか緩くなり、駒の小屋の少し手前から木道が始まる。そして駒の小屋。

この辺りから池塘が始まるのですが、ガスがかかり始めて、残念ながらすかっとした風景にはなりません。

Photo_2この写真を撮ったときは、まだ条件Photo_3 の良い方です。  

ガスはだんだん深くなり、近づいてくる人の姿などは幻想的に浮かんでくきます。その反 面、花の表情はピリッとしませPhoto_6 ん。写真は、ワタスゲ とチングルマ。Photo_5

駒の小屋から、先に中門岳に行き、駒ヶ岳山頂は帰路に登りました。

中門岳と会津駒の間にはまだ雪渓が残っていて、木道が雪に隠れているところが2ヶ所ほどありました。

のんびりしたペースで、落伍者なく、全員が登れたので良かった。惜しむらくは天気。まあ、雨が降らなかったのだから、贅沢は言えませんが・・・。

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2008年7月26日 (土)

S祭り

7月26日(土)

S祭り

狭山市じゅう、あちこちで夏祭りをやっている。狭山台地区夏祭り。富士見地区夏祭り。沢地区夏祭り。鵜の木地区夏まつり、and so on と言ったところだ。

それにしても「S祭り」とは変な題です。特養老人ホームSを略しただけですけどね。午後2時半から7時まで、利用者が多いので2部に分けて行いました。そのボランティア。

庭や廊下の模擬店で、焼き鳥店、たこ焼き店、などをだし、ホールで太鼓や踊りを演じていました。

スタッフの中には、東南アジア系の人が何人かいますが、なかなか良くやっていると思います。日本語も、かなり分かります。元来、この人達は頭が良いのです。

介護職員の給料の安さは広く知られてきましたが、東南アジアの人なら安く使えるという理由で働かせる、と言うのでは、この先が思いやられます。

介護職員の待遇を良くすること、そして、東南アジアの人を雇用する場合は、日本人とおなじ待遇にすることが必要でしょう。

ブログを休む

明日、明後日の2日間、ブログを休みます。会津駒ヶ岳に登ってきます。

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2008年7月25日 (金)

絵の会

7月25日(金)

絵の会Photo

なんて暑いんだろう。F公民館での水彩画の会。始まるのが1時半。画材を持って、公民館に行くのが、暑いの何のって話しにならない。

例によって、我が道を行く「絵」を描く。我々のグループで、私だけが写実ではないのだ。Photo_2

私は下手な絵をシコシコと手で描いて、それをデジカメにとって、ブログに載せているのです。絵をどの位置に載せるかも、まだ思うにまかせません。

パソコンの上手な人は、お絵かき自由、色もかたちも思うままなんですね。羨ましい。

狗波利子は、これから第6巻になりますが、2~3日は下読みのため休みです。

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2008年7月24日 (木)

俳句大会準備・他

7月25日(木)

俳句大会準備

つばさ俳句会は8月に、夏季俳句大会を行います。すでに投句はすんでいますが、俳句原稿、投句用紙の印刷発送などをしました。

今回は現代俳句協会賞や角川俳句賞を受賞された原雅子先生の講演もあります。原先生はじめ、「犀」代表桑原三郎先生、「つばさ」代表今坂隆二先生とのパーティも用意されています。

8月17日10時より狭山市社会福祉会館で開催します。気が向いたかたはご参加下さい。

ボラグループ定例会

我々のようなグループでボランティアをしようという人は少なくなっている。昨日のK福祉会の交流会でも話題になったが、今日もその話題が出た。

ボランティアをする人が少なくなっている訳ではないと私は思う。むしろ今の若い人は、学生時代からボランティアに馴染んでいる人も多い。我々のように、仕事をやめてから、と言うのではない。ただし、漠然と「ボランティア募集」などと言っても、人が集まらなくなっているのは事実である。

若い人は、自分が主体になってやるボランティアなら得意なようだ。しかし、おしめたたみを手伝ってくれなどと言われても、人は寄ってこない。

社協に属するどのボランティアグループも、高齢化が進んでいる。我々は歳をとるだけである。若い人の力が必要なのだが、どうやってそれを確保するか、施設にとったも、我々のようなグループにとっても、課題である。

高齢化したグループは自然に活動力が失われるわけで、代わりに新しいグループが生まれ、バトンタッチしていけるというのであればいいのだが、どうも、そう上手くは運ばない。歌や踊りを見せてくれるグループは多いが、そのために利用者の車椅子を押して会場につれてくる、そんな土台になるようなボランティアが不足している。

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杉谷源次・附・男色の弁・2

7月24日(木)

杉谷源次・附・男色の弁・2(狗波利子・通算47回)

(前回のあらすじ・伊勢の国司に奉公する深見喜平は、奥方の小姓杉谷源次を殺し、自分も腹を切る。二人を埋めた墓から人魂がでるので、国司は僧に弔ってもらう。国司はその僧に男色について尋ねる。)

僧の話しは続く。

古代中国の周の穆王は慈童を愛した。漢の高祖は籍孺を愛し、恵帝は公孺に執心し、哀帝は薫賢、衛の彌子は鄧通をそれぞれ可愛がった。皆男色に迷ったのである。

史記には佞幸の伝がある。太平通載には権幸の編がある。晋書には、西晋の武帝威寧太康の年より、男色の気風が興り女色よりも甚だしかったことが記されている。あるいは夫婦別離にいたり、恨みごとが多かったという。

昔から佞幸のともがら、終わりは悪いものである。財をもって交わるものは、財がつきれば交わりは絶える。色を持って交わるものは、花が落ちれば去っていく。人はいつまでも若くはない。歳をとることは、たとえば水が流れるようなものだ。過ぎ去ったものは帰らない。たとえ美しき雅な姿といえども、それほど時を待たずに衰えてしまう。朝顔が日陰を待つようなものだ。これはもう、人間の落とし穴のようなものだ。

宋の時代になって、学問を重んじるようになり、男色は少し衰えた。

日本では、眞雅僧正が業平に恋し「常磐の山のいわつつじいわねばこそあれ」と詠んだ。中古に瓜生判官の弟義鑑房が金崎にて討ち死にし、鱗岳和尚が田野で討ち死にした。皆男色の迷いからである。

このごろの男色をするものは、自分の内ももや腕をを傷つけて、思いが本気であることを相手に伝えようとする。古い歌にもある。

   思うこころ色にはみえず身を刺して

           朱の千入(ちしお)を君それとしれ

こんな歌を詠み、詩を作って、愛に惑う。

文でもなく武でもなく、非道の色に身をすて命を失うもの、女色よりも甚だしい。忠を忘れ、徳をけがし、家を廃らせ身を滅ぼすばかりである。

男色は、僧俗にわたりこのようなもの。慎むべきです。と、僧は話した。

                         終わり。

狗波利子第5巻の終わり。

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2008年7月23日 (水)

K福祉会交流会

7月25日(木)

K福祉会交流会

K福祉会のスタッフ、家族会、ボランティアの交流会。特に、K福祉会とボランティアの係わり方について、活発な意見あり。また、ボランティアの募集方法についてなど、意見を交換する。

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杉谷源次・附・男色之弁

7月23日(水)

杉谷源次・附・男色の弁(狗波利子・通算46回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

文禄3年(1594年)のことだったろうか。

伊勢の国司の家に、深見喜平という才覚のある気の利いた侍がいた。良く奉公をして、外に屋敷を持つことを許され、奥方を持つまでになった。

奥方の使う小姓に、杉谷源次という見目美しい者がいた。喜平は心をひかれ、あれこれと気を惹いてみるが、いっこうに色よい返事をしない。そこで恋文を書き、源次のたもとに入れた。

    伊勢の海あら磯によるうきみるの

             うきながらみるはみぬにまされり

という歌と共に、行く末までも契ろうではないか、このことは決して人に漏らすな、と書いておいた。

源次はどう思ったのか、そのことを同僚に漏らしてしまった。そのため家中の噂になり、喜平は恥ずかしいこと限りがなかった。返事をくれないだけならばまだしも、人に漏らすとは何事か。人を馬鹿にしている。このままでは見苦しいことになるばかりだ、と憤慨した。

喜平は、源次が朝早く目覚めて寝床から出てきたところを捉えて、あっさりと斬り殺してしまった。そして自分も腹を切って死んだ。

人々は、二人を共に墓に埋めたところ、夜な夜な人魂がでるようになった。

国司はことの次第を知り、憎いけれども、そんなに執心が深かったのかと気の毒にも思った。それで僧を頼み、墓の前で経を読んでもらったところ、人魂は出なくなった。

国司はいたく感心し、その僧を呼んで、仏法の話を聞いた。そして男色などについて書かれているような経はあるかと尋ねた。

僧は次のように答えた。

お経の中には男色について直接説いたものはない。邪淫戒のうちに、非道淫戒があり、その中にはいるだろう。

                         続く

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2008年7月22日 (火)

仕事の張り合い

7月22日(火)

仕事の張り合い

今年の労働白書に依れば、労働者が仕事に張り合いを失っているのだそうだ。1975年には「雇用の安定」に満足していた人が33%、2005年は14.8%。「仕事にやりがい」があると答えた人が、1975年は30.5%、2005年は16.6%。

そうだろうな。2008年なら、もっと少なくなっているだろう。正規の社員が減り、パートやフリーター、ワーキングプアーなどと言われる人が増えているのだ。いつ辞めさせられるか分からない状態で、安くこき使われたら、仕事にやりがいなんてでるわけがない。企業はコストが安くなって良いかも知れないが、こんな状態が続けば、技術の継承なんて出来るはずがない。

かっての日本は、小さな町工場の職人が、誇りを持って高度な仕事をしていた。今は。町工場は大企業に叩かれて、技術者は育たない。大企業は儲かっているようでも、長い目で見るならば、自分の首を絞めていることにならないか。

好景気が続いているなどと言われていたが、一般の人はむしろ苦しくなる生活の中で、その好景気も終わろうとしている。不景気になると、企業だけが困るのなら良いが、好景気のおこぼれにも預かれなかった人のところに、まず、苦しみがやってくるのだ。

ところで福田さんは、サミット以外に何をやったんですかね。ワーキングプアーなんて、放って置いていい問題とは違うよ。

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毛虫祟りをなす・3

7月22日(火)

毛虫祟りをなす・3(狗波利子・通算45回)

(前回までのあらすじ・山城の里の少年孫四郎に恋をした学道僧宥快は、恋文を送ったり、孫四郎の家の近くをうろついたりした。孫四郎の親は怒って、二人を近づけないようにする。宥快は落胆し、絶食をして死のうとする。宥快の同僚が、学道に励むように諭すが聞き入れない。)

それから7日、宥快は餓死した。同僚の僧は集まって、野辺の送りをし、荼毘に付した。

その夜、孫四郎は夢うつつのうちに、宥快が寝所に入ってくるように感じた。

その日から、孫四郎は病気になった。時々は高熱を出し、医者を頼んでも、悪くなるばかりであった。日ごとに衰え、ついに亡くなってしまった。孫四郎が亡くなるまさにその時、天井から、

「孫四郎どの、いざ、いざ」

と宥快の声がした。

期待していた子供に先立たれ、父母の深い嘆きの中、葬儀が行われた。

死後35日、五月の初めごろ(現在の6月ごろ)だが、家の柱、天井など、いたるところに毛虫がわき出した。五月雨(梅雨のことです)が続くので、腐った木や竹からわき出たのかと思ったが、そうではなくて、この家にだけわき出るのである。拾い集め、履き集めて堀や川に捨てたが、捨てても捨てても、幾らでも湧いてくる。しかも、毛虫に触るとかぶれてしまう。

やがて毛虫は蝶になる。群がり飛んで、人の顔にとまり、着るものにまといつく。夜には灯火にたかって灯りをけし、食事中には食い物に転がり落ちる。

さすがにただごとではない。宥快の亡魂がなすわざと考えられた。元興寺に知らせ、同学の僧に頼んで弔わせた。同学の僧は、祭文を作り、懇ろに仏事を行った。加持をして弔ったところ、2.3日後には毛虫がいなくなった。亡魂も浮かばれたのであろう。

                          終わり

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2008年7月21日 (月)

無為の日

7月21日(月)

無為の日

今日は「海の日」なのだそうです。「海の日」だから、「無為の日」なんて言うタイトルを思いついちゃった。

ところで「海の日」って何?

「空の日」とか「陸の日」なんてないんですね。

今日は無為の日だから、やったことは散歩と買い物くらい。

暑い間は散歩をする気力もないのだが、狭山市近辺は曇っていて、いつもほど暑くなかった。散歩と言っても、行くところはいくつかのパターンがあって、今日は入間川河川敷。いつも似たようなところをスケッチする。

Mizutani10009 Mizutani10010

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毛虫祟りをなす・2

7月21日(月)

毛虫祟りをなす・2(狗波利子・通算44回)

(前回のあらすじ・山城の里に孫四郎という少年がいた。まだ12歳だが、学を好み、大人びて容貌は衆に優れていた。宥快という僧が孫四郎に心を奪われ、手紙を送ったり、その家のまわりをうろついたりしていた)

孫四郎の親はその様子を知って腹を立てた。

「憎い坊主だ。年端もいかぬ孫四郎をそそのかし、恋文を送ったりするとは何事だ。大人になったら大名、高家へ仕官させ、その才覚で立身出世して、衰えたわが家を立て直す子供だ。寺の小僧になって、やがて乞食坊主になるような腰抜けの若僧ではない。孫四郎は外に出すな。その坊主が家の近くに来たら追い払え」

とののしった。

これを聞いて、宥快に心を動かされている孫四郎は悲しんだ。親の言いつけを守れば、鳥や獣と同じように、情け知らずになってしまう、と嘆いた。

     いかにせんあまのを船のいかり縄

            うき人のためつながるる身を

1人思い嘆いてこのような歌を詠んだ。その様子を聞いて、宥快は、

     あまのたく藻塩の煙あじきなく

            心ひとつに身をこがすらん

と詠む。ままならぬ世の中だ。生きていても物憂く辛いことばかりだ。恋いこがれて生きているより、死んだ方がましだと思い定めて、寺の房に引きこもり、断食をしていた。

同学の僧が心配をして、戸を叩いたが、しばらくは返事もしない。やがてあらあらしく障子を開けたその姿を見ると、やつれて、目はくぼみ、白目は血走っている。髪の毛はわずかの間に白髪になり、痩せて骨と筋ばかりが目立つ。

同学の僧は、諭して言った。

「何というありさまです。1人の少年にそんなに執心するとは・・・。人間は、それでなくても生死の迷いが深いもの。聖賢と言われるような人たちでさえ、一心に修行して、得度してきたのです。多くの修行者は、あるいは山に籠もり、あるいは諸国を行脚し、妄念を去り、煩悩を捨て、まことの行いをしようとしている。菩提を求め、功徳を積んでこそ、輪廻を離れ解脱するというのに、あなたは何ですか。大事の未来を忘れ、浮き世の恋に思い沈んでいる。そんなことでは魔道に落ちてしまう。人間に生まれたかいもなく、地獄道、餓鬼道などをさまようようになってから悔いても遅い。狂気を去って、正しい道に帰るのは今だ。このままでは、血の池、針の山に行くのも近いぞ」

宥快は同学の僧の言葉に感謝しながらも、

「私の思いは前世の業によるものだろう。百回、千回思い返してみても、どうにもならないのです。私も、もうこの世には久しくないでしょう。重ねて輪廻を受けること、死後に針の山に登ることも、もはや避けられない。私はまもなく死にます。同学の僧として志があるならば、跡を弔ってください。今はもう、お帰り下さい」

と障子を閉めた。同学の僧は、やむを得ず帰った。

                             続く

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2008年7月20日 (日)

いろいろ

7月20日(日)

いろいろ(ぼんくら日記)

次女夫婦がN市に家を建て始めた。まだ基礎のコンクリートの上に、土台となる角材を組んだだけであるが、次女夫婦と共にそれを見に行く。駅から歩いていけるのがよい。夫婦で働いているから何とかなるのだろうが、これからしばらく、ローンなどで大変な思いをするのだろう。完成は11月の予定。

その後、我が家に来てもらう。近ごろパソコンのメールの調子がおかしくて、それを見てもらう。だらしがないけれど、自分では解決できないのである。ウイルスの検索機能に異常があることは、私にも分かっていた。ウイルス検索が利かない状態にすると、メールの送受信が出来たのである。しかしそれでは危険だから、ブログに、どこが悪いかは○秘などと書いた。しかし、解決方法が分からなかった。

次女とその連れ合いは、パソコンの前で、どうぞ、どうぞなどと言い合って、お互いに相手にやらせようとする。結局人の良い連れ合いの方がパソコンに向かい、次女は高みの見物だ。それをまた、私が見ているというわけだ。

やがて原因が分かり、めでたく解決。

先日ハイキングに行った、秩父札所、江戸巡礼古道のわきの宗福寺のカエルです。 13

  こんな蛙たちもいました。写真が下手なので見にくいと思いますが。このほかにも、多くの蛙がいる、蛙の寺でした。    5   12                                                                                                                                                                    

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毛虫祟りをなす

7月20日(日)

毛虫祟りをなす(狗波利子・通算43回)

   原作・浅野了意  現代語訳・ぼんくらカエル

元和年中(1615-1624年)だったろうか。西国の侍、柳岡甚五郎某という者、大友氏の中で、羽振りを利かしていた。しかし、戦で怪我をし、体は自由にならず、苦しみ、困って、山城の里に住んでいた。

孫四郎という子供があり、まだ12歳だったけれども、大人びていて、同じ年頃の子供と一緒に遊ぶようなことはなかった。もの静かで、字を書き、書を読むことを好んだ。さらに、下品なところは少しもなかった。

彼を知る人たちは、皆、すごい少年だと褒めそやしていた。しかも姿形は麗しく、衆に優れていた。長ずれば、身を立て、家を興すであろうと、親は期待していた。

元興寺の僧、宥快と言う法師、京に登る途中で山城の知人を訪ねたところ、ひとめ孫四郎を見て、心を奪われてしまった。京に上ることも忘れ、つてを求めて手紙を送った。

  江南柳窕緑 江南の柳たおやかにして緑なり

  尚愛枝葉陰 なお哀れむ枝葉の陰を

  頻莅黄鶯翼 しきりにのぞむ黄鶯の翼    

  暫堪待春深 しばらく堪えて春の深きを待つ

    葉をわかみまだふしなれぬくれ竹の

           このよをまつは程ぞ久しき

このような手紙をもらい、孫四郎は宥快の思いを感ずるものの、返事の書きようも知らず、手紙を懐に隠したまま、

    おなじ世にいきて待とは聞きながら

           こころづくしのほどぞはるけき

と詠った。

宥快はこの歌を伝え聞き、学道修行は忘れて、寺を出て山城の里に通いつめ、人の目も気にせず、辺りを忍び歩いた。

                      続く

    

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2008年7月19日 (土)

うなぎ

7月19日(土)

核兵器(ぼんくら日記)

   蟻地獄核兵器こそ腐れ縁   ぼんくらカエル

などという句を出す。戦争や核兵器に関する歌や俳句は腐るほどあるから、私の力では、新味など出せない。だから、破れかぶれで正面から書いてみた。たまには、「戦争だけはもういやだ」とか、真っ正面から言ってみたくなる。ろくな句ではないと思うが、3点くらい入った。

蟻地獄と腐れ縁が付き過ぎとの評があった。私も、書いたときからそう思った。だけど、違う表現は出来ないな。

いつも思う。人類にとって核兵器は不要である。しかし、国単位で考えるとき、戦争の抑止力として必要だ、などという。何を言ってるんだろうね。人類に害しかない物を持って、他国を脅している。強もてをしているわけだ。ヤーさんと同じですね。

ウナギ(ぼんくら日記2)

私はウナギが好きである。しかし蒲焼きなどはめったに食えない。二月に一度くらい、スーパーでもっとも安いウナギを買う。もちろん中国産だ。

そのウナギだって、1ッ匹を1食で食べたりはしない。買ってきたウナギの蒲焼きを1口大に切り、小さな鍋に入れ、ひたひたに水を加える。そこにたれも入れてウナギを煮る。湧いてきたら溶き卵を入れて火を止める。これをどんぶりにかけて食べる。親子どんぶりの要領ですね。最低でも、ウナギ1ッ匹で2食分は作る。この作り方、なかなかおいしいよ。食べるとき、パセリを細かく切って、パラパラと懸けたりするのが好きだ。

こんな食べ方でも、私はなんだか贅沢をしたような気分になる。今日は贅沢をしました。

ウナギと言えば、近ごろ偽装事件がありました。私は日本産なんて買ったことがないから、私には関係ないけどね。

漁業関係者が、石油の高騰で採算が取れず困っている。消費者が安いものばかり買うのがいけないなどという人がある。私だって買えるものなら、高いのを買いたいよ。でも、そんなことをしていたら、すぐに破産だ。

好景気が続いたと政府やマスコミは言うけれど、大企業だけ儲かって、サラリーマンの手取りは減っているのだ。ワーキングプアだって増えている。庶民を貧しくして、何の景気だ。安物しか買えない人が大勢いることを忘れなさんな。

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掃部新五郎遁世捨身・2

7月19日(土)

掃部新五郎遁世捨身・2(狗波利子・通算42)

(前回のあらすじ・上杉憲政の家臣掃部新五郎は徳之丞と言う14歳の田舎の少年に恋をし、わりない仲になった。徳之丞は17歳の時、重い病のかかる)

親や親族は、何とも出来ずにただ手をこまねいていた。

そんな中で、徳之丞はむっくりと起き上がり、新五郎の手を取り、

    すゑの露浅茅がもとを思ひやる

            我身ひとつの秋の村雨

と詠んで息絶えた。新五郎は悲しく哀れに心迷い、同じになりたいと願ったが、その甲斐もない。野辺の送りを行い、徳之丞の亡骸を苔の下に埋めて墓の主とした。そして自らは、墓の前で髪を切り、家にも帰らず、そのまま遁世した。

     のがれてもしばし命のつれなくば

            恋しかるべきけふの暮れかな

と詠み、足にまかせて立ち去った。

その後新五郎は、西国に行き、霊仏霊社を拝みつくし、次の年の4月ごろ故郷に帰り、人知れず徳之丞の墓に立ち寄った。草はぼうぼうとして、露のみが溢れていた。哀れ昔を思い、面影は忘れられない。

新五郎が涙ながらに念仏をすると、墓の向こうに徳之丞が現れて、影のごとくしょうしょうと立った。新五郎が近づくと、かき消すように姿を消した。

心を静めて経を読み、跡を弔い、泣く泣く立ち去った。東国の方に行ったが、世の中はいっこうに静かにならない。行く末も見えた。この先長らえても何ほどのことがあろうかと思い、松の枝に、

    露の身のおき所こそなかりけれ

              野にも山にも秋風ぞふく

と言う歌を結びつけ、傍らの、あなしの池という池に身を投げて死んでしまったのこそ哀れである。

たまたま知る人があって、死体を水から取り上げ、徳之丞の墓の前に埋めたということだ。

                         終わり

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2008年7月18日 (金)

カーテンの間仕切り

7月18日(金)

特養Sへ。

カーテンの間仕切り(ぼんくら日記)

貧乏人は、いろいろと物入りである。2台ある扇風機が壊れて、やむを得ず1台買う。

クーラーの効きが悪いのだが、こちらはおいそれと買うことも出来ない。 

私は家にいる大部分の時間を、居間兼食堂で過ごしている。元来は居間と食堂は仕切られていて別の部屋だったのだが、部屋が狭いと息苦しいので、間の襖を取り外し、13畳半の1部屋として使っている。襖はとうの昔に捨てた。

その襖のあった位置に、カーテンを吊すことにした。ケイヨーデイツーでカーテンレールとフックを買ってきて、鴨居に取り付ける。カーテンは昔使っていた物があるので、それを使う。カーテンならば、クーラーを使わないときはあけはなっておくので、それほど息苦しさもないだろう。

これで、居間の方だけならクーラーも効くはずである。居間は寝室でもあるから、夜も涼しく寝られる。昨夜は、暑苦しさで何度も目が覚めましたからね。

風のあるときは、窓を開けて網戸にしておけば、畳の上の紙など吹き飛ばされるほど風が入る部屋だけれど、風のない熱帯夜なんて、たまらないのです。昼間は我慢できても、問題は夜です。

パソコンはデスクトップで、部屋が違う。こちらの方は扇風機ですね。マウスもキーボードも、今は少しべとついています。

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掃部新五郎遁世捨身

7月18日(金)

掃部新五郎遁世捨身(狗波利子・通算41回)

   原作・浅井了意  現代語訳(誤訳)ぼんくらカエル

上杉憲政の家人、掃部新五郎は美しい字を書き、和歌が巧みで、自然や人の風情を深く感じる武士である。特に色好みということもないが、心にかなう人があれば、思い思われて、後の世までも連れ添いたいと思っていた。しかし、妻も定まらぬ中に、月日を送っていた。

久我の住人、名草の徳太夫という気だての優しい者がいた。その子徳之丞は14歳で、田舎の子ではあるが、見目麗しく情けがあり、立ち居振る舞いも上品であった。

新五郎はこの子を見染め、つてを求めて近づき、さまざまなことを教えた。四書五経なども教えたので、父の徳太夫も大切な客と思って、身内のように接した。

そうこうしているうちに、徳之上と新五郎は、恋人になって、月日がたった。3月、家の軒下に忍という草が生えてきたのを見て、新五郎が歌を詠んだ。

    ことの葉に出でてはいわじ軒におふる

              忍ばかりは草の名もうし

徳之丞の返歌

    我もかく人も忍びていはぬまの

              つもる月日をなどかこつらん

    ことの葉の末の松山いかならん

              波のしたにも我は頼まん

遠く語らい、深く契りて、徳之丞ははや17歳になった。4月の初めから病気になり、さまざまな治療をしたが、少しも良くならない。

新五郎も気をもんで、神仏に願をかけたけれども、何の効き目もない。もはや手を施すことも出来ず、時を待つより仕方がない。

                      続く

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2008年7月17日 (木)

秩父・江戸巡礼古道・2

7月17日(水)

秩父・江戸巡礼古道・2(ぼんくら日記)

私は今、浅井了意の「狗波利子」の現代語訳と、「ぼんくら日記」の2本立てでブログを書いている。昨日は秩父札所の江戸巡礼古道をハイキングし、反省会(?)もやって、ブログを書き始めたときは、かなり疲れていた。

たいてい「狗波利子」の方を先に書いてから「ぼんくら日記」を書くのだが、「狗波利子」を書いているうちに睡魔に襲われた。「男郎花」という話しで、1日で終わる程度の長さだったのだが、2回に分けることにして、半分で切り上げた。

さて、「ぼんくら日記」という段になって、何とも眠くて、気がつくとキーボードに手を置いたまま居眠りをしている始末だった。それで、こちらの方も、そうそうに切り上げてしまった。

さて問題の「江戸巡礼古道」。昨日の続きです。

同行した人、尋ねた寺、山道と舗装道路が混ざった道であったことは昨日書いた。とすれば、あとは道中の話しなのだが、昨日のうちに書かなかったため、自分では気の抜けたような所もある。

札所ではないが、まず初めに尋ねたのが宗福寺で、これはカエルの寺であった。境内にある石像がほとんどカエルで、カエルの6地蔵などもいる。ぼんくらカエルとしてはヨロコビカエル気持ちで、デングリカエル所だが、ヒックリカエルこともなく、暑い中でショゲカエルこともせず、幾つか写真を撮って、ソックリカエル様な心持ちであった。ああ無理しちゃった。カエルが鳴くから、普通の書き方にカエル。

ここの住職はおもしろい人で、我々を呼び止めて鈴をくれたり、孫の出産を控えたAさんにお守りをくれたりする。となれば私たちも、お賽銭くらいは上げてお参りをすることになる。

現在まだ、パソコントラブルがあって、カエルの写真を載せられないのが残念。誰ですか、そんな写真見たくもないというのは。

宗福寺をでてからは、途中何というお話もなく、酒造りの森に至りました。というような表現は、落語や講談の語り口になる。本当はなんやかやあったのですが、面倒なのでカットです。これがぼんくらカエルの語り口。

酒造りの森は秩父銘酒「秩父錦」の建物(資料館はあったがそちらには入らなかった、何という名前の建物だったか思い出せない。「展示室」かなあ)に入った。ここで私は3種類の秩父ワインを試飲。しかしワインは買わず、秩父錦の「純米酒」と「吟醸酒」の小瓶を買う。これからまだ歩くのだから、大瓶ではリュックが重くなる。

山道は、普通の登山道ほども人が通っていないように思える。道の荒れているところが多く、蜘蛛の巣などはいたるところにかかっていた。今回はおおむね私が先頭だったので、小枝で蜘蛛の巣を払いながら歩いた。それでも時々、顔や手足に蜘蛛の糸がかかる。

それにしても、何という蒸し暑さだったろうか。ふいてもふいても汗が出る。みんなの吹き出した汗を溜めてプールに注ぎ、そこに飛び込んだら溺れるほどの量になる・・・訳はないけれど、そんな冗談も言ってみたくなります。

さて巡礼古道を歩き終えて、秩父線浦山口駅に向かう。Hさんが浦山口から歩いてきた人に道を聞いてくれたおかげで、迷わず駅に着くことが出来た。私の方向感覚はまるで逆だったから、おかげで助かりました。

HさんKさんと3人で反省会。Aさんは都合で帰る。

以上、昨日の報告でした。

今日は・・・まあいいでしょう。いや、これだけは書いておきましょう。昨日買ったお酒、吟醸酒の方を飲んでみました。おいしいです。純米酒の方は、明日飲みます。

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男郎花・2

7月17日(木)

男郎花・2(狗波利子・通算40回)

(前回のあらすじ・越前の国朝倉家の小姓、小石弥三郎は見目かたち優れ、気だても良くて、同僚から可愛がられていた。足軽大将・州河藤蔵は弥三郎に恋文を送る)

神に懸け、命に懸けて送った恋文の誘われ、弥三郎はその夜、藤蔵と忍び会った。千年の思いを夜通し語り合い、名残の尽きぬまま、きぬぎぬの別れをした。

藤蔵の歌

     ほどもなく身にあまりぬる心地して

           おき所なき今朝の別れじ

弥三郎の返歌

     別れゆく心の底をくらべばや 

           帰るたもとととまる枕と

またいつという約束もせずに別れた。ことさら今のような物騒な世の中なので、今日は無事でも明日のことは計り知れない。今朝の別れが永遠の別れにも成りかねない。互いに涙しながらの別れであった。

まさに、次の日に戦があった。朝倉義影は軍を出して、臼井峠に向かわせた。武田方と戦ううち、州河藤蔵は討ち死にした。

弥三郎は大いに悲しみ、もはや生きる望みはないと、軍法を破り、旗本からただ一騎ぬけだし、駆けつけて討ち死にをした。

二人の屍は味方に取り返し、二人の中を知る人々によって、同じ墓の中に埋られた。

やがてその墓から、名も知らぬ草が生えてきて、夏には花が咲いた。男郎花と言って、大変珍しい花である。さだめし弥三郎と藤蔵の魂のしるしに違いない。

二人の中を知る人は、その根を分けて庭に植えたので、今はその草が多くなった。

                          終わり    

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2008年7月16日 (水)

秩父・江戸巡礼古道

7月16日(水)

秩父・江戸巡礼古道(ぼんくら日記)

Kさん、Aさん、Hさんと、江戸巡礼古道のハイキング。いかにも江戸時代の道と思わせるような草に覆われた山道や、ぬかるみ、竹藪の中の道などがあるが、舗装道路に出て、長々と歩かされるところもある。

札所19番から25番まで、約11キロを歩く。

コース

宗伏寺~19番龍石寺~20番岩の上堂~21番観音寺~22番童子童跡堂あと~13地蔵~音楽寺~酒作りの森(見学)~24番法泉寺~25番久昌寺。

本日、睡魔激しく、続きは明日。

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男郎花

7月16日(水)

男郎花(狗波利子・通算39回)

越後の国朝倉家の小姓、小石弥三郎は顔かたち世に優れ、知恵深く、物静かで、情け深い愛らしい人であった。そのために、仲間は皆可愛い人と思っていた。

足軽大将、州河藤蔵は武勇に優れた者であったが、弥三郎を思う心は強かった。

   身にあまりおき所なき心地して

        やるかたしらぬわが思いかな

ただむなしくあこがれ、何ともしようがなく、つてを頼って手紙を送った。

    蘆垣の間近き中に君はあれど

               忍心やへてなる成らん

思いが絶えれば、死ぬほどであると書いて送った。

弥三郎はこれを読んで、限りなく心にしみ、哀れの思えて返事の奥に、

   人のためひとめしのぶも苦しきや

            身一つならぬ身をいかにせん

と書き付ければ、藤蔵はいよいよ心乱れて、

   いかにせん恋は果てなき陸奥の

           忍ばかりにあわでやみなば

   もらさじとつつむ袂の移り香を

           しばし我が身に残すともがな

                      続く

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2008年7月15日 (火)

トラブルいろいろ

7月15日(火)

(ぼんくら日記)

精障者作業所Mへ。精障者作業所Kに頼まれて、木材のカットなどの作業をする。

トラブルいろいろ(ぼんくら日記)

今、パソコンのメールの送受信、非常にしにくい状態になっている。全く出来ないというのではないけれど、このままほおっておけない状態である。その内容については、○秘。

デジカメを無くして見つからないので、とうとうまた買ってしまった。無くてすむものではあるけれど、無ければ不便というものではある。

ゴアテックスのレインコートを買う。大分前から、水が漏るのではないかと疑問に思っていた。試しに風呂場に吊して、シャワーを懸けてみて、漏ると確認。

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常田合戦甲州軍兵幽霊・4

7月15日(火)

常田合戦甲州軍兵幽霊・4(狗波利子・通算38回)

(前回までのあらすじ・上求寺の住職頼胤は大変な名僧である。武田信玄は深く帰依し、戦の前には必ず祈祷をした。地蔵峠の戦では、武田軍、上杉軍双方に多大の犠牲者が出た。戦のあった夜、双方の軍兵が上求寺に押し入りその庭で入り乱れて戦った)

武田の館の留守居役、典廐信繁、穴山伊豆守手の郎党、同心、被官など300人、太刀や長刀をもち、馬を引き連れて、闇夜のくらい中を上求寺に駆けつけた。門の内では、激しい戦の音がする。門をこじ開けて、松明を灯し庭に入ってみると、1000人くらいの者が戦っていたと思われるのに、雪や霜が消えるように、一同皆消え失せて、ただ、松風の音ばかりである。

頼胤阿闍梨は、あまりの不思議さに、寺の戸を開き、典廐や穴山に会い、ことの始終を物語った。

話の内容は、ただごとではないと思われた。典厩たちは、味方が負けたのかも知れないと思った。拳をにぎり、肝をひやし、館に帰って、これからの戦い方などを、夜もすがら語り合った。

明け方に飛脚が到来し、館はやっと静まった。

討たれた敵も味方も、怒り、高慢、業因にひかれ、こんな苦しみを受けるのであろう。この世の掟に従って生きる迷いのありさまは、まことに悲しいものである。

やがて信玄が帰陣し、敵味方の討たれた者のために、上求寺において仏事を営んだ。僧衆を供養し、7日間経を読み、跡を弔ったので、その後は幽霊のでるようなことはなかった。

                   終わり

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2008年7月14日 (月)

メールトラブル

7月14日(月)

メールトラブル(ぼんくら日記)

昨日の山行で、足が重い中、精障者作業所みちくさへ。

メールが送れなくなった。いろいろ調べるが、原因は分からず

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常田合戦甲州軍幽霊・3

7月14日(月)

常田合戦甲州軍幽霊・3(狗波利子通算・37)

(前回までのあらすじ・甲州恵林寺の奥にある上求寺の住職・頼胤は大変な高僧である。国主信玄は、深く帰依して、戦の前には必ず祈祷をする。地蔵峠で上杉方と戦い、相手方は去ったが、味方も多くの痛手を受けた。上求寺で祈祷したときに、不吉なことがあったっが、住職は誰にも告げなかった)

26日の亥の刻(夜中の10時頃)鎧武者が300騎ばかり、上求寺の門を開いて駈け入った。戦死したはずの小山田古備中の声がして、兵たちに指図をしている。

寺にいた法師達は、驚き慌てて、縁の下や天井裏に隠れた。

頼胤は少しも慌てず、窓から外を見ていた。300騎ばかりが並んでいるところに、6.7百騎が入ってきた。それらが庭の中であい争い、撃ちあい、引き倒しあった。鉾より出る火は、沢辺の風に咲き乱れる蛍よりも輝き、行き違う軍馬は雲の上で鳴り響く雷のようだ。

地元の甲府の人々は、この声に驚き、味方ヶ負けて、敵軍が押し入ってきた、と、にわかに騒ぎ出した。親は子の手を引き、私財を担いで逃げた。

                    続く

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御座山

7月13日(日)

山楽会定例会。

長野県南佐久郡の「御座山」へ。

「御座山」と書いて「オグラヤマ」と読む。標高2112メートル。バスを降りてから、農道を20分ほど歩いた登山口へ。途中少し道を間違えたりして・・・。

コース

白岩側の林道終点~見晴台~御座山~栗生側林道終点。

カラマツやダケカンバの林の中を登る、遅咲きのしゃくなげが所々に咲いている。頂上はそれまでの林の中とは違い岩だけで出来ている。見晴らし良好。

雨具をつけると雨が止み、着けずにいると雨が降る、というようなはっきりしない天気の中をのぼり、くだった。しかし下りの途中で雨は本降りになった。だが、降るような降らないような天気が続いていたため、誰1人完全な雨対策はとらなかった。たとえば、雨具のズボンをはいた人はいない。しかし、雨はいつの間にか、本降り、になり雨具を付け替えられるところもなく、みんなズボンはびしょぬれという結果になる。

迎えのバスに乗ったときには、私などは全身濡れていました。途中、小海線小海駅によってもらい、女の人はバスの中で、男は出来るところで適当に着替える。ズボンは変えられなかった人も多い。私もその1人。

    しゃくなげや本降りとなる登山道  ぼんくらカエル

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2008年7月13日 (日)

常田合戦甲州軍幽霊 2

7月13日(日)

常田合戦甲州軍幽霊 2(狗波利子・通算36回)

(前回のあらすじ・恵林寺の奥にある上求寺の頼胤阿闍梨は、まれに見る名僧である)

武田信玄は国主である。信玄の生まれた年の干支は、運の良い時期に当たっている。信玄の本尊は不動明王なので、上求寺に深く帰依していた。出陣の前には、上求寺に参じて護摩を修し、館の安全、軍勢の無事、大将の勝利を祈祷した。信玄自らの参詣は毎度のことである。

天文21年3月、越後の長尾影虎が千余騎を率いて信州の地蔵峠を越え、長尾義景3千余騎を先陣として、押し出してきた。

武田信玄は1万3千の軍勢で迎え撃つ陣を張った。お互いに足軽を出して競り合ったけれども、はかばかしい進展もない。

謙信は何を思ったのだろうか、陣を払って越後に帰ってしまった。義景は陣をはらい、静かに引き揚げた。そのありさまを見て、武田方の飯富兵部、小山田備中、郡内の小山田左兵衛、芦田下野、栗原左衛門佐などが真っ先になって、義景の退却をくい止める。

義景、少しも慌てず、甲州方を坂の中に引きつけて、3千の手兵をまとめて、一気に武田方に立ち向かった。

武田方は足場も悪く、坂より下にまくり落とされた。さんざんに切り崩され、小山田古備中は討ち死に、原、郡内の小山田の2名は深手を負って動けなくなった。武田方の旗本前備甘利左衛門、馬場民部内藤修理が駆け寄って、敵を切り倒しながら二人を担いで味方の陣に戻った。しかし、いくほどもなく、二人は死んだ。

義景は、武田の軍に713人が討たれ、わずか3騎で引き返した。武田方も371人が討たれ、怪我をした者は数知れない。戦いは勝ったように見えるけれども、そうそうたる侍大将を失ってしまった。

このたびの戦の前にも上求寺で護摩を修したけれども、護摩はくすぶり、注ぐ水はこぼれた。頼胤阿闍梨は不吉に思ったが、口には出さず、胸の奥に深くしまっておいた。

                            続く

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2008年7月12日 (土)

老人会

7月12日(土)

老人会(ぼんくら日記)

去年、つきあいで心ならずも老人会に入ってしまった。今日、今年度初めてという誕生会があり、暇があったので出席。4月から7月までの誕生者のお祝いだそうで、お酒を少し飲んで、お弁当を食べて、カラオケを聴いて、というもの。

明日は山行で、朝早く出かける。ぼんくら日記は書けると思うけれども、「狗波利子」は書けない。で、明日の分も下書をする。「狗波利子」なんて誰も読まないと思うけれども、やり始めてしまったから、終わりまでやるつもり。これが終わったら、もうこんなことはしないな。

明日は早い。お酒を飲んで早く寝よう。・・・そう上手く行くかな?

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常田合戦甲州軍兵幽霊

7月12日(土)

常田合戦甲州軍兵幽霊(狗波利子・通算36回)

(難解な仏教用語多く、誤訳がでそうです)

甲州東郡恵林寺の奥に、真言の寺がある。上求寺という。本尊は不動明王である。不動明王の強く猛々しい憤怒の様相は、わがままでだらしない者、残酷な者たちを戒めるものである。

不動明王の本来は、知恵で正邪を決断し、般若真理の実相を示すものである。目、耳、鼻、舌、体、心の4つの魔、すなわち肉体魔、煩悩魔、死魔、天魔を制御し、四生、すなわち人間など胎生の者、鳥のように卵生の者、カエルのような湿生の者、蝉などのように脱皮したりする化生の者、及び、天上界、人間界、地獄道、畜生道、餓鬼道の者たちに、あまねく恵みをたれ給う。

その時の住職は、頼胤阿闍梨という知行兼備の得の高い僧であった。万物はその眞底において皆一体であることを示す曼荼羅には、花の下に白馬がいななき、身、口、意の秘密を見定めている月の前で、青龍が雲を吐いている。阿闍梨の心の底では、密教金剛界にふさわしい玉を磨き、中尊を安置する中台の胸の内には、すべてを良しとする香を包んでいた。身、口、意の秘密を知る名僧として、諸人は皆敬っていた。加持祈祷をし、護摩を焚き灌頂をすれば、谷にこだまが響くように、その功をあらわした。

                        続く

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2008年7月11日 (金)

エコバッグ

7月11日(金)

ぼんくら日記

水彩画の会。例によって自然の中で遊ぶ子供の絵。背景は、入間川くらいの川の写真を使う。

エコバッグ(ぼんくら日記)

買い物は、1週間に1回にしたいのだけれども、野菜はそうはいかない。そのため週に2-3回くらいはスーパーに行く。

最近は、エコバッグを持って行くようにしている。私はエコバッグを2つ持っている。両方に、野菜やら肉やらを入れて持ち歩くと、10分強の道のりに過ぎないのだけれども、けっこう疲れる。

特に、片手に5キロの米、他の手に酒と野菜、肉、魚などを持てば、帰るまでに、手や肩がいたくなる。雨など降って、傘を差さなければならないときは、なおさらである。

ただ、いつもエコバッグを持ち歩くと、不便なことも出てくる。ゴミを捨てる袋が無くなるのである。で、捨てる袋を買わなければならない。捨てるために、捨てるものを買う、なんてことは、どうにもなっとくが出来ない。

それでもまあ、エコバッグを持ち歩くのが習慣になってしまったから、いつも、買い物には使っている。マルエツでは、エコバックを使うたびに、専用のカードにスタンプを押してもらう。20コたまれば、買い物が100円安くなる。スーパーの袋は、1コ5円ということになる。

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今川氏眞没落・4

7月11日(金)

今川氏眞没落・附・三浦右衛門最後(狗波利子・通算35回)

(前回までのあらすじ・今川氏眞の佞臣、三浦右衛門は、主君が戦いに敗れ駿府城を捨てて落ちのびるとき、自分が助かりたい一心で、1人駆け落ちした。しかし土民、百姓のため身ぐるみ剥がれ、丸裸で小笠原与八郎に助けを求める。与八郎は、一度はかくまったものの、三浦を討ち果たすため、広庭に引き出す)

三浦は大いに驚き、

「親とも、兄とも思って頼ってきたのに、あまりに情けない行いです。せめて命ばかりはお助けを」

と頼み、涙を流す。

小笠原の家臣で足助長七というものが首き切り役人の傍により

「何とか申し開きをさせて命だけは助けてやれ」

といった。

「命を助ける代わりに、鼻をそぎ、片耳を切りをとすが、それでも命が惜しいか」

と聞くと、三浦は、

「それでも良いから命を助けてくれ」

という。

これを聞いた人々はあきれ果て、

「あんな根性だから重恩の主君をすててここまで逃げてきたのだろう。早く首をはねて、不忠不義の佞臣の懲らしめにしろ」

という。三浦右衛門は、身をよじり、声を上げて泣き伏した。

「今はこれまでだ。念仏を申せ」

といっても、前後不覚に取り乱し、首切り役人も、太刀のあてどころが定まらない。やむを得ずうつぶせに踏み倒して、首をかききった。

死体は野辺に捨てられ、鳶や鴉が目をついばみ、はらわたを千切った。犬やオオカミが手足を引き散らし、尻に食らいつく。

往き帰の人はこれを見て、哀れとも思わず、積悪の因果の報いだとささやきあう。

運に乗じて権威をふるい、竜虎の勢いだったものが、運が尽きて屍を草むらにさらし、恥を残すことこそ哀れである。

                          終わり

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2008年7月10日 (木)

野球について・2

7月10日(木)

定例会、など(ぼんくら日記)

ボラグループ、定例会。

午後、老人介護施設Kに行く予定だったが、出かける時間になって、自転車がないことに気づく。

いつも書くのだが、ボケがまわって来たのか、近ごろは捜し物をすることが多い。

最近無くしたものはデジカメで、これは出てこないようだ。その他の物も、良く探し回る。、家の中にあればいいが、どこかに忘れてくる、落とす、などというケースもある。

さて自転車だが、どうしても思い出せない。探したり考えたりしている内に、とても間に合わない時間になった。今日は、私以外に3人の予定があった。私がいなくても、まあ支障はないでしょう。やむを得ず、休むと電話する。

その後やっと思い出したのが、先日、マルエツに自転車で買い物に行き、帰りは歩いて帰ってきたということ。やれやれ。

野球について・2(ぼんくら日記)

昨日は、60年前の田舎の子どもたちの野球がどんなものだったか、というような話しでした。

今日はプロ野球チームジャイアンツについて。

私たちがグローブも使わずに野球をやっていた頃、プロ野球が復活した。NHKしかなかったラジオの放送を聞きながら、大下の青バット、川上の赤バットなどに胸を躍らせたのである。

年寄りにしか分からないから、少し解説をすれば、強打者として人気を二分していた、大下選手はバットを青く塗り、川上選手は赤く塗っていた。

私はその頃からのジャイアンツファンなのである。プロ野球の放送は、ほとんどジャイアンツの絡む試合だったような気がするが、実際はどうだったのか覚えていない。何にしても、私のまわりはジャイアンツファンばかりだった。

しかしジャイァンツというのは、無茶なことをしましたね。その最たるものは、江川問題でしょう。野球協約の条文の勝手な解釈で江川を取り、小林投手を阪神に放出した。このとき私の気持ちはかなり揺れたけれど、何とかジャイアンツファンにとどまった。

その後も、金の力で他チームの主力選手をかき集め、何かすっきりしない気持ちを持ち続けた。それでもジャイアンツファンを続けていたのだから、初恋の人をいつまでも思い続けるようなものだ。

東京ドームが出来たとき、ジャイアンツは外野手の松本選手を首にしちゃった。あれもショックだった。足が速くて、良く出塁し、ジャイアンツに尽くした選手だ。東京ドームで野球をしたいといっていたのに、首にした。彼は上層部の批判でもしたのだろうか。何か不自然な気がした。

私がジャイアンツファンをやめたのは、駒田選手がジャイアンツを去ったときである。彼はジャイアンツを愛していたが、自らの意志でジャイアンツを去った。このままジャイアンツにいても、自分にとって良いことはないと判断したようだ。

全くそうなのだ。ジャイアンツは、生え抜きの選手を大切にせず、あちこちのスター選手をかき集めてくる。そのため、ほかのチームにいれば伸びたであろう選手も、ジャイアンツに入ったために伸び損なう。飼い殺しだ。

駒田選手がジャイアンツをでたのは、それまでジャイアンツがしてきたことに比べれば、小さな問題である。しかし、ジャイアンツに対する不満がゴム風船のようにふくれあがって、破裂寸前まで成っていたときに、それを針で突かれたようなものだ。

野球が急につまらなくなって、野球ファンをやめてしまったが、たまたまテレビなどで、ジャイアンツが負けているところを見ると、ザマーミロ、と思う。

     

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今川氏眞没落・3

7月10日(木)

今川氏眞没落・附・三浦衛門最後・3(狗波利子・通算43回)

(前回までのあらすじ。三浦右衛門は今川氏眞の寵愛を受けたが、氏眞が武田勢に敗れて駿府城を落ちのびるとき、主君を捨てて、1人で逃げた。しかし百姓たちに襲われ、赤裸にされてしまう)

三浦は、命ばかりは助かったが、丸裸なので、破れた菅笠で前を隠し、ちぎれた古い菰を腰に巻いて、泣きながら逃げた。夜もすがら、田の畦を伝ったり、山道を歩いたりして、手は野バラの棘でひっかき傷がつき、足は石に躓いて血が噴き出すありさまだった。

ようやくのことで三河の高天神の城に着き、小笠原与八郎に助けを求めた。与八郎は、また三浦の時代が来るかとも思い、初めのうちは、小袖、脇差しなどを与えてかくまった。しかし、今川氏眞は掛川でも破れ、小田原の落ちのび、つき従うものもいなくなったと聞き、心変わりをした。

今川の領土の一部を押さえ、三浦右衛門を絡め取った。

「お前は長年わがままを働き、人々を苦しめた。民百姓を困窮させ、おのれの意に合わなければ、同輩の侍の知行を取り上げ、職を解いた。取り柄のない者でも、へつらえば取り立て、主君をだました。お前を恨む者は多い」

さらに言葉を継いでいう。

「今はすでに、主君の運は傾いた。国は滅びようとしている。主君の恩を忘れ、自分だけが助かろうとしたことなど、神仏の教えに背き、人道にはずれる。悪逆無道の恥知らずである」

そして、人夫どもに命じた。

「こんな役立たずを生かしておいては、生きている者のじゃまである。早くあの世に送って、閻魔の裁きを受けさせろ」

と、三浦を庭に引き出した。

                           続く

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2008年7月 9日 (水)

今川氏眞没落

7月9日(水)

今川氏眞没落

附・三浦右衛門最後・3(狗波利子・通算42回)

(前回までのあらすじ・今川義元も跡を継いだ今川氏眞は、三浦右衛門を偏愛し酒宴遊興にふけり、武術をないがしろにした。臣下は忠誠心を失い、武田信玄に攻められ、駿府城は落城した。氏眞が掛川に落ちのびるとき、三浦はあれほど可愛がってくれた主君を裏切り、1人で駆け落ちした)

駿河、遠江、三河の間では、誰でも三浦に媚へつらたのに、積年の悪が現れて、今は身の置き所がない。身分を隠し、人に隠れ、雷の中で川を渡り、薪を背負って焼野を通るありさま。馬をせかせて通れば、

「落ち武者がくるぞ!」

と百姓たちが叫び、錆びた槍や長刀を持って走り寄る。

「われは三浦右衛門である。うかつなことをするな」

といえば、

「それならなおのこと、捕まえて日頃の恨みを晴らそう」

という。

「身ぐるみ剥いで、裸にし、恥をさらしてやれ」

また、他のものはいう。

「主人に可愛がられているのを良いことに、百姓を苦しめ、妻や子供まで身売りさせ、年貢を納められないものには拷問を加え、その報い、来世まで待つことはない、今ここで、なぶり殺しにしてやる」

口々に叫び、三浦を馬から引き下ろし、鎧かぶとから小袖までも剥ぎ取り、赤裸にした。

三浦は百姓どもに手を合わせ、

「どうか身を隠す小袖くらいは残してください」

と頼んだが、若い者たちは、

「こいつに遺すものなどあるものか、高手小手に縛り上げ、木に吊して思うままに打ち殺してやる」

という。さすがに年寄りは、そこまでしなくてもと、縄を解き、許してやった。

                      続く

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野球について

7月9日(水)

精障者作業所Mへ。畑の草取りなど。勤労奉仕です。

野球について(ぼんくら日記)

戦中戦後の田舎育ちの子供にとって、体を動かすことはいろいろあった。疎開先が農家だったので、畑仕事、田仕事の手伝いなどもそうだ。もっとも私は、逃げることばかり考えていたけれどね。

運動としては、夏は川での自己流水泳、野山を走り回ること。冬はスキーなどです。スポーツで勝敗を争うようなものとしては野球くらいでしたね。サッカーなんて、まだ知りませんでした。

「瀬戸内少年野球団」という映画があって、結構人気があったようです。私は見ていませんが、ズック製のグローブの球を受ける真ん中だけに皮を張ったようなものも出てきたそうです。私たちも、そんなグローブを使いました。しかし、初めのうちは、もっと原始的な野球でした。

どんなものだったか、ちょっと紹介しましょう。

稲刈りが終わった田んぼの上で野球をしました。ボールはぼろ布を縄でぐるぐる巻いたもの。バットは木っ端か木の枝。グローブなんて、あるはずがない。

そのうち、健康ボールというのが出てきました。今の軟式のボールに近いものです。その頃になると、バットくらいは使えるようになりました。まだ、個人では持てなかったように思います。所有者は誰だったのか思い出せません。グランドは、学校の校庭、または運動場で、部落同士で対抗戦どやりました。この「部落」というのは、部落民とは違うのですよ。村の中の集落をいいます。

やがて、瀬戸内少年野球団が使ったようなグローブが登場します。個人では持てないので、グループで、1コ、2コと買いそろえたと思います。ただし、1チームで9コというわけにはいかず、対戦相手と両方合わせて使いました。それでも9コはそろわず、内野手、外野手は素手の人も多かったのです。

ミットというものがあるとは、まだ知りませんでした。キャッチャーもグローブで受けました。素手で受けるキャッチャーだっていたんですよ。幾ら軟式でも、素手では痛いのですが、球を受ける瞬間に、手を体の方に引くんです。そうすると痛さが緩和されます。

ファーストミットがあること、外野と内野のグローブが違うことなどは、ずっと後になって知りました。

明日は、私とプロ野球について書きます。

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2008年7月 8日 (火)

今川氏眞没落

7月8日(火)

今川氏眞没落・2(狗波利子・通算42回)

(前回のあらすじ・今川義元の子、今川氏眞は、佞臣、三浦衛門を偏愛し、武道をないがしろにして、酒宴遊興にふけり、財政は疲弊した)

氏眞は譜代の忠臣でも、少し気に入らぬことがあれば、所領を没収し、職を奪った。政は、みな三浦の思うがままで、家臣たちは、上も下もあきれ果て、三浦をもてあましていた。今川の老臣、朝比奈平太夫と三浦右衛門佐は仲違いをし、家臣はみな三浦を憎んだ。

今川氏眞は武田信玄の甥なのだが、今川のこの様子を見て、信玄は三万五千余騎をひいきいて、駿府に押し寄せた。

氏眞は庵原左馬頭を先手とし、岡部小倉七千余騎、氏眞は二万五千余騎を率いて迎え撃とうと出陣したが、朝比奈は心変わりして引き返してしまった。他の陣の者たちも、訳の分からぬまま引き返した。氏眞の家来たちは色を失い、逃げる支度をはじめたので、清見寺の本陣は崩れて、府中に帰った。

武将たちは心変わりをし、寄せてくる敵を防ぐ義務もないと思った。

氏眞は城に籠もって討ち死にしようとしたが、三浦が、

「ここはひとまず砥城の山家に引きこもり、時期を待って軍をおこし反撃を」

というのに従って、わずか五〇騎ばかりで城を抜け出し、小原備前守、朝比奈備中守、長谷川次郎左衛門などの計らいで、掛川の城に入った。城中には、七千余騎の兵がいた。

武田方は主のいなくなった駿府城に押しかけ、館に火を放った。おりから、大風が吹いて、激しく燃え上がり、さしもの大館も一時の内に灰になってしまった。次の日その焼け跡に、歌を書いた板が立てられていた。

    甲斐も無き大僧正の官賊が

           欲にすがるのおひたふすみよ

三浦右衛門は、一朝に威を失い、戦の恐ろしさに、手も足も震え、ものの心もわきまえず、氏眞と共に城を出たのだけれども、何とも行く末が心許なく、ことのほか偏愛を受けた氏眞の恩をうち捨てて、1人で駆け落ちしてしまった。

                        続く 

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健康診断

7月8日(火)

健康診断(ぼんくら日記)

狭山台胃腸科外科で健康診断。胃ガン、肺ガン検診。

昨夜9時以後は一切飲食無し。朝、喉は渇くし、腹は減るしで、早く病院に行きたいと思いながら、時間を過ごす。数独をやってみたり、新聞の写真からスケッチをしてみたり、やることはいつもと違わないが、今朝は少しいらいら気分。

去年だったか、前の夜から飲食をしていなかったのに、朝、無意識のうちの水を飲んでしまい、予定が狂ったことがあった。今年はそんなことがないように、水道の蛇口にテープを巻いておいた。

血液検査、尿検査では異常なし。バリュームを飲んでの胃の検査、肺ガンのレントゲン検査も異常なし。大腸癌検査は、数日後になる。

帰宅は11時過ぎ。さっそくブランチ。アルコールも摂っちゃいました。

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2008年7月 7日 (月)

ぼんくら日記  今川氏眞没落

7月7日(月)

ぼんくら日記

精障者作業所Mへ

お客様のMさんから変わった注文あり。段ボールで踏み台を作れと言う。段ボールだから軽くできるけれど、踏み台なので、その上で、人が跳んだりはねたりしても潰れないように作らなくてはならない。まあ、出来ないこともないけれども・・・。今日ではなく、次回に作ると言うことで引き受ける。

今日は七夕。今日から洞爺湖サミット。ブッシュさんは環境問題に鈍感な人だねえ。想像力が鈍いんだな。

明日、健康診断、胃ガンの検診。今日はそろそろ、飲み物食い物が取れなくなる。この先のブログは、飲みながら書くことにする。普段だと、書いた後に飲むのですけれどね。もちろん、書く前にも飲んでいるのですよ。今日は、書き終わった頃にはもう飲めない。

今川氏眞没落・附・三浦右衛門最後(狗波利子・通算41回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

駿河の国、今川義元は織田信長に討たれ、その子、今川氏眞が跡を継いだ。しばらくは、国を守り何とか収めていたが、永禄(1558-1569年)の初め頃から、家運が衰え、氏眞は風流にうつつを抜かすようになった。

武藤新三郎という美少年の佞臣がいた。

氏眞はことのほか新三郎を愛し、酒席に侍らせ、淫舞淫楽を共にし、和歌を愉しみ、蹴鞠に興じた。

新三郎が成人してからは、三浦右衛門佐と名乗らせ、茶会を企て、何事も、三浦のいうことを良しとした。庭を造っては深山幽谷の景を求め、路地に築山を作り、水の流し方、木の枝つきまで、三浦の意見を取り入れた。

三浦の喜びが氏眞の喜びとなり、紹鴎の高麗茶碗を3千貫で買い取り、連歌の名匠宗祇の秘蔵した白梟の香炉を5千貫で買った。そのほか、夢窓国師の青磁の花入れ、忍性聖人の柿色の眞壺、あるいは茄子の肩衝き、緑葉の香合、匙、机、等々、枚挙にいとまがない。

日本のものであろうが中国のものであろうが、三浦のためならば、財宝を惜しまず買い求めた。綾錦を買い求めては切り刻んで袋を作り、香木を削って部屋の柱とした。

そんなこと使う金は、幾千万とも限りがない。財宝は、天からも振らず、地からも湧かない。結局のところ、土民百姓をむさぼり、税を重くし、課役を激しくするのであった。そうして絞り上げたものを、砂に水を撒くようにして使った。

                        続く    

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2008年7月 6日 (日)

一人者、男のレシピ

7月6日(日)

ぼんくら日記

車椅子と仲間の会。手打ちうどんを作る人たちに売ってもらったうどんを食べたあと、後期高齢者医療制度の勉強会。感想はあるけれど、誰かがすでに言っている二番煎じみたいなものになるのでカット。

一人者、男のレシピ(ぼんくら日記)

妻に死なれて九年以上たつ。料理など作ったことのない私だったが、作らなければ食えないのだから、嫌も応も無く作るようになった。どれもこれも、手抜き料理である。

みそ汁

初めのうちは、3-4回分を作って、1回分だけ木の椀に入れて飲み、他は瀬戸物の椀に入れて冷蔵庫に保存した。食べるときに電子レンジでチンをした。

今はたいてい、1回分ずつ作る。瀬戸物の椀を使い、野菜などの具を入れ、ダシと水を入れる。そして梅干し1ッ個分くらいの味噌を溶き入れて、電子レンジでチン。具は、たとえば大根の葉を細かく刻んで冷凍して置いてもいい。大根の葉などを冷凍する前に、ダシをしみこませておくと、なかなか良い味になる。

野菜などを入れた上に、焼き海苔などをもみ入れるという手もある。この場合は、味噌よりも醤油の方が合うような気がする。

即席おかず

海苔といえば、こんなおかずもある。

豚コマとか鳥でも何でも、安物の肉で充分だが、醤油と酒で下味を付ける。この醤油と酒に片栗粉を入れて、ミックスベジタブルにまぶし、肉と混ぜて海苔の上に薄く重ねる。中央にニラか葱、あるいは水菜のようなものを載せ、簀巻きにする。これを電子レンジでチンすれば、おかず1っ品のできあがりだ。

私は、肉など、冷凍しておくことが多い。そんなとき、ダシとか麺つゆなどをしみこませてから冷凍すると、良く味がしみこんで、なかなか便利である。

カレーライス

煮物、鍋物の汁を冷凍してとっておくと便利。この汁に肉や野菜を入れてカレーにすると、良い味のカレーが出来る。さらによいことには、1人分作っても苦にならない。これは「きっこのブログ」で覚えた。

何人分か作って、あまりは冷凍するというのもあるけれど、これだと、ジャガイモが不味くなる。

キノコの佃煮

エノキダケやシメジは、工場で作れる野菜なんでしょうね。安定して安いので助かる。このキノコ、1種類でも良いし、2-3種類混ぜても良いのだけれど、甘辛く似て、佃煮にしておく。少し濃いめの味にする。

そのまま食べても良いけれど、野菜サラダなどを作るとき、このキノコを調味料として使うのである。梅干しの種を取って叩き、佃煮のキノコと共にサラダに和える。これだけでよい味になる。

今日も狗波利子は休みです。

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2008年7月 5日 (土)

谷内六郎展

7月5日(土)

谷内六郎展(ぼんくら日記)

川口総合文化センターへ、「谷内六郎展」を見に行く。

川口は、結婚した長女がしばらく住んでいたところ。孫もそこで生まれました。短い間にかなり変化しているように思いました。

Mizutani10011 谷内六郎が「週刊新潮」の表紙絵を描いて登場したことは、私にとっては一つの事件だった。しばらくは、谷内六郎の絵に吊られて、「週刊新潮」を買ったものだ。「週刊新潮は明日発売でーす」というコマーシャルとセットで、谷内六郎の絵を思い出す。郷愁を誘う、子供の絵であった。

私は絵を描き出してから数年たつが、去年くらいから、子供の遊ぶ絵を描くようになった。谷内六郎の絵を見て気づいたのは、描かれているのは、姉と弟、年上の女の子と小さな弟、という設定なのだ。これは私と逆なんですね。私の場合は、兄と妹で、年はそんなに離れていないのです。この違いは、何でしょうかね。精神分析でもしてもらいますか。

それにしても、狭山市から川口市まで、公共の乗り物を利用していくのは不便ですねえ。何回も乗り換えて、途中で歩いたり・・・。行きは秋津まわり、帰りは大宮まわりにしました。

大宮で途中下車。私は大宮で所帯を持ち、二人の子供を儲け、長女が小学校に入学する直前まで住んでいました。その意味ではなつかしいのです。しかし、ここも変わった。

大宮で下りたら、大宮公園に行きたくなります。

Mizutani10009 大宮公園のスケッチです。スケッチには、子供は関係ありません。この人は、鯉か水鳥に餌をやっているのだと思います。

Mizutani10010 どうも私は、水のある風景が好きですね。右の絵、枝に鴉がとまっているのだけれど、分かるかなあ。

大宮氷川の杜会館で「睦月会・さつき会」の水彩画展をやっていたので、ついでに見てくる。我々の水彩画グループのようなものだ。主として風景画で、静物画が少しといったところ。みんな写生で、私のようにへそ曲がりはいません。私は子供を主人公にするため、絵を作っちゃいますからね。写生ではないのです。

狗波利子

狗波利子は休みです。現在第五巻の下読み中。

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2008年7月 4日 (金)

手品  不幸の子雷にうたれる

7月4日(金)

手品(ぼんくら日記)

今年初めての真夏日。

特養Sへ。私のやることは、話し相手、手品、紙切り。いつも同じようなものだけれど、何となく、私のまわりの人が集まる。看護婦さん、介護士の人、なども、私がいるテーブルに利用者さんを連れてくる。で、私は得意になってやるわけだ。

ひとしきりやっていると、新館の方にも行ってくれ、という。後半は、新館で過ごす。こちらの方は、知能程度で言えば、私などより高い人が多い。そこで、話しをし、手品をする。たいていの手品は、種明かしもしてしまう。「次に来るまで、忘れてくださいね」と言いながら・・・。

私の手品は、時々失敗する。私は言う。「失敗はしょうがないですよ。何しろ、木戸銭をもらってないんだから・・・」。つまり、笑わせながらやるのが、私の手品であり、紙切りなのです。

ある利用者さんが言った「お人柄が良い」。で、私はますます調子に乗ってやるのです。その辺が私の軽いところ。

不幸の子の雷にうたれる(狗波利子・通算40回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

慶長の初め(1600年前後)大宮、7条に、丸や弥介という商人がいた。弥介には2人の子供がいて、弥介の死後は、兄の弥二郎が跡を継いだ。何とかやっていける程度の収入はあった。弟の弥三郎は、3条堀川に住んで、百姓をしていた。家計は貧しく、朝夕の食事にも事欠くありさまだった。

2人の母は歳をとってしまった。兄、弥二郎が言うには、

「おればかりが面倒を見るのはおかしい。弟がいるのだから、あっちにも行けばいい。10日ごとに交代で面倒を見よう」

そんなわけで、母を10日ずつ交代で面倒を見ることになった。母は、弟の家にいるときは心安らぎ、兄の家にいるときは気まずいことが多かった。嫁にさえも、すげない扱いをされた。

ある時、弟の家にいて8日目になったら、食べる物が無くなってしまった。これではどうしようもないので、兄の家に行ったところ、

「まだ2日残っている。あっちへ行け」

と言って、家にも入れさせない。そうこうしているうちに、朝食の飯が炊けたらしい。母は、

「せめてその飯を少し食わせてくれ。そしたら弟のところに帰る」

と言ったら、嫁は返事もせず、少しも食べさせようとはしない。弥二郎も、

「早く帰れ」

とあしざまに言う。やむを得ず母は弥三郎の家に向かって歩き出した。

まだ5百メートルも行かぬうちに、急に空を雲が覆い、雷が鳴り、弥二郎の家に落ちた。弥二郎は頭を打ち割られ、嫁は門口まで逃げたが打ち殺された。せっかくの飯も辺りじゅうにうち撒かれた。

弥二郎の家は、またたく間に絶えてしまった。

                     狗波利子第4巻終わり

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2008年7月 3日 (木)

趣味  母に不幸の子狗となる

7月3日(木)

趣味(ぼんくら日記)

私は、ボランティアと趣味で日を送っている。ある種の年寄りの1パターンですね。

趣味としているのは、山歩き、水彩画、俳句です。

毎日ブログを更新しているから、これも趣味みたいですが、自分の意識の中では、そんな気がしない。昔から日記は書いていたし、それがブログに変わっただけです。ただ、ブログにしたことで、文体は変わりました。読んでくれる人もいるのだから、当たり前ですね。いろいろな不自由なことも出てきました。書くことで、人に迷惑もかけられないからです。

三つの趣味の中で、もっとも楽しいのは山です。気のあった山友達がいて、一日中一緒に行動して、夜は、反省点があろうと無かろうと反省会(ニケさんの表現)をやったりして・・・。

でも、三つの趣味の中で、一番最初にやめるのも山でしょうね。ぼんくらカエルは71歳の老カエル。体力が無くなったら、ハイそれまでよ。

絵や俳句は、体力が無くなっても出来ます。惚けたらどうかな。俳句なんか。惚けた方が上手くなるような気もします。半分くらいは本気で言ってます。

Mizutani10009 入間市の彩の森公園でのスケッチ。左側は水彩鉛筆で、現場で彩色。Mizutani10010

右の絵は、家に帰ってから彩色。 下手はどちらも下手だけど、右の方が良いような気がする。絵も俳句も、退職後にはじめたもの。上手くなりたいと言うよりも、自分勝手にやりたいという気持ちの方が強い。

今年の4月ごろから、鉛筆スケッチをはじめた。それまでは気持ちはあっても、彩色までするのは気が重かった。で、結局、まれにしかスケッチをしなかった。色を付けないと決めてから、気が楽になって、散歩にはスケッチブックを持って行く習慣が出来た。

俳句については、またの機会に書きます。

母に不幸の子狗になる(狗波利子・通算29回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

永正年中(1504-1520年)京の西、鳴滝と言うところに、彦太夫という百姓がいた。金持ちというほどではないけれど、田畑を作り、人並みの生活は出来た。

生まれつき、無道無頼な男で、神仏を敬う気持ちは少しもなかった。そんなくらいだから、近くの寺に参ったこともない。乞食非人が来ても、口汚く罵り、少しも恵んでやることはない。

母親を粗末にし、不幸なことこの上もない。明け暮れ辛くあったって、少しでも気に入らないことがあると、ことさらになじった。母が歳をとって、何事も上手に出来なくなると、

「早く死んでしまえ。役立たずが無用に長生きをして」

などという。母は自ら育てた子供にそのようなことを言われ、なんと情けない命かと、嘆かぬ日はなかった。

母が病気になって、食べ物が喉を通らず、魚なら食えるかと、嫁に頼んで単の着物を売ってもらった。その金で魚を買ってくれと息子に渡した。ところが彦太夫は、金を受け取りながら、魚は買わなかった。

隣の人が哀れに思って、鯉の羮を作って母親にと持ってきたのに、母には与えず、自分で食ってしまった。

すると、たちまち腹が痛くなり、薬を飲んでも、少しも良くならない。くらい閨に籠もり、夜昼5日間うめき続けた。5日目に人が様子をうかがうと、なんと彦太夫は犬に変身していて、恥ずかしげにうずくまっていた。

その犬、食を与えても食わず、100日たって死んでしまった。そのありさまを見た人は、不幸の報いを思い知り、親孝行をしたということだ。

                           終わり

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2008年7月 2日 (水)

科学と迷信 木島加伯・2

7月2日(水)

科学と迷信(ぼんくら日記)

またまた、題が大げさです。

私は今、パソコンでブログを書いている。ローマ字入力でキーを打つと、ディスプレーの画面にひらがなが出てきて、変換キーを押して、文章を作る。にこれを保存すると、外部に公開できる。

なんでそうなるのかは、とんと分からない。

今は科学が発達して、生活していく上で、大変便利である。電気もテレビも電話も、大いに利用しているけれども、それが利用可能な理由など、私には全然分からない。

私は地球が太陽のまわりをまわっていることを知っている。しかし誰かが、多少の天文学の知識を持って、太陽が地球をまわっているのだと、理路整然と主張したら、私は彼に、有効な反論を言うことが出来ない。科学者は地球が回っていると言っているとか、学校で習ったとか、しか言えない。

専門知識は何もないけれど、地球は太陽を回っていると信じているのである。これ、迷信の信じ方と同じではないだろうか。

私は、血液型で性格を判断する、などと言うことは信じない。生まれた日によってどうだとか、姓名判断だとか、厄日とか、厄年だとかを信じない。狐が人を化かすとは思わない。死者の呪いで生きている者に不幸がおこるとは思わない。

私は、進化論を信じる。天動説を信じる。物質は分子で出来ていることを信じる。地球にも寿命があることを信じる。生物に遺伝子があることを信じる。ビッグバンがあったのだろうと思う。相対性理論は正しいのだろうと思う。

Mizutani10009 けれども、それらを信じるのは、理解しているからではない。理解しようとしったって、理解できないことも多い。それでも、科学で正しいとされていることだから、正しいのだろうと思う。

何も分からず信じているのである。これ、迷信の信じ方と同じじゃないのかなあ。どこが違うんだろう。

画像は、智光山公園です。現場で鉛筆スケッチ、家で彩色。

木島加伯・2(狗春子・通算38回)

(前回のあらすじ。京都に、子供を亡くした人がお参りをする、安養寺という寺がある。一方、木島加伯という欲張りがいて、子や孫に死なれたものだから、有り余る財産を夫婦だけで使っていた。鬼が来て、それを咎めた)

その後も、やれ花だ、やれ月だと、美食をし酒に溺れていたら、また、鬼がやってきて、加伯を責めた。加伯はしょうがなくて、高僧に相談した。

「欲深く、法外な財産をむさぼるように使うのは、仏の道に背くものだ。神の掟にも反する。そんなことをしていては、この世でもあの世でも、身の置き所が無くなる。必ず災いが来るだろう。憂いや悲しみが絶えることはない。慈悲の心で物を恵み、仏と、仏の教えと、僧侶を敬いなさい。後生のことを考えて、これまでのことを悔やみ、心をあらためなさい」

高僧の言葉に、夫婦ともこれまでのことを悔い、懺悔した。

その後、都に上り、誓願時にお参りし、堂塔を修繕した。また安養寺に懸けられた地獄の絵を見て、いよいよ後生が大事と思い、夫婦して髪を切り、自分たちの座像を作らせた。そしてそれを壇に飾った。

今もそのことを語り伝え、木造を見て、仏門に入る人がいると言うことだ。

                           終わり

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2008年7月 1日 (火)

1升飯・他  木島加伯

7月1日(火)

スケッチなど(ぼんくら日記)

午前、社協で、たなばたの飾り付けの会議。Mizutani10009_2

会議中に向かい側の席の人をスケッチしちゃった。不謹慎だなあ。でも、話は聞いていたし、発言もしたんですよ。ウーン、やっぱり不真面目だな。相手にも、まわりの人にもわからないように、気を使って描いているんだから、会議に身が入っていないんだよね。そんな状況だから、細かいところまでは描けない。

午後、精障者の福祉法人が経営する食堂の包丁研ぎ。終わって、食堂裏の霞川を入間川の合流地点まで散歩。

Mizutani10010 スケッチをしながら散歩のつもりだったが、暑いんですよ。日陰で描くつもりが、めぼしいところはたいてい釣り人が占領しているのです。現場では鉛筆だけ。彩色は家に帰ってから。邪道かなあ。Mizutani10011

もう1枚。これは入間川。これも、彩色は家でしています。視点が低かったので、橋が馬鹿に高く見えますね。真ん中の人は釣り人です。オシッコをしているのではありません。余分なことを書いちゃった。アハハ。

1升飯(ぼんくら日記)

毎日見ているブログやホームページの一つに「増殖する俳句歳時記」というのがあります。去年までは清水哲男という詩人兼俳人が一人で書いていましたが、今は清水哲男を含む7人が、日替わりで書いています。

今日の担当は土肥あき子で俳句は「歩荷くる山を引きずるやうに来る」作者は加藤峰子。「歩荷」は「ボッカ」で、山小屋などに荷物をを担いで運ぶ人。

土肥あき子氏の舅は立山連峰で歩荷の経験があるのだそうだ。その労働のきつさを「1回で1升の弁当が無くなる」と言ってあらわしたそうだ。

やはりそうだったか。私の田舎で、山仕事をする人が、「1回に1升飯を食えないようでは1人前じゃない」と言っていたのを記憶している。話を聞いてから何十年もたつし、1回で1升というのは間違いで、1日のことだったろうかなどと考えていた。お盆ほどもあるような大きな握り飯を風呂敷に包んで、山仕事に出かけていく人だった。

木島加伯(狗波利子・通算28回)

   原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

京都誓願寺の南の方に、格子の中に仏壇をしつらえ、地獄の様相の絵図を懸けている寺がある。安養寺という。

近郷近在の人々の子供が亡くなったとき、親はその衣類や玩具などをその寺に寄進し、せめてもの悲しみを安らげようとする。しかし、子を失った悲しみは、なかなか消えるものではない。

ある人は、子に先立たれ、悲しみのあまり衣装を寄進したが、後に寺を訪ねて、その衣装を見ると、ナデシコを摺り縫いした衣装だった。その衣装を見るにつけ、また昔を思い出し、涙と共に歌を詠んだ。

    なでしこの花の衣はうつ蝉の

             もぬけし殻と見るぞかなしき

元和年中(1615-1623年)長門の国(山口県)萩と言うところに、、木島加伯という強欲の人がいた。聞くところに依ると、黄金5千両を持っていると言うことである。

子や孫はいたのだけれども、どういう訳か皆早く死んでしまって、今は年取った夫婦だけが残っている。財産を譲るべき人はいない。

この上は浮き世の思い出に、好き勝手に暮らそうと、贅沢のし放題であった。旨いものや酒を、飽きるほど食って飲んで、自分たちだけで愉しみ、人には与えなかった。

ある夜、鬼の形をした者が尋ねてきて、夫婦の喉を掴んで言った。

「お前たちは我々の脂を絞って、剥ぎ取った金銀を、自分たちのためにだけ使っている。とんでもない奴だ」

加伯は畏れて言った。

「今日からは、旨いものばかり食べたりしません。酒もやめます。豪華な衣装で着飾ったりしません。家の新築などもしません。世捨て人のような質素な生活をします」

それを聞いて鬼は立ち退いた。加伯は夢から覚めたような気分だったが、恐ろしさは残った。

                           続く

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