きりたんぽ 味方ヶ原の戦い
6月19日(木)
きりたんぽ(ぼんくら日記)
老人介護施設Kへ。
私のことでも、待っていてくれる人がいる。ある人は手品を要求する。他の人は、紙切りを要求する。そして、話しを愉しみたい人もいる。
100歳になるUさんは、私と雑談することを楽しみにしてくれる。今日は、私の生まれ故郷のことを聞かれた。毎週行くわけではないのに、ちゃんと私のことを覚えている。
100歳になっても、自分のことだけを話すのではなくて、人の話を聞こうとするところがすごい。秋田生まれだと答えると、秋田の名物はなんだと聞く。食べ物では、きりたんぽ、はたはた、しょっつる鍋、と答える。
きりたんぽは聞いたことはあるが食べたことはない、という。生きているうちに食べてみたいものだ、とも言う。食べさせてあげたな。
たまたま、Uさんの家のお嫁さんは、私の知り合いである。Uさんは、私がお嫁さんを知っていることを不思議がるけれども、ボランティア活動の中で知りあったものです。こんど会ったら、きりたんぽのことを話してみます。
味方ヶ原の戦(狗波利子・通算30回)
原作・浅井了意 現代語訳・ぼんくらカエル
永禄、天正の間(1558-1585年)は天下は大いに乱れ、近くでも遠くでも、争いが絶えなかった。互いに隣国を奪おう、境界を広げようと戦いを挑んだ。家来は主君を欺き、主君は家来を疑う。兄弟は敵となり、親子は相争った。
運の良いものは数国の主となり、勢いを失えば浪々の身となる。栄枯は移り、盛衰は日ごとに変わる。
その間に死する者、幾千万人とも知れない。兵乱はうち続き、京も田舎も静まるときがない。世の中の人が死に絶えるのではないかと思うほどだ。
元亀3年(1572年)12月22日甲斐の国の武田信玄は5万以上の兵を率いて、遠州浜松に押し入り、味方ヶ原に攻め入った。
徳川方には織田信長公からの加勢として、平手監物、大垣卜全、安藤伊賀守以下九大将が加わった。岡崎白州賀まで武将たちが兜の星を並べて埋め尽くした。さらには、水野下野守、滝川伊予守、毛利河内守らが、備えを堅くして待ち受けた。
信玄側は、小山田兵衛が先陣を務め、徳川方の先手、内藤三左衛門と合戦を始めた。しかし、小山田はうち負けて退いた。次に山縣三郎兵衛が続いたが、酒井左衛門尉にうち負けて危なくなったとき、横手から四郎勝頼が援軍に入り持ちこたえた。しかしながら、北條氏政の加勢大内式部少輔が徳川方の鉄砲で胸板を撃ち抜かれ、馬から逆さまに落ちて死亡した。
これに勢いを得て、徳川方はかさにかかって攻めかかる。本田平八、榊原小平太、安倍善九郎、大菅、萱沼、櫻井、設楽(シダリ)、足助(アスケ)の人々が、息つく暇もなく責め立てる。
浜松と味方ヶ原の間に犀ヶ崖という深い谷がある。武田の軍勢は破れて、この谷に突き落とされた。落ちた上にさらに落ちてきて、うち重なり、自分の刀に貫かれたりして死する者、数が知れない。やむを得ず、信玄は陣を払って帰った。
その後、死んだものの魂が谷底に残り、夜な夜な泣き叫んだ。徳川家の僧が五色の布を灯籠に張り、花や食べ物を供え、七月十三日から七月十五日まで盂蘭盆会を行い、念仏踊りをした。それで泣き声は止んだ。
この行事を賓灯籠と名付け、以後毎年七月には、魂祭りとして念仏踊りをしているらしい。
終わり
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