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2008年6月30日 (月)

統計の数字  霞谷の化け物

6月30日(月)

統計について(ぼんくら日記)

書くことはチンケなのに、題名は大きいねえ。

子供がまだ小さい頃、S厄よけ大師から厄よけをするようにというハガキが何度も来た。文面を見ると、大人も子供も含めて、何とかの厄とかいうのが沢山あって、しかもそれに、本厄、前厄、後厄があるのである。そして、交通事故にあう人の約3割は、厄年の人ですと書いてあった。

当たり前だろう、むやみに厄年を作って、前厄後厄を含めれば、人生の3割くらいには成るサ。あほらしいから、そのハガキを、受け取り拒否で送り返してやった。

男の厄年の最たるものは42歳らしい。「死に」という言葉からの連想だろうけれども、いかにも科学的なように、その頃に体の変化が現れる、さまざまな病気も、その頃から起こる、などと説明される。まあ、そうでしょうよ。体だって、歳と共に変化する。ただし、42歳だけが特別というはずもない。もしも42歳が特別ならば、その年だけ死亡率が高いとか、癌の発生率が高いとかの統計が出るはずである。厄年が体の変化の歳だと主張する人たちが、そのような統計を見つけたら、飛びつくはずである。でも、そんな統計が出ないところを見ると、42歳前後が特に他の年齢とは違うという統計はないんでしょうね。

もっとも、統計というのも、当てにならないんだよね。先日テレビで、日本人の塩の摂取量が多すぎるという統計が、紹介された。確かに、他の先進国よりも多かった。だから塩をとりすぎてはいけないというのである。なるほど、この統計自体は正しいのでしょう。だけど、この統計は、逆の目的に使うことも出来る。日本人は、塩の摂取量が多いし、世界一長寿である。だから、塩は多めに取るのが良い。このような結論だって出せる。統計も使いようだ。

統計は有効だが、その数字の使い方には注意を要する。統計学なんか知らない私たちは、数字にだまされないようにしなくてはいけない。

霞谷の化け物(狗波利子・通算37回)

伏見稲荷の北に小さな橋がある。世間の人は、朽木橋と呼んでいる。

その橋の麓に、喜衛門という百姓が長年住んでいた。その喜衛門が、藤森に住む知人のところに、麻の種をもらいに行った。

酒を振る舞われて帰る頃には、すでに日が暮れていた。酔っていたものだから、裏道から帰ろうなどと思って、野中の道を、鼻歌を歌いながら帰った。

気がつくと、前の方に、手燭にロウソクを立てた二人の大男が見える。変な奴がいるなあ、と思って近づいて行くと、二人は身の丈3メートルに近い法師である。とは言うものの、法師の衣も着ていないし、数珠も持っていない。独りは藍の小袖を着ている。もう独りは、その頃流行の短めの小袖を着、脛を大きく出している。

喜衛門を見て、

「怪しい奴だ。鋤を担いでいるところを見ると、百姓だな。夜、この道を通るものは、たやすく通すわけにはいかない。こっちへ来い」

と、喜衛門の腕をとり、引きたてていった。何しろ3メートル近い大男である。力も強い。声を立てたところで、人影もない。そのまま山に入り、霞谷まで引きずられてきた。

喜衛門はそこの洞窟に放り込まれ、二人の法師は、入り口で見張っている。どうしようもない。人影は見えないし、逃げようとすれば、奥に追い返される。三日二夜、ものを食わず、洞の奥にうずくまっていた。

二人の法師も疲れたのだろう、居眠りをはじめたので、鋤を持って洞からで出た。その際、鋤で二人をなぎ倒し、一目散に走って家に帰った。そして、布団を被ってふるえていた。

じつは、喜衛門がいなくなったので、近所の人が集まり、探しに行こうとしていたのである。そのため、喜衛門の枕元で、どうしたのか尋ねたが、恐ろしさのせいか、喜衛門は何も答えなかった。

朝になって、喜衛門はようやく口を開き、自分の経験を語った。

血気にはやる若い者が10人ばかり、弓や、ちぎり(木の棒で出来た武器、中央が細く、両端が太い)、錆槍を持って、霞み谷に行った。

洞の入り口に行ってみると、30センチくらいのヒキガエルと亀が、鋤の傷を見せながら死んでいた。このものたちが化けていたのであろう。

その後は何事もなかった。

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2008年6月29日 (日)

無題  塚中の契り・2

6月29日(日)

無題(ぼんくら日記)

一日中雨で、買い物以外はどこにも出ませんでした。

Mizutani10009 女流棋士、梅沢ゆかりのスケッチ。

NHKテレビで対局中の姿。

実力ばかりでなく、囲碁界のアイドルだそうです。実物はもっときれいです。

手を顔のあてて考え込む癖があるようです。

塚中の契り・2(狗波利子・通算27回)

(前回のあらすじ。浅原平六は早世した弟の娘を育てたが、年頃になって、娘は亡くなってしまった。隣に、父に死に別れた筒岡権七という者がいたが、行方不明になった。その母は権七をさがして墓の辺りに来る)

たまたま雪が降って、辺りは真っ白である。新しい女の墓に、黒い袖が土からはみ出しているのが見えた。引き出してみると、土の底から権七の声が聞こえた。

「人の逢い引きをじゃまするのは誰だ」

人を頼んで墓を掘り出せば、どこから入ったのか、権七は女と二人で棺の中に寝ていた。女の屍は、まるで生きているようであった。寝ている下に、慶弔用の用紙に書かれた歌があった。女手で、

   流れてのうき名もらすな草がくれ

          結びし水の下さわぐとも

   独りねをならわぬ身にはあらねども

          君帰りにし床ぞさびしき

また、権七が書いたと思われる歌、

   契るてふ心のねより思いそむ

          軒の忍の茂りゆく袖

   笛による男鹿もさぞな身にかえて

          思い絶えせぬ習い成るらん

この歌も携えて家に帰ったけれども、権七は、正体もなくただぼうっとしている。

山伏を頼んで、祈ってもらったら、しばらくして元のようになった。

半年ばかり過ぎた頃、召し使っている下女に、女の亡霊がとりついた。下女は、あらぬ事を口走る。

「ああ恨めしい。隠していたことが現れて、浮き名がもれたことが恥ずかしい。前世で縁があったために、契りを交わした。それなのにもう、水が流れるように私のことを忘れた人に、もう一度契るわけがある」

といって涙を流した。

その夜権七は、急死した。

人々は、女の亡魂と二世を契る約束があったのであろうと、同じ墓に埋葬した。

                            終わり

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2008年6月28日 (土)

平々凡々 塚中の契り

6月28日(土)

平々凡々(ぼんくら日記)

血圧検査でS医院へ。薬を飲んでいるためか、血圧はずっと正常で、今日も、上が120台、下が70台である。

午後、川越、紀伊国屋へ。月に1回くらい紀伊国屋に行く。我がマンションの隣が本屋で、狭山市内では大きい方だが、そこでは間に合わない本もある。大した本を買うわけではないけれど・・・。

秩父の、江戸巡礼古道を1度歩いてみたいと思っている。以前、ほんの一部を歩いたことがあるが、最近、地図が手に入った。全長11キロくらいらしい。所々で沢を渡ったりするようだ。私が歩いたのは、竹林の中だった。こんど、天気の良い日に行ってみよう。

塚中の契り(狗波利子・通算36回)

西国、大伴家の侍、浅原平六は武術に有名な人である。二人の娘がいた。平六の弟平三郎が早く死んだので、その娘も引き取って育てた。

三人の娘が年ごろになったとき、自分の娘二人は嫁がせたが、平三郎の娘については、放っておいてなにもしなかった。娘は恨んで、こんな歌を詠んだ。

    をし鳥のとりどりつがうつばさにも

            いかに我のみ独りすむらん

この娘は病気になり、何とはなしにやせ衰え、ついに死んでしまった。城の東の方の野を墓とし、型どおり僧を呼び、経を上げ、念仏をして弔った。

平六の家の隣には、筒岡権七という、未だ二十歳を過ぎたばかりの男が住んでいた。父に早く死なれてから後は、立派に奉公をしていた。大変な美男子で、同僚で娘を持っている者たちは、婿に迎えたいと思っていた。しかし、どうしたことか、ふっと居なくなってしまった。

権七の母は半狂乱になって、あちこちを尋ね歩いたが、行方が知れない。物の怪にかどわかされたかも知れない、東の墓場を訪ねてみなさいと言われて、墓場の辺りを探し歩いた。

                                                      続く

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2008年6月27日 (金)

水彩画の会 非道に人を殺す報い

6月27日(金)

水彩画の会(ぼんくら日記)

水彩画の会。絵を先に描き、早めに終わって、公民館のロビーに展示してある絵を取り外す。パネルの片付け、など。

私たちのグループで、私だけが我が道を行くで、子供をモチーフにした絵を描いている。

Mizutani10009 写実を離れているのだが、これがちょっと辛い。たとえば、今日描こうとした絵。

Mizutani10010 雨の中を、左に少女がいて、犬が誰かの靴を銜えている。右の遠くに少年がいて、片手に靴を持ちながら歩いている。

こんな絵を描きたいと思った。そうするために、バックの風景が必要だが、これを想像で描いた。写真でも何でも、本当の風景がある方が、描きやすいように思う。モチーフが先にあって、風景を当てはめようと言うのだから、なかなか上手くは行かない。

非道に人を殺す報い(狗波利子・通算35回)

周防の国(山口県)野上の庄に、関九兵衛尉兼元という武勇のさむらいがいあり、伊豆山中城の戦いの時、比類無き手柄をたて、中国地方に地位を得た。

関には召し使う夫婦がいたが、大した罪もないのに、無理難題を言いかけて、寛永8年(1628年)二人を打ち殺してしまった。

夫婦は最後に願った。我々は大した罪もないのに打ち殺される。何とも残念だ。長年私心無く仕えてきたが、このありさまだ。この恨みは深い。来世というものがなければどうしようもないけれど、もし来世があるならば、この恨みを晴らしてやる、と、首を討たれた。

二人は関の家の西1キロばかり先の荒野に埋められた。死んで7日ばかりたった夜、その墓に火が燃えだして、夜中にはボールのようになった。そして、関の家まで行った。はじめは軒端のあたりにあって、火の色も青く、光も薄かった。

100日を過ぎてから、火の色は強く、赤くなり、関の家に来る。門を固く閉ざしているのだが、どこからか家に入ってしまう。子どもたちがおびえて、気絶してしまう。家中にものが驚いて、大騒ぎしたが、その火が家の外に出ると、子どもたちは正気に戻った。

魔物を追い払うという音の出る鏃を射たが、変化はなかった。僧侶を呼んで経を読み、山伏を呼んで祈らせ、お札を貼ったりしたが、少しも効き目がない。

毎晩のことなので、家中疲れ果ててしまった。二人の子供は熱病にかかり、まるで脳膜炎のようになった。医者に治療してもらったが、どうにもならず、だんだん弱って、兄弟は同じ日に死んだ。

墓の火はそれでは治まらず、妻もまた煩いだし、狂気のようになって、狂い死にした。

時空長老という坊さんを頼んで、墓に卒塔婆を立てたら、やっとのpことで静まった。

火は燃え止んだんだが、関はまもなく死んだ。関の家は、それで絶えてしまった。

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2008年6月26日 (木)

屍舞い踊る

6月26日(木)

定例会(ぼんくら日記)

午前、ボラグループ定例会

午後、老人介護施設K。

屍舞い踊る(狗波利子・通算25回)

山崎の庄屋、宗五郎という者の妻は、河内の国(大阪府)高安の里の者である。性格はだらしなく、恥知らずである。死後のことなど、少しも考えない。結婚して何年もたつが、子供は居ない。生家は日蓮宗だが、題目一つ唱えたことはない。

家のこと、田畑のこと、牛馬のことなど気に懸けることもなく、使用人たちには辛くあたり、ずけづけとものを言い、怒鳴り散らす。優しさがまるで感じられない。

死後のことも気に懸けなさいと忠告した人には、見ることも出来ないあの世のことより、この世の方が大事だ。人に頼って死後の心配などをするのは無駄なことだ。と、口から出任せに恐ろしいことを言う。その下で使われる者、百姓たちは、みんな彼女を憎んだ。

そんな女にも寿命はある。宗五郎の妻は、文禄2年(1593年)、ちょっと病気をして、そのまま亡くなってしまった。葬儀は明日と言うことにして、疎遠だった者も含めて、人々がその家に詰めかけた。枕元には香をたき、通夜をしていると、何とはなしにもの悲しくなってくる。

そんな折、遙か西の方から音楽が聞こえだし、だんだん近づいてくる。そしてとうとう庭から聞こえるようになった。人々が不思議に思っているうちに、死体が動き出した。音楽は、もう、家の中から聞こえるようである。

死体は音楽の調子に合わせて起き上がり、手を上げ、足を踏んで踊り出した。人々はびっくりして後ずさりしていると、音楽は、また、家の外に出て行った。音楽が門の外に出ると、死体も倒れたり転がったりしながら、門の外に出る。そして、音楽に合わせて動いていく。

家中の者は畏れ、騒いで、やれ松明だ、やれ灯火だと言いつのる。月の暗い夜だった。

主の宗五郎もあきれ、とまどうが、どうも出来ない。庭の前に生えている桑の木の枝を、手頃な大きさに切って杖を作り、酒の酔いにまかせて死体の後を追って行く。

2キロばかり先の野原に墓地がある。そこに生えている松の当たりから音楽の音が聞こえる。宗五郎が近づいてみると、松の根元に火が燃えていて、屍はその前で踊っている。宗五郎は持ってきた杖で、屍を打ち据えた。すると、屍は倒れ、灯が消え、音楽もはたと止んだ。宗五郎は屍を持ち帰り、葬った。

なぜそんなことが起きたのかは、分からない。

                       終わり

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2008年6月25日 (水)

丸山  柿崎和泉守亡魂

6月25日(水)

日向山から丸山へ(ぼんくら日記)

Hさん、Kさんとハイキング。Aさんは九州へ行っているので、今回は3人。

コース

西武線芦ヶ久保駅~日向山(633メートル)~丸山(960メートル)-大野峠~赤谷~芦ヶ久保駅

日向山も丸山も車道で頂上近くまでいけるけれども、それではつまらない。やはり山道を歩く。日向山に向かう道で、すぐしたに駐車場を見おろせるあたり、ツツジが満開。その他、名は知らないが、黄色の花が咲いている。ベンチも置いてあり、時間によっては、ここで昼食なんてのも、いいかも。

その他、コース中に目立った花としては、ヤマボウシ、ホタルブクロなど。カメラが無くて残念。

日向山から丸山の途中に、黄色い木イチゴが沢山あって、3人それぞれ、一粒ずつ食べる。けっこう甘い。

芦ヶ久保から直接丸山に行くコースは比較的良いが、日向山のコースは、道の手入れがされていない。荒れていると言うほどでもないが、イノコズチがズボンにびっしり付いたり、イラクサの小さな棘が手に刺さったりする。

今にも降り出しそうな曇り空だったせいもあって、はっきりしないが、日向山頂上の見晴らしは、あまり良くなさそう。

芦ヶ久保から丸山への道に合流すると、しばらくの間、道が広くなる。コース全体に杉林、ヒノキ林が多い。

丸山頂上で昼食。

大野峠を過ぎると、何度か沢をわたり返す。沢は梅雨で水量が多く、岩の間を滝のように滑る落ちる。なかなか見応えがある。

梅雨だから、蒸し暑いのはやむを得ないか。歩行時間は4時間半くらいかな。

柿崎和泉守亡魂(狗波利子・通算34回)

   原作・浅野了意   現代語訳・ぼんくらカエル

越後の国(新潟県)長尾影虎謙信の家臣、柿崎和泉守は有名な武将である。以前、川中島で信玄と戦ったときも、柿崎は先陣として、手柄があったため、謙信はいよいよ信頼した。越中(富山県)に住み、北越(新潟)の侍たちも、柿崎に従った。

ある時、柿崎は京都で馬を売った。きわめて優れた荒馬である。織田信長は、柿崎の名馬と聞いて、高く買った上に、布一反を添えた。さらに、このような良い馬が在れば、いつでも売るように、と書を送った。

柿崎はどう思ったのか、このことを謙信には言わなかった。謙信は程なくこの事実を知り、大いに怒り、柿崎を呼び出し、殺害した。

柿崎の亡魂はよほど悔しかったのか、時々謙信の前に現れて怒り狂った。謙信はさすがに武勇の大将、物ともしないようだった。

とは言うものの、天正6年(1578年)3月9日、信玄は脳卒中で倒れた。痰咳はひどく、呼吸はいびきの如く、顔は赤く、汗は玉のようである。家中の者、四方八方に医者を捜し、さまざまな薬を与え、灸をすえ、鍼を刺したが、少しの効き目もなく、ついに3月13日に亡くなってしまう。49歳であった。

罪もない忠節の家臣を殺し、その恨みのため、未だ武勇の盛りに亡くなってしまった。柿崎に取り殺されたと人々はうわさしている。

                     終わり

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2008年6月24日 (火)

デジカメ  田上の雪地蔵・3

6月24日(火)

デジカメ、行方不明(ぼんくら日記)

買ってからまだ10回も使っていないのに、デジカメが行方不明になりました。近ごろ惚けてきたので、年中捜し物をしています。しかしデジカメは、置く場所がだいたい決まっているし、そこになければリュックその他、外出するときに持って行く鞄などの中と、相場が決まっています。それなのに、どこをさがしても見つかりません。何かの拍子にひょっこり出てくることもあるかも知れませんが、無くした可能性の方が大です。どこでどうしたか。全く心当たりがありません。やっぱり、ボケかなあ。

田上の雪地蔵・3(狗波利子・通算32回)

   原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ・子供の頃、雪地蔵を作り、戯れて開眼供養をした明阿僧都は、説法上手の学僧である。ある時、1昼夜息絶えたように見えたが、じつは冥土に案内され、閻魔大王の新築寺院の供養を頼まれる)

僧都は新築の精舎に入り、高座に上って説法をはじめた。閻魔大王をはじめ、並み居る冥官たちは、世界宇宙の真理を述べる説法に感激した。

「この上は、何なりと望みを言いなさい」

と大王が言う。僧都が答える。

「出家して名利を離れた身なので、特にに望むものはない。願わくば、母に会わせてもらいたい。私を育ててくれた恩に報いたいのです」

大王は僧都の母が叫喚地獄にいることを知り、冥官一人に案内させて、僧都を地獄に行かせた。

銅の大地、鉄の門、燃えさかる猛火の音、大音響の雷、罪人の泣き叫ぶ声、魂も消え入るほどである。

冥官が門を叩くと、獄卒が門を開いた。猛火がほとばしり出る。

僧都が母を訪ねると、獄卒は炭の塊のような物を鉾に貫いて投げてよこす。外の風に当たって炭の塊は動きだし、しばらくして人の形になる。僧都の母であった。

僧都の悲しみは限りなく、言葉も出ず、ただ嘆くのみであった。

今は本物の地蔵に生まれ変わった元雪地蔵が来て、

「そなたの母をなんとか助けようと思ったが、力が及ばなかった。早く娑婆に帰り、法華経を書いて弔いなさい」

といわれ、夢のように感じて僧都はよみがえった。

僧都は母のために金字で法華経の写経をし、金の地蔵菩薩像をつくった。それが完成した日、母は都卒天に生まれ変わったと夢の中で告げられた。僧都の憂いは晴れ、ますます熱心に修行をした。

雪から生まれ変わった地蔵菩薩は、しばらく田上の草堂におられたが、うち続く世の乱れに、焼け失せてしまったと言うことである。

                    終わり

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2008年6月23日 (月)

尺貫法・田上の雪地蔵2

6月23日(月)

尺貫法(ぼんくら日記)

精障者作業所Mへ。

計量法というのがあって、今は何でもメートル法で表記するようになっている。

私は琴を作る仕事をしていたから、現役時代は尺貫法に馴染んできた。そんな私でも、身長や体重はメートル法が分かりやすい。長さや重さについてはメートル法である。

しかし、体積となると、少し事情が違ってくる。1升とか1合の方が、1リットルなどと言うよりは実感がある。

面積となると、なおさらである。○平方メートルといわれるよりは、○坪といわれるほうがイメージがわく。部屋の大きさは○畳に限る。6畳とか4畳半とかなら、ははあと思うけれども、○○平方メートルではぴんと来ない。若い人は、こんな場合でもメートル法が分かりやすいのだろうか。

今でも建築資材などは、尺貫法が基礎になっている場合が多い。たとえばベニヤ板は、90センチに180センチの大きさが標準である。これは1畳の大きさで、2枚合わせると1坪になる。市販されている障子紙は、90センチ幅の障子が貼れる寸法である。

昔の日本家屋は建具も畳も、窓の大きさも、部屋の間取りも、90センチ、180センチの寸法を積み重ねたり、割ったりする大きさで出来ていた。

精障者作業所Mで、障子紙を使う作業をしたものだから、ふとこんなことを考えてみた。

田上の雪地蔵・2(狗波利子・通算32)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくら日記

(前回のあらすじ・子供の頃雪地蔵を作って遊び、その雪地蔵をたわむれに供養した子供が、学識豊かな明阿僧都という僧になった。明阿僧都は急病になり、息絶えたが、1昼夜後によみがえった)

明阿僧都は、その1昼夜の出来事を話す。

夕方2人の役人が来て、知らないところに連れて行かれた。玉で出来た階段を上がり、瑠璃の大地を踏みしめていくと、楼門があった。内には宝殿があり、屋根は黄金のタルキ、鳳の瓦、、虹の梁で出来ている。

庭には見慣れない樹木が花を乱れ咲かせている。もしここが天上でないとしたら、いったいどの浄土だろうかといぶかりながら見渡せば、御殿の左に、小さな旗をつけた矛が立っている。その上には、人の頭がふたつ載っている。右の方には、黄金の台に大きな鏡が立てられて、四方に旗が翻っている。

青い衣の役人が玉のすだれを上げれば、その床は、金銀珊瑚などで出来ていた。

垣の外には、囚人が、手かせ、首かせをされて、泣き叫ぶありさま、まことに哀れである。

この様子を見て、ここは閻魔大王の宮殿であると分かった。

閻魔大王が現れて玉の床に座ると、冥官二人が明阿僧都を招き入れ、床に座らせて言った。

「寺院を新築したので、あなたをここに迎えました。供養を述べて、法事を行ってください」

僧都が中門まで進むと、若い法師が来て、

「私はその昔、あなたが供養した雪地蔵です。あなたが軽い気持ちで雪地蔵の開眼供養を行った功徳で、さわやかな弁舌と学識を得たのです。それを感じて、閻魔大王は新しい寺院の供養にあなたを迎えました。あなたにこの如意棒を与えましょう。これを持って説法をすれば、弁舌は泉のようにわいて、滞ることはないでしょう。」

と言って去った。

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2008年6月22日 (日)

気が抜けた日・田上の雪地蔵

6月22日(日)

気が抜けた1日(ぼんくら日記)

今日はちょっと気が抜けたような1日で、まとまったことは何もしていません。

この前覚えた八方ダシを作ってみました。

次の水彩画の会ため、絵に登場させる子供の下絵を描いて見ました。

本を少し読みました。

数独をやりました。

狗波利子の下読みをしました。

書いてみると、いろいろやってるナア。そうか、前からやるべきだと思っていた掃除をしなかったので、何もしなかったような気がするのだな。それと、食事を作る気がしなくて、外食に出たこと。気分のもとは、これだな。

田上の雪地蔵(狗波利子・通算31回)

元亀2年(1571年)2月(旧暦)の半ば、春だというのに寒くて、冷たい風が吹きすさび、大雪が降った。山々は雪を戴き、まるで白銀の世界である。木々の梢は花のように雪を飾り、まるで冬に戻ったようだ。

近江の国(滋賀県)田上というところの子どもたちが、雪にはしゃいで大勢集まり、雪ころがしをして遊んだ。そして雪地蔵を作り、花や香の形まで雪でそっくりに作り、岩の上に置いて、本物の地蔵にするように開眼供養をした。

12,3歳くらいの子供が供養の導師となり、恭しく地蔵尊建立の趣意を述べた。

・・・そもそもこの地蔵菩薩は全部雪で出来ている。この雪地蔵は、地獄から天上に至るまで6道のである。この菩薩の誓いは、暖かな日ざしが来れば、残りなくとけることだろう。

と冗談を言った。いい加減な戯れごとに似ているけれど、雪で作った仏像の道理にかなった祈りだったらしい。この子供、もともとそのような生まれつきだったのだろう。長じて出家をし、説法上手の法師として知られるようになる。天台の教理を学び、講師も務めるほど学識が高かった。名は明阿僧都という。

この明阿僧都、にわかに病を得て息絶えてしまった。脇の下が温かく、脈が残っていたので、葬式はしなかった。弟子たちが見守る中、1昼夜して、明阿僧都は目を覚ました。

                         続く

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2008年6月21日 (土)

七夕飾り・俳句の会

6月21日(土)

七夕飾り(ぼんくら日記)

今日は夏至だそうです。曇り空で、時々雨が降るような空では、一年中でもっとも昼が長いと言われても、その実感はありません。

午前中、Sさんに「社協の七夕飾りの手伝いをしてくれ」といわれて行ってみたら、「どんな七夕飾りを作るか」という会議だった。私は実際に作ることの手伝いだと思っていたので、少しとまどってしまった。

俳句の会(ぼんくら日記・2)

午後、俳句の会。

選をして、合評をして、終わってから夏季俳句大会の相談。なんだか、今日は会議だけしているようだ。新年句会、夏季俳句大会などでは、少し前から、私は実行副委員長とか言う役をやらされている。なーに、何にも出来はしないのさ。俳句歴は一番短いのである。何も分かりはしない。

    一人なれば何しても良し昼寝する   ぼんくらカエル

    梅雨めくや傷に触れずに顔洗う      〃

俳句の会のM・Yさんに『勇気ある人』という著書を戴く。中国残留孤児支援に人生を懸けた山村文子さんの伝記のようだ。

その他(ぼんくら日記・3)

「狗波利子」もう1日休みます。下読みの時間がありませんでした。

代わりに、新聞からのスケッチ。

Mizutani10009 Mizutani10010

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2008年6月20日 (金)

人間の愚かさ 狗波利子休み

6月20日(金)

人間の愚かさ・他(ぼんくら日記・1)

特養老人ホームMへ。

Mizutani10009 スーダンの難民キャンプの子供。毎日新聞の写真から。

新聞の写真を絵にして載せるくらいなら、写真をそのまま載せる方がいいんだよね。

でも、描いてみたいわけですな。写真なら新聞社のホームページにのっているでしょうからね。それに、バックも変えています。

Mizutani10010 こちらはパキスタンの少女。やはり毎日新聞の写真からです。おばさんに見えるのは、私の腕のせいです。

食糧を配給するトラックに、声を上げて呼びかけているところだそうです。

こんな姿がなくなる時って、いつか来るのでしょうか。

人間の愚かさ、悲しさ、そして怒り。

今日、「狗波利子」は休みます(ぼんくら日記・2)

一昨日「狗波利子」の第3巻が終わりました。昨日は第4巻の1回目を書きました。半端ですが、今日は休みます。

本にでもするのであれば、言葉の一つ一つにもっと注意して、言葉一つの意味が分からない場合は、1日考えるということも出来ます。しかし、ほぼ毎日書くと決めているので、時々は見切り発車になります。誤訳、珍訳もあることでしょう。しかし、なるべくそんなことがないように、下読みをし、辞書、辞典に当たり、慎重に書いてはいるのです。間違いを発見された方は、教えてください。

「狗波利子」の内容は、1巻よりも、2巻、3巻の方がおもしろいように感じます。4巻はどうでしょうか。

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2008年6月19日 (木)

きりたんぽ  味方ヶ原の戦い

6月19日(木)

きりたんぽ(ぼんくら日記)

老人介護施設Kへ。

私のことでも、待っていてくれる人がいる。ある人は手品を要求する。他の人は、紙切りを要求する。そして、話しを愉しみたい人もいる。

100歳になるUさんは、私と雑談することを楽しみにしてくれる。今日は、私の生まれ故郷のことを聞かれた。毎週行くわけではないのに、ちゃんと私のことを覚えている。

100歳になっても、自分のことだけを話すのではなくて、人の話を聞こうとするところがすごい。秋田生まれだと答えると、秋田の名物はなんだと聞く。食べ物では、きりたんぽ、はたはた、しょっつる鍋、と答える。

きりたんぽは聞いたことはあるが食べたことはない、という。生きているうちに食べてみたいものだ、とも言う。食べさせてあげたな。

たまたま、Uさんの家のお嫁さんは、私の知り合いである。Uさんは、私がお嫁さんを知っていることを不思議がるけれども、ボランティア活動の中で知りあったものです。こんど会ったら、きりたんぽのことを話してみます。

味方ヶ原の戦(狗波利子・通算30回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

永禄、天正の間(1558-1585年)は天下は大いに乱れ、近くでも遠くでも、争いが絶えなかった。互いに隣国を奪おう、境界を広げようと戦いを挑んだ。家来は主君を欺き、主君は家来を疑う。兄弟は敵となり、親子は相争った。

運の良いものは数国の主となり、勢いを失えば浪々の身となる。栄枯は移り、盛衰は日ごとに変わる。

その間に死する者、幾千万人とも知れない。兵乱はうち続き、京も田舎も静まるときがない。世の中の人が死に絶えるのではないかと思うほどだ。

元亀3年(1572年)12月22日甲斐の国の武田信玄は5万以上の兵を率いて、遠州浜松に押し入り、味方ヶ原に攻め入った。

徳川方には織田信長公からの加勢として、平手監物、大垣卜全、安藤伊賀守以下九大将が加わった。岡崎白州賀まで武将たちが兜の星を並べて埋め尽くした。さらには、水野下野守、滝川伊予守、毛利河内守らが、備えを堅くして待ち受けた。

信玄側は、小山田兵衛が先陣を務め、徳川方の先手、内藤三左衛門と合戦を始めた。しかし、小山田はうち負けて退いた。次に山縣三郎兵衛が続いたが、酒井左衛門尉にうち負けて危なくなったとき、横手から四郎勝頼が援軍に入り持ちこたえた。しかしながら、北條氏政の加勢大内式部少輔が徳川方の鉄砲で胸板を撃ち抜かれ、馬から逆さまに落ちて死亡した。

これに勢いを得て、徳川方はかさにかかって攻めかかる。本田平八、榊原小平太、安倍善九郎、大菅、萱沼、櫻井、設楽(シダリ)、足助(アスケ)の人々が、息つく暇もなく責め立てる。

浜松と味方ヶ原の間に犀ヶ崖という深い谷がある。武田の軍勢は破れて、この谷に突き落とされた。落ちた上にさらに落ちてきて、うち重なり、自分の刀に貫かれたりして死する者、数が知れない。やむを得ず、信玄は陣を払って帰った。

その後、死んだものの魂が谷底に残り、夜な夜な泣き叫んだ。徳川家の僧が五色の布を灯籠に張り、花や食べ物を供え、七月十三日から七月十五日まで盂蘭盆会を行い、念仏踊りをした。それで泣き声は止んだ。

この行事を賓灯籠と名付け、以後毎年七月には、魂祭りとして念仏踊りをしているらしい。

                      終わり

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2008年6月18日 (水)

品がない・深川左近の亡霊2

6月18日(水)

品がない(ぼんくら日記)

精障者作業所みちくさへ。

近ごろは、ほんとに品のない世の中になりました。

犬のファションショウをやることは聞いていました。まあいいでしょう。宝石で飾るんだそうですね。犬に宝石ですか。豚に真珠といいますけどね。

犬を宝石で飾り立てる人がいれば、その飼い主をセレブだなどとおだてる人がいる。分からないなあ、この感覚。犬を宝石で飾るなどと言うのは恥ずかしいことだと思うのだけれども、飾る方の人にしてみたら、逆に、それがなんで恥ずかしいのか分からないんだろうな。

金儲けのためならなんでもする。儲けた金はどう使おうと自由だ、といったところかな。アフリカの人が飢えようとも、金儲けのために小麦にちょっかいを出す、世界中の庶民が困ろうとも、石油価格を操作する。何をしても自分が儲かればいいんだ。企業が儲けるためには、ワーキングプアーが増えることだって平気だ。・・・品がないねえ。

深川左近亡霊・2(狗波利子・通算29回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらビッキ

(前回のあらすじ・黒川俊昌と深川左近は、先に死んだ方があの世の様子を知らせに来ると約束していた。深川左近が亡くなって数日後の夜、黒川の庭に左近の声がする。黒川は左近の言葉に従い、灯りを消して左近を招き入れる。)

真っ暗な中で、深川左近は部屋に入った。深川は昔のことなどを語った。その声、言葉付きなど、生前と少しも変わらない。

「ところで、来世というのはあるのかね」

と黒川が聞く。

「確かにある。罪の深い者は地獄に落とされる。次に罪深い者が行くのが餓鬼道だ。この世の罪は正直に現れる。たとえわずかでも、罪の報いはある。私より先に死んだ者も、それぞれ罪の深さによって、畜生道に行ったり、修羅のちまたに行ったりしている。人間に帰る者もある」

深川が語るうちに、嫌な匂いがあたりにただよい、黒川が暗闇の中で手を払ってみると、何か冷たいものが手に触る。亡霊だったら、触って分かるような形はないはずだと思って、その物を押してみたけれど、大層重そうだ。

深川はもう帰るという。黒川は止めたけれども、深川はなおも帰るという。

明け方になって、黒川が灯りをつけてよく見れば、そこにあったのは深川ではなくて、2メートル以上も在ろうかという大男の死体だった。死んでからしばらく立つらしくて、腿のあたりは爛れはじめていた。その臭いことと言ったらない。

その死体は、遠くの野原に捨てた。見物人が沢山来て、中の一人が、私の兄だという。家の中で死んだのに、不意にいなくなってしまったのだそうだ。その死体を持ち帰り、葬式をしたということだ。

                        終わり

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2008年6月17日 (火)

高齢者医療保険・深川左近亡霊

6月17日(火)

Mizutani10009 ぼんくら日記1

小幡歯科へ。今回は今日で終わり。

彩の森公園へ散歩。散歩とは言うものの、稲荷山公園駅までは自転車。歩いたのは、駅からの往復と公園内だけ。軟弱だなあ。

スケッチ数枚。これはそのうちの1枚。

高齢者医療保険(ぼんくら日記2)

私が子供の頃、日本は戦争をしていた。戦争が終わったのは、私が8歳の時である。その私は、現在71歳。今75歳以上の人は、みな戦争経験者である。そして、戦後の貧しい時代を生きてきた。

食うためには、なんでもしなくてはならなかった。ちゃんとした企業に勤められた人はいい方で、給料をくれる会社なら、たとえ労働条件は悪くても勤めなければならなかった。厚生年金にも入っていないようなところで、長年働いてきた人も多い。

私は曲がりなりにも厚生年金を貰えているので、赤字気味だが食べてはいける。しかし、国民年金だけの人は、本当に苦しいだろう。中には、無年金の人もいる。国は、無年金の人からさえ、高齢者医療保険の保険料を取るのだという。

政治は、弱い立場の者を保護するためにこそ在るべきだろう。それがこのごろは大分おかしい。企業は儲かっているのに、サラリーマンの手取りは、むしろ減り気味だ。ワーキングプアーが増えている。それで景気がいいのだ、上向きなのだという。どこに目を向けているのだろうか。

金儲けの上手な者を才能のある者だとして保護し、企業を設けさせることで庶民の生活を向上させるというのが、大義名分らしい。しかし、現実はどうだ。健康で、働く意欲のある者でも、ワーキングプアーなどという救いのない状態におかれている。

75歳以上の老人や、もっと若くても重度の障害者は、その人たちだけの医療保険に入れて、応分の負担をしてもらうのだという。もっともみたいな言い分だが、医療費のかかるところだけを別枠にしようと言うのだ。保険の目的は、みんなで共同して弱い者を支えようということではないか。弱い者を切り離すのが、なぜ保険なのだ。

75歳以上の多くの人は、恵まれない立場で頑張ってきた人たちである。年金などの面では、戦後の混乱の中で仕事を始めなくてはならなかった分だけ、不十分な人が多い。貧しい中から、現在の豊かと言われる社会を作り上げた人々である。そして高齢になったら、このありさまだ。保険とは弱い者いじめをるることなのか。

マスコミで姦しい高齢者医療保険について、私などが平凡な意見を言ってみてもという気はするけれど、あまりにひどいと思うものだから、つい書いてしまいました。

深川左近亡霊(狗波利子・通算28回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

左京太夫大内義隆の家臣、黒川市左衛門尉俊昌は、大力武勇の侍である。

黒川がつくづく考えてみるに、死んだ人は再び帰ってくることはない。先に死んだ人は、残った人のためにも帰ってきて、あの世の様子や生まれ変わった先などを知らせてくれたらいいのに、と思った。

黒川の同僚に深川左近という者が居た。

「私も同じことを考えている。どちらかが先に死んだら、必ずかえってきて知らせることにしよう」

と約束をした。

何年か過ぎて、左近が先になくなった。

数日後、黒川が書院で詩歌を口ずさんでいると、庭に誰かが訪れたような気配がある。そして、

「黒川殿はご在宅か」

という。

「その声は深川殿ではないか。まず、家に入られよ」

「入るには灯火を消してもらわなくてはならない。話しはそれからだ」

日はすでに暮れて、月もない夜だったので、黒川は灯を点していたが、その灯を吹き消した。 

                           続く  

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2008年6月16日 (月)

特殊法人の無駄遣い 大内義隆の歌

6月16日(月)

ぼんくら日記

精障者作業所Mへ。

特殊法人の無駄遣い

毎日新聞夕刊に、ジャーナリスト若林亜紀さんの経験談が出ている。10年ほど特殊法人に勤めたことがあるのだそうで、その時の話しだ。

特殊法人の無駄遣いについてはマスコミでさんざん取り上げられているから、今さらびっくりもしないけれども、やっぱりナア、とは思う。

若林さんの経験のほんの1部を、毎日新聞を読んでいない人のために採録。

「3月が近くなると、上司から『お母さんと好きなところへ旅行に行った来なさい』と出張をうながされ、現金を渡された」

「私も(中略)『労働問題の研究期間との意見交換』という名目で米国へ行ったが、実際は(中略)名刺を交換しただけ」

「『銭湯に行ってきます』といって毎日3時間は戻ってこない後輩に文句を言ったら、財務省から出張していた課長から『(残業代は)自分の金じゃないのに、ぎちぎち言うな』と怒られた」

ほかにもこんな話しが満載。真面目にやっている人だっているとは思うけどねえ。これだもんなあ。

大内義隆の歌(狗波利子通算27回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

大内義隆の家系は、推古天皇の時代より始まり、周防の国山口に城を構え、中国地方の大名として、7ヶ国を支配した。従2位左京太夫にまで成り上がった。

しかし、驕りたかぶり、取り巻きにおだてられ、政治をないがしろにした。女色と酒におぼれていたら、家臣の陶尾張守に国を奪われてしまった。自身は自害をし、24代続いた家系は絶えるというありさまだ。

全盛時には、京都から著名な人々を呼び寄せ、春は花、秋は紅葉と遊興にふけり、やれ雪の朝だ、月の夜だと酒宴を催し、歌を詠み、詩を作っていた。

それがあっさりと滅びてしまったので、心ある人々は、皆気の毒に思ったものだ。

義隆がおごり浮かれていた頃、愛人に恋文を送ったのだが、使いの者が間違えて、本妻の元に持って行ってしまった。本妻は愛人に、次のような歌を送った。

    頼むなよ行く末かけてかわらじと

           我にもいいし人のことの葉

また、義隆のは次のような歌を送った。

    思うことふたつありその浜千鳥

            ふみたがへたる跡とこそみれ

義隆はこの歌をみて、大いに恥ずかしく、使いの者を手打ちにした。そして本妻の元に通うようにしたが、すでに没落の時は来ていた。

頼むべき味方もなく、泣く泣く城を出て、主従11人が腹を切り、大内家は滅びた。本妻をはじめ、召し使われていた女たちも、互いに差し違えて重なるようにして死んだ。哀れなことである。

しばらくの間、女たちが死んだ深川の大寧寺では、夜ごとに女の泣き声が聞こえた。寺の僧が、重々しく法要を行い弔ったので、その泣き声も治まった。

                          終わり

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2008年6月15日 (日)

いろいろ  隅田宮内卿の怪異

6月15日(日)

Mizutani10009 地震の死者が増えている。被害に遭われた方々、お見舞い申し上げます。

良い天気で、やることはないしで、入間川河川敷の散歩。とは言っても、暑くて、そうそうに帰って来ちゃった。

絵は、河川敷で描いた物ではありません。新聞の写真からです。

『狗波利子』今書いているのは第3巻。1巻はつまらなかったけれど、2巻、3巻と進むに従って、興味が持てるようになってきた。仏教説話的なめんはあるけれど、説教臭が抜けてきている。まだしっくりしないところもあるけれど・・・。たとえば男尊女卑、なお残る出家至上の思想。仏に拝めば、長い間あくどいことをした人でも救われちゃうような話。

隅田宮内卿の怪異(狗波利子・通算27回)

   原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

人の家が没落するときは、必ず不思議なことが起こるという。しかし、気にしないでいると、それとは分からないこともある。後になって、あれがそうだったか、と思い当たったりするのである。

村上義清の家臣、隅田宮内卿は武勇に優れた者として知られていた。武田信玄が大勢を引き連れて、信濃の国小県戸石の城に押し寄せて戦を仕掛けたとき、信玄秘蔵の侍大将、甘利備前守を討ち取ったのは隅田宮内卿である。

それほど武勇に優れていたが、運に見放されると、やることなすこと、思い通りに行かなくなる。このような状態ではいつまで生きていったところで、立身出世も出来はしないとふさぎ込んでいた。時には仮病を使って、屋敷に籠もったりもした。

すると屋敷の中に怪しい化け物が出てくるようになった。その化け物、声は聞こえるのだが姿は現さない。朝夕には、人並みに食事を持ってこさせ、いつの間にか食べてしまう。

使用人が宮内卿の噂をすれば、空から声がして、

「おまえたちは主人の悪口を言うな。宮内に言いつけて、首にさせるぞ」

と脅す。寝物語で化け物の話しをすれば、

「わしの悪口を言えば、この家のためにならないぞ」

と、だみ声で怒鳴る。

毎日使っている道具類や着るものが、訳もなく消え失せて、どこをさがしても出てこないのに、ふっと目の前に現れたりする。

家中の者がうんざりして、山伏を頼んで祈祷をさせた。お札を貼れば片っ端から剥がし、お供物を盛って神仏に供えれば、引きずりおろす始末である。山伏が怒って、角張った数珠をもみ、呪文を唱えれば、その手を離れなくする。山伏は、ほうほうの態で帰ってしまった。

神子を頼んで神霊を呼び寄せる梓弓に懸けて正体を知ろうとしたが、名乗ることもなく、弓の弦を打ち切り、空からはせせら笑う声が聞こえた。

神楽を奏して神意を問おうとしたが、そのものの背中に木枕を差し込んでいたずらをする。

神主を呼んで祝詞を唱え、御弊を振って祈ったところ、家の梁の上から声がした。

「お前たちは儂をうるさがり、いろいろな者を呼び寄せて祈祷をするとは何事だ。そんなことをするなら、この家を挽き崩すぞ」

といって、梁の上からノコギリを挽く音がした。その音が夜になると、ますます激しくなる。あまりのことに灯りをつけて棟木の当たりを見ようとしたら、その火を吹き消してしまう。家中の者が外に出て、みんなで灯りをつけて見たところ、棟木には別段の変化がなかった。

妖怪は、おもしろがって笑っている。

高僧を頼んで、経を読みながら、ニラやニンニクなど臭みのある物を家の外に出したところ、化け物はやっと静かになった。

これは家が滅びる前兆だったのだろう。

その後宮内卿は浮ついた気持ちで戦に出て、笛吹峠で討ち死にした。隅田の家はそれで絶えた。

                           終わり。

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2008年6月14日 (土)

地震、他  甲府の亡霊・2

6月14日(土)

地震、他

こんどは日本で大地震。

岩手内陸南部で震度6強。私の故郷秋田内陸南部は震度5。

死者は現在のところ3名。行方不明者12名。

次女からビールのおくりもの。今日か明日かが父の日らしい。

甲府の亡霊・2(狗波利子・通算27回)

    原作・浅野了意  現代語訳・ぼんくらカエル

(前回のあらすじ・好雲という僧が諸国修行中に甲府で賤ヶ屋に宿を取った。宿の主は、武田家が滅びてからこのあたりは寂れ、異様な出来事も起こる。それでも良ければお泊まり下さいという。)

好雲が寝ていると、17,8の女が部屋に入ってきた。美しく、雪のように白い肌で、後れ毛が鬢のあたりにかかっている。女がほほえみながら話しかけた。

「秋空は静かで、独り寝は物寂しいですね。虫たちが夜もすがら鳴き通し、月影に風がそよぎます。桐の葉も静かに落ちるこんな夜を、一人で過ごすのも淋しくて尋ねて参りました。

    草の葉も露も我が身の上なれば

           ほさぬ袖だに月やどるらん

この歌はいかがですか。お坊様、目を開けて下さいな」

好雲は何も言わなかった。女はさらに話しかける。

「今夜はこの賎ヶ屋にも月影が美しく差し込んでいます。共に酒を酌み交わし、旅の心を慰めましょうよ」

それでも好雲は返事をしなかった。女は重ねて言う。

「なんでそのように何も言わないのですか。まるでくちなしのようですね。たとえば恋の闇に迷う人でも、まだうち解けなくても、一言くらいは話すものですよ。なんでそれほどまで黙っているのですか」

    いかにかく問えど答へぬくちなしの

            花も染まれば色に出るを

また、声に出して詩を吟じた。

    黄帝上天の時   鼎湖元ここに在り

    七十二玉質    化して黄金の宝を作る

それを聞いても、好雲はものを言わなかった。

やむを得ず、女は座を立って、帰るかに見えたが、そのまま跡形もなく消え失せた。

女は好雲の心を乱れさせようとしていたのである。最後の詩は、中国の昔の伝説を言っている。黄帝は鼎湖というところから龍にのって天に昇った。その時72人の玉女が黄金の宝に変じて、地中に埋められたという。もし好雲が女に心を許して戯れるなら、武田の埋蔵金のありかを教えますよという謎である。 

人の心を惑わすものは、色と欲である。好雲は世を捨て、立派に修行をしたので、なんの災いも起きなかった。

やれやれ、安心して寝ようと思ったところ、こんどは庭の方が騒がしい。もはや丑三つ時で、月は傾いている。

三メートルに近い大男が、手に五,六ッ個の骸骨を持って、好雲の部屋に入ろうとした。好雲は起き上がり、手元に置いていた棒をとって、横に払った。その大男は倒れたように見えたが、骸骨共々消え失せた。

小屋の主が起きてきて、灯をともし、庭に出てみたが、なんの変化もない。

次の朝、東の空に横雲がたなびく頃、好雲は旅立っていった。誰もその行く末を知らない。

                           終わり  

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2008年6月13日 (金)

水彩画の展示  甲府の亡霊

6月13日(金)

水彩画の展示

Mizutani10009 まず、新聞の写真のスケッチ。このスケッチをしようと思ったのは、唇の形が美しい人と思ったから。でも、この絵では何とも分からないや。

2枚目もMizutani10010 これも新聞から。

「水彩画の会」公民館ホールの展示が、今日から2週間。みんなで会場の整理をする。イスやテーブルを片付け、倉庫から、展示のためのパネルを出したり、展示用に組み立てたり。

全員の作品の位置を決め、展示を終えたら、誰も彼も、もう疲れちゃった。

その後、絵を描く時間もあったわけだが、まともな水彩画を描いた人は0。私は小さめのスケッチブックに、鉛筆画を3枚。もっとも頑張った方ですね。

甲府の亡霊(狗波利子・通算26回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

武田勝頼は、織田信長によって滅ぼされ、城は一片の煙となった。城跡は草ばかりが生い茂り、狸の寝床、狐の住みかとなってしまった。

まわりには、今でも百姓の家が所々に立っているけれども、昔とはまるで違って、いかにも荒れ果てた様子である。

時々は、考えられないような異様なことがおこり、人々を悩ませると言うことだ。

修行僧、好雲坊というものがいた。もとは竹田の人である。世の無常を感じ、出家して、諸国を渡り歩いていた。諸国修行とは言っても、関所があったり、役人の取り締まりがあったりで、自分の思うままにはならない。

たまたま甲府に来たときに、夕方になったので宿を取ろうとして、うらぶれた茅屋の戸を叩いた。小屋の主が出てきて言う。

「旅のお坊様に宿をお貸しすることはたやすいことです。しかし、この小屋に泊まった方には、夜中に異様な出来事があります。それを承知の上ならばどうぞ」

「私は出家の身。もともと命を捨てた者です。そんなことなど気になりません。野山の木の根元や岩の間、古い社の横などに野宿することも多いのです。まして、人が住んでいる家に泊まるのに、なんの不足がありましょうか」

その答えを聞いて、主は小屋の奥の粗末なむしろの上に案内し、粟飯を勧めた。たいまつで明かりをとり、主は話しをはじめた。

「このあたり、昔は豪勢な城があり、城の外には、侍たちの家々が並んでいました。大変賑やかでした。それが今ではこの有様。この家のように、落ちぶれた貧しい家が、わずかばかりあるだけです。昔の人の思いが残っているのか、異様なことが起こります。驚かないでください」

夜も更けたので、主は自分の部屋に入った。好雲は念仏を唱えて、心静かに眠りについた。

                            続く

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2008年6月12日 (木)

猪熊の神子

6月12日(木)

猪熊の神子(狗波利子・通算25回)

     原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

元和(1615-1623年)の終わりごろ、京都四条猪熊に、一人の娘を持つ、年取った神子がいた。

神子とは言いながらも、神道のことなど何も分からず、神のお告げだといいながら、金銭を取り、賭け事をした。愚かな女をだまし、雨が降っても風が吹いても、祈祷をさせる。神のお告げを口実に、衣類や帯までのだまし取った。

仏法のことなど耳にも入れずに世を渡ってきたが、さすがに70歳を過ぎて、心身共に衰えてきた。娘はさる高貴な方に家に宮仕えをしているし、頼るべきものもなく、行く先も短い。来世のことも気にかかる。といって、これまでしてきたことは、仇やおろそかではない。

過去を悔いながら、北野の朝日寺に参詣した。

・・・私は身過ぎ世過ぎのために神仏の教えに背き、人をたぶらかし、へつらい、偽りをいい、正直の道に背いて、自分が得をすることばかりを求めてきました。願わくば、私の死後、身から出た恥を隠し、魂を助けてください。

と、涙ながらに祈った。その後は、暇を見つけては朝日寺に通った。

こうして年月を重ねているうちに、神子はにわかに重い病気になった。自分の死を悟った神子は、娘に使いをやった。日頃は、神子のくせに娘がいるなどと言われるのが嫌で、隠し通していたのだが、このたびは命の瀬戸際なので、早く帰ってきてほしいと伝えた。

娘は驚いて、急いで帰ったところ、神子は喜び、嬉しげに娘を見ながら、そのまま息を引き取った。

娘はまだ若かったので、このような時、どうすればよいか分からない。人里離れたところなので、簡単に人に聞くことも出来ない。ただ泣き崩れていると、夕方に若い法師が4、5人来て、

・・・この方は朝日寺に常に見える人です。死んだときは、遺体の処理をお願いしますと頼まれていました。

と、かいがいしく働いた。遺体を棺に収め、阿弥陀ヶ峰で火葬にした。

・・・この方の来世は心配ありません。我々が後を弔います。

と僧たちがいう。悲しさの中にも、娘はありがたく、白い薄絹に包んだ蒔絵の香合を差し上げながら、

・・・お坊様方は、どこのお寺の、なんというお名前の方々ですか?

と聞いたところ、

・・・朝日寺の正観坊を尋ねてきなさい。

といって帰った。次の日、朝日寺に行き尋ねてみたけれども、そのような僧はいない、ということだった。

不思議に思いながら堂内を拝みまわっていたところ、観音様が昨日差し上げた薄衣をつけておられた。膝には、香合がおかれている。

娘は、畏れかしこみ、思わず手を合わせた。ご本尊様が母を弔ってくださったのは、もはや間違いない。来世も救ってくださるだろう。観音様の大慈悲にありがたく涙を流した。

その後は、暇を見ては朝日寺に参り、母の菩提を弔った。

娘にも良いことがあった。和泉のあたりの人と結婚し、子供も多く生まれ、家は栄えたという。

                       終わり

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絵の子供

6月12日(木)

出かける前に、sa-yaさっんから教えられた方法で画像を縮小し、ブログに載せてみます。自分の描いた絵を床に置き、デジカメで撮ってみました。それを取り込んで縮小してみました。                    近ごろはこんな絵を描いています。こんな格好をした子供は、今時いるはずもありません。絵を作っているのです。                                                                                                 Photo           Photo_2 Photo_3                                        

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2008年6月11日 (水)

武甲山・他 伊原新三郎蛇酒を飲む

6月11日(水)

こもれび通信

私の1日の最後は、ブログを書くことである。その前に、いくつかのホームページやブログを読む。その一つに「こもれび通信」というのがある。作っているのはsa-yaというパソコンに詳しい人である。そこの載せられる画像は、くっきり、すっきりという感じで、美しく気持ちがよい。

その「こもれび通信」に画像の処理の仕方を載せてくれた。ひょっとしたらぼんくらカエルのために書いてくれたのかな、などとのぼせて読んでいたら、コメント欄で、本当にそうだったことが分かった。

ありがとうございます。今日のブログでは出来ませんが、次回からは、もう少し上手に画像処理が出来るように努力します。

武甲山(山行)

Hさん、Kさん、Aさんと武甲山に登る。

Photo 西武線横瀬駅で下車。Hさんが予約してくれ たタクシーに乗って、武甲山の登山口まで行く。

御嶽神社の鳥居をくぐって登り始める。沢沿いの湿った道。杉の木が多く、石も、木の根本も、緑の苔がびっしりと生えている。

左の写真は不動滝。写真より上の方にも滝があって、かなりの高度差がある。

武甲山の頂上には、見晴台はある。快晴ならば、秩父市などが見えるはず。残念ながら、曇りなので、はっきりしない。

下山は浦山口へ向かう。登ってきた道は、杉ばかりのじめじめしていた。しかし下山に選んだ道は、カラマツの多い、明るい道である。快適さは、こちらの方だ。

Photo_5 Photo_6 下山道も、中腹以下は谷沿いの道になる。橋立川だ。渓谷沿いの道で、紅葉の頃は、さぞ美しいだろうと思われる。

大小の滝が多く、その1部をここに載せます。

先日スケッチに来た浦山口川は、橋立川に平行して流れるような位置、ごく近くにある。

伊原新三郎蛇酒を飲む・2(狗波利子・通算24回)

(前回のあらすじ・伊原新三郎は三方原で美しい女性のいる飲食店にはいる。女性の誘いに新三郎が鼻の下を伸ばしていると、女性は酒を幾らでも持ってくる。覗いてみると、それは大蛇の血であった。逃げる新三郎。追う妖怪の仲間。)

新三郎は恐ろしくて、必死に逃げた。そして、やっと町はずれにたどりついた。そこの家の戸を叩き、中に入れてもらった。

しばらくは、怖さと息切れで、何も言えなかった。

やがて新三郎は、今日の出来事をその家の主に語った。主が答える。

「あの辺には家もなければ茶店もない。大方、妖怪にあって、恐ろしい目を見たのでしょう。この辺の事情を知らない旅人は、時々かどわかされます。あなたは逃げられて良かったですね」

あまりの不思議さに、新三郎は家に帰ってから、大勢の人と共に、その場所にやってきた。酒を飲んだところに行ってみたが、家もなければ茶店もなかった。人の気配もない荒れ野で、ぼうぼうと草が生えるばかりである。

よく見ると、60センチくらいのはいはい人形の、手足が少し欠けたものが、草にまとわれてうち捨てられていた。これがあの娘に化けたのだろうか。

そのそばには60センチくらいの蛇が、腹を割かれて死んでいた。近くには風雨にさらされた人骨があった。

それらを集め、ことごとく打ち砕き、薪を積んで焼き捨てた。残った灰は、堀の水に沈めた。

新三郎は、もともと中風の気があったが、蛇酒を飲んだせいか、治ったと言うことである。

                         終わり

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2008年6月10日 (火)

青梅民族博物館・蛇酒を飲む

6月10日(火)

青梅郷土博物館、宮崎家住宅

車椅子のTさんと、青梅郷土博物館へ。

Imgp0090 この写真は、同博物館の近くに成木(近くの地名)から移築された、築250年の民家、宮崎家。屋根には、苔や草がびっしりと生えていた。葺き替えてから24年目で、来年葺き替えるのだそうだ。つまり、一番苔の多い時期の屋根を見ているわけだ。

内部は、たたき(土間)があって、囲炉裏があって、座敷があって・・・まあ昔の民家の標準タイプみたいなもの。

成木は、漆喰の産地だったそうで、江戸城の白壁なども、そこで作られたのだという。

この写真、拡大すると、多分紙面をはみ出します。スキャナーから取り込む場合は、拡大しても大丈夫なように出来るのですが、デジカメからだと、どうして良いのか分からない私です。

伊原新三郎蛇酒を飲む(狗波利子・通算23回)

元和年中(1615-1623年)に、伊原新三郎というものが、長く浪人をしていた。ある日、三方原に行ってみた。

折から夏のこととて、暑さが甚だしいのだが、蝉の声が涼しい。ぼんやりとある続けた。気がつくと、日はもう傾いて、風が柔らかに吹いている。道の辺に林があり、新しく建てられた家が4-5軒見えた。飲食をさせる家のようだ。立ち寄って休もうとすると、うら若い美しい娘が出てきて、

「ここはお武家さまがたがお遊びになるところです。しばらくお休みになって下さい」

という。

言葉つきも、愛嬌たっぷりなので、中に入ってみると、他に客はいなかった。新三郎が戯れにちょっかいを出すと、嫌がる風もなく、

「今日は誰もいないから大丈夫よ」

などと、しなだれかかる。新三郎は喜んで、夜まで居続けた。娘は、

「何も食べていないので、お疲れになったでしょう」

といって餅をすすめた。

「酒はないのかね」

「おいしい酒があります。お持ちしますね」

新三郎は、もともと飲んべえなので、娘に勧められるまま、差しつ差されつで盃をかさねた。娘は奥の方から、幾らでも酒を持ってくる。新三郎は足音を忍ばせて娘の後に付いて行き、奥を覗いてみると、大きな蛇が吊されている。娘は刀でその蛇の腹を刺し、したたる血を桶に受け、なにやら怪しげな粉を入れて酒に変えている。

新三郎は恐ろしくなって、家の外へ出て逃げ出した。

それと気づいた娘は、

「まて!」

と叫んで後を追いかける。

東の方から声が聞こえた。

「しまった! せっかくの獲物を逃がしてなるものか」

新三郎が振り返ると、3㍍ばかりの得体の知れない白い怪物が、木のもとから立ち上がった。

林の外から声が上がる。

「今晩こいつを逃したら、明日は俺たちに災いが及ぶ。のがすな!」

新三郎は生きた心地もしなかったが、なんとか町はずれにたどりついた。

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2008年6月 9日 (月)

聞き書きボランティア・他

6月9日(月)

ありがとう

サーヤさん、あしながおばさん、いつもコメントありがとうございます。さーやさまのコメントに返事を書きました。ある人から、コメントに返事がないことを怒られました。Kさんからのコメント、ありがとうございます。

K福祉会関連

街頭募金。私は新狭山駅前。

精障者作業所Mへ。

通り魔

Kさんから電話。昨日の山行による足の怪我は、単なる打撲だけだったと。取りあえず、良かった。

私たちがのんきに山歩きをしているとき、秋葉原では大変な事件が。通り魔が、7人を殺し、10に怪我をさせたというのである。犯人に依れば、殺すのは誰でも良かったのだそうだ。

近ごろは、人間が壊れているとしか思えないような事件が起きる。こんな時、私たちはなぜだろう、と意味を求める。そうしないと、私たちの心は落ち着かないのである。で、正しいかどうか分からないが、自分の結論を持つ。時には、結論を作ると言ってもよい。

私の結論。一度閉塞感を持ってしまった人間は、そこから這い出すす術の無いのが今の社会である。本当はあるかも知れないのだが、無いと感じて、孤独感に陥ってしまう社会である。その孤独感を救うものがない。絶望が深ければ、過激な行動に出る。

実は、この最後の一行、NHKテレビで高校生の性についての番組があり、その講師の言葉。ちゃっかり引用しちゃった。

ただし、自分の結論に固執すると、真実を見失う場合がある。これが絶対正しいと思えても、他の考えもあることを、そして、多くの場合それにも一理あるのだと言うことを忘れないようにすること。

聞き書きボランティア

やはりNHKの番組で、聞き書きボランティアの活動が紹介されていた。

80歳90歳の老人から話を聞き、それを本にまとめるというボランティアである。

実は、これこそ私のやりたかったボランティアだ。かって、職人の聞き書きをしようとして、少しばかり実行したことがある。だが、案外嘘をつかれていることに気がついて、やめてしまった。他人の仕事を自分の仕事のように言ったりして。

誰でも、自分をよく見せたいし、職人なら、腕が良かったと言いたいよね。私だって、自分をよく見せたいのである。その辺の見極めが甘かった。私の方に、正直に話してもらうだけの能力がなかったということだろう。

でも、聞き書きボランティアというのは、私に向いていると自分では思う。71歳で始めるには歳をとりすぎているような気がするけれども、出来ないものでもない。私がよく行く老人ホームや介護施設に、働きかけてみようかな。

狗波利子第3巻

狗波利子第3巻は今日から始めるつもりでしたが、ぼんくら日記が長くなりました。明日からに変更します。

カテゴリーの欄から「狗波利子」を消して、ぼんくら日記だけにしようと思ったのだけれども、どうしても出来ませんでした。ごめんなさい。私はブログを、やっと書いているだけなのです。

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2008年6月 8日 (日)

6月山行

6月8日(日)

山の会、山行

観音平~天女山

コース

   観音平~三味線滝~つばめ岩~ツバクラ岩~天の河原~天女山

トレッキングコース。早い段階で足を痛めた人がいて、以後、ゆっくりしたペースで進む。そのため、時間はかかったが、天気は予想ほど悪くならず、おおむね快適に歩けた。

Imgp0083_2                   Imgp0084_2

くりん草とツツジ

Imgp0086_2

コースの多くは唐松林で、下には30センチに満たないような笹が生えていました。笹の方は、まだ新しい葉が出ていませんが、カラマツは、今芽吹きのみずみずしい時期でした。小さめのカラマツの方が写真を撮りやすいので、この木を撮りましたが、斜めに撮れてしまいました。

撮った奴の根性が曲がっているんだよね。

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2008年6月 7日 (土)

Sの遠足 形見の山吹 4

6月7日(土)

特養Sの遠足

特養S、この春の最後の遠足。3台の車に分乗して、車イスの人、独歩の出来る利用者、家族、スタッフ、ボランティアなどで、狭山子供動物園へ。今年は、無事終了。

Mizutani10009                                                                  

                                                   形見の山吹 4(狗波利子 通算23回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ。菅野喜内という者が、外出先で見初めた弥子に恋いこがれ、なんとか思いを通じたが、弥子の母はなくなり、喜内は豊臣秀次に仕えるため、離ればなれになる。秀次は自害するが、喜内は忙しくて帰れない。弥子は憔悴のあまり亡くなってしまう。)

弥子の家は住むものも絶えたので、荒れ果ててしまった。

3年ぶりに喜内が帰り、その家に行ってみると、軒は崩れ、柱は倒れ、草のみが生い茂っていた。あまりの悲しさに、崩れた壁を押しのけてみると、物干し竿にかけた鬼染めの小袖が、竿ごと倒れて、朽ちていた。その袖の跡から山吹が生えてきて、黄色の花を咲かせている。朽ちてももとの色を忘れず、弥子の形見のように思われて、喜内は悲しみに暮れ、涙はとどまりところをしらなかった。

しかし、幾ら嘆いたところで、花は答えることもない。

      山吹の花こそいはぬ色ならめ

              もとの籬(まがき)を泣くなくぞ問ふ

何とも悲しくて墓に詣でたが、墓への道は草に埋もれ、人が通っているとも思えない。日はまさに暮れようとして、野寺の鐘の音も心細く聞こえる。まわりの草にも、喜内の袖にも露が降りた。吹く風も身にしみる。涙に濡れて念仏をとなへ、

     埋もれしその面影はありながら

              塚には草のはや茂りぬる

この世の中のはかなさを、今思い知らなければ、いつ思い知ることが出来るだろうか。世に受け入れられるときには望みがある。かなわなければ恨みがある。この仮の世の世俗に迷い、執着心を持っていては、なかなか輪廻から離れることが出来ない。この世の妄執を捨てれば、あの弥子とも、来世で一緒になれるかも知れない。

喜内は自宅の柱に、

     なげきつむちから車のわが身世を

              たちめぐるべき心ちこそせぬ

と書きつけて、朝早く家を出たが、そのまま行方知れずになった。

                        終わり

狗波利子、第2巻はこれで終わりです。次からは第3巻になりますが、明日は狗波利子を休みます。

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2008年6月 6日 (金)

一泊山行 形見の山吹 3

6月6日(金)

一泊山行

Mizutani10009 毎度下手な絵を載せるのもどうかと思うけれど、又載せちゃった。新聞の写真のスケッチです。

このような絵も、近ごろ始めた「狗波利子」の現代語訳も、数少ない読者を減らしていると思うけれど、まあ、自分のたのブログだから、しょうがないや。

私の属する山の会のは、夏に一泊の山行をする。今年の山行は、会津駒ヶ岳と決めて、檜枝岐温泉に泊まることにした。宿とバスの手配をする。宿は民宿、バスはいつものK観光にお願いする。民宿の方は、税込みで、一律みんな同じ値段。バスはガソリン代も上がっているけれど、競争が激しいのか、思ったより安い。参加者10人として計算してみたが、一人ひとりの負担は、ツアーで行くより安いと思う。

形見の山吹 3(狗波利子 通算22回)

(前回までのあらすじ・菅野喜内という者が風流を求めて外出中に、御簾の中から顔を覗かせた少女を見初める。文などをやるが、かたくなに、色よい返事が来ない。千通も文をやるうちに、少女の方にも変化が現れたようだ。)

幾世にもわたって契るまでは、身持ちも堅くします。死ぬまでその気持ちは変わらないのですか、という歌の返事をもらって、喜内は飛び上がるほど嬉しくなった。

喜内は仲介してくれる女に案内させて、垣根の隙間から忍び入った。そして、そっと障子を開けたところ、弥子は薄暗い灯火に照らされながら、恥ずかしげに横を向いていた。喜内はそのそばににじり寄り、日頃の弥子に対する深い思いを語り、命ある限り、愛することを誓った。

弥子は黙って聞いていたが、

     言の葉は只情けにもありなまし

             見えぬ心の奥は知られず

言葉ではどのようにも言えますが、本心が分かりませんと言われ、喜内は、

    あいそめし後の心を神もしれ 

             ひくしも縄の絶えじとぞ思ふ

神にかけて、心変わりのないことを誓った。

そのようなことがあった後は、二人は人目を忍んであっていた。

しかし世の中は儚いもので、弥子の母が病気になり、亡くなってしまった。弥子は悲しくて、家に閉じこもっていた。さらに枯れた草の上に雪が降り積もるように、辛いことが重なってきた。

喜内の父は尼崎に住んでいたのだが、関白豊臣秀次に召し抱えられ、喜内を連れてはせ参じた。しかし幾ばくもなく秀次は、秀吉の命によって、高野山で自害させられてしまった。この騒ぎに、喜内は、木津の里、弥子のもとに訪れることが出来なかった。

     我はうき人やはつらき中川の

               水の流れも絶えはてにけり

と嘆いているうちに、弥子は体調を崩し、病に伏せた。そこへ喜内から文が届いた。あっちへ行ったりこっちへ行ったりで、ほんの少しの暇もないと書いて、

    関守のうちぬるほどのわびし夜も

               今はへだつる恨みとやなる

の歌が添えられている。弥子は病の床の上でその手紙を読み、

    ふみみても恨みぞふき浜千鳥

                跡はかいなく残る夢の世

と詠み、そのまま気が遠くなり、ついに亡くなってしまった。

近所の人々が気の毒に思い、近くに墓を作ってやった。

                            続く

 

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2008年6月 5日 (木)

スケッチについて 形見の山吹・2

6月5日(木)

スケッチについて、 。(ぼんくら日記)

老人介護施設Kへ。Yさんと3F。

Mizutani10009 私の絵など、どうってことはないのだけれど、載せ出すと続けて載せちゃいます。こんなものを載せていれば、文章を書く手間が省ける、なんて言う不届きな考えもあるものですからね。

これはサッカー選手の絵。例によって、新聞の写真から描いたものです。

私は水彩画を描くのが趣味ですが、本当は、じっくり構えて描くというのではなく、短時間で、さっつ、さっつとスケッチをしたいのです。今のところ早描きのスケッチは、鉛筆だけでしかできません。色を付けると時間がかかってしまうのです。

色を付けて、15分で描けるようになるのが目標。今は、鉛筆だけで、それくらい、あるいはそれ以上かかってしまう。要領悪いんだナ。

形見の山吹 2(狗波利子 通算21回)

(前回のあらすじ・菅野喜内というものが、外出中にちらりと見た弥子という娘に心を奪われ、なんとか近づこうとして、取り持ってくれる女性に歌を託す。)

喜内が話を聞いた家の妻が間を取り持ってくれるという。その夜、その女性は喜内の歌を持って、弥子に会いに行った。お話でもしましょうといって弥子に会い、ひそかにその文を渡した。

弥子はその文をたもとに入れて、自分の部屋に行き、喜内からおくられた和歌を読んだ。

儚い歌で、本心かどうかも分からない。心を寄せてくれるのは嬉しくもあるけれど、恥ずかしくて仕方がない。ただ言葉の上だけの気持ちかも知れないのに、いたずらに心を動かされては、嫌な噂も立てられかねない。結局、なんの返事も出さなかった。

喜内は家に帰っても、彼女のことが忘れられない。夜になっても寝ることも出来ず、いつまでも来ない返事を待って、悶々の日々を過ごしていた。間を取り持つ女性は見かねて、ひそかに弥子のもとに行き、「ご返事を」と催促した。

弥子は、恥ずかしそうにしながら、

     あまのたく浦の塩やの夕煙 

              思いきゆともなびかましやは

と詠んだ。あなたには靡きませんという返事をもらい、喜内の思いはいよいよ募った。

     恋しなば煙をせめてあまのすむ

              里のしるべと思いだにしれ

私が焦がれ死にしたら、あまの塩焼きの煙を見て、私の思いだと知ってください。たとえ私は死んでしまっても、あなたを思う心はいつまでも続きます、などと掻き口説いた。

     面影はほのみし宿にさき立ちて

               こたへぬ風の松にふく声

私がこんなに思っているのに、あなたは何も答えてくれないなどと嘆いた。

手紙の束が千通にもなったので、さすがに弥子も心を動かされ、次のような歌を詠んだ。

     世々かけて契るまでこそかたからめ

               命のうちにかはらずもがな

                       続く

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2008年6月 4日 (水)

テレビの人物  形見の山吹

6月4日(水)

テレビの人物スケッチ

テレビ番組からの人物スケッチ。しょっちゅう動いて同じ向きになってくれないから、難しいけれどね。

Mizutani10010 右が、作家の柳美里

左は、作家、故色川武大の奥さん。

NHKの対談番組から。

メモ用紙2枚に描いたのを並べてみたけれど、顔の大きさなど、違いましたね。

形見の山吹(狗波利子 通算20回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらビッキ

(実は少し困っています。原作にある和歌などは訳さないつもりですが、「形見の山吹」では、全く触れないというわけにはいきません。和歌を訳さないのは、その力がないからで、その禁を破るのは気の重いことです。逐語訳あり、意訳あり、珍訳あり、誤訳あり、なんでもありだから、まあいいことにしますか。)

都の南、泉河のあたりに、菅野喜内と言う風流人がいた。

文禄の頃である。春も末になり、散る花の名残を惜しんで、家を出た。どこかに散り残った花でもありはしないか、行き慣れぬ山にでも行けば、青葉の中に遅咲きの桜などがありはしないか、そんな桜があったら、見たいものだと思って、瓶の原(ミカノハラ)鹿瀬山(カセヤマ)あたりを歩いた。

    都出てけふみかの原泉河

          川風寒し衣かせ山

などという古歌を思い出したりして、木津の里まで来た。ある家の前を通ると、年の頃なら17・8の女が、すだれの間から顔を覗かせているのを見て、その美しさに心を奪われてしまった。

昔、女三宮が飼っていた猫の綱にひかれて、御簾の陰から覗いたのを見て、柏木が見初め、互いに心を通わせた。

それも、このような状態だったのだろう。家の様子は古びているけれども、何となく品があった。喜内はその女を見てから、心は乱れ、魂も奪われてしまった。それで、近くの家に立ち寄り、

「あそこの、軒端の古びた家は、どなたが住んでいるのでしょうか」

と聞いた。その家の主は答える。

「大内義高の家来、高梨三郎左衛門という人の家でしたが、お亡くなりになりました。残された奥様と娘さんが、少女の召使いと共に、ひっそりと住んでおります。お気の毒なことです。」

「その娘さんのお名前は?」

「弥子といって、今年18歳になります」

「実は私、その弥子さんを一目見ただけで、すっかり思い乱れています。せめてこの思いを弥子さんに伝えていただけないでしょうか。仲を取り持っていただいたら、これに勝るご恩はありません」

そばで聞いていた主の妻が、

「それならばお便りをお書きなさい。私が届けて差し上げましょう」

という。喜内は嬉しくなり、肌に着ていた小袖の襟をほどき、歌を書いた。なかなか言葉が見つからなくて、次のような歌になった。

    君にかく恋そめしがと知らせばや

               心に忍ぶもじずりの跡

                        続く

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2008年6月 3日 (火)

銃後の写真  原隼人佐謫仙

6月3日(火)

ぼんくら日記

精障者授産施設Rへ。月に1度、K食堂の包丁を研いでいる。ついでに精障者作業所Cの包丁も。今日は包丁9本。

銃後の写真

Mizutani10009 もはや写真といえないような写真を載せます。昭和19年12月ごろの、ぼんくらカエルの家族の写真。父と母、弟と私ですが、顔が見えなくなっているのが私。とっびっきりの美少年だったのに、顔が見えればナア(アハハ)。

当時、たいていの男は坊主刈りでしたが、父は、この写真を撮る少し前まで、長髪でした。長髪の人には、風当たりの強かった時代です。父は髪を刈り、その髪と、手足の爪を切って、袋に入れました。父に万一のことがあれば、それが遺骨の代わりになるのです。

弟が左の脇の下に、何かを抱えているように見えます。これは防空頭巾です。空襲などのさい、少しでも頭を保護するために被るものです。

父の胸にあるのは鉄かぶとですが、一般人が外に出るときは、誰でも防空頭巾を肩にかけ、脇の下に持ち歩きました。

弟の胸に名札がついています。そこに書かれているのは、名前と住所、それに血液型です。電話番号などはありません。電話など、一般家庭にはありませんでした。

母のはいているのはもんぺ。女性はみんなもんぺをはきました。普通の着物で外出したら、非国民などと言われかねない時代でした。

父はネクタイなどをしています。父も母も子どもたちも、これで普段は着ないよそ行きの服装なのです。

この写真は父を東京に残し、母と私と弟が疎開するときに撮ったものです。父が髪を切ったのはそのためでしょう。写真は東京に残った父の元にありましたが、防空壕で水浸しになり、こんな無惨な有様になりました。

こんな写真を持ち出してきたのは、少しでも戦時中の庶民の生活を知ってもらいたいと思ったからです。戦争など、決してしてはいけないのです。

今でも、あちこちで戦争があります。戦争を輸出している国もあります。日本だって、少しは片棒を担いでいるのです。

原隼人佐謫仙 3(狗波利子 通算19回)

    原作・浅井了意   現代語訳・ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ。原田隼人佐は16ヶ月母の体内に宿り、母の死と引き替えに生まれた。容貌、才知人に優れ、戦上手で、主君武田信玄の信用も厚い。見知らぬ土地でも陣の敷き方、合戦の場の見極め方に緩みがなかった。ここで作者は、昔の一ノ谷の戦いでの、平山李重の例をひく。)

平山は反論した。

「鹿のいる山は漁師が知る。鳥のいる野は鷹匠が知る。魚のいる海は漁師が知る。泊瀬(ハツセ・奈良県にある地名)の花の色、須磨や明石の月影は、土地の人が知らなくても、風流人が知っている。桃やスモモは何も言わないけれど、その下には自ずから路が出来る。敵を城より誘い出すことや、軍を山中に動かしたりする場合は、剛勇の者こそ案内者になれる。」

そういって平山李重は、先陣を切って進んだと言うことだ。その道に心を尽くして考え抜いたならば、なんで出来ないことがあろうか。遠い昔、中国の路に管仲が老馬に先導されて帰ったのは、理由のないことではない。

天正8年(1580年)9月、武田四郎勝頼が巡幸したとき、太湖山地延(タイコサンチセン)城から戦争を仕掛けられた。その時武田方は戦の準備無く、甲冑をつけずに戦い、城は落としたけれども、多くの犠牲者が出た。

中でも、侍大将原隼人佐は城兵7-8人を相手に戦ったが、溝に足を踏み入れ、体のバランスを崩したとき、頭から眉間にかけて斬りつけられた。深手だったので、倒れ伏したが、曲渕庄左衛門という者が、肩に担ぎ助け出した。そして、甲府に帰ってから死んだといわれている。

しかし、実際は違っている。武田家は長篠の戦いで敗れ、家老や主だった者が皆討たれてしまった。隼人佐は生き残ったが、武田家は裏切り者がはびこるようになって、武田家の家運がつきたことを知った。

隼人佐は范れい、張良(ハンレイ・チョウリョウ・共に古代中国の忠臣)のことを思い、山に入って、仙術を求め、ついに大仙に会って、修行を全うした。そして、白昼、天に昇った。

その後、下界に下りたときに、土地の者に会い、ついに武田家が滅びたことを知った。隼人佐は憂いの色を隠さず、土地の者に話した。

「私はもと、原隼人佐昌勝といわれたものだ。元々は天の仙人だったが、失敗をして、人間世界に流されてしまった。武田家にしばらく身を隠していたが、罪を許され、天に帰った」

そういうやいなや、足下から雲が興り、空に昇っていくように見えたが、すぐに消えてしまった。

                           終わり

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2008年6月 2日 (月)

またやっちゃった 原隼人佐謫仙2

6月2日(月)

またやっちゃった(ぼんくら日記)

ぼんくら日記を書いて「狗波利子」も書いて、そのブログを消しちゃった。萎えるなあ。

Mizutani10009 今日も新聞写真のスケッチ。これは気分次第で載せたり載せなかったりする予定。描き続けるかどうかも、気分次第。

精障者作業所Mへ。先週植えたサツマイモの苗は、根付いているようだ。

梅雨入りだそうです。夜になって、雨。

原隼人佐謫仙 2(狗波利子 通算18回)

    原作・浅井了意  現代語訳・ぼんくらカエル

(前回のあらすじ。原隼人佐の母は、妊娠期間が16ヶ月も続いて亡くなった。隼人佐は墓の中で生まれた。彼は容貌、才能、共に人に優れ、武田信玄は彼の才能を愛し、武士としてのあり方を説いて聞かせた。)

隼人佐は武勇才覚人に優れていたが、原家には、他家にない特色があった。父加賀守は軍陣の立て方が上手で、ホラ貝や太鼓などの楽器を使って、兵士の士気を高める方法をを始めた人である。そのため、たびたび軍功があった。

父は隼人佐に、「侍は戦に際して、何か一つ得意なものを持たなければいけない」

と、常々言い聞かせていた。

そのせいなのか、隼人佐は他国に攻め入っても、どこに陣を敷き、どこで戦をするかという見極めが人に優れていた。その国の案内者などに聞かなくても、隼人佐の言うことに間違いはなく、誰もが彼の判断に従った。

その昔、平家が落ちのびて一ノ谷に籠もったとき、源九郎義経は鵯越から攻めたとき、

「この山の中を案内できる者はいるか」

と聞いたところ、武蔵の国の住人、平山李重が進み出て、

「私が案内しましょう」

といった。土肥、畠山などの武将は、

「武蔵の国の人間が、初めて来たこの山の中で、道案内など出来るはずがない」

と笑った。しかし、平山は反論する。

                           続く

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2008年6月 1日 (日)

人物スケッチ・他  原隼人佐謫仙

6月1日(日)

朝の人物スケッチ(ぼんくら日記)

Mizutani10013_2 この2-3日朝起き抜けに新聞の写真から、人の顔を描いている。

現役の頃は、朝6時には起きていたが、今は、山にでも行く日のほかは、起床は7時過ぎである。といって、早く目覚めることも多い。わが家の辺りでは5時ちょうどくらいに新聞が配達される。で、布団の上で半身を起こし、インスタントコーヒーを飲みながら新聞を読む。次に、ナンプレを1題解く。そして、この2-3日は新聞の写真の顔をスケッチというわけだ。

Mizutani10014_2

Mizutani10015 Mizutani10016_2                                                                          それがこんなスケッチです。3枚目の絵は、確かバトミントンの選手ですが、果たして分かって貰えるかどうか。

テレビを見ながら、画面の人をスケッチしてみることもあります。それが帽子の人の絵ですが、グループに属する歌手のようです。グループ名も、歌手の名前も知りません。知っている人に、「ははあ、あの人だ」と言って貰える程度の描けているでしょうか。下手な絵ですけどね。

午前。マンションと周辺の掃除

草取り、芝刈り、生け垣の刈り込み、など。私はこういうのを人一倍一生懸命やっちゃやうんですよね。それで、後で疲れるんです。

午後、車椅子と仲間の会

狭山市駅西口と、駅舎の工事についての説明会。市役所の係や業者が来て説明。車椅子の人たちの要望、特にトイレ、移動手段などについて。

 

原隼人佐謫仙(狗波利子 通算17回)

   原作 浅井了意   現代語訳 ぼんくらカエル

(「謫仙・ダクセン」とは難しい言葉ですね。天上界の仙人が罪を犯して、人間世界に追放されることだそうです。転じて、超俗の人、大詩人、超人的な能力を持つ人などを指します。)

原加賀守は武田家譜代の家臣で、武勇にすぐれた武将として有名である。秋山伯耆守の妹を妻としたが、長い間子がなかった。

ある時、妻がただごととは言えない病気になった。医者よ薬よと治療したけれども、治らない。ある人が、これは妊娠であって病気ではない、薬など無用だと言った。それはめでたいと、10ヶ月待ったけれども、とんと生まれる気配がない。病はますます重くなり、16ヶ月たったとき、ついに亡くなってしまった。やむなく、妻を恵林寺の墓地に埋めたのである。

その夜は月の明るい夜だった。新しい墓の中から、赤ん坊の泣く声が聞こえるので寺の僧が不思議に思い、掘ってみたところ、玉のような男の子が、母の亡骸にすがりついて泣いている。

知らせを聞いて駆けつけた父は、乳母を雇い、大切に育てた。その子はたくましく、美しく、品格のある子に育った。何をやらせても人並みにすぐれ、ねばり強く、利口である。

初陣は15歳の時。すぐに手柄を上げ、その後も戦に功があった。武田信玄も、その子の器量を認め、ことのほか可愛がったのである。

ある時信玄公は、その子、原隼人佐を呼んで、次のように言い聞かせた。

・・・そなたの父加賀守は前代、従5位下左京太夫信虎公のときから、武勇の誉れが高く、忠節の働き、人にぬきんでていた。武田の譜代の家臣も皆一目置いている。その子だからといって、父の名声に寄りかかってはいけない。自分の働きもしっかりしなさい。

・・・戦上手の者に近づき、その教えを受けなさい。自分が知恵があると思って、人に聞かなければ、広く物事を知ることは出来ないものだ。

・・・国の法は守りなさい。その法に背く者は、臆病、不忠の罪人である。主君のおかげで生活し、妻子を育てているのに、その家の法に背き、恩を忘れるような者、自分の感情のままに生きる者は、主君の役にも立たず、国の盗賊である。このような人間は、義理も恥も知らない。いざというときには逃げ出して、味方を不利にする。たとえ先祖が立派でも、子孫にとっていいことはないだろう。自分の行いがしっかりしていなくては、世の中に受け入れられないだろう。

・・・隼人佐、そなたは立派な父にも負けず優れている。とにもかくにも、正直に、家をしっかりと治め、百姓を哀れみ、忠節に励みなさい。

                          続く

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