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2008年5月31日 (土)

なぜ訳す?  武庫山の女仙

5月31日(土)

狗波利子をなぜ訳すのかなど

特養老人ホームSの遠足は雨のため中止。おかげで暇が出来ました。

「狗波利子」の現代語訳を始めてからは、パソコンの前にいる時間が長くなりました。「狗波利子」を訳すときは、パソコンのまわりに、「広辞苑」、博友社の「大漢和字典」、岩波の「古語辞典」、角川の「日本史事典」などを置きます。

それらの辞書をめくっても、はっきりしないこともあります。江戸時代の初期に書かれたものですから、古文になれている人なら、すらすらと訳せるのでしょうが、私は、ひっかかりながら訳しています。いわゆる擬古文というのですかね、原作は、古い時代の文章スタイルで書かれています。

「狗波利子」を訳せば、古典などをもう少し楽に読めるようになるのではないか、などと考えての訳です。まあ、自分の勉強のためですね。それに、荒唐無稽な話しは好きですから・・・。

全7巻のうち、今訳しているのは2巻目。1巻目は意外につまらないと思いました。2巻目には興味を持てるものもあります。

作者は浄土真宗の出家ですから、仏教説話というめんがあり、それが強く出過ぎると、訳している方ではつまらなく感じます。「武庫山の女仙」や、次の「原隼人佐謫仙」などは、おもしろみもあるようです。

武庫山の女仙 3(狗波利子 通算16回)

   原作 浅井了意   現代語訳 ぼんくらカエル

(前回までのあらすじ。小野民部が武庫山で不思議な女性に会う。その女性に武庫山の由来や身の上話を聞く。女性は数百年前の天長天皇の側室に仕える女官だった。側室と、もう1人の女官は天に登った。語り手の女性は武庫山に残った。)

・・・その後は、松の葉を食べ、数百年を過ごしました。夏だからといって暑さを感じず、冬だからといって寒いわけでもない。山や谷を登り下りしても、疲れることもない。体は健やかで、歳をとることもありません。

最後にその女性が聞いた。

「ところで、今はどんな世の中なのですか?」

民部は答える。

「天長天皇の頃からは、すでに数百年もたっています。今は天正天皇の時代です。世の中は乱れて、あちらでもこちらでも戦があります。国は治まらず、人々は苦しんでいます。身分の高い人も低い人も、心穏やかには過ごせません。まるで浮き雲のような世の中です」

そう答えて、民部は、

「今日は本当に尊い話を聞かせていただきました。まことの仙人に会い、何ともありがたいことです」

と頭を下げている間に、女仙は消え失せてしまった。

民部は、不思議でならない。麓の里で、女仙のことを話し、誰かその人にあった者がいるかと尋ねた。すると、ある男が大いに驚いて、

「わが家の亡くなったお爺さんが、若いときに、芝刈りで山に入ったとき、二十歳あまりの美しい女性にあったと話していました。木の葉で出来た着物を着て、岩の上に立っていたのですが、こちらの驚く声を聞いて、飛んでいるとも走っているとも言えぬような早さで、峰を越えて消えたと言うことです。その後、見た人の話は聞きません」

と答えた。

                            終わり

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2008年5月30日 (金)

クロスワードパズル 武庫山の女仙2

5月30日(金)

クロスワードパズル

狭山台胃腸科外科へ。

血圧、上が120幾つかで、下は60幾つか。毎日一錠だけ薬を飲んでいるのだが、本当に必要なのかなあ。薬を飲んでいるから正常なのだとも言えるし。

破傷風の注射。先日の怪我の時、破傷風の注射を打ったが、全部で3回注射しなければいけないのだそうで、最後の1回は1年後である。覚えてられますかね。

新聞のクロスワードパズルをやったら、これが全く出来ないの。どうなってるんだ。私も相当惚けた。新しい言葉について行けない。たとえば埋めるべきますが4ッつあって、3ッつは出来たが後の1つが出てこない、なんてのがある。つまり、その言葉自体を知らないのだ。本当に、新しいことが頭に入らなくなっている。だめだよねえ、こんなの。

時々思うのだが、私の頭は、貯金で喰っているようなものだ。過去に得た知識で今を判断しようとする。新しい知識は入っていないのだ。現在は収入が無くても、過去の蓄積で食いつないでいるようなものだ。だから現実に対応できなかったりする。クロスワードパズルをやって、そんなことを感じちゃった。

武庫山の女仙 2(狗波利子 通算15回)

     原作 浅井了意  現代語訳 ぼんくらカエル

(前回のあらすじ。小野民部少輔が武庫山で不思議な女に会う。そして、武庫山の由来、その昔、武庫山に入った天皇の側室の話などを聞いている)

・・・この年は大変な干ばつで、空海和尚は雨乞いの祈りをした。その時、如意の尼が前から持っていた浦島太郎の玉手箱を借りて、大秘法を行った。おかげで雨が降り、人々は大いに助かった。

・・・武庫山の頂上には大きな桜の木があった。如意の尼は空海に命じて、その木で仏像を作らせた。浦島太郎の玉手箱は、その仏像の体内に収められた。

・・・天長天皇の側室如意の尼がこの山に入ったとき、2人の女官がこれに従った。1人は従4位上和気眞綱のむすめ豊子といい、もう1人は相馬将門のむすめ将子という。それが私です。

・・・私は如意の尼に怠りなく仕えました。ある時、供養の桶に水を汲むため滝のもとに行ったら、とてもかわいらしい赤ん坊が出てきた。私を見てにこにこ笑う。あまりのかわいらしさに見とれて、帰りが遅くなった。

・・・なぜそんなに遅くなったのですか、と如意に尼が尋ねたので訳を話すと、連れてきなさいと言う。

・・・また滝のもとに行ってみると、赤ん坊はやはりはい出してきて笑いかける。その子を抱いて帰ったが、門に入ったら、赤ん坊はまるで動かなくなった。そして重くなり、姿も変わった。如意の尼がごらんになって言われた。

・・・「これは茯苓(ふくりょう)というものです。これほど大きくなるには、何年かかったか計り知れません。大変な仙薬で、これを食べれば永遠の命を授かり、天の登れると言うことです。甑で蒸しなさい」

・・・言われた通りに蒸して、如意の尼に差し上げると、自らも召し上がり、私たちにも下さった。3人で食べ尽くしたところ、心は晴れやかになり、身も軽くなった。そして如意の尼と豊子は天に昇っていった。私は登り切れずにこの山にとどまったのです。

                           続く

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2008年5月29日 (木)

Kの後援会 武庫山の女仙

5月29日(木)

福祉法人Kの後援会総会(ぼんくら日記)

だいたいこういうのはシャンシャン大会、異議なしで終わり。言いたいこともあるにはあるが、もっと少人数の会で言おうと思う。こういうの、卑怯なのかなあ。

総会の後、先日のK福祉会役員会の書記と言うことになっているので、その書類について、Hさんより話あり。

小幡歯科へ。歯磨きなどいい加減だから、歯の手入れも何ヶ月かかかる。

これから訳す「武庫山の女仙」は、これまでの訳した『狗波利子』の中では、もっともおもしろいかなと思います。

武庫山の女仙(狗波利子 通算14)

   原作 浅井了意 ・ 現代語訳 ぼんくらカエル

天正(1573-1586)年間に、京都七条の辺りに小野民部少輔という、もとは身分のあった人の子孫が住んでいた。しかし落ちぶれて、京に住み続けるのも物憂くなり、知人を頼り、兵庫県の冠の里というところに引っ越した。そこは淋しい田舎で、自分と似たような境遇の友達もなかった。

ある春の日、うららかな日ざしに誘われて、あてもなく歩くうちに、武庫山(現在の六甲山)の麓に辿り着いた。

    見渡せばすみのえ遠しむこ山の 

           浦づたいして出る船人

などと詠み、さらに歩いて、谷を越え茂みの中に入っていった。

すると、二十歳を過ぎたくらいの女が一人で立っていた。花を尋ねてそぞろ歩いているようにも見えないし、薪を拾っているような貧しい女にも見えない。木の葉の着物で身を纏いながら、どことなく品がある。

民部は不思議に思い、近寄って問いかけた。

「あなたはなんで、こんな山の中に、一人でいるのですか?」

女は笑って答えた。

「私はこの山に長年住んでいます。昔の話を、お聞かせしましょう」

と、次のような話をした。

・・・大昔、神功皇后(西暦170年-269年・14代、仲哀天皇〈ヤマトタケルの子供〉の后。天皇の崩御ののち新羅を制して凱旋したとされる)は、朝鮮半島や中国をうち従えて、この国に帰ってきた。その時、弓、矢、矛、剣、鎧、兜など、あらゆる武器をこの山に埋めた。そして、この山を「武庫山」と名付けた。

・・・そののち天長天皇(在位・824-832)の側室がこの山に入り、如意輪観音を奉じられた。そのためこの方を、如意の尼と申し奉る。

・・・ここは弁財天の住み給うところです。広田神社(兵庫県の神社)の神が常に守り給います。神は形を変えて白い龍になり、その龍が石となってその形を今に残しておられます。

・・・空海和尚がこの山で如意宝珠の法を修めたとき、弁財天が現れて、「私はこの山にとどまり、あらゆる貧しい人のために、宝を与えよう」と誓われました。

・・・如意の尼は、伽藍を建て、如意輪の経を誦し、空海和尚を招き、受戒をされました。

                             続く

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2008年5月28日 (水)

Sの遠足 死して2人となる

5月28日(水)

Sの遠足(ぼんくら日記)

特養老人ホームSの遠足。

利用者wo

小分けにして、少人数ずつの遠足である。多くても10人くらい。

目的地は智光山公園の子供動物園。

10時からハンディーキャブに乗り込み、10時半頃出発。2時頃帰る。

小鳥や小動物、ロバや馬、山羊などを見たり触ったり。私がついたTさんは、車に乗るときは行きたくないなどと言っていたが、動物園に着いてからは、もっとも愉しんだ1人だ。ひよことハムスターを抱き、山羊と馬に触った。フラミンゴを見たり、狸の狸寝入りを見たりして、満足そうだった。

去年、一昨年は、羽村動物園まで行ったが、道中が長く、利用者の中には、退屈する人、トイレに行きたくなる人などがいた。智光山公園の方が利用者、スタッフ共に楽だである。小さな声で言いますが、ボランティアも楽デス。聞こえちゃったかな。

死して2人になる(狗波利子 通算13回)

      原作 浅井了意 ・ 現代語訳 ぼんくらカエル

小田原城の裏に、百姓の住む村があった。その村に家中の侍も、少しは住んでいた。

西岡又三郎という下級の侍も住んでいたが、病を得て死んでしまった。同僚が葬儀のために集まっていたところ、見慣れない男が来て、まわりの人には目もくれず、死人の前に座り、声を限りに泣き叫んだ。

すると、なんとしたことだろうか、死人がむくむくと起き上がった。泣いていた男も立ち上がって、こんどはつかみ合いの喧嘩を始めた。殴るは、蹴飛ばすは、ものは投げるはで、まわりのものは手の下しようがないほどである。みんなは驚きあきれて、家から飛び出し、外から入り口の戸にしんばり棒を交って、2人を家の中に閉じこめた。

それからも2人は喧嘩を続けていたが、夕方になって、やっと静かになった。同僚が中に入ってみると、2人は枕を並べて死んでいる。着ているものはおろか、姿かたち、容貌、顔のしわの,ほくろの一つ一つにいたるまで、そっくり同じであっる。いつも一緒だった同僚にも、全く見分けがつかない。

2人を同じ棺に入れ、塚を築いて埋めたと言うことである。

                             終わり    

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2008年5月27日 (火)

浦山川スケッチ 交野忠治郎発心

5月27日(火)

秩父線浦山口駅下車、浦山川のスケッチ。(ぼんくら日記)

Mizutani10010  

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Mizutani10009_2  Mizutani10011                 

どうも上手く並びませんね。技術が未熟です。

交野忠治郎発心(狗波利子 巻2の2 通算12)

(前回のあらすじ。交野忠治郎は静岡にの今川氏の家臣だったが、今川氏が滅びてから、その日の食に不自由するほど貧しくなっていた。妻にそそのかされて辻斬りをするが、その妻に嫌気が差し、出家し放浪する。3年後、若い法師の家に宿を借りる。)

忠治郎が若い法師に聞いた。

「先ほどの念仏の間中、しきりに涙を流されていたが、なぜでしょうか?」

「私はもと、三好日向守の家来でした。幼い頃父に死なれ、母方の祖父に育てられました。祖父の跡を継ぎ、妻を迎えてこの近くの田宮の里に住んでいました。しかし、程なく妻は盗賊に殺され、悲しく、悔しさは限りがありませんでした。妻の敵を見つけたら、たとえ虎の住む荒野に隠れていようとも、鯨の住む海にいようとも、その恨みを晴らさずにおくものかと思っていたのです。そんな思いばかり強くては、世の中を渡って行くことが出来ません。いっそのこと出家して、その迷いを覚まそうと思いました。」

法師はさらに話を続ける。

「浮き世のことはこれまでと思い定めて、仏に身を仕え、妻の菩提を弔う毎日です。そういえば、妻を討たれてから、今日がちょうど3年目です。あなたも仏に仕える身、妻のために、どうぞ一緒に祈ってください」

    恨めしく又なつかしき月日かな

            別れみとせのきょうと思えば

忠治郎は法師の話を神妙に聞いて、

    年ふればわすれ草もや生ぬらん

            みとせのきょうと思われもせぬ

「その話を聞いて、慚愧に堪えないことがあります。あなたの妻を殺したのはこの私です。そのために、諸国を巡る身となりました。今日ここへ来たのは私の運の終わりです。むしろ嬉しく思います。どうか私の首を討って、敵を取ってください。」

と首を差し出した。

法師はそれを押しとどめて、

「確かに敵に会いたいと祈った来ました。しかし、もはや仏に仕える身。憎しみは消えました。今日ここで巡り会ったのも、仏のお導きによるものでしょう。これも仏道の縁。しばらくここにとどまって、妻のため、念仏を上げて弔ってください」

その後10日ばかり、忠治郎はとどまったが、その後法師のもとを去り、行方を知るものはいない。

若い法師は4年ほど後、病を得て亡くなった。村人たちは法師を塚に埋め、木を植えてその標とした。

                            終わり

 

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2008年5月26日 (月)

芋苗を植える 交野忠治郎発心

5月26日(月)

芋の苗を植える(ぼんくら日記)

精障者作業所Mへ。

Mの畑に、サツマイモの苗を40本植える。この前、畑を起こし畝を作っておいたので、今日は植えるだけだ。作業としては楽なもの。昨日雨が降ったので、畑はちょうど良いぐらいに濡れている。これで今晩雨が降ってくれればと願ったら、上手い具合に夕立があった。

これまでに、消石灰を撒き、鶏糞を鋤込んである。サツマイモというのは、肥料はそれほどいらないと思っているが、間違っているだろうか。どちらかといえば、さらさらした土の方が向くというのが、私の考えである。農家ではないから、本当のところは分からない。後は結果待ちだ。

交野忠次郎発心(狗波利子  巻2の1  通算11回)

大阪、交野(かたの)の里に水崎忠次郎宣重というものが住んでいたが、もとは静岡の今川氏の家来だった。今川氏が滅びて浪人となり、交野に住みつき、妻をめとった。

もとより武士であるから、百姓仕事は出来ず、商売をする才覚もない。ただ、良い主君に巡り会い、戦で手柄を立て、一旗揚げたいと暮らしていた。しかしそのような機会もなく、朝夕の食事にも事欠くほど貧しくなってしまった。

ある夜、寝物語に妻に語った。

「前世の報いなのかどうか、こんなに貧しくて、つらい思いをさせること、まことに面目ない。主君に恵まれて世に出ることが出来たら、少しはよい思いもさせてやれるのに」

妻は答える。

「こんな田舎に引きこもって、何度生まれ変わったところで、良いことなどあるとは思えない。世を渡るすべもない。このような生活を続けていれば、いずれは、道ばたのどぶに落ちて飢え死にするしかない。いっそのこと追いはぎでもやって、金品を奪い、私にも楽をさせてください」

忠治郎は、侍として、曲がったことは何もしないで生きてきた。しかしながら、情を持って契りあった妻の言葉に逆らえず、辻斬りの決心をした。

夜の明けるのを待ちかね、刀を抱え、人通りの少ない野の末、草むらに隠れて、手頃な相手を待っていた。

そこへ通りかかったのが、17.8歳の女性と、それに従う小袋を持った女の子である。前後の人影がないことを確かめ、忠治郎は刀を持って立ちはだかり、そのまま二人を討ち殺した。そして二人の女の着物をはぎ取り、小袋を奪って、家に持ち帰って、妻に与えた。

「17.8歳の美しい女だった。誰かの妻だろう。可哀想なことをした」

といったが、妻はなんの感情もあらわさず、井戸のそばへ行き、水を汲み、嬉しそうに笑いながら血の付いた着物を洗っている。

忠治郎はその顔を見、心根を考えると、急に妻が疎ましく思えた。とてもこの女とは暮らせないと思い、即座に髪を切り、家を出た。

その後はただ、足にまかせて諸国を歩き、ひたすら修行をするばかりである。

3年ほどたったときに、大和の吉野に巡ってきた。山のほとりで日が暮れ、どこかに宿を借りようと思っていたところ、道の辺にあばら屋が見え、幽かに灯がともっている。立ち寄って戸を叩くと、

「どなたですか」

と、若い法師が出てきた。

「諸国を修行している聖です。今宵一晩、宿を貸していただけませんか」

「おやすいご用です。どうぞお入り下さい」

若い法師は忠治郎を招き入れ、粟入りの飯を出してきた。そして自分は、持仏堂に向かって念仏を唱える。忠治郎が見ていると、しきりに涙を拭っている。食事を終わって、忠治郎も供に念仏を唱えたが、何とも哀れに思えて、涙が流れた。

念仏が終わってから、二人は身の上話を始めた。

                            続く

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2008年5月25日 (日)

北條甚五郎出家2  第一巻終わり

5月25日(日)

北條甚五郎出家 2(狗波利子 10)

(前回のあらすじ 越後の豪傑北條甚五郎が急死し、地獄で母の苦しむ姿を見る。閻魔は、まだ寿命が来ていないからと甚五郎を人間界に帰す。帰り道で知人、忍の長七に会い、父母にあって、自分を弔ってくれるよう言付けられ、証拠の品として笄を預かる。)

甚五郎をこの世に送り帰す獄卒は、たとえ弔いのために写経をしたり、仏像を作ったとしても、不正に得た金でやったのでは、なんの効果もない。預かった笄(こうがい)はきちんと届けなさい、という。

やがて甚五郎は、大きな穴に落ちると、この世によみがえった。預かった笄は、しっかりと握っていた。その笄を持って長七の家に行き、そのいきさつを話したところ、確かに長七の棺に入れた物だと言うことだった。長七の父母は、念入りに供養をした。

弓矢をとってきた者が、こんなに乱れている世の中を逃れて出家するのは、主を裏切ることにならないか、親の期待に背くのではないか、不忠、不幸となり、人に笑われ、末代まで恥を残すことになるのではないかと、甚五郎は悩んだ。しかし、恩愛を捨て、世俗を捨てて修行することが、本当の報恩だと仏も説いている。浮き世の望み、欲を離れ雲水となれば、主君も許してくれるだろう。幸い妻子もない。

甚五郎は髪を切り、すべてを捨てて家を出た。諸国を巡る修行者になったのである。

                               終わり

狗波利子第1巻終わり

「狗波利子」の第1巻は、これで終わりである。訳してみると、意外につまらないというのが実感。第2巻以後、おもしろい話があるものと期待して、続けます。作者が浄土真宗の出家だけあって、仏教説話の雰囲気が強い。読む方としては、宗教臭がない方がおもしろいのだが・・・。

「狗波利子」は浅井了意晩年の作で、全7巻。本人はもっと続けるつもりだったらしい。しかし、7巻書き終えたところで亡くなってしまったということである。

浅井了意については、5月15日の「ぼんくら日記」に書いたが、少し付け足すと、1612年生まれ、1691年没といわれる。生年については、確実とも言えないようだ。本名不詳。

浅井了意の「かな草子」としては、なんと言っても『伽婢子』が有名で、中国の怪異小説「牡丹灯籠」などの翻案もこれに載っている。上田秋成や三遊亭円朝の落語に影響を与えた。「牡丹灯籠」はさまざまな人が翻案しているようで、その中には「近路行者」などというふざけた名前の人もいる。

三遊亭園朝は、名人といわれ、言文一致の文体を作るべく努力していた小説家が、参考にするため、その落語を聞いたものだという。

ちなみに、岡倉天心などは、日本語よりも英語で文章を書く方が楽だったそうだ。これは岡倉天心に限らず、当時西洋の学問をしたものの共通するものであったらしい。言文一致の文体はまだ試行錯誤の時代で、完成していなかったからである。

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2008年5月24日 (土)

施設の遠足 北條甚五郎出家

5月24日(土)

施設の遠足

特養Sの遠足。利用者を幾組にも分けて、5月中旬から6月上旬にかけて、遠足をする。今日の場所は智光山公園。

10時頃出発。今日の利用者は全員が車椅子。智光山動物園の見物。お弁当を食べて、1時半ごろ帰る。家族の付き添いもいて、ボランティアとしては楽でした。

北條甚五郎出家(狗波利子 9)

長尾謙信の家老、北條丹後守は新潟の橡生の城代で、豪傑として名高い。その弟甚五郎は、まだ20代だが、兄におとらぬ勇者である。

その甚五郎が天正元年(1573年)の2月、急病で亡くなってしまった。生前は神も仏も信じなかったので、死んだらさっそく閻魔大王の前に連れてこられた。

「おまえは生前、どんな善根を積んだのか。悪いことは山のようにしているが、まだ寿命にはなっていない。もう一度人間界に返すけれども、その前に自分の母親を見ておけ」

といって、獄卒に甚五郎の母親を連れてこさせた。

骨と皮ばかりに痩せこけて、手には手かせ、首には首かせをされた母親が、引きずってこられた。母親は涙を流して甚五郎に訴えた。

「私は他人が良い着物を着ていると、それをうらやみ妬んだ。おまえのことは少しでもいかめしく見えるようにと、馬の鐙にも気を使い、立派な太刀をつけさせた。そんなことばかり考えて、仏法のことはないがしろにし、なんの善根も積んでいない。そのため死んだらすぐに地獄に連れてこられた。ここでは毎日、剣の山に登らされ、焼けただれた鉄の湯に追いやられる。少しの間も苦しみから逃れることは出来ない。おまえは人間界に帰されると言うことだが、帰ったら、私の弔いをしっかりやっておくれ」

言い終わりもしないうちに、獄卒が母親を引きずっていった。そしてその先から泣き叫ぶ声が聞こえてくる。甚五郎は悲しさのあまり、涙は滝の如く流れた。

閻魔大王が言った。

「見ての通りだ。おまえは帰ったら、母親の言葉を忘れるな。早く帰れ」

そこへ多くの鳥や獣が来て、甚五郎に噛みついたり突いたりする。閻魔大王は、鳥や獣たちに、

「この者は帰ったら、おまえたちのためにも功徳を積むだろう。そうしたらおまえたちも、来生は人間に生まれる。許してやれ」

という。みんな甚五郎に攻撃するのをやめたが、一匹だけ甚五郎を放そうとしない犬がいる。

「なぜ許してやらないのだ」

「私は犬として生まれたが、甚五郎に捉えられた。甚五郎が鷹狩りをしたとき、私を縛り付けて、皮を剥いだり、腿を切り刻んだりして鷹の餌にした。その痛さ、苦しさ、たとえようもなかった。誰にも訴えることが出来ず、苦しみの中に死んだこと、いつの世になったところで、忘れられるものではない。その恨みを晴らさずにはおかない」

これには閻魔大王も困ったが、なんとかなだめて、獄卒に案内させて、甚五郎を帰した。

帰り道で、忍の長七という、最近敵に討たれて亡くなった知人とすれ違った。長七は甚五郎の袖を捕まえて、

「私はこれから地獄に行く。人間界に帰ったら私の父母に会い、法事をちゃんとやってくれるように頼んでください」

という。

「それはいいけれども、ここであなたに会ったという証拠が無くては信じてくれないだろう」

というと、腰から笄(こうがい・箸のような髪掻き、一方は平たく、一方は尖っている。銀や象牙などで作る)を取り出し、

「これを証拠にしてくれ」

と言って甚五郎に渡した。

                            続く

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2008年5月23日 (金)

武川岳  島村ガニ 

5月23日(金)

武川岳

Imgp0061_2 Hさん、Kさん、Aさんと山行。

コース  名郷~武川岳~焼山~双子山~芦ヶ久保駅

写真は、コース途中から見た双子山。

距離は比較的長く、岩場などもあり、山なれた人向けのコースである。山の上の樹木は、まだ新緑で、柔らかい黄緑の葉をひろげている。その緑の中に控えめなツツジが、紅の花を咲かせている。圧倒的なツツジというのではないのだけれど、それがまた美しい。そして、藤の花。

よい写真が撮れればよかったのですが・・・。言葉の説明だけではね。

島村ガニ(狗波利子 8)

細河高国の家来、島村左馬助は武術の心得があった。しかし、ちょっとした失敗で殺されてしまった。亡霊はカニとなって、大阪尼崎の辺りにわき出た。このカニ、少し小さめで、甲にはしわが多い。顔にしわの多い人を、島村ガニのようだというのは、このことである。

昔、平家の一門が壇ノ浦の戦いに敗れ、海に沈んだが、その亡霊はことごとくカニになった。そのカニが山口県の赤間が関の辺りに今でも多くいる。

    横ばしる蘆まのカニの雪ふれば

          あなさむけしとやいそぎかくるる

と古歌にも詠まれている。この世に迷いが有れば、どのような者にも生まれ変わるとは、仏の教えにもある。

治承(1177年-1179年)源頼政、謀反を起こし、宇治川をはさんで源平の戦いになった。その時討たれた者は蛍になった。今でも毎年4月5日には平等院の前に集まって、幾千万の蛍が源平の戦いをする。

この世に未練を残す者は、死んでから異類になって生まれ変わるという古代中国の学者の言葉は、間違っていない。

                               終わり

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2008年5月22日 (木)

注意力散漫 守江の海に迷う魂

5月22日(木)

注意力散漫

ボランティアグループ定例会

守江の海に迷う魂(狗波利子 7)

豊後の国(大分県)の守江の浦には、亡霊がでて、たびたび人を悩ませている。その昔、慶長5年(1600年)9月関ヶ原の戦いがあり、石田三成側西軍は、東軍に打ちのめされ、ちりじりに逃げた。

西軍の将、黒田長政は、瀬戸内海に数十艘の船を出し、東軍を逃がさないようにと見張りをした。折しも、闇に乗じて島津の船が逃げようとした。長政の軍勢が、それを止めようとしたが、島津の船は聞かず、戦になった。

島津の船が砲弾、火矢を発したが、手元が狂って味方の船に落ちてしまった。その船の者38人が船と共に焼け沈んだ。その中にいた中村新衛門という者が亡霊になり、沖を通る船の人々を悩ませると言うことである。

寛永(16224-1628)の終わりごろ、広島倉橋の去る身分ある者の娘が、長らく宮崎の佐土原と云うところに住んでいたが、国に帰ろうとして、この沖を通った。その船の中で、娘は何かの物の怪にとりつかれ、あらぬ事を口走るようになった。供の者が、

「こんな沖の船のなかまできて、人にとりついたりする、おまえは何者だ」

と問いただしたところ、娘の口を借りて、

「吾はこの沖で、戦のため海に沈んだ中村新衛門という者なり。魂はいまだに浮かばれず、この海に浮きつ沈みつしている。その苦しみのために、こうしてこの娘にとりついた。私のために法事を営んでほしい」

といい、涙を流した。船中の者は驚いて港に船をつけ、浦人に聞いてみた。すると、同じようなことがたびたびあるという。

それでは、ということで、僧を呼び、三日二晩の法事を行ったところ、娘の口を借りて、中村新衛門は、関ヶ原のこと、この沖の戦いのことなどを物語った。聞く者はその哀れさに涙を流した。

法事が済むと、

「ありがたや、これで苦しみもなくなった」

といって、娘は正常に戻った。

それより後は、沖を通る船にとりつく亡霊はなくなったということである。

                           終わり

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2008年5月21日 (水)

K福祉会  富士垢離 

5月21日(水)

K福祉会役員会 総会

平成19年度、精神障害者支援福祉法人Kの役員会、総会。自立支援法によって起こる様々な問題について、まだ、確とした方針が立てられないでいること。というより、精障者の福祉施設にとっては、ほとんど不可能な要求をされていると言うこと。しかし早急に何らかの方針を立てなければならないことなど、話題になる。

かって、北海道伊達市の知的障害者の福祉施設「太陽の園」を見学したとき、その指導者が言っていたことを思い出す。「施設は有限である。だから他人のふんどしで相撲を取る」、「スタッフは有限である。ボランティアは無限である。だからボランティアの力を借りる。ボランティアを掘り起こす」。この考えを、理事長に言ったことはある。実際に中心になってやっている人は大変だとは思うけれど、まだ余地はあるのではないか。

富士垢離 2(狗波利子 6)

(前回のあらすじ。鳥岡弥二郎は病を得て、医師も匙を投げ出すほどだったのに、行者に頼んで、富士の浅間菩薩に帰依して祈ってもらったところ、全快した。そこで富士詣でをしたが、誤って滑り落ちたところを、老法師に助けられた。)

弥二郎は帰ることも忘れて、老法師身の上話を聞いた。

「私は東国のものです。奥州衣川の辺りに長く住んでいたけれども、心ならずも戦に巻き込まれ、なんとか生き延びて、ここに隠れました。修行に明け暮れて、年のたつのも忘れてしまいました。たまには昔を思い出して、奥州に行ってみることもありますが、もとより隠れて住む身なので、人と話をすることもありません。」

老法師は、白木で作った折り箱のような箱から、くこの葉を混ぜたご飯を勧めた。

「まあ、そんな状態ですから、あなたに何か食べ物をと思っても、こんなものしかありません。」

弥二郎は深く感じ入り、もう一度名を尋ねた。老法師は眉をしかめ、

「名乗りたくはないのだが、私の名は残夢といいます」

さらに言葉を継いだ。

「人との交際がないので、世の中の移り変わりが分かりません。今世の中はどんな状態ですか?」

弥二郎は、おおよそ次のように話した。

昔、足利尊氏が世を治め、13代にわたった。その後、世は乱れ、群雄が割拠するようになった。互いに争い、近隣の国を襲い、自国の領土を広げようとしている。駿河に北条氏康、甲斐に武田晴信、越後に長尾景虎、常陸に佐竹、会津に蘆名、越前に朝倉、周防に陶晴賢、安芸に毛利、出雲に尼子、豊後に大友、肥前に龍造寺、伊勢に師、近江に浅井、佐々木、畿内や南海に三好一族とその家来の松永などがいる。

そのほかにも、全国いたるところで、群雄が争っている。強いものは弱いものを滅ぼし、家来が主人を倒し、親子兄弟でもいさかいを始める。皆、私利私欲に走り、忠孝を忘れ、、運がよければ卑しいものも国の主となり、勢いを失えば貴族も乞食になる。栄枯は入れ替わり、盛衰は日ごとに移ろう。その間に死する者、幾千万人とも知れない。

そんなところに、尾州に織田信長が興り、猛威をふるった。おかげで今のところは静かになったが、この後どうなるかは分からない。

「そうですか。盛衰は運によるものです。知恵や武力や才覚ではどうにもならないこともあります。そのようなことは天地神明にまかせて、自らは慈悲の心を持って、正直に生きるのがいいでしょう」

と、残夢は言い、

「この辺りは夜になると恐ろしいことが起こったりします。もうお帰りになるのがいいでしょう」

と弥二郎を送り出した。

日は傾き、風の音もすさまじい。門を出て振り返ると老法師は見えず、庵もかき消えている。ただ人の叫ぶような声が空から聞こえるばかりであった。

案内人が、

「曇っている日には、ここから地獄の有様が見える」

という。弥二郎は足早に宿に急いだ。

                               終わり

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2008年5月20日 (火)

富士垢離

5月20日(火)

今日は、日記としては、あまり書くことがない。小幡歯科に行ったこと、マルエツで買い物をしたこと、ヤマダ電機でプリンター用のインクを買ったこと、くらいかな。

富士垢離(狗波利子 5)

近ごろは都でも田舎でも富士垢離と言うことが流行っている。毎日川に入り、水垢離をし、浅間大菩薩を念じるのである。熱心に行えば、御利益があるという。どんな病気も治るし、貧乏人は豊かになると言うことだ。

摂津の国(大阪と兵庫にまたがっている)のゆすりぎと言うところに、鳥岡弥二郎と言う人がいた。病が重く、医師も匙を投げる状態だったが、浅間の行者に頼んで祈ってもらったところ、程なく回復した。

弥二郎はあまりのうれしさに富士詣でを思い立ち、案内人を頼んで山に登った。富士山は、まさに三国一の山である。頂は遙かに雲の上で、夏でも雪が降る。麓の方は春のようで、樹木の緑がさわやかだ。

杖を便りに踏み後を伝い、万丈の壁を登る。雲は足の下にたなびき、遠くの山は遙かに霞み、まるで影のように見える。よじ登るのに、頼るべき蔦や藤の蔓もない。砂を胸につけながら這うようにして登る。

昔、常陸坊海尊という者、源義経の家来だったが、義経が奥州衣川で討たれたとき、一人生き延びて、富士山に登って身を隠した。あまりの空腹に絶えかねて、浅間菩薩に祈ったところ、岩の間から飴のようなものがわき出てきた。舐めてみると、まるで甘露のようであった。これを食べて飢えを癒やしたところ、心身はまことに健やかになった。その後は、霧の中に住み、かすみを食べてついに仙人になった。たまには里に下り、人々の難儀を救うこともあるが、普段は富士山に隠れ住んでいるという。

弥二郎は、遠くから歩いてきたので疲れてしまい、頂上の近くで、油断をして足を滑らせた。そのまま、まるで玉を転がすように転げ落ちた。そこに老法師が不意に現れて、弥二郎を抱き留めた。危ういところで命が助かった弥二郎は、老法師に手を合わせ、尋ねた。

「ありがとうございます。あなた様はなんというお名前でしょうか。どちらにお住まいでしょうか」

「私は世を捨てたものです。名乗るほどのものではありません。この麓に住んでいますので、気が向いたらおたずね下さい」

老法師はそう言い残して山を下るかに見えた。しかし、その姿はまたたく間にかき消えてしまった。

弥二郎が山を降りて、麓の辺りをさがしたら、小さな門があった。蔦、葛に覆われ、草が深く、道もはっきりとは分からぬところを入っていくと、先ほどの老法師にあった。  100㍍ほど進むと一つの庵があり、仏壇に祭られた大日如来が光り輝いていた。

山からの風は読経の声に聞こえ、海からの浪の音は、錫杖を揺するように聞こえる。煩悩や妄想を忘れ、み仏の力を感じる。けむりは消え、霧は晴れ、時ならぬ花が咲き、この世とも思えない。

                                  続く

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2008年5月19日 (月)

いろいろ  足柄山 3  

5月19日(月)

いろいろ

精障者作業所Mへ。畑仕事。かき菜を抜き、畑を掘り返し、畝を作り、消石灰を撒く。手伝いのメンバーは、KKさん、KOさん、Nさん、Tさん。

珍しく、M開所当時の所長Kさん、個人的知り合いのOさんなども、Mに来所。

私がブログを書くのは、酒を飲んで夕食も食べて、寝る前と決めていたのだが、狗波利子の現代語訳などをやり始めたら、そうも行かなくなった。現代語訳と言ったところで、書き流しているだけだけれども、、下読みはしなくてはならないし、辞書なども開いてみなくてはならない。書くのにも時間がかかる。結局、夕食前の暇な時間なども、ブログに向かうことになる。その割におもしろくないような気がしないでもない(もう、弱音を吐いている!)。まあ、続けますけれどもね。

次の日曜日、5月25日、東京家政大学狭山校で学園祭がある。緑苑祭というらしい。狭山市の精神障害者の福祉施設も、バザーに参加させてもらう。ぼんくらカエルも手伝って作った自主作品なども売られる予定だ。西武線稲荷山公園駅近くです。お暇な方はお寄りください。

5月14日のブログ韓国の特攻隊慰霊碑に、ヒゲババさんから「背景をあまりご存じないようですね」のコメントあり。韓国籍の人が11名特攻隊でなくなっているそうで、志願したわけではないと言うことです。居丈高にならない抗議で、好感が持てました。

私は、志願した人も含めて、亡くなった方は気の毒だと思います。志願するように導かれていたのだし、どちらにしろ戦争の犠牲者です。それでもなお、韓国で特攻隊の慰霊碑を建てようとすれば、反対されるのは必然と思います。亡くなられた方は、本当に、気の毒です。

足柄山 3(狗波利子 4)

(前回までのあらすじ。由井源藏と仲間3人が仙術を学ぼうと足柄山にこもるが、仲間3人は修行を諦めて途中で故郷に帰る。それぞれに出世した3人の仲間と由井源藏が再会する。3人は仙術を会得した由井源藏のもてなしを受け、その不思議さに驚いている。)

日暮れともなると灯火を掲げ、着物に香を炊き込めた遊女が10人進み出て、さまざまな歌舞音曲を披露する。見れば、この辺りに有名な遊女たちである。中に1人、東琴(日本古来の6弦の琴。和琴)の名手がいて、爪音に併せて、

   花の宴の夕暮れ、朧月夜に引く袖、

   定かならぬ契りこそ、心浅くも見えけれ

と謡う。その声は雲に響き、空に満ちた。

昔、源氏の花の宴の夜、内侍のかみと別れるとき、扇を取り替えて帰られた。その扇の歌に、

   世にしらぬ心ちこそすれ有明の

       月のゆくへをそらにまがえて

とある。今宵急なごお呼びで参りましたが、思いがけないことでしたので、準備もととのわず、心浅くやと謡いました。

3人ともこの歌に、心が浮かれてしまった。

   みほの松かぜふきたえて、おきつ浪もあらじな。

   水にうつろふ月とともに、ながめにつづくふじさん。

この地に合わせた琴と歌、風も静かに、海原の浪もおさまり、雲は消えて、月はさやかに映る。三保から富士までさえ渡って見えるさまは、たとえようもなく美しい。

由井源藏が歌を詠んだ。

   夜もすがらふじのたかねに雪消えて

             清美が関にすめる月影

やがて夜明けとなり、鳥の声があちこちから聞こえてきた。名残は尽きないが、また尋ねることにして3人は立ち上がった。門を出て50㍍ばかり進んで振り返ると、後ろはもう霧に隠れ、雲に閉ざされている。三保より船に乗り、松吹く風に送られて家に帰った。

そして10人の遊女たちに、どのようにして由井源藏のところへ行ったのかと聞いたところ、昨夜は夢の中で高貴な人のもとに呼ばれ、酒盛りをした。その場所は分からない、と皆同じように答える。

人を使って由井源藏の家を訪ねさせたが、その場所はようとして分からなかった。

3人とも、少しばかり出世したのを大層なことに思っていたが、今は修行を捨てたことが悔やまれる。しかし、こればかりは取り返しがつかない。

                              終わり

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2008年5月18日 (日)

ほりかねの井  足柄山 2

5月18日(日)

ほりかねの井(ぼんくら日記)

車椅子と仲間の会。

今日の会場は狭山博物館。博物館長高橋さんから、狭山の歴史講座を受ける。と言っても、2時間だけの講義だから、大まかな歴史である。

その中で、ほりかねの井については、かなりの時間を割いた。

高橋さんは下の絵のような形に掘り下げられた井戸の総称を、「ほりかねの井」Mizutani10009 だとしている。私はちょっと異論がある。しかし、人の住んでいないところになぜ井戸を掘るのか疑問に思っていたが、高橋さんの話を聞いて、納得できるところもあった。

平安時代には行き倒れをれの人を救うために、街道筋に多少の施設が作られていたらしい。そんな中に、水の不自由な場所に井戸を掘ったことは考えられる。高橋さんの言うように「道沿いの井」はあってもおかしくない。記録では、狭山市の「七曲の井」などは、何回も掘り返されているらしい。人が住んでいて、日常使われている井戸ならば、掘り返さなければならないほどなおざりにされることはないはずだ。「道沿いの井」ならば、それも考えられる。

上の絵のような井戸の総称を「ほりかねの井」とすることへの疑問の一つをあげておく。鎌倉時代、大納言源雅忠の女(当時の女の人は、固有名詞が分からない人が多い)の『とわずがたり』に、

   ほりかねの井は跡形もなくて、ただかれたる木の一つ

   残りたるばかりなり

とある。『とわずがたり』はきわめて写実的で、当時の風俗、人情を知る上で貴重な資料だという。この書き方は、特定の井戸を指していると考えられるがどうだろうか。

足柄山 2(狗波利子3)

(前回のあらすじー由井源藏、神原四郎、藤山藤治、浦安又五郎の4人は、仙人の修行をするため足柄山に入り、3年過ごした。しかしこれという成果もなく、由井源藏1人を残し、3人は故郷に帰り出世をした。その3人がみすぼらしい身なりの由井源藏に再会し、援助をしようと申し出る)

由井源藏はうち笑って、言った。

「君たちは出世をし、私はごらんの通りだ。しかし、魚や鳥でさえ自分の心にかなった生き方をしている。私も、必要なものくらいは何とかなっている。この山の向こうに私の住まいがある。むさ苦しいところだけれども、案内しましょう」

源藏は3人を連れ、三保の岬から足柄山に向かい、峰を越え、谷をわたった。

やがて、桃や桜の林に辿り着くと、見なれない門がある。門の中は茨や茅が生い茂っていて、道らしい道もない。100㍍ばかりも進むと大きく立派な楼閣があった。玉で甍を葺き、虹で梁をつくっている。道の傍らには緑の竹がほどよい高さに生え、青葉の間には白い雲が浮いている。風が吹けば小枝の葉ずれの音がさわやかに聞こえる。

楼門の内には見慣れぬ木の花や名も知らぬ草花が、深緑、浅紫、あるいは赤く、あるいは白く、咲き競っている。まわり中かぐわしく匂い、まるで人間世界ではないようだ。魂はさわやかに、心はうきうきとして、雲に登るようだ。

中に入って庭を見渡せば、木々の梢には五色の鳥が飛び交い、さえずっている。とてもこの世のものとは思えない。まるで極楽のクジャクが鳴いているようである。

池の中の清らかな水には、金銀の鱗を持つ魚が浮き沈みして泳ぎ回り、庭木には、10センチもあろうかという大きな赤い栗、緑のナツメなどがなっている。

敷き渡した白砂の間に、ほどよく配置された岩が立ち並び、岩の間からはさわやかな音を立てて、水が流れ出している。

感心して見ていると、髪を中国風に束ねた童子が二人出てきて、3人を書院に案内した。書院の飾り棚には、琴(キン、七弦の琴)、瑟(シツ、大琴24弦くらい)、笛、折りたたみ式の箏(日本の琴、ただし現在は折りたたみ式はない)が置かれている。また、香炉、香合、西湖の壺が美しい錦に包まれ、深紅の紐で結ばれていた。

背もたれのある豪華な椅子には豹の皮がかけられ、中国の絵が描かれた三幅一対の屏風が床に立てられている。

しばらくすると、いかにも気品のある姿で由井源藏が現れ、3人に礼儀正しく挨拶をした。

「皆様はこんなにも騒がしい世の中で、主君に使え、心の安まるいとまもないでしょう。生臭く汚らわしい食物を取り、欲望の炎に身を焦がし、憂いごとで心を悩ましながら、この年月を送られた。さぞや苦しいことでしょう。しばらくここで心を慰め、憂さを晴らしてください」

3人はその不思議さに驚き、言葉もなく、ただ頷くばかりであった。

すぐに、童子4人が出てきて、それぞれの前に山海の珍味を揃えた食膳をすえた。

                            続く

食膳は「山海の珍味」としたけれども、原文では、オランウータンの唇、熊の掌、鹿の胎児、子鹿の吸い物、などが出てくる。迷ったが、カットすることにした。熊の掌はまだしも、ほかはちょっとね。(ぼんくらカエル)

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2008年5月17日 (土)

俳句の会  足柄山1

5月17日(土)

俳句の会

稲荷山公園で障害者団体によるバザーその他のイベントのある日だったが、私の関係するところでは、人手が足りていたので、そちらは失礼する。

午後、俳句の会。5句投句。2点以上入ったのは次の2句。

   やわやわと児は抱かれたり若葉風

   若葉風カヌーを担ぐ人の列

足柄山1(狗波利子2)

昔、興津というところにに由井源藏というものが住んでいた。鎌倉のご家人の子孫であるが、時代が変わり、貧しい暮らしになっている。同じような境遇の友達に、藤山兵次、浦安又五郎、神原四郎というものがいた。

古老の話では、昔から富士足柄の山には仙人がいる。真剣に修行する人の前に現れて、霊験あらたかな奇跡を行うという。

4人はこの話に感じ入り、我々も修行をして、その仙人にあい、長生きの秘訣を聞こうと足柄山に分け入った。

岩の洞穴をすみかとし、峰に登ったり谷に下ったり、蔦を衣服とし、苔の上に眠って修行した。あるいは素肌を雪や霜にさらし、嵐に身をまかせ、露を食らい、呪文を唱えた。こうして3年ばかり修行したが、何も起こらなかった。

神原四郎は病気になって故郷へ帰った。

藤山や浦安は、

「家を捨て欲を捨て、我が身を省みずに修行をして3年になるが、霊験あらたかなことは何もない。虚しく年月を過ごして老いていくよりは、故郷に帰り、どこかの主君に使えて身を立てよう。その方がよいこともあるだろう。目にも見えないことのために身を削るほどの修行をしたのだから、その気持ちで主君に使えたら、出世だって出来ないわけでもなかろう。不老長寿など望んだところで無駄なことだ」

と言って、故郷へ帰った。

由井源藏は、この3年間修行した仙人への道も、天の神の心にかなわなかったから効果がなかったのだと考えた。疑いを持ちながらでは、たとえ何年修行したところで、何も起きはしないだろう。この上は、疑いを持たず、命の限り修行を続けるばかりだ、と、ただ1人山に残った。

いよいよ熱心に精を出し、修行したところ、仙人が現れて秘術を伝えた。そして由井源藏は悟りを開いたのである。

一方、故郷に帰った3人はよい主君に恵まれ、よく励み、おのおの奉行の頭にまで上り詰めた。世の人も褒めそやすめでたさであった。

ある時3人は三保旅をし、出て海辺で談笑していた。

すると小さな船がその前を通った。漁師の釣り船かと思えばそうではなくて、蓑笠を着た老人がその舟を操っている。竿をしならせて行く船の速さと言ったら、まるで風のようだ。見ると、その船を操っているのは、紛れもなく由井源藏である。

3人は声を上げて呼び返して言った。

「久しく会わなかったが、随分歳をとったね。君は1人山に残ったけれど、その様子では、何も起こらなかったようだ。風はつなぐことが出来ないし、影は捕まえられない。二度と帰らぬ年を、どうにもならないことに重ねて、老いしまったのは情けない。我々3人は故郷に帰り、主君に使え、奉行長官になった。世の人に、怖れ敬われている。妻を迎え、家も栄えて、愉しみも多い。君はそのありさまでは、いろいろ不自由なことが多いだろう。不足のものは、何なりと我々が調えてやろうではないか」

                            続く

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2008年5月16日 (金)

食べる食器  三保の仙境

5月16日(金)

食べる食器(ぼんくら日記)

かなり前、石川なんとかと言うアイドル歌手の「紅茶がおいしい喫茶店」という歌が流行ったことがある。その頃から、ゴミ問題がマスコミなどで取り上げられていた。

今は「紅茶がおいしい喫茶店」の歌詞を忘れてしまったけれど、ゴミ問題に引っかけて、戯れ歌を作ったことがある。そちらの歌詞も忘れた。

当時、私は次のような冗談をよく言った。

ゴミを減らすには食事の後で食器を食べると良い。レストランなどでは、食べられる食器を使うことが義務づけられたりして、食べ物屋では、食器をおいしく作る必要に迫られる。あそこのレストランは料理はまあまあだけど、皿が不味くて・・・などと評判が立ったりして。「箸までおいしいレストラン」なんてのが宣伝文句になったりしてさ。

その冗談に続けて「スプーンのおいしい喫茶店」などと歌って見せたりしたわけだ。

今、食べる食器が出来ているんですってね。冗談が本物になっちゃった。

三保の仙境(狗波利子1 現代語訳)

駿河の国宇度の郡三保の松原は風景が美しい名所である。

北には富士山が雲の上までそびえ、何千㍍有るか知りようもない。頂上には笹竹が生えている。噴煙の色は青く、中腹より下は小松が生い茂り、常に緑である。鹿の子まだらに降り積もる雪は、夏でも消えることはない。

浅間大菩薩が住むと云われ、中国ではこの山を蓬莱山と名付けているそうだ。

万葉集山部赤人の歌に、

  ふじのねにふりつむ雪はみなづきの

      もちにけぬればその夜降りけり

南の方は荒海である。西は宇度の山、千手観音の霊地である。田子の入り海葦高山清美が関にもほど近い。

漁師は夜もすがら釣りをし、漁り火は波を焦がす。岩に打ち付ける白波、峰を越える夕風、波打ちぎはのカモメが水に群れ遊ぶ様子、草むらの虫の声まで、とりどりに趣がある。

新古今集越前の歌に、

  沖つかぜ夜寒になれや田子の浦

     海士のもしほ火たきまさるらん

三保の松原は西より東へ海中に伸び出すこと40町あまり(1町は109㍍強)。

昔、天女が下りてきて、羽衣を松の枝に掛けておいたところ、漁師がこれを取り上げて返さなかった。天女は仕方なく、その漁師の妻になった。何年か過ぎて、漁師が羽衣を返したところ、天女は非常に喜んで言った。

「私たちが妻となり、夫となったのも、前世に縁があったからです。私は天に帰りますが、あなたには仙人になる方法を教えましょう」

漁師が惜しむ中、天女は雲の上に帰っていった。漁師は天女の教えをよく守り、ついに仙人になった。今でも富士足柄の間を行き来している。歳もとらず、不老長寿を保っている。

能因法師の歌に、

   宇度浜に海女の羽衣昔きて

        ふりけん袖やきょうのはふり子

と読んだのはこのことである。

                                完

浅井了意作、ぼんくらカエル現代語訳です。「狗波利子」の冒頭にある話です。

おなじみの話ですね。富士山の頂上に笹など生えていませんが、原文にあるのでそのままにしました。

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ぼんくら爺さん  浅井了意

5月15日(木)

ぼんくら爺さん

河川敷の散歩。例によってスケッチなどしていると、小学4-5年の女の子が二人近づいてきて、スケッチを覗く。

「おじさん上手だね」

「ありがとう。だけど、そんなこと言ってくれるのは、あなた達だけだよ」

「そんなことないよ、ねえ、けい子ちゃん」

「うん、上手だよ。ほかのも見せて」

そして私のスケッチブックをめくる。

「ねえ、なんて言うの?」

「え?」

「なまえ」

「ああ、名前ね。ぼんくらだよ」

「そう、ぼんくらなんだ。じゃあ、ぼんくら爺さんさよなら」

「ぼんくら爺さん、バイバイ」

手を振りながら二人は離れていった。ぼんくらカエルは、めでたくぼんくら爺さんになりました。

今日はほかに書くことが多いので、せっかく褒めてもらったスケッチを、ここには載せない。

浅井了意

浅井了意、江戸初期の「かな草紙」作者。浅井了意は、出家してからの名前で、他にいくつものペンネームがあるらしい。広い学識と文才を持ち、「かな草紙」ばかりではなく、さまざまな分野で、500巻ほどの著書があるという。

去年から広田書店より「浅井了意全集」が刊行されているらしい。全19巻で年3冊刊行と言うから、順調にいっても完結まで6年かかることになる。実際には10年くらいかかりそうだという。

「かな草紙」では『御伽婢子(おとぎぼうこ)』が代表作で、全13巻。中国の怪談小説を翻案したものである。上田秋成の『雨月物語』はこの作品に多くを負っているという。

『御伽婢子』の続編のような形で『犬張子』という怪談集、全7巻も刊行されている。その『犬張子』の幾つかを、このブログで、現代語訳にしてみたいと思う。もとより古文の知識はないし、誤訳などもきっと多いだろう。しかし、いいわけを言えば、このブログは自分のために書いているようなものだ。自分でやりたいと思ったら、やってみるのがいいと、かってに決めている。とはいえ、読んでくださる方もいるので、間違いに気づいたら、教えていただければありがたいと思う。和歌なども沢山出てくるが、それは訳さない。というよりも、訳す力がない。

さしあたって、明日から始めます。ただし、毎日やるとは限りません。

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2008年5月14日 (水)

韓国に特攻隊慰霊碑

5月14日(水)

精障者作業所Mへ。

韓国に特攻隊慰霊碑

私はテレビや新聞のニュースについて、半端な評論家のようなことを言うのは気が引けるけれども、今日はちょいと取り上げたくなりました。

黒田福美という女優が、韓国人の特攻隊慰霊碑を、韓国南部の市に建てて、地元住民との間に摩擦が生じたと言うニュース。

黒田福美さんというのは、韓国通で知られるらしいですね。韓国を愛し、韓国人情をよく知る人だそうです。それにしては想像力のない話だと思います。

韓国通ならば、韓国と日本の歴史についてもよく知っておられることでしょう。特攻隊というものについてもご存じのはず。それなのに、韓国に特攻隊の慰霊碑をつくって、地元の人に反対されないと思ったのでしょうか。

こんなことを書くと、韓国の人には「虫が良すぎる」と思われるでしょうが、私は韓国の一部の人が、いつまでも日本人の罪について責め立てるのには、「もういい加減にしてくれないか」という気持ちがあります。確かに日本は悪かったのです。でも、いつまでも土下座を求められても困るのです。

日本人の側にも問題があります。時々、韓国人の感情を逆撫でするようなことを言ったり、したりする人がいるんですね。

韓国通がこれではねえ。

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2008年5月13日 (火)

変ですね、腹立つなあ。

5月13日(火)

精障者作業所Mへ。

17日に稲荷山公園で「チャレンジ・フェスタ」のバザーがあるので、その準備。なんだかんだとやることはある。

かんじんの17日は、私は俳句の会に出るので、冷やかしに行く程度しかできない。当日は手伝える人が多いので、私はいなくてもいいでしょう。もし雨で18日になった場合、人がいないらしいので、手伝うことになるだろう。ただし、午後は車椅子の会があり、そちらの方にでることになる。その場合は、半日ずつになる。

先日ミャンマーでのサイクロンによる大災害に続き、こんどは中国で大地震。両国とも、自国内に外国の支援関係者が入ることを歓迎しないらしい。体面や社会体制の方が、人命より大切なんです。変ですね。

他の国ばかりは言えない。日本も変です。

政府の閣議決定で、道路特定財源を2009年度から一般財源化する、と閣議決定をしたんだそうです。でも、特定財源を10年間維持する、という法案を、今日、政府与党は衆議院の三分の二以上の賛成で再議決したんですね。私なんか頭が悪いから、意味が分からないんだ。閣議決定と再議決と、どう考えたら矛盾しなくなるのか。きっと、奇妙な理屈があるんでしょうな。

私に分かることは、天下りの温床の特殊法人が、ほんの形だけ手を加えられるらしいこと、行政改革は出来ないらしいこと、私の生活が赤字になりそうだと言うことである。

そして、私自身が被害者である年金問題。私の場合、かなり特殊なケースだとは思うけれども、それにしても、腹立つなあ。

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2008年5月12日 (月)

いろいろ

5月12日(月)

まず、昨日のブログの訂正。40年以上前、大宮の氷川神社参道にバタヤ部落があったことは事実ですが、後楽園の近くや神田川の土手にもあったと書いたのは、時期が違いました。後楽園の近くや御茶ノ水駅近くにあったバタヤ部落は、その前になくなっていました。大宮に引っ越したとき、まだバタヤ部落があることに驚いた記憶があります。その頃のバタヤ部落は、戦後の影を引きずっているものですが、現在、上の博物館近くにあるのは、新しく誕生したホームレスの人たちが中心だと思います。

精障者作業所Mへ。

Mizutani10009 障子紙と竹籤などを使い、ロールスクリーンを作る。窓の日よけに、カーテン代わりに使ったりするものである。べつだん窓に限らず、インテリアとして使ってもいいので。注文が有れば、指定されたサイズで作っている。といっても、一年に何回という程度の注文しかない。

今日のオーダーは団子屋さん。

Mの畑の野菜は、かき菜だけだが、先週行っていないので、もうみんな花が咲いていた。すっかりお花畑になってしまって、収穫はほんの少し。それも本日でおしまい。

帰り道で自転車のNさんに会う。「怪我をしたの?」と聞かれる。

「どうして知っているの? Tさんに聞いたの? ブログ以外では人に言っていないけれど」というと、

「聞かなくても、額を見れば分かるわよ」

そうでした。おでこに絆創膏をしていることを忘れていました。

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2008年5月11日 (日)

大宮へ

5月11日(日)

天気のせいで山へ行けなかったことも残念だけれど、同じように、仲間に会えなかったことも残念。山行の楽しみの半分は、仲間に会うこと。べつだん、大した話をするわけではないのだけれど、気の合う人たちと会っているのは、心安らぐものがある。

大宮に出かける。40数年前、この町で所帯を持った。二人の子供が生まれ、長女が小学校へ入学する直前まで過ごした町である。私が所帯を持った頃、氷川神社の参道にはバタヤ部落があった。バタヤ部落とは、今の言葉で言うならホームレスのスラム街と言うところか。

その頃は、あちこちにバタヤ部落があった。たとえば、東京の後楽園の近くにもあたし、お茶の水の神田川の土手にもあった。その頃のバタヤ部落がそのまま続いたと言うことではないのだろうけれど、今でもホームレスの住宅が上野の博物館の近くにありますね。

今では大宮の町はすっかり変わった。駅を下りて、氷川神社や大宮公園に向かって歩いたのだが、記憶もおぼつかなくなっている。こんな道があったかなあ、などと思ったりする。それでも、方角だけは分かっているので、何とか氷川神社に着く。

Imgp0028_3

セイヨウシャクナゲというそうです。氷川神社の裏側に咲いていました。

Mizutani10010_3 大宮公園の池のスケッチ。昔は手こぎのボートが浮いていたけれど、今はないようだ。

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2008年5月10日 (土)

することがない

5月10日(土)

特養Sの遠足の日だったが、雨で中止。

おかげで1日やることがなくなった。雨の日に、何もしないで家にこもっているというのも、何か辛気くさい。若い頃は一日中家にいても平気だったが、今は駄目ですね。1日持ちこたえる内面の力がない。

といって、昼間から酒を飲むわけにも行かないし、サウナにも、おでこの傷が気になって行きにくい。本を読み続ける根気もないし、一日中ナンプレというのも嫌だなあ。

こんな日に、暇そうな知人に電話をかけ「おい、つきあえ」というのも出来かねる。第一つきあってもらってもやることがない。

実際の今日の出来事、ウーン・・・出来事というようなものではないし・・・したこと・・・でもないなあ。

詩集を送ってくれたNさんに礼状を書く。

私の属する俳句の会から150句ばかりの句のプリントが送られてきて、そこから10句選をしろという。その選。

千葉の知人がやっている俳句の会の機関紙を恵贈され、それを読む。

岩波新書「イラクは食べる」酒井啓子著、を読了。イラクの現状、複雑で分かりにくい。

これから読むつもりなのが、小学館文庫「銃を持つ民主主義」松尾文夫著。

明日の山行予定、雨で中止の電話あり。

また明日も空いちゃうなあ。天気が良ければ散歩にでも行くんだけどね。ぼんくらカエルも、70歳前後から、アウト・ドアー派になったみたいだ。

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2008年5月 9日 (金)

花アルトキハ

5月9日

小幡歯科。歯の手入れに通っている。

水彩画の会。絵の紹介をしてもいいが、下手だからやめておきましょう。こんなのはその日の気分次第。

最近のスポーツ界の話題では、なんと言っても伊達公子選手。11年ぶりの現役復帰で、日本3位の選手を破ったり、その国際大会でシングルス準優勝、ダブルス優勝だなんて。負けた選手は悔しいだろうなあ。伊達選手に勝てないようでは、国際試合では通用しないんだろうね。

今日の毎日新聞夕刊、榊莫山の紹介記事あり。

   花アルトキハ花ニ酔イ、風アルトキハ風ニ酔ウ。

榊莫山が水墨画に添えた言葉らしい。有名な言葉になっているらしいが、私ははじめて知った。いいなあ、この言葉。

ウン、ソウダ。今日はもう酒に酔おう。

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2008年5月 8日 (木)

話を聞く

5月8日

午前。ボランティアグループ定例会。

午後、老人介護施設Kへ。HAさん、HOさんが3F、KAさんと私が2F。

私はいつもの如く、手品などをする。いつもの如く・・・まさにいつもの如く、同じ手品をする。自分で飽きるのだ。といって、大げさに道具を揃えてやるような手品はしない。あるものを使ってやるような手品で、やれることは、せいぜい10種類くらいしかない。

お笑いタレントの志村けんがテレビで言っていた、お笑いの芸は、自分で飽きてはいけないんだって。なるほどねえ。

そのほか私のやることは、話をすること。話がうまいと言ってくれる利用者さんがいる。人を笑わせるからだ。だが、自戒していることが一つある。このような場では、相手の話を聞くことだ。相手に気持ちよく話してもらうこと、これが肝要。上手く聞き出せば、誰でも自分の話を持っている。

誰からも、その人の話を聞き出せるようになるのは、なかなか難しい。私など、まだまだだなあ。

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2008年5月 7日 (水)

抜糸、ハイキング

5月7日

サラリーマンは連休が昨日で終わり。私は毎日が休日。とは言っても、実はいろいろ用事がある日が多い。このゴールデンウイークは私の場合、今日までが休日みたいなもの。

休日とは行っても、この前おでこに怪我をしてしまったものだから、思うようにならないめんがある。今日、抜糸。

整形外科の先生曰く。

「今日で終わりです。縫合したところの一部に被っているところがあるので、そこは絆創膏でおさえておきます。救急医療と私たちではやり方の違いもありますから、半年くらいたって傷跡が気になるようなら、もう一度きてください」。

なんだ! 整形外科医から見れば、縫い合わせが下手ですよということか。まあ、これから女の子を口説こうという気持ちもないから、再び行くことはないと思いますけどね。

抜糸の予約時間が9時半で、10時には終わっているから、そのままどこかへ出かけることにした。取りあえず西武秩父まで行く。バスの時刻や、秩父鉄道の電車の時刻を見て、それから行き先を決める。こんなことを、私はよくやる。

その結果、秩父鉄道、浦山口駅で下車し、橋立鍾乳洞、さくら湖をまわることにする。

さくら湖はそれなりに美しい湖だが、ここも無駄な金が使われてますよね。観光客が来るものとかってに決めて、大型バスの駐車場まで出来ているけれど、ほとんど使われてはいないでしょう。立派な食堂があり、県で管理しているのだと思うけれど、人はちらほらとしか来ないんだから、採算が合っているとは思えない。

ビールくらい飲みたいと思って寄ったのですが、本日休業でした。堰堤から下の道路まで降りていけるエレベーターも、入り口に柵がしてありました。食堂の方は、多分営業していると思うけれど、このエレベーターは、今動いているのかなあ。私は乗ったことがあるけれど、かなり長いんですよ。利用者が多いとは思えない。

さくら湖の左岸は、去年Tさん、Hさんと来たときは通行禁止でしたが、今日は一部だけ通ることが出来ました。といっても、ダムの入り口から少し入ったところに、天望広場というところがあって、そこまでです。てんぼうの字が、展望ではなくて天望なのです。ちょっと変ですね。天を望むわけではないのに。

Mizutani10009 帰路、浦山側沿いの道を進む。途中、川の方におりるような径があって、本道からそれるが、下りてみる。

少し進むと「私有地なので進入禁止」の半分読めなくなったような古い標識。その先に、車で通ったら危ないのではないかと思われるような怪しげな木の橋がある。「進入禁止」というのは車のことだ、とかってに判断してさらに進む。崩れかけた階段などがあり下りていくと、荒れてはいるが、まことに美しい河原に出た。カメラを持ってこなかったことが悔やまれる。

5-6㍍幅の川の対岸に、巨岩とは言えない程度の大きな岩があり、その真ん中あたりが小さな洞窟状になっている。どうやらその中に仏像か何かが祭られているらしい。川の水は濃い緑色で、その水と相まって、まわりの若葉の瑞々しさが何とも言えない。私はしばらく、見とれてしまった。

上の絵はその一部だが、私の下手な絵ではその美しさを伝えることが出来ない。ここを見るために、もう一度来たいと私は思った。こんどはもちろん、カメラを持って。

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散歩とクロッキー

5月6日

山ほどの洗濯。洗濯物の中に、孫の靴下が片方だけ入っていたりして・・・。

大量の洗濯物がなければ、今日はどこかへ出かけたいところだったが、遠くへ出かけるには時間が遅くなってしまった。

河川敷の親水公園、智光山公園、安比奈公園(入間川の河川敷で川越市側)の順に歩き、数枚の鉛筆スケッチ。スケッチというより、クロッキーかな。

Mizutani10009

この絵は智光山公園の池のそばで、この右手の方には翡翠(かわせみ)の写真を撮ろうと狙っているカメラマンが数人いる。

左手の池の端に油絵を描いている人がいた。柔らかな筆遣いで、春から初夏にかけての樹木の緑と、閑かで暖かい池の水の様子が実にすばらしいと思ったので、声をかけてみた。すると絵はがきをくれて、自分のホームページを教えてくれた。このブログを書く前に開いてみたら、文部大臣賞までもらっている小森照雄という画家でした。上手いわけだ。

Mizutani10010_2  もう一つだけ、クロッキーを載せます。この人は、翡翠の写真を狙っているカメラマンです。カメラを立てたまま一休みしているところを、盗み見ながら描きました。人物のスケッチは、相手に気づかれないように気を使います。

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2008年5月 5日 (月)

本を買いに

5月5日

昨日は思い違いをして、端午の節句、立夏、なんて書いちゃった。後で気がついて訂正したけれど、文章は変だったと思う。

川越に本を買い行く。わが家の隣が本屋で、狭山市では大きい本屋なんだけれど、そこで見つけられないと、川越に行くようになる。大した本を買うわけではない。今日買ったのは、新書が一冊、文庫が一冊である。それでも。この本と思ってさがすわけだから、なければ川越紀伊国屋あたりに出かけることになる。

現在読んでいる雑誌は、月刊誌一冊、この前から始まった週刊誌で一年間で終わるシリーズもの一冊。単行本は月に2-3冊というところかな。昔は随分読んだけれども、今はとてもそんな勢いはない。

何年か掛けて、あらかた在庫の本を捨てたのだけれど、また、ぼつぼつ増えてきている。読む本、読んだ本だけではなく、読むつもりだった本なんてのもあるからね、私はどうも本にたいして甘い。

じつは今日は、もう一冊買ってしまった。「プロ級ナンプレ」というやつだ。しばらくナンプレを休んでいたのだけれど、これをやり出しちゃうと本が読めなくなるのだ。注意しなくては。現に今日だって、帰りの電車の中で始めてしまった。危ない、危ない。

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2008年5月 4日 (日)

立夏  アウトレット三井

5月4日

立夏

明日は端午の節句。立夏。暦の上では、今日が春の最後の日。

暦の上では明日から夏。近ごろは地球温暖化で、夏と言われれば、そんな気もしてくる。

ちなみに、今年は8月7日が立秋である。俳句ではこの日から秋と言うことになる。幾ら何でも無理だよね。盛夏、炎天、酷暑、といいたい時期ではないですか。

俳句では、季節などもわずかな変化を敏感に感じて、それを詠むんだってさ。私の感覚では、この頃は9月の半ばまで夏だ。夜の秋という季語があって、夏の終わりごろの朝晩涼しくなってきた頃を指す。8月中旬や下旬は、せいぜい夜の秋と言うところだ。残暑なんて言う言葉では詠めません。

アウトレット三井

長女の家族とアウトレット三井に行く。開店の賑わいはまだ続いていて、道路は渋滞。狭山市駅からタクシーを使ったが、運転手さんは抜け道を走り、300㍍ほど手前で下車。

何百か店はあるけれど、横文字ばかりで、日本語の店は少ない。私はやっと三つだけ見つけた。「帽子屋」、「無印良品」、それに寿司屋の「承知の助」。店の名を決める人も、客も、横文字の方がかっこいいと思うんですね。私は駄目だけれど。

   汗ばむや日本語のない店ばかり   ぼんくらカエル

汗は夏の季語。今日のブログ、立夏がどうの、もう夏でもいい、などと始めたのはこの俳句のための下心あり。1日くらい早くてもいいでしょう。ただし、かんじんの俳句の方は、ろくでもないね。

長女夫婦は愉しんで買い物などしていたようだが、孫たちはつまらなそう。確かに子供向きの場所ではない。

入間市で昼食をして別れる。

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2008年5月 3日 (土)

孫が来る  Nさんの詩集

5月3日

孫たち来る

長女の家族、来る。夕方、狭山市駅前で落ち合い、食事。上の孫は5年生、下は2年生。上は小さくて、下は大きい。そのため二人の背は、ほとんど同じ。それを言われると、上は嫌がる。上の孫の名誉のために言えば?、上の方が3センチくらいは大きい。でも、ほとんど同じに見える。

長女の家族は一泊だけの予定。

長女は私のおでこの傷を見て、驚いている。だからブログを読めと言っているのに。

   ジョギングの汗が嫌いな顔の傷    ぼんくらカエル

Nさんの詩集

Nさんが詩集を送ってくれる。Nさんの初出版(と思う)。『白い月』朱鳥社。

氷の中に森があった/冷たく輝く/美しい森が

その森の中に一匹の鳥/白い/真白い鳩

森の中を狂ったように飛び回り/外へ出ようとしているが/力尽きて/冷たい森の中で

/倒れた鳩

だけど私には見える/それでも森の中を/必死になって飛び回る/白い/傷ついた鳩が

これは「鳩」と題する巻頭の詩。高校生時代に書かれたものらしい。詩として上手とは思わないけれど、この気持ちは、青春時代の誰にも共感できるものがあると思う。

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2008年5月 2日 (金)

フラダンス  アル中?

5月2日(金)

フラダンス

特養Sへ。ハワイのフラダンスを踊る素人グループが、1階ホールで実演。グループの人たちは自分たちの踊りを見て貰えるし、利用者たちには楽しみになる。

たまには自分たちの発表会のようになっているグループもあって、利用者が疲れてもまだ続けるような場合もあるが、今日の人たちはちょうど良い長さ。

   踊り子の素足が美しきハワイアン   ぼんくらカエル

アル中?

怪我をして以来、昨日まで酒をやめてみた。私は自分をアル中(アルコール依存症)だと思っている。怪我のせいもあるが、試しに酒をやめてみた。怪我をしてから昨日までのブログは、アルコール抜きで書いた。

アル中の人は、アルコールが切れると指先が震えると聞いているが、そのような症状はなかった。また、アルコール抜きで寝むれるのか心配だったが、これも普段とは変わらなかった。どうしても酒が飲みたくていらいらする、というようなこともなかったと思う。

アルコール依存症だとしても、まだ程度は軽いのかな。

今日から飲みます。いえ、すでに飲んでいます。やっぱり旨いねえ。

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2008年5月 1日 (木)

またも傷の話

5月1日(木)

今日も狭山病院へ。

救急車で運ばれて、おでこをの傷を縫ってもらった先生と、昨日処置をしてもらった先生と、今日の先生は、全部違う人である。今日の先生は、傷の状態を鏡で見せてくれた。私は4針縫われたと思っていたのだが、本当はその倍くらいは縫われていた。おやおや、だ。

昨日書いたことと同じだが、私は、やってしまったことについては、後はなるようになるさと思う方なので、4針だろうと10針だろうと、まあいいやという感じだ。

ただ、なぜ4針と思ったかについては、それなりに理由がある。じつは私の傷を縫うとき、それを指示する先生と、指示されて縫う先生がいた。私は顔を隠されていたので、声だけで判断したのだが、指示する先生が4針と言ったのを聞いたのである。その先生は指示だけしてどこかへ行ってしまった。

指示されて縫う方は、医師としては初心者だろう。普通ならば、初心者の医師に縫ってもらうと分かれば、不安に感じるだろう。しかし、私は感じなかった。それは私自身が職人だった経験による。

職人の仕事というものは、初心者のうちは、トラブルのない限り、だいたいうまく行くのである。初心者と言っても、先輩が仕事をまかせてみようと思うほどになった初心者のことだ。失敗が多いのは、慣れてきて、鼻歌を歌いながら仕事をするようになった頃だ。慣れてきて、失敗をして、それを乗り越えてからが本当の一人前だ。

「大功は大拙に似たり」という。大いに巧みな者は、まるで下手くそな者のように用心深いということである。

徒然草に「高名の木のぼりといひしをのこ」で始まる章(第109段)がある。その章を意訳すれば、おおよそ次のようだ。

木のぼりの名人が、人に木のぼりの指導をしたとき、その人が梢の方にいるときはないも言わないで、下の方まで降りてきてから「気をつけろ」と声を掛けた。「もう飛び降りることが出来る頃になって、何を言うのだ」と抗議すると、「高いときは自分で注意する、間違いは安心しているときに起きる」と答えた。

物事はだいたいそんなものですね。

今日の整形外科の先生によれば、私の傷は、医師の指示を忠実に守れば、そんなに目立たなくなるだろうという。その指示とは、抜糸をした後もかなりの期間、指定の絆創膏を貼り続けろということだ。傷跡や針の跡を日焼けさせるといけないんだってさ。夏の間も、おでこに絆創膏を貼っているのかなあ。秋口には、絆創膏の跡だけが日焼けせずに残る・・・これも見ものだぜ。

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