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2008年2月27日 (水)

鎌倉街道

2月26日(火)  曇り

車椅子のTさんにつきあって、都幾川町に行く。Tさんの運転である。Tさん、このところ、すっかり鎌倉街道にこっている。鎌倉時代、奥州や信濃から「いざ鎌倉」という時のために整備された道だという。その道で、奥州へ行くために入間川を渡河する地点が現在の狭山市にあった。埼玉県には、東村山あたりで入り、高崎の方へ抜けていったようだ。その道を調べているのである。

狭山市内にもその名残はあるのだが、もはや道とは言えない状態のところが多い。いつぞや郷土史の研究者と尋ねたjことがある。林の中の、昔は道だったらしいという感じのところがほとんどで、中には土地の所有者に、入るのを断られたところもあった。

今日もところによっては、「鎌倉街道跡」などという標識の建っているところもあったが、多くは不明の状態だ。Tさんは何度も来ているらしく、市役所、町役場、資料館などで話を聞き、資料を集めたりしているようだ。車を走らせながら、林の中の何となく道らしいところを指して、「どうも、これがそうだと思うんだ」などという。

今日私を誘ったのは、車椅子では写真を撮りに行けないようなところの写真を撮ってほしいと言うことだ。階段で登れない寺とか、砂利を敷いてあって近づけない神社などの写真を撮るためだ。

前にもブログで書いたことはあるが、江戸時代の初めまで、都からの旅人は、狭山市で入間川を渡るのが普通だった。そのころまで利根川は関東平野を通り、東京湾近くで、隅田川と合流していた。荒川は、利根川の支流だった。そして隅田川は入間川の下流なのである。現在の都心の方は湿地帯だったらしく、旅人は避けて通ったようだ。そのため、武蔵野を通って、狭山市にいたり、入間川を渡河するというのがメインロードだったわけだ。

しかし鎌倉街道というものも、ほとんど分からなくなっているのが現状で、入間川の渡河点も、実ははっきりしていないのである。入間川町を中心にして出来たのが狭山市であり、入間川原で打たれたという志水冠者義高(源義仲の子)を祭る神社が近くにあることなど、いくつかの状況証拠で、狭山市あたりから川を渡ったと思われている。狭山市の歴史愛好家が鎌倉街道に興味を持つゆえんである。

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