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2007年7月28日 (土)

夏祭り

7月28日

ぼんくら日記

今日は、狭山のあちこちで夏祭りをしている。私が住む狭山台地区も夏祭りだ。ぼんくらカエルも環境防犯部と言うことで、目立つちゃんちゃんこのようなチョッキを着て、黄色い帽子を被り、交通要所に立ったり、会場内をパトロールしたり、折からの炎天の下で、それなりに汗を流した。午後は、子ども御輿につきあう。これも暑かったねえ。

明日のこと(木曽御嶽山登山)もあるので、3時頃、ぼんくら蛙は帰らせてもらう。たいしたことをしていなくても、炎天下では疲れる。

明日のブログは休みます。

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2007年7月27日 (金)

無題

7月27日

ぼんくら日記

暑い。関東地方の梅雨明け宣言は見送られているが、もう梅雨が明けたと言っても良いのではないか。予報では、29日と30日に雨が降ると言うことだ。

困りましたね。その29日と30日に、我が山の会は、木曽御嶽山に登るつもりだ。現在の参加予定者は11名。マイクロバスは予約済みで、その代金と山荘の宿泊費など、1人あたり28000円でなんとか採算が取れる予定だ。今回は、私が企画を立て責任者として実行することになるので、気がもめることだ。問題は天気。

今日、水彩画の会。

明日は狭山台地区のふるさと祭り。私も役員なので、でなければならない。しかし、木曽御岳があるので、祭りの最後まではいられない。

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2007年7月26日 (木)

ボランティアについて

7月26日

今日は本当は私の属しているボランティアグループの定例会で、定例会のあとは老人介護施設Kに行く日である。しかし私は、定例会を欠席し、俳句の会の夏季大会の準備を手伝っていた。

ボランティアは、個人でやっている人と、グループを作ってやっている人がいる。それぞれ一長一短があって、どちらがどうとは言えない。私は、個人のボランティアとグループのボランティアをしている。そういう人は案外多い。今日はグループの方だ。今日の私のようにほかの用事があるときに、他の人に代わって貰えるというのは、グループの良さの一つだ。ボランティア先に迷惑をかけなくてすむ。

ボランティアにもいろいろな種類があって、きわめて専門性の高いものから、私などのようになんの能力もないような者がやゆものもある。私たちは法律の相談や家の手直しは出来ない。しかし、車イスを押すことは出来るし、老人の話し相手になることも出来る。なんの能力もないような人にも出来るボランティアというのは、結構幅が広い。

演芸ボランティアというのはよくある。専門家や、専門家裸足の芸を持った人たちから、その辺の素人の集まりと言ったものまで、さまざまな人たちが施設にやってくる。歌をうたったり、踊りをしたり、手品をしたり、楽器を使ったりする。施設などでそのようなイベントがあるとき、なんでもないボランティアもまた活躍する。そのような行事は、だいたいは1階あたりのホールで行われるが、2階、3階などの入居者を誘導するのは、私たちのように、特別なことをするわけではないボランティアである。

われわれは特別何が無くても、老人介護施設や、障害者の作業施設の手伝いを、日常的に行う。専門性を持ったボランティアと、私たちのようなボランティアの、どちらが程度が高いと言うことはないと思う。どちらも必要なボランテイアなのである。

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2007年7月25日 (水)

雨ニモマケズ 2

7月25日

森鴎外は新渡戸稲造と同じ年の生まれである(文久2年ー1862)。文学者としての名声は言うまでもないが、鴎外は、陸軍の軍医総監でもあった。兵隊の1日の米の消費量を6合と決めたのは鴎外であるらしい。鴎外としては、貧しい田舎から出てきた次男三男に、腹一杯米の飯を食わせてやりたい、と言う気持ちがあったといわれる。

4合でさえ現在では考えられない量なのだけれども、6合ではなおさらだ。しかし今でも、食堂などで飯の大盛りを頼む人はいる。昔でもそれは同じだろう。食堂の飯が1合3勺くらいだったとすれば、その大盛りは、ほとんど2合である。屈強の若者としたら、それくらい食べても不思議ではない。

ちなみに、昭和20年代、食糧難ではあったが、白米を食べる場合は、1食に茶碗3杯というのは普通であった。私が疎開していた秋田の田舎などでは、若者が5杯くらい食べるのは、それほど珍しくなかった。山仕事をする人の間では、1升飯を食えないようでは1人前ではないと言われた。その1升は、1日にだったか、1食にだったか忘れてしまった。どうも、1食に頑張って食べる場合だったような気がする。まずはそんな状態だった。しかしこんなことは、案外忘れてしまうものなのである。

ところで、私が初めて「雨ニモマケズ」の詩を知ったのは、小学校上級の頃である。敗戦後、2年くらいたった頃だ。教科書にその詩が載っていた。ただしそこには「1日ニ玄米3合ト味噌トスコシノ野菜ヲタベ」と書かれていた。もとの詩が「玄米4合」だったと知ったのは、ずっと後になってからだ。

なぜ教科書では「玄米3合」にしたのだろうか。答えは簡単である。当時米は配給で、その量は1人1日2合7勺であった。国が2合7勺しか配給しないのに、粗食で小食のはずの宮沢賢治が、「玄米4合」では都合が悪かったのである。

それでも米の配給が2合7勺になったとき、人々はこれを大いに喜んだ。欲を言えば1日4合欲しいけれども、最低でも3合は必要と思われていた時代である。2合7勺と言えば、その3合にかなり近い。それまでは、米の代わりに大豆から油を搾り取った絞りかすや、砂糖などが配給されたりしていた。それを思えば、少ないとはいえ、2合7勺までは、国が保証してくれるのだ。新聞の時事漫画で、2合7勺の米を神棚に上げて拝んでいるものがあったのを、私は記憶している。

ところで森鴎外は兵隊の食料を白米6合と決めた。その結果陸軍には、脚気の兵隊が増えた。日露戦争などでは、敵の弾にあったって死んだものより、脚気で死んだものの方が多いと言われる。鴎外が陸軍総監になったのが明治28年(1895)。脚気の原因が糖質の過剰摂取によるビタミンB1不足によると分かったのが19世紀の末である。ほぼ同じ頃だが、鴎外は最後まで白米偏重の非を理解しなかったらしい。海軍はそのことに早く気づき、麦飯などを取り入れて、その害をくい止めたという。

そんなこともあって、鴎外は、文豪としての評価は高いが、軍医総監としての評価は芳しくない。鴎外に同情できる点もあるが、陸軍総監ともなれば、最先端の医学知識が求められる。低い評価もやむをえないだろう。

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2007年7月24日 (火)

雨ニモマケズ

7月24日

「雨ニモマケズ」と言えば、宮沢賢治の有名な詩である。生前に発表されることはなく、死後、残された手帳に書かれているのが発見されたという。

「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ」ではじまる詩は、その4行あとに「1日二玄米4合ト/味噌トスコシノ野菜ヲタベ」と続く。宮澤賢治は、この詩で、自分は質素で小食で、人々の力になりながら、人々にほめられも気にもかけられないような人間になりたいと詠っている。質素で小食の人が、一日に玄米4合とは、馬鹿に大食いではないかと思うのは、現代の我々の感覚である。

新渡戸稲造の著書『自警録』に依れば、1人前の人間が1日に食べる米の量は「5合」とされていたようだ。そして「料理屋で飯を注文すれば1合2,3勺を1人前という」」ともいっている。1日に1合くらいしか食べない現在のわれわれから見れば、貧しかった時代の日本人が、なんでそんなに食ったのかと思う。

日本人は元来、米を偏愛してきた。一定の面積から収穫できる農産物で、どれだけの人口を維持できるかと言うことになると、小麦などに比べて、米は圧倒的に優位にあるらしい。湿潤な日本の気候に米の栽培は適していた。さらに、加工せず、粒食でも旨いと言うこともある。等々、理由はいろいろあるだろうが、「千枚田」などと言うものが残っていること自体、われわれが米に執着する民族であったことを示している。米の飯を腹一杯食いたいというのは、米の穫れない山間部の人たちの願いでもあった。

都市の富裕層や、穀倉地帯の人々は、かなり昔から、米を偏重してきた。食事と言えば米を食べることであり、他には、みそ汁とわずかの野菜を食べる程度であった。宮澤賢治ではないが「味噌トスコシの野菜」を食べていたのである。農村地帯などでは、魚は年に何回か食べる程度だ。肉にいたっては、お祭りの時に食べるくらいの物だ。あらゆる栄養を米から取らなければならなかった。だから、米を大量に取らなければ、空腹でたまらなかったのである。肉も魚も、スナック菓子もケーキも、野菜も果物も、世界中からあらゆる食材が集まってくる現代とは、土台、感覚が違うのである。だから宮澤賢治は、大食で4合食べたのではない。質素で小食だから4合しか食べなかったのである。

日本人が玄米を食べている間は問題はなかったのだが、白米を食べるようになって、脚気が増えた。白米を食べるようになったのは、江戸中期、元禄ごろかららしい。その頃から、明治、大正にかけて、脚気が多発した。脚気は、糖質の過剰摂取によって起こるビタミンB1の欠乏による病気である。そのことを当時の人々には理解できなかった。そして米は、なんと言っても玄米より白米の方が旨い。白米を多食するようになって、脚気は日本人の国民病と言われるようになってしまった。

                                      続く

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2007年7月23日 (月)

選挙結果、その他

7月23日

ぼんくら日記

市長選の結果は予想通りで、現市長の勝利。ただし、駅前大規模整備の反対派二人の候補の得票合計は、過半数を超える。これも予想通り。

精障者の作業施設Mのボラ。畑。精障者作業所カレーハウスAの包丁研ぎ、など。

その後、友愛訪問T氏。

夜、自治会パトロール。

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2007年7月22日 (日)

市長選挙

7月22日

ぼんくら日記

今、参議院選挙でかしましい。狭山市はそのほかに市長選挙があり、今日はその投票日である。

狭山市での一番の問題は、駅前の整備だ。これは狭山市の課題で、近隣の他の市に比べても、駅前はみすぼらしい。だから、最小限の整備をすることには誰も反対はしないだろう。問題は、どの程度の整備をするかである。

大規模に整備しようとするのが現市長派で、孫子の代まで残るような借金をしてまですべきではないというのが、反対派である。開発の賛否を市民の投票で決めるべきだという署名が(この署名は私もした)、法律的に有効とされる何倍も集まったのに、市議会は市民投票を求めなかった。この件に関しては、現在裁判が起こされている。市民投票をすれば、おそらく反対の方が多いだろう事を怖れたのだと、私は思う。過去の例がある。入間市との合併を、市民投票で覆されたからだ。

しかし今回の選挙では、現市長に対する反対派が二人でてしまった。これでは勝てないのではないか。反対派の市議の接着剤の役割をしていたOさんが亡くなり、バラバラになってしまったのが原因だろう。

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2007年7月21日 (土)

気力無し

7月21日

ぼんくら日記

今日から2~3日、童話を載せようかと思ったが、長くなるので気力がでない。来週あたり、気が向いたら書きましょう。

俳句定例会。めずらしく高得点句もあった。来月の俳句大会の相談をして散会。

自治会の役員会。夏祭りの相談。

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2007年7月20日 (金)

眼鏡

7月20日

ぼんくら日記

健康ではあるが、目でも歯でも耳でも老化が進んでいる。 

1週間くらい前から眼科へ通っている。物がぼやけて見えたり、すぐ疲れたりする。眼鏡をかけていても、長く本を読むことが出来ない。加齢による白内障の疑いを持って、眼科へ行ったのである。

ところが眼科医は眼鏡を調べて、この眼鏡では疲れるという。眼鏡屋が来るという今日の午後、あらかじめ予約をしておいて眼科へ行った。あれこれ調べて、これと決めたレンズをかけると、確かに見やすいし、目も疲れない。今かけているのとは雲泥の差がある。で、こんどは、眼鏡屋に行く日を予約した。

今かけている眼鏡も、勝手に買ったものではなく、川越の眼鏡屋で検眼してもらって買ったのだ。それも今年である。やはり、ふらっと入った眼鏡屋では、本当に合う眼鏡は買えないんだなあ。本当に検眼の出来る店員もいなかったのだろう。とんだ散財だった。

それに、パソコンを見るための眼鏡と、本や新聞を読むための眼鏡は、違うのだそうである。辞書などのように細かい字を読む眼鏡も、また違うのだそうである。そう幾つも買う訳にはいかない。取りあえず、本や新聞を読むための眼鏡を買うことにした。

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2007年7月19日 (木)

ニュースの感想

7月19日

ぼんくら日記

テレビや新聞のニュースを見て感じたことを書いたりするのは、ブログを維持する方法としては楽である。しかし、自分の書いたことに言い訳を書かなければならない事態にもなる。

中国で肉まんに段ボールを混ぜていたというニュースは、やらせだったという。このブログに、書かなければよかったと今は思う。私も、やらせ臭いと、一瞬は思ったが、あまりの荒唐無稽さに、逆に信じてしまった。あの映像は放送局員によるやらせだったと報道されたが、なんだか、もう少し奥がありそうな気さえする。やらせだったと訂正するところまで含めて、全体がやらせではないのか、などと思ってしまうのだ。

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2007年7月18日 (水)

原発事故

7月18日

ぼんくら日記

北海道行きは、台風を逃げるような感じだったけれど、帰ってみたら、中越沖地震で、新潟、長野は大変なことになっていた。

被災された方々、お見舞い申し上げます。こんな場合、ほかに言う言葉を知らない。原発の事故も報じられた。建設時の想定外の大きな地震だったと言うことだが、そんなことで大丈夫なのかなあ。放射能も漏れたと言うことだ。人体に影響のない程度だと言うけれど、漏れること自体、大問題だろう。とにかく、耐震強度が、想定外というのは怖い。

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2007年7月17日 (火)

定山渓温泉

7月17日

ぼんくら日記

北海道に行ってきた。多くの人にとって、北海道と言っても、別にどうと言うことも無いだろうけれども、私などは、めったに行くことのない土地である。北海道に行ったと言うだけで、人生のうちでかなり珍しい経験になるのである。

目的は観光旅行ではなく、次女夫婦の夫の方の親族との顔合わせ、と言ったところだ。次女たちは、外国で式を挙げた。相手の両親には会っているが、その他の人たちとは今回が初めて会うことになった。こちらからは、長女夫婦と孫たちも出かけた。

会合を持ったのは、定山渓温泉ビューホテル。お互いに紹介をしあって、宴会をして、特に珍しいこともなくお開きという次第。私の孫たちと、次女の義弟に当たる人の子どもたちが仲良くなって、賑やかによく騒いだ。

定山渓ビューホテルはこの温泉地で1番大きな目立つホテルだった。新館の最上階と頂上に風呂があり、本館の地下にも風呂がある。どちらも大きく、割合に深い風呂である。どれも、胴長の私が中腰で入らなければならない。胴長と言えば、発見が一つ。ここの風呂の中に立つと、お湯の表面が、ちょうど私のおちんちんの上に来る。かすかすで隠れるのだ。ところが、背の高さがほとんど変わらない若い人が立つと、おちんちんが、はっきりと外に出るのである。それも、たれた先が、湯から何センチか上にでたりする。おちんちんの位置によって、今回はっきりと、自分が胴長短足であることを再確認した。

二日目は小樽を観光し、孫たちの好きな水族館へ行く。小樽は、すっかり観光地になっていますね。

月曜日夜、帰宅。

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2007年7月13日 (金)

日本も中国も

7月13日

ぼんくら日記

日本のミートホープという肉屋さんが、いろいろとやりたい放題をやって、挽肉をふやかすのに雨水を使ったりした。ひどいもんだと思っていたら、中国では、段ボールを細かく刻んで、肉まんに入れて売っていたという。段ボールの方が6で、豚の脂身が4の割合でつくったと言うから、驚くほかはない。食べて見破った人はいないという。段ボールを柔らかくするため、苛性ソーダを使っていたそうだ。そうだ、そうだ、そうだ村の村長さんは、ソーダ入りの段ボール食って、なんにも気づかなかったそうだ、と言うくらいのものだ。

ここまでやると、笑えてくる。欲の皮がつっぱているのだが、おおらかささえ感じる。高いものの買えない俺たち貧乏人は、どうすれば安全でごまかしのない物を買えるんだろかいな。どうすりゃいいのさこの私……歌っている場合じゃない。

きょうのタイトルは、少し考えた。肉まんとつけると、エッチサイトのトラックバックが沢山つきそうだ。やりたい放題では、なおいけない。エッチは嫌いではありませんが、トラックバックなどつけられるのは迷惑な話だ。

明日から3日ほど、ブログを休みます。

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2007年7月12日 (木)

網笠山の花

P1010074   7月12日

8日に登った網笠山の花

上はイワカガミ

P1010078_1

これもイワカガミ

P1010080 写真では分かりにくいでしょうが、クロユリです。少年小屋の敷地内ですから、植栽した物でしょう。本当は、北海道の花のはずです。匂いはあまりよくありません。

P1010075 P1010076

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ハイマツの赤い実です。マツの実が赤いのは、はじめてみました。大きくなった松ぼっくりも、幾分か赤みがかっていました。

白山しゃくなげも少し咲いていましたが、盛りではありませんでした。ゴゼンタチバナもあったような気がします。時期のせいなのか山のせいなのか、花は多くありませんでした。

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2007年7月11日 (水)

馬糞は暖かい

7月11日

川端康成の「雪国」では、雪解けの頃の美しさを、登場人物に言わせている。雪国育ちの私は、雪解けの頃の道路の汚さを思って、違和感を持った。昔のことだから、自動車のための雪かきなどはしない。根雪になったら、人々は根雪の上に道をつける。そこを、人が通り、橇が通り、糞をしながら馬が通る。その上に雪が降れば、雪の上にまた道をつける。人が通り、橇が通り、馬が通る。そしてその上にまた雪が積もる。このくり返しだ。

雪解けになると、幾重にも重なった道の汚れが、一度に現れる。舗装などしていないどろんこの道に、幾重にも重なっていた馬糞や牛糞がとけ込むのだ。汚い訳である。

しかし、その馬糞、いくらか役に立つこともあった。次の話は、看護婦さんから聞いた。ただしこの話、看護婦という職業とはなんの関係もない。具体的な名前を出せないので、その人の職業を書いただけである。

その人の母親は、今年77歳らしい。ぼんくらカエルより7歳上だ。子どもの頃、藁草履や藁沓で学校に通った。いつも一緒に通う年下の子がいたらしい。冬でも、藁の履き物だった。雪国である。藁の履き物は、最初は暖かいのだが、だんだん水が沁みてくる。何日も履いていればなおさらだ。しばらく歩いていると、足が冷たくなってくる。一緒に歩いている年下の子が、足が冷たいと言い出すと、現在77歳のその人は、小さな子を抱き上げて、雪の上の新しい馬糞にその子を乗せてやったという。しばらくそうしてやると、足が温かくなってくる。そしてまた、二人は歩き始めたのだという。二人ともまだ健在で、今でもよくその話をするそうだ。

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布のぞうり

7月10日

布で作ったぞうりが流行っているのだそうだ。余り布を裂いて作るらしいのだが、荷造り用のビニール紐を芯にするのだという。藁草履と同じ方法で作るのだろうか。もし同じだとすれば、私にも作れるだろう。

昔、藁草履を作ったとき、横緒やつま先その他の場所に、布を少しだけ混ぜることがあった。それが装飾になったのである。緒の場合は、足への当たりが柔らかくなる効果もあった。藁以外では、トウモロコシの皮の白い部分を使って作ることもあった。たけのこの皮でも作ったような気がする。

芯にビニール紐を使うとしても、布だけでは、履いたときにだらしなく下にたれてしまいそうな気がするが、大丈夫なのだろうか。室内でスリッパのように使うのなら良いかもしれない。余り外履きにはならないように思うが、今は道が舗装されているから、案外大丈夫なのかな。

そのうちに、作ってみますか。

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2007年7月 9日 (月)

ジャガイモ掘り

7月9日

ぼんくら日記

精障者作業施設Mへ。

昨日の山行で、足と腰が痛いし、40肩で、肩や腕も痛む。しかし、施設の畑のジャガイモ、どうでも今日当たり掘り起こさなければいけなかったので、決行する。段ボールの蜜柑箱2つ半くらいは穫れた。ただし、質の悪いものもあり、味の方はどうか?

鵜の木河川敷で行うバザーのため、飾り画鋲(仮の命名)を作る。メモ用紙などをボードに仮止めするために、プラスチックのつまみの付いたピンがあるが、そのピンの部分を木の枝にしたもの。画鋲の頭に木の枝を接着剤でつける。メンバーのKさんと共に、約100個作る。

竹トンボ作りの準備。竹トンボも、バザーのために作る物。

友愛訪問、Tさん。

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2007年7月 8日 (日)

網笠山

7月8日

ぼんくら日記

山楽会定例会。網笠山。

コース   観音平ー雲海展望台ー押手川ー網笠山ー少年小屋ー押手川ー雲海展望台ー展望台ー(遊歩道)-観音平

登り3時間、下り3時間。上り下りが同じくらいの時間なのは、下りは大きく回り道をするコースのため。狭山市駅前初5時30分。駅前着7時30分。

コースの大半は、カラマツやシラカバ、ダケカンバなどの樹林の中。落ち葉が登山道をスポンジ状にしていて、クッションになり、歩きやすい。ただし、岩だらけの場所も3割程度はある。梅雨時の晴れ間のせいか、虻が大発生していて、ほとんど最初から最後までつきまとわれる。この点だけが不愉快であった。晴れ間と言っても、快晴には遠い薄曇りで、見晴らしがきかなかったのは残念。

イワカガミの花が多い。頂上付近のハイマツの実(大きくなれば松かさになる)が美しい紅色だった。これは初めて見るもの。少年小屋の敷地にクロユリが植えられていた。その匂いは・・・見るだけにして、嗅がないことをおすすめします。

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2007年7月 7日 (土)

老人会の誕生会

7月7日

ぼんくら日記

そんなつもりはなかったのに、ひよんな事で入ることになってしまった寿会(老人会)の誕生会。1丁目集会所に集まり、結構賑やかな会。余興に手品をやる。

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2007年7月 6日 (金)

年金問題

7月6日

ぼんくら日記

いつかも書いたが、私は年金問題の被害者である。ほぼ1年あまりの年金の行方が分からない。今日、川越の社会保険事務所に行ってきたが、結局解決できなかった。

戦後の、まだ日本が貧しかった頃、私は15歳の義務教育終了程度で就職した。私はぼんくらな蛙だけれど、高校に進学する能力がなかった訳ではなくて、家が貧しかったのである。

最初に就いた仕事は、おもちゃの機関車の部品を作る家内工業だった。日給は100円であった。当時は、一人のひと月の食費が3000円はかかるといわれていた。毎日働いても、食い扶持が稼げるかどうかという金額である。私は手が遅くて、採算が合わなかったのだと思うが、3ヶ月くらいで首になった。

その後、荻窪にあったメッキ工場に入社した。昭和27年頃である。ここで厚生年金に加入した。これが出てこないのである。荻窪駅から、青梅街道を三鷹方面に歩いて、清水町というところにあったような気がする。この会社の名前がはっきりしない。平沢とか平沼とか、平という字がついたような気がするのだが、あやふやである。もう50年以上も前のことだ。

その後、和楽器の製造卸の会社に勤めた。この会社で、私は厚生年金の証書を捨てられてしまった。この会社の名前と、証書を捨てられた事情を書いても良いのだけれど、今は止めておく。その後、この会社で昭和31年、厚生年金に加入した。この、捨てられた分が出てこないのである。

名寄せをしてもらうしかないのだけれども、それでも出てこないらしいのである。荻窪のメッキ工場の名前が思い出せればいいのだが、50年以上も前のことで、工場などとうの昔になくなっているものを、どうやって調べればいいのだろうか。行方不明の年金記録が5000万件くらいあると言うことだが、私のは、そのどこかに紛れ込んでいるのだろう。あるいは、消されてしまった1000何百万件の方かもしれない。

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2007年7月 5日 (木)

匿名について

7月5日

匿名というものは不便なものだ。匿名だから言いたい放題のことが言えて、こんなに便利なものはないという考え方もある。しかし多少とも恥を知っている人間ならば、自分の身分を明かさないで他人を攻撃することは、卑怯であるという感覚を持つ。相手が絶対の権力者で、批判すれば首をはねられるという社会ならばともかく、何を言っても許されるような社会で、自分の身分を明かさず、他人を誹謗中傷することは、はばかられる。それは卑怯である。匿名だと、人の迷惑になるようなことが書けない。それが不便なのである。

ぼんくらカエルは、少しだけ匿名性を薄めようと思う。これまで、過去の職業を書いたことはなかった。ぼんくらカエルは、和楽器の琴を作る職人であった。大した腕ではなかったので、琴だけでは食っていけず、いろいろなアルバイトをした。その中には。家具作りというのもあった。琴作り以外で、一応一人前の手間を貰えるのは、家具だけであった。一人前と言っても、その端ッこの方だ。何十年もその道一筋にやってきた人に比べたら、やはり見劣りがする。

ある家具工場で仕事をしていたとき、中卒の、見習いの子が入ってきた。少し、知恵遅れなのである。親は、職人ならば何とかなると考えたらしい。しかしその工場は、注文家具を作る工場で、平面に書かれた図面を見て、立体的な姿を想像し、それをどのように実現するか考える能力がなければ、一人前には成れぬ仕事であった。一人前までいけなくても、職人の手助けを出来るくらいの能力は欲しいのである。私はその子に、いろいろと教え、なんとか役に立つ手助けくらいは出来るようにしようと努力した。しかし、なかなか思うようにはいかなかった。

ある時、その子の母親も同席する酒宴があった。その時私は、母親に向かっていった。

「この子は、どうしても今の仕事では、食っていけるところまでは行かない。何かほかの仕事があるのではないか。今のうちにそれを見つける方が良い。何か決められたことをきちんとやれるような、そんな仕事なら出来ると思うから、そういう仕事を見つける方が良い」

それを聞いていた同僚が、私をなだめて、「まあ、まあ、まあ」と発言を押さえ、話をうやむやにした。私が酔っているとでも思っているのだ。その彼は、くだんの子に何かを教えようとしたことなど無いのだ。普段はただ、馬鹿にしているだけだ。正直に言えば、その会社で、その子に何かを教えようと努力したのは私だけだった。

後日、その子の母親が、私をなだめた男に、しみじみとこぼしたという。

「世の中には理解のない人が多くて……」

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2007年7月 4日 (水)

人類の愚かさ

7月4日

人間というのは、あらゆる動物の中で、もっとも愚かなものだと思う。万物の霊長などと、ちゃんちゃらおかしい。その証拠に、人類やあらゆる生物にとって、悪しかなさないはずの核兵器を、いまだに捨てられずにいる。核兵器を作れるのは、人類だけである。そんなものを作れるのは、理性があるからではない、馬鹿だからだ。

アメリカとロシヤが核兵器の削減で合意したそうだ。何回目の合意だろうね。その結果、核兵器が無くなったという話は、ついぞ聞かない。

自分たちは核を持っても良いが、他の国は持つな、と言う理屈も、変な理屈である。核不拡散条約と言うんでしたかね。今は核を持っても良い国が幾つか増えて、これ以上増やさぬようにしている。北朝鮮はこれを利用して、自国に有利な取引をしているわけだ。

経済力があったり。技術力があったりする国では、ともすると自分の国でも核兵器を持つべきだと考えたりする。日本だって例外ではない。ときどき、そんなことを言う政治家が出てくる。

核を持つことが、戦争抑止力になるんだってね。いつも核を使える状態にしておいて、脅しをかけておくのが、核抑止力だ。他の国は、おっかなくて、いいたいことも言えなくなると言う訳だ。核兵器を持っている国は、自分の方から先には使わないというが、分かったものではない。朝鮮戦争の時だって、ベトナム戦争の時だって、核を使おうという意見があったじゃないか。

日本も核兵器を持ちたいなんていう人は、こけおどしの出来る国になりたいと言うことなのだ。それはもう、やくざの論理である。現実を知れなんていうけれど、何でも現実に追随していたら、人類は滅びるだろう。私は多分、滅びるだろうと思っているけどね。

広島、長崎に原爆を落としたのはしょうがない、と言った人が大臣を辞めた。それは辞めざるをえないだろう。だからといって、問題は解決していない。戦争は絶対悪である。核兵器も絶対悪である。これを止めさせる知恵が、人類にあるか?

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2007年7月 3日 (火)

もてる男

7月3日

男として生まれたら、女にもてたいと思うのは自然な人情だ。こう言い切ってしまうのは、少し言い過ぎかもしれない。同性愛者というのもいるからだ。私の場合、そういう人もいると知っているだけで、気持ちは理解できない。昔、古今亭志ん生の落語の枕で、もてていないのにもてるふりをする男の小話を幾つか聞いた。記憶に従って再現してみる(少し違うかもしれない)。

・・・なんだなあ、女に噛まれるってえのは痛いもんだなあ。

・・・なんだって! おやすくないねえ。どこを噛まれたんだ。

なんのことはない、てめえで噛んで置いてな

・・・見てくれここだよ、腕だよほら。

・・・これがそうかい。女にしては馬鹿に口が大きいじゃねえか。

・・・ああ、女が笑いながら噛んだ。

次のような話もあった。

男と生まれて、ご婦人方にちやほやされるのは嬉しいもんですな。私なども若い頃にその方面に遊びに行くと、おんなが

あーらしーさん、久しぶりじゃないの。どこをほっつき歩いていたのよ、憎ったらしい。なんていわれて腕をつねられたもんです。つねるったって、こんな奴をちやほやするのはお金のためだ、と思って本気でつねるから、痛えーのなんの

・・・痛えなおい。痣になちゃった。

止せばいいのにそれを人に見せて歩く。でも、2,3日すると色が褪せてくる。

・・・しょうがねえなあ、少し色上げしてやれ。

残念ながら、私は、女性をかき分けかき分け進むようなもて方は、生涯1度だってしたことはない。志ん生に依れば、本当にもてる男は、2・3人しかいないそうだ。今なら、福沢諭吉、野口英世、夏目漱石くらいだ。つまり、日本銀行発行の絵はがきの男しかもてないのだそうな。樋口一葉は、同性愛者のための絵はがきかなあ。

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2007年7月 2日 (月)

貧乏人の捨てるもの

7月2日

先日買った敷き布団とマットレスを使って寝ているが、新しいものは、さすがに具合がよい。こんなことなら、もっと早く買えば良かった。しかし残念なことに、布団の心地よさと肩の痛さは、無関係なようだ。残念。

貧乏人の私は、なるべく物を持たないようにしているのだが、それでも下らない物は増える。押入に新しい布団を入れるため、中を整理した。子どもたちや孫が来たときのために布団4,5組は残して置かなくてはならない。そこで目をつけたのは、炬燵布団。炬燵用の下掛けがあって、毛布があって、上掛けがあれば、布団はいらない。その他古い布団カバーでこの後使いそうのない物、幾枚かのタオルケットなどを処分することにした。

妻や子どもたちが使っていたバッグ類も、全部処分。押入ダンスが二つもあるが、中を見ると、古いカーテン、マット類などが多い。今回は手をつけなかったが、いずれ整理して、押入タンス自体を捨てたい。

これまで、本は2千冊以上を捨てたと思うが、天袋から、大きな段ボール二つ分の本が出てきた。これも捨てなければならない。これまでに捨てた本は、考古学や歴史などのかなり専門的な物も多かった。百科事典、辞書類以外は、目をつむって捨てた。今本棚にあるのは、その後買ったものであって、以前の本に比べたら軽い物だ。天袋から出てきた本は、新書類が多い。これも、目をつむって捨てることになる。

歳をとると、身軽になるのが良い。しかし、貧乏人なのに、なんでこんなに捨てる物が多いのだろう。あ、そうか! 貧乏人だから多いんだ! 尾形光琳の掛け軸や、織部の陶器などを持っていたら、いくら何でも捨てられないものね。

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2007年7月 1日 (日)

なんだっけ

7月1日

ぼんくら日記

いつもいつも、私は自分が惚けてきたようなことを書いている。まだ本当には惚けていないと思うから、そんなことが書けるのである。でも、3分の2は大丈夫と思うけれども、3分の1くらいは本気なのである。

何度も書いていることだが、毎晩パソコンに向かうとき、今日はなにを書こうかと考える。たまには書きたいことを持っていることもあるが、たいていは何の用意も無くパソコンに向かい、それから考える。そんなとき、一番簡単なのは、その日の出来事を書くことだ。

だからこのブログは、どこそこで滑って転んだとか、ボランティアをしたとか、書くことが多い。しかし、滑って転んだこととか、ボランティアをしたこととかをかならず書くかといえば、そうでもない。日記のようなときもあり、日記のようではないときもある。

今日はパソコンに向かって、何も考えが浮かばないので、出来事を書こうかと思った。車椅子と仲間の会で、ソバ打ちを見学し、作ってもらったソバを食べ、おいしかった、と書くつもりだった。

しかし、日記を書く前に、インターネットで他の人のブログなど見ているうち、「あ、これを書こう」と思うことがあった。で、5分くらい、いくつかのブログを見て、さて、自分のブログを開いてみたら、5分前に考えたことが、もう思い出せない。ブログの投稿ページを見ながら、なにを書こうと思ったのかしばらく考えた。結局分からず終いだ。それで、今日のブログは、自分の惚け具合を書くことからはじめたのである。

こういうの、楽屋落ちというのかな。

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