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2007年6月30日 (土)

蛙について

6月30日

ぼんくらカエルが蛙について考えてみた。

と言って、蛙について深い知識がある訳ではない。取りあえず、インターネットで調べる。ある記事で紹介されていた日本の蛙は、次の14種である。

ニホンアマガエル、シュレーゲルアオガエル、モリアオガエル、ヒメアマガエル、イシカワガエル、オットンガエル、トノサマガエル、トウキョウダルマガエル、ニホンアカガエル、ツチガエル、ヌマガエル、ニホンヒキガエル、ウシガエル、オオヒキガエル。

多分このほかにも沢山いるのだろうけれども、この中で私の知っているは、ちょうど半分というところだ。

蛙といわれて真っ先に思い出すのは、私の場合はトノサマガエルだ。もう一つブログの記事を見たが、その記事を書いた人も、蛙といえばトノサマガエルと思うらしい。蛙の俳句と言えば誰でも思い出す、芭蕉の句(古池や蛙飛び込む水の音)の蛙も、その人はトノサマガエルと考えているようだ。

ところで、先に引いた蛙の記事に依れば、トノサマガエルは本州にや中国、四国、北海道の一部、朝鮮半島、中国大陸に一部にいるらしいのだが、なぜか関東平野から仙台平野にかけては生息していないらしい。この辺りの人がトノサマガエルと言ったりするのは、ダルマガエルのことがあるそうだ。道理で、私の田舎ではあれほど一般的だったトノサマカエルを、関東に来てから見たことがない。

芭蕉は上方で成人し江戸へ来たのだが、古池の蛙はトノサマガエルだったのかどうか。記憶で作ればトノサマガエル、実際に音を聞いて作ったのなら別の蛙ということになる。トノサマカエルならば、切れのある音がするが、他の蛙だったらどうなのですかね。アマガエルでは詠みたくなるほどの音もしないだろうし、ヒキガエルではドボになっちゃて、風流もヘチマもないような気がする。ダルマガエルというのは知らないので、何とも言えない。長谷川櫂さん、この辺はどうなのでしょうかねえ。

古池の句をはじめて知ったのは、小学校の上級生の頃だ。私はその時、すごい名句だと思って感銘した。もう60年以上も前である。私は疎開をして、秋田の田舎に住んでいた。純農村地帯である。戦後2,3年で、夕方になると、音も明かりもなくなる世界だった。静寂があって、どこかで、蛙が、田か池に飛び込む音がする。そしてまたもとの静寂に帰る。これこそ、わびさびの世界だと思ったのである。その感激を持ったまま、俳句を始めていれば、今頃は大物になっていたのかもしれないが、惜しいことをした。まあ、これは冗談である(半分は本気かな)。

芭蕉の句を読んだ時、私の頭に浮かんだのは、トノサマガエルである。飛び込む水の音も、トノサマガエルの音として感じた。しかし後年、この句に疑問を持った。だいたい蛙というもの、一ッ匹だけで飛び込むものではない。芭蕉の句を読んだ場合、どうしても夕方と思ってしまうのだが、たとえば田の畔に足を踏み入れると、その足音か大地の響きかに驚いて、まず一ッ匹が田んぼの飛び込む。それを合図に、まわりの蛙が、ドボンドボンと続けて飛び込むのだ。ひとしきり飛び込んだあとで、元の静寂が戻るのである。芭蕉の句では、どうしても、一匹だけのイメージだ。田んぼはもとより、古池では、まわりにすんでいる蛙が一匹だけとは考えにくい。農薬などはなかった時代なのだ。まして古池である。鶏にたとえれば、朝一番鳥が鳴いたあと、次々に雄鳥が鳴き出し、村中の鶏が鳴き終わってやっと治まる。あの感じと同じである。蛙だって、全部飛び込んだあとに静寂が帰るのだ。しかし、こんな感覚は、それを知っている人としか共有できないのでしょうね。

どうも芭蕉は、イメージで詠んだような気がする。とすれば、トノサマガエルだろう。しかしながら、蛙は古池に飛び込んだ訳ではないという解釈には、・・・うーん、そうなんですかねえ。

蛙の俳句で思い出す、もう一人の俳人は一茶である。彼の蛙は、トノサマカエルだろう。ガマガエルでは、負けるな一茶これにあり、なんていう気分にはならないだろうし、アマガエルでは小さすぎる。ゆうぜんと山を見て鳴く、のもトノサマガエルが似合う。

そういえば、鳥羽僧正の鳥獣戯画に出てくる蛙も、トノサマガエルですね。

以下、蛇足。

アマガエル・・・ごく一般的な、小さな蛙。多分、全国どこにでもいるのだろう。ただし、どこかで文章を発表しようという人は、自分で調べること。私の書くことを信用してはいけない。

トノサマガエル・・・これ以上書くこともないけれど、私のイメージの中では、もっとも蛙らしい蛙である。

アカガエル・・・たいていの蛙は食用になると思うけれども、アカガエルはおいしいという。赤犬は食べられるというのとなんか共通している。

ヒキガエル・・・イボのある、グロテスクな蛙である。別名ガマガエル。若い頃、足が六ッ本あるヒキガエルを見つけた。変な奴だと思って蹴飛ばしてみたら二匹に分かれた。交尾をしていたんですね。御免ね、悪かった。

ウシガエル・・・食用蛙ともいいます。戦時中、子どもだった私は、友達と荒川のほとりで遊んでいた。そこへ、屈強の大人が二人ばかりやってきて、「今、こっちの方へ食用蛙が逃げてきた、見なかったか」と聞いた。食い物のない時代、大型の蛙一匹のためにでも、人々は目の色を変えたのです。

そのほかにも。蛙は沢山いる。たとえば、

デングリカエル。小さい子どもや、体操選手の真似をします。

ヒックリカエル。古典的な漫画ならば、バナナの皮に滑るのです。

ソックリカエル。自分は偉いと思っている人によく見られます。

ハネカエル。跳ねっ返りという言葉があります。古い言葉です。意味が分からない人は、辞書でも引いてください。

ショゲカエル。失敗したり怒られたりします。現役時代の私の姿です。

トンデカエル。飛行機に乗る訳ではありません。家などで何か大事件があったのです。類語に、クルマデカエル、デンシャデカエル、アルイテカエル、などがあります。

そういえば、風俗店などで、もてない男が、モウカエルというのもありますね。

あ、そうそう、私はぼんくらカエルです。ぼんくらって分かりますよね。落語でいえば、与太郎さん。

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2007年6月29日 (金)

身だしなみ

6月29日

知人に、服装と色彩に関する専門家がいて、「ぼんくらカエルは何を着ても似合わない」といわれたことがある。ずいぶんな話だと思うが「ぼんくらカエルは、土台、服装に関心がない。そういう人間は、何をきても似合わない」のだそうである。確かに、いわれてみればそんな気がする。

若い頃から、髪はぼさぼさ、着てる物はよれよれで平気だった。別に不潔だった訳ではない。風呂にも入れば、洗濯もした。当時は、たいていの男はポマードなどをこってりつけて形を整え、風に吹かれても靡かないような髪型をしていた。私はそれが嫌だった。頭に彫刻をのせることもあるまい、と言うのが私の考えだった。調髪について注意してくれる人には、「頭なんか、有ればいいのだ」と答えていた。

当時は、服装もびしっと決めるのがよいとされていた。私はネクタイが大嫌いだった。幸いサラリーマンではなかったから、それで通せたのである。だいたい、冠婚葬祭以外では、背広などは着なかった。よく下駄で外を歩いた。今はさすがに下駄ではないが、サンダルで電車くらいは乗る。

つまるところ、身だしなみがなっていないのですね。用は、不潔でなければいいのだと思っている。ただ、無精髭など平気で生やしているから、風呂にも入らないように見られてしまうだろうか。

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2007年6月28日 (木)

歯の手入れ

6月28日

ぼんくら日記

しばらく通っていた歯科医、今日で一応終わり。入れ歯が当たって歯茎が痛かったところも調整してもらい、痛みはなくなった。

歯が終わったら、こんどは目を見てもらわなくてはならない。近ごろ、眼鏡をかけていても、すぐに目がぼやける。先日などは、お互いに自転車に乗りながら狭い道ですれ違った人の、顔がよく分からなかった。相手が私に挨拶をするので、私も挨拶をしたが、顔が確認できなかった。知っている顔なのに名前が浮かばないというのは良くあるけれど、顔の確認が出来ないというのは問題である。来週あたりから、眼科に通うことになるだろう。耳も遠くなったし、すべて駄目ですね。

明日、布団とマットレスが届く。これは肩が痛いので買う気になった。膝だって少し痛むのだけれども、気にしないで歩くことにしている。どこもかしこも、悪いところだらけだ。だが、これと言って決定的なものがないのが救い。膝でも肩でも、少し痛むと言うことであって、痛くてどうしようもないというのとは違う。目も、疲れたときには目薬でも点せば、なんとか新聞を読み続けることが出来る。入れ歯がなくても、堅いものが食える。みんな、少しずつ悪いのである。

歳をとると、誰にもそんなことがあるのだと思って、自ら慰める。今日、ボランティアグループの定例会。Hさんが、手や足を日光に当てただけで、蚊に食われたようなあとが一面に出来ていた。加齢に依るのか、生まれつきなのか。別のHさんは、学校の生け垣の手入れをした際毛虫にやられて、全身に湿疹が出来たということで、休みだった。誰でも何かあるんだなあ。

肩の痛みの原因が分かった。先日、電動車イスを自動車のトランクに積んだが、あれが肩に響いたらしい。電動車イスはかなり重いが、若いときは、そんなものくらいなんでもなかったのに・・・。

本来ならば、今日は老人介護施設Kに行くはずだったが、歯科医に行かなければならなかったので、パス。

蒸し暑い一日。Hさん、もう一人のHさんとは違うが、この季節、私も体のあちこちが痒くなってくる。

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2007年6月27日 (水)

恥の文化

6月27日

恥の文化、と言えば多くの人はルース・ベネディクトの「菊と刀」を思い出すだろう。欧米や中国が罪の文化で、日本は恥の文化だと断じた有名な本である。ベネディクトによれば、罪の文化の方が恥の文化よりも程度が高いのだそうである。

戦争が始まったとき、英語などを敵性言語として使用を禁止した国と、敵国民がどんな人間なのかを研究させた国とでは、相当に民度の開きがあったと言わなければならない。そのために、ベネディクトは日本が恥の文化の国であることを発見した。だからといって、恥の文化よりも罪の文化の方が程度が高いというのには、にわかに賛成する訳にはいかない。しかし、日本の恥の文化は、もう、ガタガタですね。日本人は、恥を知らない国民に成り下がってしまった。

このたびアメリカの下院外交委員会で、従軍慰安婦問題で、日本政府の正式謝罪を要求する決議案が可決された。他人の国についてよけいなお世話だと思うけれども、こんな要求をされるのは、日本としては、恥ずかしいことだ。これまでに日本は、たびたび謝っていると思う。しかし、かならずそれに反するようなことを言い、主張する人が出てくるのも事実である。今はおとなしくしているけれど、安倍晋三なども河野談話を打ち壊すようなことを言っている訳だ。

従軍慰安婦も沖縄県民の集団自決も、軍の関与無しでは起こらなかった。上層部がその命令を下したかどうかと言うこととは、本当は関係ないのである。直接的な命令を出していなかったとしても、軍の関与無しでは、そんなことは起こりえない。第一、軍の上層部が直接命令を出していなくても、部下がそのようなことを行っていたと感づかなかったはずはあるまい。万一感づかなかったとしたら、それもまた上層部の怠慢である。いずれにしても、軍の責任を免れるものではない。

辛いことでも、嫌なことでも、事実は事実として認めなくてはならない。誰かが認めると誰かがひっくり返すそんなことをくり返しているから、60年以上もたってから、アメリカ下院に妙な決議をされたりする。いつまでも治まらないのだ。有ったことは有ったと認めること、なかったことには出来ないのだと言うこと、これが歴史を進める上での基本のはずだ。

ただ、ここで心配なのは、ナショナリズムの高まりだ。成熟した社会では、妙なナショナリズムに酔う人は少ないと思うけれども、日本はまだ危ないような気がする。小泉純一郎や、安倍晋三には、そんなナショナリズムを感じる。危ない。

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2007年6月26日 (火)

40肩と布団。

6月26日

ニチイで敷き布団とマットレスを買う。わたしの事だから、何に寄らず安いものを買うのだが、それでも両方合わせると1万何千円かになる。大変な出費だ。

先月だったか、今月に入ってからだったかは忘れたが、腕の動かし方によって、肩と上腕部が痛いのだ。普段はそれほどでもないが、寝るときに、下になった肩が痛む。筋肉痛とも違うし、肩が凝っているのでもない。神経か筋か、何かそのようなところが痛い。40肩だという人もいた。70歳で40肩というのも変だが、そんなものの軽いのかもしれない。

何はともあれ、せんべい布団やくたびれたマットレスに問題があるかもしれないので、変えることにした。本当は今月の予算はすでにオーバーしているので、来月になってから買おうと思っていた。しかしどのみち買うものである。少し早いが、銀行で来月分の生活費をおろして買いに出かけたのである。

私は年金だけで生活している。元来が貧乏人なので、収入内の金額で生活しないと、不安になる。一月単位ではともかく、年間を通じて赤字というのは、心穏やかではない。しかし、今年はどうやら赤字になりそうだ。今月は、入れ歯と布団で、3万円くらいの出費だ。これは私の予定になかったものだから大きい。

本当は酒を飲まなければいいのだけれど、これを止めたら欲求不満で鬱になっちゃうな。

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2007年6月25日 (月)

施設の畑

6月25日

ぼんくら日記

精障者の作業施設Mの畑に、インゲンの種を蒔く。畑は悪いし、肥料は少ないし、指導する私が農業についてはシロートときてるから、果たして上手くできるかどうか。

今作っているのは、ジャガイモ、なす、きゅうりなどである。ジャガイモはもう収穫しても良いくらいにはなっている。まあ、普通の出来だろう。なすとキュウリは、失敗である。植えたときに十分に水をやらなかったこと、その後日照りが続いたことなどにより、多くの収穫は望めそうもない。今日種を蒔いたところには、本当はサツマイモを植えるつもりだった。しかし行きつけのホームセンターで、苗を買い損なってしまった。苗は1週間もしないうちに売り切れてしまったらしい。

どこかから種が飛んできて、青紫蘇が生えている。大量に欲しいものとは違うけれど、香の物としなかなか良いものだ。なすやキュウリの収穫がはかばかしくないので、紫蘇の葉を少し持ち帰る。細かく刻んで、昼食時、みんなで少しずつ食べる。

午後、KさんやKUさんに、木製のコースターを作ってもらいながら、お客さなから頼まれた包丁研ぎと、まな板削りをする。お客様の中には、私が料金を取っていると思っている人もあるようだが、もちろん私はボランティアで、1円もいただいていない。Mの売り上げである。

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2007年6月24日 (日)

ミートホープ

6月24日

ぼんくら日記

何か問題が起きたときに、マスコミの記事を見て、正義の味方みたいな顔をしてどこかの誰かを非難したりするのは、かなり安易な方法である。とはいうものの、食肉業者ミートホープのやり方は、かなりひどいものだ。

最近はインターネットなどという便利なものがあって、そこに載るブログなどを見ていると、問題はミートホープばかりではなくて、この国では、食品や飲み物、酒などにいたるまで、インチキが蔓延しているようだ。つい先だって、ある人に、越乃寒梅の空き瓶を3本、行きつけの飲み屋に売った話を聞いた。1本2千円で買ってくれたそうだ。飲み屋ではそれに普通の酒を詰め、越乃寒梅として客に出していたらしい。こんなのはそこの酒屋の特殊なことかと思っていたが、どうもそうではないらしい。大手でも、初めから質の悪い酒を、小売店や量販店に高級酒として卸したりすることが、日常茶飯事らしいのである。

ミンチの肉などは、名の通った大手のスーパーなどでも、かなりいい加減に作っているようだ。私は今日スーパーで挽肉を買ったが、インターネットを見る前だった。見てからだったら、買うのをためらっただろう。賞味期限切れの肉がミンチされている可能性はかなり高い。賞味期限のラベルも、張り替えられているかもしれない。3回くらいは張り替える例もあるようだ。

戦前や戦後しばらくの間は、日本製は何でも出来が悪くて、外国で作られた物を、舶来品(古い言葉だ)として尊ぶ風潮があった。だから、日本で作られた物を、あたかも外国のものであるかのように偽装して売った。今では食べ物でも工業製品でも、国産の方が質がよいとされる。このことは日本人の技術の優秀さを示すものとして誇っても良いのだけれど、こんどは、外国産を国産と偽装するようになった。古いものを新しいものとし、たたき売りしなければならないものを高級品として売る、この性質だけは変わらない。

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2007年6月23日 (土)

雑感

6月23日

ぼんくら日記

毎日雑感を書いているのだけれど、どのみち、まとまりのない話だ。

昔随筆を書いていたよしみで、その頃の仲間から手づくりの、随筆小冊子が送られてくれる。季刊で、今回のは2007年夏号である。通巻52号なので、もう10数年続いていることになる。投稿者は、千葉県中心なのだけれども、関東一円、中には奈良や静岡の人などもいる。それにときどきは聖路加国際病院理事長、日野原重明氏の寄稿などもある。今回も氏の寄稿がある。

編集者は女性二人で、そのうちの一人と知り合いだったため送っていただくようになったのだが、その人は今病気療養中である。で、もう一人の編集者が引き継いで、私に送ってくれるのだ。申し訳ないので、読後の感想だけは書き送っている。投稿すれば載せて貰えるのだが、なかなかその気力がでない。これまで投稿したのは、二回か三回くらいしかなかったように思う。

車イスのTさんと会う。例によって文章を見てくれということだ。次から次に良く書く。このエネルギーを私も見習うべきなのだ。良く書くだけあって、文章自体はかなり良くなった。あとはどこに重点を置くかという内容の問題だ。これは人によって違うし、自得してもらうしかないように思う。

私はものの考え方でも、文章の書き方でも、あれもある、これもあると思う方である。本当は自分の考え方を前面に出して、こうしろ、ああしろと言う方が良いのかもしれない。文章でもその方が上達は早いかもしれないが、個性を殺すことになりそうな気がして、出来ない。私にアドバイスを求める方は、自分で考えなければならないから、大変と言えば大変だ。

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2007年6月22日 (金)

竹馬

6月22日

ぼんくら日記

6月14日に梅雨入りして、その日だけ雨が降って、その後丸一週間晴れが続いた。こんなのが梅雨かね、と思っていたら今日は雨。しかし明日はまた晴れるのだとか。おーい、梅雨はどこへいったァ。

絵の会で、竹馬に乗った子どもを描く。バックは彩の森公園。子どものほかに、ピエロも竹馬に乗せた。絵の感じとしては、ピエロが子どもたちに竹馬の指導をしているという雰囲気。われわれの会で、私だけがまじめな風景画から離れた。良いのか悪いのか知らないが、私は絵で遊んでいるのだ。

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2007年6月21日 (木)

酔う人

6月21日

酔う人

物事を二者択一で考えるのはあまり好きではない。しかし、確かに二者択一の考え方は、便利な方法ではある。パソコンだって、二者択一の考え方がなければ成り立たないのだろう。

世の中には、酔う人と酔わない人がいる。この例題の立て方が二者択一的で、本当は、普段酔わないけれど時として酔う人とか、逆に、いつもは酔うのに今は酔っていないとか、酔うとも酔わないとも言えない状態になるとか、中間的な人もいるのである。

酒を含めて言ってはいるが、酒だけを言っているのではない。日本が戦争を始めたとき、真っ先に酔って、その先導をした人たちがいる。酔うと言うことは、インテリとか、インテリではないとか言うこととは関係がない。頭が良くても悪くても、立場がどうであっても、酔う人は酔う。

私が見た酔う人の典型は、戦争中は正義感による情熱に駆られて、民衆を戦争に追い立てた。戦後はその反省から、左翼の思想家になって演説をうち、講演をしてまわった。世の中が落ち着いてくると、こんどは左翼の批判をする論客になった。この手の人は意外に多い。教師などにも、このタイプはいる。これがいい加減な人ならばいいのだが、意外なことに誠実な人たちなのである。だから困ってしまうのだ。

私自身について言えば、戦争中は、日本は絶対に勝つものだと思っていた。子どもながら酔っていた。戦後は、民主主義者になった。子どもはみんな、そんなものだった。しかし、子どもながらに、大人たちの変化を見ていた。

その経験があるからか、今でも、何かの主張を、あまりに情熱的に話す人を見ると、何となく引いてしまう。この人は酔っているのではないのか、と感じてしまうのだ。酔っぱらいの意見は、ほどほどに聞かなくてはならない。

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2007年6月20日 (水)

広重美術館 キリシタン禁制高札

6月19,20日

ぼんくら日記

車椅子の会のTさん、Hさんと那須那珂川へ旅行。

広重美術館

旅館もコースも、2ヶ月前と同じ。ただし、2ヶ月前は目的の一つ、広重美術館を見られなかったが、今回は見ることが出来た。広重の肉筆画が2点展示してあった。柔らかな筆致の風景画で、なかなか好感の持てるものである。広重は果たしてどんな絵の具を使っていたのだろうか。東海道53次の版画は、思っていたよりも色が鮮やかで、紙も絵の具も、保存状態さえよければ案外変化しないものだと思った。私の勝手な感想では、もう少し古びている方がよかったような気がする。(自分でもわがままな感想だと思う)。

キリシタン禁制高札

美術館隣の、馬頭町郷土資料館にも入ってみた。そこで見た江戸時代の高札の文を写してきたので、下に記す。

    

きりしたん邪

宗の儀は堅く

御制禁たり、若

不審なるもの

これあらば、その筋の

役所に申し出べし

御ほうび下さる

べく事

    慶応4年3月

           太政官

これを縦書きにしてある。行分けはこの通り。慶応4年、明治元年、鎖国は解いても、キリスト教はあいかわらず禁じていた証拠。べつだん新しく知った訳ではないけれども、その高札の実物を見るのは初めてだったので、興味を持った。この高札の所蔵は、馬頭町、別雷神社。

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2007年6月18日 (月)

無題

6月18日

ぼんくら日記

精障者小規模作業所M。畑でなすの初収穫4本。スライスしてポリ袋で塩もみ、昼食時、みんなで食す。午後、ボランティアのAさん、社会福祉協議会を定年退職した I さんなど、見える。

友愛訪問、Tさん。あいかわらず、体調は悪いままの安定である。体調が悪くなって、もう2ヶ月になるそうで、奥さんは心配している。

関東が梅雨入りしたのはいつだったか。もう四、五日はたっているが、梅雨入りした次の日から、真夏の晴天が続いている。水不足が気になる。

明日は、ブログは休み。

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無いことにする

6月17日

無いことにする

前にも書いたが、人間は気分で考える、というのは、私の持論である。かなり公平な人でも、自分の気分にあった結論を得たがる。しかし残念ながら、完全に正しい気分とか考えというものはなくて、渋々相手の言うことに同意しなければならないこともある。困るのは、絶対に相手の言うことに同意しないタイプの人がいることだ。自分の気分だけで、物事を判断する人のことである。

どんな気分、どんな信念を持っていようとも、事実は事実として認めなくてはならない。事実は事実として認めた上で、自分の気分にあった理論を構築するなり、人の意見を受け容れるなりしなければならない。

ところが困ったことに、その事実すら、その人の気分によって違って見えてくるのである。

今では、日本がアメリカと戦争をしていたという事実すら知らない成人がいるという。戦後60年以上もたったのだから、これも当然なのだろう。日本が戦争に負けたとき、まだ子どもだった私にも分かるほど、当時の人々には厭戦気分があった。戦争を語り継ぐ、原爆を語り継ぐと言うことも、その厭戦気分に端を発していると思う。

だから本当は、この厭戦気分を語り継ぎたいのである。もう戦争は嫌だ、戦争すればこんな非人道的なことが起こる、戦争をしてはいけない、戦争に近づいてはいけない、そんな気分を伝えたいのだ。しかし、これが難しい。論理的なことは伝えられるが、私たちが経験した、あの厭戦気分は伝えることが出来ない。戦争を語り継ぐと言っても、この気分を伝えることは容易ではない。私はほとんど、悲観的な気分だ。

小泉純一郎にも、安倍晋三にも、この気分は伝わっていない。私は右でも左でもないつもりだが、このように書けば、左側だと受け止められることは承知したいる。それでもかまわないから書くが、中国や韓国が、首相の靖国参拝を不快に感じる気持ちは理解できる。無謀な戦争を始めたのは日本である。日本軍が中国や朝鮮に渡って戦争を仕掛けたのであって、中国や朝鮮が日本に上陸して戦争を始めたのではない。A級戦犯が合祀されている靖国神社に、日本の首相が参拝するのを不快に思うのは当然のことだ。この国の指導者は、そんな痛みも分からなくなっている。

私は戦争を記憶する最後の世代だけれども、いま日本は、いつかきた道を歩き出しているような気がしたならない。教科書問題、沖縄、慰安婦、事実を事実として認めたくない人々が、勢力をえている。それを認めることが不快でも、自分の気分に合わなくても、事実は事実として認めなくてはならない。嫌なことでも、事実は事実として認めるのが、本当の勇気というものだ。それを認めないのは卑怯というものであろう。人間は気分で考えるものではあるけれども、事実起こったことを、無いことには出来ないのである。

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2007年6月16日 (土)

父の日

6月16日

ぼんくら日記

次女からお酒が届いた。父の日のプレゼントらしい。酒のラベルに私の名前が付いていて、姓名判断みたいなものもついている。もちろん、良いことばかり書いている。吟醸酒で、かなり行ける酒である。つまり、もうコップ一杯は飲んでしまったと言うこと。明日は、父の日なのだそうです。

本当は、田植えのパート2を書くつもりだったけれど、何となく気乗りがしない。朝や、日中は、これを書こう、あれを書こうと思ったりする。しかし、夕方になると、書きたいことが無くなってくるから不思議だ。だから、パソコンの前に座ると、あらためて、書くことをさがしたりする。

俳句の会。

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2007年6月15日 (金)

田植え 蛭

6月15日

田植え

智光山公園に散歩に出かけた。面積は少ないが、狭山にも田んぼはある。その田んぼの田植えが、すっかり終わっているのに気がついた。昔に比べると、田一枚の大きさが、異常に大きい。機械が使いやすくなっているのだ。

田植えは、今は機械で植える。手で植えていたときより、苗は小さい。その方が機械では扱いやすいのだろう。田植えの苗は、平たい箱に入っているが、あれは、農協や苗屋から買うのだろうか。昔は、各家の苗代に種を蒔いて、苗を育てた。その苗を抜いて、植え田に運んだのだ。その運び屋は、子どもの役目だった。背中に大きな籠を背負い、そこに苗の束を入れて運んだ。その苗をあらかじめ田にばらまき、田植えをする人の手助けとした。また、田の畔に立って、苗が無くなった人に、苗の束を放り投げる役目もした。はじっこの方などは、子どもでも苗を植えたりした。

昔の思い出は郷愁になるのだけれど、今でも嫌な思い出となっているのは、何度か蛭にとりつかれたことだ。蛭というのは。環形動物という種類だそうで、ミミズやゴカイなどの仲間らしい。私は、ヤマビルは知らない。田の中にいるのは、チスイヒルと言うものらしい。田んぼに入れた足に、蛭が吸い付く。何となく足が痒いように感じて、気がつくことが多い。こいつに吸い付かれると、引っ張ったくらいではなかなか離れるものではない。どうにか放しても、こんどは血が止まらない。吸い付いているときに、何か血を固まらせない物質を出すらしいのである。抗凝結作用物質というのだそうだ。なんだ。書いて気がついたが、血が止まらない物質と言うことを、難しく言っただけだ。こいつ、血を吸っている途中ではなかなか離れないくせに、体が丸くなるほど血を吸って満腹すると、自分からころりと落ちる。生意気なのである。

もちろんそんな蛭を、われわれが見つけたら、決して許しはしない。口の穴から小枝を突っ込んで、靴下を裏返しにするように、体を裏返しにしてやる。そして小枝を地べたに挿し、蛭をひからびさせるのだ。ざまあ見ろ、てなものである。

脱線した。田植えの話である。

私の田舎では、田植えのことを、方言で「サツキ」と言った。これは当然「五月」からきている言葉である。サツキは旧暦の5月だから、田植えはその頃に行ったものだろう。なるべく台風よりも前に収穫を行いたいから、品種改良などにより、田植えの時期は早くなっている。関東地方では、田植えは新暦の6月だが、東北では5月のうちに行っているだろう。旧暦の5月、つまりサツキではなくなっていると思う。

私が小学生の頃は、一週間ほどの田植え休みというのがあった。猫の手も借りたい時期である、純農村地帯の学校では、それに協力しない訳にはいかなかったのだろう。その分、夏休みが短くなった。田植えというのは、村を挙げての行事であった。

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2007年6月14日 (木)

義歯

6月14日

ぼんくら日記

ボラ・グループの定例会。

義歯

とうとう私も、義歯を入れることになってしまった。左下の奥歯である。左下の奥歯が無くなっていたが、さほど不便に感じていた訳ではない。硬いものも食べられるし、何が食えないと言うことはなかった。しかし、右側ばかり使うのは、なんだか知らないが、健康に悪いらしい。歯が不健全だと、影響は、歯だけに治まらないらしいので、義歯を入れることに同意した。

今日の夕食は、その歯をつけたまま、初めて食事をした。のんきな性格のせいか、さほど異物感もなく、おいしく食べられた。しかしながら、普段はない方が楽とは言えるので、食後はすぐに外してしまった。

私はおっちょこちょいだから、旅行などの時は、入れ歯無しで行く方がいいような気がする。外したまま忘れてしまう危険があるのだ。入れ歯が無くても、酒は旨いし、煎った豆だって噛める。家で食事をするときに使うだけで十分である。

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2007年6月13日 (水)

扇風機

6月13日

ぼんくら日記

日本にも特許制度が出来て、そのごく初期に、手動式扇風機の特許があったそうだ。何枚かの団扇をくくりつけた機械で、小僧がそれを廻し、旦那は涼むという落語の世界ような機械だったそうだ。この書き方で分かるように、自分で調べたものではない。このブログを読んで、手動式の扇風機があった、などとどこかで書いたりすると、恥を書くかもしれない。書きたい人は、自分で調べてください。ぼんくらカエルは無責任な蛙です。

去年から、わが家の一番気に入りの扇風機が動かなくなっていた。秋になったので、取りあえずは押入に押し込み、この夏、また引き出した。半年間休ませたのだから少しは機嫌を直して動いてくれるかと思ったのだが、我が心機械は知らずで、先日スイッチを入れてみたときには、うんでもすんでもなかった。普通は、スイッチの故障と思うのだが、スイッチ自体は入っているらしい。それで動かないのだから、私には原因が分からない。あちこち手をかけてみたが、結局分からず終いだった。

今日、もう一度手を入れてみた。手を入れると言ったところで、何をどうすればいいのかは分からない。取りあえず、ネジはすべて外し、分解できるところは、すべて分解した。そして洗えるところは洗剤や石けんをつけてごしごし洗った。電気製品だからと言って、水で洗っていけない訳ではあるまい。完全に水が乾くまで干せばいいのだ、と、私はかってに思った。こうして、取れる埃や汚れは全部取り、もう一度組み立てたところ、扇風機は動いたのである。どこに原因があったのかは分からないが、とにかく治ることは治った。

金のことを書くときは、かならず「自分は貧乏である」と書かなければならない。だから使っているエアコンは性能が悪くて、かけても、私の部屋はなかなか冷えない。そうかといって、新しいエアコンを買うには金がかかりすぎる。いきをい扇風機を使うことが多くなる。私は、扇風機を三つ持っているのだが、そのうちの一番大きくて、居間に置いてあるものが壊れていたのである。今年は買わなければならないと覚悟していたが、取りあえず治ってくれたので、万歳三唱の気分だ。天下りをくり返している役人には、こんな感覚、分からないんだろうなあ。

 

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2007年6月12日 (火)

公園散歩 40肩

6月12日

ぼんくら日記

公園散歩

老人介護施設Kの付き添いで、彩の森公園の散歩。今日のボランティアは私一人。かなり強い陽ざしだったが、さわやかで気持ちがよい。

公園の緑が美しい。もはや若葉とは言えないが、葉の色に、盛夏の重苦しさはない。まだ、鮮やかな緑と言ってよいだろう。休むときは車イスを木陰に寄せるのだが、そこには、まさに緑陰のさわやかさがある。

施設を10時出発して、12時には帰る。ほどよい疲れだ。

40肩

半月ほど前から、左の肩が痛い。腕を上にあげて、後ろに廻そうとすると痛いのだ。肩が凝るのとも違うし、筋肉痛でもない。神経が痛いというのか、筋が痛いというのか、そんな感じの痛みだ。生活にさほどの支障はないが、左肩を下にして寝ることが出来ないのが、少し不便。

寝るときの姿勢は、人によっていろいろだろう。私の場合は、あおむけ、右下、左下、などと姿勢を変えながら、つまりは、寝返りを打ちながら寝る。うつぶせだけはしない。若いときは横向きで、体を丸くすることが多かったが、今は、多少丸くするという程度だ。仰向けに寝ることは、若いときより多いと思う。

横向きに寝ていると、下になった方の鼻がつまってくる。そんなときは寝返りを打てばいいのだが、今は左を下に出来ないのである。肩というか、腕というか、その辺りが傷むからだ。

この症状をある人に言ったら、「40肩だろう」という。70歳にして40肩ならば、あまり文句も言えない。

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2007年6月11日 (月)

街頭募金

6月11日

ぼんくら日記

久しぶりに、精神障害者のための福祉法人、こぶし福祉会の街頭募金。

街頭募金をする団体は多いが、私は自分がそんなことに係わるまで、あまり好感は持っていなかった。募金を呼びかける暇があったら、自分がアルバイトでもして、その金を寄付すればいいではないか、と考えたりしたものだ。

しかし、街頭募金をする法の趣旨は、必ずしも金集めだけではないらしい。時には宣伝活動の意味があったりする。その問題に興味を持ってもらいたいと考えていたり、同時に配るビラを読んでもらいたかったり、今後の活動への理解を求めたりするのである。……もっとも、どれだけ効果があるかは……?

募金終了後、精障者作業所Mへ。

友愛訪問Tさん。

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2007年6月10日 (日)

南高尾

6月10日

ぼんくら日記

山グループの山行。出がけからはげしい雨。普通なら止めるところだが、今日のリーダーはSさんなので、決行する。但し、目的地は、権現山から南高尾に変える。参加12名。

京王線高雄口で下車。準備体操の後、初めはスパッツを着装して登る。雨は降ったり止んだりしていたが、そのうちに激しくなり、カッパを着る。しかしこれは暑すぎて、私はすぐに脱いで、傘にした。他の人はカッパ。雨が激しくなるばかりなので、昼前に下山。それでも、3時間くらいは歩いた。

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2007年6月 9日 (土)

無為徒食

6月9日

ぼんくら日記

今日の日記の題は、無題でもいいのだ。特に書くことは無し、と言うこと。あとで読み返すときに分かりやすいようにと、題を付けることにしたのだが、今日のような日は、どうでもいいなあ。

老人介護施設Kの公園散歩につきあうはずだったが、空模様が不順なので中止になった。おかげで予定無しの1日が出来、本を読んだり、数独をしたり、洗濯やら買い物やらをして過ごす。

毎週月曜日に行っている精障者小規模作業所で、サツマイモを植えようと思っていたのだが、セキチューで聞いたら、とうに苗は売り切れているのだそうだ。週に1回くらいは見ていたのだが、売っていることに気がつかなかった。さて、あの畑に何を植えるか。

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2007年6月 8日 (金)

私のために書く

6月8日

ぼんくら日記

この半月ばかり、「影隠し地蔵縁起」にかかりっきりで、日記は書いていなかった。「影隠し地蔵縁起」は、「カテゴリー」を「童話」としておいたが、「小説」の方が適当だったかもしれない。私としては、大人と子どもの間くらいの人に読んで貰えれば、と思って書いたものである。

この半月、趣味でもボランティアでも、日記に書くべきことはあった。普段の活動と違うこともしている。しかし、それから何日もたってみると、あらためて書く気もしない。どのみち、どうでもいいことではあるのだ。

私の書くものは、私にとって意味がある。私は私のために書く。だから、なにを書くか書かないかは、私の気分次第である。

  毀誉褒貶どうでもよくて生ビール

今日から狭山市の富士見公民館で、われわれの絵のグループの展示をする。絵画教室にいつもより早めに行き、ロビーにパネルを運んだり、会員の絵をセットしたり。各自2作品を展示。しかし、我らのグループは、いろいろな絵がありますなあ。統一がないと言えばその通りだが、各自の個性的だといえば、そうも言える。根気よく丁寧に描く人もいれば、私のように投げやりに描く人もいる。最近の私の絵は、かならず、男の子と女の子、それに犬を描き入れる。これも個性のうちだ。

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2007年6月 7日 (木)

6月7日

子どもの頃はなんとも思わなかったが、今になって考えると、蛍は幻想的な昆虫である。かっては全国至る所で見ることが出来たが、農薬や環境破壊で、今はなかなか見られない昆虫になってしまった。

私の故郷の川では、毎年蛍が大量発生した。私たちは夕涼みで川の畔に出かけ、よく蛍を捕った。蛍狩りなどと言うけれども、蛍は、捕ろうと思えば、いくらでも捕れた。空中を飛んでいる蛍もあれば、草にとまって光を点滅させている蛍もあった。私たちは、草に掴まっているような蛍は馬鹿にして捕らず、空中を浮遊している蛍だけをねらった。

蛍を捕るのは簡単である。ふわふわと飛んでいる蛍を、団扇などで軽く叩けばいいのだ。叩かれた蛍は、ゆらゆらと下に舞い落ちる。それを捕まえればいいだけのことだ。団扇がなければ掌で叩いてもいい。川の土手にはよくギシギシが生えている。そのギシギシの穂で叩くと、蛍は下には落ちず、その穂の中にひっかかって、光を点滅させる。庭箒などで叩いた場合も箒の間にひっかかることが多い。

そうして捕った蛍を、大切に飼育しようなどと思う気持ちはなくて、うちへ帰ると、たいてい蚊帳の中に放した。当時は夏になると、どこの家でも蚊帳を吊っていたものだ。その蚊帳の中で、点滅する蛍を見ながら眠りのついた。翌朝、蛍がまだ生きているのかどうかは気にせずに、私たちは蚊帳をたたんだ。

中学の時、俳句の好きな先生がいて、何かの折りに、私たちに俳句を作らせた。「ほととぎす」という題を与えられてなかなか作れなかった人が、「ほととぎすほととぎすとて明けにけり」という句を作ったことを紹介して、このように正直に作ればいいのだと指導した。

私は先生の意に反し、その技術だけを取り入れて「蛍追い蛍追いつつ追い逃がす」という句を作った。上に書いたことで分かるように、蛍などと言うものは、追って追って、追い逃がすようなものではない。子どもでも簡単に捕まえることが出来るのが蛍である。それなのに、先生が評価してくれたのは、私に騙されたのかな。

その時から俳句を続けていれば、今頃は大家だったかもしれないが(?)、惜しいことにそれだけでやめてしまった。65歳を過ぎてからはじめたことを思うと、50年以上にわたる空白が残念。と、まあ、この辺は言葉の行きずりで書いているだけだ。本題に戻ろう。

あれほどいた蛍も、今はなかなか見つからない。いつだったか家族で行った旅館の人に、近くの川に蛍がいることを教えてもらった。それで、子どもを誘って行って見た。しかし、なかなか蛍は現れず、子どもがじれた頃になって、やっと一匹飛んできた。その一匹を見たこどもは、「もう見たからいい」といって帰りたがるのである。これでは幻想もヘチマもない。

私が住む狭山市では智光山公園という市営の公園があって、そこで蛍を飼育している。ある時その飼育場の脇を通ると、50年代の男性が、「蛍が見えませんね」と話しかけてきた。昼の12時頃である。蛍が出るはずがないではないか。大人でもそんなことが分からなくなっているのだ。これからの人には、蛍に郷愁をかんじたりはしないのだろうなあ。

                                           終わり

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2007年6月 6日 (水)

影隠し地蔵縁起 13

6月6日

影隠し地蔵縁起 13 ーー風は見ていた

エピローグ

夏も冬も、春も秋も、強く弱く、風は吹き続ける。四季を重ね、年を重ね、村は発展して、町になっていた。人間は、いつになったら争いをやめるのだろうか。その頃日本は、アメリカと戦争をしていた。

初夏の風が穏やかに吹いて、気持ちよく晴れたある夏の日、少女が一人、村はずれの広場で遊んでいた。

しかし空の彼方から爆音が聞こえてきて、アメリカの爆撃機B29が現れた。B29は、町にあった軍需工場をめがけて飛んできて、沢山の爆弾と焼夷弾を落としていった。軍需工場やその付近かからいくつもの火の手が上がり、火は燃え広がっていった。炎は風を呼び、風は炎を増幅させる。風はまもなく清水八幡の社まで炎を運び、社ははげしく燃え上がった。

あたり一面の火の海の中で、少女は逃げまどい、影隠し地蔵の後ろに身を隠した。影隠し地蔵が、逃げまどうものの身と影を隠してくれることを、少女は知っていた。しかし炎は、影のあるものもないものも、すべてを焼き尽くしていった。地蔵にも火がつき、少女と共に燃え上がった。

「ひどい!なんてひどい!」

どこかで声がします。風の声でしょうか? いえ、慎君が叫んだのかもしれません。気がつくと、慎君は影隠し地蔵の前に立っていました。

何事もなかったかのように、人は歩き、車は走っています。影隠し地蔵は、二瘤川の橋のたもとにあるお地蔵様でした。いつも赤いよだれかけを掛けていて、慎君はこれまで、何度も見たことがあるものでした。

地蔵は町の人々が、戦のあとで建て直したものです。それは今も「影隠し地蔵」と呼ばれています。だが地蔵は、もう誰も隠しません。ただ黙って立っているだけです。

今も風は吹いています。風には喜びも悲しみもありません。風は、ただ吹いています。風は黙ってみています。

慎君は、駅に向かって、のろのろと歩き出しました。

                                              終わり

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2007年6月 5日 (火)

影隠し地蔵縁起 12

6月5日

影隠し地蔵縁起 12 ーー風は見ていた

首塚 3

翌日、義宗とおとき、藤治と七人の仲間は、義興の首塚にお参りをした。そのあと、藤治と参三郎、与十郎の三人は、義宗が引き留めるのも聞かず、立ち去ってしまった。なんとしても百姓になることを潔しとしなかったのである。それ以外の五人は、義宗のもとに残った。

毎朝、おときは首塚の前に置いてあるお椀の水を取り替えに行く。藤治たちが立ち去ったその翌朝、首塚の前でおときが見たものは、藤治たち三人の自決した姿であった。

おときの知らせを聞いて駆けつけた義宗は、ただ呆然と立ちつくした。

「藤治殿は、義宗殿に会うことを楽しみにしておられたが……」

と義宗のもとに残った武将の一人が言った。

「期待を裏切られたというわけか」

絞り出すような声で、義宗が言った。

そして、しばらく無言が続いた。

「藤治たちは、一度立ち去りはしたが、大将無しでは足利と戦えないと思ったのであろう」

誰かが、つぶやくようにいう。

「それで、ここまで帰ってきて、自決したというのか」

「昔の主人の後を追ったのだろう」

五人の武将たちは声をひそめて話す。義宗は、終始無言で立っていた。

藤治たちが自決してからと言うもの、義宗はめっきり無口になり、おときが話しかけても、上の空の返事ばかりが帰ってくる。五人の武将たちも、たまにおときの畑を手伝うことはあっても、おしなべて無口だった。

義宗たちは、義興の首塚のまわりに、三人の墓を作った。そして首塚と、三つの墓へのお参りは毎日欠かさなかった。

義宗と五人の武将たちが、ときどき、何か小声で話しているのを、おときは何度か見た。何か分からないが、嫌な予感がして、おときは胸ふさがる思いだった。

ある時、義宗がおときにいった。

「われわれはこれから北陸へ行く。新田に心を寄せるものを集めて、もう一度兵を挙げる。ここに帰ることはもう無いだろう」

あまりのことに、おときは返す言葉を失った。なぜ? なぜ? と思うのだが、何をどう言えばよいのか分からない。

「嫌だ、いかないで!」

とだけ叫んだ。

その晩義宗は、おときと水杯を交わした。それ以後、義宗は全くものを言わなくなった。おときが話しかけても、怒っても、泣いても、ただ黙っていた。

次の朝、義宗と五人の武将は、無言で水垢離をとった。そして無言で家を出た。義興の首塚と三人の武将の墓に、長い祈りを捧げ、影隠し地蔵と清水八幡に必勝祈願をし、二瘤川を渡って、村を出て行った。

川の向こうに去って行く義宗に向かって、おときは叫んだ。

「畑はどうするだ! ネギはどうするだ! 田んぼはどうするだ!」

吉宗たちは振り向きもしない。

「なんで戦をするだ!なんで、なんで百姓ではいけねえだ!」

おときの叫び声は風に運ばれて川を渡る。その声が聞こえておるのかいないのか、義宗たちは、ただ黙って遠ざかっていく。

春まだ浅い冷たい風が、おときの体に吹き付けていた。

義宗たちのその後のことは、誰も知らない。北陸の戦で死んだと、風は噂に聞いた。

                                       続く

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2007年6月 4日 (月)

影隠し地蔵縁起 11

4月4日

影隠し地蔵縁起 11 ーー風は見ていた

首塚 2

義興を討って安心したのか、まもなくも基氏は二瘤山の御所を閉じ、鎌倉に帰っていった。しかし、基氏が鎌倉へ帰ったあとも、義宗は村に残った。義宗はおときを妻とし、いつの間にか百姓に馴染んでいった。

ある日、そんな義宗の前に、8人の武将が尋ねてきた。武将と言っても、武器を持っているからそう分かるだけで、着ているものは百姓と変わらず、いつ洗濯をしたのか分からないような、薄汚れた衣類である。表情も、いくらか疲れているように見えた。それでも、義宗と会えたことがいくらか誇らしげで、一人が口を切った。

「義宗どの、山岡藤治です。山岡の藤治です」

「なに?藤治?山岡の藤治か」

「はい。山岡の藤治です。お懐かしゅうございます」

山岡藤治は、兄義興に従っていた武将で、義宗も何度か会ったことがある。

「私は真間の参三郎です」

「私は神部与十郎」

「私は……」

「私は……」

八人の武将は、次々に名乗りを上げた。皆、義興の家来である。

「義宗殿がいまだに二瘤村にひそんでいると聞き及び、我ら八人こうして尋ねて参りました」

義興が討たれた後、家来たちはちりじりに逃げ去った。出身地に帰って、ひそかに暮らす者はまだしあわせだった。あるものは身分を偽って、見知らぬ土地で暮らし、またある者は各地を放浪する、乞食となっていた。

山岡藤治もまた、そのような放浪者となっていた。そして放浪中に、義宗がまだ二瘤村に潜んでいるらしいという噂を聞いた。

藤治は、義宗に会いたいと思った。義宗は、もう一度兵を起こすに違いないと思った。その時、自分もその軍団の中にいたいと思った。藤治の胸には、自分はこんな乞食として終わる人間ではない、と言う自負もあった。

義宗が二瘤村に潜んでいるらしいと知ってからの藤治は、、かっての仲間を訪ね歩き、同志を募った。しかし藤治に同調する者は少なく、七人の仲間を集めるのも、容易ではなかったのである。だが、その仲間と共に、今は義宗の前にいる。藤治は、胸の思いを義宗に伝えた。

義宗は困惑した。新田の勢力も、今はちりじりである。世の中は足利に定まってしまった。それを不承不承受け入れ、おときと百姓で暮らそうと思っていた。そこへ藤治立ちが尋ねてきたのである。現在の新田氏には、足利を討つ力がないことを話しても、藤治は納得してくれないのだ。一晩話しあったが、藤治も義宗も、自分の意見を変えなかった。

                                                 続く

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2007年6月 3日 (日)

影隠し地蔵縁起 10

6月3日

影隠し地蔵縁起 10 ーー風は見ていた

首塚 1

ある時は強く、ある時は弱く、風はいつも村を巡っていた。風が吹くときも止むときも、時は休まず過ぎてよく。

いつの代も、人は争うのであろうか。このときもまた、長い戦が続いていた。まず、鎌倉幕府を倒すべく、新田義貞(にったよしさだ)と、足利尊氏(あしかがたかうじ)が兵を挙げた。力を合わせて鎌倉幕府を倒すと、またしても内部争うがはじまった。新田義貞と、足利尊氏が戦いを始めたのである。

戦いは、いくつもの勝ち負けをくり返した後、新田義貞が討たれ、足利尊氏の勝利に終わった。しかしそれで新田が完全に滅びたのではなく、義貞に子、義興(よしおき)、義宗(よしむね)の兄弟は、なおも足利氏と戦っていた、まだ関東にかなりの勢力を持っていたのである。

足利氏は京都の室町に幕府を開いたが、新田氏を押さえる関東の守りとして、尊氏の子、基氏(もとうじ)を鎌倉御所に置いた。基氏は、一時期、奥州道に通ずる二瘤村に御所を移した。その基氏の首をねらって、義興の弟義宗は、密かに村に隠れ、村の娘おときと共に住んでいた。

そのよしむねのもとに、兄、義興が多摩川の矢口渡でだまし討ちにあった、という知らせが飛び込んできた。基氏に見せるため、人足がその首を持って二瘤村の御所に来るという。あまりのことに落胆やるかたない義宗だったが、せめてその首を取り返したいと思った。そこで人足の来る頃を見計らって、義宗は、影隠し地蔵の後ろに隠れた。影隠し地蔵が、人の姿も影も隠すことを、義宗はおときに聞いて知っていた。

義宗は、通りかかる二人の人足に声をかけた。

「そこの二人、その首を置いていけ」

人足は立ち止まって、お互いを見た。

「何か言ったか?」

一人の人足が、もう一人の人足に聞いた。

「いや、何も言わない」

「そうか。しかし、何か声がしたな」

「ああ、そんな気がする」

「そこの二人、その首を置いていけ」

義宗は、もう一度声をかけた。

「なに? 首を置いて行けだと?だれだ? どこに隠れている」

「出てこい!誰だ」

二人はそこら中を見まわした。清水八幡神社の祠の中や、縁の下、そして影隠し地蔵の後ろも確かめた。

「誰もいないではないか」

「誰もいはしない。いるのは地蔵ばかりよ」

「まさか地蔵でもあるまい……空耳か……」

その2人に、またも声が聞こえた。

「首を置いて行けと言うのが分からぬか!」

二人は思わず顔を見合わせた。

「ひえー、地蔵だ!」

次の瞬間、二人は義興の首を放り出して、一目散に逃げていった。

義興はその首を持ち帰り、おときにも手伝わせて、近くの林に埋め、ケヤキの苗木を植えて目印とした。

                                              続く

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2007年6月 2日 (土)

影隠し地蔵縁起 9

6月2日

影隠し地蔵縁起 8 ーー風は見ていた

義高と大姫 3

義高の死から何年たっただろうか。頼朝の妻政子は、大姫を連れて二瘤村に来ていた。

大姫は、義高が討たれたという広場にたって、二瘤川を見つめた。あの川を渡れずに義高は討たれたという。大姫は義高と過ごした幼い日々を思い出していた。義高は武将の子らしく、自分の馬を持ち、野原を駆け回っていたものである。大姫は、その姿を見るのが好きだった。あの馬で、なぜこの川がわたれなかったのだろうか。向こうの山に逃げ込めば、身を隠すことだって、出来ただろうに……。大姫の思いは、幼かった日々に帰っていく。

義高が討たれたと聞かされたとき、大姫は何日も泣いて暮らした。幼いからこそ、その悲しみは純粋で深かった。あまりのことに、頼朝は自分で命じたにもかかわらず、義高を討った二人を処刑してしまった。この権力者は、人の命をどう思っていたのだろうか。義高を討ったものを処刑したからといって、大姫の悲しみは消えることはなかった。やがて大姫は体調を崩し、病弱の身となった。

そんな大姫の体調を気遣いながら、政子は大姫を二瘤村まで連れてきた。二人はしばらく、二瘤村にとどまった。政子は、義高が討たれたという広場に地蔵を安置して、大姫の悲しみを和らげ、合わせて、祠を建てて義高の霊を神として祭り、源氏への祟りを避けようと考えたのである。

政子は、同道した仏師に地蔵を彫らせ、身隠し地蔵が立っていたという場所に安置した。大姫は、その地蔵に「影隠し地蔵」と命名した。追われて逃げるものがあれば、その身も、その影も隠すようにと念じたのである。

政子は地蔵の脇に祠を建てさせ、義高の霊を祭り、清水八幡神社とした。義高が志水冠者と呼ばれていたことにちなんで名付けたものである。

政子は、風の穏やかな日を選んで、村人を広場に集め、影隠し地蔵と義高の霊を祭った。酒を振る舞い、金子を与え、村人に、義高の霊と影隠し地蔵を粗末にすることの無いようにと、くれぐれも頼んで鎌倉へ帰っていった。

                                                 続く

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年金問題

6月2日

ぼんくら日記

このところ、年金問題がかしましいが、じつは私は、この問題の被害者である。

私は義務教育を終わって、すぐに就職した。当時はまだ戦後の混乱が続く時代で、就職難であった。まして義務教育終了程度の人間に、職業選択の余地などあるはずもなく、たとえどんなところであれ、給料をくれるところならば、どこへでも就職したのが実状である。そんな中で、1951年の多分9月ごろ荻窪にあったメッキ工場に入社した。ここで9ヶ月くらい過ごしたが、このとき、厚生年金に加入している。この会社は、とうの昔になくなっている。

その後、この会社を退き、品川の職業訓練所で家具木工の訓練を受けた。そして就職した先が文京区にある和楽器を作る会社であった。当時は4人以上の従業員のいる会社は、厚生年金に加入しなければならないはずであった。しかしこの会社は当時でも10人以上の従業員がいたのに、われわれは潜りで、そのような保険類には入っていなかった。労働基準監督署がときどき調べに来ていたのだが、そんなときには、われわれは作業着のまま会社を追い出され、東大の三四郎池辺りで時間をつぶし、帰ってきたりした。ときには、帰宅時間になってもまだ監督署の人がいたりして、われわれは窓から衣類を投げてもらい、作業着を着替えて帰宅したりもした。

監督署の圧力もあったせいか、われわれも厚生年金にはいることになり、私はメッキ屋で使っていた年金手帳を会社に持って行った。ここで何ヶ月か年金を払ったが、また潜りにするという。形の上では、従業員ではないという扱いにする訳だ。こんなことを、もう一度くらいくり返したかもしれない。それからどれくらいたったのか、あらためて加入するから古い手帳をもってこいという。

その時の会社側のやったことがひどいのである。前と同じ名前の人が何人も同時に再加入というのはおかしいので、「古い年金手帳は捨てた」というのだ。こちらはまだ子どもだし、先のことなどあまり考えてもいなかったので、そのまま過ごした。現在の私の年金手帳は昭和35年(1956)加入になっている。このとき加入したものである。

それからは、独立して仕事をしたことや、未加入の会社で仕事をしたことなどもあり、さまざまな過ごし方をした。今から10年くらい前に年金をもらうに当たって、上記のような事情を話し、昔捨てられた年金手帳があることを、所沢の社会保険事務所に申し出た。しかし「調べたが分からなかった」と言う回答があった。最近の様子を見ていると、本当に調べたのだとは思えなくなってくる。これ以上調べてもらうとしても、こちらは記憶があるだけで、証拠を示すことは出来ない。どうしたものかと迷うばかりだ。社会保険庁の方では、記録自体が失われている場合もあるようで、もう一度尋ねてみたいと思っているが、心もとないものだ。

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2007年6月 1日 (金)

影隠し地蔵縁起 8

6月1日

影隠し地蔵縁起 7 ーー風は見ていた

義高と大姫 2

頼朝が義高を殺そうとしていることを知った大姫は、そのことを義高に告げた。義高は夜陰に乗じて、密かに屋敷を抜け出し、奥州へ向けて逃げていった。子どもとはいえ義高は、すでに馬に乗る術は知っていた。夜の間に鎌倉をぬけ、奥州道をひた走り、次の日の夕方には、二瘤村までたどりついていた。

義高の逃亡を知った頼朝は、翌朝、家臣二人を、追っ手として差し向けた。その追っ手もまた、義高の姿が見え隠れするところまで迫っていた。馬術に長じていたとは言っても、やはり子どもである、二瘤村に着く頃には、馬も人も疲れ果てていた。二瘤川を渡って山の中に逃げ込めば、なんとか身を隠すところもあろう。しかし、追っ手は蹄の音が聞こえるほど近くまで迫っている。一刻の猶予もない。とても二瘤川の浅瀬を探すほどの時間はなかった。

二瘤村をぬけ、広場にさしかかったところで、義高は馬を下り、手綱を放し、馬を河原に向けて追いやった。そしてお地蔵様に水を供えている農婦に尋ねた。

「追われています。隠れる場所を教えてください」

「それなら、このお地蔵様の陰がいいだ。昔から身隠し地蔵と言って、逃げる人を隠してくれるお地蔵様だで」

言われて義高は、身隠し地蔵の陰に、かろうじて身を隠した。

夕日が長い影を作っている。春とはいえ、強い風が肌に寒く、砂埃をあげていた。

追っ手たちはすぐにその場にやってきた。そして、農婦を見つけていった。

「そこの女、十二、三歳くらいの子どもが、馬に乗って今ここを通ったであろう。どちらへ行った?」

「おら、なにも見なかっただ」

「見ないはずはあるまい、たった今ここを通ったはずだ」

「おらも、たった今ここさ来たばかりだで、なにも気づかなかっただ」

「なにも気がつかなかっただと。もうよい。あっちへ行け。ぼんやり者めが!」

追っ手は、河原にいる馬を見つけた。

「あれは義高の馬だ。馬がいる以上は、この近くにいることは間違いない。川を渡った様子はないし、どこかにひそんでいるはずだ」

「しかしこの広場とあの河原だ。隠れる場所とてないではないか。あるとすれば、何本かの木と、そこの地蔵の後ろくらいなもだ」

追っ手たちは、木の後ろを見、地蔵の後ろを見、念のため木の上も見たが、どこにも人影は見えなかった。

「なんということだ。先ほどまで、姿が見え隠れしていたのに、こんなところで見失うとは……。仕方がない。引き返して、この近くの家をしらみつぶしに当たってみるか」

「待て、これはなんだ。地蔵に後ろに、影がもう一つあるぞ……」

「そんな馬鹿な、一つの地蔵に二つの影などと……ん?……確かに……、ならば、切ってみるまでよ」

一人の追っ手が、地蔵の後ろの二つ目の影の出所をめがけて斬りつけた。

「あっ!」

悲鳴を上げて倒れたのは、まさに義高であった。

身隠し地蔵は義高の血しぶきを浴びて、みるみる赤く染まっていった。そしてその顔は憤怒の形相となり、身に浴びた血は炎となって燃え上がった。その火は、瞬く間に、地蔵自身をも燃やし尽くしてしまった。

風は怪しく吹き募り、はげしい雷鳴と共に雨を呼び寄せた。そして、地蔵の燃えがらも、義高の死骸も、血しぶきも、何もかも二瘤川に流し込んでしまった。

                                              続く

ぼんくら日記

特養S。訪問。

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