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2007年5月31日 (木)

影隠し地蔵縁起 7

5月31日

影隠し地蔵縁起 7 ーー風は見ていた

源義高と大姫 1

日が昇り、日が沈み、また日が昇り、風は村の中を吹き抜け、ただよいながら、いくつもの年を重ねた。

源吉が建てた地蔵は、その後も大切にされ、村の守りとなっていた。建てた理由はもはや知る人もないが、その後ろに隠れれば姿を隠してくれる「身隠し地蔵」として、村人の信仰を集めていた。

二瘤山の麓をかすめるようにして、関東平野を流れ下る二瘤川は、この辺り一番の大河である。その川の畔に源吉たちが開いた村は、今は二瘤村と呼ばれている。二瘤村の近くには二瘤川の浅瀬があって、村は川の渡し場として知られるようになっていた。そして何時の頃からか、関東平野を越えて奥州へ向かう人の街道筋になっていった。

長かった源氏と平家の戦いは、どうやら源氏の勝利で終わりそうである。いつの時代もそうなのだろうか、勝てば勝ったで、こんどは勝ったもの同士の内紛が始まってしまった。平家との戦いに功績のあった源義仲(みなもとのよしなか)と、源氏の統領・源頼朝(みなもとのよりとも)の争いが始まったのである。

義仲には義高(よしたか)という子どもがいた。義仲が平家を追って都に上がるとき、わが子・義高を、人質として頼朝に差し出したのであった。義仲はそうすることによって、自分が京に上っても、頼朝に逆らうつもりのないことを示したのである。

頼朝はこれを喜び、娘の大姫を、義高の許嫁(いいなずけ)としたのであった。このとき、義高は十一歳、大姫は六歳であった。二人は兄弟のように、いや、兄弟以上に仲良く過ごしていた。

しかし、頼朝と義仲が争うこととなってしまった。頼朝の命を受けた源範頼(みなもとののりより)、源義経(みなもとのよしつね)の軍が、義仲を討った。

こうなると邪魔なのは義高である。頼朝は、義高が成長して反旗を翻すようになることをおそれて、これを殺害することとした。頼朝自身、子どもの頃に平家に捉えられたが、命を許され、伊豆に流されたのであった。命を許されたために、その平家を討つことが出来たのだ。義高を許すならば、自分が親の敵としてねらわれるかもしれないことを、頼朝は怖れたのである。

                                               続く

ぼんくら日記

狭山台胃腸家外科医院で健康診断。胃ガン、肺ガンの検診。

午後、老人かいご施設Kで話し相手。

夜、山楽会班長会議。夏の山行は木曽御嶽山に決まる。

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2007年5月30日 (水)

影隠し地蔵縁起 6

5月30日

影隠し地蔵縁起 6 ーー風は見ていた

源爺の話 5

そのクスノキに取りかかる前に、二人はまず、まわりの藪を払うことにした。そうしなければ作業がしにくいのである。さらに、下の方の大枝を、払えるだけは払うことにした。払った藪や枝も、無駄には出来ない。薪などにするのである。しかし、藪を払ったり、大枝を切り落としたりするだけでも、大変な仕事である。

二人がその作業に熱中していると、ざわざわと藪の揺れる音がして、向こうからおしげの叫ぶ声が聞こえた。

「春光さん! 源吉! どこにいるだ!」

「おーい、ここだ、どうしただ」

通り抜ける冷たい風と共に、おしげが姿を現した。

「おしげ、どうしただ?」

「大変だ! せつ子さんが連れて行かれただ!」

「なんだって!」

おしげの話は、次のようなものだった。

おしげとせつ子は、春光と源吉が出かけたあと、二瘤山に山菜を採りに行った。昼をだいぶ過ぎた頃、二人が帰ってくると、家の前に、侍らしい二人連れが立っていた。侍が、なんでまあこんな所までやってきたのだろうと、おしげは思った。しかし、二人を見たせつ子は、山菜を放り出して逃げ出したのだった。けれども、すぐに男たちに掴まってしまった。何がなんだか分からずに呆然としているおしげに向かって、侍の一人が言った。

「そこの女。せつ子様は親方様の所に連れ帰る。春光に言っておけ。親方様のお情けで、おまえの命までは奪わない、とな」

そして侍たちは、春光の名を呼ぶせつ子を、無理やり連れ去ったという。

おしげは、このことを少しも早く知らせようとして、木を切る音をたよりにやってきたのだった。おしげの話を皆まで聞かずに、春光はかけだしていった。ただ立ちつくすだけの源吉とおしげに、風は冷たく吹き募り、木の葉が、くるくるとまわりながら散っていた。もう、冬が来ていた。

「春光さんにもせつ子さんにも、それっきり会っていない。噂も聞かねえだ。今はこの村に住む人も増えた。春光さんが造ろうとして造れなかったお地蔵様を、わしはどうしても造りたかったんじゃ……あのときのクスノキを使ってな。あのときと違って、今はノコギリもあるし、春光さんほどではなくても、わしだって造れないもんでも無かんべえと思ってな」

「そうだったのか。源爺がお地蔵様を造りたかった訳がよく分かっただ。……ところで、このお地蔵様に名前を付けるのかね」

「うん、それだが、このお地蔵様には、村の人を守ってもらいたいだ。せつ子さんのこともあるだで、特に、追われるものが身を守ることが出来るように、後ろに隠れたら姿を見えないようにしてもらいたいと願いながら、彫り上げたんじゃよ。『身隠し地蔵』というのはどうだべか」

「『身隠し地蔵か』か、うーん……源爺がそう言う願いで造ったんなら、それでいいだんべえなあ。なあ、みんな」

みんながそれに同意すると、源爺の息子が、お地蔵様に向かっていった。

「お地蔵様、聞いての通りだ。是非とも逃げる人の姿を隠してくださいよ。そして村人を守ってください」

暖かい陽ざしの中で、心地よい風に吹かれながら、源爺たちは、ふんわりと酒に酔っていた。供えられた酒を飲んだのか、夕日に照らされたせいなのか、身隠し地蔵のほほも、ほんのりと赤かった。

                                              続く

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2007年5月29日 (火)

影隠し地蔵縁起 5

5月29日

影隠し地蔵縁起 5 ーー風は見ていた

源吉の話 4

おしげが加わったことで活気づいたのは、源吉ばかりではなかった。せつ子にとっても、女同士の話し相手が出来たのである。さまざまな作業も、これまでよりはかどるようになった。おしげは、何事にも積極的で明るい性格だった。だからこそ、女一人で源吉を訪ねてきたのである。春光やせつ子は、どちらかと言えば農作業になれないところがあったが、おしげは源吉に負けないほど、農作業を熟知していた。慣れないとは言っても、春光もせつ子も、源吉たちに負担をかけないようにと一心に働いたので、二つの家族は、心から信頼できる隣人となっていった。ときには、男同士で魚捕りに行くこともあれば、女同士で山菜採りに行くこともあった。

ある時、春光が言った。

「源吉さん、夫婦が二組出来たんだ。村の始まりだよ。ここに人が住んでいると分かれば、これからやってくる人もいるに違いない。だんだん人も増えるだろう。私はこの村の守りに、お地蔵様を造ろうと思うのだがどうだろう」

「それはいい考えだ。仏師の春光さんなら、きっとよいお地蔵さんができるだんべ」

「それで、明日、地蔵にする木を探しに行きたいんだが、一緒に行ってくれませんか」

「いいですとも」

「じつは、この前から目をつけている木があるんです。太い木なので、一人で切り出すのな難しいんです。手伝ってください」

相談はすぐにまとまり、次の日、二人は連れだって森に入っていった。しばらく藪こぎをしてから、春光は一本の木の前に立ち止まった。一抱えもありそうな、かなりの大木である。

「この木なんですよ」

「クスノキかや」

「そうです。この辺りは、クスノキは少ないんです。クスノキは、彫刻にはいい木なんです。だからこの木がいいと思うんです。だけど、倒すのは大変そうだ」

「春光さんがこれがいいというのであれば、この木を倒すべえ。大変だども、鉈もあることだし、二人で力を合わせればなんとかなるだ」

                                                続く

ぼんくら日記

Tさん、Hさんと、東京江戸博物館へ行く。Hさんが東京都俳句人連盟の俳句大会に応募して、特選をもらったので、その俳句大会に出席するためである。例によって、運転はTさん。

Hさんは各地の俳句大会などによく応募し、また、よく入選する。確かに俳句は上手い。

大会の運営は、あまり手際よいとは言えなかった。大会は、10時半から16時15分まで。入賞者表彰、講演、互選、など。講師として、山崎千枝子、小島千架子、坊城俊樹。

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2007年5月28日 (月)

影隠し地蔵縁起 4

5月28日

影隠し地蔵縁起 4 ーー風は見ていた

源吉の話 3

その日その日の空腹を、山の幸、川の幸で満たしながら、三人はやがて収穫の時を迎えた。ソバはよくできたが、里芋の方は芳しくなかった。木の多いところは開墾することが出来ず、木の少ないところを開墾したのだが、そんなところは石ころが多いのだった。切り開いた畑は、もともと里芋には向かない畑であった。種芋を残せば、収穫は三人の一食分にもならないほどだ。しかし山芋はあった。近くの丘や二瘤山の斜面から、源吉たちは沢山の山芋を掘り出した。

その山芋と里芋で、三人は芋煮会をした。季節はもう秋である。よく晴れた日で、木々の葉は、赤や黄に色づきはじめ、静かに風が吹いていた。三人は畑の脇にに石を積んで竈とし、鍋をかけ、里芋と、里芋の不足を補うための山芋と、その日のために採ってきていた山菜を混ぜ、ごった煮にした。

三人は、それぞれの幸せをかみしめていた。確かにこの土地は豊かな土地で、川魚が捕れ、山菜が採れ、野ウサギなども捕れるのである。食に困ると言うことはなさそうだ。

源吉には、この土地で百姓をやれるという自信が出来た。ソバはよくできたし、野菜も出来た。三人で力を合わせれば、そのうち水田も開けるだろう。

一方春光とせつ子は、源吉という頼りになる仲間が出来たことを、なによりも心強く感じていた。二人で、慣れない田舎暮らしが出来るのか不安だったが、源吉がいてくれるので、それが出来るように思えるのだ。

あるかなしかの風に吹かれて秋の陽射しを浴びながら、三人が少し華やいだ気持ちで芋を食べていると、遠くの方で、

「おーい」

と呼ぶ声がする。三人が生活を始めてから、人が通ることの無かった土地である。三人は思わず顔を見合わせ、立ち上がって声の方を見た。誰かがこちらに近づいてくる。どうやら若い女のようだ。

「おーい」

女がもう一度声を上げた。次の瞬間、源吉がぴくんと跳び上がった。

「おしげだ!」

源吉が走り出した。

「源吉!」

女も走り出した。

源吉は、もともとおしげが好きだったのだ。そのおしげが訪ねてきてくれたのだから、嬉しいの何のと言ったらない。

「おしげ、来ただか」

「来ただよ、源吉」

「来ただか」

「来ただよ」

「おしげ、今日はな、初めて穫れた芋を食ってるだ。おしげも食えよ」

「芋が穫れただか」

「芋が穫れただよ」

源吉が自分の椀をおしげに渡そうとした。

「おら、自分の椀を持って来ただよ」

「持って来ただか」

「持って来ただ」

おしげは自分の荷物の中から、椀を取りだした。おしげの荷物の中に種籾や、野菜の種があることを、源吉は見逃さなかった。おしげは、一緒に住むために来てくれたのだと源吉は思った。源吉は何か言わなければならないような気がした。しかし、何を言えばいいのか分からなかった。

「おら……、おら……一生懸命働くで……、おら、一生懸命働くで……」

源吉の口から絞り出すような声が出た。それが源吉のプロポーズだった。

「おらも手伝うだよ」

それがおしげの答えだった。

二人の様子をほほえみながら見ていた春光とせつ子は、お互いに目配せをして、自分たちの小屋に入っていった。

秋の夕焼けの下で、静かな風に、木々がわずかにそよいでいた。

                                               続く

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2007年5月27日 (日)

影隠し地蔵縁起 3

5月27日

影隠し地蔵縁起 3 ーー風は見ていた

源爺の話 2

源吉が家を出て、2日ほど歩いたところで、どうやら旅の者が言っていたらしい土地に着いた。瘤が二つある山があって、大きな川があって、野原がある。川は大きいが、浅瀬があって、向こう側に渡ることが出来るようだ。

源吉は川岸の小高い丘に登って、野原の方を見た。やわらかい風が心地よく吹いている。まわりの木々は、芽吹いたばかりの若葉を、穏やかな空の下で、静かにゆらしている。まもなく夕焼けがはじまるのだろうか、山際の空が、ほんのり赤い。

辺りを見まわすと、向こうの林の麓から、細い煙が上がっているのが見えた。よく見ると、どうやら小屋があるらしい。食事の支度をする煙だろうか。旅の者の話では、まだ誰も住んでいないと云うことだったけれども、もう誰かが住んでいるのかもしれない。源吉は、少しホッとしたような、いくらかがっかりしたような気分になって、取りあえず、その小屋まで行ってみることにした。

原っぱと林の堺の辺りに、小屋はあった。

「誰かいるだか?」

中を覗くようにして、源吉は声をかけた。狭い小屋だ。中を覗けば、人は隠れようもないのだが、明るい陽射しの中を歩いて来て、いきなり暗い小屋を覗いたものだから、中の様子はよく分からなかった。

「はい」

びっくりしたような顔をして、若い男が出てきた。続いて、若い女が顔を出した。

「あんたら、ここに住んでいるだか?」

無遠慮に源吉は聞いた。

「そうですが、あなたは?」

若い男穏やかに問い返す。

「おらはここに家を建てて、住もうと思ってきただ」

「そうですか。それなら小屋の中で話しましょう」

若い男は春光と名乗り、女はせつ子と名乗った。若い夫婦は、去年の秋からここに二人で住んでいるのだという。この二人は、どことなく上品な雰囲気があると春光は思った。

源吉はその晩は、その小屋に泊めてもらった。春光は、京の都で仏像を作る仕事をしていたと話してくれた。しかし、それ以上のことはあまり話したがらなかった。

次の日から、三人の共同生活がはじまった。

まず源吉の小屋作りである。源吉たちは、鉈で木を切り、藤や葛の蔓で、その木を結わえて組み合わせ、柱や梁とした。源吉は、あらっぽくどんどん仕事を進めるが、春光の仕事はゆっくりしていた。その代わり、よく細かなことに気がついて、仕上がりがきれいだった。また、去年せつ子と協力して小屋を作っているだけに、要領をのみこんでいるような所もあった。

やがて、丸太を結わえて柱や梁にし、茅を刈って屋根や壁にした簡単な小屋ができあがった。春光のおかげで源吉の小屋は、屋根の傾斜や明かり取り、竈の煙だしなども、いきなり作ったにしては、まずまずの仕上がりになった。

源吉の小屋作りが終わると、こんどは畑の開墾である。

その日その日の食べ物を手に入れながらの開墾なので、なかなか大変である。幸いこの辺りは、山菜が豊富だった、二瘤山はもちろんだが、あえて川を渡るまでもなく、まわりの小高い丘へ行けば、季節の山菜が思うように穫れた。麓の川にも、魚が多かった。三人は、ときには耕し、ときには山や川に食料を取りに行った。そして山菜も魚も、余ったものは乾かしたり。薫製にしたりして保存した。

源吉にとっても、春光やせつ子にとっても、お互いに相手があると言うことが、なによりも心強かった。

とにもかくにも、源吉の持ってきた種を、早く蒔かなければならなかったので、三人はまず二つの小屋のまわりから畑を作ることにした。小屋のまわりには木がたくさん生えている。源吉たちは、木の少ない、野原側を畑にしていった。野原とは言っても、まばらに木は生えている。貧しい道具では、一本の木を切り倒すのも容易ではない。鉈で切れるくらいの木ならばいいのだが、、直径二〇センチくらいもあろうものなら、切り倒して根を掘りあげるとなると、それだけでも一日では出来ないくらいだ。だから、大きな木はそのまま残した。

そうして出来た畑に、そばの種を蒔き、里芋を植えたのである。

                                                 終わり

ぼんくら日記

ボランティア連絡会のバザー。われわれのグループは、今日のバザーで一年間の活動資金を作る。それなりに大切なバザーである。しかし最近はこの手のものが増えて、ちょっとやそっとでは売れないのである。古着などは二束三文でも買っていってくれない。新品で、良いもので、安くなければ駄目なのだ。

家政大でも学園祭をやっているのだが、とうとうそちらは行けず終い。

私が毎日読んでいるブログ、きっこの日記が二日続けて開けない。政府や自民党にはありがたくないことが書いてあるブログだが、ひょっとして、それで障害があるのだろうか。あの程度のことでそんなことがあるのだとしたら、この国はすでに、かなり危ないところに来ていると思わざるをえない。

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2007年5月26日 (土)

影隠し地蔵縁起 2

5月26日

影隠し地蔵縁起 2ーー風は見ていた

源爺の話 1

二瘤山の木々の間をさまよっていた風が、麓におり、二瘤川を渡って、村の広場の辺りを吹いていた。草木は若葉に輝き、田植えを終わった水田には、苗が行儀良く並んでいた。さわさわと広場の上を吹きながら、風は人々の話を聞いていた。広場の様子を見ていた。

広場には、20人くらいの大人と、大人より多いくらいの子どもたちがいた。大人たちは、ござの上に輪になって座っている。輪の真ん中には鍋がすえられ、野菜や野ウサギの肉が、ぐずぐずと煮えていた。わずかばかりだが、酒も用意されているようだ。子どもたちは、大人の膝に乗ったり、背中にもたれかかったり、近くの木を揺すったり、その枝にぶら下がったり、それぞれ、思い思いに動き回っている。落ち葉や石をはがして、虫を見つけようとしている者もいる。

広場の端には、木で作られた、真新しい地蔵が立っていた。

「まずは、源爺の作ったお地蔵様に魂を入れてもらいましょう。旅のお坊様、お経をお願いします。源爺、お地蔵様に目を入れてください」

広場の中心にいたひときわ大柄の男が言った。源爺の子どもである。源爺と呼ばれたのは、源吉という名の老人だ。村の最長老なので、みんなに源爺と呼ばれている。村人が皆源爺と呼ぶので、彼の息子もまた、自分の父を源爺と呼んでいた。源爺は歳をとってはいるものの、がっちりした体つきで、手足なども太く、まだまだ元気そうに見えた。

「お坊様、お経をお願いします」

さっきの男が言った。

広場に集まった人々の間に、旅の坊さんが混ざっていたようだ。粗末な、薄汚れた衣を着た坊さんが進み出て、木で作られた、新しい地蔵のまえで、お経を読み始めた。

源爺はいくらか曲がった腰を伸ばして、お地蔵様の目にノミを当てた。

「さて、お地蔵様に魂が入ったところで、願爺、どうしてこのお地蔵様を作ったのか、そのわけを聞かせてください」

また、例の男が話しかけた。

「うん、そうさな。せっかくだから話しておこう。この村に始まりから話さなくてはならんな」

おもむろに源爺は話し始めた。

「そうさな……何年前になるか、忘れるくらい昔のことだ。わしの生まれた村は、山を幾つも越えた向こうにあったんじゃ。ある時……そうじゃ、あれは18になったばかりのときじゃ。村祭りにやってきた旅のものから、ここから幾つも山を越えて、2日ばかり歩いたところに、瘤が二つ並んでいるような山がある。その麓に、田んぼや畑を作るのにいい土地があると聞いたんじゃ。山があって、大きな川があって、野原があって、まだ誰も住んではおらんと言うことじゃった。わしは貧しい百姓な三男だったから、いずれ家を出なければならん。そんなところがあるなら、そこへ行こうと思ったんじゃ。次の年の春になるのを待ちかねて、わしは一人で村を出たんじゃ」

「貧しい百姓では、次男や三男に分けてやるほど田畑はないものなあ」

源爺のせがれが相づちを打った。

「そうじゃ。わしはいずれ村を出なくてはならんと思っていたから、前もって、鍬や、なたや、鎌を用意していたんじゃ。それに鍋もな。家を出るまえに、幼なじみのおしげにだけは告げようと思ったが、なんだか言いづらくて、黙って出てきてしまった。親からは、当座の食べ物と、種芋や、そばの種、野菜の種などをもらって、家を出たんじゃ」

「おしげというのは、この前亡くなった、俺のおっかあのことだね」

「そうじゃ。だが、そう話の腰を折らんで、黙って聞けや」

源爺は話を続けた。それはおおよそ、次のような話だった。

                                                 続く

ぼんくら日記

つばさ会、6月、投句。

山楽会、夏の山行予定。班長会で決めるのだが、腹案として、木曽御嶽山の資料を集める。地図を買いに、川越紀伊国屋へ。

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2007年5月25日 (金)

影隠し地蔵縁起 1

5月25日

影隠し地蔵縁起ーー風は見ていた

プロローグ

慎君は初めて、一人で二瘤山にハイキングに来ました。二瘤山は、慎君の家から電車で3つほど行った駅で降りて、登る山です。お父さんに何度も連れて行ってもらっているので、道順はしっかり覚えています。みんなそれを知っているので、慎君が一人で行きたいと言ったとき、誰も反対しませんでした。お母さんは大きめのお握りを2個作って、水筒やゆで卵と一緒に、リュックに詰めてくれました。だから慎君は、大張り切りで二瘤山に来たのです。

二瘤山の頂上は2つに分かれていて、ふもとから見ると、それが2つのたん瘤のように見えます。慎君はその両方に登りました。疲れたけれど、頑張ったのです。2つ目のたん瘤の上で食べたお握りのおいしさと言ったら、これまで食べたお握りの中で、一番おいしかったのです。もしお母さんがお握りを3つ作ってくれたら、きっと、3つとも食べたに違いありません。

お天気はいいし、汗をかいている体に、ちょうどいいくらいの穏やかな風は吹いているし、慎君はとても幸せな気持ちでした。思わず、

「ハッピーだぜ」

と言ってしまったほどです。

頂上で充分休んでから、慎君は山を降りはじめました。鼻歌でも歌いたい気分です。でも、山道を歩きながら歌をうたうと、息が切れるので、小さな声で少しだけ歌いました。

さっきから小さな鳥が一羽、慎君の前にいるのに気がつきました。慎君の10メートルくらい前に止まっていて、慎君が近づくと、ちょっと飛び立って、また10メートルくらい前に止まります。ずっと同じことをくり返しているのです。まるで慎君の道案内をしているようです。しばらくは小鳥のあとをついて歩きました。

やがて道は、明るい雑木林を抜けて、杉林の中に入っていきました。さっきまでさわさわと吹いていたやわらかい風が止み、どこからか、谷川の水の流れる音が聞こえてきます。杉の根本が濡れて、しゃがの花が咲いています。

慎君は、ずいぶん長い間、山を降り続けていることに気がつきました。さっきまでいた小鳥も、いつの間にかいなくなりました。これだけ歩けば、とうに麓に着いているはずです。どこかで道を間違えたのかも知れません。なんだか不安になってきました。

でも、道を間違えたにしても、山を降りている限りは、いずれ麓に着くはずです。こんなに降りが続いたのだから、いくら何でも、もう麓は近いはずだと思って歩いていると、うっかり木の根につまずいて、転んでしまいました。

その時です。さっと風が吹いて、声が聞こえました。

「慎君。良くここまで降りてきたね。君は千年以上も昔まで降りてきたんだよ」

「え? 誰? 誰かいるの? 千年以上昔って何のこと?」

「誰もいないさ。私は風さ。誰にも姿は見えないよ」

「風? 風が話すの?」

「そうさ、私は風さ。二瘤山の麓を巡っている、私は風さ。そして、君も今風になったんだ。さっき転んだときにね」

「ぼくが風になった?」

「そうだよ。だから君の姿は、もう誰にも見えやしない。君が考えていた通り、すぐそこが麓だ。麓の村がある。その村のはずれには、お地蔵様が立っている。そのお地蔵様にまつわる話を君に見てもらおうと思って、風になってもらったんだ。これから千年で何が起きるか、ぜひ見てくれたまえ。ほら、すぐ下に川が見えるだろう。川の向こうに原っぱが見えるよね。そして、そこに人が何人も集まっているよね。まず、あそこから見てもらおうか」

                                                   続く

ぼんくら日記 

終日雨。

彩の会(水彩画の会)。このところ、風景画の中に、子どもと犬を入れるようにしている。今日は、木登りをしている子ども2人と、下から見上げる母と犬の絵。

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2007年5月24日 (木)

定例会

5月24日

ぼんくら日記

たまには気の利いたことでも書こうかと思うけれども、酒を飲んでいるうちにどうでも良くなってくる。土台、気の利いたことを書こうとしたって、中身がない。

ボランティアグループの定例会。

武州ガスがガス器具の点検に来るので、午後は自宅。

夕方、山の会恒例、夏の1泊山行に関して、班長会の招集電話をかけまくる。

夕食は、久しぶりにゴーヤチャンプルを作る。

以上で、今日の私の行動のすべて。あ、ナンプレを何問か解いた。本を少し読んだ。寝転がった。欠伸をした。

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2007年5月23日 (水)

疲れている

5月23日

ぼんくら日記

本日のわたくしめは、疲れているのでございます。

大分前から、パソコンに取り込んだ絵や写真をCDロムに送ろうとしたも、どうしても送れなくなっていた。自分でいろいろ試すだけではなくて、かなり詳しい次女にわざわざ来てもらい、見てもらったりしたが、解決しない。プレインストールされていたソフトを、何かの弾みでアンインストールしてしまったのかもしれない。

今日川越で、安いソフトを買ってきて、インストールした。それで疲れた。

だいたい私がパソコンに向かうのは、夕食後で、アルコールもチャンポンで飲んでからだ。日本酒に換算すれば、3合くらいは飲んでいる。そして、インターネットを見たり、こうしてブログを書いたりするわけだ。

CDロムに書き込み用のソフトをインストールするためには、さまざまなカタカナ用語を読まなければならない。これが疲れるのである。今日のブログはカタカナが多いけれども、この程度のカタカナでも、やっと覚えたものがある。ましてや、酒の回った頭で、見慣れないカタカナ語を読みながら作業をするなどと言うことは、洋服を着たまま100メートル泳ぐようなもので、はなはだ骨が折れる。肩も凝った。

だから、ソフトをインストールはしたが、まだ試してはいない。明日、気が向いたらやってみるつもりだ。

今日は、あと少し飲まなければならない。

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2007年5月22日 (火)

蛇に怖じず

5月22日

ことわざとか俚諺というものがある。並べて書くと、なにやらことわざの方が高級そうだが、なに、ほんとは大して違わないと私は思っている。

民間のものは低級で、どこかの学者やお上の言ったことは高級みたいな感覚があって、俚諺は低級と思われてしまう。

昔、「めくら蛇に怖じず」という言葉があった。これはことわざなのか俚諺なのか、私は判断できない。学者やお上の言葉ではなさそうだから、俚諺なのかな。この言葉を、「昔」と断ったのは、「めくら」という言葉を使うと「差別用語だ」などと言われそうな気がしたからである。現在では使わないことになっているようで、現に私のパソコンで「めくら」と入力しても「盲」という字は出てこない。代わりに「目倉」と出てくるのだ。

「めくら」という言葉を死語にしようと言うことなのだろうか。「めくら判」などという言葉は、今後は使えないのでしょうね。こんなとき、「目の不自由な人」と言うのが現代風だ。「めくら」が差別用語で、「目の不自由な人」は差別用語ではないという理屈は、私には、とんと分からない。

私はいつぞや、「俳句暴論」などと言う文を書いた。俳句のことなど満足に分からない人間が書くのだから、昔ならこんな主張をするものを「めくら蛇に怖じず」と言ったのである。今なら何というのか。「目の不自由な人は蛇を怖がらない」ですかね。そう言えば、他の言い方もあるにはある。「無学者は論に負けず」などは、いくらか似ているのかな。うーん、でも違うなあ。

ところで「無学者は論に負けず」の方は、ことわざなのか俚諺なのか。うーん、これも分からないなあ、何しろ私は脳が不自由だから……。

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2007年5月21日 (月)

竹とんぼ 2

5月21日

ぼんくら日記

精障者作業所Mで、先週の続いて竹とんぼ作り。

この竹トンボ、5月27日(日曜日)、東京家政大学祭のバザーに出品する。当日私は他に用事があって、ちょっと立ち寄るくらいしかできないのは残念。ぼんくらカエルの係わったものとしては、竹トンボと、ミニ、ミニ木工製品を少しだけ用意する。会場は西武池袋線、稲荷山公園駅のすぐ近く。ぼんくらカエルのブログなど読んでいる人はあまりいないでしょうけれど、お近くで暇のある人は、行ってみてください。

M作業所の畑、先、先週の月曜日、なすとキュウリを植えたけれど、植えてすぐに暑い日が続いて、育ちが良くない。去年は良く穫れたのだが、今年はどうも……という感じ。ジャガイモの方は良く育っている。芋煮会くらいは出来るだろう。

見守りをしているTさん、以前として体調が悪い。奥さんの話では、昨日はとても良かったのに、一転して今日は悪いという。不安定なのである。

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2007年5月20日 (日)

夏の山行

5月20日

ぼんくら日記

毎度のことながら、ブログを開いてから、なにを書こうかと考える。今日もその口である。

車イスのTさんが日本酒八海山を持ってきてくれる。ときどき文章を見てあげているお礼らしい。「いいよいいよ」といいながら受け取る。Tさんも、酒なら断られないことを知っているのだ。

山の会の一部の仲間と夏の山行について相談。一泊でどこへ行くか。Sさん、Hさん、Nさん、Fさんと私。駅前の大衆酒場で飲みながら。班長会に諮らなければならないが、木曽御嶽山に行こうと、一応の案。

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2007年5月19日 (土)

つばさ会

5月19日

ぼんくら日記

つばさ会というのは、ぼんくらカエルが属している俳句の会である。一応は同人組織で、ベテランが多い。中には中央の俳句総合誌の常連などもいたりして、相当程度の高い人もいる。そこへ行くと私などは、句歴も短いし、俳句のなんたるかも分からず、その会の端っこの方にぶら下がっているだけだ。

確か先月の句会で、「はるめくやぴんぴんころりこそよけれ」というのを出句した。ふざけたような句だから、おしかりを受けることは覚悟していた。しかし、互選の折りの評には、意外なものがあった。「意味が分からない」というのである。これは予想外だった。

古くから俳句を作っているような人は、多分上品な生活をしているんでしょうな。われわれのような下々のものが使う俗な言葉は、分かって貰えないのかもしれない。

いずれにしても私にとって、俳句はぼけ防止の手段。他の同人たちには、少し申し訳ないとは思う。

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2007年5月18日 (金)

秩父市田村

5月18日

ぼんくら日記

このところよく秩父に出かける。今日も出かけた。

秩父駅前の道を荒川に向かってまっすぐ進むと、大きな吊り橋に出る。ここを道なりに行けば、秩父ミューズパークに出る。

途中、大きくカーブしながら進む車道を避けて、急な山道を登る遊歩道があり、これがミューズパークへの近道になる。私はこの道に入った。しかし、あえてミューズパークへ行かず、そこからさらに、尾根越えの山道に入った。廃道のようだったが、踏み後があるので、かまわず進んだ。低い尾根だし、遠く車の音も聞こえるので、まず、遭難ということはあるまい。半分藪こぎのようになりながらどんどん降りて行くと、ぽっかりと開けた盆地に出た。秩父自体が盆地なのだが、その盆地の中に、また、箱庭のような盆地があったのだ。

まわりの山、緑の木々、小さな集落。何となく心の落ち着く、好ましい風景だ。たまたま、車にもたれている腰の曲がった農婦がいたので、土地の名前を聞いてみたら、秩父市の田村というところだそうだ。

その、農婦の話、

「わしが嫁に来て60年になるが、何もかわらねえなあ。あそこに家が2軒建ったけど、それだけだ。向こうの寺は円福寺っていう寺だ。田舎にしたらいい寺だなあ、行ってみたらいい」

「そうけえ、狭山からけえ。いいところだと言っても、ここらは昔と同じだ。何がいいんだか。景色がいい? ああ、そうけえ」

嫁に来て60年で、腰も曲がっている。そうとな歳だが、どうやら車に乗って移動するようだ。認知症ではないようなので、大丈夫なのだろう。

農婦の薦めにしたがって、円福寺に寄る。曹洞宗の寺のようだ。なるほど良い寺である。綺麗に手入れされた庭園が美しい。白い砂利が敷き詰められているので、一見枯山水のような気がしたが、実はそうではない。木が植えられているし、池もあって橋が架かっている。池には緋鯉もいる。

この寺を見て、今日の散歩は終わり。

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2007年5月17日 (木)

気分で考える

5月17日

気分で考える

近ごろは、私などには説明できないような、嫌な事件が多い。高校生が自分の母親を殺し、切り落とした頭部をバックに詰めて自首したという。家には切り落とされた腕もあって、オブジェのように、植木鉢か何かに立てられていたという。

われわれ凡人は、このような事件を知らされると、なぜそんなことをしたのか、何が彼をそうさせたのかと考える。この問題については、私は結論を差し控える。、しかしこの問題に限らず、何か難しい問題に直面したとき、多くの人は、結論を出せない不安定な状況に絶えられないので、たいていは何らかの結論を出して、自分を納得させる。そして多分その結論は、正しいところもあり、間違っているところもあるのだ。

人間というのは、多少の思考力を持っているものだから、何かにつけて考え、正しい結論を得ようとする。ただ残念なことに、社会現象などの解釈には、100%正しい結論などと言うものは得られない。

私はよく思うのだが、社会現象などを考えるとき、人間は気分で考えているのではないかということだ。何かの現象について、まず気分的な結論があって、その気分に合う論理を考える。冷静に、理論的の考えているつもりでも、実は自分の気分に合う結論のための論理を組み立てているに過ぎなかったりする。

自分の考えることを、客観的な真実と一致させるためには、どうすればいいのか。まず、事実を事実として認めることだと私は思う。ところが、事実を事実として認めること自体が難しい。事実を、現実を、われわれは自分の見たいように見るのである。心そこに有らざれば、見れども見えず、なのだ。見る角度によって、光の当て方によって、物事は違って見えるのである。どういう光を当てるかは、結局気分なのだ。

近ごろ話題になったものに、赤ちゃんポストがある。こんなものを設置することに反対の人は、「確かに赤ちゃんポストによって救われる命はあるかもしれない。しかし、そんなものを設置したら、子育てを放棄し、安易に子どもを捨てるような風潮を助長することになる」という。賛成する人は「それはそうかも知れないが、とにかく救える命は救わなければ」と考える。

私は、赤ちゃんポスト設置はやむを得ないと考える方だが、結局これは気分の違いなのだ。親はどんな事情が有ろうとも子育てをすべきだと思う人と、いろいろ問題はあっても命は救うべきだと思う人の、気分の違いである。

本当は別の問題について書くつもりだったのだが、気分で考えることを書くうちに、長くなってしまった。

私は、日本が戦争に負けたとき、国民のほとんどが、もう戦争は嫌だと思う気分になったことを書こうと思った。その気分が、今は失われてきたことの危惧を書こうと思った。私は敗戦のときの気分をいまだに持っているが、小泉純一郎や安倍晋三には、その気分がないのだと感じている。

戦争を語り継ぐというが、あの気分を語る継ぐことは出来ない。日本は、いつか来た道を歩み始めている。そして人類は、いずれ自分の力で滅びる。私は本気でそう思っている。

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2007年5月16日 (水)

評議委員会 ・ ふれあいの会

5月16日

ぼんくら日記

狭山市の精神障害者の福祉法人、こぶし福祉会の理事会、評議委員会があり、出席。こぶし福祉会には授産施設と生活支援センター、および4つの小規模作業所がある。それにしても、こういう施設で働く人の給料は安い。小規模作業所は、多いところでスタッフは3人。少ないところでは2人。どちらも年間の人件費が600万円台の下の方だ。専任スタッフと非常勤がいるわけだが、非常勤と言っても周4日くらいは出勤している。その人件費をみんなで分けあって……うーん。

私は少し早く引き揚げて、Hさんが中心でやっている「ふれあいの会」を寄らせてもらう。引きこもりの老人や、話し相手のない人のたまり場を作りたいと考えているので、すでに活動している会の見学である。行ってみると、みんな楽しそうに雑談したり、折り紙を折ったりしている。ボランティアで知り合った人も、何人かはいる。女性が男性の2倍以上。これがいいのだと思う。男はどうしても柔軟性に欠ける。女性の協調性、環境に素早く適応する能力などは、このような会にはどうしても必要だろう。

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2007年5月15日 (火)

蕗、飲んべえのおかず

5月15日

ぼんくら日記

我がマンションの管理費は、私が通常利用している銀行とは違う銀行から引き落とされる。そのため、毎年1回、1年分の管理費18万円を、通常利用する銀行から、管理費を引き落とされる銀行に振り込む。今日その手続きをしようとした。で、いつもの銀行の通帳とカードで18万円を引き出そうとしたら、1日10万円までしか引き出せないんだって。ああ、そうだった。すっかり忘れていた。はんこその他の用意をしていなかったので、明日あらためて不足分を引き出すことにした。

そんなわけで、管理費を振り込む銀行へは行かなかった。その分時間が空いたので、家で作り置きのおかず作りをする。

まず、蕗の煮物と、葉のナムルを作る。

秋田の田舎にいた頃、蕗なんて至る所に生えていた。めったにそんなものを取っている人はいなかったが、こちらでは、蕗は買うものである。ゆでてあくを取り、皮を剥いて甘辛く煮込むと、これが結構旨いのである。私は、蕗の葉も食べる。これもあくを抜いて、砂糖やごま、すり下ろしたニンニクなどであえると、ほどよいえぐみがあって、酒のつまみにはもってこいだ。えぐみ、苦みなど、人によって好みがあるが、ゴーヤの苦みなども気にならない私は、蕗のえぐみも気にならない。

続いて、大根の皮のみそ味きんぴらを作る。これを作るため、大根を使うときは、皮を取っておくのである。大根の皮のきんぴらは、これまでいろいろ作ってみたが、みそ味にするのが1番旨いようなきがする。

もう1品、新タマネギの甘酢付けを作る。私はこれを梅肉和えにする。

今日の午後、以上の4品を作ったが、考えてみると、どれも酒のつまみになる。飲んべえはおかずもそんなものばかり。

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2007年5月14日 (月)

竹とんぼ

5月14日

ぼんくら日記

精障者作業所Mへ。

畑の草取り。スタッフのSさんと。今日、メンバーはほとんど休み。茄子、きゅうりのどの苗、雨が降らないため、元気なし。ジャガイモは順調に育っている。

精障者作業所KのSさんが竹とんぼ用の材料をくれるというので、Hさんに運転してもらって取りに行く。厚みのある太い竹で、ありがたく頂戴する。

作業時間が残り45分くらいになって、Kさん出勤。二人で、竹とんぼを2本ほど作る。家政大のバザーに出品することになっているのだが、竹とんぼは10本もあれば充分だろう。

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2007年5月13日 (日)

頭高山

5月13日

ぼんくら日記

山の会の仲間と、頭高山へ行く。

小田急線渋川駅を起点とするハイキングコース。私個人は、埼玉の西部線沿線に住んでいるという理由で、わざわざ新宿を越えて、小田急線を利用する山に行きたいという気は起きない。しかしみんなで行くことなので、一緒に出かける。参加者16名、うち、ゲスト1名。

頭高山、標高303メートル。歳をとって山歩きが出来なくなったら、こんなコースもいいね、などと話ながら登る。天気がいいのがなにより。

頭高山から震生湖へ。震生湖は大正大震災で出来た湖らしい。

低山を中心にして、急な登りもないハイキングながら、結構疲れる。誰かさんの歩数計に依れば、1万8千歩を記録したという。

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2007年5月12日 (土)

5月12日

何年か前の話である。

私はちょっとした買い物がしたくて、川越の新富町へ行った。新富町は川越の最も賑やかな通りである。新富町の道筋に西雲寺という寺があって、その一隅だけは別世界の静けさがあった。

その西雲寺の前まで来ると、縁日ののぼりが立っていて、隣には「民具展開催」のポスターがあった。そのポスターに惹かれて、私は境内に入っていった。だが、日が違ったのか、時間が違ったのか、縁日らしい賑わいはなく、民具展も開かれてはいなかった。深閑とした境内に、はぐらかされたような気分でいると、肩に大きなショルダーバッグをかけた、ジャンパー姿の初老の男がちかずいてきて、私に話しかけた。

「今何時ですか?」

あいにくというか、いつもの通りというか、私は腕時計をしていなかったので、そのことを告げて「分からない」と答えた。

「ああ、そうですか」

男はいったん私から離れた。しかし、思い直したように、もう一度近づいて来た。

「500円で銚子まで帰れるでしょうか?」

「え?」

「千葉の銚子まで、500円で行けるでしょうか?」

瞬間、私の頭に「寸借詐欺」という言葉が浮かんだ。

「無理でしょう。だけど、私もお金を持っていませんよ」

事実私は1万円札を1枚持っているだけで、後は100円玉一つ持っていなかったのである。

「いえ、そんなつもりで言ったんではないんです」

男はまた私から離れていった。しかしこんどは私の方が気になって、こちらから声をかけた。

「その辺でお茶でも飲みませんか」

「いいえ、私はお金を持っていませんから」

「コーヒー代くらいなら有りますよ」

私は男を誘って境内を出、近くの喫茶店に入った。男もコーヒーでいいというので、2人分のコーヒーを頼んだ。しかし、男には食べ物の方がよかったかもしれないと思って聞いてみたが、いらないという。

コーヒーカップを持つ男の手の爪は、短く、丁寧に切られている。四角く短い爪は、紛れもなく肉体労働者の爪である。

男は私の質問に答えて、ぽつり、ぽつりと話し出した。

……私は福井の人間だけれど、女房が死んでから家を出ました。逃げてきたので、今さら家に帰れないんです。弟が田舎で漁師をしています。三国という所だけれども、知っていますか? 東尋坊の近くです。

……ずっと飯場暮らしだけれども、この歳になると、いい飯場にも入れないんですよ。え? 歳ですか? 57歳です。一ヶ月ほど前から銚子の飯場にいるんです。

……川越の飯場に友達がいるはずなんで来てみたんですが、もう飯場は終わってしまって、友達もどこかへ行った後でした。

……来るときはトラックに乗せてもらってきたので、電車賃がいくらかかるか分からないんです。500円だけは持っているんですけれど……。

私は男の掌を見せてもらった。掌には、なんども豆をつぶして、たこが出来ているところがたくさんあった。男の話のどこまでが本当なのかは分からないけれど、何年もの辛い労働に耐えてきたその掌のために、男の話を信じることにした。私は喫茶店で細かくした金のうちから、銚子までの切符がどうにか買えそうだと思える程度の金を渡して、男と別れた。万一それでたりなければ、来たときのようにヒッチハイクでもすればいいのだ。私は、半分は同情し、半分は冷たく突き放した気持ちで、そう考えた。

                                            終わり

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2007年5月11日 (金)

私の裏窓 川越市立美術館

5月11日

古い随筆が見つかったので、収録します。

私の裏窓

ヒチコック監督の映画に「裏窓」というのがあって、後のモナコ王妃、グレイス・ケリーが美しかった。

脚を折って動きの取れない主人公が、退屈紛れにアパートの自室の裏窓から、向かいの棟の窓を、望遠鏡で覗いて、日を送っている。その恋人が、グレイス・ケリーである。

主人公がのぞき見るそれぞれの窓には、それぞれのドラマがある。そして、ある部屋で殺人事件があったらしいことを感知する。その事件を解決するまでが「裏窓」のドラマで、最後に主人公が、犯人に窓から突き落とされ、何でもなかった方の脚まで折ってしまうと言う落ちがつく。

ある冬のことだ。私は自宅のマンションの裏窓から、ほぼ1日中、ぼんやりと外を見ていた。マンションと言ったのは、日本の習慣に従ったまでで、つまるところ「裏窓」のアパートと同じだ。私だって1日中外を見ていれば、ドラマの一つくらいは拾えるかもしれないではないか。

その前日は徹夜の仕事があった。夜の11時半まで営業して、翌日の10時には開店するという中華料理屋が、1日も休まずに、店内を改装しようと言うのである。私たちは、その家具の担当である。古いカウンターを取り外し、新しいカウンターを取り付ける。どうしたって、徹夜の仕事だ。

翌朝、仕事から帰り、風呂に入り、ビールを飲んで床についた。しかし、リズムの狂った頭と体では、満足な睡眠も取れない。のこのこと起き出して炬燵に入り、所在なく外を眺めながら1日を過ごした。我がマンションの敷地の向こう側は、少し広めの道路で、その頃は、その先に小さな空き地があった。その空き地はススキが多く、風に穂をなびかせていた。

ぼんやりと外を見ている私の目の中に、どこから来たのか、労務者風の男が目に入った。そして道の向こうの空き地に入り、中ほどで立ち止まった。すすきに見とれているようだ。外見に似ず風流なものだと感心したが、どうも様子がおかしい。よく見ると、なんと立ちションである。風流などとはとんだ早合点で、私は苦笑した。

その頃は、わが家の当たりは建築ブームで、あちこちに家やマンションが建っていた。彼も、どこか近くの建築現場に来ていたのだろう。

当時私は、家具などの取り付けのため、ときどきは建築現場に出入りしていた。町なかの小さな現場などへ行くと、トイレが無くて困ることがある。

現場には、普通は仮トイレがある。しかし完成間近になると、そのトイレが取り払われる。その頃には、たいてい建物の中のトイレが使えるようになっている。しかし、ときには、仮トイレが取り払われたのに、まだ建物のなかのトイレが使えない、ということがある。そんな現場で1日中仕事をする者にとっては、これは大問題である。近くに駅や公園が有れば、そのトイレを利用する。無ければどうするか。われわれは公衆トイレの発見に運命をかけ、血相を変えて町中を走り回らなければならない。

いつか行った現場では、ペンキ屋の夫婦が働いていた。奥さんの方も働き者で、大声で亭主とやりとりをし、ときには口げんかをしながら仕事をしていた。聞いていると、ペンキの塗り方にしても、色の配合にしても、どちらかと言えば、奥さんの方に主導権があった。体つきもがっしりしていて、世に言うところの男勝りである。

夕方になると、そばにいた私に向かって、

「これからおかずを買いに行かなければ……自炊だからね」

と言う。聞けば、現場の仕事が遅れているために、布団持ち込み、泊まりで仕事をしているのだという。ペンキ塗りは、現場にとっては、最後に近い方の仕事である。現場の遅れのしわ寄せを受けやすいのだ。だからたまには、泊まり込みもあるのだそうだ。

ところが、その現場には、例によってトイレがないのである。いくら男勝りと言っても、女の身で、トイレのない現場は辛いだろう。

そんな現場を知っているので、労務者の立ちションを見ても、そのマナーを云々する代わりに、私は苦笑をしてしまうのだ。

私が終日裏窓から外を眺めて、見つけたドラマは、労務者の立ちションだけだった。そして、窓から突き落とされることもなかった代わりに、グレイス・ケリーのような美女も現れなかったのである。

                                             終わり

ぼんくら日記

絵の仲間と共に川越市立美術館へ行った。ターナーの水彩画などがあって、それなりに楽しんだ。

脳梗塞で倒れて以来、足の悪いKさんも来て、美術館までは、何人かで、手を支えて歩いた。美術館では車イスを借り、以後、美術館を出て家に帰るまで、私が付き添った。そう言えば、秩父の美術館へ行ったときもそうだった。

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2007年5月10日 (木)

枕を食べる

5月10日

ぼんくら日記

ボランテイアグループの定例会。

先日古い餅米1キロを封も開けずに置いてあるのに気がついた。袋の印刷を見ると、なんと、精米したのが2001年である。昔、米が不作だった年、古々米だ、黄変米だと話題になったことがあったが、2001年では、古々米どころに話ではない。食物を捨てることは罪悪と考えている私は、その古古古古古古古米を食べることにした。電子レンジのレシピの本に、赤飯の炊き方があったので、餅米と一緒に買ったこれまた古い小豆を入れて、炊いてみた。大して旨いとは思わないが、食べたからと言って、べつだん腹をこわすようなことはない。

電気釜で普通のご飯を作るときは、私は2合を炊く。これを4等分して1食に当てる。電子レンジで作った赤飯も、同じようにした。昨日1食食べて、今朝も1食食べて、、まだ2食分冷凍してある。私は米の飯は1日1食なので、まだ2日分残っているが、冷凍だから、1週間くらいは持つ。

赤飯ばかり続けるのもいやなので、明日は残りの餅米とうるち米を混ぜ、かやくご飯を作ることにした。何でもあるもので間に合わせる主義だから、冷蔵庫を見ると、むきみのホタテ貝がいくつかあったので、それを刻んで入れる。野菜は、キャベツ、エンドウ豆など。果たしてどんな味になるか。

古い食べ物と言えば、戦争中、あるいは戦後すぐだったか、枕をほどいて、中に入っている小豆を食べたことがあった。小豆は黒ずんでいたが、結構旨かったことを憶えている。今ではあまりしないようだが、小豆の枕というのは、なかなか良いものだ。なによりも、枕に熱をもたないところがよい。

そう言えば、お手玉に入れてある小豆を食べたという話も聞いた。枕だろうと、お手玉だろうと、当時小豆は貴重品だった。

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2007年5月 9日 (水)

施設の遠足

5月9日

ぼんくら日記

特養Sの遠足。羽村動物公園へ。

車イスの人や、やっと歩ける年寄りの遠足だから、そうは動き回れない。3台の車に分乗し、利用者、職員、ボランティアあわせて20数人で出かける。着いてすぐ昼食。それから1時間半ほどが見物の時間。私のついた利用者さんは、ゆっくりだが、手を引けばあるける人。陽射しがことのほか強かったが、日射病を起こすほどではなかった。

動物の模型。インコやフクロウなどの鳥類、キリンやシマウマなどを見る。最後は、ひよこやモルモットに触らせてもらう。これは狭山市の智光山動物園でも出来るのだが……。

特養Sとしては、これだけ長時間の遠足は、初めての試みだろう。今月中、毎週水曜日に、分散して出かける予定。私は30日にも手伝うことになっている。

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2007年5月 8日 (火)

入れ歯の話、ほか

5月8日

ぼんくら日記

日記を書いていつものように投稿しようとしたら、削除されてしまった。どうやら、タイトルにハメマラと書いたのがいけなかったようだ。

外見上、私は歯並びが良いらしい。友人たちによく聞かれるのは、「それは自前の歯か」ということだ。前歯については、自前の歯である。しかし、奥歯はそうはいかない。

歯をほとんど抜いてしまった人が、歯茎の土手(本当は何というのか、他の言い方を知らない)に取り外しの出来るような義歯をはめ込む、本格的な入れ歯は、私はしていない。しかし前歯の歯並びの良さにかかわらず、奥歯はぼろぼろである。金属を埋めたりかぶせたり、抜け落ちている歯があったり、というのが実状だ。

俗にハメマラという。ハは歯、メは目、マラについては書くことをはばかる。歳をとると、この順で駄目になるというのだ。これに耳を加えて、すべて私はガタが来ている。歯については上の述べた状況である。目は、眼鏡をかけていても、細かい字は読みにくい。本などを長く読んでいると、文字がぼやけてくる。耳は、気にしないようにしているが、いつでも耳鳴りがしている。人の声が聞き取りにくい。聞こえてはいるのだが、その声がクリヤーに聞こえない。ガラスを引っ掻くような高音が聞こえないのは、好都合かもしれない。マラについては、駄目ですね。詳しくは言いません。

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2007年5月 7日 (月)

なすとキュウリの苗

5月7日

ぼんくら日記

ショップみちくさへ。なすとキュウリの苗を植える。なすとキュウリ、それぞれ5本ずつ。セキチューで1本68円。確かに安いが、農協などで買う苗よりは貧弱である。苗の支柱は木の枝で作る。作業所では、こんなもの買ってはいられないのである。昨日雨だったので、畑が濡れている。畑に水分があるうちに植えたかった。

家政大のバザーに出すため、竹とんぼを作ってくれという。竹とんぼと言っても、十分な厚みのある竹がないのである。厚みのたりない竹が少しだけ有ったので、、Kさん、Nさん達と作る。厚みのない分だけ、飛翔力は弱い。

夕方、久しぶりにOさんが来る。みちくさにしばらく通って、いくらか自信がついたので、家族とも相談し、これから仕事を探すという。「Oさんなら、自信を持ってやれば出来るよ」という。実際Oさんは何事もよくわきまえ、感情の波も少なく、普通の人の中に入っても、しっかりしたお嬢さんで通ると思う。みちくさから社会復帰した人が、何人かいるが、Oさんならば、きっと出来るに違いない。

Tさんの友愛訪問。先月、体調が悪くなって、病室をナースステイションの前に移されたのだが、いくらか持ち直したようだ。と言っても、まだもとの体調には帰っていない。「ぼんくらカエルさんが来てくれたよ、わかったら目をつむって」と奥さんがいうと、ぱちぱちと目をつむる。この十日ばかり、奥さんは毎日来ているようだ。

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2007年5月 6日 (日)

ど忘れ

5月6日

ぼんくら日記

この頃、私は痴呆症の入り口まで来ているのではないかと心配になることが、ときどきある。

今日、車椅子の会のTさんから電話があった。「忘れたね」といわれたのに、「何をわすれたんだろうと」思ってしまった。「今日会があったんだよ」という。ああそうだった。いつも第1日曜日は、車椅子の会の集まりがある。ところが、ゴールデンウイークなので忘れてしまった。

先日コンビニで買い物をし、端数まできちんと支払いをしたのに、おつりを待っていた。なかなかくれないので催促をしたとたん、催促をしたのが間違いだったと気がついた。

今日が何日か思い出せないことはよくある。

心配になって100から7を順番に引いてみた。ところが途中で計算を間違えてしまい、何回目かに50になった。そんなはずはないと気づいてやりなをしたら、51になったので、やれやれだ。100から7を引いていけば7回目には51になるはずだからである。

膝の痛いのは気にしないで歩くようにしているし、ど忘れの多いのも、忘れないような対策を考えて、後は気にしないことにしている。用事はカレンダーに書くとかいうことだけれど、今日のように、そのカレンダーを見るのを忘れるのだから困る。毎晩、次の日の予定を見るような習慣をつけなければならない。

終日雨。そんなわけで行くべきところに行かず、買い物以外は家で過ごす。

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2007年5月 5日 (土)

散歩 智光山公園

5月5日

ぼんくら日記

今日もまた快晴で、暑いほどの陽気。智光山公園は、私の散歩の目的地として、訪れることが最も多い。池と樹木の美しい公園である。若葉の木々を、ただ美しいとだけ言うのは芸のない話だが、私は他の言葉を知らない。木はその種類によって、緑の色がそれぞれ違う。若葉の頃は格別だ。

昨日十分に歩いているので、今日は公園を歩き回らずに、池の畔の木陰に座り、缶ビールとワンカップを飲んだ。ちょっと散歩に来ても、両方の見たいのだから……。

公園内を散歩する人、特に子どもと犬を観察する。ここのところ、私の描く水彩画には、かならず子どもと犬を登場させることにしているためだ。それにしても、子どもはよく動く。風景とは違い、子どもも犬も、ちょっとスケッチというわけにはいかない。とにかく見ること。

昨日の秩父のようではないが、智光山公園も、いつもよりは混んでいる。子どもも多いが、老夫婦がいたわり合いながら歩いているのを見たり、アベックが手をつないでいるのを見ると、何となくほほえましい。こちらまで和やかな気分になる。そして、ふと気がつくと、私は一人だ。まあ良いさ、私には自由がある。

○長女の嫁ぎ先の祖母が亡くなってと電話あり。行年96歳。少女の結婚式のときにあっただけだが、頭のいい人という印象がある。その時すでに80歳を過ぎていた。

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秩父巡礼古道

5月4日

ぼんくら日記

木の枝時計が長くなってしまったので、別に、日記を書く。

きわめてよい天気なので、洗濯や買い物をした後で、秩父方面に出かける。秩父市に着いたのが、昼を少し過ぎていたので、まずは昼食。

それにしても、何という人出だろうか。西武線や秩父線は超満員。中でも多いのは、芝桜の見物客と、長瀞へ観光に来た人々と見た。

私の当初の予定は、秩父線野上駅下車で、岩根山ハイキング。ツツジが美しいはず。しかしあまりの人出と、秩父線の待ち合わせの時間とを考えて、予定変更。ミューズパークへ向かう。ところが、ふらふら歩いているうち、秩父の巡礼古道に入り込む。ここでまたまた予定変更。巡礼古道を歩きながら、音楽寺などへ行ってみることにした。

何でも計画通りでなければ気の済まない人もいるけれど、私は、その場その場でどんどん予定を変える。人生でも、そんな具合だった。何かをやり遂げる人では、もともとなかった。貧しいながら、人生を楽しむ人ではあるのかな。

巡礼古道には、明治巡礼古道と、江戸巡礼古道の2種類があって、明治巡礼古道の方は舗装されている。江戸巡礼古道は、完全な山道。当然ながら、江戸巡礼古道の方を歩く。こちらは、雑木林や針葉樹の中の道で、原っぱに出たり、竹林の中の入ったりする。これはなかなか楽しい。汗をかき、汗を拭った顔を風にさらす。新緑から抜けたところでは、武甲山がことのほか大きく見える。かっての名山も、傷だらけなのが残念。そんなこんなで、心地よい疲れ。音楽寺や、他の2-3の寺は、私には付け足し。

帰りは稲荷山公園駅で降りて、サピオ稲荷山で汗を流す。ここの風呂は狭山市の65歳以上の人は250円で入れるのが嬉しい。但し、入浴後ビールを飲めないのが、なんとしても残念。

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2007年5月 4日 (金)

木の枝時計 3

5月4日

12ミリの板(ベニヤ板)の加工

Mizutani10014 ① 時計の針の大きさに合わせて板(ベニヤ板)の大きさを切ります。1辺25センチくらいが最大だと思います。いずれにしても、時計の針が支障なく回れる大きさを考えて、時計盤の大きさを考えます。

② 板の中心に穴を開けます。穴の大きさは、時計の機械の心棒の太さよりも5ミリ以上は大きく開ける。

Mizutani10010_1 ③ 4方の溝を彫る。溝がずれないようにガイドの木をビスで止める。(左図参照)木の枝に開けた溝は6ミリですから、その6ミリの溝にベニヤ板が楽に差し込める厚さまで削る。後で紙や、布を貼ったりするので、その分も含めてゆるゆるに削る。削る幅は10ミリくらい。

④ 時計の機械を埋める穴を掘る。あらかじめ開けてある穴に時計の心棒を差し込み、機械本体の周囲を鉛筆でなぞり、彫るべき穴の大きさを決める。機械本体より少し大きめに彫る。深さは、機械本体と針(短針)までの厚さによって決まる。100円ショップの時計の場合、厚紙1枚くらいの厚みしかない場合がある。他の時計であれば、2ミリから3ミリの厚さは取れるでしょう。いずれにしても、本体を穴に埋め込んで、針が表面の板にすれないところまで彫る必要があります。心棒のまわりは座金のようなもので少し高くなっている場合があります。その場合はその部分だけ少し深く彫ります。

Mizutani10011_1 ⑤ トリマーの使い方は、案内書をよく読んでください。木に刃先を当ててからスイッチを入れたりするのは危険です。スイッチを先に入れて刃が回転を始めてから作業に入ります。開けるべき穴の位置が定まったら、スイッチを入れ、トリマーの底部の1方を木材に押しつけ、静かに下ろしていきます。かならず1カ所を木材につけてから下ろしてください。いきなり刃先を木材に下ろしたり、木材につけてからスイッチを入れたりしないでください。トリマーを買うときに、付属品として刃のガード(俗に、臍という)が付いてきます。これを使う場合は、5.5ミリのベニヤで彫るべき穴の型を作ります。臍の厚さは2ミリなので、型は、その分大きくします。

木の枝と板を組み合わせる

Mizutani10015 ① これが一番難しいところです。まず上の2本を組み合わせます。ノコギリでてっぺんの部分を切り合わせます。製材された木とは違って、自然な曲がりくねった丸い枝ですから、なかなか正確にはいきません。それがまた、味ということでもあります。

② 次に、下の枝を左右別々に、上の枝と会わせます。

Mizutani10013_1 ③ 最後に下の枝どうしを合わせます。これが難しい。溝が彫ってあり、そこの差し込むのですから、少し長めでもかまいません。少しずつ切り合わせているつもりでも、枝が短くなってしまい、合わせ目がすくというようなことも起こります。そんなときの最後の手段。図の線が濃くなっている部分を鉋などで削ります。そうすれば、少々のことならカバーできます。

時計表の加工

① 好みで、表面に紙や布を貼ります。素朴さがよければ、何も貼らなくてもよい。最初に写真を載せたリバーサイドの時計は、障子紙を貼っています。

② 直径1センチくらいの木の枝を、出来るだけ薄く、4枚輪切りにします。

③ もっと細い枝を8枚、薄く輪切りにします。

④ これらの枝を固形の時刻を現す部分に貼ります。大きい方は12時、3時、6時、9時というわけです。もちろんこれは、木の枝でなくても良いわけです。シールでも何でも、お好み次第です。

仕上げ

① 木の枝と板を、ボンドで接着します。ボンドだけでは心許なければ、木の枝どうしをビスで打ち付けても、そんなに目立ちません。

② 吊り金具をつけます。これは上の枝の裏側につけます。横につけてはいけません。これもこつの一つです。

③ 時計の機械を板に接着します。両面テープやシリコンなどを使います。普通のボンドではつきません。瞬間接着剤は、木材用もありますが、元来木材には向いていません。それになれないうちは、瞬間に付いてしまうものより、余裕を持った動かせるものの方が良いでしょう。

④ 針をつけます。外すときとは違って、1本ずつ丁寧に差し込みます。

⑤最後に、針を廻してみて、板に触ったりすることはないか、針どうしがぶつかるようなことはないか、確かめます。それがなければ、電池を入れて完成です。

注意

木の枝時計の欠点は、表面におおいがないことです。素朴な時計の針が動いていたりすると、人は好奇心に駆られて、つい針に触ってみたりします。針がすれたり重なったりすることが、故障のほとんどです。従って、使用に際しては、人が気楽に触れないような吊り時計にしてください。

バリエーション

Mizutani10014_1 左は、実際に作ったバリエーションの一部です。

下は丸くくりぬいた中に時計があります。文字盤は絣の布を貼りました。

Mizutani10017_2

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2007年5月 3日 (木)

木の枝時計

Mizutani10018 5月3日

時計の機械を外す

① 時計の表のガラス、あるいはプラスチックを、ドライバーなどを使って外す。

② 秒針、長針、短針を重ねて、根本をつまみ、上に引いて抜く。3本一緒に抜くこと。針を曲げないように、慎重に。

③ 裏返しにして機械を外す。ビスで止めてあるものもあるが、多くは両面テープや接着剤で付いている。やはり、ドライバーなどを使う。それほど強力な接着剤は使われていないので、何とか剥がすことが出来る。針をつける心棒を痛めないように注意。

Mizutani10009 取り外した針と機械。真ん中は機械の表、右は裏)

木の枝に溝を彫る

Mizutani10010 ① なるべくまっすぐな木の枝を選ぶのだが、製材した木材は違うので、どうしてもいくらか曲がっている。なれてきたら少し癖のある曲がり方をしたものの方がおもしろいということもある。上の枝は、原図では溝を描いたのだが、どうもはっきりしないようだ。下の枝は半分にMizutani10011 削ったもので、トリマーがない場合、溝なしでも作れるので描いておいた。その場合は板の上に木の枝を貼ることになる。そして枝からはみ出した分は、小刀などで削る。仕上がりは、たとえば左図のようになる。但し、この先は、溝を彫って作る木の枝時計の説明だけをする。

② まず、木の枝を削るための型を作る。

Mizutani10012 Mizutani10013

A) 少しわかりにくいと思うが、とにかく木の枝を固定しなければならない。そのための型である。木の枝の直径より厚い板を2枚用意する。 

B) 木の枝を挟んでその板を固定する。その際、溝の広さは、木の枝の1.5倍くらいにする。木の枝は両端からくさびを打ち込み、固定する。かなり強く締めなければ動いてしまう。玄翁(金槌)を両手に持って、左右から同時にくさびの頭を叩くようにすると、強く締まる。

C) トリマーの6ミリビットが木の枝のほぼ中心に来るように、トリマーのガイドをつける(上図参照)。木の枝の太さに応じて、位置をずらせるように、ビスで止める。

C) 溝は浅いところでも5ミリくらいは彫る。1度に彫ろうとするとトリマーに負荷がかかりすぎるので、少しずつ深くして、3回くらいで彫るようにする。

                                                続く

ぼんくら日記

次女夫婦が来る。左側パソコンの調子の悪いところを見てもらった。おかげで木の枝時計を書き出すことが出来た。夫婦ともパソコンで仕事をしているのだから、かなり詳しい。それでも、私のパソコンのトラブルを全部解決できたわけではない。娘たちで冴えそうなのだから、パソコンというのは、頭の固くなった老人には、難しいものですなあ。

その点、若い人はすごいね。福島にいる孫などは、おしめの取れないうちからパソコンでゲームをやっていた。小学校を卒業する頃までには、自家薬籠中のものにするのだろうな。年寄りは、使う言葉も古いね。自家薬籠だなんて、自分で使ってから、つい苦笑した。

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2007年5月 2日 (水)

スキャナの故障

5月2日

どうしてこうもトラブルばかり多いのか。こんどはスキャナが故障した。昨日「木の枝時計」の作り方を書くといったのに、スキャナの故障で画像が取り込めない。作り方の説明だから、画像が無くては分かりにくい。そこで今日は頑張って、説明図を10枚も書いて用意したのだ。それなのにこのざまである。「木の枝時計」の作り方は、スキャナが直ってからにします。

マルエツの近くでI、Mさんに会う。私は気がつかなかったが、I、Mさんが「橘さんでしょう?」と声を掛けてきた。

I.Mさんと会っていたのはもう20年以上も前だと思う。郷土史の勉強会で一緒だった。互いに同じ年で、I.Mさんの娘さんと私の長女が同級生だった。よく話をした方である。郷土史の勉強会で一緒だった人で、いまだに年賀状を交換しているのは、彼女だけである。おばあさんを亡くされた話は年賀欠礼で知っていた。私の妻が亡くなったことも彼女は知っていた。そんなこんなで、しばらく立ち話。そう言えば、俳句をやっているそうだ。元気そうだった。

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2007年5月 1日 (火)

木の枝時計

5月1日

P1010040 写真の時計は、狭山市の精神障害者授産施設、リバーサイドの食堂の壁に掛けられたものである。実はぼんくらカエルが、他の精障者小規模作業所で、メンバーさんと一緒に作ったものだ。その作り方を、何回かに分けて書こうと思う。

材料

① 直径3センチ、長さ35センチくらいの木の枝4本

② 直径1センチ長さ10センチくらいの木の枝1本

③ 直径5ミリ~8ミリ長さ10センチくらいの木の枝1本

④ 時計の機械部分

   時計の機械部分は製造元から買うことが出来るけれども、市販されている  時計を解体して使う方が便利で安い。解体方法は後述。時計は100円ショップでも売っていますが、さすがにそれは使いにくい。機械部分と針の間が広く空いている方が使いやすい。100円ショップのものは、その間が3ミリくらいしかない。それでも使うことは出来るが、どうせ作るなら、もう少しましなものを使いたい。1000円未満で十分です。

⑤ 板、25センチ×25センチくらい、厚さ12ミリくらい(ベニヤ板が便利)

⑥ 時計を吊るための金具と吊り紐

⑦ 好みによってベニヤ板に貼る和紙、または布切れ(無くてもよい)

工具

P1010042 ① ノコギリ

     細かい作業なので、背金のついている方が使いやすい

② 電動ドリル(写真手前)

③ 電池ドリル(写真奥)

④ トリマー (写真左)

⑤ 6ミリビット(今回使うトリマーの刃。トリマーのもっとも標準的な刃です)

作り方の実際は明日から

ぼんくら日記

リバーサイドの食堂で、1時間ほどボランティア。食事の取り次ぎなど。

5月に行われるこぶし福祉会(狭山市の精神障害者施設を運営する福祉法人)の後援会総会に欠席するので委任状を提出。評議委員会には出席する予定。

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