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2007年4月30日 (月)

有間ダム(名栗湖)

4月30日(ぼんくら日記)

暇で天気のよい日は、じっとして家にいることが出来ない。昨日の宮沢湖につづいて、今日は名栗湖に出かけた。

私は、山と水辺が好きである。水辺と言っても海ではなく、川と湖である。私の下手な絵にも、よく水を描く。

名栗湖1周は約1時間。宮沢湖よりやや広い。ゆっくり出かけて、湖畔の軽食屋で食事。ツツジや山吹、藤、はなみずき、すみれ、菜の花、花大根、その他の花々が咲き乱れる、まさに春や春、である。湖の先までいって、橋を渡り、対岸を引き返す。水の色は、見る位置によって全く違う。入り口の堰堤から見ると、深い緑色で美しいが、そこから上流(湖の上流というのはおかしいが、名栗湖は、元々は川だったところをせき止めたので)に行くと、土色に濁って見える。日光の当たり方による違いなのかもしれない。

堰堤から上流に向かった左側を進むと、3分の1くらいいったところに、棒ノ嶺(棒の折れ山)の登山口がある。山は低いが、ここから登る白矢沢コースは、奥武蔵で私のもっとも好きなコースである。いくつかの滝があり、狭い岩と岩の間を登る。ここから登って、奥多摩の100件茶屋に降りるコースがよい。奥多摩側には、沢に添って山葵田がある。

だが、今日は山には登らない。その棒ノ嶺の方に飛行機が飛んでいき、長い飛行機雲を作っていた。

名栗湖の下に、さわらびの湯がある。名栗村の村営だったが、名栗村が飯能市に合併してからは、どんな形態になっているのだろうか。湯の内容と値段が釣り合わないような気がして、あまり好きだとは言えない湯だが、ここまで来たのだから、不満を感じつつも入る。浴槽も洗い場も狭くて、800円というのは高い。私がよく行く大和の湯ならば、もっと広くて、さまざまな湯があって、のびのび入って600円である。稲荷山公園前のサピオの場合、狭山市民の65歳以上なら250円だ。それに比べて、狭っ苦しいところで800円というのはいかにも高い。ま、文句を言うくらいなら、入らなければいいのだけれどもね。

帰途、狭山市駅前でKくんに会う。KEくん、Nくん、ANさんと有間ダムの先のます釣り場に行っていたのだという。私はそっちまで足をのばさなかったけれども、そこで会わずに、狭山であったというわけだ。

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2007年4月29日 (日)

いさぎよくない

4月29日

今日は「昭和の日」だそうだ。「みどりの日」の方が良いなあ。

朝のテレビの対談で、近ごろの政治家が、従軍慰安婦や沖縄の集団自決について、軍の関与がなかったとしたがる発言について、筑紫哲也が「潔くない」と言っていた。まさに我が意を得たりである。なんであれ、暗い過去を隠そう隠そうとする動きは、本当に潔くない。事実は事実として認め、そこから出発するしかないのだ。

安倍晋三たちは従軍慰安婦や沖縄県民の集団自決に、本当に軍が関与しなかったと思っているのか? 軍の上層部が、従軍慰安婦を強制的に連れてこいと直接指導したとか、沖縄県民に集団自決しろと命令した証拠がないから、軍の関与はなかったというのだろうか。

現実に従軍慰安婦はいたのである。そうなることを強制されていた。逃げることも出来なかった。それを、自らの意志だったというのか。

沖縄県民に、誰が手榴弾を渡したか。自分たちで、自殺用に作ったというのか。軍の上層部が、直接指導したかしないかの問題ではないはずだ。自分たちが直接言おうが言うまいが、そのようなことが行われていた事実は、現としてあるのだ。軍の上層部がその事実を知らなかったとは考えにくいが、よしんば知らなかったとしても、責任がないとは言えないだろう。

今頃になって、軍の責任ではないなどと言い出すのは、卑怯である。

昭和天皇は、戦争の責任はあったかもしれないが、いさぎよさは持っていた。靖国参拝をやめた判断は正しかったと思う。

ぼんくら日記

宮沢湖へ。ほとんど昼になって出かける。湖畔で昼食。いつもは静かな湖だが、さすがはゴールデンウイーク。動物園も遊園地も、人で溢れている。釣り人が使うボートはともかく、遊園地や動物園は、普段は開店休業みたいなものなのに。遊園地の食堂だって、普段はやっていない。今日は湖畔に、臨時トイレが仮設されるほどの賑わいである。

湖の奥の、比較的人が来ない広場で、昼食を取る。大きな木が何本もあって、近ごろにしては珍しく、2組の、木登りをする子どもたちを見た。昔は当たり前だったけれど、近ごろは子どもに野性味が無くなっているから、めったなことで木登りなどしなくなった。木登りくらい、どんどんやるがよい。

宮沢湖から天覧山へまわって帰る。やはり新緑は美しいが、先日秩父へ行ったときの方が、美しさが際だっていたと思う。なぜだろう。若葉の緑が、少し濃くなっていたことと、関係があるかもしれない。それに、秩父へ行ったときは、雨で若葉が濡れていたと言うこともあるのだろう。

しかし、好天の日に湖の畔や山の道を歩くのは、爽快でよろしい。

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2007年4月28日 (土)

雹、くじ運

4月28日(ぼんくら日記)

今日からゴールデンウイーク、あまり関係はないが・・・。

午後川越に行く。家を出るとき、傘がいらない程度に雨が降っていた。それでも用心をして傘を持っていく。新狭山駅に歩いたが、駅前の辺りで、強い風が吹き出し、止めてある自転車などが、ばたばたと倒れた。

新狭山駅のホームに着くと、ものすごい雨。にわか雨と言うよりも、熱帯性のスコールといった感じだった。そして、小さいながらも雹が交じっていた。雨の激しさは、傘を差しても無駄と思えるほどだった。

本川越駅に着く頃には、雨脚が幾分弱まり、傘で何とか歩けた。

文房具の木村屋で絵の具を買う。抽選券をくれたので、引くと300円の商品券が当たった。

私は元来、くじ運というものが全くない。いつでもカスしか引かない人間だった。それが去年辺りから、たまには当たりを引くこともあるようになった。確率論というのをほとんど知らないけれど、くじなどは何回も引いていれば、いずれは誰にも同じ程度に当たるものだそうだ。私は全くくじ運がなかったので、去年辺りから、人並みになったかと思っていた。

それが今年は、今のところ、くじ運が良いと言える。たいした当たりはないけれど、それでもお年玉つき年賀状の2等が当たった。先日、山の会のHさん達と飲んだときには、大衆酒場のくじで、料理は何でも1品只、と言うくじを引き当てた。今日で、今年3回目の当たりである。そして今年は、その3回くらいしかくじを引いていない。

いま宝くじを買っているけれど、これは別だろうね。

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2007年4月27日 (金)

何も無し

4月27日(ぼんくら日記)

絵の会で、絵を1枚。

血圧の検診、S医院。

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2007年4月26日 (木)

寝言のコンちゃん

4月26日

寝言のコンちゃん

 朝子のお父さんはのっぽです。反対にお母さんはとても小柄です。あれは何歳の時だったでしょう、朝子がお父さんに聞きました。

「ねえ、お母さんはもっと大きくなるの?」

「え? ならないよ」

「だって、まだ小さいじゃない」

「小さくてもならないの。お母さんは大人だもの」

「ふうん」

 朝子が不思議に思ったのも無理はありません。お父さんとお母さんが歩いている時、後ろから見ると、お父さんの肩より下にお母さんの頭があります。

 朝子はお父さんに似たらしく、3年3組の女の子の中では、一番ののっぽです。

「朝子ちゃん、自転車で遊ぼうよ。団地の中をまわろうよ」

 友達の由美ちゃんが、買ってもらったばかりの、ぴかぴかの自転車に乗って、誘いに来ました。

「うん」

 朝子は自転車置き場から、自分の自転車を出してきました。朝子の自転車は、古くて、おまけに小さいのです。何しろ、幼稚園のよきに買ってもらったものですから。

 二人は一緒に、団地中をまわりました。一号公園では、紅葉の赤い色が綺麗でした。二号公園では、ケヤキの葉が散っていました。三号公園には、菊の花が咲いていました。

 由美ちゃんは、新しい自転車ですいすい走ります。、朝子は膝を曲げて、小さい自転車を一生懸命こいでいるのに、なかなか追いつけません。ふうふう息を弾ませながらこぎ続けました。

 その晩、朝子はお母さんにねだりました。

「お母さん、新しい自転車を買ってよ」

「朝子には自分の自転車があるじゃないの」

「だって、小さすぎるもん」

「あんたはどんどん大きくなるから、いま買ってもすぐ小さくなっちゃうわよ。朝子が私の背に追いついたら、大人の自転車を買ってあげる。それまで待ちなさい」

「そんなの嫌だ。なかなか追いつかないもん」

「大丈夫、朝子はすぐに追いつくわ」

 でも、それは無理というものです。いくら朝子が大きくても、いくらお母さんが小さくても、朝子がお母さんに追いつくまでには、まだしばらくはかかります。

 夜、朝子が寝てから、お母さんはお父さんに、朝子に自転車を買ってやるかどうか相談しました。

「それにしても、同じ背の高さになったら買ってやるなんて、おもしろいことを言ったもんだね」

「ええ、そうはいったけれど……確かにあの自転車は小さすぎるのよね」

「そうだね。ミニサイクルだったら、大人用でも朝子は乗れるかもしれないよ」

「そうねえ」

 朝子は気がつきませんでしたが、「自転車を買って」とねだられたとき、お母さんは「買ってやろうかな」と半分くらいは思ったのです。でも、そんなそぶりを少しでも見せたら、朝子は一歩も引き下がらずに、「買って! 買って!」とわめくに決まっています。ですからお母さんは、朝子の前では、そんなことはおくびにも出さなかったのです。それで、朝子が寝てから、お父さんに相談したのです。

 ところが、二人の話を聞いている人がいました。寝言のコンちゃんが窓の外に立っていたのです。

 ねごとのコンちゃんを見た子どもは、誰もいません。どうしてかといえば、コンちゃんは、子どもが寝てからでなければ、けして姿を現さないからです。コンちゃんは子どもが寝ると、風に乗ってやってきて、寝ている子どもの枕元に座り、変な呪文を唱えて、おかしな寝言を言わせるのです。あなたは誰かから、「夜中に寝言を言った」なんていわれたことはありませんか? きっとあるでしょう。その寝言は、コンちゃんが言わせているのです。昨日はのり子ちゃんに、

「わあ、豚の大群だ」

 と言わせました。一昨日は正浩くんに、

「ヘンシーン、ゴリラマン」

 と言わせました。毎晩誰かに、変な寝言を言わせては、けらけら笑っているのです。今夜は朝子ちゃんに、

「すごい! 空飛ぶ金魚だ!」

 と言わせようと思ってやってきたのです。でも、考えが変わりました。寝言は、

「自転車が欲しい、自転車、自転車」

 と言わせることに決めました。朝子のそんな寝言を聞いたら、お母さんは「やっぱり買ってあげよう」と思うに違いないからです。コンちゃんはいたずら者だけれど、本当は子どもの味方です。

 コンちゃんは、音もなく窓から忍び込み、朝子の枕元に座りました。そして呪文を唱えはじめました。

「ナム、ナム、モンモン、トンチンカン」

 もう一度、

「ナム、ナム、モンモン、トンチンカン」

 そしてもう一度、

「ナム、ナム、モンモン、トンチンカン」

 コンちゃんは、あまり一生懸命になりすぎて、少し声が大きくなってしまいました。その声を聞いて、朝子が目を覚ましました。コンちゃんはそれに気づかず、まだ呪文を唱えています。

「ナム、ナム、モンモン、トンチンカン」

 朝子はムックリ起き上がって聞きました。

「あなたは、だあれ」

「ぼく、コンちゃん」

 コンちゃんはびっくりして、そう答えてしまいました。答えてから「しまった!」と思って口を押さえました。でも、もう遅いのです。コンちゃんは、生まれて初めて子どもに見られてしまいました。子どもと話してしまいました。そんなことをすると、これから3年間、呪文が効かなくなるのです。でも、もう仕方がありません。姿を見られてしまったし、話をしてしまったのです。コンちゃんは正直に言いました。

「あのね、ぼくはね、子どもに寝言を言わせる、寝言のコンちゃん。今日は朝子ちゃんに寝言を言わせようと思って、風に乗ってやってきたの」

「ふうん、どんな寝言なの?」

「朝子ちゃんは自転車が欲しいでしょう?」

「うん、欲しい!」

「だからそれを寝言にしたかったの。寝言を言えば、お母さんが買ってくれるかもしれないでしょう」

「そう! それなら寝ようっと。寝なくては寝言が言えないもん。枕元で、ナムナムなんて、変なことを言って起こさないでね」

 朝子は大きな欠伸をすると、ぱたんと横になり、すぐに寝息をたてはじめました。

 コンちゃんは困ってしまいました。呪文が3年間も使えなくなってしまったのです。コンちゃんは肩を落とし、朝子のまぶたをそうっとなでてから、風に乗って、煙のように外に出て行きました。

 

 次の日、朝子がお母さんに言いました。

「昨日変な夢を見たの。コンちゃんって言う子どもが出てきてね………」

 朝子は昨日の出来事を、全部夢だと思っているのです。朝子はコンちゃんとのことを、夢の出来事として、全部お母さんに話しました。

 ところで朝子は、寝言を言い損なったから、自転車を買って貰えなかったでしょうか? いえいえ、きっと買って貰ったに違いありません。だって次の日曜日、朝子の方から由美ちゃんに、

「自転車に乗って遊ぼうよ」

 と誘いに行きましたよ。

 さて、コンちゃんの方はどうでしょう。3年間も呪文が使えなくなったでしょうか? いえいえ、朝子が、全部夢だと思ってしまったので、安心して、今夜は健ちゃんの家に忍び込みました。健ちゃんに、

「おまんじゅうのお茶づけが食べたい」

 と言わせるつもりです。

                                            終わり

 

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2007年4月25日 (水)

芝桜

4月15日(ぼんくら日記)

昨日につづき、今日もフリー。

あいにくの雨だったけれど、秩父へ散歩に行く。ひつじ山公園の芝桜をまだ見ていなかったので、ついでに寄ってみようか、などと思った。遅く出かけたので、西武秩父に着いたのは1時頃。取りあえず街の食堂にはいる。

小さな店で、のれんをくぐって入ったが、誰もいない。おやおやと思って店を出ようとすると、奥から慌てたように主人のその奥さんらしいのが出てきた。メニューを見て、ビールと岩魚定食を頼む。奥さんは、ビールを出して奥に引っ込む。店の主は網を持って、裏のドアから出て行った。どうやら裏の生け簀に岩魚を飼っているらしい。おもしろい店だ。

ビールを飲みながら、岩魚を焼く店の主人と話をする。

「ひつじ山公園の芝桜なんて、前はなかったよね。何年くらい前からなの?」

「4年目だね。最初の年はとても綺麗だった。2年目は肥料がたりなくて駄目だった。3年目は水不足であまりよくなかった。今年も駄目だね。だけど今年から入場料を取るようになった」

「へー只じゃないの。日高の巾着田の彼岸花も、最近は入場料を取るけどね」

「日高が取るんだから。こっちも取って良いんじゃないかってことになったんですよ」

こんな話を聞いて、何となくひつじ山公園には行きたくなくなった。今年は駄目だというところに、入場料を払ってというのは、どうもね。

そこで秩父の街を散歩する。とにかくよい季節で、どっちを向いても新緑の美しさが目につく。まわりの山々の新緑に濃淡がある。こんな時は大通りではなく、路地歩きに限る。秩父の街は、どっちを向いても、後ろに山がある。雨もよいだけに、山の中腹に雲がたなびいたり、新緑が本当にみずみずしい。カメラを持ってこなかったのが悔やまれる。

タイトルに「芝桜」と書いたが、「芝桜を見ないの記」だ。それでも満足して帰る。

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2007年4月24日 (火)

糸鋸 その他

4月24日(ぼんくら日記)

いつもそうなのだが、ぼんくら日記を開いてから、さてなにを書こうかと考える。

今日は私のフリーな日である。で、今日したことを考えてみる。

パソコンに書き込んだデータの一部をCDに移そうとしたが、どこかで操作を間違えたらしくて、不成功に終わる。変ないじり方をしたらしい。試行錯誤しながら解決するしかない。やれ、やれ。

地元に地域の人が誰でも、ふらりと寄ることの出来る「たまり場」を作りたくて、すでに近くで立ち上げているTさんに、電話で実状を聞き、こんど見学させてもらうことにした。その件でAさんに電話。Aさんにも一緒に行ってもらうことにする。

俳句の会に年会費を送ってきた同人あり。領収書を送付。機関紙に7句出句。5月定例会に5句投句。

Yの湯へ行く。

精神障害者の作業用に勝った糸鋸が、おそらく電気系統のトラブルで故障。きのうはじめて使ったのだが、薄い板を10センチもひかないうちに、うんともすんとも言わなくなった。買った機械屋に電話する。3時半ごろ製造元の人と共に来るというので、Mにいく。点検の結果、製造元に原因ありということで、修理に持ち帰えってもらう。

1日の主なことはこれで全部書いた。

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2007年4月23日 (月)

4月23日(ぼんくら日記)

驚いたことに、もうきゅうりや茄子の苗が売られている。作業所Mの畑では、ジャガイモが順調に育っている。このところ、急に草が育って、今日草むしり。

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2007年4月22日 (日)

自治会総会

4月22日(ぼんくら日記)

自治会の総会があり、これで正式に役員を交代。

但し、「たまり場」を作りたいため、防犯環境部の副部長という形で残る。そのたまり場の会場にいいというので、自治会副会長のOさん、防犯部長のAさんと、市営マンションの集会所を見に行く。自治会の集会所より綺麗で、なかなかいい。市の方でもなるべく利用してもらいたいのだそうだ。

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句会、その他

4月21日(ぼんくら日記)

近ごろ、今日は何日か思い出せないことが多い。これはボケの症状で、私もボケだしたと言うことなのか。

午後は句会。

夜はマンションの管理組合の18年度役員の慰労会。

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2007年4月20日 (金)

たまり場

4月20日(ぼんくら日記)

多分前に書いていると思うが、私はいま。マンションの役員をやっていて、同時に地区の役員でもある。

実はマンションの役員は、4月15日の日曜日、総会を持って終わった。地区の役員はあさって、22日の総会を持って終わる。

7年前、やはり役員だった頃、この地区に何の用事もない人でも集まれるようなたまり場を作りたいと思って、当時の自治会長に働きかけた。その結果カラオケの会、将棋の会、碁の会が出来た。私の考えていたものとは違ったが、それでもないよりはいいと、将棋の会、碁の会に多少の協力はした。しかしそれらはじり貧で終わった。

今回役員になったので、こんどは老人会に働きかけた。老人会なら暇人も多いだろうと考えたからだ。なるべく自分は動かずに、人の力を借りようと言うずるい考えもあった。ところがいろいろ話し合った結果、その会を立ち上げる前に、私が老人会へ入るようなことになった。そして、自治会の小さな役も引き受ける感じだ。私も相当忙しいけれど、老人会も、動ける人が欲しいようだ。

私はこの地区に「たまり場」を作りたいと思って働きかけたのである。あさっての総会で、老人会の会長などに考えてもらうサンプルとして、おおよそ次のような文章を書いた。

たまり場を作ってみませんか

昔はどこの町内にも、地域の人々が無駄話をして過ごす「たまり場」がありました。

たとえば、縁台将棋というものがありました。誰かが路地裏に縁台をだし、将棋を始めると、どこからともなく人が集まり、他人の将棋に口を挟んだり、無駄話をして時を過ごしたものです。

縁台将棋に限らず、床屋や、気さくな人の家の縁側など、町内の人がなんと言うこともなく集まる場所がありました。

いまはそのような場所がありません。趣味の会や、カルチャースクールなどはありますが、目的もなく集まる場所、ふらりと来て、ふらりと去っていくような場所がないのです。一方では、話し相手もなく、一人で部屋にこもっているような人もいます。中には、一週間誰とも話さなかった、などという話も聞きます。

そこで提案です。この地区に「たまり場」を作りませんか?

毎週○曜日の何時から何時まで、と日時を決め、そこに行けば誰かに会える、という場所を作りましょう。碁や将棋をするも良し、無駄話をするも良し、お茶を飲みながらテレビを見るだけでも良し、というような場所を作ってみませんか?

試みに、○月○日、○○に来ていただけませんか。○時から○時まで、お茶を用意してお待ちします。

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2007年4月19日 (木)

ボランティア懇談会

4月19日(ぼんくら日記)

老人介護施設Kで、スタッフとボランティアの懇談会。われわれのグループからは4人。他の2グループからそれぞれ3人、それにスタッフ側から5人参加。昼食を取りながら懇談。

スタッフはボランティアに、ボランティアはスタッフにそれぞれ遠慮があるが、それでも素直に話し合えたと思う。

長崎市長が暗殺された。

こんな時、いつも思うのは、命のもろさだ。何とも形容のしがたい馬鹿者に銃撃されて、世界のために生き続けて欲しい人が死んでしまう。

これも、いつでも思うことだが、核兵器は人類にとって不要なものだ。ところが国単位では必要なのだという。核を持つことで戦争抑止力になるなんて言う理屈は、何度聞いてもまやかしだと思う。核を持つ国が、持たない国に戦争を仕掛けるというのが本当のところだろう。

いずれ人間は、自分の力で滅びるに違いない。今のところそのきっかけになるのは、核兵器か環境破壊だ。おもしろいことに、というより、危なっかしいことに、核兵器保有論者は環境破壊に鈍感である。

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2007年4月18日 (水)

小旅行

4月17,18日(ぼんくら日記)

車椅子のTさん、Hさんと那珂川町に旅行。旅館、栃木県那須郡那珂川町の那珂川苑。Tさんの運転。宿泊は、車椅子の人など、身体障害者向きにさまざまな施設が考えられている温泉旅館。静かで、美しい景観の中にある快適な旅館で、宿泊費も安い。

Hさん、癌の手術後、初めての旅行。温泉でのんびりし、好きな酒も十分にのみ、満足の様子。抗ガン剤を飲みながらだが、とにかく元気。酒はいけないのかもしれないが、止められてもやめないことを知っているせいか、先生は何にも言わないそうだ。

残念だったのは、近くの馬頭町にある安藤広重美術館が、展示物の組み替えのため、休刊だったこと。

   葉桜や訪ねあてれば休刊日

ひねりも何もない俳句です。雨が降る予報だったのが、今日帰途につくまでは、何とか保った。

帰りは那珂湊の魚市場により、少し買い物をして、鮨を食す。魚は大変安いけれど、売る単位が、独り者には量が多すぎてどうにもならない。

「山笑う」季節で、車窓風景はどこも美しい。

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2007年4月16日 (月)

木の枝木工

4月16日(ぼんくら日記)

障害者の作業所で、1週1度、木工製品作りをしている。材料費をただにしたいので、木の枝などをよく使う。たまに売れるものに、木の枝で作った椅子、あるいはベンチがある。但しこれは人間が座るためのものではなく、植木鉢を置いたり、ぬいぐるみを置いたりするためのものだ。人間が座れないこともないが、木の枝をビスで止めたものなので、本当の椅子ほど丈夫ではない。反面、素朴な風情があって、気に入ってくれる人もいる。

今日はその椅子を作る。ところが、木工のメンバーが誰も来ていない。注文されたものなのでそう長くは待たせられない。やむを得ず一人で作った。私が作業所に行くのは、メンバーさん達が、社会生活になれてもらうのが目的だから、一人で作っても意味がないのだけれど・・・。

木曜日だったか、タルキを担いだ肩が、まだ痛む。

福島から電話。上の孫が今日誕生日。複数の声を同時に救える電話にしたとかで、長女と次女が、同時に話す。テンションが上がっているので、結構うるさい。

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2007年4月15日 (日)

マンションの総会

4月15日(ぼんくら日記)

私の住むマンションは自主管理で、すむ人たちで管理組合を作り、役員が順番にまわってくる。平成18年度は私も役員の一人で、今日の総会までがその任期である。

18年度は配水管の取り替え工事をしなければならず、どのような方法で、工事をするか、工事会社はどこを選ぶか、予算、など、理事長のNさんが立案し、交渉してくれた。そのようなことに詳しく、しかもきわめて誠実な人である。こんな時にNさんが役員だったことは、私たちにとって、幸運だった。

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2007年4月14日 (土)

何もない日

4月14日(ぼんくら日記)

今週と来週は、馬鹿に忙しい。忙しいと言っても、本当は現役時代ほどではない。たいていは半日ですむことで、1日にわたるのは3分の1もない。まして残業などということはない。それでも何かやることのある日が続くと、忙しいなどと思ったりする。

そんな中で、今日は何もすることのない1日。布団を干して、買い物をして、掃除をして、くらいの仕事をする。

何もすることがないから、飲む。朝、昼も飲みたいのだが、心して飲まないようにしている。晩、風呂に入った後は解禁だから飲む。今日はすでに4合くらい。この後、また少し飲む。なんでこんなに酒が強いのだろう。

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2007年4月13日 (金)

正義の戦い

4月13日(ぼんくら日記)

世の中に、正義の戦いほど怪しいものはない。戦争なんて、やっている方はみんな正義の戦争だ。兵隊になったり、殺されたりする方は、たまらない。

ブッシュさんは、正義の戦いのつもりなのだ。アメリカでは、その誤りを認める人の方が多くなったと言うが、日本ではどうなのだろう。小泉さんも安倍さんも、ブッシュが間違っているなんて言いませんね。

ブッシュがイラクに戦争を仕掛けた時、私は句会に「パンドラの箱開けられて藪の中」という句を出したが、ほとんど問題にされなかった。「藪」とは、もちろんブッシュにかけたつもりだ。いまこの句を出したとしたら、少しは問題にしてくれるのだろうか。あのときブッシュはパンドラの箱を開けてしまったのだと思う。

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2007年4月12日 (木)

古いタルキ

4月12日(ぼんくら日記)

午前、ボランティアグループ定例会。

午後。A建設からMで使う木材をもらう。不要の端材や解体した後の木材などが、A建設の事務所の裏に積んである。事務所に断って、そこにあった一度使った後のタルキを6本ばかりもらう。これをMまで担いで行った。ほんの15分くらいの距離なのに、結構疲れた肩も痛い。こんなことくらい、若い時は何とも思わなかったのに、いやですね、70男は。

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2007年4月11日 (水)

落ちこぼれ

4月11日(ぼんくら日記)

行きつけに街の寿司屋が閉店した。小さな店で、人通りの少ないところにあった寿司屋で、だから閉店したと言えばその通りなのだけれど、なんだか淋しい。

何でもかんでも競争社会で、敗れるのは敗れる方が悪いというのが、現代の風潮である。店主に、特に才能はなくて、人がよく、ただまじめに鮨を作り、客に応対していた。そんな店が、また一つ潰れる。

個人も企業も国も、競争社会である。人々は勝ち続けなくてはならない。しかしそれが出来るのは、ごく限られた人である。昨日の勝者は、今日敗者になる。せっせと落ちこぼれを作る社会だ。片手でちょっと福祉の真似事をして、もっと努力しろと言って予算を削る。

一度落ちこぼれた人が、働く意志があり、働く精神力、体力もありながら、なかなか再就職できない。再就職してまじめに働いても、生活保護を受ける人よりも少ない収入しか得られない、こんな社会がまともだと言えるだろうか?

これからも、落ちこぼれは増える。

企業は商品を安く提供しなければならない。安い労働力を求めて、中国に行き、インドに行き、東南アジアに行く。日本でシャベルの土を掬っていた人は、中国やインドで土を掬う人に代えられる。知的仕事をしていた人も、一度落ちこぼれると土を掬うような仕事をしなければならなくなる。しかしその仕事は、日本以外でやる仕事になってしまう。だから仕事が無くなる。仕事があっても、ごく安い給料になる。ワーキングプアーだ。

こんな人々を、落ちこぼれといってすましていていいのか。

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2007年4月10日 (火)

初々しい

4月10日(ぼんくら日記)

昨日、今日、小学校や幼稚園の入学式があった。おめかしをした夫婦が子どもの手を引いていく姿が、ほほえましい。若い人と話していたら、その子どもたちを、初々しいと言った。私の目から見ると、子どもを連れている親の方も初々しい。つまり、私はそれだけ歳をとっていると言うことだ。

さくらは葉桜になったが、山吹やツツジも咲き出した。菜の花、たんぽぽ、すみれ、ダイコンの花、チューリップなど、木も草も賑やかに花をつけている。若葉が美しい。1年のうちでも、もっとも美しい季節だ。植物も初々しいのである。

外を歩くと、大気の中に体が溶け出していくような、ぽかぽか陽気。気の早い家では、もう鯉のぼりを泳がせている。

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2007年4月 9日 (月)

いつもの通り

4月9日(ぼんくら日記)

何事もなく平凡無い日。

精障者作業所Mへ行く。畑のジャガイモは、全部の種芋から芽が出ている。ひとまず安心。木の枝で作る椅子の注文を受けたので、その木の枝を集めに行く。この辺りはまだ、植木として売るための木を保存する畑などがある。欅畑の木の枝を落とした畑に行って、枝拾い。

そうだ。そのうちに、木の枝で作る時計、植木鉢入れ、椅子、などをブログに載せよう。作り方と共に。

ボランティアグループの昨年度の活動記録をまとめるため、資料をそろえる。社協に提出用の書類を作るため。

友愛訪問、Tさん。

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2007年4月 8日 (日)

本仁田山

4月8日(ぼんくら日記)

山の会山行。本仁田山。

コース

鳩ノ巣駅~大根の山の神~こぶたか山~本仁田山~奥多摩駅。

参加者16名。薄日が射す時もあったが、全体として曇り。本仁田山での昼食時は寒くて、カッパを着た人もいる。上り下りとも急登。山頂付近、雪が少し残る。わりに特徴のない山である。

7児15分発の電車に乗り、帰りは17時頃狭山市着。駅前中華料理屋で飲食。7人。

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2007年4月 7日 (土)

不在者投票

4月7日(ぼんくら日記)

市役所で明日の選挙の不在者投票をする。

車椅子関連の会の総会。

マンションの管理組合の会議。

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2007年4月 6日 (金)

メガホンと荷札、他

4月6日(ぼんくら日記)

戦争の記憶 3   (昨日の続きです)

メガホンと荷札

 妙なものを並べるが、実は私の父は、昭和19年、20年頃、メガホンと荷札を売っていた。これが信じられないほどよく売れたのである。

 メガホンは、警防団の人が「警戒警報発令!」とか、「空襲警報発令!」などと町内に触れ歩くために、どうしても必要であった。配給その他のお知らせにも、メガホンが使われた。「○○さん、明かりが漏れてますよ!」などというのも、メガホンの仕事である。

 メガホンは、初めのうちは柿渋を塗った丈夫な紙で作られていた。しかし、まもなく、ただのボール紙に変わった。紙に柿渋を塗る余裕もなくなったのだろう。衣類でも、人絹などと呼ばれる、洗濯するとずるずるに伸びてしまうようなものが使われるような時代である。メガホンも、その例に漏れなかった。

 荷札は、疎開する人の荷物を送るために必要だった。疎開する人は多く、少ない輸送機関に大量の荷物が集まるものだから、どうしても乱暴に取り扱われた。人々は紙やらぼろ布やらで包まれた荷物を、木の枠を作って保護した。板など満足なものはないので、古いリンゴ箱などを毀して作ったものなどが多かった。

 その頃の荷札はベニヤ板で出来ていて、梱包の板に貼り付けて、4隅に釘を打って止めなければならなかった。そうしなければ、荷札がどこかに行ってしまうのだ。初めは荷札だけを売っていたのだが、買う人の要望で、4本の釘とセットで売るようになった。釘さえ、手に入れることが難しい時代になっていた。父の扱った釘は細くて、あらかじめ錐で穴を開けてから打たなければ、曲がってしまうようなものだった。そんな釘しか手に入らなかったのである。

給食とすいとん

 学校給食は、戦後の食糧難の時代、子どもの健康を守るために始まったとされる。しかし、一部の学校だけかもしれないが、給食をしているところもあった。

 私が入学した小学校では、給食があった。私たちは、空の弁当箱とおかずを持って行き、昼になると小使いさんが焚いた大きな釜のご飯を、その弁当箱に入れてもらった。その後一時期、私は足立区の学校にも通った。そこでも給食はあった。但し、こんどはパンである。昼になると、コッペパン1個が配られた。もう、おかずを持っていく子供はなくて、ジャムもバターも付けないコッペパンを、水を飲みながら食べた。やがて、土曜日は玄米パンになり、すぐに水曜日も玄米パンになった。そして、給食が無くなった。

 人々は、朝も昼も晩も、雑炊を食べた。雑炊も配給で、時間になると、決められた米屋か食堂の前に並び、持って行った鍋に雑炊を入れてもらうのである。雑炊は、どろどろした液の中に、菜っ葉やら大根の尻尾やらが泳いでいて、その間に少しだけ米が入っていた。子供心にも、不味いと思った。

 敗戦の記憶を忘れないために、すいとんを食べるという人がいるそうだ。本当はすいとんは、戦後の食料の中では、かなりおいしい部類である。

防毒マスク

 市ヶ谷では、防毒マスクの配給があった。おそらく、ごく限られた地域だけの配給であろう。4人家族の我が家に、配られたのは1つだけである。配給は、成人男子のみ、ということであった。女子どもは戦力にならないから、生き延びる必要はないという思想であろう。

                                               おわり

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2007年4月 5日 (木)

防空壕、強制疎開など

4月5日(ぼんくら日記)

戦争の記憶 2 (昨日の続き)

防空壕について

 戦災を避けるため、防空壕を掘った。はじめ我が家では、父が自宅の縁の下の掘った。それを見たお巡りさんが「いいところに掘りましたなあ」と声をかけた。ところが、縁の下では、縁の下では、防空壕の意味をなさないことがすぐにわかった。空襲では家が焼かれるのである。燃え上がる家の下に潜り込んだら、焼け死ぬしかないではないか。

 その頃、我が家は市ヶ谷にあった。東京の真ん中である。防空壕など掘るところがない。近所の人は、歩道の敷石を剥がして、そこに防空壕を掘った。実際その頃は、歩道に作られた防空壕をよく見かけたものだ。

 長野県松代に地下壕が作られたことはよく知られている。松代ほどではないにしても、日本各地に地下壕が掘られたようだ。予科練として入隊し、山形県の天童に配置された知人は、そこに大きな地下壕を掘ったと話していた。同じように、予科練として神奈川県の平塚に配置された人も、やはり地下壕を掘らされたという。予科練に地下壕を掘らせたのは、本土決戦に供えるためだったのか、それとも、そんなことしかやらせることがなかったのか。

強制疎開

 戦災を逃れるための疎開については、よく話される。特に学童疎開については、よく知られている。しかし強制疎開の話はあまり聞かない。学童疎開に比べると、狭い地域で行われただけなので、経験者が少ないせいもあるだろう。

 我が家の近くには、陸軍の練兵場があった。その練兵場のまわりが強制疎開になった。江戸時代の火消しは、消火もさることながら、延焼を防ぐため、まわりの家を壊すことも仕事だったらしい。それと同じようなもので、練兵場を守るためだったのだろう。強制疎開は、我が家と狭い道を挟んだ、向かいの家までが範囲だった。

 その地域が強制疎開と指定されれば、行き先があろうが無かろうが、、一定に期日までには引っ越さなければならない。期日近くになっても日越せないでいる人には、「非国民」などという言葉が投げかけられた。当時の日本では、これはもっとも強い非難の言葉で、「国を挙げて戦争をしているのに、それに協力しない唾棄すべき人」と言うくらいの意味があった。

 引っ越して空き家は、みんなで屋根を剥がし、壁を毀し、最後は梁にロープをかけて引き倒すのだ。戦時中のことだから、機械も動力もありはしない。すべて人海戦術である。

灯火管制

 米軍の飛行機が、日本上空に近づくと、警戒警報が発令され、上空に来ると空襲警報が発令された。この警報は、いつも遅れ気味だった。警戒警報や空襲警報が発令されると、家の中では電球のまわりを黒い布で覆い、明かりが外に漏れないようにした。少しでも外に明かりが漏れていようものなら、警防団の人に、「○○さん、明かりが漏れてますよ!」などと注意されたものだ。

 その頃はどの家も木造で、耐火構造にはなっていなかった。そのため米軍の空襲では、焼夷弾を多用した。焼夷弾によって家々を焼き払う方が、爆弾よりも効果的だったからである。

 当時のペンキなど塗っていない木造の古い家は、外回りの板が黒ずんでくる。外灯はなし、灯火管制で明かりも漏れないという状況では、家のありかも判然としない。そこで初めのうちは、家の壁の胸の高さくらいのところに、名刺大の白い紙を点々と張った。しかしその紙が攻撃目標になるということで、こんどはそれを黒く塗りつぶした。白壁なども、黒く塗ったりした。

長くなったので、また明日に続きます。

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2007年4月 4日 (水)

戦争の記憶 1

4月4日(ぼんくら日記)

雨で寒い1日。都心ではみぞれが降ったとか。

たまには、まじめに書きます。先の戦争についてです。

 戦争を語り継ぐと言うことは出来るのだろうか。日本が戦争に負けた時、ほとんどの日本人には、厭戦気分があった。気分とは曖昧な言葉だが、、その頃の気持ちを現す他の言葉を思いつかない。敗戦から60年以上たった今、その気分は受け継がれているだろうか。この頃の政治家の言動を見ると、どうも、その気分は受け継がれていないように思う。

 従軍慰安婦の問題や、沖縄県民の集団自決の問題など、言い出したらきりがない。

 たとえ自分に都合の悪いことでも、事実は事実として認めなくてはならない。自分に都合のいい理屈に飛びついて、他の意見を無視するのは、あまり品性の良いものではない。見たくないことは見ず、言いたいことだけは言う。知りたくないことは知ろうとしない、そんな風潮があるような気がしてならない。人間は、自分の欲する結論に達するように考える。私にもその傾向はあるだろう。心しなければならない。

 戦時中の身のまわりを、子どもの目から見ると、大人たちは、日本が戦争に勝つと信じていたように思える。子どもの私は、もちろん日本が戦争に勝つと信じていた。しかし戦後10年、20年と立つ頃になって、大人たちは「勝などと思っていなかった」などというようになった。本当だろうか? 負けると思っていた人も、確かにいるだろう。しかしそれはごく少数だったはずだ。

 多くのインテリたちも戦争に積極的に協力した。今の若い人に話すと、インテリだから結果はわかっていたはずで、保身のためだったのだろうという。中には保身のための人もいただろう。だが、その多くは、本気で戦争に協力していたように思う。一つの方向に向かってみんなが動き出す熱狂の中にある時、自分だけ冷静でいるというのは、かなり難しいことなのだ。雰囲気に押されて、いつの間にかその流れに沿った考え方をするようになるものだ。みんなが同じ方向を向いて、正義だの何だのと言い出したら危ない。

 戦後しばらくの間、まわりの大人たちは、「日本は物量で負けたが、精神的には勝っていた」と言っていたものだ。これは、社会心理学者の南博も、その著書『日本人の心理』で取り上げている。日本人には必勝の信念があった。その信念の強さで、日本人は精神的には勝っていた、というのである。物量に圧倒的な差があるのに、精神力で戦争に勝てるという考え自体が、すでに冷静さを欠いている。合理的な判断が出来ないで、なんで精神的に勝っていたなどと言えるのだろうか。

 われわれの考えは揺れ動く。確乎不変なものなどはない。それでも、敗戦の時、われわれが共通して感じた「戦争は嫌だ」という気持ちだけは持ち続けたい。戦争は、絶対悪だと思っている。正義のための戦争などはない。

 疎開して、そのまま居ついて卒業した小学校から、創立何十周年だかの冊子が送られてきたのはいつだったか、もうかなり前のことになる。その冊子には、創立以来の、年度ごとの出来事が書き込まれていた。しかし私が在籍した数年間に関しては「記録無し」の1行が書かれているだけであった。敗戦前後のどさくさの中で、学校は何の記録も残せなかったらしいのだ。

 公式の記録を残せなかったのは、学校だけではないだろう。先の戦争を知る最後の世代として、個人的な記憶を書き残しておくべきかもしれない。

 戦争の記憶は、子どもながらに強烈である。その記憶を雑談などではよく話すのだが、書くとなると、ある種のとまどいを感じる。戦争の本当の悲惨さを知っているのは、私などより上の世代の、兵隊などに行った人々である。同じ世代でも、運の悪い人は、空襲で焼かれたり、浮浪児になって餓死したりしている。のうのうと生き延びている私は、戦争の本当の悲惨さを語ることは出来ない。ただ、戦争の周辺のことを、いくらかは知っている。「記録無し」なのだから、書かなければ伝わらない。その幾つかを、明日書いてみようかと思う。

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2007年4月 3日 (火)

気候が荒い

4月3日(ぼんくら日記)

一昨日は静岡で30℃を超える真夏日、今日は河口湖で雪。このところ、気候の変動が荒い。柔らかさがない。

『雷鼓』の原稿、戦争周辺の記憶を書き始める。

特養Sの花見につきあうはずだったが、冷たい雨で中止。

稲荷山公園のさくらの下を通ったが、雨の中で、今日が本当の満開という感じだった。

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2007年4月 2日 (月)

墓参

4月2日(ぼんくら日記)

昨日が妻の命日で、1日遅れの墓参。妻の墓は高尾にあるので、電車やバスを乗り継いで、小1日かかる。例年通り、一人での墓参である。

葬式も墓も、死者のためのものではなく、生きている人のためにあると思っている。無神論者の私は、死んでしまえば、墓も葬式もどうでもいいのだ。要は生きているものの心の整理なのだ。だから、遺影に毎朝線香をあげることも、墓参も、死者にとってはどうでもいいのである。時代によって、民族によって、死者の弔い方は違うが、みな、生きているものの心の整理のための儀式だと思う。私は今の日本のやり方に従って、取りあえず形通りに行う。妻のためではない、私のために、である。

俳句の方では、墓参というのは秋の季語だそうだ。へえー、そうですか。春だって行くのにね。いや、1年中墓参はあるのに、無理やり秋と言うことにしているのですね。たとえば「花曇り墓参の○○××だ」なんて句を作ると、季重なりだ、なんて言われるんだろうな。

春の墓参の帰りには、いつもそうなのだが、高尾駅近くのさくらの観察園にいく。この観察園、丘陵の斜面や尾根を散策しながら、日本各地から取り寄せて育てたさくらを、自然の中で見られるのがよい。ソメイヨシノの圧倒的な花もよいが、この園で今咲いている大島桜も、若葉の中にぽつぽつと咲く白い花も、風情があってよい。

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2007年4月 1日 (日)

稲荷山公園

4月1日(ぼんくら日記)

我が家の辺り、今日はまさにさくらの満開である。

長女一家と稲荷山公園のさくら見物。

稲荷山は、狭山市随一のさくらの名所。樹齢70年くらいというソメイヨシノが、広い園内に咲き競っている。近ごろは他市から見に来る人も多い。県内では長瀞のさくらが有名だが、決して長瀞におとらないだろう。天気はいいし、狭山市駅の地下で花見弁当とビールを買っていく。

稲荷山公園というのは、じつはややっこしいいわれがある。現在多くの人が稲荷山公園といっているのは、実は、かってのハイドパークである。ハイドパークとは、戦後米軍が入間基地を使っていた時、米兵の宿舎のあったところだ。そのハイドパークと隣接するようにして、本来の稲荷山公園があった。今でもこの公園はあり、入り口には、稲荷山公園と彫られた石碑がある。しかし米軍が去り、ハイドパークが市に返されてから、ハイドパークを、稲荷山公園と呼ぶようになった。昔から狭山市に住んでいた人はともかく、私たちのように余所から来た人間は、ハイドパークを稲荷山公園と思ってしまったのである。それでも、市の公園管理課などに訪ねると、稲荷山公園とハイドパークは別の公園だと答えていた。ところが、そう言う市の発行する狭山市の地図でも、ハイドパークを稲荷山公園と表記していたのだから、ややっこしい。現在は、市から県に管理が移って、県立の狭山稲荷山公園である。

昔の稲荷山公園は、今も稲荷山公園で、さくらと、かたくりと、ツツジの名所である。稲荷山公園のかたくり、などと紹介されたりするが、ハイドパークの方の稲荷山公園で探しても、見つけることは出来ない。昔からの稲荷山公園は小さくて、そんなところに公園があるとは知らない人も多い。

長女もかっては狭山市の人だったわけだが、今日私が連れて行くまでは、昔からの稲荷山公園は知らなかったようだ。現在の稲荷山公園で花見の後、昔からの稲荷山公園を案内する。そして稲荷山公園駅でみんなを見送る。

実は今日、妻の命日なのである。長女一家は帰らなければならなかったので、墓参りをしていない。妻の葬儀の日も、さくらが満開だった。

   願わずに花の下にて妻は逝き

帰宅して、地元のの集会所へ。OさんAさんに会う。環境防犯部の副部長というのを引き受けることになる。

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抜歯

3月31日(ぼんくら日記)

パソコンの前に座って、さて今日は何を書こうかと考える日は多い。時には、書きたいことがいくつかあって、そのうちどれにしようかと迷う日もある。今日は後者の方だ。

今月だったろうか、私の歯並びの良さと、本当は前歯だけよくて、奥歯はぼろぼろという話をブログに載せた。そのとき、入れ歯が落ちてかかりつけの歯科医に通い出したことを書いたと思う。

それをきっかけにして歯の定期点検と歯肉の手入れを受けていたのだが、その手入れが終わらないうちに、別の入れ歯が落ちた。

昼食にA鮨に行き、定食を食べていた。A鮨は4月一杯で廃業するという。そこことに関連しても、書きたいことがあったが、後の機会と言うことにする。職人の技術だけではやっていけない時代になったということ。その鮨を食べている時に、左下の奥の入れ歯が落ちたのである。もう10年くらいも前になるが、左下の、奥から2番目の歯が抜けていて、それを1番奥の歯と前の歯のブリッジの入れ歯にしていた。それが落ちたのである。ブリッジの土台にしていた1番奥の歯がぐらぐらしてきて、入れ歯を支えられなくなっていたためである。で、予約日ではないが歯科医へ行き、奥歯を抜いたという次第。

今夜は、歯を磨くな、風呂に入るな、酒を飲むなの注意を受けたが、最後の酒だけは守る気がなくて、いつもと同じくらい飲む。

ハイコーポ管理組合の総会に向け、その準備の理事会。理事長のNさんの郷里が能登で、いずれ郷里に帰るらしいが、例の地震があり、今、郷里に帰っている。4月15日が総会なので、その資料作りに・会計の人などは、苦労している。これに関連することも、書きたかった一つ。

長女一家来る。下の孫がこの4月から小学生になる。

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