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2007年2月28日 (水)

高山不動の3滝めぐり

2月28日(ぼんくら日記)

Sさん、HさんAさん達と山歩き。例によって、ハイキングとしては一般的ではないコースを、選んで歩く。

西武線西吾野駅で下車。

まず、高山不動のふもとの大滝に向かう。車道歩きが長いのが癪の種だが、大滝への登り口からは、やや荒れた登山道になる。コース案内ではないのでどこをどう通って、左折だ、右折だ、とういことは書かない。大滝は、今日めぐった三つの滝の中ではもっとも水量があり、規模も大きい。下から見上げたところでは、滝は2段になっているようだ。ただし、先週見た宿谷の滝に比べると、いくらか迫力に欠けるように思う。

大滝から白滝に向かう。この辺りまで来ると道の荒が多くなり、谷側は崩れて、道が半分くらいになっていたりする。それでも注意して歩けば、滑り落ちることもないだろう。漫然と歩いては危ない。白滝は、岩の上を水が滑るように落ちてくる滝。

白滝から不動滝への道は、夏ならば藪の道になる。かなり歩きにくかったが、特別危険というわけでもない。やや標高を上げて不動滝に着く。岩の様子など、いかにも大層な滝がありそうだが、実際はシャワーのような滝である。解説板によれば、昔から水量は少なかったという。修験者はここで滝に打たれたそうだが、夏などは、修行というより、かえって気持ちがよかっただろう。

ここで昼食。

Sさんが不動滝の上の昔の作業小屋を見つけて来る。で、不動滝上に出る。ここから頂上の尾根道まで、標高差は約100メートルくらいか、藪こぎをする。私など、一人ならば絶対に通らないだろう。他の季節ならば、なたを持って切り開きながら進まなければならないところだ。途中、おそらくは植林した時のものと思われる作業小屋が幾つか、屋根も半分くらいは剥がれ、柱もよれよれになって立っていた。

尾根道にでてからは、一般のハイキングの道。関八州見晴台~高山不動~八徳を経て吾野駅につく。

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2007年2月27日 (火)

人だらけのオルセー美術館展

2月27日(ぼんくら日記)

水彩画の仲間9人で、オルセー美術館展に行った。

いやあ、混んでましたねえ。入場券を買ってから改札にはいるまで、40分も並んだ。もし一人で来たのなら、この人混みを見ただけで入場を諦める。

10列ぐらいに並んで20メートルくらい先の改札に向けて、ときどき前へ進むという状態。人の頭ばかり見ていた。そんなときには変なことを考えるもので、果たして禿が何人くらいいるかなどと見まわしたりする。私の見えるところからだと、つるつるの禿は3人、私のようなてっぺん禿げや髪の毛の薄いものは、うーん・・・大勢いた。

私の身長は約170センチ。「約」と付けるのは、私はもとは171.5センチあったからである。歳をとって2センチくらい縮み、今は170センチを切る。それで「約」を付けた。170センチというのは、私の歳にしたら大きい方だ。今日並んでいるまわりには若い人が少なかったせいもあって、私は人々の頭を見ていられた。これが150センチの人だったら、人の背中しか見られないことになる。背の低い人がこんなところに並ぶのは、もっと辛いに違いない、などと考えた。

そんな馬鹿なことを考えながら、とにもかくにも入場し、人の頭越しに名画を見る。もともと、美術館などは流してみる方だが、こんなに混んでいては、とてもじっくり見る気分にはなれない。入場できた時には、人いきれですでに疲れているのである。

複製などでおなじみの絵や、はじめて知る絵、なんでこれが名画なのか分からない絵、等々、適当に見て外に出る。ゴッホの寝室の絵は、複製でなどで見ていたが、ベッドの脇の壁に自画像の額がかけられていることに、今日始めて気がついた。そんなつまらない発見くらいで、あらためて感激するということもなかった。

私と同じようにさっさと出てきた仲間が4人。残りの5人を待って、缶コーヒーを飲んだり、おしゃべりしたりで時を過ごす。残りの人たちが出てくるまで4-50分かかった。

狭山市まで帰って、喫茶店でティーブレーク。これが楽しかった。Nさんは地元の生え抜きで、話術も巧み、市内のあれこれをいろいろ話してくれた。詳細は書かない。

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2007年2月26日 (月)

寝相

2月26日(ぼんくら日記)

私のブログのタイトルはほとんど「ぼんくら日記」だけでいいのだけれど、うっかりすると、同じことを2度も3度も書いてしまいそうで、それを避けるために、個別にタイトルを付けるようになった。

今日のタイトルは「寝相」で、昨日の続きのようなもの。昨日の続きだから、まず、夢について書く。

独身時代・・今も独身だけれども、妻と死別したためで、これは結婚前の話。小さな会社の寮に住んでいた頃。ある夜、泥棒を追いかける夢を見た。われわれの寮に泥棒が入って、それを見つけて、みんなで泥棒を追いつめていった。その泥棒が、待ちかまえている私の方に向かってきた。私は頃合をはかって、ゲンコツで、泥棒に思いっきり殴りかかった。そして、あまりの拳の痛さに目がさめた。私は、ベッドの横の壁を叩いてしまったのである。手が痛いの何のって、夢を見ながら、現実の壁を思いっきり叩いた人でなければ分からない痛さだ(つまり、誰にも分からない)。指が骨折しなかったのは幸運というべきである。

私がベッドで寝たのは、ホテルなどに泊まった例外を除いて、この寮にいた頃だけである。同僚の中には、寝ぼけてベッドから落ちるような人もいた。私は落ちるようなことはなかったが、掛け布団は蹴飛ばして、よく落とした。寝相が良かったのか悪かったのか、よく分からない。

長女がまだ2-3歳の頃、私のそばに来て大の字になって横たわり、「ゴー、ガー」といった。妻によれば、私のいびきの真似だという。どうやら私はいびきを掻くらしい。夜中に目がさめると、のどがからからに渇いていることがある。口を開けて寝ているのだ。目覚めた時、何となく、今いびきを掻いていた、と気づくこともあった。

その後は、旅行などの時、相部屋の友人知人に、いびきを掻くかもしれないとあらかじめ断りを入れたりしている。次の朝聞いててみると、いつも「たいしたことはなかった」というような答えが返ってくる。しかし、去年山小屋に泊まったら、同室の友人が、私のいびきが気になり、頭を反対側に向けて寝たという。その友人は「いびきというより、寝息という程度だ」といってくれた。心優しいのである。

誰かと同室で寝る時は、横向きに寝ることにしている。仰向けはいびきを掻きやすいと聞いているからだ。

若い頃は、横向きでなければ寝られなかった。本当か嘘かは知らないが、横向きで背中を丸め、足や手を曲げて寝るのは、甘えん坊の証拠だという。私はそのスタイルだった。しかし今は、仰向けで手足を伸ばして寝ることが多い。仮に横向きで寝たとしても、目がさめた時には、たいがい仰向けになっている。横向きに寝る場合でも、手足を昔のように縮めたりしない。

これはなぜだろうか。飛ぶ夢、落ちる夢は若い時、降りる夢は歳をとってから、というような対応が、寝相についてもあるのだろうか。若い時から仰向けに寝る人もいるのだから、誰にでも当てはまるというものではないようだ。

ならば、若い時は甘えん坊だったが、今は甘えん坊ではなくなった、ということなのか。どうも、そうではないような気がする。私自身は、筋力の衰えが原因だと思うのである。

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2007年2月25日 (日)

飛ぶ夢、落ちる夢

2月25日(ぼんくら日記)

若い頃は飛ぶ夢をよく見た。地面すれすれを飛ぶ時もあれば、屋根の上を飛ぶこともあった。いつぞやは、街のアーケードの屋根を突き破って上がったこともあった。しかし、鳥や飛行機のように上空を飛ぶことはなかったと思う。目覚めても、一種の浮遊感はあった。

登る夢もよく見た。登るのは、どこまでも続く階段だったり、崖だったり、木だったり、ジャングルジムだったりした。そのどれもが、簡単には登り切れないのだった。時には、上の方に友達がいることもあった。その友達に対して、劣等感があったのかもしれない。いつでも、その友達のところまで登ることはできないのである。

そのほかに、落ちる夢もよく見た。どういうわけか、下まで落ちきることはなくて、途中で目がさめるのである。どんなところから落ちたか、憶えている夢は一つもない。

だいたい、夢というのは忘れやすい。目覚めた時、夢を見たという記憶だけあって、その中身を思い出せないことも多い。まだ半睡状態のときに、夢を思い出して、記憶しようと努めると、割合よく憶えていられる。ただ、思い出した夢と、実際に見た夢とは、多分、少し違っているだろう。覚めている時の意識は、夢のつじつまを合わせようとしてしまうからだ。

歳をとってからは、飛ぶ夢も、登る夢も、落ちる夢も、全く見なくなった。

代わりに見るのは、降りる夢である。これがまた登る夢と同じで、容易に降りられないのだ。降りる場所は、登る夢と同じで、崖あり、木あり、梯子ありで、変化に富んでいる。ただ、降りにくい、降りきれないという共通点がある。

たとえば、ビルなどの中であれば、まずたいていは、降りるための階段探しをしなくてはならない。1フロアー降りると、次のフロアーへの階段が無くなっていたりする。あるいは、塀づたいに横になって進まなければならなかったり、手すりにぶら下がりながら次の足場を捜さなければならなかったりする。とにかく、むやみやたらに降りにくいのである。しかし、若い時と違って、なぜか落ちない。困惑しているうちに目がさめる。

若い時は登る夢や飛ぶ夢、歳をとったら降りる夢というのは、体力や気力に関係があるのだろうか。このような夢を見るのは、誰でも同じなのだろうか。私自身、何歳ごろまで登る夢や飛ぶ夢を見ていたのか、いつ頃から降りる夢を見るようになったのか、はっきりしない。

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2007年2月24日 (土)

お辞儀と恥の文化

2月24日(ぼんくら日記)

「恥の文化」と来れば、誰でもルース、ベネディクトの『菊と刀』を思い浮かべるだろう。

日本では、企業の不祥事などがあると、お偉いさんが何人も雁首をそろえて、一斉に深々とお辞儀をする。それを見守る被害者の中には、「土下座をしろ」などと叫ぶものもいる。企業のお偉いさんがお辞儀をしても、土下座をしても、被害者にとっては何の助けにもならないのだけれども、胸につかえた溜飲が、少しは下がるのかもしれない。

何かの不祥事を起こした企業が、被害者にわびることは、もちろん必要である。頭も下げなければならないだろう。しかし、それでことが済むわけではない。不幸にして、あるいは起こるべくして、不祥事は起きてしまったのである。企業は、その原因を解明し、再発を防ぐ手だてを講じ、被害者がいるのであればその償いをしなければならない。

被害者は、感情も高ぶり、治まりきらぬ怒りを表す言葉もなく、「手をついて謝れ」だとか「土下座しろ」などと言うのであろう。

ルース、ベネディクトが日本を「恥の文化」と捉えたことは、多分正しかったのだろう。誰に対しても恥ずかしくない生き方をすることは、日本人に求められるものだったと思う。「恥知らず」というのは、最大の侮蔑の言葉であった。

しかし、その恥の文化は、今は崩れている。恥を恥と感じなくなっている。金さえ儲かるならば、恥も外聞もあるものか、といった生活をする人もいる。

大勢の前で謝罪しなければならないことは、江戸時代ならば切腹したくなるほどの恥辱だったはずだ。借金をして、返せなければ満座の中で笑いものにされてもいい、と契約書を書くのが江戸時代ならば、笑われるくらいで借金を返さなくてもいいのなら、いくらでも笑われようというのが現代である。恥は、恥ではなくなったのである。

土下座をさせるというのは、恥の文化が生きていてこそ意味がある。今は、恥ずかしいことを、恥ずかし気も無くやる時代になってしまった。

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2007年2月23日 (金)

ぼんくら日記

2月23日

 ここのところ、天気が安定しない。まるで日替わりメニューのようだ。今日は雨。

 よくあることだが、今日もブログを開いてから、書くことを考えている。天気を書いているうちに何か浮かぶかと思ったが駄目だ。3時頃、ふと「死」について書いてみたいと思った。しかし、パソコンの前に座った時には、その話題が嫌になっていた。それで、書くことが無くなった。

 楽屋落ちだが、ブログを毎日更新するようになって、俳句のできる数が減った。どうやら、頭が、まずブログの方に向いているらしい。特に意識しているわけではないのだけれど・・・

 それでも今日は、私の属している俳句の会に、5句投句した。恥ずかしながら、そのうちの1句。

    冬鴉鳴く物言えぬ哀しさに     ぼんくらカエル

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2007年2月22日 (木)

障害者の作業所

2月22日(ぼんくら日記)

 近ごろ、どことかの障害者の施設で、最低賃金にほど遠い額の給料しか払わずに、障害者に仕事をさせていたとして問題になっている。問題の施設の場合は、障害者を食い物にしていたとの疑いをもたれているのだろう。

 しかし多くの障害者作業所では、障害者を食い物にする意志はなくても、決められた最低賃金を払えないでいるのが実状である。最低賃金を払わないですむ作業所にはいくつかの条件があって、たとえば、作業時間や日時の拘束をしてはいけない、と言うようなこともその一つだ。

 私は精神障害者の作業所に、ボランティアとして係わっている。スタッフではないので、詳しい事情は分からないが、障害者に給料を払うのは、なかなかたいへんなことなのだ。

 障害者は、大きく分けると3つある。身体障害者、知的障害者、精神障害者である。あるいは、このように呼んだり、分類したりすることはいけないことになっているのかもしれない。どこかの誰かから、知的障害と言ってはいけないと聞いたような気がする。言葉など少し言い換えたところで、中身が変わらなければ同じことだと考えているせいか、代わりの言葉は聞いたかもしれないが、忘れた。

 とにかくその中の、精神障害者の作業施設に係わっている。その作業所はシフト制で、メンバーの出勤日は決まっている。実は、精神障害者の特徴の一つは、がんばれないことで、決まって日、決まった時間に来なければいけないというのは、もっとも苦手とするところだ。だから、シフトとは言っても、その日になるべく来る、その時間になるべく来ると言うことであって、強制ではない。実際、来る人、来ない人、いろいろである。そして出勤してくれば、軽作業をするわけだが、作業中であっても、気分や体調が悪ければ、裏に用意されているベッドで休む。あるいは本人の気持ち次第で帰宅する。そのような人たちにやってもらう仕事と言ったら、どうしても内職のようなものになる。内職というのは健常者でも、最低賃金にほど遠い収入しか得られないものだ。スタッフやボランティアが頑張るしかない、それがおおよその障害者作業所の実状である。

 作業所にも、自助努力がもとめられる。もっともである。何かもう少し効率のよい仕事を与えたい、と、多くの良心的な作業所では考えている。それができないのは、スタッフやボランティアにに能力がないからだと言われれば、反論もできない。障害者の作業所で比較的うまく行っているのは、食べ物作りだ。パンを作る、ケーキを作る、弁当を作る、食堂をやるなどである。この場合でも、安い給料で働くスタッフ、無料で協力するボランティアが必要である。それでなお、障害者に最低賃金を払えないことが多いということを知って欲しい。

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2007年2月21日 (水)

日和田山、鎌北湖

2月21日(ぼんくら日記)

 Hさん、Aさん達と山歩き。ごく近くの低山歩き。

 高麗駅~日和田山~物見山~宿谷の滝~鎌北湖~北向き地蔵~ユガテ~東吾野駅。

 足慣らしだが、変化を持たせるため、なるべくこれまで通らなかったコースを選んで歩く。

 日和田山から物見山の途中で、古滝へ寄り道する。荒れた道をわざわざ行ってみると、それらしい場所の岩が濡れているだけで、標識に「幻の滝」と書いてある。雨の時だけ現れるのだそうだ。

 物見山から宿谷の滝は、コースガイドの地図では、実線ではなく点線になっている。難コース、または道がはっきりしないと言うことだ。道は荒れてはいたが、それほどの難コースとは思わなかった。宿谷の滝は、なかなか勢いのある滝だが、受ける印象が、長い樋を降りてくるような滝であった。われわれが宿谷の滝を離れようとした時、白装束の修験道と思われる7人ずれが、この滝にやってきた。

 鎌北湖から、再び登り返す。普通はここから毛呂駅などへ行くのだが、バスに便が悪いところだし、われわれは西武線の方がよいので、もう一度山越えをする。ユガテは山の中腹に開けた土地で、農家が2軒ある。ユガテで、先頭を歩いていたAさんが「あ、イノシシ」という。イノシシが横切ったらしいのだ。しかし2番目を歩いていたHさんや、3番目の私は、見ることができなかった。

 ユガテ付近の山は、蕨に似たシダ植物の勢いがよくて、4~50センチになっているものも多かった。

 穏やかな天気で、のんびりと気張ることもなく歩けたのはよかった。低山ながら、歩行距離はかなりあったと思う。

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2007年2月20日 (火)

ドジ

2月20日(ぼんくら日記)

 一日中、雨が降っているような、降っていないような天気。駅ビルの本屋に出かけたが、傘を持つか持つまいか迷った揚げ句、大きめの帽子を被っていくことにした。

 帽子と言えば、今年はもう帽子を2つ無くしている。子どもの頃から何事によらず忘れっぽくて、帽子や傘は、その代表的なものだ。帽子も傘も、こちらにそのつもりが無くても、1-2年のうちには新しいものに代わる。

 忘れ物ばかりではなく、これまで、さまざまなドジをやってきた。現役の頃は、木材を貼り合わせ、きっちりと付くように締め付けて、次の日圧締を解いてみると、接着剤を塗り忘れていることに気づいたりした。先日はドジな火傷をし、まだ右手薬指と左手中指の包帯がとれない。

 母は、私を医者にするつもりだったらしい。母の家系は医者が多かったのである。しかし、母は私が8歳の時に死んでしまい、その後戦争は負け、なんやかやあって、私の学歴は義務教育終了程度、医者どころではない。しかし、医者になれなかったのは、かえってよかった。もしなっていたら、腹の中に包帯を忘れたまま縫うような医者になっていただろう。

 ドジ話をもう一つ。

 私の2人の娘は、6歳違いだ。次女が2歳くらいの時、家族で武蔵小金井の神代植物園に行った。しばらくぶらぶらしているうちに、私は次女が見あたらないことに気がついた。

「おい、Mが見えないよ。どこへ行ったんだ?」

 長女と妻は、私の問いかけに答えず、おしゃべりに余念がない。

「Mだよ、M。居ないじゃないか」

「Mちゃん?」

 長女はそういってちらりと私を見、またおしゃべりを始めた。妻も全く無関心で長女と話をしている。ここに来て、怒り心頭に発した。

「なんだおまえらは! 人が本気だ探しているのに!」

 すると、妻が言った。

「Mなら、あなたが抱いているでしょう」

 実話である。

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2007年2月19日 (月)

ぼんくら日記

2月19日

 昨日は冷たい雨の中で、東京マラソン。選手の皆さんご苦労様。特に感想はないのだけれど、私の知人は参加を申し込んで抽選ではずれた。70歳をとうに過ぎている知人を案じて、その娘も参加申込をしたら、娘の方だけ参加できた。結果はどうだったか、まだ知らない。

 一転して、今日はよい天気。M精障者小規模作業所の畑の、小カブの収穫。今日はメンバーさんの休みが多く、一緒に行ったのはOさんだけ。肥料がたりないせいか、手入れがいい加減だったせいか、出来は悪い。午後、Kさんが来たので木工。

 夜、防火管理者選任の書類を作るため、このマンションの管理組合理事長Nさんが来る。

 これが今日一日の出来事の全部。こんなブログでも、どうでもいいようなトラックバッグがたくさんつく。そのうちまとめて削除しなくては。

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2007年2月18日 (日)

権威が正しいとは限らない

2月18日(ぼんくら日記)

 納豆ダイエットの放送は、初めからやらせだった。正しくないのは当然だが、まじめな情報でも、権威はたまに間違うことがある。当たり前と言えば当たり前の話。

 去年、NHKは源義経のドラマを放送した。その際、志水冠者義高の終焉の地として、我が狭山市の清水八幡神社が紹介された。そこに、義高終焉の地という石碑がある。

 志水冠者義高というのは、木曽義仲(源義仲)の子どもで、京に上った義仲が、頼朝に二心の無いことを示すために、人質として鎌倉に送ったのだ。頼朝はこれを喜び、自分の娘大姫の許嫁とした。ところがご存じのように、義仲と頼朝は敵味方になり、義仲は討たれる。そして義高をも打つことにするのだが、伝説では、大姫がこれを知り、義高を逃れさせるのである。義高は奥州をめざして逃げ、現、狭山市の入間川の辺りで、頼朝の追っ手によって討たれたことになっている。ドラマの後で、NHKは、義高が討たれた場所として、清水八幡を紹介した。

 私はドラマを見ていなかったが、仲間内でそのことが話題になった時、「実際はあそこで討たれたわけではないんだよね」と言った。すると「ぼんくらカエルがNHKと違うことを言ったて、信じる人はいないよ」で、話はおしまいになった。

 まあ、それが健康な判断というものだろうけれども、実際はやはり、私の方が正しいのである。清水八幡は、初めは入間川の河川敷に建てられた。それが洪水で流されて現在の高台に再建されたのである。これは郷土史家なら誰でも知っていることだ。最初の位置で殺されたというなら分かるが、現在の神社の位置というのでは、納得できない。大NHKといえでも、郷土史のささいな違いなどまで調べるわけではない。まして本筋とは関係のないことにまで、正確さを期しているわけでも無かろう。こんな間違いはあり得ることだ。

 岩波書店といえば出版界の権威だが、その書店の、これまた権威のある『日本古典文学大系』の中にも、私は間違いを発見した。『枕草子』168段の頭注である。168段は清少納言得意の「ものは付け」で、井戸について書いてある。

   井は、ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしきなり。

 と書き始めている。その「ほりかねの井」の頭注に、「武蔵の国入間郡堀兼村。名称の興味。歌枕。」とある。堀兼村は、現在の狭山市堀兼である。堀兼にはほりかねの井があって、これを指しているのだ。まいまい井戸と言われるもので、大地をすり鉢状に掘り下げ、その底のところからさらに垂直の井戸を掘るというものだ。いかにも由緒のある井戸のようだが、残念ながら、平安時代にはまだ、この辺りに人は住んでいなかったらしい。人の住んでいないところに平安時代の人が井戸を掘るとは思えない。

 ほりかねの井から15分か20分くらい歩いたところに、七曲の井というのがある。これもまいまい井戸である。こちらの方には古くから人が住んでいたようで、郷土史家の多くは、七曲の井こそ、ほりかねの井ではないかと考えている。これは違う考えもあるようだし、他の市でも、こちらこそほりかねの井だ、と主張するところもある。従って、はっきり決めるわけにはいかないのだが、堀兼村の井戸というのは、どうもおかしい。

 NHKでも岩波書店でも、その情報がすべて正しいというわけではない。時には、変な小父さんの言うことが正しい場合もある。

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2007年2月17日 (土)

ウーロン茶とダイエット

2月17日(ぼんくら日記)

 このところ、納豆ダイエットが話題になった。朝晩納豆を食べれば痩せるという、例の話だ。その放送をしたテレビの番組はやらせで、それがばれて大騒ぎというわけだ。

 納豆ダイエットにしろ、リンゴダイエットにしろ、蒟蒻ダイエットにしろ、それだけで痩せられるなんて言うのは、しょせんおかしな話だ。もしそれで痩せたら、どこかで栄養失調になっているに違いない。

 結局のところ、健康に痩せるには、バランスよく栄養をとりながら、カロリーを押さえ、よく体を動かすことだろう。

 ある日あるところで、ある人と話した。私は、「人間はどんなにカロリーの高いものを食べても、自分の取った食料の重さ以上には体重が増えない」と言った。すると彼女(相手は女性だった)、「人間の体は、あなたが考えるほど単純ではない」という。つまり、取った食料の重さよりも体重が増えたりすると言うのだ。そういうまか不思議なことを考えるのが正当な考えで、私の意見は単純すぎるというのだ。

 太る、痩せる、と言うことを考えるのに、取った食料の重さ、などという考え方はしないだろうとは思う。取ったカロリーと消費エネルギーの問題なのだから。しかし、だからといって私が間違いだとは言えない。

 ある人が、朝起きて、出すものは出して体重を量ったら、50キロあったとする。そして朝食を、カロリーの高いものや低いものを含めて1キロ取ったとする。この人の体重はその時点で51キロになる。たとえカロリーの高いものばかり取ったとしても、52キロになったりはしないはずだ。取ったものの中に、空気と化合して重いものができるような物質があったりすれば話は別だ。通常そんなことはないだろう。朝食後51キロになった人間が、昼食まで何も口にしなかったとすれば、51キロ以上になることはない。昼までの消費エネルギーの分だけ体重は減るわけだ。カロリーの高いものを取れば、その減り方が少なくなると言うことのはずである。

 もう10年以上も前だ。栄養学校に通っている女性が、ウーロン茶の痩せる効果に関する実験の被験者になった。一定期間、決められた時間に、決められた量のウーロン茶を飲む。そして、その間の食事の量、そのカロリー、運動の量、その消費エネルギーを計算して記録する。実験を始める前に体脂肪その他をはかり、実験後もはかるというものだ。なかなかたいへんな実験で、被験者になるのも、栄養学を専攻していなければできないものだった。その実験の結果、多少は痩せる効果があったと言うことだ。

 被験者に私は質問した。「本当に痩せる効果はあったのかね」。すると被験者が答えた。「あれだけウーロン茶を飲まされれば、その分ほかのものを食べられなくなるから、痩せるのは当たり前」

 でも、その実験をしたウーロン茶の会社は良心的だった。実験前はウーロン茶の痩せる効果を宣伝していたのに、実験後はむしろ言わなくなった。

 納豆ダイエットは逆でしたね。

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2007年2月16日 (金)

火傷

2月16日(ぼんくら日記)

 私は飲んべえであるが、甘党でもある。飲んべえと甘党は両立しないように思う人もあるが、両党使いは案外多い。私は、まんじゅうのおつまみで、ビールでも酒でも飲める。

 コンビニに、冷凍の今川焼きがあると聞いて、先日買ってきた。1袋に5個入っていて、今日までに4個を食べた。そして今日、残り1個を解凍すべく、冷凍今川焼きを電子レンジにかけたのである。その際、わざわざ皿を出すのも面倒なので、今川焼きの袋をそのまま下に敷き、チンした。

 これがいけなかった。解凍をして電子レンジを開けると、今川焼きの下に敷いた袋が、やけにちじこまっている。今川焼きを手に取ると、熱いの何の、とても持っていられない。右手から左手に持ち替え、それでもたまらず、放り出した。袋はアルミホイルだったらしく、熱したホイルが手の指に絡まっている。慌てて流しへ飛んでいき、水道の蛇口をひねって水で冷やした。しかし、アルミホイルが指の皮と癒着して、なかなか剥がれないのである。参りましたね。しばらく冷水で洗って、何とかアルミホイルを剥がした。

 気がつくと、右手の薬指、左手の人差し指、中指、小指に水ぶくれができている。取りあえずそれぞれの指に薬を塗り、包帯をして、水彩画の教室へ行く。不自由な手で、それでも絵を1枚描いた。

 夕食は、洗い物をしたくないので、初めから調理してある器に入ったちゃんこ鍋を買ってきて、温めて食べた。

 ドジですね。

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2007年2月15日 (木)

ぼんくら日記

2月15日

 今週は休みが多い。退職をしているのだから、毎日が日曜日といえるけれども、ボランティアやら、趣味やら、つきあいやらで、1週間や10日くらい連続で埋まることもある。ところが今週は、月曜日、火曜日、そして今日の木曜日、これといってやることがなかった。洗濯とか買い物とかもやることに入れるならば、今日はその両方をした。それともう一つ、ある障害者団体の機関紙に原稿を頼まれていたので、それを書いた。書いたといったって、1100字。内容は兼ねてから考えていたので、それほど時間を取りもしない。午後は全く暇になった。

 暇な時は家で本でも読んでいればいいのだけれど、天気がよければ、外に出たくて体がむずむずしてくる。しかしながら年金だけの生活だから、外へ出ても、金はかけられない。外へ出て、一番多いのは散歩である。今日は、約2時間歩いた。私は足が早いほうなので、距離はかなりあると思うけれども、距離計も万歩計も付けていないので、どのくらい歩いたかは分からない。まあ、1万歩以上は確かだろう。

 東京は昨日春一番が吹いたそうだ。とすれば埼玉のこの辺りも、春一番が吹いたに違いない。昨日は外にいた。たしかに風は強かったが、春一番という感じはしなかった。だいたい天気が悪かったのだから、風が暖かくても、私の感覚では、春一番にそぐわない。その点、今日は天気がよくて、風もあり、今日こそが春一番のような気がした。

   誘われて春一番の一万歩       ぼんくらカエル

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2007年2月14日 (水)

イモリ玉

2月14日

 私は新聞を、おおむね後ろの方から読む。「おおむね」と書いたのは、「必ず」ではないからだ。後ろから読むといえば、最初はテレビ欄からと取られそうだが、テレビ欄は飛ばす。ただし、テレビは良く眺める。いちいち解説を付けるのもへんだが、テレビを観ると言わず眺めるというのは、ただテレビを付けていると言う意味である。独り者なので、家の中で動くものが何もない。音を出すものもない。それでは淋しすぎるので、テレビを付けるのである。放送しているものなど、何でもいいのだ。テレビのある部屋か、隣の部屋で、私は何かをしているのである。従って、テレビ欄は、まず見ない。

 新聞で私が好きなのは、「コラム」である。新聞には、たくさんのコラムがある。ニュ-スなどは、よほどショッキングなものを除いて、たいていは見出しだけですませる。コラムは、たいてい読む。それも後ろからだ。なぜだといわれても、答えようがない。要するに、そういう習慣なのだ。

 昨日の新聞(毎日新聞、2月13日夕刊)に、永山悦子の署名で「イモリ玉」というコラムがあった。発生生物学者(そういう学問があるのですね)湯浅誠・東大教授によれば、イモリは冬眠するのだそうである。「約1000匹のイモリが、直径25センチほどの球形の『イモリ玉』になって、泳いでいるのだという」。永山悦子でなくても『へー!』である。

 田舎に疎開している頃、私はよく、近くの川やため池で釣りをした。フナやドジョウやタナゴや、運がよければナマズが釣れた。釣りたくないのに釣れるのがイモリだった。食糧難の当時のことだ、フナやドジョウは食べてしまった。だが、イモリを食べようという気にはならなかった。だいたい我が家は、何でも食ってしまう家であった。ネズミも、ゲンゴロウ虫も食った。だがイモリだけは、食おうという発想が起きなかった。

 イモリには独特の臭みがあった。釣りたくないのに釣れてくるのだから、こちらは腹を立てて、イモリの尻尾を持って土の上にたたきつける。ところがイモリというのは、なかなかしぶとくて、簡単には死なないのである。イモリに対しては、そんな嫌な思い出しかない。イモリの方はもっといやだったろうけれど・・・。

 そんなイモリが「イモリ玉」になって泳ぎながら冬眠するなんて、はじめて知った。しかし、私が釣りをしていた沼に、それほど沢山のイモリが居たとも思えない。どこかに集まって、玉になっていたのだろうか。

 冬眠と言えば、天道虫は、日の射す暖かい物陰などで、何千匹か何万匹も集まって冬眠する。私は一度だけ、ハイキング中に、そのような天道虫の集団を見たことがある。普段はそんなに多くの天道虫が集まるということはないのだから、イモリについても同じようなことが言えるのかもしれない。

 湯浅さんによれば「イモリの腹は野生でしか赤くならない」のだそうだ。そういえば、私の釣ったイモリは、みんな腹が赤くて、独特の黒い模様がついていた。

 それにしても「イモリ玉」とはねえ。一度見たいものだ。

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2007年2月13日 (火)

ぼんくら日記

2月13日

 近ごろは、天気が良くて用事のない日は、じっとして家にいることができない。今日はそんな1日だった。

 小さいスケッチブック、お握り、ワンカップを持って、自転車で家を出る。入間川の土手にある自転車専用道を走るためだ。この道路、川越で荒川の自転車道と合流する。合流地点には河川敷のゴルフ場があり、柳などがほどよく植えられていて、なかなか美しいところだ。しかし、今日はそこまでは行かず、途中で引き返した。というのは、この自転車道、我が家からは、川下に向かっていくことになる。途中で橋をくぐったり土手を上下したりのでこぼこはあるが、全体としては、緩やかな下り坂である。逆に言えば、帰りは上りということだ。たいした勾配ではないけれど、往きが楽な分、帰りは疲れる。それで用心した。

 このところ歩くことばかりで、ほとんど自転車に乗っていなかった。足を衰えさせないためには歩くのが一番と思っていたし、歩く習慣だけを付けていると、自転車に乗るのが億劫になってくる。ところが先日、久しぶりに自転車に乗ると、以前は乗ったまま登ることのできた坂を、登り切れなかった。かっての私は、市内の坂ならどんなにきつくても自転車で登れたのである。ところが今はそうでもないらしい。歩く習慣があるから、足はそんなに衰えていないと思っていたのだが、歩く筋肉と、自転車を漕ぐ筋肉とは、どうやら違いがあるらしい。

 荒川との合流点にあと10キロの辺りで自転車を降り、芝生の上で昼食、ワンカップを飲みながら鉛筆のスケッチを1枚描いて帰路につく。ワンカップを飲んでいるから、これも酒気帯び運転になるが、自転車専用道なので、事故の心配はない。

 これからもときどき自転車に乗らなければ、筋肉は衰えるのだろう。先日登り切れなかった坂を、また登れるようになるといいのだが・・・

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2007年2月12日 (月)

ワーキングプアー

2月12日(ぼんくら日記)

 現在の日本は、せっせと落ちこぼれを作っている社会だと思う。子どもの頃は、勉強ができなければ落ちこぼれる。会社に入れば競争社会で、成績を上げなければ落ちこぼれる。ただまじめに、こつこつやっていると言うだけでは駄目なのである。会社どうしでも同じで、創意工夫が無くてはやっていけない。創意工夫があっても、上手く立ち回れなかった会社は、他に吸収される。

 日本では労働者の給料が高いから、工場を中国へ持って行く。中国が高くなったら、また別の国に持って行く。それでものの生産コストは下がる。日本の労働者は、リストラに遭い、やむを得ず安い賃金で働くことになる。とにかく、外国の労働力は安い。それに足を引っ張られて、日本の労働者も、低い給料で働かざるを得ない。

 確かにシャベルで1杯の土をすくい上げる作業は、日本人がやっても、発展途上国の人がやっても、元来は同じ価値のはずだ。だからそのような仕事の対価が、低く抑えられがちだと言うことに、全く理由がないとは言えない。しかし、少しばかり頭が良かったり、ずるがしこかったり、運が良かったりしたおかげで、社会の上澄みばかり掬っているような人が、とてつもない高給を喰むと言うことが、果たして公平なのだろうか。自分たちの知能のおかげで社会は持っているなどと思う人は、炎天下で辛い道路工事をしている人たちのおかげを被っていないと思うのだろうか。そんな仕事は誰でもできるというかもしれない。だったらあなた、やってご覧なさい。軟弱なあなた、頭でっかちのあなたにできるものではないのです。

 なんだか知らないが、現在の日本は、頭と金ばかりが偉くなっている。頭は悪いかもしれないが、辛い仕事に耐えながら、一生懸命に働く人を、馬鹿にするような社会が、本当にいい社会と言えるのだろうか。

 ワーキングプアーと呼ばれる人たちがいる。今、どんどん増えているらしい。この人たちは、別に頭が悪いわけではない。運や、さまざまな巡り合わせで、そのような立場になってしまった人たちである。働く意欲があって、まじめに、懸命に働いて、能力もあるのに、それでなお生活保護者よりも低い収入しか得られないのだという。能力のあるものが能力に応じた収入を得るというのが悪いとは言わない。しかし、まじめに働くものが、豊かと言われる社会の中で、生きるにも不自由なほどの収入しかえられないなどというのでは、とても美しい国とは言えない。

 なんだか、社会全体が、偽善的になっているような気がする。せっせと落ちこぼれを作りながら、その落ちこぼれを救うような振りをして、その実やはり切り捨てていく、そんな社会になっていないだろうか。

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2007年2月11日 (日)

鎌倉 天園コース

2月11日(ぼんくら日記)

 S山楽会で鎌倉へ行く。冬の間は楽なコースが多い。北鎌倉駅で降りる。駆け込み寺で有名な東慶寺に寄った後、建長寺から天園コースに入る。総勢16名。登山靴をスニーカーに履き替え、リュックも持たずに来た人もいた。要するに、山登りという感じではない。私も登山靴は止そうかと考えたのだが、昨夜の雨で道が濡れていて滑るかもしれないと思って、登山靴にした。結果はその必要もなかった。

 とにかく、楽なコースである。散歩気分で歩く。コースの最後、瑞仙寺の梅を期待していた。だが、咲き始めてはいたが、まだ満開にはいたらず、少し残念。しかし、この寺のたたずまいは、鎌倉の寺の中でも、私のもっとも好きなものだ。梅は3分咲きだったけれども、瑞仙寺に来られたことで満足する。

 それにしても、日曜日の鎌倉というのは混むんですねえ。どこへ行っても人だかり。帰り道の小町通りなど、暮れのアメ横みたいな感じだった。足は疲れないが、人いきれで疲れた。

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2007年2月10日 (土)

痴的生産

1月10日(ぼんくら日記)

 私の1日は、ぼんくら日記を書くことで終わる。後は飲むだけだ。

 パソコンに向かうのは晩酌の後、食事の後で、まず始めに、いくつかのお気に入りのホームページを見る。次はメールを見る。メールアドレスは2人の子ども以外にはほんの2-3人に教えている程度である。個人的なメールはほとんど来ることはない。土台、メール世代ではないのである。来るのは、ブロバイダーやら何やらの、お知らせくらいのものだ。以前は、どこやらの怪しげなHサイトのメールが良く来たが、ブロバイダーに電話してこないようにしてもらった。それからはまるっきり来ない。来なければ来ないで、なんだか淋しいような気がするから、人間なんて勝手なものだ。

 今日は、書こうと思うことを幾つか用意していたのである。しかし、紀田順一郎のホームページを見て、気持ちが変わった。『紀田順一郎のIT書斎』によれば「知的生産は70歳までというのが私の持論」だそうである。「ガーン」。ま、第1級の仕事を言っているらしいから、私には関係がない。私のは「痴的生産」である。

 

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2007年2月 9日 (金)

掃除

2月9日(ぼんくら日記)

 毎日ブログを更新するようになって、1ヶ月と9日。今日は何を書くと決めてパソコンに向かう日と、パソコンの前に座ってから考える日とがある。今日は後者の方だ。

 妻が亡くなった当座は、男やもめなのだから不潔にしてはいけないという自戒もあって、1週間に1度は掃除をしていた。しかしまもなく地がでてしまい、気がつけば半月掃除をしていない、1ヶ月掃除をしていないなどと言うことが、日常的に起きるようになった。今日掃除をしたが、今年に入って2回目である。1人だから、大して散らからないと言うこともある。埃で死ぬわけでもない。「1寸のゴミの間に端然と座る女」を理想としたのは坂口安吾だったと思う。大して散らからないと言っても、1ヶ月近く掃除をしなければ、部屋の隅などに埃が目立ってくる。1寸は積もりませんけどね。

 片付けられない女、なんて言うのが、去年辺りテレビでよく紹介された。スタッフが見に行って、部屋の様子を写して、あきれて見せて、みんなで片付けて、こんなにゴミが出たと放送する番組だ。別に女だけには限らなかったけれど、あれもすごいですね。良いにつけ悪いにつけ、なにごとも中途半端な私は、とてもあそこまでは放っておけない。床や畳の上は、散らかっても新聞と広告、読みかけの本くらいだ。しかし、テーブルやこたつの天板の上やサイドボードは、さまざまなものが雑然と積み上げられて、整理するのもたいへんである。片付けられない女にかなり近いとは言える。

 だから掃除をする時は、いつも大掃除のようである。

 

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2007年2月 8日 (木)

お爺さん

1月8日

 午前。ボランティアグループ定例会。

 午後、老人介護施設Kセンター。1階はデイケアー、2階は通常の利用者、3階は認知症などのある利用者。われわれのグループは、毎週1回、2階と3階でボランティア活動をしている。今日私は、久しぶりに3階に入る。3階では、いつもYさんがギターを弾く。その手伝い。そして歌をうたう。

 その歌の1つに、題は忘れたが船頭さんの歌があった。「村のはずれの船頭さんは、今年60のお爺さん。歳はとってもお船を漕ぐ時は、元気いっぱい櫓がしなる。ソレ、ギッチラ、ギッチラ、ギッチラコ」という、あの歌である。

 この歌をうたいながら、ふと思った。この歌ができた頃、60歳というのは腰の曲がったお爺さんが普通だったのだ。そのお爺さんが元気で船の櫓を漕いでいる。その感動をこの歌はうたっている。確かこれは戦後の歌である。昭和30年代くらいだったかもしれない。その頃は60歳にもなって船の櫓を漕ぐなどと言うのは、たいへん珍しいことだったのだ。もっとも、今では、船の櫓を漕ぐなどと言うのは、若い人でもめったにない。そんな船自体がないのである。まあ、そんなことはともかく、当時の60歳というのは、かなりの年寄りで、肉体労働や、スポーツをするような歳ではなかったのだ。

 その後平均寿命も延びた。今60歳の人に向かって、お爺さんなどと言ったら、自分の孫に言われたのでない限り、あまりおもしろく思われないだろう。かくいう私も70代である。まだ年寄りの気がしない。

 話は変わるが、この「櫓」という字、「ろ」とも読めば「やぐら」とも読む。「ろ」と「やぐら」が同じ字であることに今日気がついた。関係がないと思われる言葉が、なぜ同じ字なのだろう? どこかで関係があるのだろうか?

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2007年2月 7日 (水)

清少納言の声など

2月7日(ぼんくら日記)

 車椅子のTさん、身体障害のHさんと、埼玉文学館、丸木美術館に行く。本当は、遠山記念館にも行ったのだが、こちらは砂利の中を通らねばならず、車椅子では入れなかった。

 埼玉文学館は「永井荷風展」。山田朝一という荷風研究家のコレクション展である。昭和初期の文芸誌や挿絵の様子が分かり、その点で興味は持てた。

 しかし私がもっとも興味深かったのは、常設展示している、清少納言の声の復元であった。残された絵などから骨格やら何やらを判断して、声を復元したものだ。どこまでにているかは分からないが、意外に若々しい声なのである。考えてみればそれも当然で、清少納言が宮廷にいた頃は、実際に若かったはずである。

 他に、芭蕉の声、馬琴の声の復元もあった。こちらの方は、そんなものかと言うところ。

 丸木美術館。原爆の図などを見て、本当ならば感に堪えぬような感想を書かなければならないところだが、実はそれほど感じなかった。戦没画学生の作品を集めた「無言館」などの方が、もっと感動があったのはなぜだろう。

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2007年2月 6日 (火)

カタカナ語

2月6日

 昨日は、ただの日記にするつもりだったのに、脱線して、精神障害についての蘊蓄を語ってしまった。もちろんこれは自嘲して言っているのである。何に関してであれ、私は蘊蓄など持ち合わせていない。生かじりを書いてしまった、と言うことだ。

 正月にデジカメを買って、何枚か写したが、まだ印刷もしなければ、パソコンにつないで画像を見ると言うこともしていなかった。1ヶ月もするのに、若い頃なら考えられないことだ。好奇心自体が薄れているから、なかなか新しいことをやってみようとしない。今日始めて、デジカメをパソコンにつないだ。その結果、これまで撮った写真の一覧を見ることができた。だがそれを、パソコンに取り込むことはできなかった。一覧の中から、特定の写真を拡大してみることもできなかった。解説書を読んでも、カタカナ語ばかりで、何のことやら分からない。私は、日本語は分かるつもりである。日本語の分かる人間に、何のことやら分からない解説を書く人たちは、いったい誰のために解説を書いているのか。

 何かが分からない時に、私には逃げ口上があって、「何しろ私は義務教育終了程度の人間ですからね」というのである。でも内心は、義務教育終了程度の私でもこんなことは分かる、おまえたちは何だ、と開き直りたい気持ちもあるのだ。ボランティアグループの中でも、私だけが義務教育終了程度だが、誰と話をしていても、べつだん圧倒されたりもしない。対等に話していける。そうなる理由の一つに、たくさん本を読んでいると言うことがある。私は、自分で自分を鍛えるしかなかった人間である。そんなとき、日本語の漢字が、どんなに助けになったか分からない。「人類学」と書いてあれば、何のことかよく分からないながら、「人類に関する学問らしい」と言うことくらいは分かる。「心理学」と書いてあれば、「人間の心理に関する学問らしい」と言うことぐらいは分かる。そんなおぼろげな想像をもとに、本を読み続けたのである。これが、初めからカタカナ語で、サイコロジーだとか何だとか出てきたら、私など、本を読み進めることができなかった。

 今はそのカタカナ語が平気で使われる。私などはお手上げだ。カタカナ語は差別用語である。ただ、カタカナを平気で使っている者たちだって、本当に分かって使っているのかどうかは怪しい。訳も分からず、その方が格好がいいと思って使っているものも多そうだ。あるいは、日本語で表現する能力が無いかだ。私は国粋主義は嫌いだ。だから何でも日本式がいいというのではない。ただ、何かの解説書を書くのだったら、日本語の分かる日本人に理解できるくらいの解説は書いてくれ、と言いたい。

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2007年2月 5日 (月)

精神障害者

2月5日

 M作業所でボランティア。畑仕事。冬菜(カラシナに近い)を収穫。畑の一部を打ち直し、ジャガイモを植える。今日は、メンバーさんが、いつになく大勢手伝ってくれたので、それほど時間はかからなかった。

 どこの作業所でも、障害を持つ利用者を、メンバーさんと呼ぶ。少し妙な気がするが、そういうことになっている。ちなみに、老人介護施設などに入っている人は、利用者さんと呼ぶ。

 精神障害の人に、がんばれなどと言って励ますのは禁句で、その辺に知的障害者との違いがある。精神障害などと言うと、何か危険な人のように思う人が多いけれども、普通の人とそう違うわけではない。実際に犯罪を犯すような人の割合は、一般人より多いというわけではない。

 精神障害の代表的なものとしては、統合失調症がある。かっては精神分裂病と言われたものだ。今でも、家族やまわりのせいで統合失調症になると考えている人が多いが、医学的には、そのようなことではないらしい。原因ははっきりしないが、神経伝達物質の出方に異常があるらしい。神経細胞というのは、細胞のうちでは大きなものだが、それでも、たとえば手の先からの脳まで、直接つながるほど大きくはない(当たり前だ)。たとえば指で冷たいものを触って、その感覚が脳に伝わるまでには、いくつもの神経細胞を通る。神経細胞と神経細胞は、直接つながっているわけではなくて、いくらか隙間があるらしい。その隙間に神経伝達物質がでて、情報の受け渡しをしているらしいのである。ちょうど伝言ゲームのようなものだ。先の細胞から、伝達物質が正しくでて、次の細胞に正しく受け渡されればいいのだが、ここに異常があるのが統合失調症のようである。昔は治らない病気だったけれども、今はかなりよい薬もあるようで、治る人もいるし、薬を用いながら、普通の生活を送る人も多い。

 社会的に怖いのは、精神異常者ではなくて、性格異常者である。凶暴になったり、すぐに切れたりするのは、むしろ性格異常者なのである。その点を混同されるのが困る。もう一つ困るのは、精神異常者ではないのに、精神異常者を装った犯罪者が居ると言うことだ。

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2007年2月 4日 (日)

ぼんくら日記

2月4日

 2月になってからの新年会というのもへんだが、「車椅子と仲間の会」の新年会。

 食事とカラオケで3時間。

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2007年2月 3日 (土)

昔の雪国

2月3日

 この冬は暖冬で、東京や埼玉はまだ雪が降らない。山の上には降っているだろうが、市街地では、まだ降っていない。観測史上で東京に雪が降らなかった年はないそうだが、今年辺り、ひょっとすると、観測史上初などということになるかもしれない。

 日本中雪が少ないのだそうで、各地のスキー場などでは、営業できないところが多いと聞く。地球温暖化の原因は人間が作っているのだろうから、われわれが本気になれば、温暖化は防げるはずだ。しかし、われわれは、にっちもさっちもいかなくなるまで本気にはなれないのだろう。手遅れになってから慌てるのではなかろうか。

 私は雪国育ちだから、雪との思い出はいろいろある。

 雪国の生活を書いて有名な本に鈴木牧之の「北越雪譜」がある。江戸時代の本であるが、2-30年前までの雪国の生活は、「北越雪譜」に書かれたものとさほど変わらない。今年はともかく、地吹雪などは今もあるけれども、他は大きく変わった。

 昔、雪がたくさんさん降っていた頃、私の田舎でも、1年に何回か雪下ろしをした。子どもながら、私も手伝ったものだ。テレビなどの映像で見ると、今はさまざまな道具で雪下ろしをしているようだが、私が子どもの頃は、たいていはシャベルかスコップで雪を下ろした。同じ1軒の家の屋根でも、稜線の風上と風下では、雪の積もる量が違う。風下の方がずっと多くなるのだ。だから雪下ろしは風下から行う。そうしないと家が傾くおそれがある。 雪下ろしを3回くらいもやると、積もった雪と下ろした雪で、家のまわりが高くなり、屋根から外へ出られるようになったりする。

 今は車社会だから、道路の雪は除雪されるが、私がいた頃は、村中探しても乗用車など1台もない時代である。初雪くらいならばともかく、根雪が除雪されるなどということはなかった。雪が降り始めたら、路線バスも春まで休みになる。どこへ行くにも歩いていくしかない。新雪を漕いで進むのはたいへんなので、誰かが歩けば、次の人はその足跡に従って進み、自然にそこが雪道になる。また、自分の家から隣の家の前までは、人が通れるくらいの幅に雪を踏み固めた。踏み固める道具があった。若い人は、わらで作った米俵を見たことがないかもしれない。その、わらで作った米俵の一方を開口したような形(つまり、コップか湯飲みのような形)のものを2つ作り、中に足を入れ、俵の前に縄を付け、それを手に持って、竹馬のように足を動かしながら雪を踏み固めたものだ。ちょうど、家の前を掃除するような感覚である。家の玄関から外へ出るには、雪の階段を作った。階段を上って、雪の上にでるのである。

 雪道で人がすれ違う時は、どちらかが道の脇の新雪に入り、相手をやり過ごさなければならない。そんなとき、片足で新雪の上の方を2-30センチ払って、そこに立った。雪道ですれ違う人が、「おまえがどけ」「いや、おまえこそどけ」などと言い争っているのは見たことがない。自然に、どちらかがどいていた。細い道で、車の警笛を鳴らしあったり、にらみ合いをしたりするようなことはなかった。

 川端康成の「雪国」では雪解けの頃が美しいことになっているが、あれは賛成できない。雪が解ける頃になると、馬の糞やらゴミやら、それまで雪に隠れていたものが、どろどろになって一度に現れてくる。このときばかりは、めったなことでは転べないと緊張して歩いたものだ。

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ぼんくら日記

2月2日

 妻が亡くなって、8年近くなる。夕方になると、今日は何を食おうか、などと考えることが多い。毎日外食できるほど金はないし、スーパーで買ってくるおかずだけでは飽きてしまう。原則として、3食とも自分で作ることになる。例外の多い原則ではあるが……

 私の本棚には、食事に関する本を置くコーナーがあって、昨日見たら、「一人暮らしのレシピ」といったたぐいの本が5冊くらいあった。これを順番に作ったらたいしたものだと思うけれども、本だけがあって、作るのはごくわずかだ。だいたい、あるもので作るというのが私の主義だから、材料や調味料など、そんなにそろえられはしない。ナンプラーがどうしたとか、オリーブオイルだとか言われたら、それだけでお手上げである。「一人暮らしの食事」とか何とか本の題名に書きながら、カレーライスを4人分作らせて、「残りは冷凍しておく」なんて言うのがあった。こんな場合は本代を返せと言いたくなる。

 私は、食事は口に入るものがあればいい方だから、食べ物にうるさくはない。それでも私のつきあっている人の中には、何かと料理を教えたがる人もいる。口に入るものがあればいいとは言いながらも、本当は旨いものの方がいいから、私に作れそうなものなら、教えられた方法で、ときどきは作ってみる。うまく行く時も、まずい時もあるが、それは仕方がない。ただ困るのは、若い時と違って、せっかくうまく行った方法も、すぐに綺麗さっぱり忘れてしまうことだ。料理は、いつまでたっても初心者である。

 実は、毎日ブログを書くようになってから、今日は何を食おうか、と考えるのと同じくらいに、今日は何を書こうか、と思うようになっている。こちらの方は、アドバイスしてくれる人もいないし、レシピもない。

 上に書いたこととは全く関係ないが、こんな句を作りました。

     春の日や東国原知事の鼻眼鏡    ぼんくらカエル

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2007年2月 1日 (木)

ぼんくら日記

2月1日

 Yの湯。街中にある、今流行の、地べたを掘って無理やり作った温泉である。割にこういうのも好きでときどき行く。サウナに入って、出てからのビールが旨い。市の経営する沸かし湯もいくつかあるが、出てからビールが飲めないので行く気がしない。

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