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2007年1月31日 (水)

ぼんくら日記

1月31日

山行

 Sさん、Hさん、Kさん達と伊豆ヶ岳へ。普段とはコースを変え、子の権現から伊豆ヶ岳へ向かう。この逆のコースはなんども歩いているが、今回のは始めて。疲れた。

 下山は「花桐」コースというのを歩いたが、難コースだった。廃道と言っていいような道で、沢をなんども渡り返しながら歩くのだが、丸太などの橋が、腐っていて、まともに乗るのは怖い物ばかり。なるべく橋に乗らずに沢を渡る。道も荒れていた。倒木も多く、またいだりくぐったり。

 明日は、足が痛いだろうな。

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2007年1月30日 (火)

ぼんくら日記

1月30日

包丁研ぎ

 午後、C作業所で包丁研ぎ。C作業所と授産施設Rの包丁など、計9本の包丁を研ぐ。

 包丁研ぎの専門家の講釈の中には、どうも合点のいきかねるものがある。包丁の柄を持って、刃を下に向けた時、右側の側面を、仮に包丁の右とする。右利きの人がこの包丁を研ぐとすれば、普通は右手に柄を持ち、包丁を砥石の上に寝かせ、刃先を手前にして研ぐ。

 では、包丁の左側はどう研ぐのがいいのか。専門家の中には、柄を左手に持って、刃先を手前に来るように寝かせて研げという人がいる。とにかく、刃先はとがらせなければいけないのだから、一応はもっとものような気がする。しかしこれが怪しい。私ならば、右手に柄を持って、刃先を向こうに向けて研ぐ。わざわざ柄を左手に持ち替えて、研ぎにくくして研ぐことはない。

 もしそれが間違いだとしたら、大工はカンナの刃先を手前に向けてとがなければならない。皆さんは、カンナの刃をそんなふうにして研ぐ大工を見たことがありますか?

 

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2007年1月29日 (月)

ぼんくら日記

1月29日

 仕事(ボランティア)が終わってから、地元のケーブルテレビの解約を申し出る。チューナーを付けて、いくつかのチャンネルを見られるようになっているのだが、契約を解除すれば、そのチューナーを返さなければならない。ケーブルテレビの契約をした結果、チャンネルは多ければいいというものではない、との感想を持った。ただ、NHKの衛星放送を見られなくなるのが少し残念。「俳句天国」だけは見たかったからである。

 とにかく、入るのは半端な年金だけ、税金や介護保険など、ひかれるものは増えた。生活を維持するため、出費のどこを減らすかと考えた時、真っ先にケーブルテレビが頭に浮かんだ。ケーブルテレビの契約料と、NHKの衛生放送代を減らせるからだ。飲み食いはもともと贅沢をしていない。酒を飲み過ぎるが、ほとんど自宅で飲むのだし、楽しみものこして置かなくてはいけない。月々はともかく、年間のトータルで赤字にならないようにと考えているのだが、今年は果たしてどうなるか。去年は少し赤字であった。

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2007年1月28日 (日)

ある老後

1月28日

 妻の父は、明治生まれで中学を出ているから、当時としては学歴が高い方だ。しかし、体が弱かったこともあり、会社に入ってからは、鳴かず飛ばずだった。会社では、今でいうなら窓際族で、思うにまかせない。その分、家では暴君で、妻の母は、死に場所を求めて、生まれたばかりの妻を背負い、線路の縁や川の岸をさまよったこともあるという。

 そんな義父が定年を迎える頃、家の様子はすっかり変わっていた。義母は、頼りがいのない夫に代わって生活力を身につけ、子どもたちもたくましく成長していた。家の中でなにをするでも無い義父は、ただの濡れ落ち葉でしかなくなったのである。誰もそんな義父の相手はしない。そんな生活が2,3年続いて、義母や同居の子どもたちから「お父さんはもうぼけた」という声を聞くようになった。

 その頃からである。義父は毎日ゴミ袋を担いで街に出るようになった。街のゴミを拾って歩くのだ。家には居場所がないのだから、多少の雨や風はいとわず、曜日を決めて行く地域を変え、年中無休で清掃を始めたのである。しばらく続けるうちに、街の人に声をかけられるようになる。それがまた励みになって、ますますゴミ拾いに精を出した。やがて、市の知るところとなり、市長から感謝状を贈られたりした。そして、街を歩けば「いつもありがとうね」などと言われるようになった。その頃になると、ぼけたと言われた症状はすっかり消えていた。

 やがて病を得て自分の死を悟った義父は、孫たちの名前を紙に書かせ、「俺がこの子たちの病気をみんな持っていくから、この紙を棺桶に入れるように」と言い残して亡くなった。

 義父にとって、1番幸せだった日々は、ゴミ拾いをしていた頃ではなかったかと私は思う。これも、「棺を覆って定まる」と言うことなのだろう。

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2007年1月27日 (土)

わら仕事

1月27日

 私は秋田に生まれ、2歳で東京に来た。つまり親が東京に出たと言うことだ。戦争がなければそのまま東京の人間になっていたのだろうが、あいにく、日本はアメリカと戦争を始めてしまって、小学2年(当時は国民学校)の時、父母の郷里に疎開した。疎開というのは、戦火を避けて田舎などへ引っ越すことである。疎開について解説するかどうか迷ったが、今で分からない人の方が多いかもしれないので付け加えた。

 そのまま秋田に居続けて、中学3年の時上京した。だから少年時代の始まりと終わりは東京だが、中身の濃いところは、ほとんど秋田の田舎で過ごしたことになる。故郷というのは、生まれとところというよりは、少年時代を過ごしたところを言うのではないかと私は思う。

 田舎は、山形県よりの内陸部で、雪の深い土地であった。私はそこでさまざまなわら仕事をした。仕事をしたと言えば一人前に聞こえるけれど、要するに大人の真似をして、いろいろの物を作ったと言うことだ。その始まりは、「みご縄」綯いだった。

 田舎に疎開してすぐに、学校は冬休みになった。学校は戦争に協力するため、生徒に「みご縄」を綯わせた。2年生は10把供出するようにと言うことであった。

 まず「みご」の説明をしなければならない。「みご」とはわらの芯の穂のつく部分である。わらには、幹があって、葉があって、幹には節がある。幹の下の方を足などで踏みつけて、穂を引っ張ると、芯が節のところから抜ける。これが「みご」である。「みご縄」とはこの「みご」だけで綯う縄のことである。縄よりも、細くて丈夫だ。ついでに言えば、「わらしべ長者」などでは、同じ意味に使われているが、「わら」と「わらしべ」とは、少し意味が違う。「わら」とは、稲こきの終わった幹や葉の全体だが、「わらしべ」というのは、本来はわらの葉っぱの部分のみを言うはずである。この部分だけをあつめて靴底に敷いたりすれば、わらよりも柔らかく、暖かい。

 わらからみごを取るのはたいへんな作業で、ひとつかみくらいのわらの穂を握って、さっきも書いたように、わらのもとの方を踏みつけて抜く。とても子どもにできる技ではない。我が家では父を東京に残して疎開していたので、母は本家の使用人に頼んで抜いてもらっていた。このみごを木筒の様なもので叩いて柔らかくして、綯うのである。叩きすぎるとしんなりしすぎて綯いにくくなる。叩きがたりないと弱い縄になる。現在市販されている荒縄は当然のことながら機械綯いである。昔のように手で叩いたりはしないだろうが、おそらく綯いやすくするために叩きが甘い。手綯いのような縒りもないので、昔の縄よりは弱い。

 みご縄10把というのは、たいへんな量である。縄だと20尋で1把、みご縄は100尋で1把だった。長さを測る道具は、板の上に棒が2本立っていた。その棒を一回りさせれば1尋だった。1尋は3尺か4尺(90センチか120センチ)くらいだったと思う。仮に90センチだったとしても、1把で90メートル、10把で900メートルである。東京育ちの小学2年生に、そんなに綯えるわけがない。冬休み中、朝から晩まで縄綯いをしていた。母にも手伝ってもらったが、母とて地主の娘で、そんなことはしたことがないのだ。2人で綯っても、地元の小学生の3分の1もできなかった。結局は本家の使用人に手伝ってもらって、学校には供出した。でもそのおかげで、私は今でも縄綯いには自信がある。今では何の役にも立たないけれど。

 本当は、他のわら仕事についても書くつもりだったが、縄綯いだけで終わってしまった。

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2007年1月26日 (金)

ぼんくら日記

1月26日

 昨日と今日、消防署で、防火管理者の講義を、びっしり受ける。私の住むマンションは自主管理で、管理会社に頼んでいない。そのため、7年ごとに自主管理の役員になる。私は今その役員で、私以外は、みな現役で働いている。そんなわけで、丸2日もかかる防火管理者の講義は、私が受けることになった。我がマンションは、法律上、防火管理者を置かなければならない規模なのである。2日間の講習を受け、私は今日、めでたく防火管理者の資格を得た。

 講義は朝の9時から、夕方の4時40分まで。始業前に受付があるので、8時40分には現場(消防署)にいかなければならない。家を出るのが8時15分くらいで、自分で食事を作らなければならないのだから、起きるのは6時くらい。普段の生活からすれば、かなり早い。

 120人くらいが受講したのだが、会場を見渡したところ、どうも私が1番歳上のようである。さまざまな事業所から来ている人が多いので、みな現役なのだ。

 歳をとると、高音が聞こえなくなることは多くの人が知っている。そのほかに、語音識別能力が落ちるらしい。音は聞こえても、クリヤーに聞こえなくなるのである。人にもよるだろうが、私には、これがある。目も疲れる。眼鏡をかけていても、90分もテキストを見つめていると、目はかすみ、視野も狭くなる。そんな状態で2日間講義を受けるのだから、疲れますなあ。

 この講義に、K福祉会の事務長、Oさんが来ていた。我が市の老人福祉施設K荘のSさんも受講していた。昨日今日、私はOさんと食事を共にする。

 夜、S山の会の班長会議に出る。私は班長ではないが、4月からの会長に推されていて、1年だけという約束で受けることにした。そのため現会長のHさから、出席せよとの電話があった。

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2007年1月25日 (木)

ぼんくら日記

1月25日

 こうして日記を書いていても、頭に来てしまうことが多い。今日などはこの日記、3回書き直している。さっきなどは、「a」と入力したらかってに「ち」とひらがながでて、「E」と入力したら、かってに「は」と出てきた。どうあがいても正しく入力できないので、それまで書いた記事を下書きとして保存し、パソコンを再起動させた。ところが書いたものが全部消えている。その前は、ローマ字入力を、途中からひらがなに変換できなくなった。日本語入力のサインをなんども送ったら、記事が消えてしまった。なんてえこった。これまで書いた内容を、もうあらためて書く気はしない。

 今日は、地元の消防署で、防火管理者の講義を、丸1日受けた。明日も受ける。そんなこんなで疲れた。日記の気勢もそがれたので、今日はこれでおしまい

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2007年1月24日 (水)

「わらじ」と「わらぞうり」

1月24日

 「わらじ」とわらぞうり」の違いをご存じだろうか。現在では「わらで作ったぞうり」を「わらじ」だと思っている人のほうが多いのではないか。「わらで作ったぞうり」は「わらぞうり」であって、「わらじ」とは別のものだ。

 私はある時(かなり以前)、「わらじ」と「わらぞうり」を混同している人が多いことに気づき、何人かの人に聞いてみた。ある人は言う。「九州では昔からわらぞうりのことをわらじと言っていた」。昔というのは、どのくらい昔なのかは聞き漏らした。私は埼玉県南部の地方都市に住んでいるが、この土地で生まれ育った人は、60代でも、わらじとわらぞうりを混同している人がほとんどだ。東北から来た人は、50代でもわらじとわらぞうりの違いを知っていた。私の聞いた範囲はごく狭いので、これを一般化できるかどうかは分からない。

 絵を描けばすぐ分かるのだが、言葉だけでわらじの説明をしようとすると、かなり難しい。わらで作ったぞうりから、鼻緒を取った状態を考えていただちたい。仮に、このわらで作ったものを台座とよぶことにする。わらじは台座のてっぺん(つま先の来る方)から2本の細長い縄が出ている。台座に両脇、土踏まずの来る辺りに2対の「乳」がある。「乳」というのは縄でできている輪のようなもので、てっぺんから出ている縄をくぐらすためのものである。そしてかかとのところには、「かえし」というものがついている。「かえし」とは、「乳」を大きくしたようなもので、やはり、てっぺんから出ている縄を通す輪だ。台座の上に足を載せ、てっぺんからの紐を乳にくぐらせ、靴ひものように足の甲の上で交差させ、最後にかえしに通し、足首でてっぺんからの縄を結ぶのである。「わらじを脱ぐ」という代わりに「わらじの紐を解く」と言ったりするのは、このようなわらじの構造から来ている。

 子どもの頃、私もわらじを作ったことがあるし、履いたこともある。しかし、わらじを履いて仕事をしたり、旅をしたりはしていない。わらじは、素足で履くこともあり、足袋をはいて履くこともある。わらじの構造上、歩く時につま先が大地に触れたりするのだが、足によくフィットして、歩きやすい履き物である。短距離を歩くならば、わらぞうりで十分だが、長距離を歩くとなれば、わらじが必要であった。

 わらじはわらでできているのだから、そう何日もは履いて歩けない。旅をするうちにはすり切れるので、新しいものが必要になる。街道筋には、そのような旅人の需要を満たすため、軒下に2-3足のわらじをつるして、売っているような家もあったらしい。かごに乗る人担ぐ人、そのまたわらじを作る人、などと、わらじにまつわる言葉は多い。

 昔は、わらじは旅をする人の必需品であった。坂本龍馬あたりは、ひょっとしたらぞうりでどこへでも出かけたかもしれない。しかし、芭蕉は、間違いなくわらじを履いて旅をした。てれびの水戸黄門一行も、当然わらじを履いているはずである。履いているはずであるなどと書かずに確かめればいいのだが、今思いついて書いただけで、あらためて水戸黄門を見て、確認して書くほどの気が起きない。ぞうりや地下足袋を履いているはずはなく、わらじ以外は考えられないからだ。

 わらじを素足で履けば、当然のことながら足が汚れる。だから昔の宿屋では、客が来るとまず水桶に水を持ってきて足を洗わせた。昔の時代劇映画などを見ると、よくそんな場面が出てきた。しかし最近のテレビの時代劇などでは、とんとそんな場面がない。時代劇を作る方にも、わらじを脱いだら足が汚れている、などという発想はないのだろう。足を洗って家に上がる、この習慣が、「やくざの世界から足を洗う」などという言葉のもとになったのだろう。

 そういえば、昔は「長いわらじを履く」などという言葉もあった。旅に出て帰ってこないことだが、悪いことをして土地を離れる時などにも使った。

 雪国では、雪わらじというものがあった。いくら昔の人でも、雪の上をわらじで歩くことはできかねる。それで雪わらじを履いた。最近はあまり見かけないが、爪皮のついた下駄がある。下駄のつま先の方に皮などでおおいをしているものある。雪わらじとは、それと同じように、わらじのつま先から土踏まずの脇の辺りまで、わらで覆っている履き物である。足袋をはいて、雪わらじを履けば、足が雪で濡れることは防げる。そのほかに、雪靴というものもあるが、あれは長時間歩けるものではない。

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2007年1月23日 (火)

ぼんくら日記

1月23日

 実を言うと、今日は少し長いエッセイを書こうと思って、私にしては珍しく、夕方パソコンの前に座ったのである。挿絵の必要な文章だったのですが、なんとその挿し絵が入れられないのだ。私はこのブログでも、日記を書く前には、挿し絵を入れたりしている。それなのに、今回はどうしても入らない。結局エッセイはやめにして、アルコールを飲むことにした。水は低きに流れる。ぼんくらカエルは易きに流れる。

 今日は火曜日で、火曜日は原則として、家事をやる日と決めている。ただしこの原則、ちょっとした事情ですぐ変わる。例外のほうが多いかもしれない原則だ。今日は原則に沿った一日だった。普段まじめに家事をしていないから、マンションの一人暮らしといえども、それなりにやることはある。掃除、洗濯、買い物ということですね。しかしそれも、昼くらいには終わるのである。長いエッセイを書こうなどという出来心は、昼から暇になったせいでおきた。挿絵も描いてパソコンに向かったのに、ああそれなのにそれなのに……。また飲もーっと。

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2007年1月21日 (日)

ぼんくら日記

1月21日

 なにを書くか考えずに、とにかくブログを開いて、それから投稿する内容を考えるという、きわめて無責任な私です。

 昨日の続きのようですが、私の住むマンションは、順番に管理組合の役員がまわってきて、私は今年、その役員になっている。その役員は、同時に地区の自治会の役員を兼ねることになっていて、私はそちらの役員でもある。今日はその新年会。したたか飲む。

 昔はどこの町内にも床屋その他のたまり場があって、暇な奴がそこに行くと、誰かしら顔見知りの者がいて、どうでもいいような無駄話をして暇つぶしができた。今はそんなたまり場がなくなってしまった。現役を終えた暇人の行く場所がなくなったのである。で、まあ、そんなたまり場を作ろうという人たちがいて、現実にあちこちにそんなたまり場ができている。私も数年前、当時の自治会長にそういうたまり場を作ろうと働きかけたことがある。自治会長も賛成だといって、作ってくれたのが、将棋の会、碁の会、カラオケの会だった。私の考えていたのとは違ったけっれど、言い出しっぺなので、将棋の会、碁の会に協力した。残念ながら、将棋の会は人が集まらず、碁の会は2~3年続いたがじり貧になった。カラオケの会は老人会に引き継がれ続いている。

 私は、たまり場的なものがやはり必要だと考えて、去年、こんどは老人会に働きかけた。現在の老人は暇で元気な人が多いし、私はそれなりに忙しいし、老人会の力を借りるのがいいと考えたからである。老人会の会長も賛成してくれて、多少はその動きもある。しかしながら、おまえも老人会(寿会)に入れと言われてしまい、断るわけにもいかなくなったという現実がある。今日の新年会で、寿会の会長と、その話もする。

 地元の市会議員O氏と話をする。先日葬儀をしたO氏と同じ会派の人で、私の住む地区の市議である。先日なくなったO氏、地元のO氏、比較的近い所を地盤とするN氏の3人が同じ会派で、駅前の開発の仕方について住民投票にかけろという動きをしたいた。その動きを市議会で否決され、地元のO氏も辛い立場にあるわけだ。

 私は市会議員などに知り合いは少ないが、最も親しかったのが先日なくなったO氏であり、地元のO氏、近くのN氏などがいくらか親しかった。その3人が同じ会派を組み、一人が亡くなったのである。反主流派のその会は、果たして維持できるのだろうか。

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2007年1月20日 (土)

ぼんくら日記

1月20日

 私の住んでいるマンションは、自主管理である。管理会社にまかせずに自分たちで管理組合を作り、住人は1年交代でその任務に当たる。管理会社に頼むのとのとはさまざまな違いが出る。なんと言っても管理費が安くなることは大きい。それに自分が住むマンションなので、なおざりにしない。欠点は専門知識に乏しいことだが、住人が大勢いるわけで、それなりの知識を持っている者もいる。ぼんくらカエルのようにぼんくらな奴もいるが、専門業者とつきあいのある人や、交渉のノウハウを分かっている人もいる。だから何とかやっていける。私などはぼーっとしているだけだが、専門知識のある人ほど、苦労もしている。そういう人たちのおかげで、私などはこのマンションにいられるのだ。

 今年度は、私はこのマンションの役員の一人である。で、今夜、その理事会があった。今問題になっているのは、配水管の取り替え時期に来ていると言うことだ。これは大工事になる。今年はその準備で、理事長などはだいぶ苦労している。役員といったって、こちらはなにも知らないから、ただ説明を受けているだけで、のんきなものだ。工事の着工は来年度になるだろう。

 このマンションも、できた時は、全員が持ち家として買った。ところが今は、借りて住んでいる人もいる。利害が一致しない人も多いのだが、割合よくまとまっているように思う。これは多分、自主管理であることにも依るのだろう。

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2007年1月19日 (金)

ぼんくら日記

1月19日

 この日記を匿名で書いているが、別に匿名でなければならない理由はない。以前、ホームページを作ってすぐやめてしまった時、ほんの少し嫌なことがあった。だから匿名にしてみた。今回は、ぼんくらカエルがブログを開いても、友人知人には一切教えていない。ブログを開く時、下の娘に相談したので、その子にだけは教えた。上の娘にはブログのアドレスなど教えていない。子どもでさえそんな状態だ。

 そんな状態で始めたブログである。読んでくれる人などいるやらどうやら……。それでも開かれたブログなので、一応は不特定多数の読者を想定して書くことになる。その書き方が気になる。

 なんでこんなことを書き出したかと言えば、今日参列したO氏の告別式のことをどう書くか考えたためである。個人用の日記ならば固有名詞を出してもいいのだけれど、ブログではそうもいかない。まして匿名というスタイルを取っているのだから、なおさらである。

 O氏の告別式、私は受付といわれていたが、参列者の記帳所への案内係になった。さまざまな会葬者がいるが、役所関係、親戚以外では、福祉関係の人、ボランティア関係者などが多いのが、いかにもOさんらしい。

 昔々、戦争に負けてまだ間もない頃、議事堂の中で白亜の恋としてマスコミを騒がせたことのあるS.T女史が、通夜にも告別式にも出席した。いつぞやO氏の案内で国会見学をした時、S.T女史に中国との国交回復の裏話を聞いた。白亜の恋の相手は、そのころ外務大臣だったS.S氏である。と書けば、分かる人にとっては、匿名でも何でもなくなってしまう。そのS.S氏、もしこの国交回復が不成功に終わるようなことがあったら、生きて帰らぬつもりだったという。O氏は若い頃、S、T氏の父の家の書生だった。そのため、S.T氏とは兄弟のように育ったと聞いている。

 K福祉会関係者も多く来ていて、広く言えばぼんくらカエルもその一員である。お別れに菊を添える時、どうしても〈あるほどの菊投げ入れよ棺の中〉という漱石の俳句を思い出してしまった。

 Oさんは常に弱者の味方であり、人望のある人だった。

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2007年1月18日 (木)

ぼんくら

1月18日

 老人介護施設Kセンターへ。Yさん、Hさん、ぼんくらカエルの3人。われわれのグループは木曜日ごとに何人かでKセンターを訪問する。たいてい4人は来るので、今日は少ない方だ。YさんとHさんは3階へ、ぼんくらカエルは2階へいく。

 3階は痴呆症ががいくらかある人、2階は普通の老人。ボランティアの中には、3階はいやという人もいるが、なぜかわれわれのグループは3階へ行きたがる人が多い。私はどちらでも人数の少ない方へ行くので、2階になることが多い。Yさんは毎回、3階でギターを弾いている。今日のぼんくらカエルは、2階で話し相手のみを務める。そして3時のおやつを配ったり、お茶を下げたり。手品をしたり紙切りをしたりもすることもあるが、素人のやることなので、パターンが少ない。あまりやると飽きられてしまうので、今日はやらない。

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2007年1月17日 (水)

ぼんくら日記

1月17日

 午後、Yの湯へ行く。Yの湯内の理髪店で、髪を刈る。髪を刈るといった所で、刈る髪は少ない。つむじの辺りが禿げていて、周りに髪が残っている。私の外見は、ぼんくらカエルと言うよりは、ぼんくらカッパだ。それでも、何十年もあっていない友人にあったとき、髪の毛が残っていることを驚かれた。昔からおでこが広く、髪の面積が狭かった。だから、すっかり禿げているだろうと思っていたらしいのだ。

 そんな頭だから、普段は床屋へなど行かない。髪は自分で適当に切っている。頭などありさえすればいいというのが、私の持論なのだ。それでも今日床屋へ行ったのは、あさってのOさんの告別式で、受付を頼まれたからである。ぼさぼさ頭というわけにもいくまい。

 遅れてしまったが、Iさんに、随筆誌「雷鼓」と俳誌「木の芽」の感想と礼状を書く。いつも贈って下さるのである。

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2007年1月16日 (火)

ぼんくら日記

1月16日

市会議員のOさんが亡くなった。自らも熱心なボランティアであり、われわれ一般のボランティアのためにも協力を惜しまない人だった。癌で入院していることは知っていた。11月中旬、小康を得て退院しているとき、市役所でお目にかかり、二言三言立ち話をしたのが、最後の出会いになった。再入院と聞いて、最悪の場合もあると思ってはいたが……。

車椅子のT氏が自費出版する本の印刷の手伝いをする。某公民館の印刷機を借りて、午後1時から6時までかかる。60歳を過ぎてから、毎年1冊ずつ出すのだから、エネルギーがある。随筆集だったり、句集だったりするが、今回は句集である。

お年玉月年賀状で、2等が当たった。くじ運はきわめて悪い方なので、こんなことは初めてである。

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2007年1月15日 (月)

俳句暴論  5

1月15日

自由律と定型

詩の世界では、今は自由詩がさかんである。俳句や短歌以外の詩で、5,7調などの定型を守っている詩人は、いるとしてもごく少数派である。短歌や俳句は、定型が命のようなものだが、それでも自由律の俳句が出てきた。日本の場合は、韻を踏むなどと言うことはほとんどないのだから、韻文は文字数で決めることになったのだろうか。しかしながら、定型ならそこに韻律を感じるかと言われれば、必ずしもそうではない。私などの俳句は往々にしてそうなのだが、定型の散文になってしまうこともある。だから石田波郷は、切れ字の大切さを言ったのであろう。

現代の自由詩は、定型ではないが、中には、韻律を感じさせるものもある。草野心平の蛙の詩などは、何となく韻を踏んでいるようなリズムを感じさせる。山頭火の俳句も、リズムを感じないではない。定型のほうがリズムを感じやすいけれども、他の方法もあるのかもしれない。

乱暴な結論

現代俳句は、子規から始まっていると言っていいのだろう。その弟子の虚子は、俳句を広く普及させた。そして俳句を家の業にした。今は虚子の孫の時代、ひ孫の時代であるが、その子孫の多くは、いまだに俳句界の指導者である。虚子は家元になって「花鳥諷詠」や「有季定型」を、守るべき規則とした。そして、まつろわぬ者を破門した。「月、雪、花」はもともと日本人の詠んできたものであり、「花鳥諷詠」は日本人の心情にあっているものだろう。しかし、俳句は「有季定型」で「花鳥諷詠」を詠うものと決めつけるのは、虚子派だけが守ればいいのである。

その他の約束事、たとえば三段切れはいけないとか、季重なりはいけないとか言うようなことは、場合によりけりであろう。三段切れを作らず、季重なりをせず、「や」と他の切れ字を併用しないという約束を守れば、無難な句が作れる、というのが本当の意味ではないか。俳句にはもともと、習い事、お稽古ごとの意味もあり、弟子に教えるときは、無難な句を作るための方便として、それらの約束事があるのだと私は思う。

本当に力のある人は、自由に作ったらいい。力のない人でも、冒険するのはよいことだ。だだその場合は、とんでもない駄句になることも覚悟しなければならない。なに、約束事を守っても、駄句はいっぱいある。駄句を作ったからといって罰金を取られるわけではない。せいぜい馬鹿にされたり、破門されたりするくらいのものだ。

威勢のいいことを書いたが、私が作る場合は、有季定型を基本にする。ただ、おずおずと無季の句くらいは作ってみたい。細かな約束事、特に季重なりなどは、あまり気にしたくない。字余り、字足らずはいつものことだ。基本は、絶対ではない。

読むに当たっては、無季句、自由律句も、俳句として読むつもりである。

                                                 終わり

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2007年1月14日 (日)

俳句暴論  4

1月14日

 山の会の山行。その後の新年会、2次会。いささか飲んでおります。しかしながら、今日も俳句暴論。

自由律の俳句

自由律の俳人といえば、まず山頭火を思い出す。数の置いては、有季定型の俳人とは較べものにならない少数派だが、現在でも自由律の俳人はいる。有季定型を絶対と考える人は、自由律は、俳句ではないと主張する。山頭火なども捨て去るわけだ。

話は飛ぶが、私は俳句を始めてしばらくの間、俳句と川柳の違いが気になっていた。ある人は、「切れ」のあるなしが、俳句と川柳の違いだといい、他の人は、「季語」を使うかどうかだという。あるいは「穿ち」は川柳であるとか「人事」は川柳であるとか言う。しかし俳句にも、「穿ち」がないわけではないし、「人事」もある。私の属する俳句の会に投句するとき、わざと1句、川柳っぽいと思う句を入れてみたりしていた。〈ゴキブリめ出たり逃げたりまた出たり〉などという句は見向きもされなかったけれど、〈キャンプの火あちこち痒くなってくる〉などというのは案外好評あった。そんなことをした結果、なにが分かったかと言えば、なにも分からなかったと言うしかない。現在私は、俳句と思って作れば俳句、川柳と思って作れば川柳だと、きわめて乱暴な結論に達している。この結論は、先輩Y氏の示唆による所も大きい。

自由律の俳句についても、私は同じように考える。本人が俳句だと思って作るなら俳句であるし、1行詩だと考えているなら1行詩である。俳句とか1行詩だとかそんな分類はどうでもいいと思う人には、単に詩人といえばいいのだろう。こんな乱暴な結論は、判断を放棄していると言われても仕方がない。しかし、本人が俳句だと思って書いているなら、私はそのつもりで読む読み手でありたい。その上で、その句が心をひくものであるかどうかを判断したい。これは有季定型の場合でも同じだ。

                                                続く

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2007年1月13日 (土)

俳句暴論  3

1月13日

昨日の続きです。

季重なりと有季

有季の意味については「かびれ」主宰の大竹多可志氏の考え方におおかた賛成である。氏は、次のように説いておられる。

以下、角川「俳句」平成19年1月号「切り捨て御免」から引用。

「有季」とは季語の有無ではない。私ども「かびれ」は「季感」について独自の理論を持っている。これが一番、難解であり、且つ重要である。結論だけを簡単に言うなら、季語を含めた俳句17音で、季感が醸成されているかどうかに懸かっている。季語については、一句中になくても、複数あってもかまわない。要は一句の中に季感が溢れていればいいのである。「季語」は季感を凝縮させた詩語と理解している。

以上が引用である。本来ならば何字か下げて書けばいいのだが、ココログにまだなれていないので、引用の最初の一行しか下げることができない。インデックスも付けられなかった。従って、前と後ろに、引用であると断りを入れてこのような形になった。

私は無季句も認める立場だが、「有季」や「季重なり」については、これでいいのではないか。私の浅慮から軽はずみな理解になっていると思うが、大竹氏にはご容赦願いたい。

三段切れ

三段切れはいけないという。しかし、三段切れの句はときどき見かける。なにかを並列的に並べて、たたみかけるような表現をしたいときには、有効な方法ではないだろうか。成功例として、江戸時代に作られ、いまだに人の口の端にのぼる、素堂の句をあげておこう。

    目には青葉山ほととぎす初がつを      素堂

切れ字の併用

切れ字「や」と、他の切れ字「かな」「けり」との併用はいけないとされる。この問題の時に必ず出てくるのは、中村草田男の次の句だ。

    降る雪や明治は遠くなりにけり

いろいろと理由を挙げて、この場合はいいと言ったり、これは例外といったりしているようだ。私などは、なぜいけないのか今だに分かっていない。句がバラバラにならず、自然に読めるようなら、併用もかまわないのではないかという気がする。春雨や傘もささずに歩きけり、なんて言うのでは、俳句として駄目でしょうけれどもね。

                                             続く

          

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2007年1月12日 (金)

俳句暴論 2

1月12日

 昨日の続きです。

季語について

 季語とは、季感を表す言葉だと理解している。それでは、季感を表す言葉であれば何でも季語なのかといえば、どうもそうではないらしい。歳時記にない言葉は季語ではないという。登録制なのだ。

 気象用語には「絹雲」という言葉がある。筋雲とも言う。高層の空に真綿のような薄い雲が、箒の跡目のような筋をつけて浮かぶ、それが絹雲である。飛行機雲も絹雲の一種であるらしい。私は俳句に係わる以前から、絹雲を見ると秋だなあと感じたものだ。

 鰯雲や鯖雲は季語である。鰯雲は澄んだ青空の高層に現れる。俳人が鰯雲を見て秋を感じるのは、ごく自然なことだ。しかし、絹雲は、鰯雲よりさらに高層に現れる。絹雲が現れるときの空の澄み具合は、鰯雲の比ではない。私などは、鰯雲よりもっと強く秋を感じるが、歳時記にないから季語ではないといわれ、納得できない。

 歳時記にないから季語ではない、とは変な理屈だ。その言葉は広辞苑に載っていない、だからそれは言葉ではない、などといえるのか。この草は、どの植物図鑑にも載っていないから草ではない、などという主張は認められるだろうか。たとえば「ひつじ田」という季語がある。「ひつじ」という言葉を漢字を使わずに書いたが、私のパソコンではその字を出すことができないからである。櫓という字は木偏だが、この木偏を禾編に変えると「ひつじ」の漢字になる。稲の苅り後からでる「ひこばえ」を「ひつじ」と言うようだが、この言葉、私の持っている「広辞苑」にはない。博文社の「新修漢和大字典」にもない。広辞苑にないような言葉を平気で使っている俳人が、歳時記にないから季語ではないなどというのはおかしなものだ。

 無学者というものは、相手の理屈を正しく理解できないから、論に負けないのである。私の論は「暴論」であるだろう。しかし私は、今自分の頭で分かることしか理解できない。私は、季感のある言葉は、歳時記にあろうがなかろうが季語である、と思っている。

 歳時記というものは、われわれの生活感覚から言えば、どうしても古くなりがちである。常に新しくしていく努力は必要だろうが、古い言葉を残すことにも意味はあるだろう。生活感とのずれは、太陰暦と太陽暦の違いによることも大きいが、そればかりでもない。たとえば、この問題の時には誰でも取り上げる言葉に「甘酒」がある。これが夏の季語だなどということは、俳人以外では通じないだろう。確かに私も子どもの頃に、海水浴で甘酒を飲んだことがある。しかしそれは、まだ清涼飲料水などのなかったときの話だ。今では、冬に暖を取るために飲むのが甘酒だろう。

 どんなグループでも、その仲間にしか通じない言葉というものはある。また、美術でも音楽でも、あるいは文学でも、分かる人にしか分からないという面はある。だからといって、内向きのルール、内向きの言葉を使っていて良いものだろうか。いまだに「甘酒」は夏の季語です、「甘酒」の本意は……などといっても、外の世界には通じない。それではまるで、せりの時に使う符丁のようなものになってしまう。それでなくても、俳句は閉ざされた人々のものになりがちな文芸である。できるだけ外の人々にも分かる開かれた言葉を使うべきであろう。

                                           続く

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2007年1月11日 (木)

俳句暴論

1月11日

俳句暴論

 私は65歳を過ぎてから友人に勧められて俳句を始めた。晩学というわけだ。晩学はものになりにくい。私はほぼ5年くらい俳句をやっている。才能のある人なら、5年もやれば、ひとかどの俳人になっていたりする。私はそうはいかないが、そろそろ全くの初心者とは言えなくなってきた。それなのに、初心の頃の疑問を、私は未だに持っている。この辺で、一度自分の考えをまとめておきたいと思う。無学者は論に負けずと言う。無学者の暴論である。

無季の句について

 初心者がまず憶えるのは「有季定型」と言うことである。そして、「季重なり」はいけないとか、「三段切れ」は避けろとか、「○○や」と書いたら下の句は「けり」とか「かな」にするなと教えられる。

 実を言えば、俳句が有季定型であるということは、たいていの人が俳句を始める前から知っている。無季の俳句があること、自由律の俳句があることなども、知っている人は多い。私にもその程度の知識はあった。知らなかったのは、結社の多さ、主張の違いである。

 自分たちに結社が有季定型をきっちり守のはよいとして、それ以外のものは俳句ではないという主張があるのには驚かされる。

    しんしんと肺碧きまで海の旅       篠原鳳作

    蒼穹にまなこつかれて鋲打てる

    くちづくるときひたすらに眉長き

 このような句を全く否定するのは、俳句を貧しくするだけではないか。

    夏の海水兵一人紛失す         渡辺白泉

    戦争が廊下の奥に立っていた

    繃包を巻かれて巨大な兵となる

 1句目は季語がある。2句目3句目には季語がない。だからといって、1句目は俳句だが、2句目3句目は俳句ではないといえるだろうか。

 上にあげた6句は、いずれも定型を守っている。しかし二人のリズム感はだいぶ違う。篠原鳳作にはリズム感があるが、渡辺白泉はどちらかというと散文のようだ。韻文、リズム感だけが詩の要素ではないが、それも大事な一つであるには違いない。白泉の句は、リズム感がなくても、人間の叫びがある。よしんば詩でなくても文学ではあるだろう。

 実は俳句は詩でなければならない、文学でなくてはならない、という考えにも、私は多少の疑問を持っている。詩であることが望ましい、文学であることが望ましい、くらいでいいのではないかと思うのだ。俳句には、生活の中のスナップ写真のような面もあるのではないか。スナップ写真の中にも、芸術的価値が高いものがある。しかし、芸術的にはたいしたことのないものも多い。それでもいいような気が、私はする。

 

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2007年1月10日 (水)

ぼんくら日記

1月10日

 今日まで、長い冬休みでした。

 明日11日は私の属するボランティアグループの新年会並びに定例会。12日は水彩画の教室。13日は新年句会。14日、山の会の軽い山行、帰ってから新年会。15日、障害者の作業施設でボランティア。16日、車椅子の人のサポート。といった具合で、趣味やらボラやら、が待っている。

 休みの最後なので、遠出の散歩。秩父ミューズパークへ行く。西武秩父駅からのバスの便が悪かったので、ミューズパークまで歩いていくことにした。思ったほど大変なことはなくて、1時間もかからずに着く。札所33番に寄り、秩父困民党が衝いたという鐘を見る。ミューズパーク北口から南口まで散歩。3キロちょっとしかないので、歩きではない。途中でコンビニ弁当とワンカップで食事。スケッチ一枚。公園内は、ちらほらと人がいる程度。静かでいいが、たまに通るバスには、ほとんど人が乗っていない。公園内の食堂やイベント会場は全部休み。

   困民党の叩きし鐘や霜柱

   木漏れ日の中にトルソー冬木立

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2007年1月 9日 (火)

ぼんくら日記

1月9日

 ブログを開くと、今日はなにを書こうと考えてしまう。やはり、自分だけに向けて日記を書いていたときとは違うのだ。

 今年になって、デジカメとCDーRを買った。デジカメは2年ほど前から買おうかどうか迷っていた。何しろ年金生活者である。自営に時期もあったから、30年以上努めて厚生年金を満額貰う人とは違う。2,3万円のものを買うのでも、2年も3年も考える。臨時に2,3万円使ったら、それを取り返すのに、何ヶ月もかかるのだ。しかし、長年使っていたカメラが壊れてしまった。去年の暮れは、仕方なしに使い捨てカメラを使った。そして今年、意を決して買ったのである。こんな生活、アベシンゾウさんには分からないだろうけどね。

 デジカメは、電池を充電し、カードを差し込んだが、まだ使っていない。機械音痴だから、使いこなすまでは又一苦労だろう。CDーRは始めて使った。以前のパソコンでフロッピーデスクは使っていたのだが、CDーRは使っていなかった。年寄りだから、新しいものを始めて使うのは、少し気後れがするのである。しかし、去年の日記や、もはやパソコンに入れておく必要はないけれど捨てるわけに行かない文章などは、いい加減にCDーRに移さなければならない。それをやっと実行したということだ。やってみると案外簡単だったので、こんなことなら、もっと早くやれば良かったと思った次第です。

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2007年1月 8日 (月)

1月8日

 本来ならば今日からボランティアはじめなのだが、休日のため休み。趣向を変えて、今日は掌編小説。

  

 それは良い土地でした。山の南側の緩やかな斜面で、日当たりはいいし、ぶどう園には最適でしたねえ。私一代で作ったんですからさほど大きいぶどう園ではありませんでしたが、快適な暮らしでした。私たち夫婦には子どもがいませんでした。そればかりか妻にも先立たれ、私は一人暮らしでした。淋しいと言えば淋しいのですけれども、結構のんきにやっていました。

 幸い早くから私の農園で働いてくれる夫婦がいましてね、これがそろって働き者で、私はどれだけ助けられたか分かりません。その夫婦に息子がいて、これが又親にもまさる働き者なんですよ。私はその息子を養子に欲しくてねえ、でも一人息子なものですから、夫婦は承知しませんでした。私もよくよく考えましたが、養子になってくれなくても、その子に農園を継いでもらおうと思うようになっていました。なに、親戚がないわけではないのですが、やはり近くにいて、気心の知れたものに継いでもらう方がいいですからね。

 農園の一番の問題は猿でした。何時のころからか猿が増えまして、被害がばかにならないんです。塀を作ったり、針金を廻して電気を流したりしてみましたが、やはり被害が出ました。

 ある時、働き者のせがれが、小猿の手当をしているんですよ。猿なんか放っておけばいいと思ったんですが、どこかで怪我をして小猿が足を引きずっているのを見て、可哀想に思ったんでしょうね。その後、この小猿がせがれになつきましてね。せがれの方でも、この猿に限って、農園の中に入れていました。私も、働き者の夫婦も、見て見ぬふりをしていました。それがいけなかったんでしょうかねえ。

 あれはクリスマスの晩でした。いえ、クリスチャンではないのですが、世間でやるように、我が家でクリスマスパーティーをしたんです。日頃よく働いてくれる夫婦やせがれに、プレゼントなどを用意して、感謝の気持ちを現そうと思いましてね。近所の人にも数人集まってもらいました。そのとき、あの猿も家の中にいました。

 宴もたけなわというんでしょうか、その年の葡萄酒、去年の葡萄酒、10年前の葡萄酒などと飲み比べながら談笑していたときでした。いきなり応接間の窓ガラスが割れる音がしたんです。それが始まりで、家中の窓ガラスが次々に割られていくんです。

 「あれを見ろ」と誰かが叫びました。見ると、家の外で猿がパチンコを構えているのです。パチンコといったってあなた、お金をかけてやるギャンブルのパチンコではありませんよ。子どもの頃やりませんでしたか、木の枝の又の所を切り取って、ゴムを付けて石を飛ばす、あのパチンコです。

 ええ、確かに遊び道具ですよ。でもね、何百匹もの猿が家を取り囲んでいたんです。その猿たちが全員パチンコを持っているんです。そしてみんなで石を飛ばしてくるんです。憎らしいことに、指揮を執っているのは、あの小猿なんですよ。こちらには、包丁とか鎌くらいしか武器はありませんからね。たかがパチンコですが、立派な飛び道具です。何百匹に取り囲まれて、一斉に攻撃されたら、怖いの何のって、たまりませんよ。

 それでも、何とか抵抗しなくてはなりません。猿ごときに負けてはいられませんからね。だから雨戸を閉めさせて、猿たちを追い払う手段を考えようとしたんです。ところが、なんということだ。近所の人も、働き者の夫婦も、そのせがれも、猿になっていたのです。そして私にパチンコの石を飛ばしてくるのです。私が逃げおおせたのは、奇跡と言っていいくらいです。

 後で気がついたのですが、私の農園ばかりではありません。近所の農園がみんな、猿に占領されていました。それ以来私は、こうして農園労働者として働いているのです。

 まだ気がつきませんか。今、あなたの家のまわりは猿に囲まれていますよ。私も、もう猿になる頃です。さあ、どうします? パチンコの石に打たれますか? それとも……

                                           終わり

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2007年1月 7日 (日)

ぼんくら日記

1月7日(日)

 昨日ブログを書いている途中で、友人が訪ねてきた。私は、夜にブログを書いているが、その夜に訪ねてきたのだが、残念ながら女性ではない。よしんば女性だった所で、私はすでに雄の機能を失っている。糖尿なのかなあ。血液や尿の検査では異常はないのだけれど……。70歳にもなれば、そんなものか……。

 なにはさておき、ブログもきりのいい所だったから、そのまま投稿してしまった。今日開いてみると、用語の間違いがあったりして、訂正の必要があった。多くの人は、訂正など簡単に出来るのだろうが、私の場合は解説書を見ながらやるのである。まだその程度の実力である。

 私は匿名で日記を書いているけれども、匿名だからなにを書いてもいいというものではないだろう。読んでくれる人は少ないだろうが、一応は不特定多数に向けて書いているのである。固有名詞などはめったに出せない。その点が去年まで書いていた自分だけの日記とは違う。もっとも去年まででも、他人への恨み辛みとか、罵詈雑言など書きませんでしたけどね。なにも節度を持ってそうしたわけではなく、歳と共にさまざまな欲望がなくなって、枯れてしまっただけのことです。それだけに、近ごろのように簡単に人を殺す風潮は、分からないなあ。そんなに人を憎めるのかなあ。

 私は戦時中の食い物のない時代に育っているから、ゲテモノでなければ何でも食べられる。毒は食えないけれどもね。何でも食えるからといって、好き嫌いがないかといえば、そうでもない。嫌いでも食えると言うことだ。

 人間についても同じである。好きな人も嫌な奴もいる。しかし、嫌な奴でもつきあっているうちには、その人なりの良さが分かってきたりする。こちらをおとしめてやろうとする、毒のある人とはつきあえませんけれどもね。

 話があちこちに飛ぶ、まとまりの無い文でした。

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2007年1月 6日 (土)

ぼんくら

1月6日(土)

 1日中雨。

 このとこら「数独」にこっている。「ナンプレ」とも言うらしい。近ごろ流行の、1から9までの数字を使って行うパズルである。知らない人のために、一応説明する。

 紙の上に大きな四角を書き、縦横を9等分する線を引く。すると、縦9×横9の、81個の升目ができる。将棋盤を思い出していただきたい。あれと同じである。そして3個目の升の終わりと、6個目の升の終わりに太い線を引く。すると太い線で囲まれた升目が、縦に3個、横に3個で計9個の升目ができる。そして縦9個の升目に、1から9までの数字を必ず1回使って、同じ数字がダブらないように埋める。横の9升についても同じにする。さらには太い線で囲まれた9個の升についても、同じようにする。パズルはあらかじめ所々に、任意の数字が書かれていた、その数字を生かしながら、これまで述べた方法で空いている升を埋めるわけだ。以上の説明で分かるだろうか。絵に描いて説明すれば簡単なのだが、言葉だけで説明しようとすると、なかなかやっつかいだ。

 とにかく、その数独に凝っている。これに凝って困るのは、本が読めなくなることだ。私の場合、本というのはほかにすることのない暇なときにやるのである。ところが、その暇なときに数独を始めてしまう。読まなければいけない本、贈られて感想やら礼状やらを書かなければいけない本などもありながら、つい数独を始めてしまう。やらなければならないことは後回しにして、どうでもいいことを先にやってしまうという悪い性癖も相まって、今、少し困ったことになっている。

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2007年1月 5日 (金)

ぼんくら

1月5日(金)

 さて、今日はなにを書きましょうか。こう書き出すと、書くことがなくて考えているようだが、実は、あれこれあるうちのどれを書こうかという迷いです。つまり、考えをまとめないままに、このブログに書き込んでいると言うこと。

 私がパソコンに向かうのは、いつも夜。したたか酒を飲んだ後である。おそらくは遺伝的要因で、私は酒が強い。私の先祖は、代々酒の仕込桶を造る家だった。梯子をかけて登るような大きな桶である。もともと酒とは縁がある。私の祖母は、女ながらに1升酒を飲んだ。父はあまり飲まなかったが、飲めば強かった。

 小学校3年か4年の時だったと思うが、田舎に疎開していた私は、その村のお祭りの時、湯飲み1杯の酒を飲んだ。「今日はお祭りだからいいだろう」と叔父が注いでくれたのである。それを飲み干すと、さすがに少しふらふらした。成人の後、田舎へ行ったとき叔父がいった。「おまえたちの方では、宴会の時、1人あたり4合も出せば大宴会になるだろう。ここらあたりでは、1人あたり1升出さなければ文句が出る」。そんな土地柄である。

 しかし、父の影響があったからかどうか、成人しても私はあまり酒を飲まなかった。ある時、会社の先輩が「おまえも酒くらいはつきあえ。今日はおまえに酒の飲み方を教えてやる」といわれて、共に飲みに行った。その結果は、酔いつぶれた先輩を半ば担ぐようにしながら、家まで送り届けなければならなかった。その先輩、自分の家の近くまで来たら、「待て待て」といって、自分の服装を直し、少ししゃんとして歩き出した。私は何となくしらけた気分になってしまった。

 私が常習的に酒を飲み出したのは、24~5歳の頃と思う。そのころ私は不眠症だった。毎日、睡眠剤が必要だった。いろいろな薬を飲んだが、その中には妊婦が飲むと奇形児が生まれるという、サリドマいド系の薬も飲んだ。あれは副作用のない薬として宣伝されたいたように思う。そんな薬を、規定量の3倍ほど飲むようになっていた。さすがにこれではいけないと考えて、睡眠薬の代わりに酒を飲むことにした。初めの日に4合瓶(720ミリリットル)を買ってきた。これでよいがまわってきたらねようと思ったのだが、気がついたら瓶は空になっていて、まだ私は酔っぱらってはいなかった。つまり私の酒は、訓練して強くなったのではなく、初めから強かったのである。

 酒はワンカップ1つで酔うくらいがちょうどいいと思う。私などは肝臓の心配をしながら飲んでいるようなもので、ばかばかしい限りだ。

 ちょっと話が変わるが、私は70歳までに105回献血をした。そのとき、別の医師に2度ばかり、同じようなことを言われた。「あなたは酒を飲まないのですか?」私は答える。「いいえ、アルコールは何でも飲みますが、日本酒に換算すると、毎晩3合以上は飲んでいます」。医師は驚いて言う「そうですか。それにしては血液に反応が出ていませんね。私よりも綺麗だ」。

 献血の話は自慢みたいなものだ。自慢ついでに言えば、医師に「ずいぶん人を助けましたね」と言われた。「そうでしょうか」と答えると、「助けていますよ」と言うことだった。そういわれると私も単純に嬉しい。健康な体に生んでくれたことを。今頃になって両親に感謝する。

 ついでにもう一つ脱線。私の友人に、脳梗塞で倒れた人がいる。今は健康を取り戻し普通の生活をしているが、その友人が「世の中は不公平だ」という。「私のように普段から生活に気をつけて養生しているのに病気になる人がいる。あなたのように飲みたいだけ飲んでいるのにぴんぴんしている人もいる」というのだ。やはり、丈夫な体に感謝だ。ただし、彼より私の方が先に死ぬだろう。丈夫なようでも、不養生はいずれ現れる。ただ、この年まで飲み続けたので、今さらやめる気がしないだけだ。体に何かの兆候が現れたときには、きっと「しまった」と思うことだろう。

 脱線を続けているうちに、なにを言いたかったのか分からなくなってきた。酒の強さを自慢しただけの文章になっている。ほかに書きたいことがたくさんあったのだが、今さら書き直すのも面倒である。酒の勢いで酒の話を書いたようなもの、この辺でやめる。

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2007年1月 4日 (木)

ぼんくら

1月4日(木)

 穏やかな天気なので、洗濯の後で、スケッチ散歩に出かけることにした。目的地は所沢の八国緑地。所沢市から、あるバス路線で少し行った所に、勢揃橋というバス停があり、その近くに東京と埼玉を分けるごく低い山が八国山である。その尾根道を西武園や西武遊園地に向かっていく遊歩道が八国緑地だ。1番高い所でも、標高100メートルもない。登山靴など履かなくても、気軽に行ける。

 その遊歩道を歩ききって、多摩湖のほとりに出たが、多摩湖畔は工事中で鉄板だかプラスチックだかの白い塀で囲まれていた。湖は全然見えない。その辺を何となく歩き回ったが、私はもともと湖のスケッチをしたかったのである。少しがっかりした。仕方なく多摩湖畔の都立狭山公園で食事をすることにした。ベンチに座り、コンビニで買った缶酎ハイで納豆巻きを食べる。目の前に湖を真隠しする白い塀があって、その前に「ようこそ水の公園へ」という看板が立っている。湖を見えなくしておいて「水の公園」もないものだ。不粋ですね。工事中とはいえ、なにも湖を隠すこともなかろう。網の塀にすることだってできたはずだ。

 不本意ながらそこでスケッチを1枚。

   県境の風柔らかき落葉みち

   冬の日や声の沈める遊園地                                     

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2007年1月 3日 (水)

ぼんくら日記

1月3日(水)

 一昨日、つまり元日に、娘や孫たちと「夢」の話をした。希望とかあこがれとかではなく、夜見る夢のことだ。「初夢」のことは頭にあったけれど、それを話題にしたわけではない。

 私は色つきの夢も見るが、白黒の夢も見る。長女は色つきの夢しか見ないという。子どもの頃は、他の人もみんな、色つきの夢を見るものだと思っていたらしい。2人の孫娘も、夢にはかならず色が付いているそうだ。これは遺伝だろうか。

 2日の朝、久しぶりに夢を見た。少女が縄跳びをしている夢である。その子は緑色のワンピースを着ていた。3日の朝も夢を見た。現役の頃の仕事の夢で、白黒だった。縄跳びの夢が初夢と言うことになるのだろう。私の初夢を、フロイト流の夢判断されたら、ちょっと怖いな。

 夕食後M・Iさんが、スキャナーを使いたいと、訪ねてきた。

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2007年1月 2日 (火)

ぼんく日記

1月2日(火)

 私は何十年も日記を書いている。初めは大学ノートに自由に書いていた。その後市販の日記帳を使うようになり、数年前からはパソコンで書くようになった。だが、昨日も書いたように、私は自分の日記を読み返すと言うことがまず無い。大学ノートの日記は、すべて散逸してしまった。市販の日記帳は、2年連用のものが数冊残っている。パソコンの日記は、操作の誤りで2年分をそっくり失った。それを惜しいとも思わない。

 そんな人間がなぜ日記を書くのだと聞かれたら、癖だからとでも答えるしかない。癖だから、毎日酒を飲む。癖だから、毎日日記を書く。それだけのことだ。

 杉並区の母と妹に会いに行った。正確には継母とその連れ子である。継子いじめなどという話はよくあるが、母はよくできた人で、意地悪をされたことなど全くなかった。

 戦争中に生母が死んで、私と弟は、そのまま秋田の親戚の家に預けられた。父は東京のどこかにいることは分かっていたが、連絡は取れなかった。そんな父が戦後6年もたって、ひょっこりと私たちを迎えに来たのである。その時始めて継母にあった。私は中学3年になっていた。私は中学を出てすぐ働きだしたので、この母に育てられたような気はしないが、頭のよい、善意にあふれた人だと今でも思っている。

 母は10年くらい前に胃の摘出をし、その後腸も少し取った。現在89歳。食事は少しずつしかとれないが、元気を回復し、買い物くらいには出かける。全くボケはない。立派だと思う。このところ、1年に1回、正月しか会いに行かないが、私が行くと歓迎してくれる。長生きをして欲しいと思う。

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2007年1月 1日 (月)

ご挨拶

2007年1月1日

 今日からブログに日記を書きます。

 実を言うと、ブログに日記など書く気はありませんでした。芸能人なら、滑って転んで、膝小僧をすりむいても記事になります。私の場合、屋根から転げ落ちて犬の糞の上にしりもちをつき、尾てい骨をしたたか打っても、誰もおもしろいと思ってくれないでしょう。いつでもとびきりおもしろい事件でもあるといいのだけれど、私の日常など、平々凡々たるもの。人の興味をひくような事件など、一年を通じても皆無と言うくらいのだ。私はパソコンで日記を書いているけれど、自分の日記でも読み返すことはない。そんな日記を公表してもはじまらない、というのが私の考えだった。

 そんな私が、なぜブログに日記を書く気になったか? それは単にブログを維持するのが楽だから、というだけの理由である。日記にしておけば「今日はキャベツを買った」の1行だけでもすむのだ。私のブログなど、読んでくれる人がそうたくさんいるとは思えない。ならばなにも、多くの人の興味があるように、などと考えなくてもいいのだと気がついた。

 ブログに日記を書くのに、なにも元日から始めなくてもいいという意見があると思う。その通りです。私も元日から始めようなどと思っていなかった。              

 なぜ元日からになったか? 本当はもっと早く始めようと思っていた。ところが半月ほど前からパソコンにトラブルが始まった。その1,文字化けしてメールが送れなくなった。その2,ウイルスバスターを利用しているが、その更新がどうしてもできないという状況になった。その3,自分のブログに記事が書き込めなくなった。

 とにかく、こちらは70歳のもうろく爺である。パソコンなんて、やっとやっているのだ。これらのトラブルを解決するのに、12月30日の午前中までかかった。1月1日から日記を始めるゆえんである。

 以上は前書き。もっと書きたいこともあるが、明日からのことも思って、ここでやめる。以下、通常の日記。

 30日から我が家に来ていた長女一家、昼過ぎに帰る。明日から婿殿の実家へ行くのだ。正月休みの間に両方行かなければならないのだから、なかなか大変である。二人の孫娘も、手を振りながら帰っていった。次女夫婦は、昨日来て昨日帰る。

   子孫待つ男厨の年の暮れ

   古希の冬履きつぶしたる靴の数

 

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