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2006年7月10日 (月)

本のないお話 6

楽しいお話を作ろう(前回の続き)

「お話は、これでおしまいです」

 山田先生は、そういって口を閉じました。しばらく、みんなは何も言いませんでした。それから、誰かがつぶやきました。

「みち子は、そのあと、どうなったのかなあ」

「先生、そのあとのお話もしてください」

「その続きを話して下さい」

 みんなが口々に言いました。でも、先生は黙って、窓の外を見ていました。なんだか、泣いているみたいでした。

「分かった。みち子は先生だ」

 正夫が言いました。みんなはびっくりして正夫を見ました。

「だって、先生は山田美智子先生だもの、山梨の伯父さんが迎えに来たんだもの。だって、先生のお母さんは山梨にいるんだもの・・・」

 先生は、何も答えず、ただ遠くを見ていました。先生は、やっぱり泣いているのでした。

 やがて先生は、みんなの方を見て言いました。

「人間は誰でも、自分のお話を持っています。本に書いているお話もあれば、書いてないお話もあります。誰かに聞いて貰えるお話もあれば、誰にも聞いて貰えないお話もあります。たとえば、空襲で逃げ遅れて死んだ人も、自分のお話を持っていたのに、誰にも聞いて貰えませんでした。皆さんも、これから、お話を作りながら生きていくのです。できるだけ楽しいお話を作ってください。何年かあとで、先生と会ったときに、今度は、先生にそのお話をしてください」

 先生の顔は、もう、いつものにこにこした顔に戻っていました。

                                             終わり

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2006年7月 7日 (金)

本のないお話 5

伯父さんのお握り(前回の続き)

 毎日のように空襲がありました。昨日まで元気に登校していた友達が、何の前触れもなく、学校に姿を見せなくなることもありました。空襲で亡くなるのです。疎開していく友達もたくさんいました。残っている子どもたちも、近いうちに学童疎開になるという話です。

 お母さんはみち子に、疎開の相談をしました。

「お父さんは兵隊に行ってしまったし、このままだと、みち子は学童疎開に行くようになるし、家中が離ればなれになるわね」

「そんなの、嫌だわ」

「山梨の伯父さんを知っているでしょう。あの伯父さんがね、来ても良いって言うの。みち子はどう思う?」

 お父さんが兵隊にとられてからというもの、お母さんは何でもみち子に相談します。お母さんは末っ子です。山梨の伯父さんは一番上の兄さんで、富士山の裾野で開拓をしているのです。荒れ地や林を切り開いて、畑を作っています。伯父さんは、背は低いけれども、がっちりと肩幅の広い人です。お母さんは痩せて背が高いので、兄妹でも随分違うんだなあと思っていました。

 去年は、開拓地で採れた野菜と、ヤマブドウで作ったという葡萄酒を持ってきてくれました。お父さんと葡萄酒を飲みながら、何かしきりに話し、大声で、

「アハハハ」

 と笑っていました。

「あ、伯父さん、のどちんこが見えた」

 みち子が冗談を言うと、

「女の子がそんなことを言ってはいけない。アハハハ」

 と、また笑いました。

「お母さん、あの伯父さんなら、私好きよ」

「でも、開拓地だから、生活は苦しいのよ」

「苦しくても、東京にいるより安心なんでしょう?」

「そうね、お父さんが帰ってくるまで、伯父さんのところへ行きましょう」

 みち子たちがそんな話をした晩にも、空襲がありました。焼夷弾が、これまでになく近くに落ちているような気がします。みち子とお母さんは、びっくりして、布団をかぶって逃げました。

 でも、その日の空襲では、みち子の家のあたりは無事でした。みち子たちが帰ってくると、警防団の人たちに、

「あんな空襲で逃げるなんて、臆病者だ」

 と、笑われました。

 それから2、3日して、また空襲がありました。焼夷弾がどんどん落とされます。家の近くまで迫ってきているようです。でも、今逃げたら、また臆病者だと笑われるかも知れません。じっと辛抱していました。

 けれども、攻撃はますます近くなってきます。どうにもたまらなくなって、みち子は、もう逃げてもいいかどうか隣組の班長さんの家に、聞きに行きました。ところが、驚いたことに、班長さんたちはもう逃げたあとでした。そればかりではありません。警防団の人も含めて、隣組の人は、だれ一人残っている気配がありません。

 みち子が青くなって帰ってくると、さすがにお母さんは、逃げる用意をして、玄関でみち子を待っていました。二人は、防空ずきんの上から布団を被り、まだ火の回っていない方へ向けて走り出しました。

 みち子たちは、上野の山を目指して逃げました。あちらからも、こちらからも、上野の山に向かって逃げる人たちがいました。

 逃げる途中で、何人かの人が並んでいました。見るとポンプの井戸があって、男の人が二人で、バケツに水をくみ、先頭の人にかけてやっていました。みち子たちも列に並んで、水をかけてもらいました。

「私とお母さんに、もっと水をかけてください」

 と、みち子が言うと、バケツの小父さんが、ギロリとした目でみち子を睨みました。

「みんな並んでるんだぞ。一人に1っぱいだけだ! もう火が回ってくる、速く逃げろ!」

 それから先は、何処をどう走って、上野の山まで逃げたのか、何も思い出せません。上野の山で何回か寝たような気がします。上野の山にいるうちに、何か食べたのでしょうか。それさえも覚えていませんでした。ただ、いつまでも、いつまでも家々が燃え続け、不気味な赤い空を見ていたことだけを覚えています。

 気がつくと、あたり一面が焼け野原でした。

 みち子たちは、もとの家の方に帰ることにしました。けれども、建物がみんな燃えてしまった街では、方角がよく分かりません。

 帰る途中、道ばたのあちこちに、逃げ遅れて焼け死んだ人が倒れていました。赤ん坊をおんぶしたまま倒れている人もいました。防空壕の中で死んだ人が、担架で運び出されていました。担架に乗せられた人の首が、胴体から離れて、道に転がり落ちるのも見ました。

 家の近くまで行っても、本当に家のあったところは、なかなか分かりませんでした。

「お母さん、あの木、久保田さんの家の松の木みたい」

 焼けただれた松の木を見つけて、みち子たちは、やっと自分の家のあったところが分かりました。

 男手のある家の人たちは、焼け残った板やトタン板をあつめて、掘っ立て小屋を作っていました。焼け残ったのは、コンクリート造りの公園の便所くらいで、そこに陣取った人たちもいました。

 みち子たちは何もできず、ただぼんやりと座っていました。けれども、容赦なく夜は近づいてきます。仕方なく、玄関のあったところの土台石に沿って土を盛り上げて、お母さんとみち子がやっと寝られるだけの窪みを作りました。二人はそこに横になり、拾ってきたトタン板で、近所の人に蓋をしてもらいました。トタン板が風で飛ばされないように、石の重しもしてもらいました。

 逃げるときに被っていた布団は、どこでなくしたのか、もう持ってはいませんでした。防空頭巾を枕にして、地べたに寝たのです。けれども、疲れていたので、ぐっすり眠りました。朝になると、トタン板を下からどんどん突きます。すると、近くの人が気付いて、石の重しを取り、トタン板の屋根を外してくれます。

 こうして何日か過ごしました。ある日、役所から、お父さんが戦死したという知らせが届きました。お母さんが、遺骨の入った箱をもらってきました。その箱があまり軽いので、なかを開けてみると、「御霊」と書かれた紙が入っていただけでした。

 その晩、遺骨の箱を枕元に起き、トタン板をかぶせてもらったあとで、お母さんがみち子の手を握りながら言いました。

「私は信じない。お父さんが本当に死んだのなら、遺骨があるはずだもの。紙切れなんて、私は信じない」

「そうよ。お父さんが死ぬはずないわ。みち子がお嫁に行くときは、すばらしい琴を作ってあげる、って、お父さんはいつも言ってたもの。私の琴を作る前に、死ぬはずはないわ」

 みち子は本気でそう思いました。だから二人は、お父さんが死んだなどとは、信じないことにしました。

 つぎの日、山梨の伯父さんが訪ねてきました。

「やあ、二人とも無事でよかった。本当によかった」

 での、お父さんの遺骨の箱を見ると、びっくりして口をつぐみました。そして、リュックサックを背負ったまま、手を合わせました。

「おれのところは、田んぼはないんだ。米は陸稲だ。量も穫れない。なけなしの米で作ってきたんだ。食えよ」

 伯父さんはリュックからお握りを出して、二人に渡しました。みち子はそのお握りを、指に付いた飯粒まで、全部食べました。家の焼け跡を見たときにも、お父さんの遺骨の箱を見たときにも流れなかった涙が、あとから、あとから、あふれ出るのでした。

                                             つづく

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2006年7月 3日 (月)

本のないお話 4

道具を埋めるお父さん(前回の続き)

 戦争中でも、みち子たちの学校には、給食がありました。1年生のときには、給食にご飯が出ました。家から、おかずと空の弁当箱を持って行きます。お昼になると、1年生から順番に、学校の炊事場に行きます。すると、小遣いさんが、大きな釜から、空の弁当箱にご飯を入れてくれます。

 2年生になると、ご飯の代わりに、コッペパン1個の給食になりました。そのころには、おかずを持ってくる生徒はほとんどいなくなりました。ジャムもバターも付けないパンを、水を飲みながら食べるのです。

 やがて、土曜日は玄米パンになりました。すぐに、水曜日も玄米パンになりました。それから、給食が無くなりました。

 家では、みんな雑炊を食べていました。雑炊は、どろどろしたお湯の中に、あり合わせの野菜が入り、お米がほんの少し混ざっていました。雑炊も配給で、3食ごとに、雑炊を作るお店の前に並ぶのです。お店の人が、その家の配給の分だけ、大きなひしゃくで雑炊をすくって、鍋に入れてくれます。みち子も、よく鍋を持って並びました。戦争が終わって何年もたってから、豚の餌を見たとき、みち子は、あのときの雑炊に似ていると思いました。

 そのころお父さんは、強制疎開の家を壊す仕事をやめて、メガホンと荷札を売る仕事をしていました。

 メガホンは、警防団の人たちが、

「警戒警報発令!」

 とか、

「空襲警報発令」

 などと叫んで歩くために必要なものでした。配給のお知らせなども、メガホンでやりました。

 荷札は、疎開する人たちが荷物を送るために必要でした。疎開する人は多いし、荷物は乱暴に扱われるので、丈夫な荷札が必要でした。ですから、紙ではなく、ベニヤ板の荷札を使うのです。

 荷札は、その4隅を止める釘4本と組にして売りました。釘は、家具を作る人たちが「細六」と呼ぶ細い釘で、普通に打つと、すぐ曲がってしまいます。ベニヤ板に錐で穴を開けてから打たなければなりません。そんな釘でも、、荷札を買ってくれる人の要望で付けることになったのです。そして、そんな釘でも、おいそれとは手に入らなくなっていたのです。

 お父さんは自転車の荷台に、メガホンと荷札を積んで、東京中を売り歩きました。

 ある日お父さんが荒川の近くで、メガホンと荷札を売っていました。気がつくと、警戒警報も空襲警報もなかったのに、アメリカの飛行機B29が、真上にいました。警報は、いつも遅れ気味なのです。B29が焼夷弾を落とすのが見えました。お父さんは手元のメガホンで、

「焼夷弾落下!」

 と叫びながら、自転車で、全速力で逃げました。お父さんが夢中で逃げて、荒川の土手まできたとき、焼夷弾は、目の前の荒川に落ちました。慌てていたので、焼夷弾の落ちる方へ逃げたのでした。家に帰ってその話をし、

「今日は命拾いをした。お前たちの疎開先を、早く見つけなくてはいけないなあ」

 といいました。

 昭和20年1月、お父さんは補充兵として入隊することになりました。お父さんは、カンナやノミを丁寧に研いで、油を引き、新聞紙に来るんで、油紙を敷いたリンゴ箱に入れました。さらにその箱を油紙で包み、庭に穴を掘ってその中に埋めました。

 そのころは、ラップもビニールもありません。濡らしたくないものは、油をしみこませた紙に包んだのです。

「道具はね、使う人がいなくなると、不思議に早く錆びるんだ。何でかなあ」

 みち子がそばに行くと、お父さんが話しかけました。

「まして土の中に埋めたりしたら、錆が早いだろうなあ。そうかといって、出しておいたんでは空襲でやられるかも知れないし・・・」

 最後は独り言のようにつぶやきました。

「おれは、満足な琴は、一つも作れなかった・・・」

「元気で帰ってきて、もっともっと、良い琴をたくさん作ってください」

 いつの間にかそばに来ていたお母さんがいいました。

「うん。死にやしないさ。だけど、また琴を作れる時代は来るのかなあ・・・」

「来ますとも、きっと、来ますとも」

 そういうお母さんは、少し涙声でした。

                                                つづく

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2006年7月 2日 (日)

本のないお話 3

さよならさっちゃん(前回の続き)

 昭和19年、みち子は3年生になりました。同級生のさっちゃんは、みち子とは大の仲良しです。

 その日も、二人は石蹴りをして遊んでいました。そこへ何人かの男の子がやってきて、みち子に声をかけました。

「兵隊ごっこしようぜ」

「ええ、私は航空兵になる」

 みち子は飛行機が大好きなのです。

「ばかだな。女の子は従軍看護婦さんだよ」

「看護婦さんはいや。工兵でも良いわ。工兵なら、橋を架けたりできるから」

「でも、私は看護婦さんをやりたい」

 いつも優しい、さっちゃんが言いました。

「お前はだめだ。お前の家は強制疎開なのに、まだ疎開してないじゃないか。お前は非国民だ」

 一人の男の子が言いました。みち子は、はっとしました。さっちゃんの家が強制疎開になるなんて、少しも知りませんでした。

「非国民じゃないもん。疎開するもん」

 さっちゃんは真っ赤になり、下を向いて、小さな声で言いました。

 疎開というのは、空襲を避けて田舎の方へ引っ越すことです。空襲というのは、そのころ戦争をしていたアメリカの飛行機が日本の上空にやってきて、爆弾や焼夷弾を落としていくことです。強制疎開というのは、空襲の被害を少なくするため、一定の区域を決めて、そこに住む人たちを強制的に立ち退かせることです。強制疎開と決められた地域の人たちは、立ち退く先があってもなくても、決められた日までに、引っ越さなくてはならないのです。みち子の家は、東京の市ヶ谷というところにありました。近くに陸軍の練兵場があり、そこを守るためなのかどうか、みち子の家の道路の向かい側の家が、強制疎開になりました。さっちゃんの家もその中に入っていたのです。

「そうだ、非国民だ」

 他の男の子たちも、口をそろえていいました。

 非国民というのは、戦争中では、もっとも強い非難の言葉でした。国を挙げて戦争をしているのに、その戦争に協力しないとんでもない人、という意味がありました。

「引っ越すもん。非国民じゃないもん」

 さっちゃんは小さな声で言うと、泣きながら家の方へ走っていきました。

「あんたたちとなんか遊ばないよーだ」

 みち子は男の子たちに赤んべえをして、さっちゃんのあとを追いました。

 そのころ、みち子のお父さんは、大工の手伝いをしていました。琴は大川さんに売ったのが最後で、それっきり売れなくなったのです。戦争になって琴が売れたのは、ほんのわずかの間だけだったのです。

 大工の手伝いといっても、空襲が激しい東京で、家を建てる人はいません。だから、強制疎開の家を壊す仕事をしているのです。さったんの家が強制疎開になると聞いて、はっとしたのは、お父さんが、さっちゃんの家を壊すのではないかと思ったからです。

 昨日、お父さんがお母さんにいっていました。

「おれは今の仕事は嫌だ。まだ、ちゃんと人が住める家を壊すなんて、いくら何でも、もったいないや。屋根を剥がして、壁をぶち抜いて、梁に縄をかけて、みんなで引き倒すんだ。その家を建てた大工が見たら、泣きたくなるだろうな。みんなで縄を引っ張っていると、柱がギイギイいうんだ。家が泣いているように聞こえるよ。職人は、物を作るのが仕事だよ。それなのに、今のおれときたら、家を壊す仕事をしているんだ。情けないったらありゃあしない。皿一枚だって、わざと割るのは嫌なもんだ」

 さっちゃんが家に帰ると、さっちゃんのお父さんとお母さんは、荷造りをしていました。さっちゃんを見て、お母さんは腰を伸ばしていいました。

「おや、また泣いてきたの。泣き虫だねえ」

「おばさん、男の子が悪いの。だって、強制疎開なのにまだ疎開していないから非国民だなんて、みんなでいじめるんだもの」

 さっちゃんを追ってきたみち子がいいました。それを聞いて、さっちゃんのお父さんが怒りました。

「家は非国民なんかじゃない。明日疎開する。だから荷造りしてるんだ」

「みちこちゃん、そうなのよ。お父さんの友達の紹介で、やっと引っ越し先が決まったの。強制疎開といわれても、お父さんも私も東京の人だから、急には行き先も見つからなくてねえ」

 まるで大人に話すように、さっちゃんのお母さんがいいます。

「みち子ちゃん。さち子と仲良くしてくれてありがとう。疎開先で落ち着いたら、さち子に手紙を書かせるから、あなたも手紙を下さいね」

「はい」

 頭をこっくりすると、みち子は走ってうちへ帰りました。さっちゃんとお別れをいうのが辛くて、黙って走りました。涙があふれそうでした。

 その日の夕方、さっちゃんがお手玉を三つ持ってきました。

「みち子ちゃんと遊んだお手玉よ。お母さんが作ってくれたものなの。全部で六つあるから、半分あげる。そうすれば、離れていても、同じお手玉で遊べるもの」

 みち子は缶詰の空き缶を持ってきて、中に入っているおはじきを、新聞紙の上に広げていいました。

「ねえ、これも半分ずつにしましょう」

                                                つづく

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